北海道とスコットランド その18 スコットランド人の宗教 その1 長老派教会と宗教改革

Last Updated on 2014年11月2日 by 成田滋

仏教にいろいろな派があるように、キリスト教にもさまざまな教派(synod)がある。教派とは集まり(assembly)とか集会(meeting)という意味である。誰が教義をどこで広く宣布したかによっていくつもの組織ができた。そのため教派によって教義や強調点が違う。ルーテル教会、改革派教会、バプテスト教会、聖公会など微妙に教義や典礼が違う。

スコットランドの教会は伝統的に長老派教会(Presbyterian Church)である。長老派教会は新教の一つ、カトリックと相対する一派である。聖職者と信徒の代表である長老とが共同で教会を運営する仕組みである。長老は会衆によって選ばれた教会役員といってもよい。この制度は、各教区や各地の教会の代表が地域ごと、地方ごと、そして国全体で集まりその合議によって自律的に教会を運営していくというものである。長老とは年寄りのことではない。

本日10月31日は宗教改革記念日といわれる。神学者でもない自分だが、学んできた宗教改革の歴史を語ると長くなる。要は、それまで長い間、世界の政治と宗教を支配していたローマカトリック教会やローマ教皇が伝統的に保持してきた神学に異議を唱え、そこから新しい教会運動が起こった日である。その中心はマルチン・ルター(Martin Luther)であり、ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)である。スコットランド人の信仰はこの宗教改革に依るところ大きい。

スコットランドの宗教改革に最も貢献したのはジョン・ノックス(John Knox)といわれる。1560年にスコットランド議会は、それまでのカトリック教会とそれを支える法を無効とし、カルヴァン主義(Calvinism)を基調とする信仰告白であるスコットランド信条(Scottish Confession)を採択した。スコットランドの信仰告白とは、キリストが唯一の教会の頭であり、「信仰義認」、そして万人祭司というものである。善行によって神は人を義とするというのではなく、信仰によってのみ人は義とされるというのが信仰義認である。

Luther Martin Luther

john-calvin  Jean Cavin

北海道とスコットランド その17 Intermission NO.3

Last Updated on 2014年10月30日 by 成田滋

日本人にはそれぞれ外国との相性というものがあるのではないか。相性とは憧れのようなものである。その憧れに強調されるのは、徹底した個人主義とか文化や伝統の深さとか、人々の考えの奥行き、さらに自然の素朴さであったりする。

カリフォルニアやニューヨークの自由さや競争の厳しさに共感する者もいる。ノーベル賞受賞者で青色発光ダイオードLEDの実用化に成功した教授がそうである。彼にはカリフォルニアの風土との相性が良かったのだろうと察する。

北欧の白夜やフィヨルド、ドイツの森に魅了される人、アフリカの朝の美しさ、アラブ人の義理堅さを指摘する人、韓国人の道徳への志向性にうなずく人、ロシアは好きではないが、ロシア人の底抜けの親切さや懐の深さに感じ入る人もいる。その他、理由はないが、なぜか相性が合う、波長が合うというかウマが合うこともある。こうしてみると人と国との間にも相性のようなものが確かにあるのは間違いない。

日本人がスコットランドに惹かれる理由っていろいろある。それは相性に近いものではないか。ある人にはタータン(tartan)やキルト(kilt)であったり、スコットランドのスピリットと呼ばれるウイスキーであったり、ゴルフでいえばセント・アンドルーズ(St. Andrews)であったり、小説であればウォルター・スコット(Walter Scott)の「アイヴァンホー(Ivanhoe)」、さらに詩であればロバート・バーンズ(Robert Burns) の「故郷の空」や「蛍の光」の歌詞や旋律であるかもしれない。

いろいろな資料、特に文化事典やキリスト教事典をとおしてスコットランドのことを調べている。だが、確かな洞察を得るには誠に不十分であることを認めざるをえない。また、短時間の旅から旅による経験でも、洞察にいたるには極めて足りない。本来なら定住して定点観測しなければものにならない。腰を落ち着ければおのずと周りの良さや醜さ、その背景やからくりがわかってくる。「スコットランドとはかくかくしかじか、、」などと託宣するのは実に危ういことだと気をつけている。文化を知るには時間をかけること、人との付き合いが大事であることを努々忘れてはならないとも思っている。

walter-scott  Walter Scottthe-swilcan-bridge-on St. Andrews

北海道とスコットランド その16  なぜスコットランド人が日本へ来たのか その3

Last Updated on 2014年10月29日 by 成田滋

イギリスの日本への関わりの続きである。日英同盟の締結は日本が世界の舞台に登場するきっかけとなった事件であった。それに先だつ激動の足跡を調べてみる。

1862年にはイギリス書記官アーネスト・サトウ(Ernest Satow)が来日する。彼の日本滞在は通詞としての1862年から1883年と駐日公使としての1895年から1900年に及ぶ。外交官としてその活躍は明治政府からも一目置かれたといわれる。

1862年に薩摩藩士によりイギリス人が殺害される横浜鶴見での生麦事件が起きる。イギリス公使代理のエドワード・ニール(Edward Neale)は、幕府との賠償や処罰などの交渉にあたる。1863年には井上聞多、伊藤俊輔、後の井上馨、伊藤博文など長州藩士5名が藩命としてイギリスへ留学する。サトウはグラバーらと共にそうした橋渡しもする。1863年には薩英戦争が起きる。この戦争の終結により英国が薩摩藩に接近することになる。

続いて1864年に下関戦争が勃発する。攘夷を唱える長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、報復でイギリス海軍がフランスなどと共に下関の砲台を占拠する。そして1868年の明治維新である。その年、明治新政府軍と旧幕府軍とで戊辰戦争が起きる。いわば日本の内戦である。そのとき、イギリス公使ハリー・パークス(Harry Parkes)は戊辰戦争で中立を装いながら、実質的に明治新政府を支援する。パークスは幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務める。

