8月19日から考える 元満蒙開拓団員と三里塚闘争

亡くなった叔父らのことに戻る。彼は樺太の大泊町で駅の助役をしていたときにソ連の捕虜となった。昭和25年頃、厚生省からの連絡によれば、死亡したところはクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)である。

クラスノヤルスクはロシア連邦シベリア中部の大都市である。戦後、クラスノヤルスクの北方80キロのエニセイ川(Yenisei)河畔に原爆製造センターが建設される。ロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedev)著「知られざるスターリン」(現代思潮新社)によると、クラスノヤルスクへの鉄道を建設するために囚人収容所が建てられる。囚人の中には懲役25年以上の政治犯、犯罪人、民族闘争を扇動したとして逮捕された民間人も多数いたという。スターリンの思想や行動、原爆製造センター建設の歴史は、メドヴェージェフの本に詳しく書かれている。

叔父は鉄道建設か原爆製造センターの建設に駆り出され、その間に死亡したのかも知れないというのが漠とした思いだが妥当な推理だ。原爆製造センターの所在は最高の軍事機密であったはずである。それゆえ、よしんば叔父が生きていたとしても日本に帰還できたかは疑問である。生前父は、「弟は現地で結婚し、まだ生きているかもしれない」と云っていた。

戦後の引揚者のことである。引揚者とは非戦闘員の呼び名である。全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた移住用集落がつくられた。割り当てられた所は痩せた土地が多かった。千葉県成田市の三里塚にも引揚げ者村がつくられた。元満蒙開拓団員も三里塚にやってきた。

1966年、佐藤栄作内閣は閣議で成田空港の建設地として三里塚、芝山地区を決定する。それから国の土地強制収容に反対する半世紀及ぶ三里塚闘争が始まる。国策で欺され翻弄された元満蒙開拓団員は粛然として「怨念」のプラッカードを掲げた。土地収用と土地所有権者への補償問題が今も続く。

開拓地には、茨城県つくば市の作谷地区もある。戦後すぐに「西筑波開拓団」を組織し、払い下げられた軍用地や山林などを開拓し始めた。開拓者の多くは、引揚者や復員軍人であった。痩せた土地で栽培できる芝の生産に携わっていく。

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8月18日を考える 見捨てられた人々ー棄民

長野県と岐阜県境にある恵那山。その東側に阿智村がある。人口6,500人。中央自動車道のそばにある谷間の村である。今は昼神温泉で知られているが、戦前は農村の人口過剰によって、満蒙開拓移民を国内で最も多く送り出した地域といわれる。この村に満州移民史を語る日本で唯一の民間施設「満蒙開拓平和記念館」がある。

「満蒙開拓平和記念館」に残る開拓民募集のポスターから、「楽園幻想」を宣伝文句にしていることが伺われる。ポスターには「北満の沃野へ」という標語がある。国策に誰も抗うことが難しい時代。海外移住というと響きはよいが、阿智村をはじめ全国から北満に移住した人々は戦後、外地に取り残された。移住者を集めるために番付表まで作ったというのだから恐れ入る。

もともと開拓団は関東軍の保護の元に開拓に従事するはずであった。しかし、ソ連の参戦によって兵隊や関係者はいち早く満鉄を利用し、ハルビンや長春、大連などへ撤退し始めた。置き去りにされた開拓団は自力で逃避行をせざるを得なくなった。開拓団の逃避行の有様は、いろいろな記録に残されている。山崎豊子の小説「大地の子」にもある。「棄民」と呼ばれた人々である。満蒙開拓は、八紘一宇、大東亜共栄圏の旗印で生まれた「棄民政策」である。

