懐かしのキネマ その6 「戦場のピアニスト」と「野いちご」

「戦場のピアニスト」(The Pianist)を監督したのが、ポーランド人のロマン・ポランスキー(Roman Polanski)です。良くも悪くもいろいろな話題の多い監督だったようです。ユダヤ人に対して行った組織的、国家的迫害であるホロコースト(Holocaust)の悲劇を映画で訴えるのは時代や人種を超えて人々に訴えるものがあります。ポランスキーもユダヤ系ポーランド人として、この映画製作に傾注したことが伝わります。「戦場のピアニスト」の要旨です。

1939年ナチスドイツがポーランドに侵攻したとき、主人公シュピルマン(Władysław Szpilman)はワルシャワ(Warsaw)の放送局で演奏するピアニストでした。ワルシャワ陥落後、ユダヤ人はゲットー(ghetto)と呼ばれる強制居住区に移され、飢えや無差別殺人に脅える日々を強いられます。やがて何十万ものユダヤ人が収容所へ移されるようになる頃、1人収容所行きを免れたシュピルマンは、砲弾が飛び交い、街が炎に包まれる中で必死に生き延びるのです。ある晩、彼は隠れ家で1人のドイツ人将校に見つかります。自分がピアニストだったことを告げると、将校はなにか弾くように命令します。そこでシュピルマンはショパン (Frédéri Chopin)のバラード第1番を弾くのです。この将校も音楽を愛していて、シュピルマンの演奏に感じ入りマントや食糧などを届けるのです。

スウェーデン(Sweden)を代表する映画監督にイングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman)がいます。「野いちご」(Wild Strawberries)という作品は、功績を認められ名誉学位を受けることになった老教授イサク(Isaac)の一日が舞台です。授与式の前日、イサクは自分の死を暗示する夢を見るのです。人生の終わりにさしかかった老教授が、人間の老いや死、家族、夢を追想するのです。青春時代の失恋の思い出を野いちごに託した叙情的な作品と呼ばれています。ベルイマンの最高傑作の一つといわれていますが、内容が難しいだけにじっくり観る必要がある作品です。その他、「第七の封印」、「処女の泉」などどれも深い精神性や人生の意味を考えさせる作品を世に送っています。ベルイマンを20世紀最大の映画監督と呼ぶ人もいます。

懐かしのキネマ その5 個性的な監督

アカデミー賞を3回受賞し、アカデミー監督賞は7回ノミネートされ2回受賞したのが、スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)です。どの作品も興行的にも大成功で、最高の売り上げに貢献した監督といわれています。

1988年にスピルバーグが製作したのが、「プライベートライアン」Saving Private Ryan)という映画です。連合軍はノルマンディー(Normandy)上陸作戦を成功させますが、ドイツ軍の激しい迎撃にさらされ多くの戦死者を出します。そんな中、アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall)の元に、ある兵士の戦死報告が届きます。それはライアン家(Ryan)の四兄弟のうち三人が戦死したというものでした。残る末子ジェームズ・ライアン(James Ryan) も、ノルマンディー 上陸作戦の前日に行なわれた空挺降下の際に「敵地で行方不明になった」という報告が入ます。マーシャルはライアンを保護して本国に帰還させるように命令するのです。命令を受けたレンジャー大隊の中隊長ミラー(John Miller)大尉は、6名の部下とで、ライアンがいると思われるフランス内陸部へ向かうのです。

「シンドラーのリスト」(Schindler’s List) この映画の舞台は、第二次大戦下、ナチス・ドイツ占領下のポーランドです。ユダヤ人が居住地から収容所に送られ、虐殺されていくのを知ったドイツ人の実業家のオスカー・シンドラー(Oscar Schindler) は、迫害されるユダヤ人を自身の工場に雇用し、事業に成功します。そして、雇用された1,200人のユダヤ人がナチスの虐殺から救われます。

