お金の価値 その八 銀行の機能と「信用創造」

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 銀行は三つの機能を有するといわれます。ほとんどの人は預金のために銀行に口座を持っています。銀行は集めた預金を他に貸し出して経済を活性化しているのです。それによってわずかですが、預金者に利息を払うのです。銀行は、こうした預金業務を請け負う「金融仲介機能」を行っています。これが第一の機能です。

 次に銀行は口座からの自動引き落としによって公共料金やカード支払いを引き受けるサービス業務を請け負っています。これは為替業務といわれ「決済機能」です。私と同様にアメリカの大学で勉強していた子どもたちの学費のために、為替業務を通して送金していました。当然手数料が発生しましたが、実に便利な決済でした。

日本銀行

 銀行の三番目の機能は「信用創造」(credit creation)というものです。この機能は少々わかりにくいですが、流通している通貨の量を増やす働きがあります。これが「信用創造機能」です。もっといいますと、集められた預金を他の人や企業に対する貸し出し業務によって通貨が増える仕組みのことです。貸し出しは融資ともいわれます。銀行が貸し出しを繰り返すことによって、銀行全体として、最初に受け入れた預金額の何倍もの預金通貨をつくりだすことを「信用創造」といいます。

 「信用創造」のからくりは次のような例で説明できます。Aさんが民間銀行に100万円を預けます。次にこの銀行はBさんに90万円を貸し出すとします。Bさんはそのまま90万円を預けます。そうするとこの銀行にはAさんの預金100万円とBさんの90万円の預金残高があることになります。100万円のお金が190万円になっているのです。銀行は現金で貸し出すことはしません。その代わりにBさんに口座を作ってもらい、その口座に90万円と書き入れることでお金を貸し出すのです。これが「信用創造」の考え方です。

 「信用創造」は社会全体の通貨量を増やすことによって、経済活動を円滑にするという役割を持っているといわれます。別な見方をしますと、融資活動が活発な時は、通貨が増え、それによって経済活動も好調になるといえます。つまり、銀行から融資を受けた者はそれによって新規に工場を建て、商品の生産にまわしたりしながら供給活動を活発にすることができるのです。銀行が融資するだけで、預金は創造されるのでしょうか。政府が支出するだけで、日銀の準備預金は創造されるのでしょうか。答えはイエス、まるで錬金術や詐欺のようですが、「信用創造」とはこのような仕組みなのです。

信用創造

 もう一つの「信用創造」に関する説明です。銀行に100万円の預金があるとしましょう。ただ、銀行は100万円の紙幣を金庫に保管しているのはありません。銀行のコンピュータ上に100万円というデータがあるだけです。ですからキーボードをたたけば、いくらでも貨幣を造り出すことができるのです。世の中の通貨には現金と預金から成り立っています。ですがほとんどのお金は預金というデータです。私たちが5万円を紙幣で税務署で納税するとします。そのお金は政府預金に50,000とデータ入力して5万円が加わります。政府は5万円という紙幣を使って支出にあてるのではありません。データ入力した50,000の1万円札5枚は紙幣はシュレッダーにかけてよいのです。なお、政府預金とは、日銀に持つ当座預金のことです。

(投稿日時 2024年10月14日)  成田 滋

お金の価値 その七 為替取引のはじまり

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 古今東西、物の取引には通貨が介在します。対面のときは特にそうです。しかし、遠方と遠方の取引ではそうはいきません。そこで人々はいかに取引するかを工夫していきます。中世に入ると、遠隔地間の売買を決済するのに、現金の輸送ではなく、手形という書類によって決済するすることが盛んになります。これが「為替取引」です。

 日本で最初の為替取引は、「替米」であると言われています。「替米」とは、手形のことで鎌倉時代には御家人が鎌倉や京都で米や銭を受け取る仕組みとして利用されたといわれます。言うまでもなく手形とは一定期間後に現金化できる証書のことです。

替米

 13世紀後半になると、「替米」に代わって「割符」が登場します。「割符」も手形のようなものです。割符の由来は、当事者同士が別々に所有し、後日その二つを合わせて証拠としたという意味があります。商取引が発展し為替取引が活発化すると、手形の発行と支払いを専門とする割符屋が現れます。現在の銀行のような為替業務をする商売です。

割符

 戦国時代になると、大名の命令によって、武田信玄の甲州金や豊臣秀吉の金貨、銀貨などが次々と鋳造されるようになります。甲州金は、甲斐国などで流通した貨幣です。武田領国では黒川金山や湯之奥金山などの金山が存在したので、こうした貨幣が鋳造されたと記録されています。秀吉が作った金貨は「天正長大判」とか「天正菱大判」といわれます。江戸時代になると、徳川家康によって全国統一の貨幣として、金貨、銀貨、銭貨の三貨が鋳造されました。これが全国で通用する鋳造貨幣の誕生といわれます。

