アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その2 『Heart of Dixie』とアラバマ州

最初の州はアラバマ州(Alabama)です。州名は、チョクトー族 (Choctaw)の酋長タスカルーサ(Tascalusa)から由来し、「黒い戦士」という意味だそうです。愛称は、『南部の中心』(Heart of Dixie)です。Dixieとは南という意味です。Dixieland Jazzは文字通り南部生まれのジャズのことです。

Dixieland Jazz

アラバマ州はディープ・サウス(Deep South)と呼ばれる地帯にあります。合衆国の南部に位置しています。一度アメリカの貧しいといわれる所の州の小学校を訪ねようと考えていました。アラバマ大学の知人を知り合い、そこでタスカルーサ(Tuscaloosa)という街にある学校へ行きました。タスカルーサにはアラバマ大学が本部キャンパスを構えています。この大学のフットボールチームは全米でも一、二位を争う強豪です。人口の比率では白人と黒人が拮抗しています。

タスカルーサ市内の小学校を訪ねたときのエピソードです。身なりが貧しい子どもが目立ちました。補助教師が子どもの学習の手伝いをしています。この人は教師の免許状なして採用されたとのこと。個々の子どもの習熟度が違うので、個別の指導が欠かせません。補助教師がどうしても必要なのです。教室にはパソコンなども見当たりません。子どもは積極的に挙手して教師に質問はしません。そのせいで教室内は静かで活気が感じられません。

Louis Amstrong

アラバマ州は人種差別の撤廃を求める公民権運動(Civil Right Movement)で知られたところです。セルマ(Selma)とモンゴメリー(Montgomery)は歴史上重要な街として、アメリカ最古かつ最大の都市の一つといわれます。1965 年、この公民権運動が進展する出来事となったデモ行進が、セルマからモンゴメリーまでの道のりで行われました。この道は、後にアメリカ公民権トレイル(Civil Rights Trail)と呼ばれるようになります。セルマは行進の出発地点です。そのきっかけをつくったのが、ローザ・パークス(Rosa Parks)という女性です。白人優先席のバスに坐り運転手から黒人席に移動するように言われますが、それを拒否したため逮捕されたことが公民権運動のデモ行進につながります。バスの乗車をボイコットして歩くという抗議運動です。

アラバマ物語

1962年に製作されたアメリカ映画『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird) があります。人種差別が根強く残る1930年代のアメリカ南部で、白人女性への性的暴行容疑で逮捕された黒人青年の事件を担当する弁護士アティカス・フィンチ(Atticus Finch)の物語です。弁護士役を演じたのが名優グレゴリー・ペック(Gregory Peck)でした。「Mockingbird」はマネシツグミと呼ばれ、口まねをする鳥として知られています。この映画を観ないとタイトルの意味がわかりません。

アメリカ合衆国を州の愛称から巡る その1 『人種のサラダボウル』とアメリカ

アメリカ合衆国の州を愛称を探して旅していきます。私が訪れた州にはいろいろな思い入れがあります。多くの州を旅して得たことたは科学研究費を使って、各州の学校の特徴とか課題を調べることができ、そのついでに歴史を学んだりしたことです。日本では特別支援教育の黎明期であった頃で、アメリカの多様な教育事情を知るのに絶好の機会でした。ついでに観光地を立ち寄ったこともあります。ですが、全ての州を訪問したわけではありません。小説や映画で知った州にも力を込めて書いていきます。家族はマサチューセッツ州とウィスコンシン州に住んでいます。私はウィスコンシン大学から学位を貰っているので特にこの二つの州には特に思い入れがありますので注目していきます。

Salada Bowl, USA

旅の途中でいろいろなエピソードがありました。学会に出掛ける機内で発表原稿を必死に暗記しているとき、女性のアテンダントが「グッドラック」といって白いフキンに包んだワインをくれたことがあります。

