旅は道連れ世は情け その7 スカンクに注意

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

車には色々な思い出があります。日本ではあまり経験しないようなエピソードを紹介します。

野生の動物が多いのがアメリカ大陸です。自然保護、動物保護が厳しいところです。インターステイト(Interstate: IS)などの高速道路には「鹿注意」の標識があちこちに立っています。

長男からきいた話です。彼が運転し友達とミルウオーキーでのアイスホッケーの試合を観に行った帰り、IS90を運転中に鹿を轢いてしまいました。飛び出してきた鹿を避けきれなかったそうです。車の前部は大破。この場合、鹿を持ち帰ることはできますが、道路脇にひきづり、帰ってきたといっていました。

冬場、厳しい寒さを避けるためにあらいぐま(racoon)やスカンク(skunk)はいろいろなところを寝蔵にします。大学の職員宿舎の管理室で夜勤のアルバイトをしていたときです。学生は平日の夜と週末に雇われて応急措置に対応します。例えば、台所のシンクやトイレが詰まったとか、鍵を落として入れないので開けて欲しいといったことです。子育て中の院生が多いので、子供が玩具をトイレに流してつまらせるのです。

ある時、車のエンジン部分に潜んでいたスカンクがファンに巻き込まれ車が動かないという電話が事務室にきました。出掛けてみるとスカンクの残骸とともに、もの凄い匂いが駐車場に漂っています。手の出しようがありません。こうなったらいくら洗車してもなんの効果もありません。後日、持ち主は廃車にしたことをききました。業者も大変だったろうと察します。

走っているとときどき轢かれたスカンクを見かけます。窓をすぐ閉めなければいけません。あの匂いは近寄りがたいほど強烈なのです。

旅は道連れ世は情け その6 北投温泉と美空ひばり

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

台北市内からMETROで50分ほどのところに北投温泉があります。この温泉は、台湾有数の湯治場です。明治38年に地質学者岡本要八郎が微量のラジウムを含む「北投石」という鉱石を発見します。瀧乃湯で入浴した帰りに付近の川で見つけたとあります。今は天然記念物で採掘が禁止されているそうです。

北投温泉は、天然のラジウム泉として知られています。また硫黄の成分も多く、町には硫黄の臭気が漂っています。北海道登別温泉のような雰囲気です。この温泉に浸かりたいとかねがね考えていました。

途中METRO内で、家内と下車する駅のことを思案していると、前に座っているお年寄りが日本語で「北投温泉はあと三つ目です、瀧乃湯がいいですよ」と教えてくれました。小学生のとき、世田谷区から派遣されていた日本人の女性教師に教えを受けたとか。毎年、この恩師を招いて同窓会を開いているということに感じ入りました。親切で礼儀正しい方でした。

瀧乃湯は銭湯の気分です。台湾に現存する浴場の中では最古の一つだそうで、脱衣場は浴槽の隅にあり扉の仕切りはありません。また洗い場には水道水が出るシャワーがありますが温水は出ません。本当に素朴な湯治場の気分です。

帰りにブラブラ散歩していると、歌謡曲が流れてきました。聞き耳をたてると美空ひばりの歌です。数人の老人がラジカセを中心に歌っているのです。そして持っているひばりのカセットテープ集を見せてくれました。美空ひばりが湯治場の北投温泉でも人気があるのは、首肯できました。

旅は道連れ世は情け その5 孫文と国立國父紀念館

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台湾は私の好きな国の一つです。温暖な気候のせいか、人々の表情が柔和なような気がします。他のアジアの国々と比べ、街全体に清潔感があります。「中華民国」が台湾の国名です。

孫文という偉大な思想家、政治家は今も台湾でも尊敬の的になっています。国立國父紀念館に行くとそれが現れています。孫文は一般的に「孫中山」と呼ばれています。1時間毎に行われる紀念館での衛兵の交代はみものです。衛兵交代は蒋介石の顕彰施設である中正紀念堂や忠烈祠でも行われます。國父紀念館を囲むのが静かな中山公園です。

孫文が1905年に発表した中国革命の基本理念には「三民主義」と「五族共和」があります。「三民主義」とは、民族主義、民権主義、民生主義のことです。現在の台湾政府の基本理念となっています。五族共和は、漢の周辺の五族との宥和を意味します。中国革命の父、近代革命の先達ともよばれる所以です。海峡をはさんで本土と台湾の両国で尊敬されているのが孫文です。

孫文は偉大な革命家ともいわれます。国共合作やソ連との提携も実現します。モスクワ中山大学の設立も成果の一環です。この大学は日本や海外列強の植民地支配に対する独立運動と人材育成のためです。後に蒋介石は毛沢東とも手を組みます。

革命と独立に至る運動で、孫文の行動は日和見的であるという見方も一部にあったようです。原理原則の欠如といった理由で批判されるのです。ですがこうした批判は、複雑な国内事情や権力争いのゆえにやむを得なかったとする見解が一般的です。孫文の業績が偉大であったことは誰もが認めるところ、中国本土や台湾で尊敬を一心に集めるのはそのためです。

日本と孫文の関係ですが、1913年から数年間日本に亡命もします。そして欧米列強の帝国主義に対して東洋の王道とか平和の思想を説き、日中の友好を訴えたことでも知られています。

旅は道連れ世は情け その4 大学生活の開始

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U-Haulを引っ張ってジョージアからようやくウィスコンシンに着きました。ウィスコンシン大学の構内に入ると、落ち着いた煉瓦色の建物、古城のような体育館、博物館や図書館、大学カフェテリアなどがありました。そのとき、「果たしてついていけるのだろうか、、」という不安に襲われました。大学の雰囲気があまりにピリピリし、威圧感があったからです。ですが物思いに耽る場合ではありませんでした。

大学院の授業といっても詰め込みです。授業にでても半分くらいしか理解できません。思い切って留学生の相談室に行きました。そこで「授業中のノートテーキングでは単語を書き並べ、授業後にすぐ文章化するように」というアドバイスでした。記憶が鮮明なうちに筆記する方法です。

