留学の奨め その19 マサチューセッツ州とウィリアムズ大学(Williams College)

Last Updated on 2014年11月29日 by 成田滋

今回も、マサチューセッツ州(Commonwealth of Massachusetts)には有名な私立のリベラルアーツの大学がたくさんあることの続きである。マサチューセッツは教育に力をいれている州であることを伝えたい。このブログが縁で留学するのもいい。教育の質は100%保証する。

マサチューセッツ州の西部、ニューヨーク州近くにウィリアムズ大学(Williams College)がある。この大学は、マサチューセッツ州ウィリアムスタウン(Willamstown)に本部を置く私立大学で、創立は1793年。2014年のUS ニュース・アンド・ワールド・レポート”(US News and World Report)ではリベラルアーツの大学として第1位の評価を受けている。ちなみにヴァージニア州にあるCollege of William & Maryとは別の大学である。こちらの創立はもっと古く1693年となっている。

2012年にウィリアムズ大学に入学した人は志願者の16.7%であり、アイビー・リーグ(Ivy League)レベルの教育を少人数で提供しているといわれる。もともと男子だけの大学であったが、1970年に共学となった。多くの大学評価では入学の最も難しい大学のひとつとされている。学生数はたったの2,077名、授業料と生活費は年間 $48,310となっている。

マサチューセッツ州にはその他に、上智大学と提携する1843年に創立されたイエズス会のホーリークロス大学(College of Holy Cross )、1863創立のマサチューセッツ大学(University of Massachusettes)、ヒラリー・クリントンが卒業した1875年創立のウェルズリー大学(Wellesley College) 、1887年創立のクラーク大学(Clark University)、1888年創立のマウントホリヨーク大学(Mount Holyoke College), などどれも長い伝統を有している。しかも、私立大学としての特色を出している。マサチューセッツ州ほど有名な私立のリベラルアーツの大学があるのは他にはない。

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留学の奨め その18 マサチューセッツ州アムハースト大学(Amherst College)

Last Updated on 2014年11月28日 by 成田滋

米国の大学の学部に留学するときは、リベラルアーツ大学(College of Liberal Arts)を選ぶことを勧める。なぜなら、少人数のきめこまかい指導を受けることができる。基礎学力もつく。綜合大学では孤立感を深める心配がある。望むならプリメッド(pre-medical)という課程の科目を履修し、その後医学部への進学テストであるMedical College Admission Test (MCAT)を受けることもできる。大学院へ行きたいときは総合大学を選べばよい。

今回はリベラルアーツ大学の話題である。マサチューセッツ州(Massachusetts)にはハーヴァード大学(Harvard University)やマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT)など名だたる総合大学に混じって、多くの私立単科大学がある。どれも1700年から1800年代に創立された由緒ある大学である。人々や基督教会は、当時人材の育成が課題で高等教育の大切さを意識していたことがわかる。そこでリベラルアーツ大学がどんな伝統や特徴があるかをマサチューセッツ州にある大学を例に紹介していくことにする。

札幌農学校の初代教頭で「少年よ大志を抱け」の言葉で知られるウイリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)が教鞭をとっていたのがアムハースト大学(Amherst College)である。長男宅から車で1時間のところのアムハースト(Amherst)という田舎町にキャンパスがある。創立は1821年。同志社大学創立者の新島襄や思想家の内村鑑三が学んだところでもある。クラークはやがて、同じくアムハーストにあるマサチューセッツ大学( University of Massachusetts)の第三代学長となる。

アムハースト大学は、「US ニュース・アンド・ワールド・レポート”(US News and World Report)」によれば、アメリカのリベラルアーツ大学としてこれまで10度も第1位の評価を受けている。2014年は、同じくマサチューセッツ州にあるウィリアムズ大学(William College)に続いて第2位となっている。大学の評価は、教官への満足度、教官一人当たりの学生数、一クラスの学生数、卒業率、基金額(endowment)など様々な観点からなされる。2012年度の志願者倍率は12倍となっている。それだけではない。年間の授業料と生活費の合算は$48,526というように極めて高い。クラスの89%は30人以下、クラスの平均は16人、教官と学生の比率は1: 8である。留学生は54カ国からきている。

もう一つ、アムハースト大学がなぜ注目されるかである。私と家族が学んだウィスコンシン大学のマディソン校は、創立が1848年。研究中心の総合大学である。2009年に大学理事会によって多くの候補からマディソン校の学長に選ばれたのがキャロライン・マーティン(Dr. Carolyn “Biddy” Martin)である。しかし彼女は、2011年にアムハースト大学からの招聘を受けて、ウィスコンシン大学を去った。学生数43,000人の総合大学学長を辞して、学生数1,785人リベラルアーツの単科大学へ移るというのは実に珍しいことで話題となった。アムハースト大学がウィスコンシン大学より創立が25年以上も古く、伝統のある魅力的な大学であるかを物語る。

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留学の奨め その17 ThanksgivingとSarah Hale

Last Updated on 2014年11月27日 by 成田滋

筆者の長男の嫁ケイト(Kate)は小学校の教師をしながら童謡を書いている。まだ作品は出版されたことがないようだが、、。かつて彼女から米国の女性作家であるサラ・ヘイル(Sarah J. Hale)のことを聞いたことがある。ケイトはヘイルを私淑しているようである。ヘイルは米国のThanksgivingの歴史では忘れられない女性である。今回はThanksgivingのしめくくりとしてサラ・ヘイルに触れる。

ヘイルは、1800年代に沢山の作品を書いた作家である。その代表作は”Mary Had a Little Lamb”という童謡(nursery rhyme)である。童謡はマザー・グース(Mother Goose)とも呼ばれ、英米を中心に親しまれている童話の総称である。

ヘイルが最初に発表した童話は”A New England Tale”。この作品の主題は奴隷制度を扱ったもので、この作品により最初の女性作家の一人と呼ばれるようになった。”A New England Tale”はニューイングランド(New England)の美徳や伝統を信奉し、国の精神的な富として大事にすることを主張した。しかも、当時いた黒人奴隷をリベリア(Liberia)の地に戻すということも主張し、この作品を一躍有名にしたとされる。

この本の二版の序文の中でヘイルは、奴隷主というのは奴隷の兄弟であり、使える者でもあること、そして博愛の精神が正しいことを求め悪を憎むということ、それを忘れていると警告したのである。奴隷制度がいかに非人道的なものであるか、人の道徳的な成長を阻害していることも書いたのである。

