Last Updated on 2015年3月31日 by 成田滋
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日本人とユダヤ人 その33 終わりに
Last Updated on 2025年3月28日 by 成田滋
「Le Concert」という映画からこのシリーズを始めた。一見コメディ風だがロシアの政治体制や人種、マフィアなどへの風刺もきき、音楽の素晴らしさを交えながら、人種差別をはじめとする社会問題を掘り下げた味わい深い佳作である。特にユダヤ系ロシア人の気概が体制への批判やユーモアとともに描かれているのに新鮮さを覚えた。
「Le Concert」には、共産主義体制が瓦解し、生きるため、金儲けのために時代をしたたかに生きて行こうとする人を敵味方にする人々の生き様がある。そうした世俗の葛藤の中で、演奏中止に追い込まれたユダヤ人演奏家の怨念と執念が「なりすまし楽団」の結成と公演に込められている。ユダヤ系ロシア人の知恵や生きる力がエスプリ(esprit)、フランス人監督の才気や精神、知性によって描かれるのが見所である。Espritは英語でspirit、ドイツ語でGeistと表記されるが、もとより出典は聖書であり、「霊」とか「魂」という意味に近いと考えられる。この世にあまねく行き渡る預言や崇高な知恵であり神聖な力、質、影響力のこととされる。
「Le Concert」を思い起こして再度考える。われわれは共産主義とか民主主義とかをフレーズで知っていても、その実体はなにかを把握することは容易ではない。定義はもちろんあるが、そこに内在するものは複雑なような気がする。具体的な事例を示されれば、「なんだ、こんなことか」と理解することができる。筆者は叔父のシベリアでの死亡の背景を知ることで全体主義国家のイデオロギーや論理を探し当てたような気がする。「八紘一宇」という言葉を取り上げるのは、物好きに過去を掘り起こす趣味ではない。そのとき生きていた人々の心的傾向や行動を一定の溝の中に引っ張り込む心的な強制力を考えるのである。
「Le Concert」は、言葉で表し得ないような現実の実相を描いていて体制とか権力の鈍しさと、生きることの「崇高な知恵や神聖な力」を伝えてくれた。

丹羽登氏と新橋で
ユダヤ人と日本人 その32 「反ユダヤ主義者がユダヤ人を形成した」
Last Updated on 2025年3月28日 by 成田滋
これまで小説や映画、ミュージカル、ドキュメンタリーなどのメディアを通して、反ユダヤ主義(Anti-semitism)がいかに世の中に浸透してきたか、特にロシアやソ連におけるユダヤ人の迫害、ポグロムを中心に調べてきた。同時にこうしたユダヤ人や少数民族に対する偏見や迫害をいかになくすることができるかを考える。
このシリーズの冒頭で、個人的な交誼を続けるユダヤ系アメリカ人医師のことを紹介した。地元のロータリークラブの会員としてクラブの精神を実践しておられる。ロータリークラブは地域社会貢献、職業専門性の発揮と道徳水準の向上、国際理解、親善、平和への貢献などを掲げている。この医師は開発途上の中南米の医療活動をしたり、留学生のお世話などをして活躍している。
この医師は、自ら反ユダヤ主義反対のための活動を組織したりしない。また、宗教活動を止めてアメリカの世俗的な社会に同化しようとするようなこともしない。トーラ(Torah)である「モーセ五書」やタルムード(Talmud)という生活と信仰の教えを重んじる生き方をしている。自分たちユダヤ人が、その性格とか風貌とか職業が反ユダヤ主義を惹き起こしているとは考えない。反ユダヤ主義者がユダヤ人なる者を形成し結束させてきたと考えているに違いない。
「ヴェニスの商人」に登場する守銭奴を強調することやアーリア人種の高邁さや優秀さを喧伝したナチスなどの国家社会主義が、実は「ユダヤ人とはかくかく、しかじか」というイメージを作り上げたのである。翻って、戦前のわが国における近隣の人々に対する偏見の感情も反ユダヤ主義と同じ線上にある。朝鮮人や中国人に対する差別をみても、彼らが大大東亜共栄圏などを形成したのではない。八紘為宇という叫喚的なスローガンは、日本人の一部がでっち上げ反理性的に国民の思想と行動を縛ってきた。
権力への適応ではなく、迫害・離散への適応という形で生き延びてきたのがユダヤ人である。通常土地に同化し、混血してその国の人間になってしまう。しかしユダヤ人たちは、混血はしたものの、自らの信仰と民族としての誇りを忘れずに、ひたすらユダヤ教の教えを守って生活した。彼らの宝と言えば、そのユダヤ教と未来を託す子供たちへの教育以外にはいなかった。
アラブ諸国には石油という財産がある。イスラエルにはそれがない。日本も全く同じ状況にあるといってよい。ユダヤ人が、すぐれた人々を輩出した最大の原因は、常に異邦人として存在し続けてきたこの二千年間の緊張感そのものである。厳しい歴史のなかでユダヤ人は、優秀でなければ生き延びて来れなかったということを知っていたのではないか。
聖書的にいえば、ユダヤ人は“神から選ばれた特別な人間”といえる。しかし、彼ら自身は外に向かってそれを公言することはない。むしろ自分たちに危機が迫るとき団結するのに使うのである。決して彼らは特別の民族でもではない。排他主義とか選民主義とエゴイズムといったステレオタイプなユダヤ人に対する呼び方こそが「反ユダヤ主義」を象徴している。だが、注意しなければならないことは、「反ユダヤ主義」というフレーズを単純なイデオロギーでくくるのは間違いであることである。こうした「主義」の根っ子には人種や宗教、言語や文化の違いという実に悩ましい課題がある。

