文化を考える その21 街角の風景 その1 郵便箱

Last Updated on 2014年9月1日 by 成田滋

街には色々な表情があるというのが話題である。長男の家は、ボストンの郊外、Princetonという人口3,400人位の街にある。州立公園ワチューセッツ山(Wachusette Mountain)の裾野にある。夏はハイカー、冬はスキーヤーで賑わう。

田舎住まいというのは、快適さとともに不便利さもある。庭が広いので春から秋まで1週間ごとに芝刈りをしなければならない。芝刈りによって芝の生育がよくなる。それに景観もよくなる。防犯対策にもなる。冬は車道まで除雪をしなければならない。そのためにワンサイクルエンジンの除雪機も持っている。

この小さな街には郵便局は一カ所ある。だがわざわざそこまで出掛けて投函することはない。家の前の車道の脇にかまぼこ型の郵便受けの箱を置いてある。家の番地もついている。この箱は新聞も入る大きさである。箱の脇に赤いバー(旗)がついている。この郵便受けは投函箱ともなる。出したい手紙を箱に入れ、バーを立てておく。郵便物があるという印である。これは田舎だけでなく、都会の一軒家のどこにもある光景である。

郵便車のハンドルは日本と同じく右側についている。配達人は車から降りず郵便箱の側に駐車し、立ててあるバーの箱を開き郵便物を集荷する。もし、切手を貼り忘れたまま投函しているときは、その場で郵便箱に返却される。一旦郵便局に集荷されてから返却されるまでの時間が節約される。郵便物を入れると配達人はバーを立てて新しい郵便があることを住人に知らせる。

アパートや分譲マンションに住む場合、curve-side mail stationと呼ばれる道路脇共同郵便受けがあって数軒の郵便受けが一カ所にまとめられている。建物の玄関にあるのが普通であるが。大きな郵便物は1Pと書かれた大ロッカーに保管される。自分の郵便受けにはその鍵が入っている。ここに入りきらない場合は家まで直接届けてくれる。書留の場合は不在票が挟まれる。大ロッカーの上にあるのは投函用のポスト。わざわざ投函のために出かける必要がない。

請求書がきたときは小切手を郵送するので、現金がなくなることはない。だが犯罪は時々起きる。

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文化を考える その20 それぞれの家族史 その12 心筋梗塞と食生活

Last Updated on 2014年8月29日 by 成田滋

心臓発作はアメリカでは年間100万人以上、日本では15万人以上が襲われるといわれる。遺伝の他、食生活の違いから肥満が多いのがアメリカである。人口の割合からしても日本のほうが発症率は低い。アメリカに行って驚くのは肥満の人が多いことではないか。子どもも例外でない。多くの教育委員会にはジャンクフード(junk food)といわれるハンバーガー(hamberger)などを安易に食べないよう指導しているところもある。

脂肪、カルシウム、蛋白質などが血管に付着、蓄積し動脈硬化などを引き起こす。血栓(crot)は血流をふさぎ、酸素が心臓に届きにくくなる。そして心筋の壊死(infarction)をもたらす。

心臓発作が起きる前兆はいくつかある。脈初の以上、胸痛、冷や汗や嘔吐、呼吸困難、倦怠感、などである。こうした状態は30分くらい続くといわれる。以上のような前兆なしに突然起きる心臓発作もある。これを”silent myocardial infarction”といわれる。長男の嫁の父親はこの種の発作だという。彼は私より若いが肥満だ。にも関わらず年間300回もゴルフをしている。私も何回かつきあわされた。山歩きも大変だが、ゴルフというのは意外と体力のいるスポーツだ、という印象である。

長男との会話による父親の術後の様態である。心筋梗塞の治療には8週間くらいかかるようである。治療後は心臓のポンプ力は低下するそうだ。なぜなら心筋は再生せず元通りにならないからである。

心筋梗塞はだれにでも起こりうる疾患といわれる。糖尿病の人に発生率は高いようだ。私も心臓内科の専門医であるホームドクターのところで毎年健康診断を受けている。心電図検査では、昔から不整脈の疑いが指摘されている。

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文化を考える その19 それぞれの家族史 その11 心筋梗塞

Last Updated on 2014年8月28日 by 成田滋

先日のことである。朝メールを開くと長男の嫁の父親が心臓発作(heart attack)で倒れ、救急車で搬送されたとあった。ニューハンプシャー州(New Hampshire)のハンプトン(Hampton)での出来事である。早速電話すると、時差の関係でまずはメールで知らせたとのことだった。応急措置をする間、三度も心拍が停止したようだ。

発作は家で起こり、すぐ病院に運ばれ処置が速かったので心臓は蘇生した。心筋梗塞(myocardial Infarction)によるものと診断され、致死的な不整脈(arrhythmia)である心房細動(fibrillation)が誘発されたようだ。

心臓発作の英語はheart attackであるが、心筋梗塞はmyocardial infarctionと呼ばれる。myoは筋肉、cardial は心臓、infarctionとは血流不足による心筋の梗塞とか壊死という意味である。血管に血栓(blood clot)ができて閉塞し、血流が途絶えたようである。

病院では、ステント(stent)の注入の手術が二度行われた。ステントととは、閉塞した冠動脈(coronary artery)の組織を広げる細長い網状の器具である。様々な病変にあうように長さや太さのものが使われる。カテーテル(catheter)によって挿入されるステントには小さなバルーンが取り付けられ、患部にくるとバルーンが開きステントも広がる。装着が終わるとバルーンは萎んでステントだけが残る。そしてカテーテルをとりだす。この手術はもうすでに10年以上前から使われているという。