天正長大判


 家康が鋳造した三貨のうち、江戸や上方を中心として東日本に流通していた金貨と銭貨は「計数貨幣」であったのに対し、大坂を中心として西日本に流通していた銀貨は「秤量貨幣」でした。「計数貨幣」は、額面価格と貨幣の枚数で価値が決まり、「秤量貨幣」は重さで価値が決まるものです。こうして金貨と銀貨の両替とか交換のために「相場」が生じます。

 両替は、時期などによって相場が変化する変動相場となっていたことから、手数料を取って両替をする両替商というのが生まれます。両替商は、両替以外にも、商人や大名、そして幕府などを取引相手として、預金の受入れや、手形の発行や決済、貸付や為替取引など各種の金融業務を広く営むようになります。こうして両替商は現在の銀行業務と同じような役割を担っていきます。わかりやすくいえば、空港などで外貨の両替を行う店舗とか窓口のことと思えば良いでしょう。

 江戸幕府や諸藩は財政上の不足を補うために御用金を徴収しました。御用金とは、町人や農民らに対して臨時に上納を命じた金銀を指します。体裁としては臨時の借上金であり、利払いと元本返済の約束がされていたので、現在の国債の元となったといわれます。

 Wikipediaによりますと、日本における最初の紙幣は、戦国時代に伊勢国で発行された山田羽書(やまだはがき)といわれます。伊勢国は昔から伊勢商人の拠点として知られていました。特に伊勢神宮の門前町であった伊勢山田は日本各地に営業網を持つ伊勢御師の拠点でもありました。伊勢御師とは、「お伊勢参りの仕掛け人」で、広告を出したり、参拝案内や宿泊などの世話をする神職のことです。伊勢御師が彼らの営業網を利用して一種の私札である山田羽書を発行して各地で流通させたといわれます。伊勢参りのために使われたのが山田羽書というわけです。山田羽書は後にどこかで現金化されたはずです。

 さらに藩札という紙幣が発行されます。その直接的な狙いは紙幣発行と引き替えに正貨を得て藩の財政難を救うことにありました。藩札は、幕府が発行する金貨や銀貨、銅貨と交換できるという約束のもと、基本的にはその大名の治める藩内で通用しました。銀貨が必要な場合、大名らは強制力を用いて紙幣と引き替えに銀貨を回収し、住民には紙幣を使用させたのです。そして諸藩は、領内の主要な地点に藩札会所を開設し、印刷用の版型などを管理します。印刷は領内で行い、領内外の富商・富農、両替商などを藩の用達商人を札元として指定し、彼らの信用によって紙幣を流通させていきます。

 このような紙幣の発行によって、時には社会に混乱を引き起こします。時の為政者は、藩札の兌換を巡る取り付け騒ぎや一揆、打ちこわし、信用の裏付けの弱い紙幣の流通、小判の純度の引き下げという改鋳に苦慮したようです。いわば、悪貨は良貨を駆逐する事態が起こったのです。徳川吉宗は経済失策の原因が金融引き締めにあるとは見抜けず、質素倹約という緊縮財政を強いたことが知られています。市中に出回る通貨が減る状態です。江戸の経済を活性化するためには、倹約とか引き締めではなく、財政支出の増大によって需要を喚起し、人々を働かせて生産を高めることが必要だったのです。

John M. Keynes


 質素倹約の様相を現代社会にあてはめてみましょう。私たちは貯蓄を増やそうとします。そのためには支出を減らす努力をします。物価が上がる世相ですから、できるだけワケありのものを選ぶとか、買え控えするのです。そうすると総消費や国民所得は減ってしまいます。そのことにより企業は減産し、賃金を引き下げ、従業員を解雇し、それゆえ家計の所得は減っていきます。つまり、失業した人々が減らす貯蓄と消費を削った人々が増やす貯蓄が等しくなったときには、全体としての貯蓄、つまり金融資産は増えないのです。これが経済学者ジョン・ケインズ(John M. Keynes)の有名な「倹約のパラドックス」(paradox of thrift)です。
(投稿日時 2024年10月12日) 成田 滋

お金の価値 その六 電子マネーの普及

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 最近、現金を使う機会が少なくなりました。これまでは、銀行や郵便局、コンビニから現金で振り込みをすることが多かったのですが、最近は全くそうした振り込みをしなくて済むようになりました。自宅でパソコンやスマホで決済するのです。買い物もクレジットカードで済ませ、電車やパスに乗るときは全国交通系ICカードを利用します。このカードも残金が少なくなると、紐付けされている口座から自動的にチャージされます。ただ、交通系ICカードはシステム更新に費用がかかるので近々廃止され、クレジットカードのタッチ決済やQRコード決済に取って代わられます。

 現金をデータ化し、電子データをやりとりすることでキャッシュレスで買い物ができるのが電子マネーです。電子マネーはアプリやクレジットカードと紐づけて、キャッシュレスで買い物ができるサービスです。電子マネーは現金での支払いでは得られないお得なポイントがたまるという利点もあり、急速に利用が進んでいます。店のレジにあるリーダーにクレジット・デビット・プリペイドをタッチするだけ。サインも暗証番号も不要なので便利です。

