ウィスコンシンで会った人々 その81 寿司屋噺

「転失気」の話題の後に食べ物の噺で、ちと憚るが読んでいただきたい。まあ、食事と「転失気」は因果関係があるのでどうしても落語の演題からはずせない。

古典落語にはいろいろな食べ物が登場する。寿司、鰻、秋刀魚、鯉の洗い、蕎麦、蒲鉾、うどん、雑炊、納豆、卵焼き、おから、おでん、湯豆腐、冷奴、煮付け、天ぷら、たくあん、さらに饅頭や羊かん、せんべいまで登場する。新作落語とか創作落語にもいろいろな食べ物がでてくる。だが「寿司」は「鰻」と並ぶダントツの人気といえよう。江戸といえば寿司。江戸の郷土料理といわれきた。

江戸っ子は刺身が好きであり屋台で売られていた。東京湾の魚介の豊富さが売り物であった。白魚もとれたという。アサリや海苔もとれた。遠浅の干潟を抱えた天然の漁場だったのが江戸前の海、東京湾である。加えて近隣の野田からは、生魚に合う濃口醤油が運ばれていた。

「寿司屋水滸伝」は握りずしを中心とした寿司屋での噺である。ある寿司屋で、唯一の寿司職人がやめると言い出す。亭主は洋食を修行したが、父の店を継ぐために帰ってきた男。粋な寿司商売にはあわない気質であった。再三の説得にもかかわらず、職人はやめてしまう。仕方なく、自分で寿司を握るが、包丁の使い方もままならない。客がそれをみて、「魚を切るなんて素人でも出来る」というと、別の客がその男をたしなめ、自分でトロを切ってみせる。素晴らしい腕前、「トロ切りの政」というプロだ。そしてこの店で働くことになる。

別の客からイカの刺身を注文されるが、政はトロしか切れないというので、客から文句が。そこへ出てきたのが「イカ切りの鉄」という男。この男も雇うことになる。このようにして、それぞれのプロを雇っているうちに厨房が狭くなってしまう。

しかし、長く続かず寿司屋は廃業。洋食屋をはじめる。ある日、カツカレーの注文。客から、「油がきれてなくて肉も固い」との文句。こんなカツカレーに金は払えないとも言い出す。聞けば客は「トンカツの秀」というプロ。逆に金を請求する始末。亭主は「そんな金まで請求した人ははじめだ。何でそんな。」「だから言ったろ、金よこせってんだよ」「トンカツの秀さん、、、そんな。ああ〜なるほど、カツアゲがうまいわけだ」

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ウィスコンシンで会った人々 その80 言葉遊び噺 「転失気」

言葉遊びというか下ネタ噺の演目である。医者が言う単語の意味がわからないのに、博学多識を自負する和尚を笑う演目である。小僧とのやりとりが絶妙だ。物事を婉曲に表現する粋な言葉を知らないで、赤恥をかくという内容だ。

体調のすぐれない寺の和尚が、往診に訪れた医師から「てんしき」があるかないかを尋ねられる。和尚は「てんしき」が何かわからず、「あったような、ないような、、」と答えてその場をとり繕う。そこに小僧の珍念を呼んで、それとなく尋ねることでなんとか「てんしき」について知ろうとする。

和尚 これ、珍念や、、、
珍念 へぇ、お呼びでございますか?
和尚 ん、今、先生がお見舞いをしてくださいましたな、
珍念 へぇ
和尚 あの折「テンシキはございますか?」と、お尋ねでしたな
珍念 へ、聞ぃておりました
和尚 で、珍念、テンシキを存知おるか?
珍念 知りません
和尚 知りません?確か、前に教えたはずじゃろ
珍念 忘れました、教えてください!