幸い命はとりとめ、呼吸器がはずされ会話しサンドイッチをほうばるくらいに回復している。筆者も医学用語辞典をひきながら心筋梗塞の原因、前兆、症状、治療方法などを調べてはノートに筆記している。

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文化を考える その18 それぞれの家族史 その10 Social Security

Last Updated on 2014年8月28日 by 成田滋

先日、引き出しの中を整理するとアメリカで取得したソーシャルセキュリティ・カード(Social Security: SS)が出てきた。アメリカの社会保障とか年金の受給に必要なのがこのSSカードである。

SSカードは市民だけでなく、永住権を持つ者、外国人居住者、学生などにも発行される。9桁の番号となっている。SSカードは日常生活でも大変便利なもので、例えば口座の開設、公的書類の提出、就労の際に提示を求められる。運転免許状と同じく身分証明書の代わりとなる。子どもが生まれるとSSカードを作る。これは扶養控除の申請に必要となるからである。

アメリカのSSは、国民が全て社会保障に加入しなくてもよいことになっている。人々が将来、保障を受けるためには、労働による所得から税を支払うことである。社会保障局のパンフレットによれば、所得に応じて税率が決められ、雇用主と被雇用者の双方が納める平均的な利率は7.65%となっている。31歳から42歳の場合、就労期間は5年が必要であり、この場合20ポイントが与えられる。1ポイントあたり年間1,200ドル、最大4ポイントまで支給される。62歳になるまでは最低10年間の就労で40ポイントを貯めておく必要がある。

保障の内容であるが、まずは退職年金(Retirement benefits)である。62歳以降に支給される。次に医療補助(Medical insurance: Medicare)である。そして障がい年金(Disability benefits)である。

さてSSカードが出てきたのを機に、社会保障の恩恵を受けられるかを試すため、インターネット上で支給申し込みをした。受けようとしたのは退職年金である。数ページまたがる詳細な様式に記入して送信した。すると数日後に結果を知らせるというメッセージがでてきた。案の定、「受給資格は無し」という文書が郵送されてきた。もっともウィスコンシン大学時代はアルバイトばかりをして、税を全く納めていなかったから当然である。

年金を受給しようとする意図は全くなかった。ただ、社会保障局の対応がいかなるものかを知りたかったのだった。それと申し込み結果の通知が迅速だったことには満足した次第であった。

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文化を考える その17 それぞれの家族史 その9 司書の養成の違い

Last Updated on 2014年8月26日 by 成田滋

図書館法による司書及び司書補の資格は、第5条に規定されている。この資格は、図書館学関係の科目が開講されている短期大学や四年生大学で、要件とされる単位を修得して卒業するか、自治体に就職して3年以上図書館勤務になった者が司書講習を受講して得られることを前回触れた。

我が国の主要な司書養成機関についてである。1979年に国立図書館情報大学がつくば市に設置された。修士課程は1984年に、博士課程は2000年に設置された。だが2002年に図書館情報大学は筑波大学に統合され、図書館情報専門学群となっている。ここが我が国の司書を養成する最も整った大学なのだが、、、

さて、アメリカの司書養成の歴史である。1887年にはじめてコロンビア大学(Columbia University)にLibrary Schoolが設立される。アメリカの大学では学部をSchoolと呼ぶのが習わしである。その後多くの大学でLibrary Schoolができる。たとえば、1928年に全米最初の図書館学の修士課程がシカゴ大学に(University of Chicago Gradute Library Science)できる。これは図書館学(Library Science あるいはLibrary and Information Studies)と呼ばれるようになる。1931年、ノースカロライナ大学(University of North Carolina-Chapel Hill)などに図書館学の大学院が、さらに1948年にはイリノイ大学(Unversity of Illinois, Urbana-Champaign)に博士課程ができる。

こうした司書養成の大学のカリキュラムは、全米図書館協議会(American Library Association-ALA)が認定機関(Accreditation)となり、設置が認められる。アメリカの大学はこうした民間機関に所属することによって、修了者に資格を付与する権限が与えられている。このように司書になるためには、Master of Library Science-MLS、あるいはMaster of Library and Information-MLIという修士号が不可欠となっている。

我が国のどれだけの司書が図書館学の修士号や博士号を持っているだろうか。司書の世話になった者としてその資質と力量に大いに関心がある。

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文化を考える その16 それぞれの家族史 その8 司書の仕事

Last Updated on 2014年8月25日 by 成田滋

ウィスコンシン大学での苦節の6年あまり、図書館の専門職である司書(Librarian)にひとかたならぬお世話になった。その専門性には舌を巻いた事を前々回記した。

私は北海道大学と立教大学で学び、その後は国立特殊教育総合研究所と兵庫教育大学で仕事をした。それまで図書館の世話になった思い出は全くない。利用の仕方を知らなかったというべきか。振り返ると日米の大学の違いは、大袈裟にいえば図書館の置かれている地位と司書の専門性、そして図書館学の位置づけにあるのではないかと考える。

我が国とアメリカの司書養成の仕組みや内容を調べると、そこに大きな違いがあることがわかる。まず、我が国では司書となる資格は図書館法に規定する公共図書館の専門職員となるためとなっている。しかし、公共図書館の大部分では、司書の資格を取得した者を専門職として採用する人事制度がない。事務職員としての採用制度だからである。

