心に残る名曲 その五十二  チャイコフスキーと日本人 その四 弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11

弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11は、ロシアの作曲家チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky)によって、1871年2月に作曲された弦楽四重奏曲です。第2楽章「アンダンテ・カンタービレ(Andante cantabile)」の冒頭は有名です。いろいろな編曲家によって用いられムード音楽でも使われるくらい有名で親しまれています。「アンダンテ・カンタービレ」はチャイコフスキーがウクライナ(Ukraine)で聴いた民謡に題材を得ているとされます。

TCHAIKOVSKY
Pyotr Ilyich Tchaikovsky
7 May 1840 ? 6 November 1893
Russian composer of the Romantic era
Credit: Peter Joslin / ArenaPAL

第1に続いて第2の旋律も有名です。そして第1の旋律に戻ります。弦楽四重奏とはヴァイオリンが二台、そしてビオラとチェロ加わります。アンダンテ(andante)とは速度記号のことで、ゆったりとした歩くくらいの速度で弾かれます。カンタービレ(cantabile)とは「流れるように」という意味の音楽記号です。五分ほどの短い曲ですが、しみじみとした感傷が残る曲です。
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心に残る名曲 その五十三 チャイコフスキーと日本人 その四 交響曲第6番 「悲愴」

1893年に書かれたチャイコフスキー(Tchaikovsky)の最後の交響曲です。初演は1893年10月28日、作曲者自身の指揮によって演奏されたとあります。本人が語るように、レクイエム(requiem)的な暗さで序奏部が始まります。序奏部は主部の第1主題に基づいたものである。やがて第1主題がヴィオラとチェロの合奏でなされ、両パートの奏者の半分のみでどこか弱弱しく演奏されます。第1楽章はアダージョで始まり、暗いため息の序奏が流れます。その後速度を増して第1主題の切迫感を印象付けると、ゆるやかなテンポになり、美しい第2主題が登場する。チャイコフスキーの作品の中でも特に親しまれている名旋律の一つです。その第1句は五音音階による民族的な響きで、甘美でやるせなく、また切ない印象を与えます。

「悲愴」と「悲壮」は意味が違うようです。「悲愴」「悲しくも痛ましい」、「悲壮」は「悲しくも勇ましい」となるようで、フランス語「Simphonie Pathétique」から日本語「悲愴」への翻訳も適当なような印象を受けます。
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ヨセミテ国立公園での休暇 その10 ラフティング(Rafting)

川下りはラフティング(Rafting)と呼ばれます。ヨセミテ峡谷を流れるのがMerced Riverです。誠に長閑した流れで時速3キロくらいでしょうか。ラフティングの醍醐味は、周りの巨大な岩壁が次々に現れ、景色が大きくかわることです。ハーフドーム(Half Dome)、カトリック岩壁(Cathedral Rocks)、エルカピタン(El Capitan)、グレーシャポイント(Glacier Point)などが眼前にひろがります。

2人から4人がゴムポートに乗り込みます。4歳以下の子どもは乗れません。急流下りとは違い、静かな流れにまかせてゆっくり下っていきます。ボートはそのままではぐるぐる回ってしまいます。ときどきパドルで方向を操作します。約2時間くらいかけて4マイルくらいを下ります。途中にはキャンピングの家族らが水遊びをしています。ラフティングはその年の降雪量によって水かさが異なります。時々、浅瀬に乗り上げてそこから脱出するのに悪戦苦闘します。6月末から8月末までの二月がシーズンとなります。

ヨセミテ国立公園での休暇 その9 John Muir Trail

ジョン・ミューアトレイル(John Muir Trail)の紹介です。ミューアの偉大な貢献に対して付けられた名称です。アメリカなどは人名が場所、公園、建物などに付けられるのが目だちます。それから多額の寄附した人々に感謝して付けられることが多いです。

