アメリカの学校は今 その三十 矯正教育の教室

bn-ed714_fergus_g_20140818114648 and_376621 phoenix-skyline-arizona日本にはあまりない教育の実践を紹介しましょう。それは、犯罪を犯した生徒の矯正を目指す教室です。アリゾナ(Arizona)の州都フェニックス(Phoenix)に行ったときです。

フェニックスは砂漠の真ん中に形成されていてサボテンが各所で見られます。20世紀前半からニューディール (New Deal) 政策によるコロラド川(Colorado River)の電源開発、フーバーダム(Hoover Dam)やグランドクーリーダム (Grand Coulee Dam) の建設によって、豊富で安価な電力が確保され軍事産業などが発展し、今は半導体などのエレクトロニクス産業が中心となっています。さらにグランド・キャニオン国立公園 (Grand Canyon National Park) などの観光産業でも盛んです。

職業訓練を中心とした学校を紹介されて兵庫教育大学院生とで出かけました。3名の生徒が英語や数学を勉強していました。教師は数名いたでしょうか。事前に、私はそこの生徒は犯罪の経歴があることを聞いていました。銃を保持していた白人女性、ドラッグを売っていた黒人男性、車を盗んだ黒人男性です。いずれも高校生です。

教師は、私たちが生徒に声をかけてよいといいました。「将来どんな進路を考えているのか」と聞きますと、「大学へ行って技術を身に付けたい」と黒人高校生が答えてくれました。女性は看護師になりたいというのです。そのために、教科の勉強をしているようでした。彼等は裁判所から一年間の保護観察を言い渡され、職業訓練などの矯正教育を受けているのです。それにしても見知らぬ訪問者に生徒との会話を許すなんて驚きでした。

心配なのは、犯罪が悪化し刑罰が厳しくなっていることです。ある州では、検察官が事件を少年裁判所に送るか、刑事裁判所に起訴するかを判断する裁量を有するというのです。しかし、特に少年の犯罪においては、厳罰化を持って処するよりも教育的支援でもって更正させるべきだというのは、フェニックスで経験した矯正教育が示しています。厳罰化する事が、必ずしも社会にとっていい影響を与えるとは限らないという考え方もアメリカには根強くあります。

勉学の態度が改善されれば、矯正教育を受ける生徒はやがて通常の高校に戻ります。生徒を地元の高校に戻すことが望ましいという考え方が前提にあるのは興味あることです。
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アメリカの学校は今 その二十九  Haggerty Elementary School

ma_cambridge06 episcopal_divinity_school_cambridge_ma harvard_square_in_cambridge_massachusettsアメリカの東海岸にマサチューセッツ州 (Massachusetts)があります。州都はボストン (Boston) です。このあたりには有名な大学がいくつかあります。ハーヴァード大学(Harvard University)、マサチューセッツ工科大学 (Massachusetts Institute of Technology:MIT)、ボストン大学(Boston University)、タフツ大学 (Tufts University)、ノースイースタン大学 (Northeastern University)、どれも超一流の研究中心の大学です。ボストン音楽院 (Boston Conservatory)での学びに憧れるのはビオラを弾く私の孫息子です。

今回の学校は、ハガティー小学校(Haggerty Elementary School)です。この学校はハーヴァード大学のあるケンブリッジ (Cambridge)という町にあります。このあたりはニューイングランド (New England) と呼ばれ、植民地時代の建物が煉瓦造りで残っています。高い建物は規制されています。ハガティー小学校はDaniel A. Haggertyという軍人の名前をとっています。この人は1846年のメキシコ戦争 (Mexican War)で最初の犠牲者となった人といわれています。学校などにはその町が輩出した有名な人の名前がつけられるのをしばしばみることができます。

メキシコ戦争は別名、 Mexican-American WarとかInvasion of Mexicoともいわれます。メキシコがスペインから独立したのが1821年。アメリカとメキシコには領土をめぐる覇権争いが始まります。独立間もないメキシコはアメリカに敗れ、カリフォルニアがアメリカに割譲され、リオ・グランデ川 (Rio Grande)が国境となります。

ハガティー小学校のモットーは“While Everyone is Different, Everyone Belongs.”(みんなが違っても、みんなが参加できる)。民主主義の考え方です。学校創設の原点は市民の参加、税金でつくるのです。国には頼ることはありません。ハガティー学校もそうです。教室の中は実に明るく、本やコンピュータ、教材が所狭しと並んでいます。どの教室にもラグが敷かれ、子供は腰を下ろして授業に参加します。壁には子どもの作品がかけられているのは日本の学校と似ています。