その間、1872年には岩倉使節団によるアメリカやイギリス訪問がある。この一行はイギリスには4か月滞在したという。この使節団には大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、そして後年津田塾大学を作った津田梅子らも加わる。

日本はさらにイギリスとの関係の強化につとめる。そこには両国には共通の懸念、ロシアの拡張主義政策があった。この懸念が両国を結びつけていく。1902年に日英同盟ができる。1904年には日露戦争が勃発する。このとき戦費の調達のためにイギリスの銀行などが日本国債を購入するなど、日本はイギリスから支援を受けることとなった。1911年には日英通商航海条約の改正がなされ、条約上の不平等が解消される。さらに1914年には日英同盟に基づき、日本も第一次大戦に参加し、巡洋艦を地中海に派遣する。その年、ドイツの租借地であった清の青島をイギリス軍とともに占領する。

ernestsatow tsuda
    Ernest Satow          津田梅子

北海道とスコットランド その15 なぜスコットランド人が日本へ来たのか その2

Last Updated on 2014年11月3日 by 成田滋

今でも、日本からみるとスコットランドとかアイルランドは地の果てにあると思える。昔スコットランド人らも「日本に行かないか」と誘われたとすると、日本というところはどこにあるのか、辺境なところでないかと思ったに違いない。

幕末から明治維新の前後は、イギリス人の外交官の活躍が光る。維新政府との良好な関係を発展させるために、こうした外交官の働きはめざましいものがある。それらは初代イギリス駐日総領事ラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)、書記官アーネスト・サトウ(Ernest Satow)、公使ハリー・パークス(Harry Parkes)、公使代理エドワード・ニール(Edward Neale)である。オルコックは軍医でもあった。

こうした外交官らの尽力によって幕末の志士がイギリスに渡り、当時のイギリスの発展ぶりや科学技術、軍隊組織、イギリス憲法、王室制度などを学んで帰国する。イギリスの制度を取り入れたことの一つは、1870年に兵制改革により大日本帝国海軍が成立し、イギリス海軍を模範とした組織整備を進めたことである。イギリス海軍顧問団団長として来日したアーチボルド・ダグラス(Archibald  Douglas)は日本の海軍兵学校教育の基礎を築いた。日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本海軍は軍備拡張政策を進める。1902年に戦艦三笠がイギリスで造られたのもイギリス海軍の影響である。明治政府の近代化政策とイギリス外交が折り合い、イギリスの先端技術を取り入れることによって明治政府は殖産興業に拍車がかかったといえる。

こうした外交を仲介したのが日本に滞在していたイギリスの政商とか実業家である。その中で最も活躍したのがトーマス・グラバーであることは既に述べてきた。もう一人、イギリスとの関係の樹立に貢献した人物にスコットランド人のアレキザンダー・シャンド(Alexander Shand)がいる。22歳の若さで当時、Chartered Mercantile of India, London & Chinaという貿易会社の一員として1866年に横浜にやってくる。維新政府は1872年に国立銀行条例をつくり、国立銀行の設置が決まる。シャンドはやがて大蔵太輔であった井上馨と雇用契約を結び、大蔵省紙幣頭付書記官になる。岩倉使節団に加わった木戸孝允と知遇を得たりする。

シャンドは帰国後、シティにあるアライアンス銀行(Bank of Alliance)やパース銀行(Bank of Perth)の支配人となる。彼は日本からの訪問客や留学生を手厚く世話したといわれる。日露戦争中は、日銀副総裁だった高橋是清のロンドンでの起債を仲介し、イギリスの銀行による国債引き受けなど、戦費調達の成功に導く。忘れてはならないスコットランド人の一人だと思うのである。

Tsesarevich1904Qingdao1 shand1
                      Alexander Shand

北海道とスコットランド その14 なぜスコットランド人が日本へ来たのか その1

Last Updated on 2014年10月27日 by 成田滋

今回は、スコットランド人が何故日本にやってきたかである。決して偶然のでき事ではなく、そこには理由があるはずである。地味に恵まれているとはいえない耕作地、少ない人口、樹木が育ちにくい丘陵、、そうした風土から多くの冒険家や科学者、冒険家、経済学者が生まれた。そして海外へと渡っていく。だがスコットランドからすれば日本は辺境の地、辺鄙な地であったろうと察する。

スコットランド人は宗教や教育に熱心であった。宗教であるが、スコットランドは伝統的に新教の長老派教会(Presbyterian Church)である。上からの押しつけを嫌い、男女の違いを超えて自分たちで指導者を選ぶいわば草の根的な教会制度である。国王や女王が教会を支配する国教会のイングランドとは大きく異なる。そのため両者の間でたびたび宗教戦争が起こった。

アメリカやオーストラリア、ニュージーランドには、イングランドに抵抗した政治犯が流罪された祖先を有する者が多いといわれる。幸い行き着いた土地は肥沃で自由に満ちていた。それが伝統的に実学を重視するスコットランド人に海外への雄飛や移民への刺激を与えた。スコットランド人の日本への渡航と活躍は、徳川幕府と明治維新前後の歴史にそれが如実に描かれている。

日本とイギリスの関係は1840年のアヘン戦争に遡る。この戦争でイギリスが清朝に勝利し香港を獲得する。その結果に驚く幕府は、1825年に出していた異国船打払令を撤廃することになる。その後、遭難した船に限り補給を認めるという「文化の薪水給与令」を出す。1854年10月には、日英和親条約が調印される。翌1858年8月には日英修好通商条約が結ばれる。これも不平等条約の典型で、例えば関税自主権の制限や治外法権承認など、日本に不利な内容となった。この条約により、長崎英語伝習所が設立され英語通訳である通詞が養成される。