Bit Coin

 最近、ビットコイン(Bitcoin)やペイパル(PayPal)といった「暗号資産」が話題となっています。もともと法令上、「暗号資産」は「仮想通貨」と呼ばれていましたが、現在は「暗号資産」へと呼称が変更されています。基本的なことですが、暗号資産は、中央銀行によって発行された法定通貨ではありません。つまり通貨としての裏付け資産を持っていないのです。円とかドルでの決済には銀行などの第三者が介入しますが、暗号資産は銀行の介入はありません。「交換所」や「取引所」と呼ばれる暗号資産交換業者がいて、入手・換金することができます。こうした業者は、金融庁で登録を受けなければなりません。

 ここで一つの質問です。ビットコインで納税できるのでしょうか。答えはノーです。なぜかというと、暗号通貨は主権通貨でないからです。主権通貨とは、国が、排他的に法的にコントロールする権能を有する通貨のことです。米ドル紙幣の表面には、「この紙幣は公的及び私的なすべての債務に対する法的な支払い手段である」と表記されています。日本銀行券にはこうした但し書きは見当たりません。銀行券は主権通貨として確立しているから言わずもがななのでしょう。

 暗号資産は、法定通貨と同様に物やサービスの対価としてやり取りすることが可能な仕組みとして、高い注目は集めてはいます。利用者の需給関係などのさまざまな要因によって、暗号資産の価格が大きく変動する傾向にある点には注意が必要なようです。利用者の需給関係などのさまざまな要因によって、暗号資産の価格が大きく変動する傾向にあることを理解する必要があります。私は暗号資産の口座を開いたことはありません。

Credit card in Korea

 ペイパルなどの暗号資産は、基本的に銀行と資金の受取り手の媒介として機能しています。ペイパルのアカウントには銀行口座からの引き落とし、クレジットカードによる前払いによって資金が集められています。このように預金口座はクレジットカードを提供している銀行の背後に存在しているといえます。

 2024年7月に韓国のソウルへ行ったときです。一番驚いたことは電車でもパスでも博物館でも喫茶店でもクレジットカードやデビットカードが使えることです。韓国通貨ウオンを使うことは全くありませんでした。この上もなく便利な旅でした。これまでのような現金による決済は、韓国でもインターネットなどの通信ネットワークを利用しての電子取引に代わっています。注意すべきことは、成りすましでアカウントを不正に利用される可能性があることや、操作ミスによって間違った商品を注文してしまうことなどです。現金決済とは全く違うことに留意したいものではあります。
(投稿日時 2024年10月10日)  成田 滋

お金の価値 その五 小切手とカード

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 1977年から1983年頃にウィスコンシン大学で留学していたときのエピソードです。まず大学に着いて最初に行ったことは地元の銀行に現金を持参して口座を開設したことでした。そうすると銀行から100枚綴りの小切手帳が渡されました。そうしてアパートの家賃の支払いなどから小切手を使い始めることになりました。

 新学期が始まるので、授業料を支払いにいきますと、大学からは、「現金での授業料は受け取らない、小切手で支払うように」との指示でした。その理由は、多額の現金を口座から引き出すのは不便であり、収受には間違いが起こりやすいというのです。国際ロータリークラブからの奨学金も小切手で渡されました。それもって預金口座に入れました。

小切手

 毎日、買い物をするときは小切手で支払います。もちろん現金での支払いもあります。電気代などの請求書の支払いには、小切手を会社に郵送するのが一般的です。実は今も小切手全体の4分の3がアメリカで切られているのですが、他のどの国も小切手は普及していないといわれます。日本もしかりです。クレジットカード決済を生み出し、暗号資産を生み出したアメリカで、今も古風な小切手が使われているのはなぜでしょう。小切手が最も普及している国が、クレジットカードを発明し、ペイパル(PayPal)やアップルペイ(ApplePay)を生み出し、メタの暗号通貨リブラ(Libra)を考え出した国であるというのは不思議な現象といえそうです。

 1970年代は、日本ではクレジットカードの利用は一般的ではありませんでした。「インターナショナルカード」というカードが発行されたのは1978年の日本ダイナースクラブです。当然ですが当時私はクレジットカードなるもの持っておりませんでした。今も、日本でのカードの利用率は低いといわれます。スーパーマーケットでのカウンターでは、ほとんどの人が現金で支払うのを目にします。カードの信認度の低さとカード利用率の低さには因果関係があるといわれます。我が国でカードの利用が少ないのは、カードを使えるところが少ないからなのか、それとも人々がカードを使いたがらないからでしょうか?カードの価値は、それがどこで使えるか否かによって決まるのだと思われます。田舎の小さな店での買い物ではカードは使えません。

Apple Pay

 日本は世界に比べてカードが普及していません。その理由は正札が精巧で偽札が少ないことに関連しているようです。偽札が出回ると現金でのやりとりのとき、本物かどうかで点検することになり、やりとりでいやな雰囲気になりかねません。その一例を紹介します。私が沖縄からウィスコンシン大学に留学するとき、那覇東ロータリークラブの役員だった方よりお餞別として100ドルを貰いました。100ドル札です。あるとき、買い物でそれを使おうとすると、店員がしげしげと見て、「店長と相談するので待って欲しい」というのです。店員は始めて100ドル札を見たにちがいありません。そして偽札と疑ったのでしょう。小切手やカードはその心配がないので、現金より利用することが多いのです。それに引き換え、日本のお金は安心して使えるという風土や文化が国民に定着しているので、小切手やカードはあまり普及しないようです。