1828年、ある聖職者からの招きでヘイルはボストンに移り、ある雑誌の編集長になる。編集長として、彼女は女性が高等教育の機会に浴する必要性を主張し、教育によって女性一人ひとりが知的で道徳的に成長することを説いた。

前置きが相当長くなったが、ヘイルがThanksgivingにいかに関わったかである。彼女は米国で最初にThanksgivingを国民的祝日として主張した女性である。もともとThanksgivingはニューイングランドでは祝われていた。各州でも10月とか1月に設定されてはいた。彼女は歴代の大統領にThanksgivingの祝日とするように要望する手紙を出していた。そしてようやく1863年にアブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)の支持により国の祝日とする法律が制定されたのである。

Thanksgivingは、南北戦争で疲弊し分断された国を統合する象徴と考えられた。それまでは、国民の祝日だったのはジョージ・ワシントン誕生日と独立記念日だけであった。ヘイルはワシントンD.C.の郊外にあるマウントバーノン(Mount Vernon)にあるワシントン邸と農場を記念館にすることやボストンにあるバンカーヒル記念塔(Bunker Hill Monument)の完成のために多額の寄付金集めに奔走した。作家として、また運動家としての彼女の活躍は米国の歴史に記されている。
HD_haleSJ4c  Sarah J. Hale
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留学の奨め その16 Thanksgivingの晩餐

Last Updated on 2014年11月26日 by 成田滋

留学生がThanksgivingを楽しく過ごすには普段から心掛けておくことがある。例えば大学の寮などで生活しているときは、米国人の学生らと親密になっておくことである。彼らはThanksgivingの週末には親元に帰って過ごす。友達づきあいをしておくと、必ず「一緒に行かないか、、」と誘ってくれる。

もし普通のアパートを借りていても隣近所の人々と仲良くしておくことだ。一緒にパーティをしたりBBQなどの会合には顔を出して会話することを心掛けておくことが大事だ。またキリスト教会などの礼拝に出席していると、必ず声をかけてくれる。自分からも飛び込むことである。求めると与えてくれるのである。毎日、独りぼっちで生活するのはいけない。

Thanksgivingは、人々が最も旅行する時期である。道路も空港も大混雑する。だが市営バスは本数を減らして運行する。学校、官庁、会社、その他の機関も4日間の休みとなる。多くの町や村ではパレードが行われる。子供も大人にも楽しみな行事である。家族や親戚、友人が集まって宴の晩餐を囲む。

料理の中心は七面鳥(turkey)である。そのほか、グランベリーソース(cranberry sauce)、パンプキンパイ(pumpkin pie)、ジャガイモ(potatoes)、スタッフィング(stuffing)、グレービー(gravy)が卓上に並ぶ。マッシュポテトにグレイビーをかけたものはアメリカ料理の定番のようだ。鳥肉料理にも欠かせないソースである。

宴の前には、必ず家の主が感謝の祈りを捧げる。招かれた者は勝手に皿をとって料理に手を伸ばしてはいけない。テレビでは寒さのさなか、フットボールが中継されている。Thanksgivingが終わるとクリスマスの待降節ーアドベント(Advent)が始まる。

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留学の奨め その15 感謝祭と植民地

Last Updated on 2014年11月25日 by 成田滋

Thanksgivingの頃の気候は誠に厳しい。木々の葉はすっかり散り、雪が冷たい風に吹かれて舞う。それだけに家の中の人々の高揚した雰囲気は格別なものがある。祝いの飾り付けも綺麗だ。家の主人はエプロンを着て張り切っている。

マディソンにいた頃、ミルウォーキー(Milwaukee)に住むかつての宣教師ご一家の晩餐に招かれたことがある。インターステート90(Interstate 90: I-90)を車で飛ばした。I-90は、シアトル(Seattle)からボストン(Boston)に至る4,990キロの全米で最も長い州間高速道路である。途中、シカゴ(Chicago)やクリーブランド(Cleveland)、シラキュース(Syracuse)などを通過する。道路際の至るところに「鹿に注意」の看板がでている。

午前中は教会でThanksgivingの礼拝が執り行われる。説教の題となるキーワードは平和、愛、捧げ、喜び、感謝、恵みなどである。例えば詩篇106章の1節では、
「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」
“Give thanks to the Lord, for He is good. His love endures forever.” と読み上げられる。

ボストンの南東にある半島はケープコッド(Cape Cod)と呼ばれる。ヨーロッパからの漁民が鱈を求めてきたところのようである。そこに移民しようとした人々は、砂地で水がないことからケープコッドをあきらめプリマスのあたりに植民地:コロニーをつくったとある。移民の中には干ばつや飢饉により多数の餓死者がでるほど、苦しい生活を強いられたようである。それだけに豊穣な収穫に対する感謝がThanksgivingにつながったといわれる。
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友へ

Last Updated on 2015年11月21日 by 成田滋

今朝、かけがえのない友を亡くした。昭和20年8月6日、広島で被爆した親友であった。そのときは9歳。それから69年間後遺症と闘ってきた。重篤な脊椎前弯症のため、家でも外出のときも毎日酸素吸入器をつけていた。5年前に同じく被爆した御母上を天国に送った。

彼の自宅には毎月一度訪ねるのを楽しみにしてきた。いろいろと語り合ってきた。その都度、被爆の体験や「ノーモアヒバク運動」などを語ってくれた。沢山の写真も見せてくれた。その中に自宅が鮮明に写る原爆投下前と投下後の写真をひろげてくれた。広島平和記念資料館にあったものを特別に複写してもらったのだという。米軍は詳細な地理を把握し、効果的に爆撃するために都市の航空写真を撮っていたのだ。誠におぞましいことである。制空権を失った日本は蹂りんされた。

写真の他に、被災者証明書の原本も見せてくれた。発行は広島市で昭和20年8月10日と刻印されてある。後年、それを資料館に持ち込むとそのコピーを欲しいというので差し上げたそうだ。それが今も資料館に展示されているという。

友人は原爆の絵を描き続けた丸木俊氏とも交友を持ち続けていた。一緒に埼玉県東松山市にある丸木美術館に連れていってもらったことがある。「原爆の図」が収められている。その前に立つと生と死が圧倒的に迫り、くらくらしそうになった。

