韓国側には臨津閣(イムジンカク)という公園があり、ここに都羅(トラ)という展望台があります。そこから北朝鮮側の景色をみることができます。臨津江という河には橋が架かり、その名は「Bridge of No Return」(帰らざる河)とよばれています。臨津閣には毎年約650万人の観光客が訪れています。地下トンネルも観光の目玉となっています。私はこれまで韓国には5度訪ねています。2回臨津閣に行き、のどかな臨津江を眺めながら朝鮮の歴史を思い起こしました。
1957年に制作された「戦場に架ける橋」(The Bridge on The River Kwai)では、捕虜となったイギリス人兵士がクワイ川の橋造りにかり出されていました。この映画は、1943年の夏頃ビルマとタイの国境付近にある捕虜収容所が舞台で捕虜のイギリス兵士と日本軍人たちの対立や交流を描いた名画です。収容所長である斉藤大佐は、収容所付近にある泰緬鉄道をバンコクとラングーン間を結ぶために、クワイ川に架かる橋を建設しようとしてイギリス軍捕虜を召集します。第二次世界大戦以前の日本では、「捕虜」を「俘虜」という用語としていました。
1918年にホイジンガはアメリカ紀行を綴った「America: A Dutch Historian’s Vision from Far and Near」という本を書いています。ホイジンガはこの旅行体験をふまえて、アメリカにはピュエリリズムの特徴に関する「文明、哲学、人間関係、公の言論、社会的価値など、ありとあらゆる種類の検討材料」が揃っていると観察します。「ヨーロッパでは子どもっぽいといわれることが、アメリカではナイーヴ〔素朴〕なことである場合がたくさんあると観察し、真のナイーヴさはピュエリリズムの非難を免れるというのです。まだまだ、アメリカには「遊び」の真面目さ、厳粛さ、神聖さを伴ったフェアなものが見られると主張します。遊びには秩序(ルール)を守る心の余裕が必要であるが、アメリカにその余裕が見られるというのです。この見方には異論もあろうかと思われます。
トランプ政権は、これまでガザ(Gaza Strip)紛争に関連する学生抗議活動へのハーヴァード大学の対応を批判してきました。トランプ大統領は、 ハーヴァード大学がキャンパス内のユダヤ人学生を反ユダヤ主義的な差別や嫌がらせから適切に保護していなかったとして、1964年公民権法第6条(Title VI of the Civil Rights Act) に違反していると非難しています。
これに対してハーヴァード大学第31代学長のアラン・ガーバー(Alan M. Garber) は2025年4月14日、トランプ政権との補助金を巡る交渉で、学生や教員の「反ユダヤ主義的な活動」(antisemitism movement) の取り締まり強化などを求めた政権側の要求を拒否すると明らかにしました。ガーバーはユダヤ系アメリカ人であることも注目されます。トランプ大統領は、政権が推進する方針に従わない教育機関への補助金を打ち切る姿勢を示しています。 ハーヴァード大学は政権と真正面からぶつかる初めてのケースとなっています。
政府が審査している90億ドル(1兆2,888億円) には、 ハーヴァード大学への研究支援2億5,600万ドル (371億4,552円)に加え、大学およびマサチューセッツ総合病院(Mass General Hospital)、ダナ・ファーバーがん研究所(Dana-Farber Cancer Institute)、ボストン小児病院(Boston Children’s. Late Monday)など、複数の著名な病院への将来の拠出金87億ドル (1兆2,428億円)が含まれています。トランプ政権は月曜日遅く、 ハーヴァード大学への22億ドル(3,142億円)の助成金と6,000万ドル (85億7,780万円)の契約を凍結すると発表しました。
ハーヴァード大学は、ここ数週間でトランプ政権が標的とした数10校の一つに過ぎません。先月、教育省はコロンビア大学、ノースウェスタン大学(Northwestern University)、ミシガン大学(University of Michigan)、タフツ大学(Tufts University)を含む60の大学に対し、1964年公民権法の差別禁止条項に違反したとして強制措置を取ると警告する書簡を送付しました。さらに、政権は複数の機関の研究資金を凍結するという措置も講じました。
20253月に医学研究機関(United for Medical Research)が発表した報告書によると、生物医学研究へのアメリカ最大の資金提供機関である国立衛生研究所(National Institutes of Health: NIH)が資金提供する研究費1ドルごとに、2.56ドルの経済活動が創出されていると発表しています。報告書によると、NIHは2024年だけで369億ドル (5兆2,695億円)の研究助成金を交付し、945億ドル (13兆4,898億円)の経済活動を生み出し、40万8,000人の雇用を支えているとも伝えています。