1859年7月、初代駐日公使ラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)により高輪の東禅寺に英国公使館が開設される。その年、ジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings)の代理人としてスコットランド人のトーマス・グラバー(Thomas Glover)が長崎へ来日し、その後幕末や明治政府と財界とに深く関わることになる。

pccross  Presbyterial Emblemtozenji  東禅寺

北海道とスコットランド その13  スコットランド人と「炎のランナー」

Last Updated on 2014年10月25日 by 成田滋

1924年のパリ・オリンピックの陸上競技での出場を目指す二人の青年を描いた映画「炎のランナー」を観た読者も多いだろう。主人公は、実在のスコットランド人である。原題は「Chariots of Fire」で1981年に製作された。

その一人は、スコットランド人で聖職者を目指し、神の教えを伝えようとする青年である。彼の名はエリック・リデル(Eric Liddell)。もう一人はユダヤ人青年で弁護士を志望しているハロルド・エブラハムス(Harald Abrahams)。二人とも俊足をかわれ、オリンピックでは短距離走者として出場する。

リデルは、400メートル予選が始まる日曜日が安息日であるという理由で棄権しようとする。他の種目でメダルを獲得した友人が別な予選枠をリデルに譲る。そしてリデルは見事に優勝する。

やがてリデルは選手生活を辞し、宣教師となって中国での布教活動に従事する。丁度日本が日中戦争に突入する頃である。ところが日本軍の捕虜となってしまう。リデルは収容所で会った宣教師の子供に「敵を赦すことの大切さ」を教える。その少年はやがて、かつての敵国、日本に宣教師として赴任する。中国や日本に宣教師団を送ったのは長老派教会(Presbyterian Church)である。長老派教会の歴史は宗教改革を絡めて後日取り上げる。

この映画が撮られた場所はスコットランドの海岸や田舎である。全英オープンで有名なセント・アンドルーズ(St. Andrews)やスコットランド最古の大学であるセント・アンドルーズ大学(University of St. Andrews)が登場する。ケンブリッジ公爵(Duke of Cambridge)であるウィリアム王子(Prince Williams)とケンブリッジ公爵夫人(Duchess of Cambridge)であるキャサリン(Princess Catherine)も卒業した由緒ある大学といわれる。

133881220393713110452_Scene-from-Chariots-of-Fi-001  Chariots of Fire1e207aca

 

北海道とスコットランド その12  「埴生の宿」

Last Updated on 2014年10月24日 by 成田滋

このところ朝ドラ「マッサン」ではイギリスの民謡が流れている。その一つ、「埴生の宿」は耳慣れていて郷愁を湛えている。この歌は日本の唱歌で「楽しきわが家」として紹介されている。作曲したのはイングランド出身のヘンリー・ビショップ(Henry R. Bishop)である。

「埴生の宿」の原名は「Home! Sweet Home!」となっている。「埴生の宿」がなぜ唱歌で「楽しきわが家」という訳題がついたのかはわからない。「楽しきわが家」では元の歌詞の意味が伝わってこない。

埴生の宿も わが宿 玉の装い 羨まじ 、、、、

「埴生の宿」とは,床も畳もなく土間が剥き出しのままの家のことである。誠にもって貧しく粗末な家である。日本も農村は素朴な家が残っている。今は古民家と呼ばれるようだが、生活が農業と一体化していて土と共にある姿が浮かぶ。イギリスもそうだったようだ。

古語では,「たのし」にも「たのもし」にも「富んでいる」、という意味があるそうである。生活が貧しく、家が粗末であっても、家族とともにある生活で心は富む、家庭ほど大切な所はないということが歌われる。Sweetとは「甘い」とか「楽しい」ではなく「優しく包み込んでくれる」という意味である。

Home, home, sweet, sweet home,
   There’s no place like home.

「埴生の宿」の旋律を聞く度に思い起こすのが二つの映画の場面だ。一つは『ビルマの竪琴』である。1946年から数年の間、竹山道雄が執筆した作品である。市川崑が監督し1956年に上映された。竪琴を弾く水島上等兵が主人公である。水島を演じたのは安井昌二である。1985年にも同じ映画が作られた。水島を演じたのは中井貴一である。日本人捕虜がビルマからの帰国を前に、「埴生の宿」を歌う。そこに竪琴を持った仏僧が現れ伴奏を弾く。かつての水島上等兵だ。

「埴生の宿」が歌われたもう一つの映画は、壺井栄作の『二十四の瞳』である。木下恵介が監督し1954年に上映された。小学校の大石先生を演じたのは高峰秀子であった。戦争が終わって教え子が集まり、大石先生を囲む同窓会が開かれる。盲目になった生徒が、かつての12人の友達の写真を見つめながら一人ひとりを指さして大石先生に説明する。戦争の爪痕が皆の心に深く残る。

132861245019013205138 ビルマの竪琴twentyfoureyes66sss 二十四の瞳

北海道とスコットランド その11  スコットランド人の活躍は続く その4 エドモンド・モレル

Last Updated on 2014年10月23日 by 成田滋

エドモンド・モレル(Edmund Morel)1876年にお雇い外国人として来日。主として官設鉄道工場の監督(Locomotive Superintendent)などを歴任して、1897年まで在勤したスコットランド人である。スコットランド人は伝統的に職を求めて海外に渡った。中世では傭兵として大陸に渡り現地化した。18、19世紀の移民運動の中で学識と技術を有して海外に進出する。モレルもその一人であった。