真冬のワシントンDCから極寒のミネアポリス行きに乗ったときです。男性アテンダントが「当機はこれからハワイのホノルルへ向かいます」とアナウンスしました。乗客は拍手で大喜びです。するとアテンダントはすまして言います。「機長はミネアポリスに向かうのだそうです」。こうしたジョークはアメリカ人は大好きです。ひんしゅくをかうことはありません。

Salada

ところで、人種がそれぞれに共存し合って国を構成している状態を指す表現に「人種のサラダボウル」と「人種のるつぼ」という表現があります。前者は、それぞれが混ざり合わずに、独立した形で共存している状態。それぞれの文化を持ちながら各人種が同じ地域に住む姿です。後者はブラジルなど南米大陸の国などで見られるように、外からやって来た白人と先住民の混血が進んだ状態でこれを「人種のるつぼ」と呼ばれます。

「人種のサラダボウル」がどのようにして発展し、また問題を抱えているかを考えながらアルファベッド順に各州を巡り歩くことにします。

アメリカ合衆国建国の歴史 その153 アメリカの分断の背景

アメリカは、創設期の諸文化が大切に育まれてきた独自の原理をもっていましたが、しばしば互いに矛盾したものでありました。18世紀半ばまでに8つの個別のヨーロッパ系アメリカの文化が北アメリカ大陸の南部と東部の周辺で確立しました。何世代もの間、これらの異なる文化の発生地域は、お互いに驚くほど孤立して発達し、特徴的な価値感や慣行、方言、理想などを定着させました。個人主義を信奉する地域もあれば、ユートピア的な社会改革を熱心に支持する地域もありました。また神の意志によって自ら導かれていると信じる地域もあれば、良心と探求の自由を擁護する地域もありました。

ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxson Protestants: WASP)のアイデンティテイを抱く地域もあれば、民族、宗教的な多元主義を標榜する地域もありました。平等と民主的参加を尊重する地域もあれば、伝統的な帰属的な秩序への敬意を重視する地域もありました。これらのどこもが今日、創設当時の理想のいくつかを保持し続けています。

脱ワスプのTシャーツ

アメリカの最も基礎的で永続的な分裂は、共和党支持州と民主党支持州、保守とリベラル、労働者と資本家、黒人と白人、信仰心の厚い人々と世俗的な人々の間にあるのではありません。むしろアメリカの分裂は、合衆国が11の地域的なネーションの全体または一部で構成されている連邦であり、それらのいくつかは、お互いを理解していないという事実によるものです。これらのネーションは州境も国境もお構いなしなのです。カリフォルニア、テキサス、イリノイ、ペンシルヴェニア内をまたがっているかと思えば、合衆国のフロンティアを超えてカナダやメキシコへと広がっているのです。

6つのネーションが一緒になってイギリス支配から解放しました。ただ、同じ英語話者の競争相手によって4つのネーションには、南北戦争で敗北したものの、屈服したわけではありませんでした。19世紀の後半にはアメリカの辺境に住む人々が集まって2つのネーションが西部で建設されます。文化多元主義で定義されるものもあれば、フランス、スペイン、アングロサクソンの文化遺産によって特徴づけられるものもあります。

WASP Logo

ネーションが融合し、ある種の統一されたアメリカ文化を形成したという兆候を探すのは難しいといわれます。それどころか、1960年以来、これらネーションの裂け目は次第に広がり、結果的に文化的葛藤や憲法論争を激化させ、国家統合の警告する訴えがこれまでにないほど繰り返されているのが今日のアメリカの姿です。南北戦争、ベトナム戦争、公民権運動、ジェンダー論争などを見ればそれがわかります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その152 ミッドランドや大アパラチアやレフトコースト

