ユダヤ人と私 その19 アシュケナジムとセファルディム

イスラエルの民族や文化の理解のためには、ユダヤ人の内部のエスニックな事情を知っておく必要があります。といいますのは、イスラエル人とは曖昧な総称であり、その解釈は様々で時に誤解が生まれるからです。

ユダヤ人は大きく二つに分類される人種といわれます。その第一がアシュケナジム(Ashkenazim)、第二はセファルディム(Sephardim)です。前者は一般にドイツ系ユダヤ人であり、後者はスペイン系ユダヤ人といわれます。

アシュケナジムは、もともとドイツのライン川(Rhine River)流域や北フランスに定住していたユダヤ人とその子孫です。その後東ヨーロッパやロシアへ移住していきます。ユダヤ系のディアスポラ(diaspora)と呼ばれてもいます。白系ユダヤ人ともいわれます。ドイツ語に似たイディッシュ語(Yiddish)を使っていました。アシュケナジムの語源は、旧約聖書におさめられた創世記(Book of Genesis)10章3節ならびに、ユダヤの歴史書である歴代誌(Books of Chronicles)上1章6節に登場する男性の名前です。

他方、セファルディムは中世にスペイン、ポルトガルが位置するイベリア半島(Iberial Peninsula)に住んでいたユダヤ人の子孫です。ユダヤ系スペイン語である「ラディノ語(Ladino)」を使っていました。セファルディムは有色人種、南欧系及び中東系ユダヤ人を指す語として大雑把に使われています。セファルディムの意味はヘブル語でスペインを意味します。この二つの民族が今日のユダヤ社会の二大勢力となっています。

ユダヤ人は当初は、ヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ交易商人だったといわれます。ヨーロッパとイスラム間の直接交易が主流になったこと、ユダヤ人への迫害により長距離の旅が危険になったことから定住商人となり、キリスト教徒が禁止されていた金融業等へと進出していきます。

ユダヤ人と私 その18 ユダヤ人と日本とのつながり

ユダヤ人と日本人は世界史の中で寄り添うような関係を持ったことがあります。日露戦争の経緯にその関係がうかがわれます。

戦争の遂行のために日本は膨大な戦費を必要としていました。そのために国債を発行し外貨を得ようとします。当時の日本銀行副総裁、高橋是清はそのための外貨調達に非常に苦心したといわれます。投資家からは日本の敗北予想、国債支払い能力の不安などで外貨調達は困難を極めます。

高橋らの努力で、帝政ロシアを敵視するユダヤ系のアメリカ人銀行家ジェイコブ・シフ(Jacob H. Schiff)は、500万ポンドの外債を引き受け、その後も追加の融資をします。融資の理由はロシア国内での反ユダヤ主義(Antisemitism)に対するシフらユダヤ人の抗議であったといわれます。反ユダヤ主義の例は、ポグロム(pogrom)というユダヤ人への集団迫害です。

日本は3回にわたって7,200万ポンドの公債を追加募集します。シフはドイツのユダヤ系銀行やリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)などに呼びかけ、この募集も実現するという幸運に恵まれるのです。日本はシフなどのユダヤ系投資家によって軍費を調達し日露戦争を遂行できます。日露戦争は、帝政ロシア崩壊のきっかけとなったといわれます。

シフは実業家として成功します。同時に彼は寄附や慈善とか形で同胞に貢献します。ヘブライ・ユニオン・カレッジ(Hebrew Union College-Jewish Institute of Religion)の創立に援助します。このカレッジは、聖職者を養成するユダヤ教改革派の神学校です。その他、コロンビア大学(Columbia University)とかイスラエル工科大学(Israel Institute of Technology)などにも多額の資金を提供したことで知られています。

今もアメリカにあるまざまなユダヤ人の団体、例えばアメリカシオニスト機構(Zionist Organization of America: ZOA)とかアメリカ・イスラエル公共問題委員会(American Israel Public Affairs Committee: AIPAC)アメリカとイスラエルの関係を維持する強力ななロビイスト団体であると同時にイスラエルに多額の支援をしています。