司書資格の取得方法は二つある。大学の正規の教育課程の一部として設置されている司書課程と、夏季に大学で集中して行われる司書講習がある。大学の司書課程はそのための全国統一的なカリキュラムが、図書館法の制定以来、現在に至るまで作成されていない。専門性に必要な科目の単位数が少なく、司書講習に相当する科目の単位の認定を受けて、大学を卒業すれば司書資格を取得できてしまう。

次に司書講習である。本来現職の図書館職員向けのものとされているため単位認定が甘く、「暇と講習料さえあれば取得できる資格」といわれるほど講習内容が貧相でいい加減、おざなりな講習会といわれる。

我が国の司書に関する根本的な課題とは。それは司書の専門性と役割を重視しない風土、そして図書館学(Library Science)の未熟さである。このことをアメリカの大学で苦労した経験から学んだ。

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文化を考える その15 それぞれの家族史 その7 ガンと次女

Last Updated on 2014年8月24日 by 成田滋

次女の恵美はウィスコンシン大学で生物学を学び、卒業後首都ワシントンDCにあるジョージ・ワシントン大学(George Washington University)の大学院で公衆衛生学のMAをもらっている。そして今は、ウィスコンシン大学の看護学部(School of Nursing)でターミナルケアの看護師を目指しているところである。母親のターミナルケアに就いて、訪問看護師からいろいろな処置方法を学ぶうちに、自らも看護師を目指すようになったようだ。

乳ガンの手術を受けてから幾度となく小さなガンが発生し、その都度抗ガン剤の投与を続けて30年が経った。だが、ガン細胞の根絶にはいたらなかった。今、ガン研究の最前線は、胚性幹細胞というガン細胞を作る源を死滅させる薬の研究である。この胚性幹細胞は、Wikipediaによると自らと全く同じ細胞を作り出す自己複製能と、多種類の細胞に分化しうる多分化能というまことにやっかいな性質がある。現在の抗ガン剤は胚性幹細胞を根絶することができない。世界中の研究者がこの開発にしのぎを削っている。誰が最初に開発するかは問題ではない。人類の幸せに誰が最初に貢献するかである。

沖縄の生活に時間を戻す。1981年頃、教会がつくった幼稚園で恒例の健康診断が行われた。その結果、次女の血液型がRh- であることが判明した。少々驚いたのは、やがて彼女が結婚したとき、相手がRh+の不適合妊娠でも初回なら胎児への影響はないが、2回目以降の妊娠で母児血液型の不適合が起こりえる可能性があることであった。

大きくなって次女にはRh- のことを告げた。やがて彼女高校や大学で血液型については学んだようで、今の旦那と結婚し二人の娘を育ている。旦那もRh-だから孫娘のRh-である。老婆心ながら、怪我の場合の輸血などを考慮すると、小さいときから血液型は教えておくようにと伝えている。次女の飽くなき学びの意欲には、母親の30年間のガンとの闘いという後押しがあるからだと思っている。

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文化を考える その14 それぞれの家族史 その6 闘いの始まり

Last Updated on 2014年8月22日 by 成田滋

家内の治療にあたる主治医は同じく地元ロータリークラブ会員であるウィスコンシン大学病院のDr. George Bryan教授であった。化学療法であるガン治療をChemotherapyという。この治療法について丁寧に説明してくれた。

それによると、抗ガン剤はたくさんの種類があり、それを組み合わせて治療すること、患者の様態をみながら薬の配合を変えるなどとのことだった。これを多剤併用療法という。こうした多剤併用による治療の効果は、前回触れた全米の病院を網羅するネットワーク上のデータベースによってわかるのだという。

手術後にすぐ、病院の廊下を歩くことが医師に勧められた。そして一週間後に退院。患者によっては、病室よりも家庭のほうが治りが早いという。Dr. Bryan教授は私が苦学生であることを知っていたので、高い入院費のことを心配してくれ、自分が受ける報酬を返上してくださった。幸い私は家族の保険に入っていたので、診断から治療まで保険でカバーされた。一セントも払う必要がなかった。保険がなかったら大変な事態になっていた。

抗ガン剤が処方され治療が始まった。投与のたびに頭髪が抜けた。小学生の次女はそれが因で登校できなくなった。母親との離別を恐れたようだ。その年、30日間不登校が続いた。我が家、最大の危機の年であった。

手術後、大学病院のチャプレンと呼ばれる牧師、そして乳ガンを患ったという女性ボランティが病室にやってきて家内を激励してくれた。ボランティアが病院にいるのもこのとき始めて知った。家内は治療が落ち着いてくると、近くのサンドイッチ店でアルバイトを再開した。母親が仕事に出かけると次女も学校へ行き始めた。私も博士論文の仕上げやアルバイトで急がしかった。

今、当時の子どもたちの心情を思い起こしている。

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文化を考える その13 それぞれの家族史 その5 次女

Last Updated on 2014年8月21日 by 成田滋

次女の名は恵美・ライナー(Emi Reiner)。8年ほど前にアメリカ国籍を取得した。今、マディソンで11歳と9歳の娘を育てている。長女と一緒の街に住む。旦那はドイツ系のアメリカ人で福音系のクリスチャン、連邦政府の材質研究所で研究員として働いている。

