アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その138 米西戦争の起源

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 1800年代後半のアメリカの外交政策を取り上げます。1898年に起きたアメリカとスペインの間の紛争である米西戦争(Spanish–American War)により、アメリカ大陸におけるスペインの植民地支配のもとで、アメリカは西太平洋とラテンアメリカの領土獲得を目指します。この戦争は、1895年2月に始まったスペインからの独立を目指すキューバ紛争(Cuban War of Independence)に端を発しています。キューバ紛争は、アメリカのキューバへの推定5000万ドルの投資に損害を与え、通常年間1億ドルとされるアメリカのキューバ港との貿易をほぼ停止させます。キューバの反乱軍側では、戦争は主に財産に対して行われ、サトウキビと製糖工場の破壊につながります。アメリカにとって金銭的利益よりも重要だったのは、アメリカの人道的感情のことでした。

 スペイン人指揮官バレリアーノ・ニコラウ(Valeriano Nicolau)は「残虐者」(slaughterer)と呼ばれ、キューバ人を大都市周辺のいわゆる「再集中地域」に集め、逃亡した者は敵として扱いました。スペイン当局は、和解者のための住居、食料、衛生、医療を十分に用意せず、何千人もの人々が放置され、飢え、病気で亡くなります。このような状況は、ジョセフ・ピューリッツァー(Joseph Pulitzer)の「ニューヨーク・ワールド」(New York World)や、ウィリアム・ハースト(William R. Hearst) が当時創刊した「ニューヨーク・ジャーナル」 (New York Journal) などの新聞でセンセーショナルに報じられ、アメリカ国民に向けて生々しく紹介されます。

 独立を目指す植民地の人々に対して伝統的に同情するアメリカでは、苦しむキューバ人に対する人道的配慮が加わっていきます。他方、アメリカは、反乱軍への砲撃を防ぐための近海パトロールや、アメリカ国籍を取得した後、反乱に参加してスペイン当局に逮捕されたキューバ人からの援助の要請に直面することになります。

 戦争を止め、キューバの独立を保証するための介入を求める国民の声は、アメリカ議会でも支持されるようになります。1896年の春、上院と下院は同時決議で、キューバの反乱軍に交戦権を与えるべきであると宣言します。この議会意見の表明を無視したのがクリーブランド大統領(Stephen Grover Cleveland)です。彼は戦争が長引けば介入が必要になるかもしれないと議会への最終メッセージを送り介入に反対します。次ぎに大統領となったマッキンリーはスペインとの宥和政策を支持します。しかし、マッキンリーは新任の駐スペイン公使スチュワート・ウッドフォード(Stewart Woodford)への指示や議会への最初のメッセージで、アメリカは血生臭い闘争をいつまでも傍観することはできないと明言するのです。

 イエロー・ジャーナリズム(Yellow Journalism) はイエロー・プレス(Yellow Press)とも呼ばれ、事実報道よりも扇情的な記事などを使って読者の関心をひき発行部数を伸ばそうとする行為です。米西戦争をめぐって、ニューヨーク・ジャーナル紙とニューヨーク・ワールド紙の2紙は発行部数競争で熾烈な争いを繰り広げ、無責任なニュースをでっち上げたりもしたといわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その137 経済の回復

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 1897 年 3 月 4 日の就任直後、マッキンリー大統領は再び関税を改定すべ多くの品目を自由リストから除外します。それによって輸入関税は全般的にそれまでの最高水準に引き上げられます。さらに金本位制(Gold Standard Act) の維持は1896年の共和党の最大のアピールポイントでしたが、1900年3月になってようやく議会は金本位制法を制定し、財務省には最低1億5,000万ドルの金準備を維持することを義務づけ、その最低額を守るために必要であれば債券の発行を許可することになります。

 1900年当時、金の十分な供給は現実的な問題ではなくなり、このような措置はほとんど期待はずれのものとなります。1893年以降、アメリカでの金の生産量は着実に増加し、1899年までにアメリカの供給量に加えられた金の年間価値は、1881年から1892年までのどの年よりも2倍になりました。この新しい金の供給源の中心は、1896年の夏にカナダ・ユーコン準州クロンダイク地方(Klondike)で発見された金鉱床となります。

 1898年には不況は一段落し、農産物価格と農産物輸出量は再び安定的に上昇し、西部の農民は当面の苦労を忘れ、経済の見通しに自信を取り戻したように見えました。産業界では、反トラスト法にもかかわらず、企業結合の動きが再開され、ニューヨークのJ.P.モルガン(J.P. Morgan) をはじめとする大手銀行が必要な資本を提供し、その見返りとして、大資本が設立した企業の経営に大きな影響力を持つことになっていきます。

 クロンダイク地方で金鉱が発見されると、一獲千金を狙う人々が殺到します。ゴールドラッシュでできた町ドーソン・シティー(Dawson City)は一時人口が3万人以上にまで膨れ上がったとか。その中で幸運にも金を採掘出来たのは約4,000人と言われます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その136 中間選挙とウィリアム・ブライアン

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クリーブランドが党内を掌握できていないことは、議会が銀から関税に目を向けたときに明らかになりました。下院では、大統領の意向に沿って関税率を下方修正する法案が可決されました。しかし、上院では、法案は元の法案とは似ても似つかないほど変更され、いくつかの項目については、マッキンリー関税法よりも高い関税が課されることになりました。1894年8月にようやく関税率の引き下げが可決されましたが、クリーブランドは非常に不満で署名を拒否し、彼の署名なしに法律となった。この法律には所得税の規定がありましたが、1895年に最高裁判所(Supreme Court)によって違憲とされました。

 1894年の中間選挙では、共和党が議会の両院を制覇します。このことは、不況が続くことによる不満の表れでした。また、民主党の大統領と共和党の議会では、1896年の選挙を前にして、国内法の制定が滞ることが確実となりました。

 セントルイス(St. Louis)で開催された共和党大会で、共和党はオハイオ州知事のウィリアム・マッキンリー(William McKinley) を大統領候補に選出します。彼は南北戦争で連邦軍に従軍した経験があり、オハイオ州知事としての実績は、1890年の不人気な関税との関連性を相殺することになります。しかし、マッキンリーの最も親しい友人であり、クリーブランドの裕福な実業家であるマーク・ハンナ(Mark Hanna)が、候補者指名を勝ち取るために最も効果的な支援を表明します。