授業では、休む院生はほとんどいません。授業前に教官は教室にいて学生を待っています。休講もありません。ただ一度だけ、ある冬の夜間授業のとき、教官が教室にやってきて「今夜は調子がわるいので休ませて欲しい」というのがあっただけです。これが最初で最後の休講です。

最初の中間試験があり、結果は教官室のドアに学生番号が掲示されました。自分の点数をみてガツンと頭をなぐられたような気分になりました。試験なんてたいしたことがないだろうとたかをくったのが間違いでした。完全な落第点でした。試験問題は、マルバツ、多肢選択、単語の記入、エッセイから構成されていました。このような問題形式に全く慣れていませんでした。授業中に教官が講義した内容が問題としてでることを知りました。それからは試験前にはノートを何度も読み直し暗記に務めました。

半年くらい経ってからようやく自信のようなものが生まれてきました。とにかく時間をかけて読み、書くことに心掛けました。小論文の作成を支援する大学のサービスも頻繁に利用しては英文を添削してもらいました。一対一で添削してくれるのは英文科の院生です。論文書きのコツをここで学んだのは後々に役に立ちました。学生の支援が手厚いことに感じ入りました。このような論文書きの支援は、学んだ北海道大学でも立教大学でも、兵庫教育大学でもありませんでした。

旅は道連れ世は情け その3 車がスピンしたとき

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1979年のウィスコンシンの真冬、零下20度の日が何日もありました。マリブを運転していたときです。路面が凍結している時間帯でした。アメリカの高速道路は、大きく分ければインターステイト(Interstate: IS)とUSハイウエイ(US Highway)の二種類があります。両方とも日本の高速道路にあたります。高速料金はありません。両方ともは四車線で雑草と芝の広い中央分離帯があります。

当時、ISの制限速度は65マイル、USのほうは55マイル位です。USを走っていたとき、突然車がスピンしてブレーキが効かなくなりました。強く踏みすぎたためです。そのときスピンした方向とは逆にハンドルを回した記憶があります。路上で一回転してようやく停まりました。幸い前後に車はありません。心臓が止まるほどの経験です。気持ちを切り替えてゆっくりと車を回転してその場を離れることができました。後続車がいたら大変なことでした。

こうした冬の運転の反省ですが、第一は冬の路上は凍結していることを忘れないことです。交通局のようなところは、夜中に砂と塩化カルシウムの混じった融雪剤を散布します。それでも体感温度が下がって路上が凍結するのです。昼間気温が上がり、夜は零下に下がるので溶けた雪は凍るのです。

第二は制限速度より20%下げて運転することです。スピードの出し過ぎほど怖いものはありません。スノータイヤでも凍結している路上ではどうにもならないのです。

第三は昼間でもライトをつけて走ることです。バッテリーは走行中に充電されるので、節約する必要は全くありません。夜、交差点でライトを消す習慣はアメリにはありません。

第四はブレーキをこまめに踏むことです。これによって滑りを防ぐとともに、ブレーキランプで後方車に自分の位置や車間距離を知らせるのです。

厳冬の時、野外に長く駐車しておくとバッテリーの能力が極端に低下します。”Battery is dead.”と呼ぶ状態です。ですからバッテリー・チャージャー・ケーブルを持参しておくことも大事です。零下が続くときは、夜は車からバッテリー外して翌朝に戻して運転することもありました。

旅は道連れ世は情け その2 「U-Haul」と野宿

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1978年8月に語学研修で過ごしたジョージア州(Georgia)からウィスコンシン(Wisconsin)のマディソン(Madison)まで、僅かの家財をU-Haulに積んで家族と移動しました。車はジョージアにいたとき、ルーテル教会の牧師から譲り受けたシボレーはマリブ(Chevrolet Malibu)という連結器のついた六気筒のセダンでした。車体の屋根は押してもびくともしません。「タンク」という愛称で呼ばれていました。この牧師はかつて宣教師として足立区での勤労青少年の伝道にあたっておられました。梅島、西新井、竹の塚、草加あたりが伝道の中心でした。

マディソンへの途中、テネシー州南東部にあるチャタヌガ(Chattanooga)という街を通りました。なぜか「チャタヌガ・チュー・チュー」(Chattanooga Choo Choo)というグレン・ミラー(Glenn Miller)の楽曲を思い出しました。”Choo Choo Train”とは、「汽車ぽっぽ」という意味です。その後ニール・セダカ(Neil Sedaka)も「恋の片道切符」(One Way Ticket)という曲で”Choo Choo Train”を歌っていました。この曲も流行りました。

インディアナ州(Indiana)の小さな街で車の調子が悪くなりました。トレーラーを引っ張るとエンジンに無理がかかります。とくにトランスミッションはそうです。修理屋にきくと部品は明日にしか来ないというのです。仕方なく修理屋に許可を得て工場の隣で野宿することにしました。

修理屋はガソリンスタンドを経営しています。幸い水をもらったり手洗いを使うことができました。夏の盛りでしたので、クーラーボックスからハムと野菜やチーズでサンドイッチを作って一夜を過ごしました。夜パトカーがやってきました。事情を話しましたが不安な一夜を過ごしました。2泊3日の初めての大陸横断のような旅でした。

旅は道連れ世は情け その1 「U-Haul」と「You haul」

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人生は旅に喩えられます。目的があるようでないような、行き先が定かで定かでないようなのが人生です。生きることとは、その目的や行き先を探す旅ということです。これから私の可笑しくも苦しかった旅の話を披露します。暫く旅にお付き合いのほどを。

U-Haul。ユーホールと発音するこの単語は、登録商標でもあります。移動が好きなアメリカ人にはU-Haulは馴染みのものです。引越の際は、貸しトラックか自家用車につける荷物運搬車(トレーラー)に家財道具を積んで目的地に向かいます。このトレーラーの代名詞がU-Haulです。Haulとは「引っ張る」という意味です。ですから、”You haul”をひっかけた造語であります。