Debit Card

 デビットカードとクレジットカードが最も利用されているのが韓国です。このことを前稿で申し上げました。カードの利用と同時に銀行口座から引き落とされる即時払い方式がデビットカードです。基本的には一括払いのみで、口座残高の範囲内でしか利用できないため、お金の使いすぎを防ぐことができます。他方、後払い方式で、一定期間内に決済した金額が毎月決まったタイミングにまとめて引き落とされるのがクレジットカードです。1回払いだけでなく、分割払いでの支払いや、利用件数や利用金額にかかわらず毎月一定額を払うリボ払いも可能です。

 小切手の話題に戻りますが、アメリカ人が小切手を好む理由は、他の支払いの選択肢と比べたときの小切手の魅力にあるからなのでしょう。スーパーマーケットでは、小切手をきって現金に換えることができるほどです。このように小切手がアメリカで便利なのは、それが受け入れられ、それを管理する法的枠組みがあり、そして同じくらい重要なことに、それが文化の一部となっているからだと思われます。支払い方法での選択肢がある他の国々で、小切手がほとんど使われていないのはなぜなのか、これは興味ある話題です。私の見立てでは、日本人は小切手は現金という通貨よりも信用がないと思っているからです。本来小切手は通貨のはずなのですが、その信認が低いのです。

 先日親戚の葬儀に行ってきました。そのために銀行に出かけ口座から札を引き出し、新品のものだけを選んで香典袋入れて持参しました。不便きまわりないことでした。これも日本古来の伝統なのかと諦めるとともに、小切手の便利さを思い起こした次第でした。
(投稿日時 2024年10月7日) 成田 滋

お金の価値 その四 国債は国の借金

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 日本政府が発行する債券は「日本国債」と呼ばれます。これが国債です。通常国債は銀行で売買されます。日本の場合は日本国内での個人向け売買や金融機関が運用を目的に購入するのが主流です。他国の国債は国際間で売買されることが多く、日本も他国の国債を大量に保有しています。特にドル建の国債を多額に所有しています。国債を大量に持っているとその国と外交交渉するときに有利ですし、貿易などでのドル建ての決済に必要な資金となります。円高の時に購入したドルを円安になったからといって全部売却するのはドル建ての決済で困るので、おいそれと売買できないのです。外国債はその国がデフォルトすると回収できなくなってしまうというデメリットはありますが、ドルやユーロの場合は強固な通貨ですから債務不履行、すなわちデフォルトの心配はほとんどありません。

昔の国債

 国債は国の借金と言いましたが、自国で国債を売買している場合にはデフォルトは起きません。外国に国債を買ってもらっている場合は、返済できないと国際問題になります。ギリシャやスペインは国債を外国に引き受けてもらっているため、自国の通貨で返済できないので困ったのです。かつて、国債は用紙に券面を印刷して発券されていましたが、2003年1月から始まった「振替決済制度」によりペーパーレス化が進みました。この制度では国債を紙で発行しないことや売却や購入などの取引内容が口座情報に記録されることが法的に明確にされました。

 財務省のサイトには興味ある記述があります。それは「国民1人当たり1000万円の借金」であるというフレーズです。この借金を孫の代までにも背負わせてよいのか、という言葉です。ここで肝心なことは、「国の借金」は「国民の借金」ではなくて日本政府の借金なのです。この政府の借金をあたかも国民がこれから税金を支払って返さなければならないようなフレーズになっているのです。これは大きな間違いで、決して国民が返済したり、負担したりするものではありません。財務省はこのようなフレーズを使って、借金は良くない、通貨をむやみに発行してはいけないのだというのです。「国民1人当たり1000万円の借金」というのは、「借金額を国の人口で割ってみただけの数字」なのです。国債は借換債という国債で返却されます。国民の税金で償還するのではありません。

GDP比の債務残高

 ここで間違ってはいけないのは、政府の借金は家計の借金とは全く異なるということです。家計では、借金は自分でいつか返さなければなりません。自分で紙幣を刷ることは許されていないの反して、政府には子会社である日本銀行には貨幣発行という能力があるのです。この通貨発行権があるため、借金を期限内に必ず返済することができるのです。ですから国の借金と呼ばれる政府債務は大変でも何でもなく、日本の財政破綻といった可能性は全くないのです。