明治の初頭、イギリスの駐日公使であったハリー・パークス(Harry Parkes)の推薦によって日本にやってきた。そして工部省に雇われる。その働きを評価され技師長である建築師長に任命される。さらに工部卿であった伊藤博文に近代産業と人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出している。また大蔵卿であった大隈重信とは協議のうえで、日本の鉄道の線路幅を今の狭軌に定めている。

1872年に日本最初の鉄道は新橋と桜木町の間に造られた。枕木はもともと鉄製にする予定であったが、森林資源の豊富な日本の木材を使うことにしたのもモレルである。さすがに線路と機関車はイギリスから輸入した。このように国内の天然資源を活用することによって、産業の育成に貢献することになったといわれる。鉄道関係の技術者の養成にも熱心だったという。

モレルは来日前から結核で苦しんでいたといわれる。最初の鉄道開通記念行事の後、間もなく彼は横浜で亡くなる。中区山手にある外国人墓地内はモレルの墓所となっている。桜木町駅近くにはモレルを記念した「モレルの碑」が「鉄道発祥記念碑」とともに設置されている。新橋日比谷口に蒸気機関車が展示されているのもモレルを記念するからである。「日本の鉄道の恩人」と賛えられている。

こうしたスコットランドの技術者から薫陶を受けた弟子らがやがてスコットランドに留学し、世界最新の技術を誇った機械、造船、鉄道、電信、土木などの科学技術を習得し、その後の日本の近代化に貢献していく。

208476320_2428932_2417074 shinnbashiyokohama

北海道とスコットランド その10  スコットランド人の活躍は続く その3 ヘンリー・フォールズ

Last Updated on 2014年10月22日 by 成田滋

明治政府が外国人を雇い入れた中で多い職業が医師である。西洋医学の採用によって医療技術者を養成しようとしたことは誰もが得心できる。ヘンリー・フォールズ(Henry Faulds)もその一人である。グラスゴー大学(University of Glasgow)で医学を修める。彼は同時に宣教師でもあった。

フォールズはスコットランドから1874年に来日する。彼を送り出したのはスコットランド長老派教会(Scotland Presbyterian Church)である。1875年に楽善会という視覚障害者の訓盲事業団体の設立に加わり、1879年にジョシュア・コンドル(Josiah Conder)が来日後初めて設計した訓盲院を造る。訓盲院はその官立東京盲学校、そして筑波大学附属盲学校へと発展する。

さらに1882年、東京築地に築地病院を開設する。布教とともに医療活動や医学生の養成に当たった。築地病院はその後、聖路加国際病院となる。主としてコレラなどの伝染病の予防や治療に当たったといわれる。

さらに、大森貝塚の発見者であるエドワード・モース(Edward Morse)とともに各地の貝塚の発掘に従事した。そこで、指紋の特徴に気がつきそれが終生変わることのないものであること、指紋によって個人の識別ができることをまとめ、イギリスの科学誌「ネイチャー」に発表する。この研究は警察関係者に特に注目された。その功績を称え1961年に聖路加国際病院の一角に「指紋研究発祥の地 ヘンリー・フォールズ住居跡」記念碑がつくられた。

指紋の研究と実用的な応用ではイギリスでは多くの論争が続いたようである。だが日本では指紋が犯罪の解明に役立つことを早くから知られ応用されてきた。これもフォールズの貢献といえる。

henryfaulds   Henry Faulds
src_11938480  楽善会

北海道とスコットランド その9  スコットランド人の活躍は続く その2 ジェームズ・マードック

Last Updated on 2014年10月21日 by 成田滋

明治政府が最も力を入れたのが人材の養成である。その中心はなんといっても東京帝国大学をはじめ、他の帝国大学の基礎をつくることだったのではないか。

スコットランド生まれのジェームズ・マードック(James Murdoch)第一高等学校(一高)の英語と歴史の教師として迎えられる。一高では1889年から4年間教鞭をとる。

教え子の一人に夏目金之助、後の漱石がいる。漱石は英語が嫌いな学生だったといわれる。だが、マードックを「僕の先生」と呼ぶほどだったという。他の生徒からも敬慕されていたといわれる。漱石は1890年、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学となる)英文科に入学する。

マードックは1894年から1897年まで金沢の第四高等学校で英語を教えた。 1899年には東京に戻り、高等商業学校で、現在の一橋大学で経済史を教えた。その後、鹿児島の第七高等学校に移る。1903年に、「初期における外交関係の日本史ー15421651) 」を刊行する。語学の才に長けたマードックはこの本をラテン語、スペイン語、フランス語、オランダ語に自らが訳している。

1917年に、かねてから滞在していたオーストラリアに戻る。王立軍学校(Royal Military College)やシドニー大学(University of Sydney)で日本語を教える。そして終身雇用の教授となる。オーストラリアは当時、白豪主義(White Australia Policy)を掲げていた。オーストラリアは移住制限法などを日本に課していた。それに対して日本はロンドンとシドニーの在外公館を通じて抗議を行ったほどである。白人至上主義の強硬論が豪政府や議会でも根強かったが、マードックはそうしたオーストラリアの国策に批判的であった。

8c317bd5078c80a9ff64adcb9d067137 白豪主義反対デモasahi010101 多民族社会記事

北海道とスコットランド その8  スコットランド人の活躍は続く その1 トマス・グラバー

Last Updated on 2014年10月20日 by 成田滋

長崎にあるグラバー園は第一級の観光地である。なんといっても眺めが良く、建物も非日常的なたたずまいである。その館を建てたトマス・グラバー(Thomas Glover)もまたスコットランド人である。

グラバーは上海にあったスコットランド系の会社ジャディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings)で働く。マセソン商会は、上海を拠点にしてアヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で巨万の富を得た。それは「アヘン戦争」に深く関わっていた。21歳で来日しやがてマセソン商会の長崎代理店として「グラバー商会」をつくる。