和尚は「ここで『てんしき』について教えてもよいが、それではお前のためにならない」とうそぶき、珍念を医師宅へ調合薬を取りに向かわせる。ついでに近所を回って「てんしきを借りてくる」ように命じる。

ところが聞く人がみな知ったかぶりをして雑貨屋は「珍念さん、棚の上から落ちて割れてしまった」、石屋は「鼠がでてきて壊したので味噌汁の実にして食べてしまった」など、ちんぷんかんぷんな説明をするため、「てんしき」が何であるのか珍念にはわからない。珍念が医者に聞くと、「放屁」「おなら」「屁」だという。それでもわからない珍念に医師は説明する。「てんしき」は「転失気」で、「気を転(まろ)め失う」と中国の医書に出てくるという。珍念納得し、和尚も雑貨屋も石屋も知らないくせに知ったかぶりをしていたことが分かる。

寺に戻った珍念、和尚に仕返しをしようと、「てんしきとは盃のことでした」と話す。和尚も「その通りだ、盃のことだ!”呑酒器”と書くのだ、よく覚えておけ!」と相変わらず知ったかぶり。そして大団円が待っている。

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ウィスコンシンで会った人々 その79 童の知恵噺 「真田小僧」

以前、「佐々木政談」という演目を紹介した。お白洲遊びをしている子供達の頓智に感心した南町奉行佐々木信濃守と賢しいガキとのやりとである。このガキはやがて近習に取り立てたられるという目出度い噺であった。白洲とは江戸時代の法廷。下段に「砂利敷」が設けられ、原告や被告が座る。砂利が白かったかどうかは不明ではある。

今回紹介するのは「真田小僧」という演目である。こましゃくれた子供が父親から小遣いをせびるためにあの手この手のゴマすり、それでもダメだと分るとおっかさんが父親の留守に男を家に入れたと浮気を匂わせる。その男は白い服をきてサングラスを掛け白い杖をついているというのだ。父親はすっかり欺され、小遣いを渡す。それを受け取ると、「その人はただの按摩さんでした」と言って逃げ出す。

湯から戻ってきた女房に父親が息子に銭を巻き上げられた話をする。知恵のあるのは結構だが、どうせなら真田昌幸の息子、真田幸村のように知恵で父親の絶体絶命のピンチを救うような息子になって欲しい、といって真田六文銭の旗印の由来を語る。

最初の銭を使い果たして玄関に潜んでいた子供は父親の話を一度で覚えて披露する。六文銭とはどういうものか、と父親に尋ねる。父親は銭を6枚並べて説明し始めるが、息子はその銭をかっさらって家から飛び出す。その子に向かって父親が「何に使うのか?」と聞くと息子は「焼き芋を買うんだ」と答える。そこで父親は「あいつも薩摩に落ちた、」というサゲとなる。

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ウィスコンシンで会った人々 その78 童噺 「子別れ」

古典落語の大作に「子別れ」がある。酒呑み、女房、子供、大工、弔い、神田、長屋、浮気、吉原、女郎、鰻、元の鞘、鎹等々、落語の全ての舞台が揃っている。

神田大工町の長屋に熊五郎が女房、一人息子の亀と暮らしている。腕の良い大工職人なのだが、大酒呑みである。山谷でのある弔いの帰り、その足で精進落だと吉原で遊ぶ。そして数日後長屋に戻ってくる。おかみさんは黙々と手仕事をしている。決まりの悪い熊五郎、そっと入っていくのだが、黙っていたおかみさんが「どこでお浮かれになりましたか?」「お相方の顔も覚えていないですか?」などと嫌みを言う。熊五郎は女郎の惚気話をし始める。とうとう堪忍袋の緒が切れて、おかみさんは離縁状を渡して亀坊と家をでていく。

しばらく女郎と暮らすのだが、金の切れ目が縁の切れ目。さすがに情けなる。そして心機一転。それからは人が変わったように働き出す。別れた女房は近くの長屋で仕立物の内職をして暮らしている。それから三年。

熊五郎は旦那と歩いているとき、亀坊とばったり会う。そして勉強のたしにと五十銭を手渡す。母親にはこのことを云わないようにと念を押し、翌日鰻を一緒に食べる約束をする。母親がまだ一人でいることも知る。亀坊の額に傷があるのを見て、問いただすと母親に仕事をくれる旦那の息子が意地悪して叩いたのだという。熊五郎、抗議もできない自分が情けない。我慢をするように言って聞かせる。