 シカゴで開かれた民主党大会は、異様な盛り上がりを見せます。クリーブランドの金融政策に敵対するグループが大会を支配し、自党の大統領の政権を賞賛する決議を拒否するという前代未聞の行動に出たのです。党綱領の討論会では、ウィリアム・ブライアン(William Bryan) が銀と農民の利益を雄弁に擁護し、長い喝采を浴びただけでなく、党の大統領候補に指名されたのです。ブライアンは、ネブラスカ州(Nebraska)選出の元下院議員で、36歳という史上最年少で民主党の大統領候補となります。

 ブライアンは精力的に選挙戦を展開します。大統領候補が初めて全国津々浦々の民衆に訴え、一時は勝利するかと思われました。保守派は、ブライアンは危険なデマゴーグであり、繁栄をもたらす健全な経済システムの擁護者と国家の財政的安定を損なう無謀な改革を支持し、不誠実な急進派との対立者であると応戦します。このような主張によって、共和党は自分たちの利益が脅かされることを恐れる実業家たちから多額の選挙資金を調達することに成功します。こうした選挙資金をもとに、共和党は流れを変え、決定的な勝利を収めることになります。南部以外では、ブライアンは西部のシルバー・ステート(Silver State)と呼ばれるネバダ州(Nevada)とカンザス州(Kansas)、ネブラスカ州を制しただけでした。

 本選挙では共和党のウィリアム・マッキンリーに敗れますが、ブライアンは本選挙で36歳という若さで選挙人を獲得します。これは最年少記録となり2024年現在も破られていません。彼は1896年に27の州で500万人の聴衆を集めた全国遊説を初めて考案し演説家としての名声を得た人物です。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その135 アメリカで最も不人気な大統領

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 1893年3月、スチーブン・クリーブランド(Stephen Cleveland)が2期目の大統領に就任したとき、アメリカは金融恐慌の瀬戸際にありました。6年間続いたミシシッピ西部の不況、マッキンリー関税法の施行による外国貿易の衰退、民間債務の異常な高止まりなど、不穏な情勢にありました。しかし、最も注目されたのは、連邦財務省の金準備高でした。政府債務を金で償還するためには、最低1億ドルの準備金が必要だと考えられていました。1893年4月21日、金準備高がこの金額を下回ると、心理的な不安は広範囲に及びます。投資家は保有金を金に換えることを急ぎ、銀行や証券会社は苦境に立たされ、多くの企業や金融機関が破綻しました。物価は下がり雇用は減り、深刻な経済不況が3年以上続きます。

 この金融不安の原因は多岐にわたり複雑でしたが、金準備高に注目すると、財務省の金供給量の回復という一点に関心が集中しがちでした。財務省の資金流出の主な原因は、大量の銀を購入する義務にあると広く信じられていました。そのためには、シャーマン銀買入法(Sherman Silver Purchase Act)を廃止することが必要であるとされました。

 この問題は、経済的なものであると同時に、政治的なものでありました。この問題は両党を二分するものでしたが、銀政策の提唱者の多くは民主党でした。しかし、クリーブランドは、長い間、銀買い入れ政策に反対しており、この危機に際して、財務省を保護するために不可欠な措置として、シャーマン銀買入法の廃止を決意します。そして彼は1893年8月7日に特別議会を招集します。

 新議会は、上下両院とも民主党が過半数を占め、マッキンリー関税の撤廃を支持していました。銀貨の増刷を支持する議員が民主党議員の半数以上を占めていたため、銀の問題に関しては議論になりませんでした。クリーブランドは、議会で廃止を強行することは至難の業でありましたが、あらゆる権力を行使して目的を達成します。シャーマン銀貨購入法は、10月末に銀貨鋳造の補償規定がない法案で廃止されます。クリーブランドは、個人的には大勝利を収めるのですが、党内は分裂し、国内ではその時代で最も不人気な大統領となりました。

 クリーブランドは議会が可決した法案に拒否権を次から次に発動した大統領として知られています。彼は580回以上の拒否権を発動しました。4年の任期を終え、4年後の1893年に再度就任した最初の大統領としても知られています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その134 民衆党( People’s Party)の結成

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好景気の崩壊と農産物の価格下落により、多くの農民は政治的な救済を求めるようになります。この不満は、1888年と1890年に、農民同盟(Farmers’ Alliances)と呼ばれる地方政治団体を通じて表明され、西部の一部と南部で急速に広まります。南部では、南北戦争後、農園制度から小作料徴収制度への移行により、経済問題が深刻化しました。この同盟は地方で勝利を収め、1890年の共和党の退潮に貢献します。1891年、同盟の指導者たちは民衆党( People’s Party)を結成します。

 民衆党の人々-ポピュリストは全国的な政党になることを目指し、労働者や改革派全般からの支持を集めようと考えていました。しかし、実際には、その短い生涯の間では、ほぼ完全に西側農民の政党でしかありませんでした。南部の農民は、白人の票が分散し、それによって黒人が政権を握ることを恐れ、民主党を支持します。ポピュリストは、銀貨の無制限鋳造による流通通貨の増加、段階的な所得税、鉄道の政府所有、収入のための関税、連邦上院議員の直接選挙など、政治的民主主義の強化と農民が企業や工業と同等の経済力を持つための措置を要求します。1892年、ポピュリストはアイオワ州のジェームス・ウィーバー(James Weaver)を大統領候補に指名します。

 1892年の大統領選挙で二大政党が指名したのは、1888年の選挙と同じくハリソン(Benjamin Harrison)とクリーブランド(Stephen Cleveland)です。マッキンリー関税の不評がクリーブランドに有利に働き、西部での不満が共和党に大きく傾いていきます。選挙戦の初めから民主党の勝利が確実視されていましたが、クリーブランドは南部の諸州だけでなく、ニューヨークやイリノイといった北部の重要な諸州でも勝利を収めます。選挙人の得票数は、ハリソン145票に対してクリーブランドは277票でした。ウィーバーは西部4州で、うち3州は重要な銀鉱を有する州を制しますが22票を獲得したに過ぎませんでした。

 アメリカで二大政党に割って入った民衆党( People’s Party)の結成は、経済の不安や混乱に乗じた政治的な現象といえそうです。しかし、その歴史は短いものでした。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その133「Sooners」と抜けがけ