当時、イギリスは世界の貿易をめぐり、フランスとのし烈なライバル関係にあった。徳川幕府を支援していたフランスとの角逐である。「グラバー商会」は、当時船舶、武器弾薬、機械の輸入、さらに茶や貝類、絹織物の輸出で利益をあげていた。亀山社中とも取引があった。製茶工場を造ったり、肥前藩とで高島炭鉱開発に着手するなど商取引を広げていく。薩摩、長州、土佐ら討幕派の雄藩を支援し、日本の近代史の幕開けに貢献する。グラバーは、やがて生麦事件をきっかけに起こった薩英戦争などで悪化した関係修復や強化にも奔走する。

グラバーは商売だけでなく、長州や薩摩の志士を国禁をおかしてイギリスに留学させる。その中に井上馨や伊藤博文らがいた。グラバーは商人ではあったが、先進国の傲慢や優越感にとらわれなかったといわれる。日本文化の良さや利点を学び、それに溶け込もうとした柔軟な精神をもっていたともいわれる。そうした精神構造や適応性は、日本の近代化に参加したスコットランド人に共通した特性といわれる。この点はさらなる検証が必要だと筆者は考える。

日本にやってきたスコットランド人の多くが日本人と結婚している。歌劇「蝶々夫人」のモデルとされるのがグラバーと結婚した談川ツルである。その経緯だが、ツルが格式の高い士族の出身であること、商人である外国人と結婚したことなどが、著者ジョン・ロング(John Luther Long)というアメリカ人小説家の目にとまったようである。西洋の男性にとっては、ゴシップのような話題であったようだ。

809_13_ Jardine Matheson Holdings9長崎市グラバー園

北海道とスコットランド その7  スコットランド人と北海道の開拓 その2 ニール・マンロー

Last Updated on 2014年10月18日 by 成田滋

北海道、特に道東と道北は小生が育ったところである。北海道開拓の歴史でもう一人のスコットランド人を紹介する。ニール・マンロー(Neil Munro)である。彼の業績については筆者も使った副読本で紹介されていたのを覚えている。

マンローはエジンバラ大学で医学を学び、インド航路の船医としてやがて日本にやってくる。医師のかたわら考古学にも関心を示す。神奈川の根岸や三ツ沢で貝塚を発掘している。アマチュア考古学者であったが、日本列島における旧石器文化の存在を示唆した。1898年北海道に上陸し、そしてアイヌの文化に惹かれその理解者となっていく。アイヌの木彫りが縄文式土器の文様に酷似しているころから、縄文人はアイヌの祖先ではないかという仮説をたてる。

アイヌ研究はアイヌとの深い信頼関係に根ざしていたようだ。アイヌと一緒に生活し、その文化に深く傾倒していく。晩年は平取町二風谷に長く住みそこで医療活動をする。アイヌの悲惨な境遇に接し、貧困が飲酒と怠惰に原因すると考え、生活の改善策として果樹栽培や畑作、牧畜をアイヌに奨励する。

マンローは晩年になると、国際情勢の緊張によりスパイの嫌疑がかかったこともあったようだ。だがアイヌなど地元の人々はマンローの人柄や研究への情熱に尊敬の念を抱いていた。マンローの葬儀は、アイヌの人の古式にそって執り行われたといわれる。彼が蒐集したアイヌ民具などのコレクションはエディンバラにあるスコットランド国立美術館(The National Galleries of Scotland)に収蔵されているという。

doshin06 munro

北海道とスコットランド その6  スコットランド人と北海道の開拓 その1 エドウィン・ダン

Last Updated on 2014年10月17日 by 成田滋

北海道開拓の歴史にもスコットランド人が貢献したことを忘れてはならない。その一人がエドウィン・ダン(Edwin Dun)である。

ダンもまた明治期のお雇い外国人の一人。獣医師であり畜産や肉の加工などで多くの弟子を養成したといわれる。ダンの両親はスコットランド人で、アメリカのオハイオ州に移民しそこで酪農を始める。同州オックスフォード市(Oxford)にあるマイアミ大学(Miami University)を卒業後、父の経営する牧場で牧畜全般の経験を積み、さらに叔父の牧場で競走馬と肉牛の育成法を学ぶ。

1873年に明治政府との間で1年間の雇用契約を結び北海道にやってくる。技術指導者として、また獣医として畜産状の技術指導にあたる。札幌西部に牧羊場を、真駒内に牧牛場を開設し、バター、チーズ、練乳の製造およびハムやソーセージの加工技術を指導した。

競走馬の養成にも力を注ぎ、日高の新冠牧場では最高千数百頭もの馬が飼育されたといわれる。種馬や種羊を積極的に輸入し、品種改良や増産にあたった。日高地方がやがて日本における競走馬の主要な産地となっていく。

彼の功績を称える「エドウィン・ダン記念公園」が札幌の中心のやや南の真駒内にある。その中に記念館もある。札幌付近がスコットランドの風土と気候に類似していることから、酪農や食肉加工の地として相応しいこともダンの技術力が発揮できたとも考えられる。

hitsujigaoka  羊ヶ丘展望台Edwin-Dun エドウィン・ダン記念館

北海道とスコットランド その5 スコットランド人と日本のかかわり その3

Last Updated on 2014年10月16日 by 成田滋

スコットランドは産業革命より前から世界の科学技術の中心地であり、それを支えた多くの科学者や技術者を輩出している。数学、物理学、化学、細菌学など基礎的科学にはじまり、電気通信、医学など技術・工学の分野、さらに文学、思想、哲学、経済学に至るまで、あらゆる分野で希有な能力をもつ人材を輩出してきた。これは世界に類例を見ないことといわれている。