棄民は満蒙開拓団だけでない。戦前、ブラジル、メキシコ、ドミニカなどの中南米諸国へ移民した人々もそうだ。移民の募集要項を信じて、こうした国々に移住していった。ところが入植地としてあてがわれのは未耕地。開墾作業から始めたという。多くの者は開拓を断念し帰国したが、もはや安住の場所は少なかった。筆者の両親や親戚が昭和の初め、親戚の反対をよそに青森は弘前から移住したのが樺太であった。だが昭和20年、すべての財産を失い「引揚げ者」、あるいは「引揚げ民」として北海道の稚内に上陸した。

女性も国策によって看護婦として満州に送られ、中にはシベリア抑留を強いられた者もいる。ソ連兵に連れ去られ暴行された者もいた。そのドキュメンタリーが放映された。やがて故郷への「ダモイー帰還」がやってくる。だが抑留という過去の経験を親戚や知人が嫌がるのではないかと思い巡らし、帰国は辛いものとなったようだ。「誰も尋ねない、誰にも語れない深い傷を背負った帰還」となった。

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ウィスコンシンで会った人々 その75 匠噺 「浜野矩随」

江戸時代、名工とか名匠と云われる人々があちこちに大勢いたといわれる。経師職人、大工、絵師,木彫り師などである。経師屋だが、城や大名の屋敷が書画の幅や屏風 、ふすまなどを表装する職人である。表具師ともいわれた。今も東京表具経師内装文化協会というのもある。文字通り表具・経師・内装インテリアという3つの大きな業種部門における人材の育成を大きな目的としている。江戸時代の「匠」の技能を今に伝え普及しようとしている。

古典落語に「浜野矩随」(はまののりゆき)という演目がある。江戸は寛政年間、浜野矩康という腰元彫りの名人がいた。その作を求めて浜野家の前に道具屋が列をなして買い競った。その名人が亡くなって女房と一人息子の矩随が残された。しかし、息子の代になって列がぱたり途絶えた。それは矩随の作が誠に未熟であったからだ。それでも商人の若狭屋は先代のよしみで、どんなものでも1分で買い上げた。

今朝も矩随が若駒を彫って持ち込んできた。眠気のために足1本を彫り落としてしまったという。若狭屋は呆れて言う。「小僧達はこれを見て笑っている。下手な作品を作るくらいなら死んだ方がイイ。これからは縁を切るから5両の金を渡す。今後はここの敷居を二度とまたぐではない。死ぬなら吾妻橋から身を投げよ。」

矩随は家に帰り伊勢詣りに行くからと嘘をついたが、母はお見通しで、若狭屋の一件を聞き出した。母親は「死にたければ死んでも良いが、最期に私に形見を彫って欲しい」と観音様を所望した。矩随は井戸の水を浴び、仕事場に入った。隣では母親が神頼みの念仏を唱えていた。4日目の朝、出来た観音を母親に渡した。感心して見とれ「もう一度若狭屋さんに行って30両びた一文まからないからと見せておいで。それでも、まけろと言ったら好きな所に行っても良いよ。」と息子に言い聞かせた。「その前に、お水を一杯ちょうだい。後の半分をお前もお飲み。ではお行き。」矩随が若狭屋から30両を持って帰ると母は自害している。

浜野矩随はその後、父親に優るとも劣らぬ名彫師になったという噺である。

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8月16日を考える

今年の戦後70年談話(Statement)の内容と表現のことが話題となっている。アメリカの家族にもこの談話を読むように伝えた。筆者もわが国の戦前の帝国主義と植民地支配が近隣諸国に与えた影響を総理大臣がいかに総括するかに関心を持っていた。日本語と英語の文章を何度も読み返してみた。文章としては官僚らが良く練って作成されたことが伺われる。長い談話であるだけに、冗長さによって内容が損なわれているのが気になる。「誰が、いつ、どこで,なにを、なんのために」日本を戦争へ導いたのかが不明なのである。

かつての大東亜共栄圏、つまり帝国主義や植民地主義の発想に対する痛烈な反省と悔悟は、時代が変遷しても続けることが大事だと思うのである。「歴史は繰り返す」とは幾たび云われてきたことである。「未来志向の戦略的互恵関係とは、既存の現実の自体が如何なるものか顧みることから始まる」のではないかと思うのである。われわれも近隣の国々の人々も今回の70年談話に反省と悔い改めを期待したはずである。