ジョン・ミューアトレイルの長さは、 211マイル(338キロ)。 ヨセミテ峡谷から端を発して、シエラネバダ(Sierra Nevada)山脈のホイットニー山(Mt Whitney) に至る遊歩道です。ホイットニー山の標高は4,418メートルあります。全米の最高峰といわれています。

ヨセミテ峡谷からジョン・ミューアトレイルを歩くには、入山日の24週間前までに許可を得なければなりません。これも自然保護や山火事予防のためとなっています。

ホイットニー山への指定区域内への日帰り登山にも人数制限がありあります。1日100人と定められていて、5月から10月の入山予約はその年の2月に応募が締め切られ、4月に抽選が行われます。自然は、人間のまえには極めて脆弱なのだ、という精神があります。

それでもミューアは云います。
“Climb the mountains and get their good tidings.”
山に登ることは、良い知らせをいただくことだ

ヨセミテ国立公園での休暇 その8 自然保護の父–John Muir その3 国立公園に格上げ

ジョン・ミューア(John Muir)はヨセミテの大自然に魅了されたばかりでなく、自然の驚異と人間の営みについての原稿や著作を発表していきます。New York Tribune, Scribner’s, Harper’sといった出版社が原稿を引き受け、自然や環境についての著作が世の中にでるのです。科学界からも注目され、彼の出版物は世間でも広く読まれるようになります。著作はミューアが自分の足で歩き観察したことが題材となっています。

こうして作家、植物学、地質学にも精通したミューアは、シエラネバダ山脈の地形が氷河作用に深く関わっていることを発表します。1848年から1855年代ゴールドラッシュ(Gold rush)の頃で、西部開拓の人口が急増します。人々は、豊かな森に豊富な水をたたえたヨセミテの地で森林伐採やダム建設を計画していきます。ミューアはこうした世相の流れに真っ向から異議を唱えていきます。

1890年、イエローストーン(Yellowstone)が唯一の国立公園でした。そのころヨセミテ公園は州立公園だったのです。ミューアは、国立公園への格上げの運動を始めます。彼の著作が多くの人々の賛同を得ます。さらに支援団体が議会に対して格上げのロビー活動をしていきます。

他方、森林業の団体は、保護する資源は無駄遣いになっているとして格上げに反対するのです。こうした反対活動にもかかわらず、ヨセミテとセコイア(Sequoia)は国立公園として指定され、自然保護の対象となっていきます。

1901年には、ミューアは自然保護団体の人々とルーズヴェルト(Theodore Roosevelt)大統領にホワイトハウスの執務室(Oval Office)で会い、自然保護地域の拡大を訴えるのです。1903年にルーズヴェルトとミューアはヨセミテ峡谷でキャンピングをし、一帯の148ミリオンエーカー(6029平方キロ)の森を保護の対象とします。ルーズヴェルト政権下では全米の国立公園の数が二倍になるのです。国立公園の理念を確立させたのがルーズヴェルトといわれている所以です。
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ヨセミテ国立公園での休暇 その6 自然保護の父–John Muir その1 ウィスコンシン大学での学び

アメリカのナチュラリスト(naturalist)の草分けとか「自然保護の父」と呼ばれたジョン・ミューア(John Muir)を数回にわたり紹介することにします。

ミューアは、1838年にスコットランド(Scotland)のダンバー(Dunbar)という街で生まれます。後年、1892年、彼がンフランシスコ市に創設した「Sierra Club」という自然保護団体の資料によりますと、ミューアは幼少から冒険好きでいつも野外で遊んでいたといわれます。海岸沿いにあった小さな学校で学びます。

1849年に家族と共に移民としてアメリカに渡ります。落ち着いたところはウィスコンシン(Wisconsin)の真ん中あたりにあるポーテージ(Portage)の近くにあるHickory Hill Farmという小さな街です。