日本の教室の造りと大きく違うのは、教室が小さい衝立で仕切られていることです。島がつくられて、グループでの指導が中心なのです。習熟度の違いがグループ分けの基本です。同じ内容による一斉の指導はあまり見られません。

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アメリカの学校は今  その二十八  George F. Kelly School

cpslogofloatleftc bridgesm guildford_1831ボストン(Boston)にあるローガン国際空港 (Logan International Airport) のあたりは住宅地です。ここからダウンタウンの高層ビルが湾の対岸に見えます。このあたりはChelseaという町です。チェルシーと呼びます。いい響きの町ですが、アパートが建ち並び、勤労者が住んでいます。その多くはヒスパニック系 (Hispanic) の住民です。ボストンの町中まで地下鉄で5分くらいの便利さです。

またまた私事ですが、長男はChelseaのアパートからケンブリッジ(Cambridge)にあるハーヴァード大学(Harvard University)に通っていました。嫁はChelseaの小学校一年の担任をしていました。これがGeorge F. Kelly Schoolです。彼女はウィスコンシン大学でスペイン文学の専攻でしたのでバイリンガルです。以前、チリ(Chile)の首都にあるサンティアゴ大学 (University of Santiago) にも留学したことがあります。今は教師をしながら児童文学分野で著作活動をしています。

学校のあたりは、中の下といった大分くたびれた町並みです。ですが学校の建物は真新しく周りと不調和です。学校のモットーは、「未来への架け橋 Bridge to Success」。教室に入ると授業はスペイン語で行われています。彼女のクラスはすべてヒスパニック系の子ども達です。メキシコやプエルトリコ、キューバなど中南米のスペイン語圏諸国からアメリカに渡ってきた移民の子孫というわけです。

午前中はすべてスペイン語で、そして午後は英語での授業です。午前中は、ヒスパニックの助手(Teacher Aid)がいて授業を助けています。クラスには、学習困難な子供も見かけます。助手は主にこうした子供もの勉強をみてやっています。44名の教員のうち10名が特別支援の教員となっています。そのほか、矯正体育、ソーシャルワーカー、言語治療士も常駐しています。教師陣の名前とEmailが公表されているのは、 George F. Kelly Schoolも例外ではありません。

メディアセンターの充実さはコンピュータの数や司書の存在で伺えます。Mac, PCの両方があります。生徒の学習として、Mac上の教材が整っているというのが我が国と違うところです。どのコンピュータもネットにつながっているのは言うまでもありません。個々の子どもにあった勉強では、コンピュータやネットワーク上の教材を使うことが必要だからです。今はiPadが普及しています。

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アメリカの学校は今 その二十七 無料の学校給食から考えること

lunch-serving school20lunch 5987336849_c33b99f38cダウンタウンの学校を訪ねて驚くことの一つは、子供が無料の朝食からその日の学校生活が始まるのを見ることです。貧しい家庭の子供は、家で朝ご飯を食べてこないのです。こうした子供は、無料の昼食も学校で支給されます。この二食でその日に必要な栄養がとれるというわけです。

私の三人の子どももウイスコンシン州(Wisconsin)のマジソン市の学校で無料の給食を受けました。私が無収入の大学院生だったからです。私はアルバイトで懸命に家族を支えていました。税金も払いません。定職がないことを申告すると教育委員会から無料の給食券(lunch coupon)が送られてきます。どんな国籍の子どもでも貰えるのです。この昼食券を手にしながら「この国は、なんとおおらかなのか、、、」と感じ入ったものです。

長男が五年生になったとき、「自分でランチを買いたい」と言い始めました。給食券では、片身が狭く感じるような年齢に達したようです。他の友達のように、自分のお金でランチを買いたくなったのです。アメリカの学校の昼食は、カフェテリアに子どもが集まってきて皆で食べます。自分の好きなものをトレイにとります。今、このランチは2〜3ドルくらいです。ランチのメニューは数は多くはありませんが、栄養がたっぷりです。子供は持っているお金と相談して好きなものを選べるようになっています。

学校での給食風景は、アメリカという国が国境を越えてやってくるすべての子供を平等に扱うという、友愛に満ちたところであることを感じさせてくれます。無料の給食は、連邦政府の初等中等教育法 (Elementary and Secondary Education Act: ESEA)にある「Title I」という低所得者家庭の子弟を支援するプログラムによります。