 繰り返しますが政府・日銀には日本円の政府の債務はほぼすべて円建てなので、債務不履行に陥ることはありません。海外で起こるデフォルトの話は、デフォルトした国は、外貨を持たないために支払いができない状態なのです。適正な量の国債発行は、「信用創造」という日銀が有する「貨幣を生み出す」機能を指します。信用創造とは、銀行が貸し出しを繰り返すことによって、銀行全体として、最初に受け入れた預金額以上の預金通貨をつくりだすことをいいます。創造される信用貨幣の量は日銀の準備預金制度に依存していますので、過度な発行は控えられるのは当然です。ちなみに準備預金制度とは、市中銀行の預金の一定割合の額を中央銀行に預け入れさせる制度のことです。この預金は当座預金となり利息はつきません。

 ところでWikipediaによりますと、21世紀に入ってからの各国の負債の増加を見ると2001年=100とし、2015年時点のデータでは、英国が429、米国338、日本は163とG7の中で最も増加率が低いのです。G7の中で最も借金を増やしていないのです。この状態が望ましいかどうかです。この負債とは国債のことです。国債は、需要と供給を促進するための投資です。日本は投資をしない「ケチケチ国家」ともいえるのです。

 今、日本は震災や天災に備えなければならない状態です。国土強靱化が叫ばれています。そのためには、膨大な資金が必要です。震災や天災が起きてからの復興は大変なことです。もっと事前に強靱化を進めておけば被害を少なくすることができるのです。防災庁の設置ということが新内閣で言われています。そのためには、大量の資金が必要となります。もしかしたら、防災国債などが生まれるかもしれません。防災税などといった増税は論外です。

 「ケチケチ国家」を進めるのが、プライマリー・バランス(PB)の黒字化と債務残高対GDP比の安定的引き下げを掲げてきた財務省だといわれています。PBとは、財務省の見解によれば、「社会保障や公共事業をはじめ様々な行政サービスを提供するための経費を、税収等で賄えているかどうかを示す指標」といわれます。財務省は、税収でさまざまな政策的な経費を賄う財政健全化目標を掲げています。受益と負担のバランスを保つというのがプライマリー・バランスといわれます。つまり、消費増税などによって黒字化するという方針であり、国債という赤字をだす政策には反対しているのです。いざというときに、国債の信認が下がると償還が困難になりデフォルトになり、国家の信用を落とすことになりかねないと財務省は懸念するのです。

財政収支のイメージ

 G7の国債の5年以内のデフォルト確率を比較する興味あるデータがあります。それによりますと日本は0.33%とG7諸国中ドイツに次いで2番目に低いのに対し、英国は0.70%と日本の2倍以上の水準に達しています。このようにデフォルト確率が低いのは、日本国債に対する信認が高いからだというのが定説となっています。

 税収でさまざまな政策的な経費を賄う財政健全化目標というのは、「ガラパゴス化した日本の財政政策」だと揶揄されています。これが財政金融政策や経済の正常化を進める上での支障となっているといわれる所以です。経済活動が活性化しない状況が続くのは、プライマリー・バランスを堅持しようとする政府の施策にあるようです。
(投稿日時 2024年10月5日)  成田 滋

お金の価値 その三 「欲しがりません、勝つまでは」

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 戦時中の通貨発行の経緯は貨幣を考えるヒントを与えてくれています。政府は、国威発揚のために新聞報道をとおして国民から「国策標語」を求めます。「強化標語を公募し、以つて一億国民蹶起の合言葉となし。御賛同の上、御後援賜はり度」というのが大手の新聞に載ったといわれます。いわば戦争遂行のための国民決意を表す標語です。全国から多数の標語が集まったようです。その中には、「ぜいたくは敵だ」、「すべてを戦争へ」、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などに混じって次の標語も選ばれます。「胸に愛国、手には国債」です。

戦時中の国策標語の一つ

 戦費の調達のために、国は多額の国債を発行します。戦時国債と呼ばれる財政出動です。国債発行とは、通貨の発行のことです。国債によって市場に通貨を供給し、工場を建て武器を製造することを促すために発行したのです。国債によって原材料を買い入れ武器を製造するために国民を雇います。国民はそれによって収入を得ます。国債とは、このように供給と需要を大いに刺激するのです。収入が増加すると所得税が政府に入ってきます。しかし、肝心の生活に直結する品物は作らず大いに不足するのです。この状態を示す標語が「黙つて働き 笑つて納税」です。収入を需要にまわすと商品の価格が上昇し、下手するとインフレーションが起こります。戦時中ですから政府はインフレーションといった混乱を歓迎するはずがありません。

「欲しがりません、勝つまでは」

 「欲しがりません、勝つまでは」という標語も同じことです。国民に我慢を強いて、戦争を遂行したかったのです。こうした我慢や倹約という行為は、どの国でも奨励していたのです。例えば、戦時中のアメリカでは、車を一人で利用する事は隣にヒトラーを乗せている事と同じだ、という論調がありました。また自家用車では相乗りを推奨しました。缶詰を兵器に使えるようにと金属を倹約するように奨励されたこともあるくらいです。働かない国民には、兵器工場で働いて尽くすように勧めたともいわれます。「我々は標語に“触発”されたというより“抑圧”、“支配”された」という回想記も残されています。