手元に「ヒロシマ・ノート」がある。岩波新書のなかでも傑作といえる一冊である。1965年に出版された。被爆者や被爆者の治療にあたった医療関係者を取材して刊行されたノンフィクションである。戦後の平和や民主主義とはなにかを問い直している。

だが筆者には、大江健三郎氏以上に畏敬の念を抱いてきた原爆を生きる証し人であった。今、永遠の安らぎがようやく彼に与えられたと納得している。

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留学の奨め その14 感謝祭(Thanksgiving)の由来

Last Updated on 2014年11月24日 by 成田滋

苦しい留学生活にもつかの間の寛げる時がくる。9月に始まった学期に一息つける時である。勉強に相当疲れた頃にやってくるのが留学の奨め その14 感謝祭(Thanksgiving)の由来(感謝祭)の休暇である。11月の最終木曜日。今年は11月27日である。翌日はBlack Friday。大抵の州ではこの週末は4連休となる。

1598年に今のテキサス州(Texas) のエルパソ(El Paso)でThanksgivingが祝われたといわれる。1619年には、ヴァージニア植民地(Virginia Colony)でThanksgivingが執り行われたという記録がある。1621年にはマサチューセッツ(Masachusettes)のプリマス(Plymouth)という港町で収穫に感謝する祝いが開かれた。これが現在のThanksgivingの原型だといわれる。

しかし歴史家には別の主張をする者もいる。1623年の植民地に干ばつが長く続いた。その後に雨が降り、幸い作物を収穫できたことを人々は感謝したという。そして祝いの宴(feast)ではなく感謝の礼拝(worship service)が行われたのが原型だというのである。これもなるほどと頷ける。

11月最終木曜日が国民の祝日となったのは1789年である。そのときの大統領は初代のジョージ・ワシントン(George Washington)。すべての州がThanksgivingを祝日としたのは1863年である。

しかし、国民誰もがThanksgivingを祝うわけではない。1970年以降、一部の先住民族であるネイティブアメリカン(Native American)とその支援者は、この日を「全米哀悼の日」(National Day of Mouring)として抗議の日としている。プリマスにあるプリマスロック(Plymouth Rock)の前で記念式典を開いている。また、この日は「アメリカインディアン遺産記念日(American Indian Heritage Day)」ともされている。伝統文化や言語の遺産を再認識する日としている。プリマスロックの前にある記念碑には「1620年に清教徒団が上陸した場所」と記されている。

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留学の奨め その13 リベラルアーツ教育とサービス・ラーニング

Last Updated on 2014年11月22日 by 成田滋

あまり聞き慣れない用語であるが、「サービス・ラーニング(Service-Learning)」の概念が注目されるようになったのは、1970年代末以降のアメリカである。大学教育が専門性や知識の習得に偏重しているという批判がひろまり、そのような教育では公正な市民社会を築く上では不十分だと指摘されてきた。知識偏重の教育はいつどこでも叩かれる。受験勉強がそうだ。大学は幸いにして学んだことを社会で活かすことができる機会を備えることができる。それが各種の奉仕活動という体験である。

1982年に設立された非営利のサービス機関にInternational Partnership for Service-Learning : IPSLという団体がある。この組織は以来、主として米国の学部生や院生らを発展途上国にて各種の社会奉仕活動に従事させ、住民との交流を通して開発や環境などグローバルな課題や問題意識を学ぶ運動を推進している。 現在は各国の学生も受け入れている。IPSLのサイト(http://www.ipsl.org/)からService-Learningのなんたるかを簡単に紹介することとする。

サービス・ラーニングは「教室で得た知識が果たして社会生活の実践役立つのかどうかを確認する過程」とでもいえよう。インターンシップにも似ているが活字から学んだ概念や理論が実際の現場で果たして役立つのか、そうでなければ現場から学ぶこととはなになのか、、理論がなぜ適用できないのか、などを思考することではないか。それによって自分の知識の理解を再考し深化させながら、再理論化の作業をする。

次に、サービス・ラーニングはボランティア活動とは異なる。いろいろと周りが設定してくれた環境で活動する。期待されていることをやればよい。だが、大事なことは学生の主体性とか自発性を要求するのがサービス・ラーニングとされる。既存のメニュからだけでなく、学生自らが自分の問題意識にそって、コミュニティに分け入り社会に貢献しようとする気概が求められる。

さらにサービス・ラーニングは、経験の振り返り(reflection)のプロセスを強調する。そうした振り返りは、個人の日誌づけの励行とかブログなどで文字化してもよいし、グループでの討論によって経験を分かち合うことからも生まれる。振り返りは経験知をとおして既存の知識の修正にもつながり、やがて個人の成長に大きく貢献する。

リベラルアーツ教育の神髄とはこうした活字化と実践化の統合にあるように思える。そこからグローバルな視野を広げたり持続的な平和活動への関心が高まることにつながるようにも思える。

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留学の奨め その12 リベラルアーツ教育とボランティア活動の限界

Last Updated on 2014年11月21日 by 成田滋

最近の大学におけるリベラルアーツ大学のカリキュラムをみていると、バイリンガルな人材の養成、留学体験による他文化理解、そしてグローバルな資質の養成などなっている。そのために、他文化理解科目の設置や英語による授業、留学生との交流、留学の推進などを掲げている。一体そんな環境で国際的に活躍できる人材が育つのか? 全く「アカン」といいたい。

筆者は、留学とは学位を獲得することと定義している。英語研修とかホームステイによる異文化体験ということではない。ところが多くの大学が学生を仲介するのは、一週間とか二週間の英語研修である。そのため保護者も我が子のために数十万円の出費を強いられる。学生といえば、全くの海外旅行気分である。事前研修というのがある。小遣いはいくら位とか、パスポートの期限は大丈夫か、英語会話の練習とか、ホームステイの心構えとか、、、アホらしくなる。

最近は語学研修からボランティア体験が脚光を浴びているようだ。大学側もその準備のために相当な努力を強いられている。まずは、ボランティアを受け入れてくれるパートナー機関を探すことから始まる。機関は大学であったり現地のNPO法人であったり、政府関連機関であったりする。ボランティア体験は、主として現地での活動の観察や交流、各種の体験、話し合いなどとなる。