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アメリカの学校は今 Intermission その二十七 Cultural Studies

_mg_0145 landscape-1464097810-bob-dylan-jerry-schatzberg a8fbef631640965b845ac4e3cd88f747あまり聞き慣れない研究の分野に「Cultural Studies」というのがある。文化学研究とでもいえようか。「地域へと広まっていった文化一般に関する学問研究の潮流を指している」 とある。ハイカルチャーだけでなくサブカルチャー(大衆文化)の研究を重視するようだ。

サブカルチャーという用語を最初に使ったのはアメリカの社会学者のデイヴィッド・リースマン(David Riesman)である。彼は「孤独な大衆」(The Lonely Crowd)という著作の中で、社会的性格は伝統指向型から内部指向型とか他人指向型へと変化すると論じている。リースマンは、伝統指向型の社会的性格は、はっきりと慣習が伝統によって体系化されているため、恥に対する恐れによって人々の行動は動機付けられると考える。

さらにリースマン曰く。内部指向型や他人指向型の社会的性格では、人は行動の規範よりもマスメディアを通じて、他人の動向に注意を払う。彼らは恥や罪という道徳的な観念ではなく不安とか寂しさによって動機付けられるのだと。この考えは仮説だろうと察するが、一考に値する。

ハイカルチャーを享受するには相応の教養や金と時間が必要であった。だが、大衆が実力を持つのは20世紀。大衆社会においては、高等教育を受けた人々が増加し、ハイカルチャーも一般の人々が楽しむことができるようになった。絵画であれば、美術館に足を運ばなくとも美術書などで見られるし、音楽も演奏会に行かなくともラジオ・テレビ・CD・インターネット上で気軽に楽しむことができるようになった。現代は、いわばハイカルチャーの大衆文化時代といえる。要は、Cultural Studiesとは以上の現象をもっと難しく研究する分野のようだ。

Bob Dylanの歌詞は大衆文化の典型のように分かりやすい言葉を使っている。だが、その歌詞の意味は誠に深い。ノルウェー・ノーベル委員会はそれを評価したのだろう。

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アメリカの学校は今 Intermission その二十六 文化の回帰ということ

hqdefault p01gd62s imgres images4Bob Dylanの話題から、過去のブログで綴った「文化の回帰」という拙文を読み起こしています。以下は2014年8月に掲載した駄文であります。ご笑覧くだされば幸いです。

大衆文化と呼ばれるサブカルチャーのメインカルチャーへの挑戦は至るところに現象として現れた。1960年代である。当然のようにメインカルチャーと考えられた歴史とか古典に対する強い関心と畏敬は、サブカルチャーの側からすると一種の審美的文化観とされて、時に「マニア」、「おたく」といった独特な行動様式として揶揄されることもある。しかし、おたくの本人は「伊達や酔狂」と自負するようなところがあって、こうした人々はむしろ孤高のような存在感を楽しむようなところもあるようだ。

サブとメインの境界が曖昧になったということは、その逆転現象がうまれてきたということかもしれない。例えば、活字文化は今もそうかもしれないが、メインカルチャーの旗頭であった。だが、なにもかも電子媒体としてメディア界に急速に広がるのが現在。書籍の売り上げた伸びないのは、電子媒体の流通と普及と逆相関があるようだ。多くの書類、卒業論文、研究論文は電子媒体で提出しなければならない。悔しいことだが、手書きの論文は受け付けてくれない。

「子供たちは夏目漱石や森鴎外を読まないのではない。読めないのだ」ともいわれる。漢字能力の低下が一因だというのである。手書きできない。それで電子辞書を使い携帯電話サイトから「ケータイ小説」を作る。「書く」のではない。漢字が書けなくても小説が書けるという時代になった。「話し言葉が中心なので親近感があり、一文一文が短く読みやすい」という新しい文化観もそこにある。

技術革新に伴う諸々の変化は、もはや後戻りができない。革新が続くだけだ。だが、電子媒体にも寿命がある。記録したデータを保持できる期間は有限である。読み込みの処理がなくとも経年により媒体は劣化していく。そしてデータが読めなくなったり消失したりする。自分もその苦い経験はある。もっとも機械的な寿命の問題だったが、、、、

活字文化がサブカルチャーか、メインカルチャーかという議論はなにか不毛な感じもする。だが分かっていることは、サブとメインの逆転、そのまた逆転も起きうることである。今や「アングラ」も「ヌーヴェルヴァーグ」という表現に出会うことはない。文化の論争は意味がなくなっているからだろう。文化の回帰現象は、統計で使うように平均とか元の状態に近づく、あるいはそれを繰り返すということであるようだ。