彼女は今大学に戻り、看護師になる勉強をしている。来年は念願の看護師になれると張り切っている。長い間乳ガンと闘ってきた母親を自宅で引き受けてきた。ターミナルケアである。孫娘らに看取られ一昨年の7月28日に昇天した。

母親のガンは1981年に見つかった。丁度沖縄に帰省していたときだ。すぐマディソンに戻り診察を受け、数日後に手術となった。私のロータリークラブのスポンサーであるDr. David Gilboe氏は大学病院の教授であった。その方の紹介で外科医を紹介してくれた。手術前に同意書に署名した。

手術の経過を聞くと、胸の周りにある12のリンパ腺に既にガン細胞が広がっていて全て除去したとのことだった。最悪のガンの一つで、術後一年内に死亡するのは50%だという。この数字は全米の大学病院や総合病院をつなぐネットワーク上のデータベースによってわかるのだそうだ。ガンの種類、人種、年齢、治療法などを組み合わせることによって、生存率がわかるということだった。

ネットワークといえば、論文などを書くとき、関連情報の検索によって主要な文献を集めたことである。この作業をしてくれたのが大学図書館の司書であった。いろいろなデータベースを次々と調べこちらが欲しい論文などを検索してくれる。その力量には驚いた。

ガン研究と治療もネットワークの進展に支えられている。

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文化を考える その12 それぞれの家族史 その4 ”Sage Ozawa”

Last Updated on 2014年8月20日 by 成田滋

長男の長男は今14歳。私の最初の孫である。今、ボストン交響楽団(Boston Symphony Orchestras)の下部組織、ボストン・ユース・オーケストラ(Boston Youth Symphony Orchestras-BYSO)に所属し、第一ヴァイオリンで弾いている。毎年、年長のオーケストラに入るためのオーディションがある。週末は、長男か嫁が自宅から1時間のところにあるボストン大学での練習に連れて行く。春や夏は集中合宿がある。長男も長らく個人レッスンを息子にしていたが、今は技能が追いつかないので別の人をレッスンに頼んでいる。費用も相当かかるようだ。この孫はボストン音楽院(The Boston Conservatory)への進学も考えているようだ。

ボストン交響楽団といえば、小澤征爾を知らぬ地元の人はいない。ボストン交響楽団の音楽監督を1973年からは2002年まで務めるというレジエンド(Legend)なのである。30年近くこのオーケストラを指揮してきたのは、小沢をおいて他にいない。彼の人気は今もボストンでは絶大である。

マサチューセッツ州西部バークシャー郡(Berkshire County)にタングルウッド(Tanglewood)という小さな街がある。長男宅から車で90分のところだ。そこでは毎年夏に世界的に有名な音楽祭、Tanglewood Music Festivalが開かれる。この音楽祭の中心はボストン交響楽団であり、小沢はその音楽監督にも就任した。その功績を記念して日系企業の寄付でSeiji Ozawa Hallというコンサート会場までつくられている。

ボストン交響楽団の指揮者では小沢を遡るが、1949年から1962まで指揮棒を振ったのがシャルル・ミュンシュ(Charles Munch)である。私が大学生のときであった。ミュンシュによってボストンやボストン交響楽団を知ったのである。忘れられない指揮者である。

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文化を考える その11 それぞれの家族史 その2 サッカー

Last Updated on 2014年8月19日 by 成田滋

長男の次男は地元のボストンの郊外にあるサッカークラブに所属してプレイしている。長男によると、なんらかんらで年間の費用は20万円位となるそうである。今年の4月、チームはサッカーの本場スペインのバルセロナに遠征し、地元の少年チームと親善試合をしてきた。親が同行するという条件であった。すべて本人の負担であった。そこで筆者も援助を申し出、ついでに物見遊山で出掛けた。試合の前後は観光を楽しんだ。バルセロナの少年の力量は段違いで5試合すべて完敗した。

前回の女子ワールドカップの時である。決勝戦では、長男家族は嫁の実家に出掛けて試合を観戦した。試合は最後までもつれる好試合となった。アメリカがリードすると日本が追いつく白熱のゲームとなった。最後はPK戦となり日本の勝利となった。観戦中、アメリカを応援する孫たちを日本国籍の長男は黙って観察していたという。アメリカチームの敗北に、孫たちはがっかりしたようだ。そして長男に「日本へ戦争で仕返しする」と皆にきこえるように呟いたそうだ。

女子ワールドカップの敗北は、孫にはよっぽど悔しかったに違いない。スポーツと戦争は別次元の話だ。父と子が戦争に巻き込まれるなど想像するだけでも恐ろしい。だが、心置きなく冗談がいえ、腹蔵なく話せるのも親子だからだ。とはいえ長男には日米の決戦には複雑な思いで観戦したのではないか。こんなところにも国籍の違いや日米のことが話題となる。

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文化を考える その10 それぞれの家族史 その1 永住権

Last Updated on 2014年8月18日 by 成田滋

異文化体験については、さまざまなことが身の回りにある。成田家の歩みは、戦後の引き揚げを哀史を交えると史実になるような話題に満ちている。私小説が書けるくらいである。今それを真剣に考えている。

子ども3人はアメリカで育ち、教育を受け、仕事を得、家庭を持っている。長男が大学院時代、1990年8月湾岸戦争が起こった。その前月、選抜徴兵法が施行された。国民の男性と永住外国人の男性に連邦選抜徴兵登録庁への徴兵登録を義務化するものだった。彼は永住権を取得していたが、兵役に志願しなかった。それ以来、市民権の申請をためらってきた。幸い職に就き、結婚して家を持つことができた。

