亡くなった叔父らのことに戻る。彼は樺太の大泊町で駅の助役をしていたときにソ連の捕虜となった。昭和25年頃、厚生省からの連絡によれば、死亡したところはクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)である。
クラスノヤルスクはロシア連邦シベリア中部の大都市である。戦後、クラスノヤルスクの北方80キロのエニセイ川(Yenisei)河畔に原爆製造センターが建設される。ロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedev)著「知られざるスターリン」(現代思潮新社)によると、クラスノヤルスクへの鉄道を建設するために囚人収容所が建てられる。囚人の中には懲役25年以上の政治犯、犯罪人、民族闘争を扇動したとして逮捕された民間人も多数いたという。スターリンの思想や行動、原爆製造センター建設の歴史は、メドヴェージェフの本に詳しく書かれている。
叔父は鉄道建設か原爆製造センターの建設に駆り出され、その間に死亡したのかも知れないというのが漠とした思いだが妥当な推理だ。原爆製造センターの所在は最高の軍事機密であったはずである。それゆえ、よしんば叔父が生きていたとしても日本に帰還できたかは疑問である。生前父は、「弟は現地で結婚し、まだ生きているかもしれない」と云っていた。
戦後の引揚者のことである。引揚者とは非戦闘員の呼び名である。全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた移住用集落がつくられた。割り当てられた所は痩せた土地が多かった。千葉県成田市の三里塚にも引揚げ者村がつくられた。元満蒙開拓団員も三里塚にやってきた。
1966年、佐藤栄作内閣は閣議で成田空港の建設地として三里塚、芝山地区を決定する。それから国の土地強制収容に反対する半世紀及ぶ三里塚闘争が始まる。国策で欺され翻弄された元満蒙開拓団員は粛然として「怨念」のプラッカードを掲げた。土地収用と土地所有権者への補償問題が今も続く。
開拓地には、茨城県つくば市の作谷地区もある。戦後すぐに「西筑波開拓団」を組織し、払い下げられた軍用地や山林などを開拓し始めた。開拓者の多くは、引揚者や復員軍人であった。痩せた土地で栽培できる芝の生産に携わっていく。