ユダヤ人と私 その17 ユダヤ人の日本とのつながり ヨセフ・トランペルドール

マーヴィン・トケイヤー師(Rabbi Marvin Tokayer)は著者の中で、日本とユダヤの関係は、日本がユダヤから影響を受けるだけでなく、日本がイスラエルに大きな影響を与えたこともあったというエピソードも紹介しています。

Die sogenannten “Hep-Hep-Krawalle” in Frankfurt am Main, Antisemitische Ausschreitungen in Deutschland 1819; Radierung, zeitgenössischOriginal: Frankfurt am Main, Historisches MuseumStandort bitte unbedingt angeben!;

日露戦争で捕虜となったヨセフ・トランペルドール(Joseph Trumpeldor)のことです。数千人のロシア兵捕虜の一人として大阪は堺市の捕虜収容所で暮らします。彼は収容所での親切な扱いに感激し、日本のような小さな国がどうして大国ロシアに勝てたのかと考え、「日本を手本としたユダヤ人国家を建設する」と誓ったとか。収容所内でユダヤ人に関する新聞を発行し、小さな教室を開いて歴史や地理、文学に関する講義をしたようです。後にトランペルドールはシオニスト運動に加わり英国軍とパレスティナの各地で戦いイスラエルの建国に尽くします。

少し遡りますが1848年には、那覇にユダヤ系で当時はイギリス国籍であった医師兼プロテスタント宣教師のバーナード・ベッテルハイム(Bernard Bettelheim)とその家族がやってきます。本土でユダヤ人共同体が構成されたのは万延元年の1860年頃といわれ、開港間もない長崎の外国人居留地にコミュニティがつくられます。横浜の外国人居留地には、幕末の時点で50家族のユダヤ人が住んでいたとあります。横浜は山手の丘の上にある外国人墓地では、ユダヤ教の象徴である「ダヴィデの星」の墓碑をみることができます。

1861年には、ロシアやポーランドで集団的迫害であるポグロム(Pogroms)を受けたユダヤ系の難民が長崎に上陸します。さらに1894年頃、長崎に日本初の礼拝所であるシナゴーグ(Synagogue)がつくられます。このシナゴーグは別名ケヒッラー(Qehillah)と呼ばれるユダヤ教徒のコミュニティのことです。技術者、船員、商人が多く、シナゴーグと宗教的指導者であり学者でもあるラビ(rabbi)をおいて、学校もつくったといわれます。こうした記録は墓銘などから分かっています。ユダヤ人にとって宗教的な教育は大事な活動だったことが伺われます。

ユダヤ人と私 その16 ユダヤ人の日本とのつながり マーヴィン・トケイヤー

ユダヤ人の渡来はヨーロッパ人の渡来と同じ時期だったようです。ポルトガル人の渡来が1543年ですが、それに続くヨーロッパ人の中に「マラノス(Marannos)」と呼ばれた表向きはキリスト教への改宗者が渡来者に多数交じっていたようです。「マラノス」は秘かにユダヤ教を守り続けた者でもありました。14世紀や15世紀になるとイベリア半島(Iberian Peninsula)ではユダヤ教を信奉することが強く非難されるようになりました。「Marannos」という単語の他に、改宗者という意味の「Converso」という単語もスペイン(Spain)やポルトガル(Portugue)にあります。

大航海時代の船員や乗組んでいた医師や商人のなかにユダヤ系の名前がでてきます。渡航者の中では、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)はスペインのバスク(Basque)出身のユダヤ人でありました。さらに同行した医師兼通事であったルイス・アルメイダ(Luís de Almeida)が「マラノス」であったという記録があります。アルメイダは豊後府内にて私財を投じて乳児院や日本初の総合病院を建てます。九州全域をまわって医療活動を行いながら、医学教育も始め医師の養成にもあたったという人です。

