マインツ(Mainz)の大司教、アルベルト・フォン・ブランデンブルク(Albert von Brandenburg)は、大いにこの免罪符の発行に賛成し、自らもその利益に預からんとし、彼の監督管内において広く免罪符を奨励します。アルベルトはドイツの枢機卿(Cardinal)であり選帝侯(Elector)でもあり、長年マクデブルク大司教(Archbishopric of Magdeburg)を務めた人物です。 彼は悪名高い免罪符の販売を通じて、マルティン・ルターの宗教改革のきっかけを作り、その強力な反対者となりました。
免罪符の直接の販売の任に当たったのは、ドイツのドミニコ会修道士(Dominican friar)であり説教者でもあったヨハン・テッツエル(Johan Tetzel)という僧侶でした。彼はローマ教皇庁が約束した50 パーセントの手数料を受けとり、この販売に並々ならぬ関心を抱いていたといわれます。テッツエルはポーランドとザクセン(Saxony) の異端審問官(inquisitor)に任命され、後にドイツにおける免罪符の大弁務官(Grand Commissioner for indulgences)となる人物です。
1921年6月に内村鑑三は、「ルーテル講演集」を発表します。この年を遡る400年前の1521年は、マルティン・ルター(Martin Luther)にとって重要な年となります。その理由は、神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire)のヴォルムス帝国議会(Diet of Worms)がヴォルムスで開かれ、ルターがここで異端として教会から破門された年だからです。ルターの信仰を大帝カール第五世(Karl V)の前において堅く宣言した年とも言われます。このヴォルムス帝国議会では、ルターが1517年の『95か条の論題』(95 Theses)を発表したことに端を発していたといわれます。
Dr. Martin Luther
ヴォルムス帝国議会の開催に先立ち、1519年にはライプツィヒ論争(Leipzig Debate)というの起こります。この論争は、ルターに対して神学者として著名であったヨハン・エック(Johann von Eck)はルターの『95か条の論題』反論するものでした。ルターは、教皇や公会議の権威否定の発言により、教皇レオ十世(Leo X)と決別します。レオ十世は、1517年にサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano) 建設資金のためにドイツでの贖宥状(しょくゆうじょう)、別名「免罪符」の販売を認めます。後に、ルターによる宗教改革の直接のきっかけになったのがこの免罪符の発行にあったといわれます。
ルターは『95か条の論題』を発表し、宗教改革に乗り出します。その主張は、農民層だけでなく、ドイツの諸侯にも受けいれられて、ルター派の勢力は急速に拡大していきます。それに対して、1519年に神聖ローマ帝国カール五世は、ドイツの各領邦や諸侯、高位のカトリック聖職者の支持を確保するために、問題化しつつあったルター派と教会の対立を調停する必要に迫られます。そこで開かれたのがウォルムス帝国議会です。議会では、新たな帝国の枠組みなどについて話し合った後に、ルターの身の安全を保障してルターを議会に召喚します。カール五世は、宗教改革により帝国が解体することを恐れ、ルターに『95か条の論題』の撤回を求めますが、ルターは自説をまげず、教皇と公会議の権威を認めないことを明言し最後に「ここに我は立つ」(Here I Stand) と宣言したと言われます。
中央講堂での講演内容は多岐にわたり、特に「Boys Be Ambitious!」の講解は興味ある内容です。それは、この言葉はウイリアム・クラークの独作ではなく、当時マサチューセッツ州に広がっていた清教徒主義(ピューリタニズム)の精神として広く知られていたというのです。「 Ambitious!」とは「大志」というよりも「大望」がふさわしいと語ります。そして、「Boys」とは20歳以下の青年を指すのみにならず、「men」「gentlemen」「old men」であってもなんら不思議でないというのです。つまり「アンビションを抱く者」、「前途の希望に邁進する者」であり、自分自身もまだアンビションを持っているから「Boys」であると宣言するのです。この講演の内容は内村鑑三信仰著作全集の20巻に収録されています。
なんという逆説的な言葉でしょうか。内村鑑三は時に矛盾の人、謎の人と不可解視されるのは、こうした人生を超越するのような幸や不幸を意に介しない態度にあったのではないか、、、、超絶的なこの信仰者をどうすれば理解できるかは、深い読み解く力が必要です。このような思想は、かつで内村が学んだマサチューセッツ州(Massachusetts)が生んだ思想家、ラルフ・エマーソン(Ralph Emerson)やデビッド・ソロー(Henry David Thoreau)の超絶主義(transcendentalism)の感化を受けたことは容易に理解できます。
旧約聖書(The Old Testament) のミカ書(Book of Micah) の6章8節があります。「人はただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくださって、あなたの神とともに歩むことではないか。」人は信仰に直面するとき、どのように判断し、どのように行動するかを決定するのは、彼の持つ価値体系によらねばなりません。それ以外のもの、外部の権威、信徒批判とか、その他なんであれ、自分自身の内心の確信以外のものによって、動かされるものではありません。内村鑑三の生き方や信仰はそれを示しているように思われます。