しかし、ボランティア体験だけではグローバルな人材を育てることには限界があることが、ようやく認識されてきた。それはボランティア活動の計画がすべて機関間で周到にお膳立てされ、学生の側の声やニーズが届いていなかったことである。受け身の姿勢からは学ぶことの果実は少ない。そこから「サービス・ラーニング(Service Learning)」という新しい発想が生まれてきた。

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留学の奨め その11 リベラルアーツ教育と国際系学部の新設

Last Updated on 2014年11月20日 by 成田滋

リベラルアーツを標榜する大学が日本でも増えているようだ。特に「国際リベラルアーツ」を掲げる学部の新設が相次いでいる。こうした学部のカリキュラムを国際系リベラルアーツと呼ぶのだそうだ。だがリベラルアーツの雄は国際基督教大学(ICU)。1949年に創立され、「国際的社会人としての教養をもって、神と人とに奉仕する有為の人材を養成し、恒久平和の確立に資することを目的とする」とある。戦後間もなくのことである。

かつて筆者も北海道大学の教養部で1年半を過ごした。東京大学にも教養学部があった。リベラルアーツ教育が重視されていた。だが、教養部の勉強は高校の延長のようなところもあった。目新しいことといえば、ドイツ語とフランス語のいづれかが必須であったことだ。それから哲学入門とか人生論ノートなどの本がたっぷり読めた。今思えば、筆者も海外での学びに至ったのは、この教養部時代からなんらかの影響を受けたといえる。

国際リベラルアーツのカリキュラムであるが、原則英語での授業、国際教養科目の充実などを強調している。また外国人留学生との交流とか留学を義務付けるというのもある。これといって珍しいことではない。国際系学部は私立だけでない。長崎大学が新設を検討している人文・社会科学系学部の概要だが、世界の政治や経済、文化を学べるコースを用意し、国際的に活躍できる人材を育てる拠点にするのだそうだ。

なぜこのような様相になってきているかである。それは国の指針「グローバル人材育成戦略」があり、大学はそれに沿って学部を新設しようとしている。我が国を取り巻くグローバル化は急速に進展しているといっても、1990年後半からの海外留学生数の減少、海外勤務を希望しない内向きの学生の増加が報告されてきた。そのため、政府もこのような状況を危惧し「グローバル人材育成推進会議 審議まとめ」を発表した。「高校・大学、企業、政府・行政、保護者等が積極的に若い世代を後押しする環境を社会全体で生み出すことが不可欠」と提言している。これが文部科学省の「スーパーグローバル大学創成支援事業」につながっている。

最近の報道では、大阪や山梨の私立大も「外国語・国際系学部」(仮称)をつくろうとしているそうだ。だが国際系学部は過当競争に陥りつつある。筆者には大学間の差別化が難しくなっているように思える。学生募集に奔走している姿が映る。大学が新しい学部をつくりグローバル化の牽引役になろとしても、そうたやすくことが運ぶものではないはずである。

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留学の奨め その10 米国大学への留学生の増加

Last Updated on 2014年11月19日 by 成田滋

米国のシンクタンク(think tank)、国際教育研究所(Institute of International Education: IIE)が発表した2013〜14年度の米国の大学や大学院への留学生の統計は興味深い。国際教育研究所はフルブライト財団の支援によるFulbright Programを主宰したり、国内外の留学生を支援する、いわば米国における国際交流教育推進の旗艦組織である。

この統計によると前年度と比較して8.1%増の約88万6千人で、留学生の総数は1,107万5千人であるという。米国は留学生で支えられているといってよいほどの数字である。率直にいって米国の大学への留学はやはり高い人気があるという印象である。

国別の留学生の数だが、第1位は5年連続して中国人で、27万4千人とあり、これは前年の16.5%の伸びで留学生全体の31%を占めた。第二位はインドで10万3千人の6.1%の伸び、第三位は韓国となっている。日本からは1万9千人。前年度より6.2%減っている。この減少は9年連続して続いている。1990年後半の留学生のピークだった頃と較べで半減してしまったといわれる。

留学生の増加の伸びでいえば、最高はサウジアラビアからの留学生の伸びが21%で5万4千人となっている。ブラジル、クエートからの留学生も大幅に増えている。この理由は国費留学生の増加であるという。

米国の大学で留学生が増加する第一の理由は、優れた高等教育を受けられる環境があるからである。留学中に学位を取得すれば、自国に帰ったときその身分が優遇され、地位や高所得が約束されている場合が多い。今も留学は大きなステイタスとなっている。

第二は派遣先の国内で、高等教育機関を十分な早さで作れないなど、人材養成が追いつかず、そのために留学生が増えているという状況である。若者の向学心を満たす教育や研究環境が不十分ということだろう。

第三は米国は伝統的に留学生の出身国がどこであれ歓迎するという姿勢をとっていることである。中国やインドだけでなく、キューバやイラン、ベネズエラからもたくさんの留学生を迎え入れている。しかも留学生の授業料は高い。大学にとっては大事な収入源ともなっている。

米国との外交関係が緊迫した状態にある国からも米国には留学生が押し寄せている。国際間の緊張が続くとはいえ、留学生を受け入れる体制、例えば人権の尊重、政教の分離、安全が整っているからだと考えられる。

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留学の奨め その9 研究者の仕事探しと異動

Last Updated on 2014年11月18日 by 成田滋

今回はアメリカの研究者の異動に関する話題である。若手の研究者とって、大学での仕事探しはどこも大変なものである。 彼らは業績やキャリアが不足しているので、誰もが通過しなければならない難関である。大学におけるポストの空きの広告がでると、自分の研究分野をにらみながら応募することになる。

はじめは、自分の研究業績のレジュメ(resume)を大学に送る。研究業績にはポスドクの経歴も入る。この書類審査を通過すると大学での人事選考委員会に招かれる。この時の旅費は招く側が負担する。ここが日本と違うところだ。首尾良くポジッションを得るしても、大抵は3年の雇用契約である。ここから終身雇用身分であるエニュア(tenure)への途が始まる。雇用契約が切れ更新がないとまた仕事探しである。まるで渡り鳥のように転々とする。その間業績を増やしていく。米国にもコネ(old boy connection)が働く。

もう一つは、大学が特定の研究者に招聘状を出す場合である。招聘する側からの一本釣りである。こうした研究者は研究業績にすぐれ、名が知れた人達である。引き抜く方の大学はその研究者の収入などを事前に調べ、それ以上の条件を提示する。例えば1.5倍の給料をだすとか、という具合である。指名された研究者は、提示された待遇、大学の所在地の環境、同僚となるスタッフの研究状況などを調べ自分の研究にプラスになるかなどを考慮する。