U-Haulの大きさは様々です。今もU-Haulをとりつける連結器がついた中型のセダンを見かけます。田舎を走るピックアップトラックには必ずといってよいほどついています。U-Haulの事務所は小さな街にも必ずあります。このトレーラーを借りて自分で引っ越しするのです。そういえば専門の引越業者のようなものはアメリカには珍しいのです。

大型のU-Haulは自分で運転して家財を運びます。運転手が一人ですむという案配です。U-Haulをつけてバックするときは少し経験が必要です。駐車するとき、ハンドルを右に切るとU-Haullは左側に回ります。ハンドルとは逆にU-Haulは回るのです。慣れると面白いように操作できます。引越の途中はもちろんモーテルを利用します。移動や引越にU-Haulは切っても切り離せません。「お前が引っ張っていく」という考えがU-Haulの発展にみられます。これが俗語にある、”Do It Yourself Fan.”(自分でやれることは自分でする)にあたります。

「幸せとはなにか」を考える その19 いろいろ悔いはあるが、

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「My Way」という歌を引き合いに、「幸せとはなにか」を考えてきた。この稿を終わるにあたり、もう一度「My Way」の歌詞をつぶやきながら筆を取る。

「I did it my way」を「人生悔いなし」と訳してみた。だが、極めて浅はかな訳だったと思っている。現に歌詞には、”Regrets, I’ve had a few”とある。筆者もこれまでの、そしてこれからの人生も悔いの連続であることは予想される。「I did it my way」という感慨にも似た表現には「やるべきことはやった。だがそれが義にかなったかどうかはわからない」というように解釈すべきだと思うのである。

人間は多くの場合、独りよがりである。物事を都合のよいように解釈する。「悔いなし」と決め込むのは、少々ごう慢で嘆かわしいことである。「やるべきことはやらせてもらった、だがやっぱりなにかが足りない」のが人生ではあるまいか。

「幸せとはなにか」について、架空の人物や現存した人々を手本にしながら考えてきた。お上さんによって自堕落さから立ち直る亭主、筆を口にくわえて珠玉の文章を書く人、命令に反して困る人々に手を差し伸べた人、戦地に向かう教え子に生きて帰れと諭した教師、人一倍友達想いの選手や監督、パンと葡萄酒を密かに運ぶ純粋な子供、、、誰も精一杯、誠実に生きてきた。それ故、端からみると皆幸せだったかのように写る。しかし、本人らがどう感じたのかはわからない。

「幸せ」とは一人ひとりの内にある価値意識であることだ。他人の物差しではなく、自分の物差しの中にある現象である。そしてその物差しにどこか狂いはないかを問いただしてみるのである。そうであれば、物の見方や考え方の軸が定まり、物事や自分を冷めた目で見つめることができのではないか。このように境地こそが「幸せ」ではないかと思うのである。

「幸せとはなにか」 その18 杉原千畝氏のことー日本のオスカー・シンドラー

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現在、外務省が保管する杉原千畝氏がビザ発給者の名を記したリスト「杉原リスト」には 通過ビザを発行した2,100名以上のユダヤ人の名前があるといわれる。公式記録から大勢の人が抜けているとうことがわかり、杉原氏が実際にビザを発給したユダヤ人は6,000人にものぼるといわれている。戦後、杉原氏がユダヤ人から「日本のオスカー・シンドラー(Oskar Schindler)」といわれた所以である。

話柄を変えるが、「シンドラーのリスト(Schindler’s List)」という映画が1994年にスティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)によって作られる。オスカー・シンドラーのユダヤ人救済を描いたものだ。シンドラーはナチス党の党員ではあった。ポーランドのクラカウ(Krakau)の町へやってきて、潰れた工場を買い取って“軍需工場”であるほうろう容器工場の経営を始める。ポーランド占領のドイツ軍から特別の格付けを受けたのである。

シンドラーは、手練手管を使いこの工場では労働者が生産ラインに不可欠だと主張する。このようにして、強制収容所へ移送される危険が迫ったユダヤ人を雇用することができた。有能なユダヤ人会計士アイザック・シュターン(Isaac Stern)に工場の経営を任せ、安価な労働力としてゲットーのユダヤ人を雇い入れるという筋書きである。

さて、杉原千畝氏のその後に関してである。外務省の訓令に反し、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。そのため戦後、訓令違反ということで外務省を辞めざるをえなくなった。

「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」という述懐が残っている。2000年、当時の外務大臣河野洋平の演説によって、杉原千畝氏の日本政府による公式の名誉回復がなされた。戦後55年も経ってからのことである。

「幸せとはなにか」 その17 杉原千畝氏のことー通過ビザの発給

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ナチス・ドイツは、1940年にベルギー(Belgium)、チエッコ(Czech)、デンマーク(Denmark)、フランス(France)、オランダ(Holand)、ルクセンブルグ(Luxembourg)、ノルウェー(Norway)、ポーランド(Porland)、を占領しソ連との戦を始めようとしていた。リトアニア在住のユダヤ人の脱出は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路であった。

日本の通過ビザを取るには受入国のビザが必要であった。幸いリトアニアにあったオランダ領事館は、カリブ海にあるオランダの植民地キュラソー(Curasao)行きのビザの発給を始める。「キュラソー・ビザ」をとったユダヤ人が日本領事館に押し掛けたのは、1940年7月18日といわれる。日独伊三国間条約が結ばれる直前である。ヨーロッパ各国はナチス・ドイツに占領され、そこを経由することは絶望だったからである。リトアニアにまだ残っていた日本領事館で通過ビザを取ろうとした。日本経由で脱出しようとしたのである。

ユダヤ人が日本へ行くために、ソ連国内通過がどうして可能だったかである。Wikipediaによると当時ソ連は共産党の支配とされていたが、実際には裏の組織である国家保安省、後の国家保安委員会:KGBが支配していたとされる。そして国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人だったという事情が働いていた。