懐かしいキネマ その4 監督 西部劇の神様

西部劇映画はアメリカの十八番ともいえるジャンルです。アメリカの発展には、西部の進出と開拓が必要でした。そこにはどうしても白人とアメリカ先住民族との確執が起こりました。白人中心主義が強かった時代です。その確執を共感的にとらえた映画は沢山あります。例えば[Dance with Wolves]という映画です。監督と主演はケビン・コスナー(Kevin Costner)です。コスナーは、先住民族であるインディアンを虐殺し、バッファローを絶滅寸前に追いやる政府の方針や軍隊に対して警鐘を鳴らし、同時にフロンティアへの敬意を表しています。その点で従来の西部劇とは大きく異なる視点で制作しています。

西部劇映画を監督した人にジョン・フォード(John Ford)がいます。西部の荒野の厳しい自然風景を壮大なスケールで描くのと得意としています。荒野に生きる男の心情を情感豊かに表現する作風は観ている人を魅了します。[西部劇の神様]とも呼ばれるほどです。俳優は、ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)、ジョン・ウェイン(John Wayne)、モーリン・オハラ(Maureen O’Hara)らのアイリッシュ系やワード・ポンド(Ward Pond)らを重用したことでも知られています。フォードはジョン・ウェインをしばしば使い、「黄色いリボン」(She Wore a Yellow Ribbon)、「駅馬車」(Stagecoach)、リバティバランスを撃った男(The Man Who Shot Liberty Valance)、「静かなる男」(The Quiet Man)、「捜索者」The Searchers なども監督します。ジョン・スタインベックの小説を主題とした「怒りの葡萄」 (Grapes of Wrath)でもメガフォンをとった名監督です。

懐かしのキネマ その3 有名な監督

今回は映画作品を手掛けた監督を取り上げます。「アラビアのロレンス」(Lawrence of Arabia)は、1962年に公開されたイギリス・アメリカ合作映画です。監督はデヴィッド・リーン(David Lean)。この映画でアカデミー監督賞を受賞します。プロデューサーであるサム・スピーゲル(Samuel Spiegel)とタッグを組んだ戦争映画『戦場にかける橋』もそうです。この映画で日本軍の捕虜収容所の所長、斉藤大佐を演じたのが早川雪洲です。イギリスを代表する俳優アレック・ギネス(Alec Guinness)はニコルソン大佐を演じています。「ドクトル・ジバゴ」(Doctor Zhivago) というロシア革命の混乱に翻弄される人々を描いた映画の監督もデヴィッド・リーンです。主人公で医師のユーリー・ジバゴ(Yuri Zhivago)と恋人ララ(Lara)の運命を描いた大河小説が原作となっています。ノーベル文学賞を授与された作品を映画化したものです。

ヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica)というイタリア人の監督兼俳優をご存知でしょうか。「自転車泥棒」や「ひまわり」の監督として名作を作っています。「ひまわり」は戦争で出征した夫が戦争が終わっても帰らず、訃報も届かず行方不明扱いのままです。妻は生存を信じてやまず、彼を探しにロシアに向かうのですが。ようやく夫と再会したとき、ロシア人の女性と結婚していることを知ります。

デ・シーカが俳優としても出演した映画に「ロベレ将軍」(Generale Della Rovere)、「武器よさらば」(Farewell to Arms) があります。後者ではイタリア人軍医役として出演しました。映画「武器よさらば」はアーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)の長編小説を基にしています。イタリア人監督といえば、フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)を忘れることができません。「道」(La Strada)「カビリアの夜」(Nights of Cabiria)「甘い生活」(La dolce vita)があります。どれも独特の映像感覚が発揮されているといわれます。フェデリコ・フェリーニの全作品のサウンドトラックを作ったのがニーノ・ロータ(Nino Rota)です。

イタリア人監督にセルジオ・レオーネ(Sergio Leone)がいます。強烈な個性の主人公を登場させ、これぞマカロニ・ウェスタンといわせた作品を世に発表します。「荒野の用心棒」(A Fistful of Dollars)、「夕陽のガンマン」(For a Few Dollars More)、「ウェスタン」(Once Upon a Time in the West)などです。「ウェスタン」ではチャールズ・ブロンソン(Charles Bronson)、クラウディア・カルディナーレ(Claudia Cardinale)など懐かしい俳優が登場しています。ピエトロ・ジェルミ(Pietro Germi) という監督もいました。「鉄道員」(The Railroad Man)という作品です。大戦後の初老の鉄道機関士とその幼い息子の喜怒哀楽を描いた名作です。この映画でジェルミは主人公の機関士を演じています。