ユダヤ人と日本人 その31 ウクライナとユダヤ人
Last Updated on 2025年3月28日 by 成田滋
ウクライナ(Ukraine)は、このところとみに世界中から注目されている国である。ロシア政府に後押しされた親ロシア派によるクリミア(Crimea)半島の独立選挙やロシア連邦への編入、東ウクライナ地方の主権回復の動きである。筆者は、このウクライナの内戦状態は、旧ソ連体制による少数民族への迫害など、人種問題がからんでいるのではないかと推測している。ユダヤ人の存在や影響も大きいと察する。ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」で描かれるテヴィエ家(Tevye)らの住み慣れた村から追放の姿は、今のウクライナにおける内戦状態そのものである。
Wikipediaによれば、主要民族はウクライナ人で、全人口の約8割を占める。ロシア人は約2割を占める。ロシア系が多いのは、ドネツィク州(Donetsk)などウクライナの東部となっている。ブルガリア人(Bulgaria)、ハンガリー人(Hungary)、ルーマニア人(Romania)、ユダヤ人などで構成される多民族国家である。
ウクライナは昔から「ヨーロッパの穀倉地帯」として知られている。19世紀以後産業の中心地帯として大きく発展してきた。天然資源に恵まれ、鉄鉱石や石炭、岩塩など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業も盛んである。1986年4月、爆発による深刻な大気汚染を引き起こしたチェルノブイリ原発(Chernobyl)を抱える国でもある。
ウクライナは東にロシア連邦、西にハンガリーやポーランド、スロバキア(Slovakia)、ルーマニア、モルドバ(Moldova)、北にベラルーシ(Belarusi)、南に黒海を挟みトルコ(Turkey)が位置している。第一次世界大戦前、ウクライナはロシア帝国の支配下に入った。大戦後に独立を宣言するも、ロシア内戦を赤軍が制することにより、ソビエト連邦内の構成国となった。1991年ソ連邦崩壊に伴いウクライナは再度独立して今に至る。
なぜウクライナの西側の人々がロシアを嫌うかであるが、第二次世界大戦中、西側はポーランド領であったが大戦後はソ連に統合された経緯がある。ソ連邦崩壊に伴いウクライナは共和国として独立した。アメリカがウクライナの反ロシア派を支援した背景には、ロシア帝国時代やソ連時代にロシア勢力から弾圧を受けた非常に多くのウクライナ人がアメリカに亡命を余儀なくされたという歴史上のいきさつがある。
2004年、ウクライナの大統領選挙の結果に対しての抗議運動はオレンジ革命といわれる。この選挙ではアメリカのウクライナ系政治団体の資金援助や「開かれた社会の財団」(Open Society Foundations)の支援があった。この財団は、ハンガリー系およびユダヤ系アメリカ人の投機家であり投資家であるジョージ・ソロス(George Soros)が主宰している。 ウクライ
ユダヤ人と日本人 その30 トロフィム・ルイセンコ その2 地に墜ちた学問の権威
Last Updated on 2025年3月28日 by 成田滋
ルイセンコの獲得形質の遺伝という学説はネオ・ダーウイニズム(Neo-Darwinism)とも呼ばれる。平たく一つの例でいえば、植物は冬の低温状況に一定期間さらされることによって開花能力が誘導される、といったことである。つまり寒いソ連においても品種改良に時間をかければ多くの植物が育ちうるという立場である。
「獲得形質も遺伝する」というルイセンコの説は、スターリンの主張した「弁証法的唯物論」に適合する学説として賞賛され、1940年までスターリンの支持を得る。そしてソ連の科学界での支配的な立場を占める。ルイセンコの学説に反対する生物学者はポストを奪われ強制収容所に送られたり粛清された。
日本の学界にも1947年に導入されルイセンコの学説を擁護する学者があらわれる。日本農民組合、日本共産党、社会党などもソ連農業を理想と考えミチューリン農法を支持し、政府に対して支援や研究に取り組むことを求めた。例えば春播き麦への注目、温度管理の必要などでこの農法の普及や導入のきっかけとなった。一時、低温処理を利用した農法は、東北や北海道の農業にも少なからず影響したがさしたる効果は上げられなかった。
スターリンの死、スターリン批判によって「社会主義の英雄」といわれたルイセンコは似非科学者と烙印を押されそのの学説は完全に否定される。学問上のポグロム政策(攻撃と迫害)に積極的に荷担し、ソ連の科学の発展に由々しい損失を与えたのがルイセンコであった。
メドヴェージェフ兄弟は著書「知られざるスターリン」で、ルイセンコのスターリンによって庇護された唯物論的で階級的な学説を次のように糾弾する。
犯罪的な地に墜ちた学問の権威、生物工学の発展の遅れがもたらされた。さらに原子物理学や宇宙工学の分野での高価な開発の肥大化がロシアの学問を過度に国庫に依存させることになった。ソ連では学問は技術や経済発展の推進力にならなかった。学問は常に復興を繰り返し、技術と経済発展は基本的にすでに外国で達成されたものの模倣を通して行われてきた。
ルイセンコ学説後、ソ連において自然科学を含めてあらゆる学問は、国家と同様に階級的な性格を持つという旧くなったテーゼが蔓延した。科学の方向を観念論的と唯物論的なものに分かつ考え方がソ連の科学の進展を遅らせたのである。