領事代理の杉原氏のビザ発行に対する打診に外務省は「ビザ発給拒否」と回答する。杉原氏はソ連領事館に出向き、日本通過ビザでソ連国内通過は可能かを打診し、問題なしとの回答を得る。そして発給を決意する。”I did it my way.”を実行した稀有の外交官であり人道主義者であった。

「幸せとはなにか」 その16 杉原千畝氏のこと-ユダヤ人の運命

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世界史が好きな筆者にはなぜかバルト三国のことが忘れられない。バルト三国の一つ、エストニア(Estonia)の首都タリン(Tallinn)を訪れたのは1995年である。ヘルシンキ(Helsinki)での学会のついでにフェリーで次女と一緒にフィンランド湾を渡った。

エストニアのソビエト連邦からの独立は1991年であるから独立を回復して4年目であった。あちこちの建物の壁に銃弾の跡が残っていた。ラトビア(Latvia)、リトアニア(Lithuania)と並んでエストニアはバルト三国(Baltic states)の一つである。

地図を見るとこの三国はドイツとロシアに囲まれている。そのため第二次世界大戦でほんろうされた歴史がある。ロシア帝国、プロイセン、ハプスブルク帝国、ポーランド、スエーデンがバルト三国を席巻したことがある。大戦中はナチス・ドイツとソ連にじゅうりんされた。

第二次世界大戦前にリトアニアはスイスと同じように中立国と考えられていた。そのためナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人はリトアニアに移住していたのである。ところがソ連がリトアニアを併合することが確実となる。1940年7月、親ソ政権がリトアニアに誕生する見通しとなり、いずれはドイツとソ連の戦いが始まることが予想されるようになる。

そこでユダヤ人らは、リトアニアを出国する自由は奪われてしまうと考えソ連に併合される前にリトアニアを脱出しようとしたのである。その頃、リトアニアの日本領事館で領事代理をしていたのが杉原千畝氏であった。

 

「幸せとはなにか」 その15 「キロギ・アパ」

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

ハングルで”기러기”とは雁、”아빠”はお父さんという意味である。お隣韓国の教育熱は我が国でも知られている。かつての我が国における受験戦争の比ではない。

韓国では、子息に英語での意思疎通能力を身につけさせようと懸命になっている。そのために子どもと妻を海外に送り出し、自国にて一人で働きながら生活する父親が沢山いる。こうした父親のことを「キロギ・アパ」「雁のようなお父さん」と呼ぶそうである。雁は渡り鳥で、父親が海外と国内を行き来することからこのようにいわれる。学歴社会を背景とする過度な教育熱と、孤独になった父親の精神的な負担などが社会的な問題となって久しいようである。

海外で学び仕事の経験を積むことが大事だと韓国人は日本人以上に考えているのは確かだ。現在アメリカの大学には韓国人が日本人の50倍はいるはずである。そして自国より住み心地が良いと感じているに違いない。

キロギ・アパといえば、筆者もその一人である。子どもたちをアメリカで教育し、彼らと別れて日本で長く生活している。子どもたちは教育を受け、仕事に就き、結婚し子育てに忙しい。「学歴社会を背景とする過度な教育熱」に毒されたのではなく、子どもが自分の進路を選んだのである。

米国というところは、長く住めば住むほど永住したくなるような不思議な魅力を持っている。それを海外からやってくる者は一種の幻覚のように感じるのだ。幸せを実現してくれるといった目眩のようなものである。そういう感覚を筆者も体験したことがある。

「幸せとはなにか」 その14 星野冨弘氏のうたから

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

星野冨弘氏のことである。中学校の体育教師をしているとき部活での指導中、頸髄を損傷し手足の自由をなくしてしまう。その後は、筆を口にくわえて草花を描き、言葉を添える詩人となって「愛、深き淵より」など多くの作品を残している。

車椅子の上で描いた絵や詩からは、星野氏の想像の世界が広がっている。それは、手足の自由を失った者ならではの情感に溢れている。草花をじっくり観察し、その特徴を見逃さないでペンや絵筆に乗せている。やさしい言葉が並ぶ。

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喜びが集まったよりも、悲しみが集まった方がしあわせに近いような気がする。
 強いものが集まったよりも、弱いものが集まった方が真実に近いような気がする。
 しあわせが集まったよりも、ふしあわせが集まった方が愛に近いような気がする。

○言葉に深い意味が伝わってくる。これほど言葉と思想が一体となる詩歌はあまり読んでいなかった。「強い」とか「弱い」というのはなにか。

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辛いという字がある
  もう少しで
   幸せになれそうな字である

○「土」を上に付け加えると「幸」になるとは、、。地面に足をつけてもう少し踏ん張ることの大事さを歌っているようだ。

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「人生が二度あれば」とは、
   今の人生を諦めてしまうから
    出てくる言葉です。

○いつも悔いの残る毎日である。もう少しできたのだが、ということを繰り返して生きている。「明日ありと思う心の仇桜、、、、、」

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神様がたった一度だけ
  この腕を動かしてくださるとしたら
   母の肩をたたかせてもらおう。

○眼の不自由な人が、一度だけ母親の顔を見たいといっていた。深い愛を伝えるのに言葉は誠に不十分だが、それ意外に伝える手段がない。それにしても母親の存在はなににも代え難い。今日は1月17日。

「幸せとはなにか」 その13  二十四の瞳から

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

作家壺井栄は、香川県小豆島の出身である。この島は瀬戸内海では淡路島に次いで2番目の面積となっている。寒霞渓を始めとする渓谷などの自然が瀬戸内海国立公園に指定されている。大阪城修復の際には小豆島より多くの石が採られ運ばれた。今も石切場の跡が残っている。島独特の手延べそうめんで知られ、またオリーブの生産が盛んである。

さて話柄は「二十四の瞳」である。1952年の壺井の原作をもとにして、木下惠介が監督で1954年に公開された映画である。もちろん小豆島の小学校の分教場が舞台である。担任は新任の大石先生。彼女のクラスは12名。こののどかな島で皆成長する。