このとき、研究者は自分の上司や学部長などに「他大学から1.5倍の給料でオファーがきているが、もし大学が今の給料を上げてくれれば残るが、、、、」と交渉するのである。学部長が「お前に残って欲しい。給料を上げよう」といえば、他大学からのオファーを断る。「予算がないので、給料を上げるわけにはいかない」といえば、移ることになる。このように交渉が可能なのが面白いところだ。また学部長も予算やスタッフの給料を決める裁量を持っているのも驚く。

総じて米国の大学における研究者の給与は高いが、雇用契約や安定度に関しては研究職は日本よりも厳しい市場である。

tenuretrackstructure_new tenure_cartoon  “一つの扉はテニュア、もう一つはマクドナルド行きの扉だ”

留学の奨め その8 学長選び

Last Updated on 2014年11月17日 by 成田滋

アメリカの大学ではいろいろなことが話題となる。学長(President or Chancellor)の発言が報道されることが多い。フットボールコーチのほうが学長より年俸が高いとか、リーダーシップが強過ぎるといったことも取り上げられる。特に学長選びは新聞紙上を賑わせる。大学運営で最も大事なことだからだ。

学長を選ぶのは大学の理事会(Board of Regents)である。学内での学長選挙などない。どんなに高名な教授でも学長にはなれない。理事会は候補者をいろいろな基準をあてて、全米から探す。そしてねらいを付けた数名の候補者を大学に招いてヒアリングをやる。ヒアリングは公開される場合もある。ヒアリングの後はパーティまで開いて候補者と理事、参加者が懇談するというあっけらかんさもある。

学長は研究者から選ばれる。研究業績、政府とのパイプ、学会活動、研究費の獲得などが選考の基準となる。そして、大学運営にかかわってきた経歴も重視される。ノーベル賞受賞が学長に選ばれるなどとはきいたことがない。ほとんどの場合彼らは大学運営では全くの素人である。

かつて兵庫の小さな大学で働いていたとき、3年ごとの学長選挙を経験した。以前は、教授に投票権があってそれ以外の教員は傍観する有様であった。選挙が公示されると立候補者の推薦陣営が水面下で運動をやる。陣営の活動は、出身大学を出たものが仲間を誘い込むというものである。筆者は、こうした地元の大学出身ではない、いわば地盤も看板もないアウトサイダーのような存在であった。それゆえ、立候補者の陣営から盛んに電話がかかってきた。

そして投票日。立会人は候補者の側から選ばれる。彼等は投票行動をじっと見つめる。筆者のような「無党派層」は特に注目される。「成田」というのと「朝野」というのが学長に立候補しているとする。記名するときは、後者のほうが時間がかかる。立会人はそれを見て、「誰それは誰に票を投じた」とわかるそうだ。まるで田舎の町長や村長選挙のようである。実にくだらない話しだが、こんな学長選びが10数年前まで行われていた。蛸壺の中のような大学運営であった。今は、理事会が実質的に決める。欧米にならった学長選びだ。

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North Carolina State University Chancellor, Randy Woodson

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University of Wisconsin Chancellor, Rebecca Blank

留学の奨め その7 Intermission 週末の学生生活

Last Updated on 2014年11月15日 by 成田滋

留学生の米国生活のことは、別に目新しいことではない。だが苦学した筆者には普段の院生の日課とはかけ離れた毎日だった。それは家族を抱えてアルバイトに専念しなければならなかったからだ。授業のない土日は家族を支える金子の稼ぎ時だった。

大学は日曜日の午後から始まる。週末をのんびりすごしたり、フットボールで浮かれた学生はぞくぞくと図書館にやってくる。アメリカの学部だが、授業に休講はない。基本的に詰め込みの連続である。大教室でも私語はない。出欠とりもない。だが教室は学生で一杯だ。試験が2回、そして小論文が一つ課されるのが普通である。そのために勉強は大変である。大学院も然り。授業時間は1日平均すると3時間程度、留学生であればその前に与えられるアサインメントのための予習、そして復習をこなすのに5、6時間はかかる。

学期は二期制。9月〜12月と1月〜5月である。学期の末には卒業式がある。それぞれ16週間の学期は各々独立していて異なる科目を履修する。7〜8週間ごとに中間と期末テストがあり、加えてそれぞれの科目について10枚くらいの小論文を提出しなければならない。だから金曜日になると、ヤレヤレという気持ちになる。この緊張のとけた空気のことを “TGIF(Thank God, it’s Friday)” と呼ぶ。”神様、ありがとう。ようやく金曜日が来ました ” という雰囲気である。金曜日の午後は授業はない。午後4時頃になると構内は閑散となる。学生はつかの間の羽目を外す時間がくる。

1学期、16週間という速いペースに馴れると、学生生活を楽しむことができるようになる。

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留学の奨め その6 図書館司書の優秀さ

Last Updated on 2014年11月14日 by 成田滋

筆者は北海道大学と立教大学で学び、その後はウィスコンシン大学で学位をとり、国立特殊教育総合研究所と兵庫教育大学で仕事をした。だが日本の大学の図書館で世話になったことは全くない。なんでも自分で検索などの作業をしなければならなかったからだ。有能な図書館司書(librarian)がいなかったということだ。

今回の話題は図書館司書の専門性と養成についてである。振り返ると日米の大学の違いは、大袈裟にいえば図書館の置かれている地位と図書館司書の専門性、そして図書館学(library of science)の認識にあるのではないかと考える。

ウィスコンシン大学では、オリエンテーションで図書館の利用方法を教えてもらった。そのお陰で専門職である司書にひとかたならぬお世話になった。そしてその専門性には驚いたものである。実に良く訓練されている。もっとも、司書は最低の条件として図書館学の修士号を有している。

我が国とアメリカの司書養成の仕組みや内容を調べると、そこに大きな違いがあることがわかる。まず、我が国では司書となる資格は図書館法に規定する公共図書館の専門職員となるためとなっている。しかし、公共図書館の大部分では、司書の資格を取得した者を正職員として採用する人事制度がない。事務職員としての採用制度だからである。公立、私立の小中高校に司書はいないのというのは誠に貧弱な体制だ。