 このように、程度こそ違いますが、戦時においてはどの国でも国民に戦争を他人事と思わせず、倹約に努め勤労にいそしむように奨励したのです。国の巨大な国債発行とは、輪転機をぐるぐる回し過ぎることです。当然通貨の価値は下落し、物価が上昇して資産が目減りしたのが戦時中の国債です。そして国民の持つ債券は大きく下落したのです。このようなインフレというリスクを国民に伝えなかったのが戦時内閣でした。

(投稿日時 2024年10月3日) 成田 滋

お金の価値 その二 輪転機を回して紙幣を刷る

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 北海道大学時代に「貨幣論」という授業を受けたことがあります。そのとき、どんなことを学んだかはほとんど記憶がありません。ただわずかに記憶に残ることは、輪転機を回して紙幣を刷りすぎると物価が上昇し、社会が混乱するということです。そのからくりは理解できるのですが、どの位の紙幣を発行するかのさじ加減はどのように決めるか、という質問を教授に出すことができませんでした。

 最近、岩井克人という学者の 『貨幣論』を読んで貨幣の興味ある話題に触れることができました。筆者は、貨幣は共同体的な存在であるいうのです。人々は貨幣を使うことによって貨幣共同体の構成員となり、貨幣共同体は貨幣が未来永劫にわたって存在し続けるとの期待によって存続するというのです。別な言い方をすれば、1万円札に1万円の価値があるのは、人々が皆そう信じているから、ということです。「他の人々もこの紙切れを1万円の価値があると思って取引に応じてくれる」という期待が壊れれば、1万円はただの紙切れになってしまういます。一例として、アマゾン川の原住民から果物を買おうとしてドルや円紙幣をだしても買えません。原住民はその価値を知らないからです。

紙幣印刷機

 以上のような現象は、戦後間もなく起こった50銭紙幣が紙切れになったのと同じで、人々がその50銭の値を信じなくなったからです。貨幣が貨幣でなくなるハイパー・インフレーションが起こったのです。Wikipediaによりますとハイパー・インフレーションとは「通常のインフレを超え、通貨が信用を失ってしまったときに起こりうる状態」と説明されています。

Benjamin Franklin

 1万円紙幣は広義の中央銀行の債務証書とされます。中央銀行とは国ー政府のことです。逆にいえば、国民は1万円の資産をもっているということです。もし政府が債務の返済を履行できない、いわゆるデフォルト状態になれば、国は滅びることを意味します。しかし、そうした事態にならないのは、国は債務を返済する力、すなわち徴税能力を持つからです。いざというときは、税金によって負債を返済できるのです。しかし、実際には徴税によって負債を解消するのではなく、借換債という国債を発行して返済するのです。このように国債を発行し続けることでデフォルトは起きないというカラクリなのです。

(投稿日時 2024年10月1日) 成田 滋

お金の価値 その一 1万円札

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 新しいの1万円札を見ながらいろいろと考える機会ができました。1万円札の製造原価は20円位であると報道されています。20円の紙切れが500倍の値打ちになるのですから、これは錬金術師が使う手であるという言葉を思い出します。

 小さいとき1円紙幣や50銭銅貨を使ったものです。昭和22年頃です。調べますと、今でもこの1円紙幣で物を買えるということを知りました。発行されてから130年以上が経過していても通貨として使えるというのですから、少々驚きです。しかし、これを使うと損することは私たちは知っています。このような小銭であったものの多くは1万円~5万円程度で取引されるといわれます。さらに驚くことは、この1円紙幣が未使用で、非常に良い状態の場合は100万円近い値がつくといわれます。

 そこで次のようなことを考えました。現在の1万円札を使わないで箪笥に大事にしまい、孫や玄孫のために残しておくとします。そして100年経つとこの1万円の値は100万倍になる可能性があるということです。玄孫は大金持ちになって小躍りするに違いありません。

Greenback

 戦後、50銭札や1円札は紙切れのようになりました。むしろ、物で欲しい物を買うことが流行しました。大事にとっておいた服の生地を米と交換するという事態です。皆がお札の価値を信用しなくなったからです。戦後まもなく、こうした通貨の価値が下落するハイパーインフレが起こりました。

米陸軍第442連隊戦闘団

 

 私が北海道の美幌にいたときです。親父は国鉄の職員でした。冬が近づくと職員には一世帯8トンの石炭が配給されました。住宅には必ず石炭小屋がありました。この小屋は夏は山羊小屋としても使っていました。お札の供給が足りなかったのか、お札の価値がなかったのかはわかりません。お札よりも石炭が幅をきかせていたことがわかります。そういえば、古代ローマでは兵士への給料は塩だったそうです。とりあえず塩を持っていれば、貴重品ですから他のものといつでも交換できたのです。塩は通貨だったのです。映画などでは、刑務所や戦場では罪人や兵士が貸し借りを煙草でやりとりする場面がでてきます。煙草も通貨だったのです。