兵役に就くことは危険と隣り合わせではあるが、アメリカでの生活を円滑にするための有力な近道である。除隊後は大学で学ぶ奨学金(Pell Grant)が与えられる。経済的に貧しい階層の兵役志願率が高くなる。兵役は市民権を申請することのできる要件ともなる。

アメリカに住み仕事を得るには永住権が必要となる。通常であれば数年から10年くらいの時間と弁護士費用がかかる。ポートピープルなど人道上、配慮されるべき外国人は別である。さらにアメリカで多額の投資をする人々は優先的に永住権が所得できる。たぐいまれな頭脳の持ち主もそうだ。だが成田家はそのどれにも当てはまらなかった。

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文化を考える その9 見捨てられた人々 その2 棄民

Last Updated on 2014年8月25日 by 成田滋

戦後、外地に取り残された人々は「棄民」と呼ばれた。成田家はすべての財産を失い「引揚げ者」、あるいは「引揚げ民」として北海道の稚内に上陸した。筆者3歳の時である。親戚の反対をよそに移住したのが樺太であった。そのような経緯で引揚げというのは、親戚に顔を会わせにくいという心情があったようだ。

満蒙開拓団のことに戻る。もともと開拓団は関東軍の保護の元に開拓に従事するはずであった。しかし、ソ連の参戦によって残りの兵隊や関係者はいち早く満鉄を利用し、ハルビンや長春、大連などへ撤退し始めた。置き去りにされた開拓団は自力で逃避行をせざるを得なくなった。開拓団の逃避行の有様は、いろいろな手記に残されている。山崎豊子の小説「大地の子」にも記述されている。

棄民は満蒙開拓団だけでない。戦前、ブラジル、メキシコ、ドミニカなどの中南米諸国へ移民した人々もそうだ。移民の募集要項を信じて、親族の反対を押し切って一切の財産を処分し、こうした国々に移住していった。ところが、入植地としてあてがわれのは、未耕地で開墾作業から始めたという。多くの者は開拓を断念し帰国したが、もはや安住の場所は少なかった。

戦後、全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた移住用集落がつくられた。割り当てられた所は痩せた土地が多かった。千葉県成田市の三里塚にも引揚げ者村がつくられた。元満蒙開拓団員も三里塚にやってきた。1966年、佐藤内閣は閣議で成田空港の建設地として三里塚、芝山地区を決定する。国の土地強制収容に反対する三里塚闘争が始まる。国策で欺された元満蒙開拓団員は「怨念」のプラッカードを掲げ、長い闘争に参加した。

女性も国策によって看護婦として満州に送られ、中にはシベリア抑留を強いられた。ソ連兵に連れ去られ暴行された者もいた。そのドキュメンタリーが数日前に放映された。やがて故郷へのダモイー帰還がやってくる。だが抑留という過去の経験を親戚や知人が嫌がるのではないかと思い巡らし、帰国はつらいものとなったようだ。誰も尋ねない誰にも語れない、深い傷を背負った帰還となった。

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文化を考える その8 見捨てられた人々 その1 満蒙開拓民

Last Updated on 2017年4月22日 by 成田滋

当たり前だが、不思議なことにまた8月15日がやってきた。筆者がいつも思い起こすのは「国策としての移民」、そして「棄民」という言葉だ。私の親たちは敗戦の日、樺太と満州にいた。幸い帰国を果たしたのだが、兄弟がシベリアに抑留され、かれこれ1955年頃に外務省から死亡通知書が届いた。父は半信半疑だった。死亡地はクラスノヤルスクとあった。恐らく金鉱山で働いたか、水力発電所の建設に従事したようだ。

悲惨だったのは、国策によって満州に向かった「満蒙開拓民」の農業従事者と家族である。開拓団とか移民団と呼ばれたが、実は対ロシア防衛を目的とした「満州開拓武装移民団」であった。彼らは満州への出発前に簡単な軍事教練を受けた。

開拓団の人々は25万人とも30万人ともされる。20の都道府県から約300の開拓団が組織されたという。その中には地縁と血縁でつくられ、集落全員で組織されたのもある。最も開拓民が多かったのが長野県であった。1932年から満州への入植が始まった。割り当てられた所は今の満州吉林省である。

戦局の悪化により、満州に駐屯していた関東軍は南方へ移動する。こうしたなか、兵力を補うために14歳から17歳までの男子が青少年義勇兵として訓練を受け、開拓民団に配属された。武装農民であった。満州の邦人女性も看護婦見習いになる訓練のために赤紙を受けとる。

1945年8月9日、ソ連が日本に参戦し開拓民の大半はソ連との国境付近に取り残され、年寄りや老人は置き去りという長い辛い逃避行が始まる。助かった者の多くは抑留される。

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文化を考える その7 Cultural Studies

Last Updated on 2014年8月14日 by 成田滋

聞き慣れない研究の分野に「Cultural Studies」というのがあるのを最近知った。「地域へと広まっていった、文化一般に関する学問研究の潮流を指している。」とある。ハイカルチャーだけでなくサブカルチャー(大衆文化)の研究を重視するようだ。