やがてミューアはウィスコンシン大学に入り、哲学、科学、文学などに触れることになります。丁度、その時代の思想家、哲学者であり作家、詩人であったエマーソン(Ralph Emerson)やソーロ(Henry D. Thoreau)から深い感化を受けます。しかし、学びでの途中でウィスコンシン大学を退学し、インディアナポリス(Indianapolis)にあった金属部品工場で仕事に就きます。その間の経緯はよくわかりません。

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ヨセミテ国立公園での休暇 その5 ヨセミテ渓谷の滝

ヨセミテ峡谷(Yosemite Valley)は、狭い地域に多数の滝が集まっているのが特徴です。なぜか滝は人々を惹き付けます。生き物のような姿だからでしょうか。

この峡谷はもとはといえば氷河でした。すり鉢のような渓谷です。そのため急峻な崖、氷河の段差、氷河の本流に向かって落ち込んでいる支流の谷などが多いのです。雪解けの4月から6月にかけては滝が生まれる条件が揃っていて、観光客を楽しませてくれます。

Nevada Fall

ヨセミテ渓谷にある739メートルのヨセミテ滝(Yosemite Fall)は、北アメリカで最も高い滝です。二つの滝からなり、Upper Yosemite Fall は436メートル、Lower Yosemite Fallは98メートルとあります。同じくこの渓谷にあるリボン滝(Ribbon Fall)は、落差は491メートルです、水が一気に垂直に落下する距離においては最も高い滝です。エルキャピタンの西にあり、落ち口はヨセミテ滝よりも60m高い所にあります。しかしこの滝の寿命は短く、たいてい7月上旬までには干上がるといわれます。

ヨセミテ渓谷の中でも有名なのが、ワウォナ(Wawona)トンネルの東出口のトンネル・ビューポイント(Tunnel Viewpoint9から見えるブライダルベール滝(Bridalveil Fall)です。落差188メートル で、1年中水が流れています。そのほか公園内には一時的に生まれて消える滝が何百とあるとパンフレットにあります。幻の滝というわけです。

ヨセミテ渓谷に住んでいたのは、アワネーチー族(The Ahwahneechee)という原住民です。人々は滝を意味する”Cholock”という表現を使っていました。アワネーチー族の一つの伝承(Ahwahneechee Legend)があります。滝壺にはいくつかの悪霊が住んでいて、Polotiと呼んでいました。あるときアワネーチーの女が川に水を汲みに行ったとき、悪霊がいるという滝壺の辺りに入り一匹の蛇を捕まえます。その夜、女の住む家がつむじ風で滝壺に巻き込まれ、女と乳飲み子も呑み込まれたということです。
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ヨセミテ国立公園での休暇 その4 多様な動植物の生息地

7月17日にヨセミテ国立公園周辺で発生した大規模な山火事は、狩りをしていたハンターが火をおこし、燃え広がったのが原因と発表されています。通常なら、夏の観光シーズンで世界から多くの人が訪れ、にぎわいを見せるこの国立公園が今、ほぼ無人化しています。観光客にも業者にも大打撃です。山火事による煙が、公園内の観光名所を覆っています。

山火事の被害は、動植物にも及びます。ヨセミテ国立公園は、シエラネバダ(Sierra Nevada )山脈の中で最大規模の、最もまとまった動植物の生息地で、生物の多様性を育んでいると案内書にあります。

以下、案内書の記述です。公園は高度600メートルから4,000メートルの地域を含み、大きく分けて次の5つの植生帯から成っています。それぞれ低木・オーク林帯 (chaparral/oak woodland)、低地・低山植生帯 (lower montane)、高地・低山植生帯 (upper montane)、亜高山帯 (subalpine)、および高山帯 (alpine) です。カリフォルニア州には7,000種の植物が見られますが、そのうちの50パーセントがシエラネバダ山脈にあり、20パーセント以上がヨセミテ公園内に見られるというのです。