やがて戦争の影が小さな島にも忍びより、暗い世相が訪れる。不況、飢饉、満州事変、上海事変と続く戦争に島も家族もほんろうされる。教師も戦時教育を強いられる。12人の生徒たちはそれぞれの運命を歩む。戦地へ赴く教え子や自分の子に「名誉の戦死などない、必ず生きて戻るように」と諭す。戦争に疑問を抱く大石先生は教え子たちの卒業とともに教師を辞める。

戦争が終わる。大石先生も船乗りの夫や息子を戦地で亡くす。かつての教え子の呼びかけで、大石先生と同窓会が開かれる。そこで12名の消息がわかる。席上、皆波乱の人生を余儀なくされたことを知る。戦場で負傷し失明した教え子が、昔12名で撮った写真を指差して「これは誰、こちらは、、、」といって恩師に説明する。

戦争は多くの尊い命を奪った。家族を、恋人を、学徒を、子供を不幸に巻き込んだ。大勢の敵兵や占領下の現地の人々も亡くなった。太平洋戦争では、日本だけで200万人以上の戦闘員、非戦闘員が命を落とした。筆者も叔父が二人シベリアで亡くなった。

「幸せとは」 その12 マルセリーノと汚れなき悪戯

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

「汚れなき悪戯」(Miracle of Marcelino)という映画は1955年にスペインで製作された作品である。スペイン語の題名は、「Marcelino Pan y Vino」で「マルセリーノのパンとワイン」となる。

この物語である。フランシスコ会修道院の門前に赤子が捨てられていた。修道士たちは里親を捜すのだが、結局見つからず自分たちで育てることになる。そして赤子をマルセリーノ(Marcelino)と名付ける。

マルセリーノは修道院でいろいろなことを学ぶ。修道院での学校生活である。保育係となったフランシスコ修道士(Father Francisco)は、マルセリーノに屋根裏部屋には決して入らないように言いつける。

好奇心の旺盛なマルセリーノは屋根裏部屋にこっそり忍び込のである。そこで大きな十字架のキリスト像と出会う。そしてキリストにパンを与える毎日が始まる。これが「汚れなき悪戯」として描かれる。やがて、みなしごマルセリーノはキリスト像に「天国の母に会いたい」と嘆願する。

像はマルセリーノが大きな肘掛け椅子をすすめると降りてきて座って少年と話し、また飲み食いするようになる。像は特にパンと葡萄酒を喜んだので、マルセリーノは毎日それらを盗む。それに気づいた修道士らは訝りながらも気付かぬふりをして彼を見張ることにした。

いつものようにパンと葡萄酒を持っていったマルセリーノに対し、像は「良い子だから願いをかなえよう」と申し出る。迷わずマルセリーノは「母に会いたい、そしてそのあとあなたの母にも会いたい」と言うのである。「今すぐにか」という問には「今すぐ」と答える。ドアの割れ目から覗くフランシスコ修道士の前で像は少年を膝に抱き眠らせた。

駆けつけた修道士たちは空の十字架を見、やがて像が十字架に戻るのを見て扉を開いた。マルセリーノは椅子の上で微笑みを浮かべて永遠の眠りに就いていた。
https://www.youtube.com/watch?v=bqKFXlg1h6s

「幸せとはなにか」 その11 チャーリー・ブラウンの仲間たち

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チャールズ・シュルツ(Charles M. Schulz)の漫画に登場するのがピーナッツ(Peanuts)の仲間である。この漫画は、1950年に新聞に掲載されるようになり、やがて全世界で読まれるようになる。子供はもちろん、大人にも読者が広がる。筆者もピーナッツの本で英語を学んだ。特に、会話のなかにでてくる俗語や表現は、後に米国で生活していて役だったものだ。

ピーナッツは別名「Good Ol’ Charlie Brown」とか「Charlie Brown」と呼ばれる。ビーグル犬のスヌーピー(Snoopy)の飼い主がチャーリー・ブラウン(Charlie Brown)。やさしくてまじめで憎めない。友達想いは人一倍深い。チャレンジ精神も旺盛である。特技はビー玉で趣味は野球。彼は選手兼任監督を務める。そのチームは負けてばかりだ。いつも肝心なところでポロリをやって仲間からひどく野次られる。皮肉にも彼がプレイしない試合は勝つ。

チャーリーの仲間だが、スヌーピーは、スポーツ万能で趣味は小説を書くこと。小屋に寝そべって瞑想するのが好きな犬だ。ルーシー(Lucy)は、チャーリーが蹴ろうとする瞬間にボールを引っ込めてしまうちょっとお茶目な女の子。ライナス(Linus)はルーシーの弟で、仲間うちきっての知性派。トレードマークは「安心毛布」である。サリー(Sally)はチャーリーの妹でちゃっかり者だが、ライナスに夢中。シュローダー(Schroder)は、ベートーベンの曲を弾く小さな音楽家。ピアノに寝そべって聴くのがスヌーピの得意なポーズである。

作家、シュルツの眼差しは、子どもと動物にとても暖かい。小さな者、弱い者の側からピーナッツは大人の世界を見つめる。子どものできない、困ったという心の悩み、葛藤をどう乗り越えるかを一貫したテーマとしている。大事な仲間の喜び、哀しみ、不満をスヌーピーと共に味わうチャーリー・ブラウンである。

「幸せとはなにか」を考える その10 「芝浜」から

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

古典落語の傑作の一つに「芝浜」がある。名人で三代目桂三木助が演じた屈指の人情噺といわれる。この話は、魚の行商を生業とする酒好きな勝五郎とそのお上さんの物語である。

舞台は今のJR田町駅から浜松町駅のあたり。江戸時代は砂浜が続いていたといわれる。江戸前といわれた魚が水揚げされて雑魚場と呼ばれていた。勝五郎は、この雑魚場に朝早く仕入れに出掛け、暇つぶしをしているうちに大金の入った財布を拾うことからこの落語は展開する。

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ある朝、お上さんにせっつかれて、グズグズしながら魚の買い出しにいく。それまで勝五郎は半月も休んでいたのである。出かけて浜辺で煙草を吸っていると、ひもがついた革の財布が浮いているのをみつける。拾ってみると小判が入っている。