ユダヤ人と日本人 その29 トロフィム・ルイセンコ その1 生物学論争
Last Updated on 2015年3月27日 by 成田滋
スターリンの「活躍」は共産党政権の権力争いはもちろん、科学や芸術の論争にも介入するという特異さがある。その活動は天才ともいうべき稀有のペルソナを示している。国民を隷従的境遇に押しつけながら、連合国からは超国家主義などと漠然的に呼ばれるが、その実体は定かではない。たが他方、彼がいなかったならソビエトの近代化はなかったといわれる。
メドヴェージェフ兄弟は著書「知られざるスターリン」の中で次ように結論づける。
「学者の弾圧、貴重な学派の壊滅、出世主義者やファナティックな教条主義者の台頭、無学者の抜擢、、、、スターリンが学問上の論争に介入すると、ほとんどがこのような結果で決着した。スターリンの介入によってソ連における広い分野での学問や科学の進歩が遅れた。」
トロフィム・ルイセンコ(Trofim Lysenko)という生物学者は、スターリンによって庇護された学者の一人である。彼は、生物の遺伝子の存在を否定し、個体が得た形質である獲得形質がその子孫に遺伝するという「獲得形質の遺伝」、すなわち後天的な特徴を継承するという立場である。遺伝学の祖はオーストリアのメンデル(Gregor Mendel)といわれる。メンデルは、遺伝形質は遺伝粒子によって受け継がれるということを提唱した。粒子とは遺伝子のことである。メンデルの学説に異を唱えたのがルイセンコであった。
環境因子が形質の変化を引き起こし、その獲得形質が遺伝するというのがルイセンコの立場であった。この学説に伴いソ連における反遺伝学キャンペーンが始める。この学説は、ミチューリン(Ivan Michurin)という育種家が先鞭をつけたといわれる。ミチューリンの名を冠したのでミチューリン主義農法とも呼ばれ、これがソ連農業の中心となっていく。その後わが国にでも一時であるがミチューリン農法が導入されていく。
1945年に遺伝学における論争が始まる。ルイセンコ論争とも呼ばれている。ところがアメリカなどで生物学研究や品種改良が進む。そこからルイセンコやダーウィンの種形成の思想と矛盾する新たな理論が提起される。進化と種の起源の問題を論議すれば、必然的に遺伝のメカニズムにも触れざるを得なくなる。これが遺伝に関わる論争である。ルイセンコの学説を批判する者は、ルイセンコの方向性が現実的に不毛であることに注目したのである。
ユダヤ人と日本人 その28 ローゼンバーグ事件 その2 マッカーシズム
Last Updated on 2025年3月28日 by 成田滋
1950年代半ば、アメリカでは激しい反共産主義者運動が起こる。これは「マッカーシズム(McCarthyism)」と呼ばれた。合衆国政府や娯楽、メディア産業における共産党員と共産党員と疑われた者への攻撃的非難行動のことである。この先導者はウィスコンシン州選出の共和党上院議員のジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)であった。
以来、国内の様々な組織において共産主義者の摘発が行われた。この行動は後日「魔女狩り」とされ、1954年12月の上院におけるマッカーシーの譴責決議で幕を閉じる。ローゼンバーグ夫妻が関わったとされるソ連への原爆製造に関する資料の漏洩は、アメリカ国内におけるこうした極端な共産主義運動や非米活動の排斥の中で起こったことに注目すべきである。
ローゼンバーグ夫妻への死刑判決に対して、国内外から「冤罪である」とか「法的なリンチである」との声があがる。原子物理学者であるアルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)やロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)、哲学者のポール・サルトル(Jean Paul Sartre)や小説家のジャン・コクトー(Jean Cocteau)、さらにはローマ法王ピオ12世(Pople Pius XII)、パブロ・ピカソ(Pablo Piccaso)らが嘆願書に名を連ねる。だが、アメリカ国内では判決に対する批判は少なく、ユダヤ系団体からも特に支援はなかった。
マッカーシズムが吹き荒れるアメリカではローゼンバーグ夫妻の処刑を中止させることは困難であったようである。1950年6月には朝鮮戦争も勃発し、共産主義への脅威を国民は抱いていた。大統領であったアイゼンハワー(Dwight Eisenhower)も国内外からの死刑中止の嘆願を受け付けなかった。アメリカにおける反共産主義思想も反ユダヤ主義思想も極端に教条的な偏りと心情的な不合理性を有していたことでは共通している。ローゼンバーグ事件は冷戦の申し子のようなものだったと思うのである。
日本では、ローゼンバーグ裁判の様子がしばしば報道されていた。残される二人の息子に対する同情や共感も話題となった。1995年に、アメリカによるソ連暗号解読プロジェクト「VENONA」が機密扱いを外され、ソ連の暗号通信の内容が明らかになり、その中で原爆製造に関わる諜報活動が紹介される。ローゼンバーグ夫妻の行動が白か黒かははっきりしないが、部分的に関わっていたことが伺われる。
ユダヤ人と日本人 その27 ローゼンバーグ事件 その1 マンハッタン計画
Last Updated on 2015年3月25日 by 成田滋