活字文化プロジェクトが各地で盛んになり、活字文化推進会議とか活字文化推進機構もできた。電子媒体文化とのせめぎ合いのようだが、両者が共存することも文化ではないかと思うのである。
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アメリカの学校は今 その二十五 Intermission サブカルチャー

NOVEMBER 1961:  Bob Dylan recording his first album, "Bob Dylan", in front of a microphone with an acoustic Gibson guitar and a harmonica during one of the John Hammond recording sessions in November 1961 at Columbia Studio in New York City, New York. (Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)

NOVEMBER 1961: Bob Dylan recording his first album, “Bob Dylan”, in front of a microphone with an acoustic Gibson guitar and a harmonica during one of the John Hammond recording sessions in November 1961 at Columbia Studio in New York City, New York. (Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)

250px-joan_baez_bob_dylan2014年8月11日のこのブログで「文化を考える その4 サブカルチャー」と題する駄文を掲載しました。次のような内容でした。

1960年代のサブカルチャーを誘因する大きなきっかけとなったのは、ベトナム戦争である。既成の体制やハイカルチャーに対して主として若者が怒りだす。主流の文化であるメインカルチャーの地位が揺るぎ出すのである。それまでサブカルチャーとして卑下されがちであった現象が次第にそ認知されていく。このことはメインとサブの境界を曖昧にしていくことを意味する。

音楽の世界ではビートルズのジョン・レノン(John Lennon)、ボブ・ディラン(Bob Dylan)、ジョーン・バエズ(Joan Baez)、ピーター・ポウル・メアリー(Puter, Paul & Mary-PPM)などである。彼らの、自由と平和を訴えるメッセージは若者だけでなく広く大衆に受け入れられていく。映画の世界でも芸術性の高い作品に混じって、大衆娯楽に徹するものとが共存していく。「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれる”新しい波”の映画も制作される。大島渚の「愛のコリーダ」は既成の概念を打破するような演出だ。演劇もそうだ。アンダーグラウンド(Underground-culture)とかカウンターカルチャー(Counter-culture)と呼ばれ、反権威主義的な文化の芸術運動が広まった。それまで認知度が低く、水面下での活動がやがて社会的な地位を確立していく。

漫画やアニメはかつてはサブカルチャーだったが、今やすっかりメインカルチャーとして不動のものとなった。ビデオ・オン・デマンド(VOD)が有線テレビジョン(CATV)で提供されている。「一億総白痴化」 、「駅弁大学」といった造語の大家、大宅壮一には今の社会状況がどのように写るのかは興味ある話題である。彼が生きていれば一体どんな流行語を使うだろうか。

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アメリカの学校は今  その二十四  Shorewood Hills Elementary School

6393805-unitarian_church-0 65443863 horse-kids-1 mcgruff-cycle-2この学校は私の三人の子供が卒業した小学校です。ウイスコンシン州(Wisconsin) マジソン市(Madison) の隣にあります。学校は、Village of Shorewood Hillsというれっきとした自治体の中にあります。閑静で高級な住宅街で、理事会 (Board of Trustees) がこの村を運営しています。村税、警察、道路、公園、水道、清掃などの業務です。その隣にはウイスコンシン大学の外国人研究員住宅地、そして大学院生の家族世帯が住む地域が広がります。Shorewood Hillsの子供はこの三つの地域から通ってきます。

この学校には非英語圏の国々からきた家族の子供が大勢学んでいます。大学院生の多くは外国からです。ですから地元Shorewood Hillsに住む子供は、いわば少数民族、というわけです。この学校にはニックネームがついています。それは「小さな国際連合- Small United Nation」というのです。子供の国籍や民族がさまざまなのです。40以上の国々から生徒はやってきます。ほとんどの子供の親は、研究者か大学院生です。

多様な背景を有する子供を指導する先生はさぞかし大変だろうと思いきや、スタッフは長年、こうした子供の指導に慣れています。当たり前のように子供達を上手に扱っています。非英語圏の子供に英語を教えるプログラムも優れています。スタッフは、子供の家庭が教育に対して熱心なことを知っています。Shorewood Hillsの住民も、自分の子供が異なる国々から来る子供たちと学ぶのはとてもよいことだと考えています。それに大都会の学校とは違って実に安全な学校です。