彼の言う「英雄」とは歴史に影響を与えた神、預言者、詩人、僧侶、文人、帝王などを指すようです。例えば内村は「後世への最大遺物」において、「勇ましい高尚なる生涯」が「後世への最大遺物」になる例として、カーライルが友人ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)の晩年の内妻、ハリエット・テイラー(Harriet Taylor Mill)により誤って燃やされてしまった「フランス革命史」の膨大な完成原稿を書き直したエピソードを挙げ、「私はカーライルという人については全体非常に尊敬を表しております」と書いています。
特にカーライルが「クロムウェル伝(Oliver Cromwell’s Letters and Speeches)」で、政治の理想を描いているという指摘は、彼の強いクロムウェル崇拝が感じられます。クロムウェルはイングランドの政治家、軍人で、イングランド共和国初代護国卿(Lord Protector)となった人物です。カーライルは「英雄論」(On Heroes, Hero-Worship, and the Heroic in History) でクロムウェルを英雄の一人としてとり上げ、フレデリック・ハリソン(Frederic Harrison)は軍人としてのクロムウェルを「我が国の歴史に一人二人を数えるだけである」と高く評価します。クロムウェルは強い回心の経験し、生涯ピューリタン(Puritanism)を貫いた人物です。
Ralph W. Emerson
イギリスなどヨーロッパでは20世紀以降は、カーライルの思想は時代遅れと評され、彼の反ユダヤ主義的言動はナチスへの影響も含めて批判の的となっています。イングランドの歴史家、アンソニー・フルード(James A. Froude) はカーライルのユダヤ人嫌悪を「ドイツ的」(Teutonic)と評するほどでした。にもかかわらず、カーライルはヴィクトリア朝絶頂期の大英帝国において、その時代を代表する優れた著述家・言論人としての名声を確立します。
アメリカに眼を向ければ、カーライルの最も重要な弟子は、エマーソン(Ralph W. Emerson)といわれます。宗教的、社会的信念から離れ、汎神論的象徴主義による評論「自然」(Nature)を発表し、これが彼を中心とする超絶主義運動(Transcendentalism)の指導者となった哲学者です。超絶主義は、客観的な経験論よりも、主観的な直観を強調します。その中心は、人間に内在する善と自然への信頼であるとする思想です。エマーソンはしばしば「アメリカのカーライル」と称せられるほどでした。イギリスの哲学者ジョン・ミュアヘッド(John H. Muirhead)は、ドイツ観念論を受け入れたカーライルをして、「哲学的懐疑主義を拒絶し、当時の哲学思想の発展において、イギリスとアメリカにおいて他の誰にも及ばないほどの影響力を発揮した」と記しています。
『内村鑑三信仰著作全集』全25巻の第9巻目は、「なにゆえに大文学は出でざるか」「宗教と文学」「詩人ウォルト・ホイットマン」など、内村の文学観や人生観、および宗教観を語る内容となっています。その中に「交友の歓喜」と題するエッセイがあります。内村は、レンブラント(Rembrandt H. van Rijn)、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)、ルーテル(Martin Luther)、そしてカント(Immanuel Kant)の4人を心の友としていることを語ります。内村はこうした偉大な人物が世界人であることに感銘するのです。
「ニュー・イングランド(New England)へは、私はぜひとも行ってみなければならなかった。私のキリスト教はもとニュー・イングランドから来たものであり、従ってニュー・イングランドはそのキリスト教が引き起こしたわが内心の苦悶に対して責任を持つからである。」このように内村は言います。内村がこの地へ行ったのは、アマースト大学の総長ジュリアス・シーリー(Dr. Julius H. Seelye) に会うためでした。彼はすでに日本にいたときから、この総長の著書を読んで、その敬虔さと学識を知っていたのです。内村は、古びてよごれた服をまとった惨めな姿で(内村談)、わずか7ドルをポケットに入れて大学町に行くのです。そして総長邸の玄関に立つのです。新島が総長にあらかじめ自分の名前を紹介してくれていました。
ミュンヘン会談の結果、ズデーテン地方のドイツへの割譲が決定され、チェンバレンは帰国後、「我々の時代の平和(Peace for our time)」と宣言します。チャーチルは当時、政権の中枢にはいませんでしたが、下院議員として会談後すぐに強い批判を展開します。特に有名なのは1938年10月5日のイギリス下院での以下のような演説です。
あなた方は戦争を避けるために屈辱を選んだ。しかし、屈辱を受けた上で戦争がやって来るだろう。 “You were given the choice between war and dishonour. You chose dishonour and you will have war.”