いつの時代も諜報活動は活発である。平和時も戦時も同じである。スパイ活動は今もどこかで地道に行われている。諜報活動の成否は、平和の維持や戦争の勝敗を左右することはよく知られている。わが国では戦時中、東京のドイツ大使館で働いていたソ連のスパイであったリチャード・ゾルゲ(Richard Sorge)がいた。いわゆるゾルゲ事件である。
第二次大戦中、アメリカはイギリス、カナダの科学者を巻き込んで原爆製造計画であるマンハッタン計画(Manhattan Project)を密かに進めていた。枢軸側が原爆製造を進めていることを知っていたからである。マンハッタン計画の科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)であった。そのスタッフには放射性元素の発見で1938年にノーベル賞を受賞したフェルミ(Enrico Fermi)もいた。大戦中、アメリカとソ連は連合国側であったが、この最高機密計画はソ連には知らせていなかった。
1949年8月、ソ連が最初の原爆実験に成功する。アメリカはこのときまでソ連が原爆を造る能力があるとは予想しなかった。やがてこの実験成功にアメリカ人スパイが関与していることをFBI(Federal Bureau of Investigation)はつきとめるのである。フュークス(Klaus Fuchs)というイギリスに亡命していたドイツ人理論物理学者がマンハッタン計画に派遣されていた。アメリカの原子爆弾の製造研究所は、ニューメキシコ州(New Mexico)のロス・アラモス(Los Alamos)にあった。
1950年、FBIはフュークスが原爆製造の鍵となる情報をソ連に渡していたことを知る。フュークスは情報の運び屋としてゴールド(Harry Gold)などの人物を使う。そして同年5月にフュークスとゴールドは逮捕される。そのときグリーングラス(David Greenglass)というスパイの存在が浮かぶのである。グリーングラス自身もロス・アラモスで働いていた。グリーングラスの妹はエセル・ローゼンバーグ(Ethel Rosenberg)、そして夫はジュリアス・ローゼンバーグ(Julius Rosenberg)であった。二人ともユダヤ系のアメリカ人である。
グリーングラスは、原爆製造に関する文書を盗み、それを妻のルツ(Ruth Greenglass)がタイプしてグリーングラスの妹であるエセルに文書を渡したことを自供するのである。これによってローゼンバーグ夫妻がスパイであったと告発されるのである。これがローゼンバーグ事件の始まりだ。同じ頃ソーベル(Morton Sobell)というスパイも逮捕され、裁判でローゼンバーグ夫妻とともにソ連に協力したことを自供する。ソーベルは17年の懲役刑に服する。ローゼンバーグ夫妻は一貫してスパイ活動を否認し続ける。だが1951年3月、二人に死刑判決が言い渡される。
ユダヤ人と日本人 Intermission 長女の旦那
Last Updated on 2015年3月24日 by 成田滋
ユダヤ人と日本人とロシア人を扱ってきた。今回は休憩としたい。
長女Marikoの旦那はロシア系アメリカ人である。姓名はDimitri Kuznetsov。ときどき見聞きする名前だ。ロシアが有する唯一の原子力空母の名前もKuznetsovである。出身はモスクワ(Moscow)で、かつてソ連陸軍で兵役に就いていたことがある。
ペレストロイカ(Perestroika)の後、母親をモスクワに残して長男とともにアメリカに渡ってきたという。そのいきさつはわからない。こちらも訊かないことにしている。彼は今、マディソンのウィスコンシン大学にある生協のようなところで働いている。小生や兄弟が樺太生まれで引き揚げ者であることは彼に話している。叔父が抑留中にクラスノヤルスクで亡くなったことも話してある。
彼に会うときはしばしばスポーツの話題に花が咲く。彼は週二回、マディソンの市民サッカークラブの試合でレフリーをやっている。講習会を受講して審判の資格をとった。アイスホッケーもする。2014年のブラジルで開催されたワールドカップのサッカーは全試合を観たという。そこでサムライジャパンの試合の感想をきいてみた。彼曰く。サムライの選手はプレイに創造性や意外性が不足していたというのだ。いわば右脳を使ってプレイしていなかったようだ。
長女とはアイスホッケーのクラブで知り合った。この5月、長女の家族とマディソンで半年ぶりに再会予定である。12月には一家を八王子に招くことにもなっている。その頃は彼らの息子Sho、私の孫も3歳だから歩き回るだろう。そして大好きな車や始めてみる電車、新幹線に目を丸くするだろう。その興奮を一緒に味わいたいと今から楽みにしている
ユダヤ人と日本人 その26 スターリンによる大粛清 その5 医師団陰謀事件
Last Updated on 2025年3月28日 by 成田滋
「知られざるスターリン」には、戦前から戦後にかけての極めて赤裸々なソ連の全体主義国家の内部が描きだされている。
話題は少し遡る。共産党指導部に向けられた包括的な「シオニストの陰謀」は1948年の始め、スターリンによって計画された。それは1946年に始まった反コスモポリタンキャンペーン(Anti-cosmopolitan)に続くものとされている。1948年の反セミティズム(Anti-semitism)キャンペーンで逮捕された者は数十人に及ぶが、そのほとんどがソ連の「ユダヤ人反ファシスト委員会」のメンバーであったといわれる。