我が国では、司書資格の取得方法は二つある。大学の正規の教育課程の一部として設置されている司書課程と夏季に大学で集中して行われる司書講習がある。大学の司書課程はそのための全国統一的なカリキュラムが、図書館法の制定以来、現在に至るまで作成されていない。専門性に必要な科目の単位数が少なく、司書講習に相当する科目の単位の認定を受けて、大学を卒業すれば司書資格を取得できてしまう。

次に司書講習である。本来現職の図書館職員向けのものとされているため単位認定が甘く、「暇と講習料さえあれば取得できる資格」といわれるほど講習内容が貧相でおざなりな講習会といわれる。我が国の司書に関する根本的な課題とは。それは司書の専門性と役割を重視しない風土、そして図書館学の未熟さである。ところで心配になったのだが、公立図書館や大学に司書の資格を持った者がいるのだろうか。

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留学の奨め その5 図書館の利用

Last Updated on 2014年11月13日 by 成田滋

アメリカの大学の特徴はいろいろとある。その一つは図書館サービスの充実である。図書館の利用は留学生には力強い味方となる。多くのアメリカの大学図書館は学外者に対しても広く門戸を開放している。自分がウィスコンシン大学に行っても、理由を説明しパスポートを見せると入館証を発行してくれる。図書館の開館時間は大学によって異なる。閉館は21〜22時というところが多い。試験期間中は通常24時間開いている。

私立のボストン大学(Boston University)は市中心部にあるので、地下鉄などを利用して家賃の安いアパートから通学する学生が多い。そうしたこともあって、この大学の図書館は地下鉄の終電に合わせて午前2時閉館となっている。地下鉄沿線に住んでいる学生は2時近くまで安心して勉強できる。ボストンの郊外、ケンブリッジ(Cambridge)にあるハーバード大学は、徒歩圏内に大学寮や学生向けのアパートがあるので、そこにいる人は深夜でも安心して図書館を使うことができる。人文社会科学の図書館であるLamont Libraryは24時間開いている。

もし図書館が24時間開館というのであれば、利用者はいつでも帰れるというのが開館の大きな前提となる。日本の大学で24時間開館という例は京都大学の一部を除き、きいたことがない。恐らく京大近辺は徒歩圏内に学生寮やアパートがたくさんあって、夜中でも人通りがあるという恵まれた条件があるからではないだろうか。

アメリカにおける大学図書館の地域住民への開放を促す歴史は古い。税金で賄われている大学図書館がその門戸を開くのは当然だという観念がある。大学図書館の地域開放は善意や地域社会との良好な関係を築くためではなく、行わなければならない義務であるという主張が高まったのである。だが人口の増加により公共図書館は、地域住民に対するサービスが不十分になってきたこともある。高等教育への関心が高まり、新しい大学が次々に設立され、その教育をサポートするだけの十分な資料がなかったことなどから、大学図書館はその専門的な情報の保存と発信基地として地域に貢献してきたのである。

図書館の開放によって大学は地域社会と良好な関係を作り上げてきた。それに至るまで、長年にわたって大学図書館の地域開放の長所や課題が議論されてきた。そうした歴史を踏まえ、アメリカの大学図書館の多くは開放という姿勢をとり続けている。個々の大学の発展だけではなく、アメリカ全体の教育や研究水準の発展を志向するからだろうと考えられる。

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留学の奨め その4 入学審査

Last Updated on 2014年11月12日 by 成田滋

外国の大学にどのようにして入学するか。今回はアメリカの大学に限定してみる。学部も大学院も共通した手続きとなる。大学の入学係のサイトをみると、留学生向けの出願規定がでている。まずは入学試験というのはない。外国人学生は高校の成績証明書、英語力検定試験のTOEFLの結果の提出を求められるはずである。ウィスコンシン大学マディソン校(University of Wisconsin-Madison)では、その他に担任教師やスクールカウンセラーからの推薦状をつけるようにとある。こうした書類によって審査される。アメリカの学生は、SAT(Scholastic Assessment Test)という大学進学適性試験を事前に受けてその結果を提出する。

TOEFLの得点だが、学部一年に入るためには、ペーパーテストでは580ー620点、Web上での得点は95-105点が必要とある。もしこの通過点に達していなければさらに勉強して試験を受け直す。大学によっては留学生にはSATかACT(American College Test)が要求される。

IELTS(International English Language Testing System)も権威ある英語力検定試験である。アメリカ国内の3,000以上の大学や機関はIELTSを公式に認めている。IELTSで8.0-7.0をとっていれば入学を許可してくれるはずである。

大学の中には自分の簡単な履歴(resume)の提出を要求するところもある。この履歴には、自分の得意な科目、スポーツ、特技、課外活動、ボランティア活動、表彰歴、海外留学経験、リーダーシップの経験などを正確な英語で書くことが大事だ。このリーダーシップは特に審査員の目にとまるはずである。

エッセイ(小論文)の内容には創造性や独創性が要求される。しかも書いた内容の洞察力の鋭さや質の高さが求められる。推薦状においても学力、才能、人格、素養、課外活動のすべてにおいて秀でた個性が映し出され、できれば格調高い英語で表現されていれば万全である。エッセイは、英語学などで修士号を有し修辞に詳しいネイティブに点検してもらうことを勧める。そこらのALTではいけない。

大学には預金残高証明(Financial Verifiation)を提出することを義務づけているのもある。前回述べたように、大学で学ぶ資金がないと受け入れてくれない。はじめから奨学金を当てにして「行けばなんとかなるだろう」という考えは論外である。アメリカは高学歴が幅をきかす社会なので、ハイリターンには高額の投資が必要である。授業料はアメリカでも高騰してきている。貧しい家庭の子弟には苦しい状況である。

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北海道とスコットランド その24  スコットランド、イングランド、日本

Last Updated on 2014年11月7日 by 成田滋

朝ドラ「マッサン」はまだまだ続くが、この「北海道とスコットランド」シリーズはこの稿で終わりとする。

筆者も、誠に細いつながりがスコットランドやイングランドとにある。数少ない友や知人を通して学校を視察したこと、障がい児教育の現場を見せてもらったことも忘れられない。ヨーロッパの歴史を表層的に学んだこと、特に幕末から明治にかけてのスコットランド人の日本での活躍、日露戦争前後の日本とイギリスの関わりは記憶に残る知識だ。それとルターと宗教改革がスコットランドに与えた影響、改革の意義を説教や勉強会で教えられたことも心の糧となっている。