保護者は自分の担任の先生を選ぶことができます。校長に対して、「Smith先生に担任をお願いします」という具合です。大抵は希望どおりに先生をつけてくれます。私も、周りの人から指導に熱心なある先生のことを聞いていたので、三人の子供がこの先生から指導を受けることができました。この先生は二年生の担任でした。一度お礼を兼ねて自宅に招き食事をしたこともあります。

アメリカの学校は今  その二十三 Keaukaha Elementary School

webster5 keaukaha webster3 map_hawaiiハワイ最大の島ハワイ島(Hawaii Island)にある小学校を紹介します。今回は、Keaukaha Elementary Schoolです。呼び方は「キウカハ小学校」とでもしておきましょう。これまでハワイの私立学校を三つ紹介しました。ですがハワイの大多数の学校は公立学校です。

ハワイ島は通称Big Islandと呼ばれ、ホノルルから飛行機で50分位のところに位置する火山の島です。ここには、4,200メートルのマウナケア (Mauna Kea)という山頂に各国の機関が設置した天体観測所があります。我が国も国立天文台ハワイ観測所に有名な大型光学赤外線望遠鏡の「すばる」を建設して星の誕生や死、銀河の衝突、宇宙の膨張などの現象を調べています。この島は、日系人によって開拓された島で、ヒロ市内にHawaii Japanese Centerがあり、開拓の歴史が展示されています。

キウカハ小学校はハワイ島の中心ヒロ (Hilo)にあります。ハワイ島のどの学校も気候に合わせているせいか、廊下は吹きさらしになっています。キウカハ小学校もそうです。建物の多くは木造です。教室内はもちろん冷房が効いています。校庭は椰子の木がそびえています。教職員の服装はムームー (muumuu)やアロハ(aloha) 姿です。そして名前からして日系の職員が目立ちます。

この小学校は幼稚部から6年生までの学校です。訪問したときの校長はMs. Katherine Websterという女性でした。彼女から、一緒に訪問した障害児教育専攻の教師6名に対してハワイの障害児教育の講義を受けました。通常、小学校の校長は障害児教育にはあまり詳しくはないのです。Ms. Websterは違いました。全障害児教育法(Education for All Handicapped Children Act of 1975)や指導法に至るまで、その博識に驚きました。

外は暑いので子どもの姿は見かけません。校庭は広くはありません。冷房が効いた体育館での運動が中心です。コンピュータは実に素晴らしく完備されていました。多くの島から成り立つ州だけに遠隔教育とか遠隔学習が盛んなのです。
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アメリカの学校は今  その二十二 スクールバス

tumblr_lylzltkjmc1qewb27o1_1280 school_main school-bus-car-that-didnt-stopアメリカやカナダの多くの子供達もスクールバスを利用します。バスは目立つ黄色で大分古そうなデザインの車体です。これがとても丈夫に作られています。高校の校区は広いのでスクールバスの路線もいろいろあります。始業前、放課後、そしてクラブ活動終了後に生徒を送迎します。

ほとんどのバスのエンジンは前方にあり、車体は高くてどこからみてもすぐわかります。運転手は手動でぐいとレバーを回してドアを開けます。スクールバスでの生徒の乗り降りには、生徒を護るために厳しい規則があります。このバスを見かけたときは、他の自動車は注意しなければなりません。生徒が乗降中は、運転席上部と後部のライトが点滅します。バスの両側には【STOP】と書かれた赤い八角形のサインボードが出ます。この間、後続の車はバスを追い越してはいけません。中央分離帯がない場合は、対向車も停止して生徒の乗り降りを待たなければなりません。バスの後部には「Don’t Pass When Signals Flashing」というサインがついています。

こうしたスクールバスを利用する者の安全を護る規則をがいろいろとあります。1939年にU.S. Federal Motor Vehicle Safety Standardsという規則が定められます。これを少し紹介します。なんといっても車体の頑丈さが要求されます。他のバスは黄色を使ってはならないこと、万一の事故で横転しても車体がクラッシュしないこと、横転したときなど、窓枠から生徒が投げ出されないこと、非常ドアが閉まっていないときはアラームが鳴ること、座席の間隔を狭めること、夜間のために蛍光色のテープを貼ることなどです。

最も歴史が古いバスの製造会社はWayne Corporationという企業です。1837年に最初のスクールバスを製造し、今や北米最大の製造会社となっています。この黄色いバスは、遠足や社会見学などでも生徒を運びます。またスポーツ活動でも選手らを運ぶのに使われます。どの州でも郡でもスクールバスは民間の会社が経営しています。

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