医師団陰謀事件という悪名高いでっちあげがある。この事件は、クレムリン(Kremlin)病院のユダヤ人医師が次々と逮捕される事件である。「誤った治療法によりソビエト要人の命を縮めることを目的としたテロリスト医師グループが保安局によって摘発された」ということに始まる。ユダヤ主義を掲げるシオニスト(Zionist)の仕業であると捏造されたのである。
事件は1952年のスターリンの主治医であったウィノグラード(Winograd)の逮捕をきっかけに始められている。アメリカ人シオニストの手先として陰謀をはかったという大規模なつるし上げが始まる。ウィノグラードがイギリスの諜報機関の手先であったとか、国際ユダヤ人組織「ジョイント」(American Jewish Joint Distribution Committee)に雇われていた、としてユダヤ人医師が摘発されるのである。「ジョイント」は1914年に設立され、本部はニューヨーク市にあって70か国にわたる活動をしていた。
ユダヤ人と日本人 その25 スターリンによる大粛清 その4 スターリンとイスラエルの関係
Last Updated on 2015年3月22日 by 成田滋
この原稿は「知られざるスターリン」という本に基づいている。作者はジョレス・メドヴェージェフ(Zhores Medvedev)、ロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedev)という兄弟である。本のはしがきによれば、前者は生化学者で歴史家であり、後者は歴史家、政治家である。二人ともソ連時代に民主化運動、反体制運動、人権擁護運動に関わったとある。特にロイ・メドヴェージェフはゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)やエリツィン(Boris Yeltsin)の顧問となった。
この本は五部から成るが、その中でもスターリンの死の謎、陰謀事件、後継者争い、原爆や水爆の開発、原子力収容所、スターリンと科学、スターリンと電撃戦、そしてスターリンとソ連のユダヤ人などが興味深い内容となっている。
ロイ・メドヴェージェフは次のように回想している。「歴史家にとって最も複雑になっていることは、スターリンがユダヤ人に対してとった政策とイスラエルに関してとった政策との間に際だった違いがあるということでである。」 1947年の国連総会で、スターリンが明確に親イスラエルの立場を表明する。それは同総会においてイスラエル国の樹立に賛成したことである。さらにイスラエルに対して戦闘機や大砲などを集中的に供与したのである。この援助がなければ1948年と1949年の二度にわたるアラブとの戦争に勝利しなかっただろうといわれる。
ところが、イスラエル独立後1949年1月の選挙の結果、親米政権がイスラエルに誕生する。イスラエルを衛星国にしようとしたソ連の目論みは完全に外れてしまうのである。スターリンの親イスラエル姿勢がなんであったにせよ、大多数のユダヤ人は、スターリンほど熱烈な反ユダヤ主義はいなく、その残酷さはヒットラーに次ぐと思われているのである。それが「医師団陰謀事件」であり、ユダヤ人反ファシスト委員会の弾圧である。
イスラエルの領土
中東戦争
ユダヤ人と日本人 その24 スターリンによる大粛清 その3 人民芸術家ソロモン・ミホエルス
Last Updated on 2015年3月21日 by 成田滋
2015年2月27日にロシアの野党指導者ボリス・ネムツォフ(Boris Nemtsov)が何者かに射殺された。これまでネムツォフはプーチン首相の政治手法を厳しく批判していた。彼はエリツィン時代に第一副首相でもあった。政府の発表では、治安部隊の元副隊長らの犯行というのだが、それを指示をしたのは首相府であろうと察する。ネムツォフの両親はユダヤ人である。もしやしてユダヤ人を根に持つ者の仕業かと勘ぐってしまう。だがそんな単純な動機ではないだろう。
以下は「知られざるスターリン」にある記述である。諜報機関による医師団陰謀事件に巻き込まれたのが、1940年代後半に活躍したソロモン・ミホエルス(Solomon Mikhoels)というソ連の舞台監督であり俳優であった人民芸術家である。ミホエルスは初代モスクワ国立ユダヤ人劇場を設立し、1929年にその芸術指導者となった。役者ミホエルスを最も有名にしたのが「屋根の上のヴァイオリン弾き」の主人公酪農家のテヴィエであったという。1941年にはモスクワ劇場学校の教授ともなる。その間、人民芸術家としてスターリン賞やレーニン賞を受賞する。
その後ミホエルスは、「全世界のユダヤ人人民大衆のファシズムとの闘争への参加」のために創設されたユダヤ人反ファシスト委員会の初代議長となった。1944年2月には、ユダヤ人反ファシスト委員会はミホエルスが筆頭者とって「クリミヤ・メモ」(Crimea Memo)をソ連政府に提出する。このメモの中心はクリミアに「ユダヤ人ソビエト社会主義共和国」を建設するという提案であった。
1948年の末、ユダヤ人反ファシスト委員会から粛正のために逮捕者が出始めると「ユダヤ人ソビエト社会主義共和国計画」が告訴の理由となる。これが「シオニストによる陰謀」として糾弾される。このあたりの経緯は誠におぞましく陰険である。
国家保安省の陰謀によりミホエルスは1948年1月に交通事故にみせかけられて殺される。ネムツォフもひき殺された。この殺害は芸術家本人の不注意から起きた「不慮の事故」として計画されたという。この著名な社会活動家で国民的な芸術家の抹殺は、「反ソビエト・ユダヤ民族センターの指導者としてアメリカからの指示にもつづいて反ソ破壊運動をしたスパイ」というでっち上げによるのである。