多くのスコットランド人が北米大陸に渡って行くが、その他の大陸にも発見を求めて雄飛していく。そして日本に、北海道にもわざわざやってくるスコットランド人の心意気は一体はどこにあるのか、どうして生まれたのかを考えている。それがこのシリーズの原点である。

有名な歴史学者のアーノルド・トインビー(Arnold Toynbee)は、スコットランド人をして近代のディアスポラ(diapora–離散された者)と呼んだということである。こうしてスコットランド人の歴史を調べていくと、そこに探検家、宣教師、医師など、特別な技術や知識を有する者が日本にもはるばるやってきていることがわかる。なにか感慨深いものがある。

デヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)は、スコットランド人。ヨーロッパ人で初めて「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断する。ハワイ諸島、オーストラリア、ニュージーランドなどを発見したジェームス・クック(James Cook)の父親もスコットランド人である。

明治維新は、封建の世から目覚めたばかりであった。司馬遼太郎が「坂の上の雲」と呼んだ欧米の列強を目の当たりにして、明治政府は日本の近代化のために多くの技術者を招聘した。それに貢献したのがスコットランド人の技術者である。幕末から明治維新にかけ工部大学校(東京大学工学部の前身)の初代総長となったヘンリー・ダイヤー(Henry Dyer)がいる。彼はグラスゴー大学(University of Glasgow)を卒業後、東京で技術者の養成にあたる。

同じく東大医学部の前身東京医学校の初代校長ウィリアム・ウィリス(William Willis)がいる。彼はエディンバラ大学(University of Edinburgh)の出身である。鉄道技師にエドモンド・モレル(Edmund Morel)がいる。1876年に来日し、やがて新橋と桜木町を結ぶ鉄道を建設する。今も「鉄道発祥記念碑」が桜木町駅付近にある。

エディンバラ大学は1583年に設立された、英国で6番目に長い歴史を有する国立研究大学である。エディンバラ大学はこれまで11名のノーベル賞受賞者がいる。グラスゴー大学からも6名の受賞がいるともWikipediaに記されている。すごい業績である。

IMG_00022  ヘンリー・ダイヤーの記事330px-Cook-death クックとハワイ島上陸

北海道とスコットランド Intermission NO2

Last Updated on 2014年10月14日 by 成田滋

国籍の話題である。ニューヨーク・タイムズ(New York Times)を始めとするアメリカのメディアは、ノーベル物理学賞の受賞者となったカリフォルニア大学サンタバーバーラ(University of California, Santa Barbara)校の中村修二教授を「アメリカ人」と紹介しているという。この記事の見出しは「2人の日本人と1人のアメリカ人がノーベル物理学賞を分け合った」となっていた。AP NewsやThe Times-Tribuneも”Japanese-born American professor”と紹介している。筆者はこれでよいと考える立場だ。

合衆国では、自らの意志で米市民権を取得した場合は、帰化の時点で日本国籍を喪失するとなっている。中村教授は「米国の市民権」を取得しているのだからアメリカ人なのである。

国籍で気になることだが、アメリカ大使館が「米国籍取得で日本国籍を離脱」と主張しても、戸籍離脱届けをしないかぎり、国籍は残存している。我が国には国籍離脱届という制度がある。それを行使しないかぎり戸籍謄本に残こる。

そこでだが、中村教授は国籍離脱届けを提出していないだろうと察する。中村氏は外国籍取得と国籍離脱届提出の間の段階に留まっており、戸籍は残存している状態にある二重国籍なのだろうと考える。それ故、我が国のメディアが中村教授は日本人とするのも得心する。

何故こんなことを主張するかといえば、筆者の次女がそうなのだ。彼女は米国籍をもつ日本人である。だが筆者の戸籍に依然として記載されている。筆者は二重国籍が望ましいのかどうなのかを尋ねるために役所に相談にいった。まず戸籍から抹消するためには、市民権の証書、それも原本を役所に持参しなければならない。複写は受けつけないとのことである。だが吏員の対応には自信があるように感じなかった。

役所は曰く。戸籍法では、国籍離脱から3ヶ月以内に提出が義務付けられている。だが外国籍を取得したことは、日本政府は知りようがないのでなんの罰則規定もあてはまらないのだと。国籍法第13条に国籍離脱の届けの規定がある。それには届け書を作成して添付書類を添えて,法務局,地方法務局又は在外公館に届け出る、とある。

我が国は「国籍単一の原則」から二重国籍を原則的に認めていない。だが中村教授も筆者の娘のように、なんの手続きもしていない事例が多々あるはずだ。手続きがややこしいのと、二重国籍でも何の不自由もないからである。わざわざ旅費をかけて日本に戻り、国籍離脱手続きをするだろうか。しかも国籍法に二重国籍への罰則規定がないから、国籍剥奪の強制執行制度もない。日本政府が中村教授や娘らの現状をかえりみて、「国籍離脱届を出すように」と説得する可能性は1%位ある。

ノーベル賞の受賞者がアメリカ人か日本人かについては、中村教授にきくのがよい。だが氏の関心は国籍ではないことははっきりしている。

nobel screenshot_88

北海道とスコットランド Intermission NO1

Last Updated on 2014年10月14日 by 成田滋

シリーズもこれから佳境に入る。その前にちょっと珈琲タイムとしたい。

スコットランドへはまだ行ったことがない。だが、こうしてブログの話題にするのは、筆者が北海道育ちだからだと思っている。それは、この二つの地にはどこか共通点があることを「スコットランド文化事典」から学んでいるからである。この本は写真や図版が多く、読んで楽しめる。

人はその土地に住まなくとも、少なくとも想像力をかき立てられるものだ。不思議なことに、知らぬ土地のことについての活字や写真や音楽に触れることによって、それまで自分が育ってきた風土と重ね合わすことができる。そして未知の土地に対する想いと憧れがわいてくる。