懐かしのキネマ その2 サウンドトラック

映画には主題曲があります。サウンドトラック(サントラ)(soundtrack)で良く知られています。前回少し触れた映画「ティファニーで朝食を」の主題歌「ムーンリバー」(Moon River)は、作曲家ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancine)というイタリア系アメリカ人によるものです。ニューヨークのアパートで猫と暮らしている娼婦ホリー(Holly) は、宝石店ティファニーの前で朝食のパンを食べるのが大好きです。やがて彼女のアパートに作家志望の青年ポールが引っ越してきます。2人の愛のさや当てに相応しい甘ったるいメロディに酔いしれます。

映画「ひまわり」(Sunflower)のサントラ「愛のテーマ」もマンシーニの作曲です。1970年に製作されたこの映画は、戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を描いた作品で、キャストは、ソフィア・ローレン(Sophia Loren)とマルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni)。エンディングでの地平線にまで及ぶ画面一面のひまわり畑が記憶に残ります。ロマンチックなサスペンス映画のサントラ「シャレード」(Charade)も甘ったるい名曲です。「刑事コロンボ」の主題曲もあります。映画「別働隊」の主題歌「モナ・リサ」(Monna Lisa)もあります。第二次大戦中、北イタリアを舞台としたパルチザン(ゲリラ–Partisan)の活躍を描いたものでした。マンシーニの作品はどれも印象に残るものです。

1997年のアメリカ映画「タイタニック」(Titanic)の主題歌「 My Heart Will Go On」も印象に残る曲です。作曲者はジェームズ・ホーナー(James Horner)。「ドクトル・ジバゴ」(Doctor Zhivago)の「ララのテーマ」(Lara’s Theme) も趣があります。作曲はモーリス・ジャール(Maurice Jarre)です。主演は、オマー・シャリフ(Omar Sharif) とジュリー・クリスティ(Julie Christie)でした。このように映画にとってはサントラは、欠かすことのできない助演者のような存在であることがわかります。

懐かしのキネマ その1 映画雑誌 

今回から映画に関する話題を取り上げていきます。私は父の影響を受けた大の映画ファンです。父とは生前は時々観に行ったものです。最後に一緒に観たのは「戦場にかける橋」(The Bridge on The River Kwai) でした。映画雑誌、名監督、名俳優や脇役、名作映画、サウンドトラック、映画の文化などを綴ってみます。

映画はキネマ (kinema) とも呼ばれます。キネマトグラフ(kinematograph)の略字です。「キネマ旬報」という映画雑誌があります。1919年7月に創刊されて今も発行されています。名称からはレトロ趣味の感じがします。毎年、「日本映画ベスト・テン」・「外国映画ベスト・テン」・「文化映画ベスト・テン」が選出されて名画が紹介されています。最近は読者の投票でもっとも人気が高かった作品として「キネマ旬報読者賞」が作られています。今となっては懐かしい「映画の友」とか「映画情報」という雑誌もありました。シネマ(cinema) という単語もあります。同じく映画という意味ですが、この単語で思い出すのは、「シネマ‐スコープ(CinemaScope)」です。映画館で横長のスクリーンに驚いたものです。もちろん「総天然色」でした。

「スクリーン」という映画雑誌を覚えている人はよっぽど映画が好きな人です。発行が 1946年という歴史があります。洋画専門の雑誌です。カラーページなので、書店で手にとっては「観たいな、、」とつぶやきました。「スクリーン」の表紙には、しばしばオードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)が登場しました。ハリウッド黄金時代に活躍した女優です。1953年の「ローマの休日」(Holiday in Rome)や1963年の「ティファニーで朝食を」(Breakfast at Tiffany’s)など、鼻から抜けるような彼女の発音は忘れられません。

アメリカの文化 その21 車社会のあれこれ

車社会の話題です。アメリカ人は、車に資産価値があるという意識は薄いようです。車とは移動手段だと割り切っています。その現れの一つは、洗車の習慣がないことです。アメリカ人は自宅で洗車し綺麗に磨くなどはしません。車内の中も相当汚れています。しかも犬を乗せて移動するとなれば、車内の中は汚くなるのは当たり前です。車検もないので、少々の傷などは問題視しません。バンパーは傷だらけです。車体を保護するためにパンパーがあるという考え方です。