ユダヤ人と日本人 その23 スターリンによる大粛清 その3 原爆製造と軍事機密
Last Updated on 2025年3月28日 by 成田滋
第二の原爆製造センターはクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)の北方80キロのエニセイ河畔(Yenisei)に建設されることが決まる。この計画「クラスノヤルスク45」と名付けられた。ここにクラスノヤルスクへの鉄道を建設するために囚人収容所が建てられる。囚人の中には懲役25年以上の政治犯、犯罪人、民族闘争を扇動したとして逮捕された民間人も多数いたという。
このセンターはほぼ地下400メートルのところにいくつかの原子炉とプロトニウム製造の放射化学工場が造られることになる。そのために集められた囚人は最大2,700名にもなる。建設が終わり収容所が解放されたのは1963年という。
ソ連の核兵器の生産は、スターリン型の国家政治と経済、収容所その他の強制労働が可能にしたといわれる。原爆工場での悲惨な事故とそれに従事した労働者はいわば放射能の人柱となって工場の後片付けをしたことが「知られざるスターリン」に書かれている。1986年4月に起きたチェルノブイル(Chernobyl)原発事故と同じような事故が過去に何度もあったようだ。
亡くなった叔父のことに戻る。彼は樺太の小さな駅の助役をしていたときに捕虜となった。死亡したといわれるのがクラスノヤルスクというのであるから、鉄道建設か原爆製造センターの建設に駆り出され、その間に死亡したというの妥当な推理だと思うのである。原爆製造センターの所在は最高の軍事機密であったはずである。であるから、よしんば叔父が生きていたとしても帰還できたかは疑問である。
1945年前後のソ連におけるスパイ諜報活動と原爆製造という特殊任務は熾烈であったようである。ドイツからの戦利品のような科学者の獲得やウランの取得はソ連の原子物理学の発展に大きく寄与し、やがてソ連を超大国に押し上げたといわれる。
ユダヤ人と日本人 その22 スターリンによる大粛清 その2 「異国の丘」
Last Updated on 2015年3月21日 by 成田滋
1950年代、吉田正が作曲した「異国の丘」がラジオから流れていた。彼はかつてシベリア抑留兵の一人であった。「ハバロフスク小唄」というのも流行っていた。林伊佐緒という歌手が歌っていた。
今日も暮れゆく、異国の丘に
友よ辛かろ、切なかろ
我慢だ待ってろ、嵐が過ぎりゃ
帰る日も来る、春が来る 「異国の丘」
日ソが国交を回復し、1947年から1956年にかけて、抑留者47万あまりの帰国事業が続いた。その中には11年間抑留された者もいたという。収容所では思想教育が行われた。日本に帰国(ダモイ–domoy)して共産主義を広める活動をするという念書を出し、早期に帰国した者達もいたという。そうした中には舞鶴港に着くと、ソ連を罵倒する者も大勢いたことがドキュメンタリーフイルムで放送されていた。
新聞には、興安丸や高砂丸といった引き揚げ船が舞鶴港に着くのが大きく掲載されていた。特に興安丸はナホトカ(Nakhodka)と舞鶴を何度も往復し抑留者を運んだ。ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくるであろう息子の帰りを待つ母親を歌った「岸壁の母」は、当時は大きな話題であった。二葉百合子という歌手がいた。南方からも抑留者が帰りつつあった。成田家も肉親の帰りを待っていた。
スターリンによる粛正である。ソ連共産党内における幹部指導者の排除に留まらず、一般党員や民衆にまで及んだ大規模な政治的抑圧とされる出来事である。粛正の一環は民族の強制移動である。強制移住させられた場所はシベリアや中央アジアであった。旧日本軍捕虜や筆者の叔父のような民間人もそこでの「地獄」のような重労働に駆り出されたはずだ。
共産党内の権力争いやさまざまな粛清から、スターリンの胆力や胆略は計り知れないものであったことが、既に紹介した「知られざるスターリン」という本に克明に記されている。この本から、叔父のシベリア、クラスノヤルスクでの死が必然であることを知った。原子力コンビナートが建設された場所である。
舞鶴港と興安丸
ユダヤ人と日本人 その21 スターリンによる大粛清 その1 原爆製造とスターリン
Last Updated on 2025年3月28日 by 成田滋
筆者の叔父は1950年代に、クラスノヤルスク(Krasnoyarsk)あたりで死亡したことを厚生省から伝えられた。かつてロシア帝国時代、クラスノヤルスクは政治犯らの流刑地であったことがWikipediaに記載されている。今やクラスノヤルスクはソ連の大都市である。
1946年、ソ連の各地でウラン鉱山が発見される。さらに続いてプルトニウムとウラン爆弾の製造に着手する。原子力コンビナートの建設も始まり、工業用原子炉が造られる。しかし、さまざまな原因で引き起こされた事故によって頻繁に建設は停止した。原子炉全体の解体と新しい組み立てが必要となった。このときの修理の際に施設で大勢の労働者が汚れた作業に従事し、数千人規模で被爆したといわれる。福島第一原発事故とその後始末と同じ状況である。
プルトニウムのコンビナートから出る放射性廃棄物は施設の中に流れる川に流されていた。そのため、コンビナートから数10キロに渡って深刻な汚染と地域の農民に多くの放射性疾患を引き起こした。