小さいときから音楽という文化に触れたことも幸いしている。スコットランド民謡もそうである。アニー・ローリー、マイボニー、アフトンの流れ、ロッホ・ローモンドなど。どれも郷愁に満ちた旋律である。口ずさむとどこでいつ歌ったのかを想い出すことができるから不思議だ。

スコットランドの隣にあるアイルランドからも学ぶものがあった。それは自分の父親とつながっている。国鉄を退職後は、読書の虫であった。青年時代に読むことがなかった作品をもっぱら読んでいた。その中にジェイムス・ジョイス(James Joyce) の「ユリシーズ(Ulysses) 」がある。「何度読んでもわからない、、」と呟いていた。トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy)の「戦争と平和(War and Peace)」もそう言っていた。小生は、スウィフト(Jonathan Swift)の「ガリヴァー旅行記(Gulliver’s Travels)」といった作品しか知らない。小人に取り巻かれたガリヴァーの冒険物語である。

ジョイスはアイリッシュであった。アイルランドの歴史はイングランドとの宗教や政治の複雑な経緯でもある。1100年代からのイングランドによる植民地化である。経済や貿易の中心がロンドンへと移りアイルランド経済は疲弊していく。ジャガイモ飢饉も起こる。そして北米大陸への移民によって人口が減少する。カトリック教徒が占めるアイルランド民族主義者とプロテスタント教徒が占める連合主義者との対立がたびたび激化する。この北アイルランド紛争は1998年まで続く。

小さい頃学んだ地理や人物、簡単な歴史の追体験が、やがてなんらかのことで蘇ってくるようなできごとに出会う。スコットランドやアイルランドは、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んで「かんかーん」と響いてきた。何故か身近な国のような気がした。

Belted_plaid_07SV_401  Plaid

Loch_Ness Loch Ness

北海道とスコットランド その4 スコットランド人と日本のかかわり その2

Last Updated on 2014年10月13日 by 成田滋

前回、スコットランドの大学では多くの技術が実用化され、はやがて産業革命の中心地としての地位を確立していくことを簡単に述べた。実学を重視したのは、イングランドの中心、オックスフォード大学(University of Oxford)やケンブリッジ大学(University of Cambridge)との違いを強調したためかもしれないことも述べた。

全世界の産業革命の先駆的なこととして日本の教科書にでてくるのは、蒸気機関の発明である。それは工場や機関車に応用された。その発明家ジェームズ・ワット(James Watt)は、グラスゴー大学(University of Glasgow)で機械工学を学び、その後技術者として知られ産業革命の進展に多大な貢献をした。

同じく教科書に登場したスコットランド人にアレクサンダー・フレミング(Alexander Fleming)がいる。彼は細菌学者としてアオカビから抽出した世界初の抗生物質、ペニシリンの発見者として知られている。その功績で卿(Sir)の称号を与えられた。

グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)も我々には記憶に残る人物だ。スコットランド生まれの科学者で発明家である。世界初の実用的電話器の発明で知られている。Wikipediaによれば彼は1876年のフィラデルフィアでの万国博覧会で電話を公開して国際的注目を集めたといわれる。ベルの父はマサチューセッツ州ボストンのボストン聾学校、現在のHorace Mann School for the Deafのインストラクターとして手話を教えてほしいと頼まれた。だがその申し出を辞退して代わりに息子のグラハムを推薦したといわれる。

多くのスコットランド人が1800年代に北アメリカ大陸に渡っていった。アメリカの鉄鋼王と呼ばれたアンドリュ・カーネギー(Andrew Carnegie)もスコットランド人である。1848年に両親と共にアメリカに移住した。カーネギーはU.S. スティール会社(U.S. Steel Corporation)などを創設し莫大な資産を残す。それを基金としてカーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)、世界の音楽の殿堂といわれるニューヨークのカーネギーホール(Carnegie Hall)などの建設に使った。偉大な篤志家ともいわれる。

第13代将軍徳川家定に電話機をプレゼントしたのがアメリカ海軍提督のマシュー・ペリー(Matthew Perry)である。彼もスコットランド系である。

前述したが、スコットランドの厳しい経済や自然が移民を促した。多くのスコットランド人が北米大陸に渡る。スコットランド移民がつくったカナダの小さな州がノバ・スコシア州(Nova Scotia)である。ラテン語でNew Scotlandという意味である。New Englandの隣というか、北の方角の大西洋に面している州だ。
fig31 040302

北海道とスコットランド その3 スコットランド人と日本のかかわり その1

Last Updated on 2014年10月11日 by 成田滋

明治政府は、いわゆるお雇い外国人を招いて富国強兵のために貢献してもらおうとした。その中にスコットランド人が多かったことも判明している。北海道開拓使もスコットランド系のアメリカ人を雇った。それは何故だったかが筆者の関心事である。それにはスコットランドの地理、気候、風土、歴史を調べることがどうしても必要のようだ。

今はテレビや新聞でスコットランドの歴史や政治が頻繁に報道され、我々に身近な地となっている。通称イギリス(UK)は、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(UK)のことである。スコットランドはUKの一部である。だがスコットランドは独特の歴史を有する。

スコットランドはブリテン島の北部に位置する。スコットランドの名称は、この地を統一したスコット人(Scots)に由来する。グレートブリテン王国(Kingdom of Great Britain)が成立するまでは独立したスコットランド王国であった。イスコットランド王国のイングランド王国との争いは長く続いたようだ。13世紀から14世紀にかけて両国間の緊張を象徴するスコットランド独立戦争が起こった。それから何百年も経ち、去る9月18日のイギリスからの独立の賛否を問うたスコットランドの住民投票もその延長にある。