現在の中西部にあたる「ミッドランド」(Midland)は、政府の規制に反対する傾向があります。この地域はイギリスのクエーカー教徒(Quaker)が入植したところで、「アメリカのハートランド」(America’s heartland)と呼ばれる文化を生んだ温かなミドルクラスの社会といわれます。政治的意見は穏健で、政府の規制には眉をひそめがちだといわれます。ミッドランドには、ニュージャージー、ペンシルベニア、オハイオ、インディアナ、イリノイ、ミズーリ、アイオワ、カンザス、ネブラスカ各州のそれぞれ一部が含まれます。人種的に多様なミッドランドを「アメリカの偉大なるスイング地域」(America’s Great Swing Region)と呼ばれています。

11 Nations

保守的な「大アパラチア」(Greater Appalachia)といわれる地域は、最も保守的なプロテスタント教会が多く、アパラチア地方に由来を持ちます。北アイルランド、イングランド北部、スコットランドのローランド地方(Roland)といった国境紛争で荒廃した地域から来た入植者たちが築いた所で、「レッドネック」と呼ばれる白人の肉体労働者たちが住む土地です。山の住民が移住して自分たちの宗教を持ち込んだ場所を起源とする教会もあります。政治的には、この地方選出の公職者のほとんどは決定的に保守的とされます。

Midland

リベラルなのが「レフトコースト」(Left Coast)と呼ばれる太平洋西岸の地域です。レフトコーストはカリフォルニア、ワシントン、オレゴンの各州です。ニューイングランド地方と中西部のアパラチア地方の出身者たちが入植したところがレフトコーストで、ヤンキーダムのユートピア志向的な気質と、大アパラチアの自己表現や探究心」のハイブリッドの所といわれています。このようにミッドランドや大アパラチアやレフトコーストといったネーションの文化をよくよく眺めると、アメリカの政治と文化の分断が、興味深い形で浮き彫りになってきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その151 ヤンキーダムやニュー・ネザーランド

アメリカが、地理ではなく政治的信条で分断されていることは、新型コロナウイルスのパンデミックへの対応でも見てとれます。すべての州に適用される連邦政府の対策がないので、各州知事が連携して危機に立ち向かうための計画を作っています。連邦政府は各州の自由と責任に委ねるという方針なのです。

Dutch Colonies


ニューヨーク市以北の北東部からミシガン、ウィスコンシン、ミネソタ各州まで広がる「ヤンキーダム」(Yankeedom)は、教育、知的な功績、地域社会のエンパワーメント、圧政を防ぐための市民の政治参加を重んじています。ヤンキーダムは教育を重視し、政府による規制に賛成する傾向があります。ヤンキーダムの人たちには「ユートピア志向的な傾向」があるともいわれます。このエリアは、急進的なプロテスタントであるカルバン派の信者が入植した地域です。

New Netherland


ニューヨーク市を含む「ニュー・ネザーランド」(New Netherland)には、「唯物主義」の文化があります。商業的な文化が色濃いニュー・ネザーランドは、唯物主義的な傾向があり、民族や宗教の多様性にきわめて寛容で、探究の自由と道義心を断固として守り抜くという精神があるともいわれます。本国オランダの基盤である「宗教的自制心の自由を保ち享受する」という信仰精神や多元的共存性の富の尊重、文化的および宗教的寛容さの影響であろうといわれます。オランダの影響は、ロードアイランドからデラウェアにかけての地域で、今日でもオランダ語の地名として残っていることからもうかがえます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その150 11種類のネーション(nation)で構成されるアメリカ

これまでアメリカ合衆国の歴史を調べてきました。これから数回にわたりアメリカ現代史で、特に政治にかかわる話題を取り上げることとします。著述家でジャーナリストのコリン・ウッダード(Colin Woodard)は、アメリカは歴史的・文化的な成り立ちが異なる11種類の「国」(ネーション: nation)で構成されていると主張しています。この論点は、「American Nations: A History of the Eleven Rival Regional Cultures in North America」という著作に表れています。