サブカルチャーという用語を最初に使ったのはアメリカの社会学者のデイヴィッド・リースマン(David Riesman)である。彼は「孤独な大衆」(The Lonely Crowd)という著作を書き、その中で社会的性格は伝統指向型から内部指向型とか他人指向型へと変化すると論じている。リースマンは、伝統指向型の社会的性格は、はっきりと慣習が伝統によって体系化されているため、恥に対する恐れによって人々の行動は動機付けられると考える。

さらにリースマン曰く。内部指向型や他人指向型の社会的性格では、人は行動の規範よりもマスメディアを通じて、他人の動向に注意を払う。彼らは恥や罪という道徳的な観念ではなく不安とか寂しさによって動機付けられるのだと。大衆文化とはこのようにして広まるという。この考えは仮説だろうと察するが、一考に値する。

ハイカルチャーを享受するには相応の教養や金と時間が必要であった。だが、大衆が実力を持つのが20世紀。大衆社会においては、高等教育を受けた人々が増加し、ハイカルチャーも一般に楽しめれるようになる。絵画であれば、美術館に足を運ばなくとも美術書やパンフレットなどで見られる。音楽も演奏会に行かなくともラジオ・レコード・テレビで気軽に楽しむことができるように変容していった。今は電子媒体で安価で広汎に普及している。現代は、いわばハイカルチャーの大衆文化時代といえる。要は、Cultural Studiesとは以上の現象をもっと掘り下げて”難しく”研究する分野のようだ。

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文化を考える その6 文化の日のエピソード

Last Updated on 2014年8月13日 by 成田滋

誰かが「自分は異邦人であり、よそ者であるという視点から物事を見つめることが大事だ」といっている。この稿を書きながらこの指摘を考えている。アルベール・カミュ(Albert Camus)の小説に「異邦人」というのがあるが、こちらは「明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性」(Wikipedia)というように、文化の話題からすこしそれる。だがなぜか「異邦人」という言葉に惹かれる。

ルース・ベネディクト(Ruth Benedict)の文化観が我々にとって身近になるような気がする。それは、共同体それぞれ文化に基準があり、他の価値や伝統からでは意味を理解することが困難だ、ということである。日本人論とか日本文化ということが内外の識者によって語られるのを読むことがある。そこでの文化のとらえ方は、「日本人」とか「日本文化」でくくられる狭い意味の文化論ではなく、生活や環境全体を意識しながら重層的にとらえる見方である。徹底的にエスノセントリズム(ethnocentrism)という自文化中心主義を排除していることでもある。

先日、孫娘や娘婿らと会話しながら、日本とアメリカの公的祝日について話題となった。建国記念日や天皇誕生日、憲法記念日などは彼らには納得できる。だが、日本には成人の日、春分の日、秋分の日が祝日になっていること、みどりの日、文化の日などがあることに興味を示した。

筆者が特に説明に窮したのは文化の日の意義である。「日本の文化を大事にすること、学問に励むこと、ノーベル賞をもらった人々に勲章を与える」などと説明したのだが、得心する顔ではなかった。これではいかんと思い調べると、もともとの文化の日の制定は、明治天皇誕生日である1852年11月3日に由来するというのだ。確かに、戦後しばらくの間、両親らがこの日を「天長節」と呼んでいた。明治天皇は国民にとって偉大な存在だったようである。

みどりの日、昭和の日などを天皇の誕生日を記念する日であることも説明した。すると娘婿が、「日本は新しい天皇が生まれるたびに祝日が増えるのか?」と誠にこちらを困らせる質問をしてきた。

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文化を考える その5 サブカルチャーの回帰

Last Updated on 2014年8月12日 by 成田滋

サブカルチャーのメインカルチャーへの挑戦は至るところに現象として現れた。当然のように文化と考えられた歴史とか古典に対する強い関心と畏敬は、サブカルチャー(大衆文化)の側からすると一種の審美的文化観とされて、時に「マニア」、「おたく」といった独特な行動様式として揶揄することもある。しかし、おたくの本人は「伊達や酔狂」と自負するようなところがあって、むしろ孤高のような存在感を楽しむようなところもあるようだ。

サブとメインの境界が曖昧になったということは、その逆転現象がうまれてきたということでもある。例えば、活字文化は今もそうかもしれないが、メインカルチャーの旗頭であった。だが、なにもかも電子媒体としてメディア界に急速に広がるのが現在。書籍の売り上げた伸びないのは、電子媒体の流通と普及があるともいわれる。多くの書類、卒業論文、研究論文は電子媒体で提出しなければならない。悔しいことだが、手書きの論文は受け付けてくれない。

「子どもたちは夏目漱石や森鴎外を読まないのではない。読めないのだ」ともいわれる。漢字能力の低下が一因だというのである。手書きできない。それで電子辞書を使い携帯電話サイトから「ケータイ小説」をつくる。「書く」のではない。漢字が書けなくても小説が書けるという時代になった。「話し言葉が中心なので親近感があり、一文一文が短く読みやすい」という新しい文化観もそこにある。

技術革新に伴う諸々の変化は、もはや後戻りができない。革新が続くだけだ。だが、電子媒体にも寿命がある。記録したデータを保持できる期間は有限である。読み込みの処理がなくとも経年により媒体は劣化していく。そしてデータが読めなくなったり消失したりする。自分もその苦い経験はある。もっとも機械的な寿命の問題だったが、。