驚いて家に戻り、お上さんに訳を話す。財布と開くと八十二両という大金である。「これでぜい沢ができる、いい着物を買って、温泉でも行こう」とお上さんを誘う。あげくは、仲間を引っ込み「目出度い、目出度い」とドンチャン騒ぎをする。その夜はぐでんぐえんに酔っぱらって眠りこける。

翌朝、お上さんにたたき起こされる。
「さあ、さあ、魚の仕入れに行っておくれ」
「なに言っとるんだ、八十二両あるんじゃないか、」
「なに寝ぼけたことをいってるの、どこにもそんなお金なんかありゃしないよ、なにか夢でも見たんじゃないの?さあ、さあ仕事にいっておくれ」
「確かお前に八十二両預けたじゃないか、、」
「酔っぱらっているからそんなお金の夢をみるのよ」
「おかしいな、確かにお金を拾ったんだが、、、」
「、、、ん、夢か。子供のときからやけにはっきりした夢をみることがあったな、、」
「酒を飲んだのは本当で、財布を拾ったのは夢だったのか、、、ああ情けない。」

こんな会話を交わし、それから勝五郎はプッツリと酒を断ち、元の腕の立つ仲買人となる。それから三年目の暮れのこと。湯屋から戻った勝五郎にお上さんは、打ち明けるのである。

「実は、この財布に見覚えがない?」
「??????」
「これはお前さんが三年前に芝の浜で拾ったという財布なんだけど。」
「あれは夢じゃなかったんか?」
「あたいは、お前さんに嘘をついたの」
「もし、その時この小判を使い込むようなことになれば、お上にいろいろと訊かれ、天下の小判を届けなかった罪で牢屋にでもいれられたろうに」
「あんたが酔っぱらって眠っているとき、大家に相談し奉行所に届けた」
「三年後、落とし主が見つからないのでこの財布はこのとおり帰ってきたんだよ、嘘偽りをいったのは悪かった、どうかあたいを打つなりぶつなりしてしておくれ」
「ああ、そうだったのか、、。お前をぶったりしたら、この腕が曲がってしまう。俺も馬鹿だったなあ、、」
「赦してくれるのかい、、ありがとう」
「静かな大晦日だね、お前さん、三年間酒を一滴も呑まなかったね」
「今夜くらい一杯やったらどう?」
「そうだな、もうらおうか、、ああ、いい匂いだ、口からお出迎えといくか」
「、、、、ん、やっぱり酒はやめておこう。また夢になるといけね!」

自堕落な亭主を更正させる女房。「文句なしに素晴らしいお上さんだ」という立場と、「わざわざ嘘をついて立ち直らせるのなんて、鼻につく女房だ、」という声もある。だがこの人情噺はとてもよくできていると感じる。夫婦愛と人情の機微が噺家から伝わる。それは、庶民のつつましい生活が長屋、酒、夢、女房、行商などに展開されている。皆、その日その日に生きることで精一杯だが、偽りや権威と向き合いながら、懸命にそして誠実に生きる姿が共感を呼ぶ。

「幸せとはなにか」を考える その9  夜間中学から

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

高度経済成長の一断面を描いた映画「学校」には、懸命に学ぶ若者からお年寄りまでが登場する。製作されたのは1993年である。舞台は夜間中学校。そこに勤める教師の黒井は、古狸と呼ばれるくらい長く生徒と付き合っている。「そろそろ異動、、」との校長の肩たたきに見向きもしない。生徒は皆、学習に苦戦するものばかりである。

読み書きに苦労する日雇い労働者で酒好きのイノさん、焼肉屋の働き者で在日韓国人のオモニ、清掃業の肉体労働に励む勉強嫌いのチャラチャラ少年のカズ、鑑別所から出てきた派手でヤンキー風のみどり、言葉の不自由なおさむ、不登校になったえり子、社会に馴染めない中国人の張さんなど、一癖も二癖もある生徒だ。

孤独に生きてきて初めて「学校」という和の中で生活することになるのがイノさんがこの物語の主人公である。字が書けることの喜びを実感し、女性教師に初恋をし、修学旅行でクラスメートとはしゃぐ。誰もがとっくに経験している学校生活を50代になってからようやく体験する。

この映画のクライマックスはイノさんの死である。イノさんははたして幸せだったのか、不幸だったのか、幸福とは何なのか?ということを授業で皆で話し合う。生徒は皆それぞれ違う境遇から、ユニークな発言をする。「そんなこと難しくてわかんない」、「お金じゃないか、、」、そして友情などの話題に発展する。

少なくとも学校に通っている時のイノさんは幸せそうだったことは皆が納得する。だがイノさんが幸せか不幸かなんていうのは他人が決めることではなく、イノさん自身で決めることではないか、という結論のようなことになって生徒は夜道を帰っていく。

「幸せとはなにか」を考える その8 暖かい愛情を受けること

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

全般的に次のようなことがボストンでの調査から判明した。ハーヴァード大学卒の者は貧しい環境に育った者よりも長生きし、疾病率も低いことである。おおよそ10歳位の違いがある。貧しかった人の26%は65歳で亡くなり22%が障がい者となった。他方、大卒の人の27%が75歳で亡くなり、14%が障がい者となった。

70歳以上になると人が処することができない外的な要因は健康な生活にとって重要でなくなる。むしろ自分で処することができることを実践することが有用である。50歳前に幸せな結婚生活をおくる者は、健康を保ち、その後の生活を自分で高めることができる。人生の悩みに対応できるか否かで、人生は大きく変わる。

20歳から50歳にかけて、成熟性とか適応能力を身につけるものは、順調に心理的な齢を重ねていくことができる。50歳以前では、幸せな人生をおくる2/3が、そして悲嘆や病気の人の1/10が成熟した防衛機制(defence mechanism)を有していた。