東大出版会の「日英交流史」は興味深い本である。幕末から維新、その後の日本の歴史において国家や社会の形成に最も影響を与えたのはイギリスだ、という主題で貫かれている。弱小国日本はイギリスとの交流なしに帝国海軍の近代化もあり得なかったし、日露戦争も戦えなかったほどである。その後の日本の国際社会への進出もなかったはずである。

▼司馬遼太郎は「坂の上の雲」で次のように書いている。
「まことに小さき国が開化期を迎えようとしている」
「勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊を迎える作戦をたて、これを実施して撃破した」

イギリスは立憲君主制をしき、日本も天皇を頂点としながらも議院内閣制といった統治機構を有していた。日本は昭和の半ばまで議会選挙によって、まがりなりにも政党政治が行われていた。

イギリスはアフリカや中東、アジアに進出し、植民地を拡大していく。同時にインドへのロシアの進出を恐れていた。ロシアは清国政府を応援し、イギリスのアジアでの力を削ごうとしてきた。阿片商いの主導権争いでもあった。こうしてイギリスは長年ロシアと確執を続けてきた。日本もこうしたイギリスの動向から、その外交戦略を学んでいった。後の朝鮮や中国やインドシナへの進出もイギリス流の植民地主義の表れであろう。1902年の日英同盟はその結果といえるほどイギリスへの依存は高まる。

1921年には日英米仏の四カ国条約により日英同盟が廃止される。同年、皇太子裕仁親王のイギリスは訪問、続いて皇太子エドワードの訪日となる。1930年にロンドン海軍軍縮会議が開かれ、その結果を巡り海軍内部の対立と統帥権干犯問題が起きる。1937年の盧溝橋事件とともに日中戦争が激化し日本とイギリス、アメリカとの対立が決定的になる。イギリスとの不幸な時代が1945年まで続く。太平洋戦争の敗北は、単なる外交の失敗だけではないだろう。歴史や文化を学ぶことが欠けていたのではないか、科学技術の違いを認識できていなかったのではないかとも思うのである。

時代を経て1980年代には、首相マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)の政策である「小さな政府」による電話、ガス、空港、航空、水道等の国有企業の民営化や規制緩和などの大胆な改革が日本に影響を与えた。そうした政策から我が国でも国鉄、通信、専売の3事業の民営化が断行される。

イギリスと日本にはいろいろな共通点がある。地理的な特徴だけでなく、行動面での特徴、たとえばマナーの重視、感情表現のつつましやかさなどである。科学技術への取り組みにも熱心である。日本人は幾多のスコットランド人医師、技術者、宣教師、教育者によって薫陶を受け国を発展させてきた。これからも両国の人々の交流が続くことを期待したい。

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北海道とスコットランド その23  スコットランド宗教改革の先駆者パトリック・ハミルトンとジョン・ノックス

Last Updated on 2014年11月6日 by 成田滋

「岩波キリスト教辞典」によるとスコットランドの宗教改革はパトリック・ハミルトン(Patrick Hamilton)を始めとして、本格的な宗教改革が進められたとある。しかし、ハミルトンは異端視されて処刑される。後にジョージ・ウィシャート(George Wishart)も宗教改革を実践し、カルヴァン(Jean Calvin)とフルドック・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli)の信仰をスコットランドに広めたが、彼もハミルトン同様に1546年に処刑される。

既に述べてきたが、ウィシャートの弟子であったジョン・ノックス(John Knox)らにより長老派教会が形成され、スコットランド教会の宗教改革が進められた。ノックスは、スコットランドにおける教会はローマ教皇と決別し、カルヴァン派の信仰告白を採用すべきとした。スコットランド信条(Scottish Confession)は1560年にスコットランド全議会に提案され、神の誤りない御言葉に基づく教理として全議会の公開の投票によって批准される。この結果、カトリックのミサは非合法化され、改革派の教会が建ち上げられた。

スコットランド信条は、使徒信条(Apostles’ Creed)の構成順に25条からなる。使徒信条とは、信条が使徒たちの忠実な信仰のまとめとみなされていることによる。プロテスタント教会では、この信条は三位一体の信仰を強調しており、礼拝において唱えられている。

ドイツから始まりやがてヨーロッパ全体にひろがった宗教改革という運動は、カトリック教会の「堕落」に対する改革という側面がある。と同時に、ローマカトリック教会の呪縛や支配から訣別し、信徒の立場から聖書に基づく信仰を確立しようとしたノックスらの考え方と、それに共鳴した者たちによって新たな教会を設立しようとする運動でもあった。

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      Patrick Hamilton

北海道とスコットランド その22  宗教改革の聖書的根拠

Last Updated on 2014年11月5日 by 成田滋

前回、ルターが主張した信仰義認、すなわち人が救われるのは、その人の功徳でも免罪符でもなく信仰であり、その信仰の基盤は聖書にあるということに触れた。スコットランドの長老派教会もそれを受け継ぎ、現在の教会制度を維持している。

さて、この信仰義認はなかなか手強い思想である。それは、人は思いと言葉と行いとによって存在するものであり、自由な意志を授かっているからである。だが、生まれながらにしてその意志は薄弱なのである。なんとかして善行をして義とされたい、罪をおかさないようにしたい。こうした葛藤を抱え続けながら生きなければならない。

ルターは聖職者として、また神学者として同じような精神の苦しみ経てきた。それは、自分がいかなる行為によってこうした状態を克服できるかを模索する苦しみであったようである。しかし、彼はそうした葛藤が己の行為によって解決できるということをいわば諦めるのである。そして、罪深い人間の救いが聖書の教えのなかにあることにたどり着く。こうした結論を次のような聖書の解釈から導くのである。

第一は、エペソ人への手紙(Letter to the Ephesians)2章8節-9節である。そこには次のようにある。
▼「あなたがたの救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるものではない。」

第二は、ローマ人への手紙(Letter to the Romans)1章17節である。
▼「神の義はその福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」

人間は善行でなく、信仰によってのみ (sola fide) 義とされること、すなわち人間を正しいものであるとするのは、すべて神の恵みであるという理解に達し、徹底的に聖書の教えの原点にかえることを説くのである。

このような信条はローマカトリック教会からは、教会の権威を失墜させるまやかしの神学であると断定され、ルターは異端者として破門される。そして1521年にヴォルムス帝国議会(Diet of Worms)にルターが召喚され尋問が始まる。