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 1887年の夏、ミシシッピ川西岸地域では不作と高騰した地価の崩壊により経済的・精神的不況が襲い、共和党は政治的災難に見舞われることになります。西部ブームは1870年代後半に始まり、ミシシッピ川を越えた未開拓の農地への移住の流れは、アイオワやミネソタのそれまで未開拓だった地域への入植を促します。開拓地は文字通りロッキー山脈 (Rocky Mountains)の東側の大平原へと押しやられていくのです。

 西部開拓は、この地域に敷設された鉄道によって促進されます。また、平原地帯の主要作物である小麦の価格と海外市場にも支えられました。1877年から1886年までの10年間、平原の農民は異常なまでの降雨に恵まれ、気候条件が変わり、平原に十分な降雨をもたらすために雨帯が西に移動したと多くの人が考えるようになります。ともあれ、平原に十分な雨量がもたらされるようになりました。このような幻想に誘われ、入植者たちは農場を整備するために借金を重ねます。小さな町の政治家たちは飛躍的な発展を夢見て、やがて必要となると思われる公共施設の建設のために公債発行を許可していくのです。

 その夢が崩れ去ったのは1887年のことです。この年は、1月に平原が猛吹雪に見舞われ、数千頭の牛が死に、放牧地での牧畜業は壊滅的な打撃を受けます。翌年の夏は乾燥した暑い夏となり、農作物は不作となり、さらに小麦の価格が下落し始めました。1887年の乾燥した夏を皮切りに、10年周期で少雨と猛暑が続くようになります。1887年の秋には、平原からの移住が始まり、5年後にはかつて農業が盛んだったカンザス州西部やネブラスカ州の地域は、ほぼ過疎化していきます。平原の東側の農業地帯は、直接の被害は少なかったのですが、農家は農産物価格の下落に苦しめられます。

 平原の惨状に苦悩と挫折を感じつつも、肥沃な土地への誘惑は強いものでした。1889年4月、現在のオクラホマ州中央部に入植地が開かれると、10万人ともいわれる熱心な入植者たちが殺到し、所有の特権を求めて家屋を建てていてきます。

 オクラホマ州では、1889年に白人の入植が許可される直前に、スーナー(sooners)と呼ばれる抜けがけ移住者が殺到し土地を占拠します。州のニックネームは今日も〈抜け駆けの州:Sooner State〉となっています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その132 銀とマッキンリーの関税の問題

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連邦議会は、反トラスト法を可決してから2週間足らずで、シャーマン銀購入法(Sherman Silver Purchase Act)を制定します。この法律は、財務長官が毎月13万キログラムの銀を市場価格で購入することを義務付けるものでした。この法律は、1878年のブランド・アリソン法(Bland–Allison Act)に取って代わり、政府の毎月の銀購入量を事実上50%以上増加させるものでした。この法律は、銀価格の下落に危機感を抱いた鉱山主や、インフレ対策に常に好意的で生産物の価格下落に苦しんでいた西部の農民からの圧力に応えて採択されたものでした。

 共和党の指導者の多くは、銀の購入量を増やすという提案に冷淡でしが、自分たちが最も関心のある保護関税の上方修正という措置に対する西側農民の票を確保するために、この提案を受け入れました。これは、1890年10月の中間選挙の1ヶ月前に議会で可決されたマッキンリー関税法(McKinley Tariff Act)で達成されます。この関税法は、農産物を保護対象品目に加えることで、農民の関心を高めるものでした。また、砂糖など一部の農産物は自由品目に指定され、国内の砂糖栽培農家には1ポンド2セントの補助金が支払われることになります。しかし、この法律の中心的な特徴は、関税表の全般的な引き上げであり、その多くは一般消費財に適用されるものでした。

 この新関税は、すぐに議会選挙の争点になります。農産物価格の下落に歯止めをかけることはできなかったのですが、農民が購入する多くの品目の価格はほとんど即座に上昇します。西部と南部の農業地帯ではすでに不満が渦巻き、マッキンリーの関税は農民の憤りをさらに高めることになります。選挙の結果は、共和党は大敗し下院の勢力はほぼ半分になります。

 どの国でも税の問題は大きな関心事です。農産物の関税による保護などです。日本では、資材高騰や主食用米からの大幅な転換達成などによって、低迷していた米価が浮揚しています。生産者を保護し稲作を継続させるためといわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その131 ハリソン政権

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選挙において共和党は第51回連邦議会の両院を支配します。しかし、下院での差は非常に小さく、議論を呼ぶような法案を通過させることができるかどうかは不安視されました。この難関を突破したのは、メイン州のトーマス・リード(Thomas Reed)という下院議長でした。リードは、わざと遅らせるような動議を認めず、前例に反して議場にいる議員を全員出席とみなします。そのため、点呼に応じた議員が過半数に満たなかったにもかかわらず、定足数に達していると判断することもありました。このような下院の鉄則により、彼はリード将軍と呼ばれるようになりました。1890年の夏から初秋にかけて、共和党が3つの議論を呼ぶ法案を可決できたのは、彼の確固たる下院支配があったからだといわれます。3つの議論とは、寡占、銀、そして関税を扱ったものでした。

 これらの法案の最初の寡占の議論とは、州間または外国との貿易を制限するあらゆる組み合わせを違法とするものでした。この法律は、シャーマン反トラスト法(Sherman Antitrust Act)として知られ、その著者のジョン・シャーマンにちなんで命名されました。この法律は、それまでの10年間に顕著であった産業独占の発展に対する国民の不満が高まっていることを示すものでありました。

 シャーマン反トラスト法が産業界の独占を打破するために使われるようになるまでには、10年以上の歳月が必要でした。1894年に連邦政府が、ストライキ中の鉄道組合に対して、州際通商の制限を理由に差止命令を発動し、1895年に最高裁がこの差止命令を支持したのです。実際、上院司法委員会の委員長であったバーモント州のジョージ・エドマンズ(George Edmunds)が、組合は法の意味における取引制限の組み合わせであると確信し、1890年に上院がこの法案を可決したといわれます。シャーマン法が独占の拡大を抑制すると期待した人々にとって、その結果は期待外れでした。しかし、州際通商法からわずか3年後にこの法律が成立したことは、産業界の巨大企業を効果的に規制するために、国民が州都から首都ワシントンへ注目することになった一つの証左でした。