スコットランドはグレートブリテン島の北部3分の1を占め、南部でイングランド国境に接する。東方に北海、北西方向は大西洋、南西方向はノース海峡およびアイリッシュ海に接する。自然環境も経済環境も厳しいことが察せられる。気候や風土は北海道に似ているようである。

スコットランド人(Scots)の気質としては、独創性、独自性が豊かだといわれる。それを起業精神につなげる識者もいる。スコットランドの自然と経済環境の厳しさにも由来するとされる。1701年にイングランド王国に併合されると、スコットランド人の就労の機会は先進地域のイングラントや海外への植民地へと向かっていく。

スコットランドの高等教育機関では、主に農業、工業、土木、獣医学、医学などの実学が重要視された。その理由は、イングランドにあるオックスフォード大学(University of Oxford)やケンブリッジ大学(University of Cambridge)などは、官僚を養成することを重視したことによる。スコットランドは「大英帝国の工場」と呼ばれた時期もあったようである。今も鉄道、鉄鋼、機械、石炭、畜産、綿織、海運、造船などが盛んである。

理論を実践に移し、ものづくりに傾注することの重要性を深く認識していたようだ。多くの技術が実用化され、スコットランドはやがて産業革命の中心地としての地位を確立していく。

scotland-map TrainScotland_BOV460

北海道とスコットランド その2 民謡

Last Updated on 2014年10月10日 by 成田滋

網走郡美幌町の美幌小学校では文部省唱歌を歌った。教科書はすべて唱歌ではなかったかと思えるほどである。明治43年「尋常小学読本唱歌」というのが最初の音楽の教科書らしい。文部省が編集したものを唱歌というようである。

なぜ小生が歌に関心を向けたかは、小さなリードオルガンを弾く先生に小学校で教わったからだ。「故郷の空」、「麦畑」、「蛍の光」を歌った。こうした歌からスコットランド(Scotland)を意識することはなかったが、やがてスコットランドという地名だけは、終生記憶から消えることはなかった。

文部省唱歌にスコットランド民謡が取り入れられた理由はわからない。だが、センチメンタルな歌詞とともに日本人の琴線に触れるような旋律(melogy)が日本人に受け入れられたと思われる。

スコットランド民謡の「故郷の空」の旋律には、長音階のド(C)から四つ目のファ(F)と七つ目のシ(H)の音はでてこない。いわゆる「ヨナ抜き」という特徴である。ドレミファソラシは楽譜では「CDEFGAH」と書いたり読んだりする。ドイツ語読みが多い。「ヨナ抜き」では「CDEGA」となる。

後年、琉球に住むことになったが、琉球民謡というのか島唄というのが、独特の旋律であることに気がついた。それは、旋律が「ヨナ抜き」ならぬ「ニロ抜き」なのである。長音階の二番目のレと六番目のラが抜かれるので「ニロ抜き」なのである。「ニロ抜き」は「CEFGH」である。「てぃんさぐの花」を是非聴いて欲しい。歌詞も味わいがある。

筆者は音楽はずぶの素人であるが、唱歌や民謡は大好きだ。叙情歌しか教科書に載っていなかった教科書のお陰か。スコットランド民謡のような旅情に富む歌、島唄のような哀愁を帯びた曲に出会ったことは幸いなことだと思っている。

20120818150440  てぃんさぐpi.5022 スコットランド

北海道とスコットランド その1 余市とニッカ

Last Updated on 2014年10月10日 by 成田滋

私は樺太生まれ。育ちは北海道であるから、自分では一応道産子と呼んでいる。最も長く暮らしたところは美幌とサッポロである。

秋を迎えると北海道に自然の厳しさの前触れが訪れる。どんよりとした曇り空。気温は日に日に下がっていく。そして冬支度が始まる。大根干しや漬け物づくり、石炭やストーブの用意、野菜の台所にある土間への収納や庭への埋め込み作業である。山葡萄を一升瓶につけ、ジュースやワインをつくる。木箱にいれたリンゴも凍らないように土間に貯蔵する。今となっては懐かしい風物詩だ。

リンゴといえば小樽の西にある余市という寒村を想い出す。積丹半島の付け根に位置する。とりたてて特徴があるわけではない。かつてはニシン漁で栄えたが、人口は年々減り続け、高校を卒業するとサッポロを目指していく。余市は漁業のほか、果樹の栽培が盛んなところである。リンゴも梨もとれる。しかし、なんといっても余市を全国に知らしめたのがニッカウヰスキーである。敷地に入るトンガリ屋根の楚々としたウイスキーの貯蔵庫が建っている。

最近とみに余市が脚光を浴びるようになってきた。NHKの朝ドラ「マッサン」である。主人公は、ニッカウヰスキーの創業者であり、「日本のウイスキーの父」と呼ばれている竹鶴政孝、その妻である竹鶴リタ(Rita Taketsuru)が主人公である。

竹鶴は後に大阪大学となる大阪高等工業学校の醸造学科で学ぶ。1918年(大正7年)にスコットランド(Scotland)のグラスゴー大学(University of Glasgow)に留学し、有機化学を勉強する。1920年にリタ(Jessie Roberta Cowan)と結婚する。帰国後、寿屋、後のサントリーに入社しウイスキーの製造に従事する。

1934年、昭和9年に竹鶴は寿屋を退社し、同年ウイスキーづくりの理想郷と考えた余市に「大日本果汁株式会社」をつくる。その後名称をニッカ(日果)ウヰスキーとした。スコットランドに似た風土の北海道の余市を選んだのは竹鶴の慧眼によるものだ。

暫く、私と余市、サッポロ、スコットランドを話題としてみる。

map_hokkaido_shiribeshi_1408 89931-004-C2FFA4D6