大戦では310万の日本人が亡くなったと報道されている。各地に忠霊碑も建てられた。その数12,000箇所といわれる。だが、半数は廃墟になっているという。そうした中で、一人で忠霊碑を守る人が紹介されていた。「馬鹿でなければこんなことはできない」と、この墓守は述懐する。黙々と芝を刈り庭を手入れする後ろ姿に犠牲者への思いが伝わってくる。

今年は一国会議員が質問中に「八紘一宇」の標語を引用して注目された。広辞苑には「太平洋戦争期におけるわが国の海外進出を正当化するために用いた標語」とある。「八紘」とは世界、「一宇」とは一つの家の屋根という意味であるとWikipediaにある。しばし考えてみると、「安全保障」や「集団的自衛権」の考え方の遠因には、東亜の共同防衛や共存共栄があるように思える。

「八紘一宇」の呪縛から、われわれはもはや解放されていると考えるべきではない。「八紘一宇」をデマゴーグときめてかかるのではなく、その底に潜む論理はなになのかを反芻することが大事だと思うのである。そのことこそが、「謝罪を続ける宿命を背負っている」ということである。

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8月15日を考える

私は1945年8月15日をなにも覚えていない。かつて母親がこの年の8月に樺太の大泊から引揚げ船で稚内に上陸し、親戚を頼って美幌に落ち着いたことを教えられた。弟は1歳、筆者は2歳7か月、兄は4歳であった。父親は抑留され、数年後に帰ってきた。裸一貫となり家族5人の命だけが残った。

美幌では製材所の長屋があてがわれ、生活が始まった。酷い造りの家屋である。誰もが味わった惨めな引揚げ生活である。特に食料難である。母は3人の子供を連れて農作業をやった。食べ物が少なく、一家心中も考えたことがあったと後々述懐していた。それから馬鈴薯、とうきび、カボチャ、、なんでも作ったという。真冬の最中、とぼとぼ歩いて街の銭湯に通った。帰り道、手ぬぐいはカチカチに凍り付いた。

母の話で怖ろしかったのは、樺太からの引揚げ船上でのことである。瀕死の状態の乳飲み子を抱いた一人の母親がその子を海へを投げ入れたのを目撃したというのである。この話を聞いたのは我々兄弟が成人してからである。母親を前にして「俺たちも投げ込まれなくて良かったな、、、」と冗談気味に言い交わした。

「戦後70年 安倍首相談話の全文」(Statement by Prime Minister Shinzo Abe)を読んでいる。「満州事変、国際連盟からの脱退、、、進むべき進路を誤り、戦争への道を進んでいった。そして70年前、日本は敗戦した。」 誰が加害者で誰が被害者となったのか、、為政者の責任は大きい。

国策として送り込まれた満蒙開拓団の悲惨な逃避行に比べて、樺太からの引揚げはまだましな姿だったかもしれない。だが、船上での一人の女性の苦悩や農作業の母親の労苦を偲ぶとき、そこに深い情愛を感ぜずにはおれない。

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ウィスコンシンで会った人々 その74 葬式噺

貧乏長屋の住人から疎んじられていた卯之助、あだ名は「らくだ」という。あるとき、熊五郎という「らくだ」の兄貴分が訪ねてみると、フグにあたったようで死んでいる。兄貴分は「らくだ」の葬式を出してやろうと考える。そこに屑屋の久六がとおりかかる。熊五郎は、「らくだ」の持物を方付けように久六に依頼するのだが、ろくなものがないので久六は渋る。熊五郎にある考えが浮かぶ。