 合衆国の上院と下院の選挙では民主党と共和党が議席を争い、与党と野党を交代しています。2024年の大統領選挙では共和党のドナルド・トランプ(Donald Trump)大統領が選ばれ上院と下院ともに共和党が多数となりました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その130 州間通商法

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州間通商法は、鉄道会社による不当な独占を防ぐために作られたもので、輸送量と利益をプールすることを禁止し、鉄道会社が短距離輸送の料金を長距離輸送の料金より高くすることを違法とします。道路がその料金を公表することを義務づけ、この法律の施行を監督する州際通商委員会が設立されます。委員会の裁定は、連邦裁判所の審査を受けることになり、その裁定は法律の範囲を限定するという傾向がありました。しかし、この法律によって、当時の新しい経済問題に対処できるのは連邦政府だけであるという認識が広まったことを示すものとなります。

 クリーブランドが1887年の年頭教書で関税の引き下げを訴えたことで、1888年の大統領選挙では関税が中心的な争点になることが確実となりました。民主党はクリーブランドを候補として再指名しますが、クリーブランドは関税引き下げを公然と主張したため、再選の可能性が低くなったと考えられました。共和党は例年通り候補者選びに難航します。ブレインが出馬を拒否し、党内には他に有力な支持者がいなかったのです。共和党は、多くの候補者の中から、南北戦争の連邦軍大将で、ウィリアム・ハリソン(William Harrison)大統領の孫であるインディアナ州のベンジャミン・ハリソン(Benjamin Harrison)を指名し、ハリソンは指名を受けます。

 クリーブランドは、誠実で勇敢な人物として尊敬を集めていましたが、彼もハリソンも有権者の熱狂的な支持を得ることはありませんでした。この大統領選挙戦の特徴は、選挙結果を左右するために巨額の資金が使われたことです。これは新しい現象ではありませんでしたが、選挙戦で不利な州を支援するために資金が投入されます。こうしてビジネスと政治のリーダーの同盟関係が明らかになったことは、これまでにはなかった現象です。結果は、またしても大接戦でした。一般投票では、ハリソンが約9万票クリーブランドより少ない得票でしたが、共和党は1884年に失ったニューヨークとインディアナの2州を獲得し、選挙人団では233票対168票で勝利します。こうしてハリソンが第23代の大統領となります。

 民主党も共和党も大統領候補の指名は党全国大会の代議員の投票によって行われます。それに先立ち、有望な候補者はテレビへの露出を利用して、大衆に訴えます。代議員数は、州の人口や過去の公認候補者に対する支持の実績、その州から選挙で選ばれた公職者などを考慮に入れて、それぞれの政党が定めた方式に基づいて決められます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その129 歳入超過と関税

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民間年金法案(SECURE法)が相次いで提出されたのは、財務省の黒字が拡大したことも一因でした。南北戦争以来、毎年、歳入が歳出を上回っていたため、様々な目的のために公的資金を充当することが提案されます。この黒字は、歳入超過の主な原因である関税に注目されるようになります。1883年、議会は関税を見直し、ある品目では関税を引き上げ、ある品目では関税を引き下げるという変更を何度も行っいますが、歳入はほとんど減りませんでした。クリーブランドは、この余剰金が非常に大きな問題であると考えます。余剰金は、本来なら流通させることができるはずのお金を財務省にため込み、政府の無謀な支出を助長するものだと考えたのです。

 他の多くの民主党員と同様、クリーブランドは高い保護関税を嫌っていました。彼は、議会がこの問題に果敢に取り組むことを2年間待ち続けるのですが、1887年の年次教書のすべてをこの問題の議論と関税引き下げのアピールに費やすという異例の戦術をとります。その後、下院はクリーブランドの考えに概ね沿った法案を可決しますが、上院はこれを否決します。そのため関税は1888年の大統領選挙における主要な争点となります。

 1877年以降、何10万人もの農業入植者が西方の平原に移り住み、それまで放牧地を支配していた牧畜業者と土地の支配権をめぐって争うようになりました。平原への人口流入の圧力は、入植に適した耕作地の供給が減少していることに注意を促し、西部に農民を待ち受ける広大な土地の貯蔵庫がなくなる日を予見させたのでした。また、何100万エーカーもの西部の土地が投機目的で所有されていること、さらにこうした投機によって土地が疑わしい手段で取得されたこと、あるいはその土地が与えられたときに負債を返済しない鉄道会社がまだ所有しているという事実にも関心が寄せられました。

 クリーブランドは就任早々、これらの土地の一部が鉄道会社、投機家、牧畜業者、製材業者によって不正に取得されたという証拠を突きつけられます。そこでクリーブランドは調査を命じ、1年以上にわたって土地局の捜査官が西部を調べ、不正や義務の不履行の証拠を発見します。クリーブランドは毅然として行動し、大統領命令と裁判によって、彼は81,000,000エーカー以上の土地を国有地とすることに成功します。

 しかし、多くの地域で一社が鉄道輸送を独占していたため、鉄道会社の多くは、多くの顧客が不公平で差別的であると感じる経営を行っていました。1884年以前には、それまでの10年間のグレンジャー法(Granger laws)という鉄道会社による様々な不正行為を禁止する州法の効果がないことは明らかとなり、政治団体は救済を連邦政府に求めることになります。このとき、西部の農業団体は、自分たちも鉄道会社による差別の犠牲者であると考える東部の有力な実業家たちと手を結んでいきます。この強力な政治的同盟は、1884年に両党の国政綱領に鉄道規制を盛り込むよう説得し、1887年に連邦議会で州間通商法(Interstate Commerce Act)を制定させることになります

 州間通商法は、全国的規模の運送業,全国的な放送事業,全国に工場を有する製造業,全国的なチェーン店を有するスーパーマーケットなどの事業で例えばストライキが起こった場合、その影響が2州以上に関係する場合に、連邦政府は介入できるというものです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その128 クリーブランド政権の始まり

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民主党の大統領候補者であるニューヨークのスティーブン・クリーブランド(Stephen Grover Cleveland))知事は、多くの点で共和党の最有力候補ジェイムズ・ブレイン(James Blaine)とは対極にある人物でした。彼は政治家としては比較的新参者でした。1881年にバッファロー(Buffalo)市長に、1882年にはニューヨーク州知事に選ばれます。彼は、正直さ、勇気、堅い意志、自立性といった保守的な行政で評判となります。「公職は公の信頼である」という言葉を信じる人々にとって、彼の経歴は魅力的な候補者として認められます。1884年当時、こうした貴重な経歴を持つクリーブランドは、少数の優れた共和党員の支持と、通常は共和党の候補者を支持する全国発行の雑誌の支持をも獲得していきます。