尋問の場面について、Wikipediaには次のようにある。「ルターは自分の著作が並べられた机の前に立った。ルターはまず、それらの著作が自らの手によるものかどうかを尋ねられ、次にそこで述べられていることを撤回するかどうか尋ねられた。ルターは自説の撤回を拒絶する。”聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。自分は聖書に則る。それ以上のことはできない。神よ、助け給え”(“Here I stand. I can do no other.”)」

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北海道とスコットランド その21  宗教改革とマルチン・ルター

Last Updated on 2014年11月4日 by 成田滋

ルターは、罪の赦しが教会の権威によってなされること、そのために免罪符を買い求めることで救われるということに大いなる疑義を呈する。ルターはそれを質問状としてヴィッテンベルク(Wittenberg)城教会門に貼ったのが「95か条の論題(意見書)(The Ninety-Five Theses)」である。1517年のことである。これが宗教改革の発端とされている。この意見書とはカトリック教会への連判状のことであった。

免罪符を求めることによって罪は果たしてあがなわれるのか? ルターはそれに対して、人が救われるのは、その人の功徳でも業でも免罪符でもなく信仰によるのだ、と主張する。少し難しい言葉ではあるが、信仰義認(Justification by faith)である。そして信仰の基礎は聖書にあると説くのである。ローマカトリック教会は教皇を頂点とし、選ばれた司祭によって組織されていた。それに対してルターは、教会制度とは万人が司祭である共同体であるべきだ、という革命的な提言をするのである。

ルターは、いかなる信仰の問題に関して疑問を投げかけたかである。それは一言でいえば人間の罪からの救いはいかにして可能であるかということである。それには次の五つの信条にのみ(solas)あると主張する。▼第一は、「聖書によってのみ、 Sola Scriptura (by Scripture only)」、▼次に「恩寵によってのみ、Sola gratia(by grace only)」、▼さらに「信仰によってのみ、Sola fide(by faith only)」、▼「キリストによってのみ。 Solus Christus(by Christ only)」、▼そして最後に「神の栄光によってのみ、 Soli Deo gloria(by God glory only)」という宣言であった。このように、教会の権威や威光ではなく、徹底的に聖書の教えという原点に立ち返ることをルターは主張したのである。

カトリック教会は長い伝統と権威を有する教会であるが故に、こうしたルターの提言は異端であると断罪し弾圧を加え、血なまぐさい宗教闘争が始まるのである。

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北海道とスコットランド その20  宗教改革と免罪符

Last Updated on 2014年11月3日 by 成田滋

外国を知るには、伝統や文化を形成した宗教の影響を考えるのが大事だとかねがね考えている。スコットランドも長い宗教の歴史がある。特に宗教改革(Reformation)が及ぼした運動がその後の国作りに反映していることが分かる。

宗教改革といっても一口で語るのは難しい。Encyclopædia Britannicaによれば、ローマカトリック教会の様々な縛りや制度に対する抵抗としてとらえるのが一般的である。抵抗の槍玉になったのが「免罪符」(indulgence)である。免罪符は、16世紀、カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書のことである。免罪符は罪の赦しを与えるとか、責めや罪を免れるものや行為そのものを指すこともある。

元来、キリスト教では洗礼を受けた後に犯した罪は、告解によって赦されるとされていた。一般に、課せられる「罪の償い」は重いものであった。ところが、中世以降、カトリック教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという発想が生まれてくる。これが「贖罪」、いわば罪滅ぼしである。免罪符によって罪の償いが軽減されるというのは、「人間が善行や業によって義となる」という発想そのものであった。

前稿でも触れたことだが、教会の免罪符による赦免という世俗的な行為とその権威の失墜などに対して、改革の機運が生まれる。罪ある人間はいかに救われるのかという根源的な問いが広まる。それを世界に訴えたのが聖アウグスティン(St. Augustine)修道会の聖職者であり神学者であったマルチン・ルター(Martin Luther)である。

宗教改革という運動は、普遍的な教会とされたカトリック教会から訣別しプロテスタント教会(Protestant Church)という信徒の集まりをつくることになっていく。この改革運動から新しい教会が生まれただけでなく、既存のカトリック教会にも大きな影響を与え、その余波はヨーロッパ文化や思想にも及んでいく。

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北海道とスコットランド その19 スコットランド人の宗教 その2 John KnoxとJames Hepburn

Last Updated on 2014年11月2日 by 成田滋

スコットランド信条では、信徒や会衆がキリストの教えを伝える使命があるとし、誰もがあまねく祭司であるという立場をとる。万人祭司ということである。そこから会衆から選ばれたもの、長老による合議によって教会を運営する教会制度を取り入れるのである。こうした教会制度の理論的な指導者が前稿で紹介したノックス(John Knox)であった。

スコットランド信条であるが、神学的にはカルヴァン主義であるといわれる。Wikipediaでは、「すべての上にある神の主権を強調し、それに依ってキリスト者は実践する」とある。カルヴァン主義とはローマカトリック教会を改革し、新しい教会を樹立するという神学である。改革派教会とか長老派教会の思想的基盤である。カルヴァンは「聖書のみ」ということを強調したのに対し、ルターは「信仰のみ」ということを強調した。だが、互いに相反する教義ではなく聖書解釈の違いであり、二人の宗教改革の精神は共通していた。

やがて日本に最初の長老派の教会ができる。1877年に横浜に設立された日本基督一致教会である。その後、伝道者であり神学者であった植村正久が指導者として教会を発展させていく。米国長老派教会系医療伝道宣教師で医師であったジェームス・ヘップバーン(James Hepburn)も教会の発展に大きな貢献をする。ヘップバーンの祖先はスコットランドから北アイルランドへ移ったスコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)である。しかし、ヘップバーンは日本人向けに「ヘボン」という名前を使った。そのために日本ではヘボンが広く知られている。ヘボンは英学塾「ヘボン塾」をつくり、それが明治学院大学へと発展していく。横浜のフェリス女学院大学もヘボン夫人が開いた家塾から始まった。興味深いことに、ヘボン式ローマ字の創始者としても知られている。

医師でもあったヘボンは横浜で医療活動を行った。横浜近代医療の歴史はこの活動に始まる。その功績を残すために、横浜市金沢区にある市立大学医学科講義棟の多目的ホールは、ヘボンホールと名付けられている。
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