Colin Woodard


合衆国は、確かに50の州からなる国です。しかし、実は共通の文化、民族的起源、言語、歴史的経験を持つ「ネーション」で構成されているというのです。ネーションとは、共通の文化、民族的起源、言語、歴史的経験、工芸品、シンボルを共有しているか、あるいは共有すると信じている人々の集団のことです。決して一つのアメリカがあるのではなく、いくつかのアメリカがあり、そのそれぞれのネーションが何世紀も前から独自の価値感を持ってきたという分析です。

11 nations

アメリカの歴史では、同じようなパタンでネーションが互いに反目し合っているのを確認できるといわれます。大統領選挙の際の政党や候補者の主張がそれに表れます。そこでは、アメリカ市民の政治的な選好は煎じ詰めれば、アメリカの市民生活の鍵概念である「自由」をいかに推進するかをめぐる二つの考えに必ず帰着してきたといわれます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その149 米比戦争と第二次世界大戦におけるアギナルドの役割

1899年2月4日夜、マニラを取り囲んでいたアメリカ軍とフィリピン軍との間で、避けられない衝突が始まります。2月5日の朝、勇敢に戦ってきたフィリピン人は、すべての地点で敗退してしまいます。戦闘が進行する中、アギナルドがアメリカに対して宣戦布告を行い、アメリカは直ちにフィリピンに援軍を送ります。フィリピン政府は北へ逃れていきます。1899年11月になるとフィリピン人たちはゲリラ戦に打って出るのです。

3年にわたる高い代償を払った戦闘の後、1901年3月23日、フレデリック・ファンストン将軍(Frederick Funston)の率いる大胆な作戦により、アギナルドがルソン島(Luzon)北部のパラナン(Palanan)の秘密司令部で捕えられ、反乱はついに終結します。アギナルドがアメリカへの忠誠を誓い、アメリカ政府から年金を支給され私生活へと引退します。

Elpidio Quirino

1935年、独立に向けてフィリピン連邦政府が設立された。アギナルドは大統領選に出馬しますが、決定的な敗北を喫します。1941年12月に日本軍がフィリピンに侵攻するまで、彼は私生活に戻ります。しかし、日本軍はアギナルドを反米の道具として利用しようとします。彼は演説をし、反米記事に署名します。1942年初めには、当時コレヒドール島(Corregidor Island)で日本軍に抵抗していた米軍守備隊のダグラス・マッカーサー元帥(Gen. Douglas MacArthur)に降伏するようラジオで呼びかけます。同軍は1942年5月に降伏しますが、マッカーサーはすでに退却したあとでした。

Douglasn Macarthur

1944年末にアメリカ軍がフィリピンに戻り、1945年にマニラを奪還した後、アギナルドは逮捕されます。日本軍との協力で告発された者たちは、大統領恩赦で釈放されるまで数カ月間投獄されます。1950年、エルピディオ・キリノ大統領(Elpidio Quirino)によってアギナルドは国家評議会のメンバーに任命されます。晩年は退役軍人問題、フィリピンのナショナリズムと民主主義の促進、フィリピンとアメリカの関係改善に力を注ぎます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その148 フィリピン独立のための闘い

アギナルド(Aguinaldo)は中国人とタガログ人(Tagalog)の両親から生まれます。マニラのサン・フアン・デ・レトラン・カレッジ(San Juan de Letran College)に通いますが、母親が経営する農場を手伝うために早々と退学します。1896年8月、彼はカビテ・ビエホ(Cavite Viejo)、現在のカウィット(Kawit)、カビテ市(Cavite cityKawit)に隣接の市長となり、スペインと激しく戦い成功した革命団体カティプナン(Katipunan)の地元リーダーとなります。1897年12月、彼はスペイン総督とビアク・ナ・バトー協定(Pact of Biac-na-Bato)と呼ばれる協定に調印します。アギナルドがフィリピンを離れ、永久に亡命する条件は、スペインから多額の金銭の報酬と自由な改革を約束することでありました。香港とシンガポールに滞在していた彼は、アメリカ領事とジョージ・デューイ提督(George Dewey)の代表者とともに、スペインとの戦争でアメリカを支援するためにフィリピンに戻る準備をします。