 1880年と同様、選挙運動には公共政策の問題がほとんどなく、関税という永年の問題が両党の違いをはっきりさせていました。クリーブランドは南北戦争に従軍しておらず、共和党はこの事実と民主党の南部勢力を利用して、クリーブランドに対する断片的な偏見を喚起していきます。選挙戦の最中、クリーブランドが独身で私生児の父親であることが明らかになります。この軽率な行動は、共和党の候補者ブレインにも財界と癒着した疑獄事件とともに、互いに中傷しあう泥仕合の様相を呈します。

 選挙は非常に接近しました。投票日の夜には、結果はニューヨーク州の票次第であることが明らかになりますが、週明けになろクリーブランドが100万票以上のうち1,100票ほどの僅差でニューヨーク州を制し、第22代の大統領に選出されたことが認定されます。

 クリーブランドは、四半世紀前のジェームズ・ブキャナン(James Buchanan)以来の民主党大統領となります。クリーブランドが獲得した選挙人の3分の2以上は南部または国境の州からであり、彼の当選は一つの時代の終わりと考えれました。南部が再び国政の運営に大きな発言力を持つことを期待できる新しい政治時代の始まりを意味するものであったとも思われました。クリーブランドは政治家としての経歴が浅いため、民主党の指導者たちとは限られた人脈しかありませんでした。

 彼は三権分立という憲法の原則を文字通り受け入れ、1885年12月の最初の議会メッセージの冒頭で、「各部門間の権力の分立」への献身を表明します。これは大統領としてのリーダーシップを否定するように思われましたが、クリーブランドが、行政府に属する権限を強力に擁護するつもりであることが明確になります。

 クリーブランドは、金融面に関するあらゆる事柄に保守的で、公費の無駄遣いには断固として反対します。そのため、連邦議会が可決した連邦退役軍人が連邦政府に対して請求した賠償金を補償するための何百もの法案について、可能な限り精査します。法案が根拠のないものであると判断した場合、彼はその法案に拒否権を発動します。クリーブランドこの種の民間法案の成立を阻止するために、拒否権を広範に行使した最初の大統領となります。

 共和党は、1860年にリンカーンが大統領になると、急激に発展し19世紀の後半から20世紀初頭にかけては、ほぼ政権を維持します。以下、共和党の歴代大統領は、アブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)、リチャード・ニクソン(Richard Nixon)、ジョージ・H・ブッシュ(George H. Bush)、ジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)などです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その127 ガーフィールドとアーサー政権

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ガーフィールドは共和党の二大派閥であるスタルワート派(Stalwarts)、ハーフブリード派(Half-Breeds)とはあまり関係がありませんでしたが、大統領に就任すると、ハーフブリードのジェイムズ・ブレイン(James Blaine)を国務長官に任命してスタルワート派を動揺させます。さらに彼は、ニューヨークの税関長にしある人物を任命します。同州出身の二人の上院議員ロスコー・コンクリング(Roscoe Conkling)とトーマス・プラット(Thomas Platt)はこうした人事に不満で、ニューヨークの議会での再選を期待して上院の席を辞任しますが失敗します。

 この党内抗争の悲劇的なクライマックスは、1881年7月2日、ガーフィールド大統領がワシントンD.C.で、失意によって精神錯乱した求職者とスターウォート支持者によって狙撃されたことでした。ガーフィールドは2か月間、治療を受けますが9月19日に死去し、チェスター・アーサー(Chester Arthur) 副大統領が後を継ぎます。

 アーサーが大統領に就任したことは、広く世間を騒がせます。アーサーは副大統領になるまで公職に就いておらず、ただ党内ではスタルワート派と密接な関係をもってはいました。そのため、他の党派と同様、公務員制度改革に敵対すると考えられ、彼の副大統領就任はヘイズ大統領に対する意図的な反撃であると一般に見なされていました。ガーフィールド内閣の閣僚は直ちに辞表を提出しますが、アーサーは彼らに当面は留任するよう要請します。しかし、1882年4月中旬に1人を除いてすべての閣僚が交代します。

 アーサー大統領は迅速にかつての政治的友人らとは距離を置き、批評家や国民を驚かせます。1881年12月、アーサーは議会に対する初の年頭教書で、連邦公務員の任命を党派的統制から排除する法案を適格に承認することを発表します。1883年1月、議会はペンドルトン公務員法(Pendleton Civil Service Act)を可決し、アーサーはこれに署名します。この法律は、公務員委員会を設立し、特定のカテゴリーの役職への任命は試問に基づいて行われ、任命された者はその役職に無期限で就くことができることを規定したものでした。

 1884年の大統領選挙では、アーサー政権は、彼の就任を疑問を抱いていた多くの人々の尊敬を集めていました。しかし、党の指導者たちから強い支持を得ることはできませんでした。共和党の最有力候補は、長年にわたって権勢を誇っていたブレインで、彼は党派的な精神が強すぎるとか、何年も前の下院議長時代に汚職の嫌疑をかけられたという反対意見もありましたが、大統領候補の指名選挙において第4回の投票で指名されます。

 民主党は、1930年代にはニューディール政策を推進したフランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)大統領の下で、強固な支持基盤が確立されたといわれます。以下、民主党の歴代大統領です。ハリー・トルーマン(Harry Truman)、ジョン・ケネディ(John Kennedy)、ジミー・カーター(Jimmy Carter)、ビル・クリントン(Bill Clinton)、バラク・オバマ(Barak Obama)などです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その126 第20代の大統領選挙

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ヘイズは再選に立候補しないことを選択します。もし2期目を目指していたなら、共和党の指導者たちから再選を拒否されることはほぼ確実だった思われます。1880年には3人の有力候補が共和党の指名を争います。コンクリング上院議員(Senator Conkling)が率いる「堅実派(Stalwart)」のユリシーズ・グラント(Ulysses Grant)、対立する「半獣派(Half-Breed)」のリーダーであるジェームズ・ブレイン(James Blaine)、そして財務長官シャーマンです。グラントは大会に相当数の忠実な代議員を擁していましたが、その数は過半数に満たない状況でした。他の候補者はいずれも過半数に達せず、36回目の投票で、疲労した代議員たちは妥協候補としてオハイオのジェームズ・ガーフィールド(James Garfield)下院議員を指名します。大会は、堅実派を抑えるために、ニューヨークのチェスター・アーサー(Chester Arthur) を副大統領に指名します。