ラビ(rabbi)であったマーヴィン・トケイヤー(Marvin Tokayer)が著した「ユダヤ製国家日本」には日本におけるユダヤ人の活躍が書かれています。種子島に鉄砲をもたらした初頭期の人の中に、フェルナン・メンデス・ピント(Fernao Mendes Pinto)がいました。彼もまた改宗者となった「マラノス」でした。ピントは膨大な旅行記も書いたそうです。また、明治期のお雇い外国人の二割ぐらいはユダヤ人であり、大日本帝国憲法の起草に大きな影響を与えたアルバート・モッセ(Albert Mosse)や、日本における歴史学の父で東京帝国大学史学科で教えたルートヴィヒ・リース(Ludwig Riess)らもユダヤ人でありました。

ユダヤ人と私 その15  ユダヤ教とキリスト教の論争

19世紀に入り、近代化の流れの中でヨーロッパに政治運動としてのシオニズム(Zionism)が台頭します。その理由は、ナポレオン一世(Napoleon Bonaparte) が征服した国々の中でユダヤ人の平等視を命じたことにあります。こうして一方でヨーロッパでユダヤ人が政治的に解放されていくにつれ、他方でユダヤ教の民族性脱却の考え方への不満を反映していく機運が高まっていきます。これがシオニズム運動です。

のような経緯かといいますと、伝統的なユダヤ人とユダヤ教がローマ・カトリック教会(Roman Catholic Church)やプロテスタント教会(Protestant Church) と同じように民族性を越えた信仰者の団体であるべきことを確信するユダヤ人との間で激しい論争が交わされていたことです。この論争を終息させたのは、皮肉にもナチス時代の迫害でありました。

ユダヤ教の立場からは、キリスト教はユダヤ教の異端の一つであるという見方です。この二つの宗教の確執は2000年にもわたります。キリスト教の側は、キリスト教が契約の真に成就した教義として宣言します。しかし、両者の新しい和解の芽生えが1993年のヴァチカン(Vatican)とイスラエル(Israel)との外交関係の樹立です。単に政治的な関係の改善だけでなく、和解という宗教的な意味を持つできごとでした。

和解の具体的なこととして、両者がパレスチナ(Palestine)の重要な役割を認識すること、ユダヤ人コミュニティの教会的な定義づけが歴史に公正な判断を下すことにならないこと、ユダヤ教が観念的な教義で成り立つと見なすことは神学的に健全でないこと、反ユダヤ主義や人種差別と対決すること、礼拝の自由を擁護し、ユダヤ教、キリスト教の聖地を尊重することなど、政治的な内容を越えたものが盛り込まれます。

ユダヤ人と私 その14 アーリア人と「自民族中心主義」

エスノセントリズム(ethnocentrism)は、「民族」を意味するギリシャ語エトノス(ethnos)が語源とされています。巷で使われる単語に「ethnic」があります。民族的とか少数派民族、などという意味です。エスノセントリズムは「自民族中心主義」といわれます。古代のギリシャやローマ人は仲間以外のすべてを「野蛮人」と呼んだ歴史があります。「中華思想」は「華夷思想」とも呼ばれ、漢民族の居住する黄河下流と中原とし、それ以外の地、辺境に住む民族を「夷狄」とし文化程度の低い蛮族と見なしてた時代がありました。日本でも北海道は昔は「蝦夷」と呼ばれました。異端視した呼称です。「夷」えびすとも呼ばれ、岩波の国語辞典によれば「東方の未開人」とあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
自民族中心主義といえば、アーリア人種論(Aryan)を取り上げる必要があります。Encyclopaedia Britannicaによりますと、アーリア人はもともと古代「インド・ヨーロッパ語族」と呼ばれ、先史時台はイランや北インドに定住した人々といわれます。やがて南ロシア地方に居住し牧畜を営んだ民族の一つであると考えられています。体ですが色は白く、背が高く、鼻は真っ直ぐに高く、容姿が整い、使われていた言語は現代ヨーロッパ諸民族の古語であるゴート語(Gothic)、ケルト語(Celtic)、ペルシャ語(Persian)などと同一系といわれます。