 通常インフレーションというのは、需要と供給のバランスがとれなくなると起こります。供給が需要に追いつかない状態です。供給を増やすためには、通貨を発行し物作りを奨励しなければなりません。通貨によって原材料を仕入れ、人を雇い、工場を建てて国民が求める品物を製造して売るのです。しかし、戦後の状態は極端に供給が足りなかったのです。加えて外地から600万人もの日本人が引き揚げたり復員してきます。この急激な人口増によって需要に供給が全く追いつかなかったのです。我が成田家も樺太からの引き揚げ者でした。

 このインフレーション状態を救ったのが朝鮮戦争です。「特需」という特別の需要となる在日米軍の発注による需要の増加です。特に軍事物資の買い付けによって日本の経済は活気を呈していきます。駐留軍家族の個人消費や駐留軍の物資買付けが増大したのです。このとき、アメリカは物資、役務をドルによって買付けたので、日本のドルである外貨蓄積が大きく膨れます。ドルの保有によって海外からの原材料の買い付け、いわゆるドル決済ができるようになっていきます。この特需はヴェトナム戦争期にも国内で起こりました。

 こうして日本の経済は発展し、1955年度から1972年度あたりまでは、実質の経済成長率が年平均で10%前後を記録し、高度成長期と呼ばれるようになりました。いわゆる所得倍増計画も策定され、国民は政治から経済へと関心を向けていきます。1964年に東京オリンピックが、 1970年には大阪で日本万国博覧会が開催され、さらに新幹線の開業や高速道路の建設で全国の交通網が整備されていきます。こうして日本の戦後復興が世界に知られるようになりました。この理由は、積極的な財政投融資による経済優先の政策によるものだったと言われています。

(投稿日時 2024年9月29日)

ウィスコンシン州とマッカーシズムの終焉 その四

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 1954年の陸軍とマッカーシーの公聴会が大々的に報道されます。同年、マッカーシーによって不当にも糾弾されていたワイオミング州(Wyoming)選出の上院議員レスター・ハント(Lester C. Hunt)が自殺します。この事件でマッカーシーの支持と人気は急落していきます。1954年12月、上院は67対22でマッカーシーを非難する決議を可決し、マッカーシーはこうした懲戒処分を受けた数少ない上院議員の一人となります。マッカーシーは共産主義と社会主義に反対する運動を続けますが、その後48歳で死去します。マッカーシーの死亡診断書には死因として「急性肝炎、原因不明」と記されました。

Joseph_McCarthy

 マッカーシーの伝記作家たちは、上院での彼への非難の後、彼は悪い方向に変わったという点で一致しています。肉体的にも精神的にも衰え、「以前の自分とはかけ離れた青白い亡霊」(pale ghost of his former self)になっていたといわれます。マッカーシーは肝硬変(cirrhosis of the liver)を患い、アルコール中毒(alcohol abuse)で頻繁に入院していたと報告されています。上院補佐官やジャーナリストを含む多数の目撃者が、上院で彼が酔っ払っているのを見たとも報告しています。そして、ジャーナリストのリチャード・ローヴェレ(Richard Rovere)は次のように書いています。

 「彼は常に大酒飲みで、不満の時期にはこれまで以上に飲むこともあった。しかし、常に酔っていたわけではない。彼は何日も何週間も禁酒していた 。彼にとっては、ウイスキーの代わりにビールを飲むことを意味した。晩年の問題は、酒に我慢できなくなったことだった。2杯目、3杯目を飲むと気が狂いそうになり、すぐには立ち直れなかった。」

おわりに
 リチャード・ロービア(Richard H. Rovere)が書いた『上院議員 ジョー・マッカーシー』という著作に次のようなフレーズがあります。「多くの点でアメリカが生んだもっとも天分豊かなデマゴーグだった。われわれの間をこれ程大胆な扇動家が動きまわったことはかつてなかったj。社会学者のタルコット・パーソンズ(Talcott Parsons)は「マッカーシズムは一部の既得権益分子に支持された運動であり、同時に上流階級に対する民衆の反抗である」と説明したことも知られています。マッカーシズムが果たして民衆の反逆であったかは理解しかねますが、いずれにせよ、第二次大戦後の冷戦の副産物であったといえるようです。

参考資料
・Senator Joe McCarthy (1959) Richard H. Rovere
・Affidavit of February 23, 1954, Talcott Parsons

(投稿日時 2024年9月24日)

ウィスコンシン州と陸軍への調査やハリウッドへの追求 その三

注目

 1953 年秋、マッカーシーの委員会はアメリカ陸軍に対する不可解な調査を開始します。これはマッカーシーが陸軍通信部隊の研究所の調査を開始したことから始まります。彼は陸軍の研究者の間に危険なスパイ組織があるというニュースでいくつかの見出しを飾ります。しかし、数週間の公聴会の後、彼の調査は何も成果をあげることができませんでした。国務省の外交政策に関わった中国学者オーエン・ラティモア(Owen Lattimore)、元陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル(George Marshall)らもマッカーシーからにらまれます。マッカーシーの赤狩りは政界だけではありませんでした。ハリウッドの映画界のスターであったチャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)、ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)、グレゴリ・ペック(Gregory Peck)、さらには物理学者のロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)も遡上にあげられます。