フィリピン革命軍

1898年5月19日、アギナルドがフィリピンに帰国し、スペインとの闘争の再開を宣言します。1898年6月12日にスペインからの独立を宣言したフィリピン人は、アギナルドを大統領とする暫定共和国を宣言し、9月には革命議会が開かれ、フィリピンの独立が批准されます。しかし、1898年12月10日に締結されたパリ条約により、フィリピンはプエルトリコ、グアムとともにスペインからアメリカに割譲されることになります。

Marcelo Hilario del Pilar

アメリカ合衆国建国の歴史 その147 フィリピン共和国のゲリラの活動

フィリピン政府は北へ向かって逃走していきます。1899年11月、フィリピン人はゲリラ戦に打って出ますが、その結果、壊滅的な打撃を受けることになりました。反乱の主要な作戦はルソン島で行われましたが、その際、アメリカ軍は先住民のマカベベ(Macabebe)偵察兵の多大な援助を受けます。彼らは、以前スペイン政権に仕えていましたが、その後アメリカに忠誠心を移します。組織的な反乱は、1901年3月23日、フレデリック・ファンストン(Frederick Funston)アメリカ軍大将によるアギナルド(Emilio Aguinaldo)の捕獲で事実上終結します。ファンストンは、捕虜となった使者からアギナルドの秘密司令部の場所を知ると、自らルソン島北部の山岳地帯に大胆な作戦を展開します。一握りの将校とともに捕虜のふりをし反乱軍に変装したマカベベ斥候の隊列の護衛のもとで行軍します。援軍を待っていたアギナルドが先頭部隊を迎えると、降伏を要求されて唖然とさせられるのです。ファンストン到着後、アギナルドが「これは冗談ではないのか」叫ぶのですが、マニラへ連行されていきます。

Mariano Ponce

アギナルドがアメリカに忠誠を誓い、敵対行為の終結を求めますが、ゲリラ活動は衰えることなく続けられます。アメリカ兵士への虐殺に怒ったジェイコブ・スミス(Jacob F. Smith)准将は、無差別の残虐行為で報復し、軍法会議にかけられ退役を余儀なくされます。1902年4月16日、フィリピンのミゲル・マルバール(Miguel Malvar)将軍がサマール(Samar)島で降伏した後、アメリカ市民政府は残ったゲリラを単なる盗賊とみなしますが、戦闘は継続されました。シメオン・オラ(Simeón Ola)率いる約千人のゲリラは1903年後半まで敗北せず、マニラ南方のバタンガス州(Batangas)ではマカリオ・サカイ (Macario Sakay)が指揮する部隊が1906年後半まで捕虜になるまで抵抗します。

宮崎滔天

アメリカ軍に対する最後の組織的抵抗は、1904年から1906年にかけてサマール島で行われました。そこでは、平和になった村々を焼き払うという反乱軍の戦術が、彼ら自身の敗北につながりました。ミンダナオ島(Mindanao)のモロ族(Moro)の反乱は1913年まで散発的に続きますが、アメリカはフィリピンを明らかに支配し、1946年まで島々の領有を維持することになります。

アメリカとの戦争に突入したフィリピン共和国政府のアギナルドは、武器の支援を日本に期待します。1899年6月、革命派のマリアーノ・ポンセ(Mariano Ponce)らの代表団を日本に送り、日本政府から武器・弾薬の調達を受けるべく工作を行います。