1853年にフランスの文人で外交官であったアーサー・ド・ゴビノー(Arthur Comte de Gobineau)が『諸人種の不平等に関する試論』という本を書き、そのなかで中で白人至上主義を提唱し、アーリア人を支配人種と位置づけます。この本をきっかけに、アーリア人種のことが神話のように広ろがります。そして「金髪、高貴で勇敢、勤勉で誠実、健康で強靭」というアーリア人種のイメージは彼らの理想像となり、アーリア人種論はヒトラーの思想形成にも影響を及ぼしたといわれます。アーリア人種はドイツ民族と同義語になり、ドイツ民族こそがアーリア人種の理想を体現する民族であると謳歌するのです。この人種至上主義はドイツのナショナリズムを統合する精神となっていきます。

ユダヤ人と私 その13 エスノセントリズムとホロコスト

ユダヤ民族の悲劇は第二次大戦中のホロコスト(Holocaust)です。Encyclopaedia Britannicaによりますと「Holocaust」は「神への焼かれた生けにえ」という意味のギリシャ語を語源とする言葉といわれます。ホロコストは、生けにえを捧げる儀式「燔祭」から由来し、後にナチスが組織的に行った大量虐殺のことです。旧約聖書の「創世記」(Book of Genesis)には、年老いたモーゼ(Moses)と不妊の妻サラ(Sarah)との間にもうけた一人息子イサク(Isaac)を生けにえとして捧げるよう、モーゼが信じる神によって命じられるという試練の記述があります。

エスノセントリズムの代表例がホロコストです。自分の属する内集団と,属さない外集団との差別を強く意識し,内集団には肯定的服従的態度を,外集団には否定的敵対的態度をとる精神的傾向を指します。これが極端になるとユダヤ人迫害のホロコストにみられるような極端な排外主義になります。アングロサクソン(Anglo-Saxons)を含むゲルマン(Germanic peoples)民族の選民思想や人種思想を標榜したのがナチスドイツでありました。

ワシントンD.C.のモール(Mall)の一角にホロコスト記念博物館(Holocaust Memorial Museum)があります。1993年4月に開館した比較的新しい博物館です。ついでながら、この博物館で私の国際ロータリー奨学金のスポンサーであるDr. Robert Jacobsの名前が寄付者の碑にありました。

ユダヤ人と私 その12 選民思想と「エスノセントリズム」

反ユダヤ主義者(anti‐Semites)は、「ユダヤ教は強烈な選民思想であり、民族や人種の文化を基準として他の文化を否定的にとらえる自民族中心主義である」などと主張します。それはユダヤ人への偏見と憎悪に満ちた見方であります。ユダヤ人は散らされた民であるがゆえに、共同体をつくり、知恵を絞り懸命に働いて財をなし、生き延びなければならなかった歴史があります。

4月14日、最近になって顕在化する反ユダヤ主義的な言動は、一時的な苛立ち、それとも無理解、あるいは単なる無知からくるものなのだろうか。写真は2014年9月、ベルリンで行われたユダヤ人差別に反対する大規模集会の開始を待つ男性(2017年 ロイター/Thomas Peter)


ユダヤ人は、神が選びだして聖なる使命を与えた民族であり、神との間に特別な「契約」を結んだ民族であるということを信じています。ユダヤ人は選ばれた民族であることを誇りにしますが、理不尽に他を排除することはありません。ですが安全保障を脅かす者に対しては,武力などあらゆる手段を講じます。その例は三度にわたる中東戦争であり、エルサレム(Jerusalem)のユダヤ化政策であり、分離壁の建設です。この意味で、現在のイスラエルは軍事国家といえるのです。