チャーリー・チャップリン

Julius Robert Oppenheimer

 陸軍とマッカーシーの公聴会が開かれます。1954 年初頭、米陸軍はマッカーシーとその主任顧問ロイ・コーンが、マッカーシーの元補佐官でコーンの友人で、当時陸軍に兵卒として勤務していた デイビッド・シャイン(David Schine)に有利な待遇を与えるよう陸軍に不当に圧力をかけたと告発します。共和党の上院議員カール・ムント(Karl Mundt)が委員長に任命され、陸軍とマッカーシーの公聴会は 1954年4月に開催されます。公聴会は36日間続き、ABCとテレビネットワーク会社のデュモント(DuMont)によって生放送され、推定2000万人が視聴します。32人の証人と200万語の証言を聞いた後、委員会はマッカーシー自身はシャインのために不適切な影響力を行使しなかったが、コーンは過度に執拗または攻撃的な努力を行った、と結論付けます。

マッカーシズムの後退
 マッカーシーにとって、委員会の結論の出ない最終報告書よりもずっと重要だったのは、この公聴会に関する報道が彼の人気にマイナスの影響を与えたことです。聴衆の多くは彼を横暴で無謀で不誠実だとみなし、新聞でも毎日の公聴会の要約もしばしば不利な報道がなされます。公聴会の終盤、スチュアート・サイミントン(Stuart Symington)上院議員はマッカーシーに対して怒りと予言に満ちた発言をします。マッカーシーから「あなたは誰も騙せません」と言われると、サイミントン議員は「上院議員、アメリカ国民は6週間もあなたを見てきました。あなたもまた、誰も騙せません」と答えたといわれます。1954年1月のギャラップ世論調査(Gallup Poll)では、回答者の50%がマッカーシーに対して肯定的な意見を持っていました。6月にはその数は34%に減少します。同じ世論調査で、マッカーシーに対して否定的な意見を持つ人は29%から45%に増加していきます。

 共和党員や保守派の間では、マッカーシーを党と反共産主義にとっての不安な人物だととみなす人が増えていきます。ジョージ・ベンダー(George H. Bender)下院議員は「共和党に対する不満が高まっている。マッカーシズムは魔女狩り(witch-hunting)、市民の自由の否定と同義語になっている」と指摘していきます。長年にわたり頑固な反共産主義者として名声を博してきた記者フレデリック・ウォルトマン(Frederick Woltman)さえも、ニューヨーク・ワールド・テレグラム紙(New York World-Telegram)にマッカーシーを批判する5回シリーズの記事を書きます。ウォルトマンはマッカーシーが「反共産主義の大義にとって大きな重荷になっている」と述べ、「事実や事実に近いことを極端にねじ曲げて、その分野の権威を反発させている」と非難するのです。

リコール運動と非難決議
 やがてマッカーシーに対するリコール運動が始まります。リコールは無謀だという批判にもかかわらず、「ジョーは去らねばならない」という運動は勢いづき、他の共和党指導者、民主党員、実業家、農家、学生を含む多様な連合の支持を得ていきます。ウィスコンシン州憲法は、リコール選挙を強制するために必要な署名数は、選挙で集められた署名数の4分の1を超えなければならないと規定していました。反マッカーシー運動は 60日間で約 404,000の署名を集める必要がありました。労働組合や州民主党からの支援がほとんどなかったため、大まかに組織されたリコール運動は、特に陸軍とマッカーシーの公聴会が同時に行われていた間、全国的な注目を集めました。

 マッカーシーは非難を受けた後も、さらに 2 年半、上院議員としての職務を続けます。しかし、大物公人としての彼の経歴はもはや通用しなくなります。上院の同僚たちは彼を避け、上院議場での彼の演説は、ほとんど人がいない議場で行われたり、あからさまに無関心な態度で受け取られたりしました。かつては彼の公の発言をすべて記録していた報道機関は彼を無視し、外での講演依頼はほとんどなくなりました。ついにマッカーシーの政治的脅迫から解放されたアイゼンハワーは、閣僚にマッカーシズム(McCarthyism)は今や「マッカーシズム」(McCarthywasm)であると皮肉を言うほどでした。

 それでも、マッカーシーは共産主義と社会主義を非難し続けました。彼はソ連との首脳会談に大統領が出席することに対して警告し、「暴政と殺人の大義を推進することなく、暴君や殺人者に友情を示すことはできない」と述べます。彼は「共産主義者との共存は不可能であり、名誉あることではなく、望ましいことでもない。我々の長期目標は、地球上から共産主義を根絶することであるべきだ」と宣言するほでした。上院での最後の行動の1つとして、マッカーシーはアイゼンハワー大統領によるウィリアム・ブレナン(William J. Brennan)の最高裁判所判事への指名に反対します。これは、ブレナンが直前に行った演説でマッカーシーの反共産主義調査を「魔女狩り」と評したからです。しかし、マッカーシーの反対は支持を得ることができず、彼はブレナンの承認に反対票を投じた唯一の上院議員となります。
(投稿日時 2024年9月19日)  成田 滋