ユーモアの感覚を身につけ、自分と他人に尽くし、自分より若い友達との関係を作り、新しいことを学び、愉快な生活をすることに心掛けるべきである。

他方、未成熟な防衛機制は悲しむべき結果をもたらしがちである。自分の問題に関して、他人を非難しないこと、自分が問題を抱えることを否定してはならないことだ。勝手な推測をすることは、解決するどころか、より大きな問題を抱えることになる。むしろ気を紛らす方策を考えるほうが得策である。

繰り返すが、幸せに年をとりながら健康のうちに過ごすには、個人ができることを心掛けることである。例えば、自分の体重に注意したり、運動を欠かさずしたり、学びを続けたり、禁煙を励行し、適度に酒をたしなむといった習慣である。

アルコール中毒は人生に最も大きな破壊力となる。離婚の原因がそうである。神経症やうつ病はアルコール中毒をもたらす。禁煙行為もそうである。初期の病的状態や死亡の最たる原因ともなっている。

調査の主査であるDr. Vaillantが曰く。最も相関の高いのは、配偶者との暖かい関係と健康・幸せである。この関係に疑問を呈する者もいる。だが、健康を維持するには夫婦の関係が最も重要であると確信を持って言えるというのだ。

調査の結論だが、それはジグムント・フロイド(Sigmund Freud)が喜びそうなことである。すなわち母親からの愛情を受ける子供時代は、成人してからも影響を及ぼすということである。暖かい母親の愛情のもとで育った者は、そうした愛情を受けなかった者よりも職業生活でも成功し収入が多かった。不幸な関係で育った者は、年齢を重ねるうちにそうでなかった者に比べて痴呆になる確率が高かったという。

「幸せとはなにか」を考える その7 「良き人生とは」についての調査

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

ハーヴァード大学で行われた調査の続きである。

「幸せな」人生といっても、個々人がどうしても直面しなければならない要因もある。それは自分が制御できないことである。親の社会的なステータス、家族の絆の度合い、祖先の寿命歴、子供の性格などである。これらはいかようにも抗うことができない。だが、こうした要因はもはや重要ではなくなった。50代になる前の高いコレステロール値も70代になると重要性が下がる。むしろ50代の体の健康や神経衰弱とかうつ状態が、その後の人生に影響する。

調査によると50代の大学卒の人で健康な66名は、教育、飲酒、喫煙、安定した結婚、運動、体重、問題解決力といったことにはあまり関心がなかった。しかし80代になると66名中50名は悲嘆や病気に襲われ、未成熟ながら死んだような状態になっていた。一人として幸せな状態の者はいなかった。

他方、自分で処することのできる要因に向き合ったいた44名の大学卒の中で、25名は幸せで健康であるということが判明した。44名中たった一人が悲嘆や病気の状態であった。恵まれない環境で育った若者もハーヴァード大学卒と同じような傾向を示した。自分で処することができることを実践することが幸せで健康さを維持するのに重要であることを物語っている。

人は、自分のホームドクターと定期的に相談することによって、あるいは自分ができることを心掛けることによって、幸せで豊かに齢を重ねることができることが判明している。齢を重ねるにつれ、こうした「メインテナンス」といった日常の心掛けは遺伝子よりも重要なのである。

Dr. Vaillantはハーヴァード大学での卒業式辞で次のように訴える。
「幸せな人生をおくるには、50歳前で幸せな結婚をし、知恵のある問題解決能力を身につけ、利他的な(altruistic)行動に喜びを感じ、禁煙を励行し、運動を欠かさず、体重を管理する。そして絶えず学び続け、退職後も創造的な生活や新しいことへ挑戦していくことが大事である。」

「幸せとはなにか」を考える その6 「良き人生とは」についての調査

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

ボストン郊外にあるハーヴァード大学(Harvard University)で75年余りをかけた「良き人生とはなにか」に関する研究がある。1930年代に大学にやってきた268名の男子学生とボストンに在住する社会的に恵まれない環境にいた若者332名を被験者とした調査である。その間、戦争があり、職業を得て、結婚や離婚し、子育てをし、孫が生まれて退職し高齢化していった。半数以上が80代となっているそうだ。

いろいろな質問紙や心理検査を受けてもらい、面談によって心身の健康状態を長期的に調査してきた。そのために約20億円の費用をかけたというのである。気が遠くなりそうだ。この調査の主査はDr. George Vaillantというハーヴァード大学の精神病理学者である。

こうした調査にはDr. Vaillantがハーヴァード大学のメンタルヘルスセンター(Mental Health Center)での何人もの精神病患者との出会いがきっかけのようである。この間、人々の健康、疾病、そして死の原因などを調べてきた。Dr. Vaillant調査に携わり次のような言葉を残している。

「豊かに齢を重ねるということは、矛盾語法ではない。年齢を重ねるのではなく、生きることを加えることである。」

50歳に達してからの健康法で、一人ひとりができることに7つのことがある。それが70代、80代へと繋がるというのである。よくいわれる煙草を吸わないこと、適度な運動をすること、適度にお酒ををたしなむこと等々であるという。それらはさておき、Dr. Vaillantは「教育」こそがお金や社会的地位を凌駕し、健康や幸せにむすびつくのだと主張する。

社会的に恵まれない環境にいて、貧困で育ち学力テストも低く、厳しい就労を経験してきた者の中で高等教育を受けた者は、ハーヴァード大学をでた若者と遜色ない健康状態を維持しているということに現れている。

人々が健康を維持するために自らが心掛けることができることは、教育に加えて、前述した適度な飲酒、禁煙、安定した結婚、運動、体重管理、そして問題解決力であるという。

「幸せとはなにか」を考える その5 「Blessed are , , , 」

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

新約聖書、マタイによる福音書5章1節〜12節(Gospel of Matthew)の中には興味ある言葉が登場する。それは「幸い」とか「貧しい」という言葉である。そこから話を進めていきたい。

この箇所は「山上の垂訓」(The Sermon on the Mount)と呼ばれ、キリストが弟子と群衆に教えを伝える場面である。

“Blessed are the poor in spirit,
for theirs is the kingdom of heaven.
Blessed are those who mourn,
for they will be comforted.”