ぼろぼろのしかもアンティークの車が時々走っています。見ると運転する側の床に大きな穴があいています。地面がみえ、空気が入ってきます。運転手にきくと、この穴に足を突っ込んでブレーキをかけるのだそうです。「これが本当のフットブレーキ(foot break)だ、」と笑い飛ばすのです。

フリーウェイには複数人乗っている車が優先的に走行できるレーンがあります。「Carpool」または 「High Occupancy Vehicle:HOV〕Lane」といいます。 道路に菱形のマーク(◇)がついています。通勤の際の一人乗りの車は渋滞の原因になるのです。同じ職場で働く者に相乗りを奨励する会社や役所があります。会社所有の車を提供して相乗りを奨めるのも珍しくありません。運転は相乗り仲間で週や月極で交代するのだそうです。

フリーウェイや道路が交差する地点に「YIELD」 という標識もあります。これは「譲れ」という意味です。左側から来る車が優先です。「ALL STOP」という標識は、交差点に先に入った車から通過せよという標識です。慣れるのに少々体験が必要です。このマナーを忘れると叱られます。

アメリカの文化 その20 オルガンビルダーと森 有正

パイプオルガンの話題です。北海道大学のクラーク会館に設置されるオルガン以前のことです。1965年に札幌ユースセンター教会が、ミズリー派(Missouri Synod)ルーテル教会から400本のオルガンの寄贈を受けます。オルガンの製作会社はアメリカのWalkerという会社でした。オルガンの組み立てを担当したのは、日本で最初のビルダーで鵠沼めぐみルーテル教会員の辻宏氏です。その組み立て行程を間近で見学できたのは幸いでした。このオルガンは北海道で最初に献納されたオルガンとなります。

オルガンが完成し、その柿落で招かれた演奏者は秋元道雄東京芸術大学教授です。そのときバッハ (Johann Sebastian Bach) のトッカータとフーガ ニ短調(Toccata und Fuge in d-Moll) を始めて間近で聴きました。秋元氏は東京芸術大学のオルガン科卒業後、ライプツィヒ=ベルリン (Leipzig-Berlin) 楽派のヴァルター・フィッシャー(Walter Fischer) 教授の門下生であった真篠俊雄教授に師事します。やがて、秋元氏はイギリスとドイツに留学します。そしてロンドン市立ギルドホール音楽演劇学校 (Guildhall School of Music and Drama)より全英最優秀音楽留学生賞である「サー・オーガスト・マン賞」(Sir August Mann Award)を受賞します。

その後、パリのノートルダム大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame de Paris) での演奏会を含め数多くの演奏活動を行います。「プラハの春・国際オルガンコンクール」など多くの国際コンクールの審査員をつとめた経歴を有しています。芸大で教えながら、飯田橋にある日本キリスト教団富士見町教会のオルガニストも務めました。我が国でもオルガン科を有する大学が増えてオルガニストが養成されています。秋元氏に師事した人々が活躍しているようです。2010年1月に生涯を終えられました。

欧米では教会の大小に関わらず必ずオルガンがあります。教会堂の大きさによってオルガンも大型になります。小さな教会のオルガンは、会衆から見えるように前面や側面に設置されています。コンサートホールでは、装飾を兼ねて前面に配置されるのですが、それよりもはるかに多くのパイプが聴衆から見えない所に配置されています。その数は数千本から数万本に及びます。音階をなす数十本の笛が1組となって使われます。金管、木管の組み合わせです。この一組はストップと呼ばれます。

札幌ユースセンター教会で奉仕していたとき、哲学者でフランス文学者だった森有正が「オルガンを弾かせて欲しい」と教会を訪れたことがありました。森は明治時代の政治家森有礼の孫です。オルガンを演奏し、特にバッハのオルガン曲の奏者として優れた仕事を残し、レコードを出すクリスチャンでもありました。パリ大学東洋語学科で日本語や日本文化を教えた経験をもとに、晩年に哲学的なエッセイを多数執筆します。私も『遥かなノートルダム』という著作を持っています。「言葉と経験」という思想を『バビロンの流れのほとりにて』、『アブラハムの生涯』という本の中で強調しています。オルガンと秋元道雄、森有正をつなぐのはノートルダムのようです。