 民主党は1880年にサミュエル・ティルデン(Samuel Tilden)を再指名し、1876年にティルデンが不正行為で負けたと考える人々から票を得ようとします。しかし、ティルデンは再度の候補者擁立を辞退し、民主党大会はウィンフィールド・ハンコック元帥(Gen.Winfield Hancock)を指名します。ハンコックは南北戦争で連邦軍の将官を務めたのですが、政治的な実績はなく、公共政策の問題にもほとんど通じていませんでした。

 この選挙戦は、特段の盛り上がりを見せず、目新しい争点も生まれませんでした。この時期の国政選挙はいつものように、共和党は保護関税の党としての役割を強調し、関税に反対する民主党は国内産業の成長を妨げると主張します。実際、民主党の関税に対する考え方は大きく分かれており、ハンコックは「関税は地方だけの問題だ」と宣言し、両党の政治指導者たちを驚かせます。ガーフィールドは214対155という選挙人名簿差で大統領に当選しますが、一般投票では9,644票と僅差での勝利でした。他方、ハンコックは旧南部連合の全州と連邦に忠誠を誓った旧奴隷州のうち3州を制圧し、新たな「強固な南部(solid South)」の存在を示すのです。

 ジェームズ・ガーフィールドは第20代アメリカ合衆国大統領で現職下院議員として選出された唯一の大統領です。歴代の大統領では最も博学の大統領で、Wikipediaによりますと片手でラテン語、もう一方の手でギリシャ語を同時に書くことができたようです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その125 ラザフォード・ヘイズ大統領

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 1877年にラザフォード・ヘイズ(Rutherford Hayes)が第19代大統領に選出されます。1881年までの在任期間中、彼は選挙に必要な南部で争われた票を確保するために、南部の人々が主張する公約を着実に実行に移します。彼は南部に駐留していた連邦軍を撤退させ、テネシー州の元上院議員デイヴィッド・キー(David Key)を郵政長官として閣僚に任命します。

 ヘイズは、こうした融和的な態度によって、南部の多くの保守派が将来的に共和党を支持するようになることを期待します。しかし、南部の人々の最大の関心事は白人至上主義の維持であり、そのためには民主党が南部の政治権力を独占する必要があると考えていきます。その結果、ヘイズの政策は、南部での共和党の復活ではなく、事実上消滅することになります。

 ヘイズの南部への働きかけは一部の共和党員を苛立たせます。連邦公務員の支持に対する彼の政策は、党にとってより直接的な課題でありました。1877年6月、ヘイズは連邦政府職員による政治活動を禁止する大統領令を発布します。ロスコ・コンクリング(Roscoe Conkling)上院議員の友人二人がこの命令に背くと、ヘイズは二人をニューヨーク港管理局のポストから解任します。コンクリングと共和党の仲間たちは、1879年に彼らの仲間の一人であるアロンゾ・コーネル(Alonzo Cornell)をニューヨーク州知事に当選させ、1880年にはもう一人のチェスター・アーサー(Chester Arthur)を共和党の副大統領候補として指名し、ヘイズに対する軽蔑の念を表していきます。

 ヘイズが直面した最も深刻な問題の一つは、インフレの問題でした。ヘイズをはじめとする多くの共和党員は、健全な通貨政策を堅く支持していましたが、問題は党派的というよりむしろ通貨政策の問題に起因していました。一般に農業地帯である南部と西部ではインフレに好意的でしたが、北東部の産業・金融グループは、インフレは債権者の犠牲の上に債務者を利するとして反対します。

 1873年、米国議会は銀貨の鋳造を中止します。この行為は、後に銀を愛する人々から「73年の犯罪(the Crime of ’73)」と呼ばれるようになりました。1879年1月以降、南北戦争の戦勝国紙幣を金で償還することを定めた法律を廃止し、銀貨の鋳造を再開するようにインフレ論者が議会を説得するキャンペーンを開始します。その結果、通過した法律(Bland–Allison Act) には、銀貨の鋳造を再開し、さらに重要な点として、ジョン・シャーマン(John Sherman)財務長官に対して、毎月200万ドル以上400万ドル以下の銀塊を市場価格で購入することを義務付けるというものでした。

インフレ反対派は、財務長官が、グリーンバックの償還を求める財務省の要求に応えられるよう、十分な金準備高を確保するための準備を入念に行っていることに安心します。また、長い不況からようやく回復する兆候もインフレ反対派を安心させるものでした。こうして政府の財政は安定し、グリーンバックの償還期日が来ても、財務省に金との交換を求めるという大きな要求は生まれませんでした。

 南北戦争の費用捻出のため、1861年に発行された緑色の裏面の無利子証書の約束手形がグリーンバックです。その色から「greenback」というニックネームが付きました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その124 国内政治の動き

19世紀最後の四半世紀のアメリカにおける支配的勢力は、政治的というよりもむしろ経済的、社会的なものでした。このことは、政治的リーダーシップの無力とか、インフレを求める農民運動の継続を除いては、政治に深い対立をもたらす問題が存在しないことを反映したようです。政治的に著名な人物はいましたが、彼らは政治的な行動計画の代弁者としてではなく、個人的な基盤の上に立って人気を得ていました。

 この時期の大統領で真に党の指導者は見当たらず、1893-97年の2期目の大統領グローバー・クリーブランド(Grover Cleveland)以外は、傑出した大統領はいませんでした。ウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)やジェイムズ・ブライス(James Bryce)といったアメリカ政界を鋭く観察していた政治家すらさえも、偉大な人物が大統領になることはないと考えていたようです。また、両政党の大統領候補の指名大会では、政敵が少ないといった無難な候補者を選ぶのが普通となりました。

 それでもウィルソンはヨーロッパでの第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジーミル・レーニン(Vladimir Lenin)の「平和に関する布告」(Dekret o mire)に対抗して「十四か条の平和原則」を発表、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰し、国際連盟の創設に尽力した大統領です。「十四か条の平和原則」とは、公正かつ民主的な平和の実現のため、民族自決に基づいて無併合・無賠償を原則として戦争を即時停止するといった内容の宣言です。