活字文化がサブカルチャーか、メインカルチャーかという議論はすまい。だが分かっていることは、サブとメインの逆転、そのまた逆転も起きうることである。今や「アングラ」も「ヌーヴェルヴァーグ」もという表現も目にすることはない。文化の論争は意味がなくなっているからだろう。

活字文化プロジェクトが各地で盛んになり、活字文化推進会議とか活字文化推進機構もできた。電子媒体文化とのせめぎ合いのようだが、両者が共存することも文化ではないかと思うのである。

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文化を考える その4 サブカルチャーの台頭

Last Updated on 2014年8月21日 by 成田滋

1960年代のサブカルチャーを誘因する大きなきっかけとなったのは、ベトナム戦争である。既成の体制やハイカルチャーに対して主として若者が怒りだす。主流の文化であるメインカルチャーの地位が揺るぎ出すのである。それまでサブカルチャーとして卑下されがちであった現象が次第に認知されていく。このことはメインとサブの境界を曖昧にしていくことを意味する。

音楽の世界ではビートルズのジョン・レノン(John Lennon)、ボブ・ディラン(Bob Dylan)、ジョーン・バエズ(Joan Baez)、ピーター・ポウル・メアリー(Peter, Paul & Mary-PPM)などである。彼らの、自由と平和を訴えるメッセージは若者だけでなく広く大衆に受け入れられていく。映画の世界でも芸術性の高い作品に混じって、大衆娯楽に徹するものとが共存していく。「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれる”新しい波”の映画も制作される。大島渚の「愛のコリーダ」は既成の概念を打破するような演出だ。演劇もそうだ。アンダーグラウンド(Underground-culture)とかカウンターカルチャー(Counter-culture)と呼ばれ、反権威主義的な文化が芸術運動が広まった。それまで認知度が低く、水面下での活動がやがて社会的な地位を確立していく。

漫画やアニメはかつてはサブカルチャーだったが、今やすっかりメインカルチャーとして不動のものとなった。ビデオ・オン・デマンド(VOD)が有線テレビジョン(CATV)で提供されている。大宅壮一には今の社会状況がどのように写るのかは興味ある話題である。どんな流行語を使うだろうか。

alg-peter-paul-and-mary-jpg Peter, Paul & Maryimg_0愛のコリーダから

文化を考える その3 ハイカルチャーとサブカルチャー

Last Updated on 2014年8月9日 by 成田滋

文化の語源を調べているが、cultureを誰が文化と訳したのか分からない。中江兆民とか福沢諭吉などかもしれない。そもそも文化とは、その時代の主流な文化とされるハイカルチャー(high-culture)を意味した。知識階層に欠かすことができない素養として、古典とか歴史、文学に精通していること、それがハイカルチャーということのようだ。

ハイカルチャーは、学問、芸術、演劇、美術、音楽といった「教養ある人々、あるいは知識人」に支持されたもので、それを享受するにはある程度の知識や素養を要求された。一般芸能などを卑下し排除したりする時代精神があった。しかし、社会が大衆化するにつれて、やがてこうした文化観は変容していく。

前々回、江戸の吉原という集団の特徴について少し触れた。花魁を頂点とする遊里には、独特のしきたりに沿った秩序があった。客をもてなすために、花魁はかなりの教養や技能、所作が求められた。そのために、若い花魁に読み書きや所作を教授する者もいた。「吉原裏同心」の小説では主人公の神守幹次郎の妻、汀女がその役を担っていた。粋もいれば無粋もいる。客を飽きさせないために、繊細な知識や技能が花魁に求められたという次第だ。吉原というところは、ハイカルチャーな世界だったことが伺い知ることができる。

時代小説はさておき、1960年代に盛んにサブカルチャー(sub-culture)という言葉が広まった。その意味は、その時代の「主流文化」、別称メインカルチャー(main-culture)とは異なる、あるいはそれに反するといった文化観である。マジョリティの価値観から逸脱する思想や行動様式、言葉などを指すのがサブカルチャーであった。こうして文化の定義が難しくなっていく。

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文化を考える その2 文化とは

Last Updated on 2014年8月8日 by 成田滋

前回は佐伯泰英の時代小説を読みながら「文化」の一面ということを考えた。吉原という共同体は固有の生活様式で統合されており、他の文化からの基準ではこの共同体を理解することは困難だということをいいたかった。相対化という視点でこの共同体における生活内容や人々の行動様式を問うていく必要がある。だが結構難しい話題である。

文化の定義めいたことである。文化には二つの意味がありそうだ。第一は優れた芸術、学問、技術、それが醸し出す上品な雰囲気のようなことである。第二は受け継がれていく人間行動のパタンや価値観としての文化ということである。広辞苑によれば「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果、衣食住、技術、学問、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容」とある。文化とは概して好ましいもの、望ましいものと考えられてきた。その例として、以下のように「文化」がつく単語がある。

文化国家、文化庁、文化勲章、文化都市、文化村、文化広場、文化センター、文化功労、文化の日、文化映画、文化財、文化革命、文化圏、文化保存、あげくは文化住宅、文化風呂、文化食品、文化鍋、文化包丁などである。うさんくさい響きの単語だが「文化人」というのもある。

広辞苑はさらに、文化に対峙する単語は「自然」とある。なるほど、ドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕作」、「培養」、「洗練」、「教化」、「産物」という意味であり、人間が自然に手を加えて形成してきた成果といえる。