2025年4月7日のインタビューで、デューク大学(Duke University) 経営学准教授で、アメリカ政府と高等教育機関の数十年にわたるパートナーシップに関するワーキングペーパーの共著者でもあるダニエル・グロス(Daniel P. Gross)准教授は、大学からの研究資金の撤退はアメリカのイノベーションにとって「壊滅的打撃」だと述べています。デューク大学に移る前は ハーヴァード・ビジネス・スクールで教鞭をとっていたグロス氏は、「大学は現代のアメリカのイノベーションシステムに不可欠な要素であり、大学なしでアメリカは成り立たない」と述べています。
ハーヴァード大学医学部( Harvard Medical School)のジョージ・デイリー(George Q. Daley)学部長は、バイオ医学は長きにわたり連邦政府との強力なパートナーシップに依存しており、そのパートナーシップはアメリカ国民の命を救う進歩という形で実を結んできたと述べました。デイリー学部長は今月、同医学部のジョエル・ハベナー(Joel Habener)教授が、糖尿病治療薬や抗肥満薬の開発につながったGLP-1に関する研究でブレイクスルー賞(Breakthrough Prize)を受賞したことを指摘しました。デイリー学部長はまた、心血管疾患、がん免疫療法、その他多くの疾患における革新的な研究にも言及し、連邦政府の補助金の重要性を指摘しています。
2025年4月1日にウィスコンシン州最高裁判所(Wisconsin Supreme Court) 判事の選挙が行われました。今回の選挙は州最高裁判所の判事を10年の任期で選ぶものでしたが、当選したのはマディソンが位置するデーン郡の巡回裁判官(Dane County circuit judge)のスーザン・クロフォード(Susan M. Crawford)です。彼女は、ウォキショー郡巡回裁判官(Waukesha County circuit judge)で元州司法長官のブラッド・シメル(Brad Schimel)を破り、裁判所のリベラル派の4対3の多数派を維持することとなりました。なおクロフォードの獲得票は55.05%でした。
現職判事のアン・ブラッドリー(Ann W. Bradley)は、30年間の裁判所勤務を経て引退することになり、クロフォードを支持すると表明していました。彼女はリベラル派とみなされ、裁判所のリベラル派の4対3の多数派に一貫して投票していた判事です。クロフォードは、ブラッドリーと同様にリベラル派の候補者とみなされ、ウィスコンシン州の民主党と民主党に所属する寄付者から支援を受けて当選しました。他方シメルは保守派とみなされ、ウィスコンシン州の共和党支持者から支援を受けました。
ウィスコンシン州
この選挙は全国的に大きなメディアの注目を集めました。その理由は選挙戦の費用が総支出額が1億ドルに迫り、史上最も費用のかかる司法選挙となったからです。中でも選挙への関心は、ドナルド・トランプ大統領から指名された政府効率化省(Department of Government Efficiency: DOGE)の長官で億万長者のイーロン・マスク(Elon Musk)は、シメルを支援するために2,500万ドル以上を費やしたと報道されました。これが耳目を集め、選挙戦を大いに賑わす結果となったのです。
1935年、独立に向けてフィリピン連邦政府が設立された。アギナルドは大統領選に出馬しますが、決定的な敗北を喫します。1941年12月に日本軍がフィリピンに侵攻するまで、彼は私生活に戻ります。しかし、日本軍はアギナルドを反米の道具として利用しようとします。彼は演説をし、反米記事に署名します。1942年初めには、当時コレヒドール島(Corregidor Island)で日本軍に抵抗していた米軍守備隊のダグラス・マッカーサー元帥(Gen. Douglas MacArthur)に降伏するようラジオで呼びかけます。同軍は1942年5月に降伏しますが、マッカーサーはすでに退却したあとでした。
エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)は中国人とタガログ人(Tagalog)の両親から生まれます。マニラのサン・フアン・デ・レトラン・カレッジ(San Juan de Letran College)に通いますが、母親が経営する農場を手伝うために早々と退学します。1896年8月、彼はカビテ・ビエホ(Cavite Viejo)、現在のカウィット(Kawit)、カビテ市(Cavite cityKawit)に隣接の市長となり、スペインと激しく戦い成功した革命団体カティプナン(Katipunan)の地元リーダーとなります。