 共和党は、南北戦争から世紀末にかけて、1884年と1892年を除くすべての大統領選挙で勝利し、同時期の3つの議会を除くすべての議会で上院の過半数を占め多数党となります。しかし、民主党は1875年から1895年までの10回の議会のうち8回で下院の過半数を獲得していきます。共和党は1870年から1890年以降まで党内分裂に直面し、1876年以降の選挙戦のたびに南部全域を野党に譲らざるを得なかったのですが、政権与党となりました。

 共和党には、連邦を分離独立から守り、奴隷制を廃止した政党であるという自負がありました。他の政策の主張が失敗したときも、共和党の指導者は戦争の記憶を蘇らせることによって北部と西部の票を掘り起こすことができました。共和党の有利なことは、国家の継続的な産業発展は、民主党政権よりも共和党政権の方がより確実であるという信念が国民に次第に広まっていたことです。経済的に不利な年を除いて、戦争の記憶と共和党の経済プログラムへの信頼は、北部と西部のほとんどの州で共和党が勝利することに表れます。

 民主党はリベラル、大都市、人種的マイノリティーである黒人、ヒスパニック(Hispanic)、アジア系、労働組合、貧困層など大都市が集まる東海岸や西海岸などを基盤としています。共和党は農業地帯、伝統的なキリスト教派、労働者、白人支持層の多い南部や中西部を基盤としています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その123 労働組合と騒動

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労働組合にとって最も大きな打撃となったのは、組合が間接的にしか関与しなかったのですが、悲劇的な出来事です。それは1886年のメーデーに呼びかけられたストライキの1つに、シカゴのマコーミック農耕機器製作会社(McCormick Harvesting Machine Company)に対するものでした。5月3日、ヘイマーケット広場での騒動(The Haymarket Riot) です。ピケットラインで争いが起こり、警察が治安を回復するために介入し、数人の労働者が負傷したり死亡したりします。

 組合幹部は5月4日夜、ヘイマーケット広場で抗議集会を開きますが、集会が終わると、極右たちが占拠して扇動的な演説を始めました。警察がすぐに介入し、爆弾が爆発して警官7人が死亡、多数の負傷者が出ます。8人の極右が逮捕され、訴追され殺人の罪で有罪になります。そのうち4人は絞首刑、1人は自殺します。残りの3人は、1893年にジョン・アルトゲルド知事(Gov. John Altgeld)によって恩赦されます。知事は、彼らが偏見に満ちた雰囲気の中で有罪判決を受けたとし、有罪であると確信することは不可能であると認めざるをえなかったのです。

 世論はヘイマーケットの悲劇について組織労働者を非難し、多くの人が組合の活動には暴力が伴う可能性があると確信していきます。騎士団は1886年に失った信頼を回復することはなく、今世紀に入るまで、組織労働者が一般大衆の共感を得ることはほとんどありませんでした。組合員総数が最大となった1885-86年の数字に再び達したのは1900年になってからでした。組合活動は依然として活発であり、1889年から世紀末まで毎年1,000回以上のストライキが行われました。

 騎士団の力が弱まるにつれ、労働組合運動の指導者はアメリカ労働総同盟(American Federation of Labor: AFL)に移ります。労働総同盟は1881年に最初に組織され、1886年に再編成された地方労働組合とクラフト・ユニオン(craft unions)の緩やかな連合体でした。数年間、騎士団とAFLの間には名目上の協力関係がありましたが、両者の基本的な組織と理念の違いが協力を困難なものにしました。労働総同盟は熟練労働者のみにアピールし、その目的は労働時間、賃金、労働条件、組合の承認など、組合員にとって直接関係のある要求が主体でした。

 労働総同盟はストライキとボイコットを中心とする経済的手段に依存し、州や地方の選挙キャンペーンを除いては政治活動を避けていきます。労働総同盟の中心人物は、ニューヨークの葉巻製造業者であったサミュエル・ゴンパーズ(Samuel Gompers)で、1886年から1924年に亡くなるまで会長を務めます。

 現在の労働運動の担い手は10〜30代の青年で、労働組合=ユニオンの頭文字をとって「ジェネレーションU」(Generation U)という言葉すら生まれています。「すべての職場に労働組合を」というスローガンを掲げています。アマゾン(Amazon)とスターバックス店(Starbucks)での組合の結成も続いています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その122 労働組合の台頭

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産業の発展に伴い労使間の緊張が高まり、アメリカでは初めて全国的な労働組合が誕生します。1869年にフィラデルフィア(Philadelphia)にて結成された労働騎士団(Knights of Labor)は、会員数、影響力ともに地域的な規模を超えた最初の有力な労働組織でした。雇用主から労働者を保護する秘密結社として始まりました。騎士団は、あらゆる生産者集団の利益が平等となるよう、すべての労働者だけでなく、生産者と分類される人々を組合に加入させようと努めていきます。彼らは、様々な大義を唱え、その多くは産業よりも政治的なものであり、経済的強制力よりも政治や教育によって目的を達成することを叫んでいきます

 1873年から1878年にかけての不況で多くの労働者が苦しみ受け、全国的な鉄道ストライキは失敗します。ヘイズ大統領 (President Hayes)がピッツバーグ(Pittsburgh)とセントルイス(St.Louis)での混乱を鎮圧するために連邦軍を送ったことで、騎士団の仲間に大きな不満が生まれます。1879年、鉄道員でペンシルベニア州スクラントン(Scranton)市長のテレンス・ポーダリ(Terence Powderly)が、全国組織の委員長に選出されます。彼は、積極的な行動計画よりも協調を重視しますが、騎士団の実質的な支配は、目的を達成するためにストライキやその他の経済的圧力をかけることをいとわず、大きな影響力を有するようになります。

 1884-1885年、騎士団はその影響力のピークに達し、ユニオン・パシフィック鉄道(Union Pacific)、サウスウェスト・システム鉄道(Southwest System)、ウォバシュ鉄道(Wabash railroads)に対するストライキが大きな反響を呼び、賃金の引き下げを阻止することに成功します。当時、彼らは全国で70万人近い組合員を擁していました。1885年、労働者の力が明らかに増大していることに注目した議会は組合の要求に応じ、特定の雇用主のもとで働く契約を結ぶ移民のアメリカへの入国を禁止するようになります。