日本語聖書の翻訳は次のようになっている。

心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものだからである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められるからである。

「貧しい」ということだが、基本的には「困窮している」という意味合いである。誰もが富んでいるほうがよいと考える。だがここで使われている”Spirit”というのは心というよりはむしろ「霊」とか「精神」、といった意味としておく。「霊において貧しい」、「霊に関して貧しい」という状態と考えのである。

「貧しい」という単語のギリシャ語(Greek)は「プトーコス」(ptochos)という。辞書で調べると、絶望している(helpless) 、無力な(powerless to accomplish)、貧窮した(destitute)などとある。神の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間の姿、それが貧しい人ということになる。

しかし、喜ぶべきことは、「霊において貧しい者」は救いの対象となるということである。これが”Blessed”という言葉である。「祝福されている」「恵まれている」ということをあらわす。自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いな存在だというのである。それをギリシャ語ではマカリオス(Makarios)といい、「至高の幸い」とか「至福の」(supremely blessed)という意味で使われる。1970年代後半にキプロス共和国大統領で宗教家であったマカリオス大主教という人がいた。

ついでだがヘブル語(Hebrew)ではアシュレイ(ashrei )とか、それが変化したエシェル(esher)が、幸いなるかな、という意味で使われる。詩篇40章4節(Psalm 40:4, 41:1)などで見られる言葉である。

言葉の語源を調べると昔の人の知恵や英知が伝承されていて、今にその意味を問いかけているようだ。

「幸せとはなにか」を考える その4 国民総幸福量

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

1972年頃の話である。ヒマラヤ近くにあるブータン王国(Buhtan)の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク(Jigme Singye Wangchuck)が国民総幸福量(Gross National Happiness, GNH)という考え方を提唱して話題となった。どうしてかというと、これまでのような経済的な指標を用いた国の発展の度合いや国民の生活を、全く別の方向から比較・評価する指標を提案したからである。これは思いも寄らないような見方であった。

「国民全体の幸福度」は、なぜ注目されたか。国の社会全体の経済的生産及び物質主義的な側面での「豊かさ」を数値化したのが、これまでの豊かさの基準であった。国民総生産(Gross National Product, GNP) や国内総生産 (Gross Domestic Product, GDP) は「金額」として計算されてきた。

国民総幸福量という概念は、きわめて数値化しにくい指標である。しかし、それを提唱した人々の英知に感じ入るものがある。なぜならこれまで比較対象するために用いてきた物差しを全く別な目盛りのついた物差しを使ったからだ。

国民総幸福量では、繁栄と幸福が強調されている。だが幸福の方がより大切だとされて宣言している。人間社会の発展とは、物質的な発展と精神的な発展が共存することだという。

だが、この「幸福」とか「幸せ」ということはまだ不確かさに満ちている。それは、個人のものか、共通な資産なのかがはっきりしないからだ。

幸せとはなにか」を考える その3 脳腫瘍と闘う友人

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

友人や家族から送られてくるクリスマスカードやメールでのニュース、そして写真などを見ながら考えることである。それは「幸せとは」とか「生きるとは」ということである。

長男家族からは「今年一年」のアルバムが送られて来た。孫たちの成長する姿が写っている。一緒にスペインはバルセロナを旅した。山深い僧院のMontserratやAntoni GaudiのSagrada Familiaを満喫した。孫娘らとディズニーランドへも一緒に行った。しかし、旅や再会が終わると興奮と寂しさの落差が伝わってくる。夢だったのか、という感慨である。

親しい友人のDr. Carl Selle師からは、脳腫瘍と共に生きるさまが二週間毎に伝えられてくる。留学生への支援と伝道に携わる牧師である。病と向き合う心の動揺と周りの支えに感謝している内容である。無力な存在ながら、医療スタッフや家族の支えによって生かされていることを書いている。一緒にガンと闘う心持ちとなり、こちらが励まされる。

そこで自分の心境にかえるのだが、年金生活をしながら、思い描いていた生活水準が維持できるのかとか、身体の衰えと病、死を予期する精神的な不安などを考えることが多い。年齢を重ねると幸せの度合いが低くなる可能性は理解できる。だが、老年なるほど幸せを感じるのが欧米人だという。30代を底にU字型に幸福度は上がっていくといわれる。不思議である。なぜだろうか。

このような「幸せ」とか「不幸」ということの捉え方の原点はどこにあるのか、それがこのブログの出発点である。

「幸せとはなにか」を考える その2 不幸だと考える社会は、、

Last Updated on 2025年1月2日 by 成田滋

若い世代からみると、高年齢の人の生活水準は高く見えるらしい。一握りの人は、そうかもしれないが大概の高齢者はそんなことはない。友人が飲みながら「あなたは人生の勝ち組だ」といったのが妙にひっかかっている。「どうして?」ときくと、公務員だったので年金がきちんともらえるからだという。公務員といってもピンからキリまである。筆者のように人生を徘徊し遠回りしてきた者の年金額は生活保護費のようなものだ。

調査によると、ある程度の資産を持っている中高年すら幸せを感じられなくなっているようだ。恐らくがむしゃらに働き、もしかしたら趣味を広げるとか、スポーツを楽しむとか、ボランティアをするとか、人脈作りをすることを忘れたせいかもしれない。退職すると特に付き合いというつながりはガクンと減る。中高年が不幸だ、と感じる社会はどこか変だ。

我々はどうしても、周りが豊かで幸せな生活をしているのではないかと感じる。そして「自分は惨めだ」という気分に襲われがちになる。周りの人の生活水準を意識するから不幸感がやってくるのである。クリスマスや正月の時期が最も自殺率が高いのはその現れである。

「幸せ」とか「不幸」ということは一体なにか。物質的な生活とか、友達関係とか、高齢化とか、仕事の安定さとか家族の絆とか、、そうした周りの状況に左右されがちだ、ということは理解できる。だがそれでは本題のテーゼに迫ることが難しいような気がする。