1897年12月、彼はスペイン総督とビアク・ナ・バトー協定(Pact of Biac-na-Bato)と呼ばれる協定に調印します。アギナルドがフィリピンを離れ、永久に亡命する条件は、スペインから多額の金銭の報酬と自由な改革を約束することでありました。香港とシンガポールに滞在していた彼は、アメリカ領事とジョージ・デューイ提督(George Dewey)の代表者とともに、スペインとの戦争でアメリカを支援するためにフィリピンに戻る準備をします。
300年以上にわたるスペインによる植民地支配の間、フィリピンでは準宗教的な反乱が頻発していましたが、19世紀末のホセ・リサール(José Rizal)らの著作活動によって、より広範なフィリピン独立運動が活性化していきます。リサールは「ノリ・メ・タンヘレ:わが祖国に捧げる(Noli me tangere)」と「エル・フィリブステリスモ:反逆・暴力・革命ー(El Filibusterismo)」という2つの小説の作家としても有名です。
他方、キューバでもスペイン支配からの独立を目指す動きがありました。1898年3月、ハバナで軍艦USSメインが破壊されたのを受けて、アメリカはスペインに最後通牒を送り、アメリカの仲裁を受け入れてキューバの支配を放棄するように要求します。スペインとの戦争の可能性に備えて、海軍次官のセオドア・ルーズベルトは香港のアメリカ・アジア戦線に警戒態勢を命じます。4月に宣戦布告されると、香港から出撃したジョージ・デューイ提督(Commodore George Dewey)は5月1日朝、マニラ湾でスペイン艦隊を撃破します。ですが3ヵ月後に地上軍が到着するまでマニラを占領することができませんでした。
米西戦争により、太平洋と大西洋はアメリカが建設した運河でパナマ地峡(Isthmus of Panama)を貫通します。この戦争は、アメリカ海軍への熱意を刺激し、アメリカ海軍は世界の戦艦の中で5、6番目から2番目へと成長します。戦争への備えが不十分で、敵の攻撃による犠牲者よりも、被爆や病気による犠牲者の方がはるかに多かったアメリカ陸軍の抜本的な改革を促したのです。また、アメリカ初の世界志向の大統領、セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の評価も上がりました。戦争終結から数年のうちに、アメリカはカリブ海をアメリカの湖とし、オープンドア政策(Open Door policy)などの極東政治に主導的な役割を果たし、ヨーロッパ情勢に決定的な役割を果たす準備をしていくのです。
米西戦争(Spanish–American War)は事実上終わります。1898年7月18日、スペイン政府はフランスに和平交渉を要請します。しかし、戦闘が終わる前に、ネルソン・マイルズ将軍(Gen. Nelson A. Miles)が指揮する別のアメリカ軍遠征軍がプエルトリコ(Puerto Rico)を占領します。ワシントンでの休戦交渉は、1898年8月12日の議定書調印をもって終了します。
マッキンリー大統領とその助言者たちが直面していた大きな問題は、フィリピンにおいてスペインに何を要求するかでありました。マッキンリーがキューバへの介入を提案したとき、地球の裏側にあるフィリピンを手に入れることなど考えてもいなかったことは確かです。また、多くの議会議員や一般市民が、この戦争の結果をそのように考えていたという根拠もありません。しかし、デューイがマニラで劇的な勝利を収めたことで、潜在的な戦略的重要性がにわかに注目されるようになります。ルーズベルトと友人のヘンリー・ロッジ(Henry C. Lodge)上院議員は、アルフレッド・マハン大佐(Capt. Alfred Mahan)のシーパワー(海上権力)理論の信奉者で、マニラ湾に極東におけるアメリカの影響力を大きく高める前哨基地があると考えたのです。
スペイン海軍提督パトリシオ・モントホ(Patricio Montojo)は自分の艦隊をカビテ(Cavite)の東側に東西に並べて停泊させ、北側に向けて陣を張ります。彼の艦隊は彼の旗艦である巡洋艦レイナ・クリスティーナ(Reina Cristina)、曳航された古い木造蒸気船であるカスティージャ(Castilla)、保護巡洋艦イスラ・デ・クバ(Isla de Cuba)とイスラ・デ・ルソン(Isla de Luzon)、砲艦ドン・ファン・デ・オーストリア(Don Juan de Austria)、他数隻で構成されていました。また、モントホはカビテ付近で6門の砲を備えた陸上砲台を支援します。