人が作ったものが文化だとして、すべての文化が人間を幸せにしたということではない。人は文化によって苦しみ、虐げられ、死に追いやられてきた事実も限りなくある。原発、武器、戦争なども文化そのもの、あるいは文化の所産といえまいか。

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文化を考える その1 時代小説から

Last Updated on 2014年8月9日 by 成田滋

佐伯泰英の時代小説に「吉原裏同心」というシリーズものがある。この小説の舞台は江戸の吉原である。ここに暮らす人々の夢と欲望、汚れさと純真さ、嫉妬と愛情などが描かれている。

天下御免の色里、吉原の頂点にいるのが花魁である。一見華やかな太夫、花魁の世界。その背景には、売られ買われる女性がいる。それを取り巻く大勢の人が吉原で暮らす。例えば、吉原の秩序を保つ江戸町奉行の与力や同心、廓内での騒ぎをまとめる頭取や小頭、さらに医者、仕出し屋、職人、商人、芸者がいて吉原という集団を形成している。

愛欲が渦巻く遊里にはいろいろな事件が起こる。しかし、幕府公認のこの色里には廓内のきまりがあり、それによって自治や治安が保たれるという不思議な世界である。

筆者がこの時代小説に惹かれるのは、吉原という共同体に受け継がれる行動のパタンやその背後にある価値観という文化なのである。この文化を考えるには、その文化に縛られる吉原という場を設定する必要がある。そうでなければ、吉原という「場」をステレオタイプ(固定観念)でとらえてしまう。この観念に対抗する視点を持たなければ、なぜ裏同心という存在が重要になるかがわからない。

江戸文化というと一見、茫漠としているが、それは人々が手を加えて形成してきた衣食住をはじめ、歌舞音曲、作法、詩歌など生活様式と内容という総体のことである。この総体を意識すると、吉原に暮らす人々の日常性のなかに少々大袈裟であるが、文化ということになにか原理的な意味を見つけられるような気がしてきている。

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英語あれこれ その22 聞き返すことをためらわない

Last Updated on 2014年8月6日 by 成田滋

英語で赤恥をかいた経験はすでに披瀝した。そんな体験からもう一稿を綴ってみる。外国人と話をしていて意味がわからないことがしばしばある。今もある。そのとき、ニコニコしたり、安易に頷いたりすると赤面することがあるという教訓である。特に質問されたとき、その意味を一定程度、確認することが大事だ。そうでないと質問にきちんと答えることができない。

理解出来ないときは、聞き返すことをためらわないことだ。次のような丁寧な尋ね方の決まり文句がある。以下、すべて中学で学ぶ言い回しである。

「もう一度言ってください。」 I beg your pardon?
「おしゃることがわかりませんが、、」 I cannot follow you. Could you tell me again?
「わかりやすく言ってください。」 Could you paraphrase it?
「すみませんが、もう一度言ってください。」 Will you say it again?

すこしくだけた表現もある。次のように聞き返してもOKである。
「もう一度お願いします。」 Say it again please.
「もう一度どうぞ。」 Pardon? Beg pardon?
「済みませんが判りません。」 I don’t understand what you mean.

次のような独特な尋ね方もある。
「チンプンカンプンです。」 I’m in the air. Could you,,,,?
「意味がわかりません。」 I’m lost. Could you,,,,?
「わからないんですが、、」 I can’t follow you.

分からないときは、「なにか例がありますか、」とか「例を示してください」と食い下がることである。聞き返すことにためらわないことが上達への道。そして「あなたともっと会話したい」と意思表明する。すごすごと引き下がるとあとで必ず後悔する。
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英語あれこれ その21 英文は直接話法で

Last Updated on 2014年8月5日 by 成田滋

この春、バルセロナを旅していたとき、兵教大の同窓生から英文要約を点検して欲しいというメールが入った。その要約を直して、同行していた長男の嫁Kateに見せると「受身形」に赤線が入った。直接話法にすることだ、というのである。

筆者の英語には特徴がある。その特徴は、日本人としての典型的なものといえそうだ。例えば、遠回しに表現したり、間接的にあることを伝えようとすることである。そのために間接話法というのを使う傾向がある。

間接話法の文章には説得力が欠けるというのである。「誰かかがそう言った、誰かがそのように考えている、研究結果がよく暗黙の了解がある」ということが間接話法で表現される。今時でいえば「KY」というのである。しかし文章を書くとき、KYは全くよくない。暗黙知といっても、間合いや言い表さない余白、舌足らずなどの部分を補ってくれるものが必要となる。文章では、舌足らずは舌足らずであり、相手に通じない。

日本人の思考の特徴は「ら旋型」と呼ばれる。その意味は、遠巻きに巡り巡りながら物事の核心へと向かっていくことだそうだ。当然、まわりくどくなったり同じことを繰り返すことにもなる。時間が未来となったり過去となったりする。単刀直入に核心を衝く表現は望まれないことがある。「趣がない」とか、「強すぎる」などといって好まれない。むしろ文章には、余韻や余白などの「遊び」が必要だといわれる。詩歌がそうだ。だが英語で文章を書くとき、特にペーパーを書くときはこの遊びは全く通用しない。

文章には簡潔さが大事である。そのために必要なスキルとは、理路整然とした文章を書くための修辞法を学ぶことである。修辞法とは、文節と文節、文と文をつなぐ接続の手法、比較対照の事例の使い方、文章のリズム、適切な語彙の使用といったことである。

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