1949年にソ連は最初の原爆実験に成功する。この原爆製造計画はスターリンの指導によるものである。さらにスターリンは第二の原子力コンビナートを計画する。原子炉を含めた原爆・放射化学工場、原爆製造センターの建設である。こうしたセンターの建設は軍事機密であったはずである。
当時は、冷戦の真っ直中、米ソは競って核兵器の開発にしのぎを削る時代である。従ってこの計画は国の安全保障を著しく高めることになる。アメリカはソ連が予想以上に早く核兵器の保有国になったことに驚いたといわれる。ソ連の原爆製造の基本情報はアメリカ人やイギリス人などのスパイによってソ連にもたらされたといわれる。ローゼンバーグ夫妻(The Rosenberg)も逮捕される。
The Rosenberg
ユダヤ人と日本人 その20 スターリンによる大粛清 その3 「知られざるスターリン」
Last Updated on 2015年3月17日 by 成田滋
2009年7月には東京新聞が「シベリア抑留76万人の新資料発見」と題して、日本軍捕虜がシベリアの奥地で受けた過酷な生活を報告している。シベリヤ抑留の事実は多くの証人が書いたものが残っている。例えば、元陸軍軍医中尉であった高木俊一郎氏が書いた「シベリア・ラザレートに生きる」という本もそうだ。軍医からみた捕虜収容所の姿が描かれている。復員後、大阪教育大学や上越教育大学で教鞭をとられた。
もう一冊、現代思潮新社から出版されたメドヴェージェフ兄弟(Roy Medvedev &
Zhores Medvedev)著の「知られざるスターリン」(久保英雄訳)である。共産党政権内の権力争い、強引な民族政策、原水爆の生産、スパイや原子力収容所の実態、科学など学問上の論争への介入、ソ連のユダヤ人排斥や粛正などが描かれている。
ロシア革命時には、ユダヤ人はかなり多くの者が革命の功績をたて、スターリン独裁が確立されるまでは政治の世界でも活躍の場を持っていたといわれる。1930年代には党の地方委員会にもユダヤ人がいた。スターリンの台頭により、共産党内部のユダヤ人支部は1930年後半にことごとく廃止された。党指導部での権力抗争のなかで、スターリンとその支持者は、ボルシェヴィキの中から着々とユダヤ的要素を除去し、意図的に反ユダヤ主義(Anti-semitism)のスローガンを掲げた。
スターリン独裁が確立した後の状況では、ユダヤ人問題は、特別な社会の病理現象として受けとめられるようになってくる。「ユダヤ人は労働者階級とはなんら共有するものはない、小市民的インテリだ」と中傷されるのである。結局、スターリン時代になると政治の檜舞台からユダヤ人指導者は一掃されていく。
スターリニズム(Stalinism)のテロ、すなわち1930年代の「大粛清」の犠牲となって倒れたユダヤ人も数え切れなかった。とくに学問や芸術の分野からは多くの犠牲者が出た。比較的高い地位の公職についているユダヤ人や、新経済政策の時期に蓄財した投機家や利得者のなかに混じっていた多くのユダヤ人に対して、底流として存在していた人びとの不信感が利用された。
東京外国語大学教授であった亀山郁夫氏が、2003年4月7日に朝日新聞の「21世紀を読むというコラム」の上で「2003年はスターリン没後50年 忘れるな独裁者の恐怖」という文を寄せている。そこでは、「珍種の植物を育てるのを趣味とした独裁者スターリンは、人間社会の改造という野心にとりつかれた大の学問好きだった」というスターリンの一面も紹介している。
The Brother Medvedev
ユダヤ人と日本人 その19 スターリンによる大粛清 その2 新聞報道
Last Updated on 2015年3月16日 by 成田滋
1953年代の新聞記事を調べると、そこからスターリンの政治活動とその死がどのように報じられたかがわかる。新聞社の姿勢と戦後間もない時代の思想上の混乱が感じられる。
1953年3月7日、 朝日新聞夕刊の「こども欄」に、スターリンの追悼記事が掲載された。タイトルは「なくなったスターリン首相、子供ずきなおじさん、まずしかった少年時代」とある。記事の内容だが、「貧しさの中に育ったので、早くから、貧乏な人たちに対する暖かい同情があった」というスターリン像を掲載している。誠に驚くべき記事である。
言うまでもなくスターリンは、日ソ中立条約を一方的に破棄し、対日参戦の成果によって南樺太を占領し、さらには北海道の東半分の割譲を連合国に迫ったという史実がある。極度に中央集権化された全体主義国家を率いた指導である。「貧乏な人たちに対する暖かい同情があった」などという記事がどうして書かれたのか。その見識を疑う。
読売新聞は1992年6月3日朝刊で「日本軍捕虜50万人を移送せよ」というスターリンの命令に関する資料を掲載している。同じく読売新聞2000年12月に元玉川大学教授若槻泰雄氏のコラムを次のように報じている。「シベリア抑留は戦争、特に負け戦が国民に強いる悲惨さを如実に示す史実だ。引き揚げに伴い旧満州で死亡した邦人は20万人以上で、原爆による犠牲者にも匹敵する。その多くは旧ソ連軍の国際法を無視した犯罪行為もといえる蛮行によるものだが、今日にいたるまで旧ソ連はその全容を明らかにしていない。旧満州とシベリアの惨状は、旧ソ連と共産主義に対する日本人の嫌悪、不信を決定的にしている。」
スターリンは史上、例のない完全独裁体制を築き上げ、情報をすべて掌握し、科学から哲学にいたる全ての分野に対して具体的な指示をして全てを決定したといわれる。ヒットラー(Adolf Hitler)と共に稀有な独裁的な権力者であった。同時にソビエトの近代化を進めたという点で、国内での貢献も非常に高いという評価を受けてもいる。史家の評価は異なっている。