アメリカの文化 その19 Daylight Saving Time

イースターが過ぎると急速に日が長くなる気がしてきます。ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)という政治家で著述家、物理学者をご存知と思います。この人はアメリカの100ドル紙幣に印刷されています。凧を用いた実験で雷が電気であることを明らかにしたことでも知られています。意外なことに彼は、現在140か国で採用されている「サマータイム」(Daylight Saving Time: DLS)の創案者なのです。今回の話題はこの「サマータイム」です。

DLS は世界中の40%位の国々で使われています。日本は1948年に一度採用されますが、1951年に廃止となります。DLSの趣旨は、夏の太陽–日照時間をより有効に活用しようということです。アメリカでは、毎年3月14日に時計を1時間進め、11月7日に1時間戻すことになっています。最初にDLSを取り入れた国はドイツです。1916年4月30日に時間を進めたのです。それを遡る1908年に、カナダのオンタリオ州(Ontario)にあるサンダーベイ(Thunder Bay)の街でDSLを取り入れたという記録があります。

ベンジャミン・フランクリンがDSLの概念を提案したのは、1784年といわれます。アメリカの独立宣言から8年後のことです。現在使われているDSLの正式な提案は1895年になされます。その間、ニュージーランドのジョージ・ハドソン(George Hudson) という昆虫学者が2時間の時刻を早める提案をします。そしてアメリカでは1918 年に国としてDLSを採用することになります。だた、今もってアリゾナ州(Arizona)の一部やハワイ州(Hawaii)は珍しくDLSを採用しない州となっています。

DLSの評価についてです。日付けを1時間早めることにより、夕方に消費する燃料を節約できるといわれます。しかし、この考え方は見解が分かれています。さらに DLSは車を運転する時間中の交通事故や怪我を減らせることができるという研究もあります。DLSの採用によって、人によっては健康を害するという研究もあります。なんとも悩ましいDLSという慣行です。

アメリカの文化 その18 Easterと卵

「イースター」(Easter)は復活祭のことです。十字架にかけらたイエス・キリスト(Jesus Christ)が3日後に復活したことを祝う祭りです。 復活祭は年によって日付が変わる移動祝日です。基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」とされ、今年は本日4月4日となります。ドイツでは「オースタン」Osternと呼ばれています。イースター」も「オースタン」もゲルマン神話の春の女神「Eostre」やゲルマン人が用いた春の月名である「Eostremonat」に由来しています。

ギリシャ正教(Greek Orthodox)やロシア正教(Russian Orthodox)、日本正教会では復活祭のことを「パスハ」(Paskha)と呼んでいます。カトリック教会やラテン系の国では「パスカ」(Pascha)、スペインでは「パスクワ」(Pasqua)と呼ばれています。こうした語は「過越の祭り」(Passover)を意味するヘブライ語(Hebrew)が語源となっています。キリスト教における復活祭は旧約聖書時代の過越の祭りを雛形にした祝日とも推測されます。

ヨーロッパや北アメリカは、長く寒い冬が終わり、キリストの復活祭とともに春の到来を祝うのがイースターです。イースターのシンボルは生命の誕生と再生の象徴である卵と繁殖力の高いウサギ (イースターバニー Easter Bunny) です。イースターエッグが良く知られています。色とりどりの卵が店で売られ、自宅でも色づけした卵を子ども達に分け与えて祝います。

世界中の多くの教会で特別な礼拝が行われます。食事やイベントなどさまざまな習慣や風俗があります。イースターの個性的なイベントといえば、最もファッショナブルで知られるニューヨークのイースターパレードがあります。意匠をこらした帽子を被り、奇抜な衣裳を身に着けた人々が歩行者天国を練り歩きます。ドイツ人は、イースターではこれでもか!というくらい呑んで食ってのお祭りとなります。とことんまでやる真面目な国民性が反映しているといわれます。