トランプ大統領とプーチン大統領の首脳会談が開かれたのですが、詳しい会談結果は報道されていません。大統領専用機から降りて、両者の対面場所に向かうトランプの歩みはジグザクで、痴呆的(dementian)な障がいがあるようだ、というコメントもあります。共同記者会見のタイトルは、「Trump presser goes horribly wrong with Putin. Luncheon between US and Russians delegates has been cancelled. Trump will immediately return to Washington. 」首脳会談はトランプにとって悲惨な結果であるというコメントです。
「Trump has mad extraordinary concessions to Russia in exchange for nothing. Russia has repaid him by continuing the war and seeking to win it. Putin knows that Trump want the Novel Prize.」「この首脳会談は、トランプはロシアに対し何の見返りもなしに、並外れた譲歩をした。ロシアは戦争を継続し、勝利を目指すことで報いてきた。プーチンは、トランプがノーベル賞を欲しがっていることを知っている」と報道する有様です。
チェコスロバキア(Czechoslovakia)でも有数の工業地帯であったのがズデーテン(Sudeten)地方です。ここにはチェコスロバキア最大の財閥であるシュコダ財閥(Skoda Works)をはじめとする多くの軍需工場が立ち並んでいました。また、この地方の約28%がドイツ系住民といわれていました。チェコスロバキア政府は、ドイツ人の独立運動を警戒し、ドイツ人を公務員に登用する事を禁止する措置をとっていました。そのため、ズデーテン地方のドイツ人政党であるズデーテン・ドイツ人民党(Sudeten German Party) は、チェコスロバキアからの分離とドイツへの併合を唱えていました。ヒトラーは、かねてからズデーテン地方のドイツ系住民はチェコスロバキア政府に迫害されていると主張しており、解放を唱えていました。ヒトラーがここで持ち出したのが、ヴェルサイユ条約(Treaty of Versailles)の基本となった十四か条の平和原則にある民族自決)national self-determination) の論理です。
Sudeten
1937年6月24日、ドイツ陸軍参謀本部は、近隣への侵攻作戦の策定を開始します。その中でもチェコスロバキアに侵攻する計画が「緑作戦」(Fall Grün) と呼ばれました。特に西部のズデーテン地方は、ドイツにとっても重要な目標でした。当時、チェコスロバキアの東半の領土であるスロバキア(Slovakia)とカルパティア・ルテニア(Carpathian Ruthenia) はかつて北部ハンガリー(Hungary)と呼ばれており、トリアノン条約(Treaty of Trianon) によってチェコスロバキアがハンガリーから奪取した経緯がありました。
他方で、チェコスロバキアは1924年1月25日にフランスと相互防衛援助条約を結んでおり、1935年5月16日にはソビエト連邦とも相互防衛援助条約を結んでいました。このため、チェコスロバキアへの領土要求は世界大戦を発生させる懸念があったのです。1938年3月にドイツは、オーストリアを併合(Anschluss of Austria) し、ズデーテン問題はドイツの次なる外交目標となっていきます。
1885年、内村鑑三は渡米しメソジスト派の宣教師メリマン・ハリス(Merriman C. Harris)の紹介で、ペンシルヴァニア州(Pennsylvania)のエルウイン(Elwyn)にある州立白痴児養護院長のアイザック・カーリン(Issac N. Kerrlin) という方に「拾い上げられます。」この院長は実行家型の慈善事業家でした。彼は内村の性格を調べてから保証人となることを引き受けるのです。そして彼の「看護人」に加えるのです。内村は、「帝国政府の官吏から急転して白痴院の一看護人」となります。内村それを転落とは感じなかったと述懐しています。まるでナザレ(Nazareth) の大工の子によって今や全く新しい人生観を与えられた、と受けとめるのです。