久六に対して、月番のところへいって長屋の住人から香典を集めるように、と伝える。月番は「らくだが死んだか!」といって喜び、香典を集めを了承して、赤飯を炊こうする。戻ってきた久六に対して、長屋の大家のところへも行って酒と煮染めを持ってくるように伝えろ、と指示する。大家は大の吝嗇、「らくだ」の店賃が大分貯まっているのに料理なんぞ出してたまるものかと剣もほろろに断る。それを熊五郎に伝えた久六、さらに熊五郎から「死骸の置き場に困っている。大家のところに運んできて、”死人(しびと)にかんかん”踊りをさせる」と脅かす。大家は驚かない。本当に死骸が運び込まれると、慌てて酒と料理を届けるという。

さらに久六は八百屋に使いに出させられる。死骸をいれる棺桶代わりに漬け物樽を借りてこいといわれる。八百屋もまた「らくだ」に散々苦しめられていたので、「そうか、フグもよく当ててくれたか、、」といって取り合わない。そこで”死人にかんかん踊り”の話をすると、驚いて「わかった、わかった、何個でも持って行け!」。

香典、酒や肴が集まったところで熊五郎は久六にかけつけ三杯と酒をすすめる。この久六、実は大酒呑み。とうとう酔っぱらって性格が豹変する。そして、酒がなくなると熊五郎に「酒屋にいって酒をもらってこい、もしいやだというなら”死人にかんかん踊り”をやらせるといえ、、」と脅す。攻守ところが変わるのが可笑しい。

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ウィスコンシンで会った人々 その73 夫婦の情愛噺

山手線田町と品川の間に新しい駅ができる。その名前がいま話題となっている。「芝浜」が一つの候補。新品川などという洒落にもならない駅名はご免だ。車内放送で「次は芝浜、芝浜、財布を忘れないように」と流れると面白い。JR東日本の社長は粋か無粋かが注目である。

芝は金杉に住む魚屋の勝五郎。良い腕をしているのだが怠け者。年越しも近いというのに、相変わらず仕事を休み、ササを食らって寝ているばかり。女房の方はいても立ってもいられなくなり、真夜中に亭主をたたき起こして、このままじゃ年も越せないから魚河岸へ仕入れに行ってくれとせっつく。

勝五郎はしかたなく、芝の浜に出て時間をつぶすことにする。海岸でぼんやりとたばこをふかし、暗い沖合いを眺めているうち、だんだん夜が明けてくる。波打ち際に手を入れると、ボロボロの財布に触る。指で中をさぐると確かに金貨。二分金で四十二両。

こうなると、商売どころではない。当分は遊んで暮らせると、家にとって返し、あっけにとられる女房の尻をたたいて、酒を買ってこさせ、友達とドンチャン騒ぎ。そのまま酔いつぶれて寝てしまう。

不意に女房が起こすので目を覚ます。
女房 「年を越せないから仕入れに行ってくれ」
勝五郎 「金は四十二両もあるじゃねえか」
女房  「どこにそんな金があるの。おまえさん、夢でも見てたんだよ」
勝五郎  「おかしいな、金を拾ったのは夢、酒を飲んで大騒ぎしたのは本当か、、、」

今度はさすがに勝五郎、自分が情けなくなり、それから酒はきっぱりやめて仕事に精を出す。

それから三年。すっかり改心して商売に励んだ勝五郎。得意先もつき、小さいながら店も構えている。大晦日、片付けも全部済まして夫婦水入らずという時、女房が見てもらいたいものがあると出したのは紛れもない、あの時の四十二両の財布だ。

サゲは是非ご自身で確かめて貰いたい。酒と夢と夫婦の情愛が秀逸である。

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ウィスコンシンで会った人々 その72 夢噺

筆者も毎晩のように夢をみる。現実の体験のようなことが拡がる。観念や心像だが、後悔や願望も現れるようである。去る2015年7月17日に夢が元で話がこじれる笑いを取り上げた。名奉行?までもが夢の話を聞きたいというものである。▽ウィスコンシンで会った人々 その49 名奉行噺 https://naritas.jp/wp1/?p=1992