さらに、160種以上の稀少植物の植生地域があり、その形成にはヨセミテのたぐいまれな地質学的な形成過程と特異な土壌が寄与しているとされます。また、アメリカグマ(Eastern black bear)や、アライグマ(Raccoon)などの哺乳類が約100種類以上生息しています。

ヨセミテ国立公園には、四季を通じておおよそ262種の鳥が住み着いたり渡ってきます。ロビン(American robin)、キツツキ(acorn woodpecker)、 黒鳥(red-winged blackbird)、フクロウ(great gray owl)、川ガラス(American dipper)、アメリカゴガラ(mountain chickadee)、 ゴジュウカラ(red-breasted nuthatch)、、ステラーカケス(Steller’s jay)の鳴き声はうるさいほどです。「ジェイ、ジェイ」と鳴くのでこの名がついています。ぴんと張った鶏冠が特徴です。別名、ブルージェイ(Blue jay)とも呼ばれます。

ヨセミテ国立公園での休暇 その3 「Giant Sequoias」

ヨセミテ国立公園は、合衆国国立公園局(National Park Service, NPS)が管理しています。Park Rangerというつばの広い帽子をかぶったガイドが働いているのをご存知の方が多いでしょう。私の家族は5日間過ごしたのですが、ほとんどの観光客は日帰りです。自動車で公園内に入るには一台20ドルの入園料を払います。一度支払うとその日だけですが、何度でも出入りできます。そして日帰の人たちは、車で簡単に行けるヨセミテ渓谷の主要ポイントだけを回るようです。

ヨセミテ渓谷では、駐車場所を確保するのは非常に難しいので、年間通して無料のシャトルバスが走っています。20分毎の内回りと外回りのバスは結構混んでいます。

ヨセミテ公園は1890年、イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)に次いでアメリカで二番目の国立公園に指定されます。1856年にヨセミテを訪れ住みついていたのが、ガレン・クラーク(Galen Clark) という人です。彼は住んでいたワオナ(Wawona)の近くでジャイアント・セコイア(Giant Sequoias)の森を発見、その後50年以上の人生すべてを熱心な保護活動に費やした人とあります。

セコイアはヒノキ科(またはスギ科)の樹です。平均的な樹高は80メートル、胸高直径5メートル、樹齢は400年から1300年ほどで、2200年のものが現在知られる最高齢とされています。厚さ30センチに及ぶ樹皮や芯材の色からレッドウッド(Redwood)とも呼ばれています。この樹皮と木質部はタンニンを多く含み、病原菌や白アリの侵入を拒んでいます。とても良い香りがします。

ヨセミテ国立公園での休暇 その2 「El Capitan」

MacintoshのOS Xは「El Capitan」 と呼ばれています。アップルが開発したOS Xシリーズの12番目のものです。実はこの名称は、ヨセミテ国立公園の代表的な花崗岩の巨大な一枚岩からつけられています。朝日があたるこの一枚岩の壁紙が画面を楽しませてくれています。

「El Capitan」 とはスペイン語「岩の族長」からとった名称です。この一枚岩は、ヨセミテ渓谷の北側にそそり立ち、渓谷の谷床からは約1,000メートルあります。世界一の大きさで、ロッククライミングの名所として知られています。登頂には、平均4日から6日がかかります。世界のより難しい山のクライミングに向けた格好の練習場所となっているとあります。

他に、花崗岩ドームとして知られるのがハーフドーム(Half Dome)です。渓谷の底から約1,470メートル、25キロから30キロの道のりで、健脚の人でも往復10時間から12時間位かかります。「午後3時まで頂上に達しないときは引き返しなさい」とパンフレットに書かれています。

「El Capitan」 を谷底から遠望すると豆粒のようなクライマーが登っています。ロッククライミングをしなくても、1日がかりで頂上まで歩いて行けるトレイルも整備されています。わたしたちは、あちこちのトレイルを歩きましたが、「El Capitan」 までは挑戦しませんでした。孫達は「El Capitan」 に登りたかったようでした。