その一方で、キューバにも注目が集まります。宣戦布告と同時に、パスクアル・セルベラ・イ・トペテ提督(Pascual Cervera y Topete)が指揮する装甲巡洋艦4隻と駆逐艦3隻からなるスペイン艦隊は、カーボベルデ諸島(Cape Verde Islands)から西へ向かって航行していました。その所在は5月下旬にキューバ南岸のサンチャゴ港(Santiago’s harbour)に到着するまで不明でした。ウィリアム・サンプソン少将(William Sampson)率いる北大西洋戦隊とウィンフィールド・シュリー提督(Winfield Schley)が率いるいわゆる飛行戦隊は、サンチャゴ港の入り口を封鎖します。
ルーズベルトの義勇兵隊、通称「ラフ・ライダーズ」(Rough Riders)と第9・10騎兵隊のバッファロー兵(Buffalo)を含む正規軍と志願兵がタンパ(Tampa)に上陸し、サンチャゴ(Santiago)の東のキューバ沿岸に上陸します。アメリカの目的は、セルベラ(Cervera)を陸軍と海軍の間に閉じ込め降伏させるか、出てきて戦わせることでした。7月1日、エル・カニー(El Caney)とサン・フアン・ヒル(San Juan Hill)の戦いではラフ・ライダーズが活躍し、ルーズベルトが戦争の英雄であるという大衆のイメージに貢献します。
4月6日、ドイツ、オーストリア、フランス、イギリス、イタリア、ロシアの代表がマッキンリー大統領(William McKinley)を訪れ、人道の名のもとにキューバへの武力介入を控えるよう懇願してきます。マッキンリーは、もし介入が行われるなら、それは人類の利益のためであると断言します。ローマ教皇レオ13世(Pope Leo XIII)による仲介の努力も同様に無駄でした。他方、スペインは3月27日のマッキンリーの条件を受け入れる方向で進んでいました。ウッドフォード公使(Minister Woodford)がマッキンリーに、時間と忍耐があれば、スペインはアメリカとキューバの反乱軍の双方に受け入れられる解決策を講じることができると進言するほどでした
1898年2月9日、ニューヨーク・ジャーナル紙は、ワシントンのスペイン公使エンリケ・ローム(Enrique Dupuy de Lôme)からの私信を掲載し、マッキンリーを「弱腰で人気取り」と評し、スペインの改革計画に対しては誠意に反するものと非難します。ロームは直ちに解任され、スペイン政府は謝罪します。この事件は、6日後に大きな反響を呼びます。2月15日の夜、ハバナに停泊していたメイン号(USS Maine)が大爆発を起こして沈没し、乗組員260人以上が犠牲になるのです。しかし、この事故の原因は正確には究明されませんでした。
アメリカ海軍の調査委員会は、最初の爆発は船体の外側、おそらく機雷か魚雷によるもので、戦艦の前部弾倉に着火したことを示す有力な証拠を発見します。スペイン政府はその責任を仲裁に委ねることを申し出ますが、ニューヨーク・ジャーナル紙をはじめとする低俗で扇情的な誇張表現を用いたイエロー・ジャーナリズム の扇動に乗せられ、アメリカ国民はスペインの責任を疑うことなく認めるのです。「メイン号を忘れるな、スペイン地獄へ」(Remember the Maine, to hell with Spain!)というのが、アメリカ国民の叫びでした。
1800年代後半のアメリカの外交政策を取り上げます。1898年に起きたアメリカとスペインの間の紛争である米西戦争(Spanish–American War)により、アメリカ大陸におけるスペインの植民地支配のもとで、アメリカは西太平洋とラテンアメリカの領土獲得を目指します。この戦争は、1895年2月に始まったスペインからの独立を目指すキューバ紛争(Cuban War of Independence)に端を発しています。キューバ紛争は、アメリカのキューバへの推定5000万ドルの投資に損害を与え、通常年間1億ドルとされるアメリカのキューバ港との貿易をほぼ停止させます。キューバの反乱軍側では、戦争は主に財産に対して行われ、サトウキビと製糖工場の破壊につながります。アメリカにとって金銭的利益よりも重要だったのは、アメリカの人道的感情のことでした。
スペイン人指揮官バレリアーノ・ニコラウ(Valeriano Nicolau)は「残虐者」(slaughterer)と呼ばれ、キューバ人を大都市周辺のいわゆる「再集中地域」に集め、逃亡した者は敵として扱いました。スペイン当局は、和解者のための住居、食料、衛生、医療を十分に用意せず、何千人もの人々が放置され、飢え、病気で亡くなります。このような状況は、ジョセフ・ピューリッツァー(Joseph Pulitzer)の「ニューヨーク・ワールド」(New York World)や、ウィリアム・ハースト(William R. Hearst) が当時創刊した「ニューヨーク・ジャーナル」 (New York Journal) などの新聞でセンセーショナルに報じられ、アメリカ国民に向けて生々しく紹介されます。