夢の分析は古代バビロニアにもあったというから驚きである。夢は何かを象徴しているとされる。その元は経験である。従って、夢を分析すれば神経症の治療にも役立つとしたのがユング(Carl Yung)である。

落語に戻る。落語に出てくる夢噺には、多くの場合現実に起こりにくい事象を夢の中で再現しようとする願望が現れている。それは、いつも尻に敷かれている旦那がなんとかして、女房を見返したいとか、酒癖が悪くそれがもとで身を持ち崩すが、たまたま品川の海辺で拾った金で酒宴を開き、目覚めたとき女房から「夢でもみたんじゃないか、、」といわれ、それから立ち直って懸命に働き始める。有名な「芝浜」の一節である。

眠りながら鼻水の提灯をつくっていて、女房に起こされ、「お前さん、いったいどんな夢を見ていたの?」と夢の話をせがまれる旦那。これが「天狗裁き」。夢の中でうなされていた盲目の旦那が「あああ、夢か。。。お竹、おらあもう信心はやめるぜ、、」「どうして?」「目が見えるって妙なものだ。寝ているうちだけ、よぉーく見える」という「景清」。

「欲深き人の心と降る雪は、積もるにつけて道を忘るる」という狂歌を枕にして始まるのが、「夢金」という演目である。船頭の熊蔵が駆け落ちをしようとした扇屋という商家の女を送り届けると、旦那が喜んで五十両の紙包み二つをお礼として差し出す。熊蔵は紙包みを両手で強く握りしめる。「ああ、痛え、、」すべては夢で、目が覚めた熊蔵は自分の大事なモノを強く握りしめていた。

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ウィスコンシンで会った人々 その71 道楽噺

伊勢屋の若旦那、吉原通いにはまっている。怖いのは親父。湯屋に出掛け帰り際にばったり出会ったのが、貸本屋の善公である。「善公、おまえ他人の声色が上手かったな、わたしの代わりをしておくれ」。若旦那は善公に代役を押し付けて吉原に出掛けようとする。

善公、駄賃として袴をくれるというので断りきれない。言われるままに若旦那の部屋に入り代役を引き受ける。一階に住む大旦那、「おい、倅、今朝がた干物をもらったはすだ。どこに置いたんだ?」善公としてもそんな細かい話は聞いていない。「干物箱でしょう。」「うちに干物箱なんてない。」そんなやりとりで何とか大旦那の追及をかわす。

ひと安心した善公は、若旦那が花魁から受取った手紙を見つける。それを元に若旦那から金をせびろうと考える。ところが手紙に書かれていたのは、善公への悪口雑言である。善公がふんどしを忘れ、その匂いが四方八方までひろがるというのだ。そこで役所がDDTを撒くというのを読んで、「ひでえな、馬鹿だ、カスだなんて。花魁、ひでえよ!!」、大声を張り上げるので、大旦那にすっかりバレてしまる。

そこへ戻ってきたのが若旦那。窓際で声を掛ける。
若旦那 「おい、善公、紙入れ(財布)、紙入れ、忘れちまった、投げてくんな!」
親父 「バカヤロー」
若旦那 「おっ、善公うめえもんだ。親父にそっくりだ」
「干物箱」という演目である。

「唐茄子屋政談」の主人公も道楽で身を持ち崩し苦労する。商家の若旦那、徳兵衛は、道楽が過ぎて勘当され、親戚を頼っても相手にされず、友人からも見放され、吾妻橋から身を投げようとする。そこへ若旦那の叔父が偶然通りかかり、若旦那を押しとどめる。叔父の家で食事をあてがわれた若旦那は、「心を入れ替え、何でも叔父さんの言うことを聞く」と約束する。