 1886年は、労使関係で大きな問題を抱えた年となります。1,600件近いストライキがあり、約60万人の労働者が参加します。8時間労働は、労働者の要求の中で最も顕著な項目でした。しかし、このうち約半数はメーデー(May Day)に招集されたもので、参加や不参加の労働者に分かれ、また熟練者と非熟練者の内部対立もあって、騎士団の人気と影響力は低下していきました。

 やがて1955年にアメリカ労働総同盟(AFL)と産業別組合会議(CIO)が合同します。現在アメリカ・カナダの53単産が加盟し、組合員は1000万人を超えるアメリカ唯一の労働組合の中央組織です。支持政党は民主党となっています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その121 海外貿易

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アメリカの対外貿易は、輸出額で判断すると国内産業の成長に歩調を合わせていました。金や銀の再輸出を除けば、1877年のアメリカからの年間輸出額は約5億9000万ドルでしたが、1900年には約13億7100万ドルにまで増加します。輸入額も伸びは鈍いものの、漸増していきます。金と銀を含めると、アメリカが貿易収支を悪化させた年は全期間で一年しかありませんでした。世紀末になると、輸出の輸入に対する超過額は明らかに増加していきます。

 アメリカの輸出の大部分は、引き続き農産物が占めていました。綿花、小麦、小麦粉、肉製品などは、常に年間輸出額が最も大きい品目でした。非農業製品では、石油が最も重要でしたが、世紀末には機械類が輸出品目の上位を占めるようになります。

 外国貿易の拡大にもかかわらず、アメリカ商船業界はこの時期大きな犠牲を強いられます。アメリカ旗を掲げた全商船の総トン数は驚くほど一定していましたが、外国貿易に従事するトン数は急激に減少し、南北戦争前夜の240万トン以上から1898年の72万6000トンという最低値まで低下してしまいます。この減少は、南北戦争中に数百隻の船が破壊を避けるために外国船籍に移されたことに原因しています。その後、造船や修理のコスト面での不利や、アメリカ製の船しか登録しないというアメリカの方針が、第一次世界大戦までの成長を妨げていきます。

 アメリカは世界最大の農産物輸出国であり,日本は最大の農産物輸入国です。日本が輸入している穀物・大豆の8割は米国産でトウモロコシは主に畜産の飼料用として大量に輸入しています。アメリカは今も世界一の農業国なのです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その120 ロックフェラーとトラスト

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トラスト

アメリカでは、産業の地理的な分散が進み、産業立国への転換が進んでいきます。しかし、この動向は、競合する企業が統合され、業界全体を支配する大規模なユニットになる動きに比べると、あまり注目されませんでした。1882年、ロックフェラー(John Rockefeller)とその仲間たちが、オハイオ州法に基づきスタンダード・オイル・トラスト(Standard Oil Trust)を設立したとき、この統合への動きは特に注目されました。

 トラスト–信託は、新しいタイプの産業組織であり、競合する企業の株式の支配的な数の議決権を少人数のグループに託すことで、彼らが支配する企業間の競争を阻止することができるものでした。株主は、配当を多く受け取ることができ、利益を得たと思われます。信託は数年間、独占企業設立の手段として人気を博し、1890年までにウイスキー、鉛、綿実油(cottonseed oil)、塩なども信託会社の許に入ります。

 1892年、オハイオ州の裁判所は、この信託が同州の独占禁止法に違反するとの判決を下します。スタンダード・オイルはその後、ニュージャージー州のより緩やかな法律の下で、持株会社として再び法人化していきます。その後、持ち株会社や完全な合併が独占企業の設立のために好まれるようになります。信託という用語は、独占企業の一般的な表現として一般に残るようになります。

 この時期の最も有名な企業合併は、1890年のアメリカ煙草会社(American Tobacco Company)と1891年のアメリカ砂糖精製会社(American Sugar Refining Company)の設立でした。アメリカ砂糖精製会社は、特に競争を抑制することに成功し、瞬く間にアメリカ国内の精糖のほとんどを支配するようになります。

 ロックフェラーは、1870年にスタンダード・オイル社(Standard Oil )を創業し、ピーク時はアメリカの石油の90%をコントロールしトラストを結成します。引退後は、資産の大部分を使い医療・教育・科学研究促進などを目的とした財団を創設した慈善家でもありました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その119 製造業の発展

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 1800年代は、産業が地理的に広く発展していたことも特筆されます。マサチューセッツ(Massachusetts)からペンシルベニア(Pennsylvania)にかけての東海岸は、引き続きアメリカで最も工業化の進んだ地域で、さらに五大湖に隣接する州や南部の一部地域でも製造業が大きく発展していきます。

 鉄鋼業は、このような企業の新しい拡散のパタンを反映していきます。鉄鋼業の3分の2は、ペンシルベニア州西部とオハイオ州東部の地域に集中していました。しかし、1880年以降、ミネソタ州北部のバーミリオン山脈 (Vermilion Range)、1892年メサビ山脈(Mesabi Iron Range)、テネシー州、アラバマ州北部での鉄鉱山の開発に続き、シカゴ周辺で鉄鋼業が拡大し、アラバマ州北部とテネシー州に製鉄所が建設されます。

 中西部の製造業のほとんどは、農業と密接に関連した企業であり、1860年以前に設立された産業の拡大版といえます。1875年以降、食肉加工業はその製品価値から見てアメリカの主要産業のひとつとなりますが、その大部分はシカゴに集中しており、ほぼ中西部の独占的産業といえるものでした。製粉、醸造、農業機械や木材製品の製造も中西部の重要な産業となります。

 南部への産業進出は、繊維産業が先鞭をつけます。綿花工場は新南部のシンボルとなり、ヴァジニアからジョージア、アラバマに至るピードモント地方(Piedmont)に工場や工場町が生まれます。1900年までには、全米の綿紡績のほぼ4分の1が南部で行われ、南部の工場は、ニューイングランドの老舗の競合他社よりも急速に事業を拡大していきます。南部での製材業の発展はさらに目覚ましいものでしたが、あまり一般には知られていませんでした。世紀末には、南部は製材業で全土をリードし、年間供給量のほぼ3分の1を占めるまでになったのです。

 アメリカ中西部はアメリカの「Heartland」(心臓部)と呼ばれ、鉄鋼業、食肉加工業、自動車業、農業、酪農、金融業などでアメリカ経済を支えています。

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