選民であるという思想は、しばしばエスノセントリズム(ethnocentrism)と関連しています。エスノセントリズムは、自文化中心主義ともいわれ、自己の属する集団のもつ価値観を据えて,異なった人々の集団の行動や価値観を評価しようとする見方や態度を指します。キリスト教での定義では「選ばれた」という状態は自らを卑下する思想とされます。この考え方は他者よりも多くの責任を負い、ときに自分を犠牲にするという姿勢です。ユダヤ教の選民思想とは異なります。

ユダヤ人と私 その11 「戦場のピアニスト」

映画は、私たちが文字で学ぶ歴史を可視化してくれる不思議なメディアです。歴史の場にいなくても歴史の事実を追体験させてくれ、我々の知性や悟性を大いに刺激してくれます。

「The Pianist」という映画がありました。ここに登場するのは、第二次大戦のポーランド・ワルシャワ(Warsaw)と苦悩する市民です。破壊尽くされた街を一人の男がとぼとぼと食料かなにかを求めて歩いています。これが有名なピアニスなどとは誰も想像できません。戦争は人間を貴賤の別なく、哀れな存在としておっぽり出すのです。栄光も名誉もかなぐり捨てて食べ物をあさる人々がそこにいるのです。

「The Pianist」は、ポーランドに住み、ピアニストとして活躍していたユダヤ人ウワディスワフ・シュピルマン(Whadyshaw Szpilman)の生き様を描いています。シュピルマンは、廃墟でピックルス入りの缶詰を拾い、それを開けようとします。そこにドイツ軍将校が立っています。「お前は誰か?」、「お前の職業はなんだったのか?」とシュピルマンにきく。

シュピルマン:「ピアニストだった。」
将校:「では弾いて貰おうか。」

半信半疑の将校は、ピアノのある部屋にシュピルマンを案内します。こうしてシュピルマンはピアノに向かってしばらく沈黙し、そして意を決して弾き始めます。曲はショパン(Frederic Chopin)のバラード一番、ト短調(Ballade NO.1, G minor)。戦争の最中、将校は至福の時間を過ごすかのように聞き惚れるのです。

弾き終わると自分のマントを寒さにあえぐシュピルマンに与えます。その時からピアニストに食料を届けるのです。将校の名はウィルム・ホーゼンフェルト(Wilm Hosenfeld)。弾く者と鑑賞できる者に国籍はいりません。この瞬間に二人には戦争もありません。

ユダヤ人と私 その10 「シンドラーのリスト」

「シンドラーのリスト」(Schindler’s List)という映画には、見応えのある印象的な手法が随所に散りばめられています。監督スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)がいかに創造的な映画制作者であるかを考えさせられる作品でもあります。

登場するシンドラー(Oskar Schindler)はドイツ人の実業家です。ドイツ軍への食器類を製造しています。決して死の商人ではなく、ドイツ人将校を賄賂で手玉にとり、ビジネスを発展させるのです。ですがユダヤ人に対するナチスの苛酷な対応に次第に疑問を持ち、少しでも彼らを救おうと決心します。シンドラーの改心ともいえるところがこの映画の一つの見所です。

シンドラーは、ポーランドのクラカウ・プラショフ(Krakow-Plaszow)という街で琺瑯食器工場を造り、軍に納めるのです。そこで闇マーケットで活躍するスターン(Itzhak Stern)というユダヤ人を会計士として雇い、ビジネスを展開します。シンドラーとスターンは工場経営のために、いろいろなところから融資を受けます。そして多くのユダヤ人を工員として採用するのです。これによって強制収容所行きを免れるのです。

クラカウ・プラショフ強制収容所の所長としてエーモン・ゲート(Amon Goeth)という将校が赴任すしてきます。残忍な手法でユダヤ人を苦しめるのですが、シンドラーは巧みに振る舞い、賄賂によってゲートからいろいろな譲歩を引き出します。シンドラーはゲットーや収容所での恣意的な拷問や殺害を目撃します。一人の少女が赤い服を着てナチスから逃れようします。だが、シンドラーはやがてこの赤い服を着て冷たくなった少女が手押し車に積まれて運ばれるのを目撃するのです。