翌朝、若旦那は叔父に起こされ、「お前は今日から俺の商売を手伝え。天秤棒をかつぐのだ」と命じられる。叔父の職業は唐茄子、カボチャの行商人であった。若旦那はひとりで慣れない重い荷物をかついで歩くうち転び、カボチャをばらまいてしまい、思わず「人殺しィ!」と叫ぶ。若旦那の叫び声を聞きつけた人々が集まってくる。若旦那の身の上話を聞いた人々は同情し、カボチャを買う。カボチャは残り2個になる。

通りでは、ほかの行商人たちが売り声を張り上げている。若旦那も負けじと声を出そうとするが、勇気が出ない。人気のない田んぼ道で売り声の練習をしているうち、そこが花街の近所であることに気づき、遊女との甘い思い出に浸るうち、売り声が薄墨のようにか細くなるという噺である。

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ウィスコンシンで会った人々 その70 「舞台番」に「湯屋番」噺 

「舞台番」や「湯屋番」には、うつけ者、お目出度い者が登場するというのが一般である。決して根性が悪いのではないのだが、一本調子なのである。そこがまた可笑しい。今は、舞台小屋も銭湯も数少なくなったが、江戸の情緒はこうした場所に漂う。

「蛙茶番」という一席である。とある商店で、店内に舞台をしつらえ、店員や出入りの商人とで『天竺徳兵衛噺』を演じることになる。くじ引きで配役を決まる。当日になり、巨大なガマガエル役の伊勢屋の若旦那が、仮病を使って休んでしまった。そのため芝居の幕を上げることができず、舞台上で一切を取り仕切る役の頭取、番頭は困り果てる。番頭は丁稚の定吉を代役に仕立てることにする。定吉からは安くない駄賃と休暇を要求される。

番頭は、舞台袖で客の騒ぎをしずめる役の「舞台番」を担当するはずの建具屋の半公がいつまで待ってもやって来ないことに気づく。定吉が迎えに行くと、半公は怒っていて「いい役をやらせてもらえると思ったら、こんな裏方なんかやっちゃいれない」と定吉にこぼす。引き返してきた定吉の報告を聞いた番頭は、「半公が岡惚れしている小間物屋の娘、みい坊の名を使って半次を釣れ。『素人役者なんかより、半ちゃんの粋な舞台番を観たいわ』と言っていた、と半公に吹き込め」と半公のところに再度行かせる。それを聞いた半公はすっかりポーッとして舞台番で登場するが、とんでもないものを客に見せてしまう。

次に「湯屋番」である。吉原通いに夢中になって勘当され、出入りの大工、熊五郎宅の二階に居候中の若旦那。しかし、まったく働かずに遊んでばかりいるので、居候先の評判はすこぶる悪い。とうとうかみさんと口論になり、困った棟梁は若旦那にどこかへ奉公に行くように薦めた。
「奉公ですか? 良いですねぇ、ご飯がいっぱい食べられる」
『それでは、家で殆ど食べさせてないように聞こえるじゃないですか』と文句を言う熊五郎。
「もちろん頂いてますよ、『死なない呪い』程度にね」

何でも、熊五郎の外出中にご飯を食べようとすると、必ず御かみさんが傍に張り付き、給仕と称して嫌がらせをすると言うのだ。
「お櫃のふたを開けるとさ、おひつを濡れたしゃもじでピタピタと叩き、平たくなった上っ面をすっと削いで茶碗に乗せるんだよ。見かけは一杯だよ、だけど中身はガランドウだ、お茶をかけたらすぐ終わり!」

それじゃあ可愛そうだ。何とかすると言い、改めて奉公の話をすると「日本橋に奴湯っていう銭湯があるんだ。あそこで奉公人を募集してるって話だから、行ってみようと思うんだ」

銭湯といえば湯屋番。若旦那は喜び勇んででかけるのだが、そこでの仕事というのは町内での薪集め。火事場などから古材を買ってくるのである。江戸の華といえば火事と喧嘩。木造の長屋が多かった江戸では薪は不自由しなかったようだ。

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