ユダヤ人と日本人 その18 スターリンによる大粛清 その1 叔父の死
Last Updated on 2025年3月28日 by 成田滋
数回にわたり、ロシアの民族主義に反する者を徹底的に潰し迫害したと同時に、極度に中央集権化された全体主義国家、工業の発達した軍事大国にしたといわれるスターリン(Joseph Stalin)とユダヤ系ロシア人、そしてシベリアで逝った親戚のことを取り上げる。
スターリンの名前を知ったのは1952年頃である。なぜかというと、父親の弟である筆者の叔父がシベリアで抑留されているのをきいていた。そしてソビエト大使館より当時の厚生省を通して死亡通知が父親のところに届いた。死亡した場所はクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)とあった。その頃新聞では盛んにモロトフ(Vyacheslav Molotov)、マレンコフ(Georgy Malenkov)などの政治家の名前がでていた。そしてブルガーニン(Nikolai Bulganin)といった名もあった。
講和条約の締結によってGHQ(General Headquarters)が廃止されて間もない1953年3月6日の朝日新聞朝刊には、スターリンが死去しニキタ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)が葬儀委員長となること、スターリンの後任にはマレンコフが選ばれことなどが紹介されている。だがマレンコフは9日で失脚し、フルシチョフが共産党第一書記となりブルガーニンを首相として指名する。内政面では1956年党大会で非スターリン化を推進した。この間の共産党内の権力闘争は熾烈なものであったことが報道されている。
本格的にスターリンの行動や人となりを知ったのは高校で世界史を勉強したときだ。第二次大戦の末期、ヤルタ会談とかポツダム会議で大戦後の情勢を協議したのだが、スターリンは必ずその中にいた。やがて、1949年に北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization: NATO)とワルシャワ条約機構(Warsaw Treaty Organization)が結成され、冷たい戦争が始まったのである。スターリンはこの両方の機構の成立には欠かせない人物である。スターリンは意外にもイスラエル国家の樹立に賛成していることも最近知った。
ユダヤ人と日本人 その17 「The Yiddish Language」 その2 言語研究
Last Updated on 2015年3月13日 by 成田滋
イディッシュ語はヘブル語やドイツ語から派生してものである。その語彙の三分の二はドイツ語からもたらされたが、ヘブル語からも引用している語彙も多い。その他、アシュケナジムが住んでいた地方からの語彙も使われていたのが特徴とされる。なにはともあれ言語の大切は云うまでもない。
以下は、「Judaism 101」にある”Yiddish Language and Culture”からの引用である。http://www.jewfaq.org/yiddish.htm
イディッシュ語の文法であるが、独特な形式を有する。表記はヘブル語のアルファベット文字を使う。研究者の中には、イディッシュ語はゲルマン語の一部と主張する者もいて論争が続けられている。
イディッシュ語はアシュケナジムによって使われたと述べたが、セファルディック(Sephardic Culture)というユダヤ人の間では使われなかったということがある。セファルディック系のユダヤ人とは、スペイン、ポルトガル、バルカン半島、北アフリカ、中東に住んでいたユダヤ人を指す。
セファルディック系ユダヤ人は、「Ladino」とか 「Judesmo」という独特の言語を持っていたとされる。Ladinoの語源は「Latin」とされる。 「Judaeo-Spanish」とも呼ばれ、宗教書や世俗文学、歌などで使われた。イタリア、フランス、イギリス、その他、オスマン帝国(Ottoman)であったバルカン諸国、トルコ、中東、北アフリカでセファルディック系ユダヤ人によって使われた。
「Judeo-Christian」という単語があるが、この意味は、ユダヤ教とキリスト教の教義上の共通した文化性のことである。であるから「Judaeo-Spanish」というのは、ユダヤ人とスペイン人の融合した文化を意味すると考えられる。
イディッシュ語は、20世紀には世界中にいる1,800万人のユダヤ人うち、1,100万人の間で主要な言語として使われたと云われる。しかし、ユダヤ人の同化や迫害によって使用は激減した。それ例であるが、最も多くのユダヤ系アメリカ人が住むニューヨークですら25万人の位の人がイディッシュ語を理解しているといわれる。多くはかたことのイディッシュ語を使うが公式の場で使われることはないそうだ。
イディッシュ語の研究の中心は、オックスフォード大学(Oxford University)とコロンビア大学 (Columbia University)である。両大学ともイディッシュ語の研究学科を有している。オックスフォード大学では16世紀からヘブル語や文学の研究(Yiddish studies programme)が行われているという。コロンビア大学では1952年にYiddish Studies Programが始まったという。この大学はニューヨーク市内にある。
Oxford University
Columbia University