アメリカ合衆国建国の歴史 その146 スペイン支配の終焉と第一次フィリピン共和国

300年以上にわたるスペインによる植民地支配の間、フィリピンでは準宗教的な反乱が頻発していましたが、19世紀末のホセ・リサール(José Rizal)らの著作によって、より広範なフィリピン独立運動が活性化していきます。スペインは植民地政府の改革に消極的で、1896年に武力反乱が起きます。1896年12月30日、革命ではなく改革を主張したリサールは扇動罪で銃殺されます。彼の殉教は、若き将軍エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)が率いる革命に拍車をかけることになります。

他方、キューバでもスペイン支配からの独立を目指す動きがありました。1898年3月、ハバナでUSSメインが破壊されたのを受けて、アメリカはスペインに最後通牒を送り、アメリカの仲裁を受け入れてキューバの支配を放棄するように要求します。スペインとの戦争の可能性に備えて、海軍次官のセオドア・ルーズベルトは香港のアメリカ・アジア戦線に警戒態勢を命じます。4月に宣戦布告されると、香港から出撃したジョージ・デューイ提督(Commodore George Dewey)は5月1日朝、マニラ湾でスペイン艦隊を撃破します。ですが3ヵ月後に地上軍が到着するまでマニラを占領することができませんでした。

他方、6月12日にフィリピン人は独立を宣言し、アギナルドを大統領とする臨時共和制を宣言します。このように太平洋のアメリカの反対側では、アメリカ反帝国主義者同盟が結成され始めます。この組織は、アメリカのフィリピンへの関与に反対し、あらゆる政治的分野から支持を集め、大衆運動へと発展していきます。そのメンバーには、社会改革者のジェーン・アダムス(Jane Addams)、実業家のアンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)、哲学者のウィリアム・ジェームズ(William James)、作家のマーク・トウェイン(Mark Twain)など、著名な人物が名を連ねていました。

Emilio Aguinaldo

8月13日、マニラは無血の「戦い」の末に陥落します。スペインのフェルミン・ハウデネス知事(Fermín Jaudenes)は、自分の名誉を守るために模擬的な抵抗の後、降伏するよう密かに準備していました。アメリカ軍はマニラを手に入れますが、フィリピンの反乱軍はマニラの残りの地域を支配していました。12月にスペインとアメリカの代表が署名したパリ条約(1898年)により、フィリピンの主権はスペインからアメリカに移ります。しかし、マニラを除く全島を実質的に支配していた新生フィリピン共和国の指導者たちは、アメリカの主権を認めませんでした。一方、アメリカはフィリピンの独立を否定し、紛争は避けられない見通しとなります。

1899年2月4日夜、マニラ近郊で銃声が響きます。朝になってみると、無謀ともいえる勇敢な戦いをしてきたフィリピン人が、ことごとく敗れていきました。戦闘が続く中、アギナルドが対米宣戦布告を行います。アメリカでは依然として反帝国主義的な感情が強かったのですが2月6日、アメリカ上院は米西戦争を終結させる条約を一票差で批准します。アメリカの援軍は直ちにフィリピンに送られます。フィリピン人の中で最も優秀な指揮官であったアントニオ・ルナ(Antonio Luna)は、その軍事作戦を任されますが、アギナルドの嫉妬と不信に大きく妨げられたようで,アメリカ占領を受け入れる「自治派」によってルナは殺害されます。3月31日に反乱軍の首都マロロス(Malolos)はアメリカ軍に占領されます。

ホセ・リサール像

1900年3月、アメリカ大統領ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)は、フィリピンに民政を樹立するため、第2回フィリピン委員会を招集します。このとき、アギナルドのフィリピン共和国の存在は都合よく無視します。4月7日、マッキンリーは委員会のウィリアム・タフト(William H. Taft)議長に、「彼らが設立しようとしている政府は、我々の満足や理論的見解の表明のためではなく、フィリピン諸島の人々の幸福、平和、繁栄のために作られていることを肝に銘じるように」と指示します。フィリピンの独立について明確な記述はありませんが、この指示は後にしばしば独立を支持するものとして引用されます。