長屋に戻った亀坊の手に五十銭があるのを母親が見つける。なにか悪い料簡でも起こしたのではないかと疑る。亀坊はしばらくがんばり通すのだが、遂に白状する。そして熊五郎がいい身なりをして大工として働いていることも喋る。ぐうたらだった亭主が再婚もせず真面目になったことを聞いた母親の内心は揺れる。

熊五郎と亀坊は一緒に鰻屋に入る。そこに気がきでない母親もやってくる。二人はしばし気まずい会話を交わすのだが、お互いまだ一人身であることを漏らす。

熊坊 「父ちゃん、長屋に戻ってくれよ、、」
熊五郎 「言いにくいのだが、、元の鞘に戻らないか、、」
女房 「異存なんかあるものですか、、この子のためにも」
女房 「、、昔から子は鎹といいますから」

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ウィスコンシンで会った人々 その77 左甚五郎利勝噺 

落語に「竹の水仙」というのがある。「三井の大黒」、「ねずみ」とともに、伝説的な彫刻職人技を真剣に、また可笑しく取り上げている。天下の宮大工として名高い左甚五郎利勝。左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。もう一つの説は、彫り物を彫らせたら右に出るものがいないというので、それなら左にしようと名前を与えたという説である。日光東照宮の眠り猫を彫ったといわれる。宮大工の名声をほしいままにした人物である。

「竹の水仙」のあらすじである。京へ下る途中、左甚五郎は名前を隠して、三島宿の旅籠に寄る。旅籠の主は佐平。ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。たまりかねた佐平に追い立てを食うが、甚五郎、平然としたもので、ある日中庭から手頃な竹を一本切ってくると、それから自分の部屋に籠もってなにやら作り始める。

心配した佐平が様子を見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。たまげた佐平に、甚五郎、「この水仙は昼三度夜三度、水を替えると翌朝不思議があらわれる」「売るときは町人なら五十両、侍なら百両。びた一文負けてはならない」と託ける。

これはただ者ではないと、佐平が感嘆していると、なんとその翌朝、水仙の蕾が開き、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。そこに通った殿様の目にとまり、三太夫にこの水仙を買い求めるよう指示する。だが三太夫、「たかが水仙が百両とは無礼!たわけ!」といって佐平を面罵する。戻ってきた三太夫に殿は、「竹の水仙を買えないようなら切腹を申しつける!」と言い渡す。それからどたばた劇が始まる。

もう一席。「ねずみ」も彫り物師の噺である。奥州仙台の宿場町。左甚五郎が、宿引きの子供に誘われて「ねずみ屋」という鄙びた宿に泊まる。そこは腰の立たないような宇兵衛と十二歳の子供の二人だけでやっているという貧しい宿だった。

向かいには虎屋という旅籠がある。かつては宇兵衛のものだったが、追い出され今の物置小屋を宿としねずみ屋としている。物置に棲んでいたネズミにちなんだという。これを聞いた左甚五郎は、木片でねずみを彫り上げ、繁盛を願ってそれを店先に置いて帰っていった。するとなんとその木彫りネズミがまるで本物のネズミのように自分で動き回りはじめる。

この噂が広まるやいなや、ねずみ屋に泊まればご利益があるとして部屋に収まり切らないほどの客が入る。それを苦々しく眺めていた虎屋は別の職人に虎の木彫りを彫らせる。そしてねずみと虎の彫り物対決となる。

工匠の代名詞、左甚五郎の一席である。

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ウィスコンシンで会った人々 その76 匠噺 「三井の大黒」

江戸の古い地図を見ると「神田八丁堀」がある。町人によって鎌倉河岸東端から本町通りと神田の境に堀の長さが約八丁の堀が掘られ,浜町を経て江戸の湊と結んだ。約800m位である。神田と日本橋との境界となっていた堀である。現在は、中央区京橋付近となっている。東京駅八重洲口より東に歩き、宝町、八丁堀を過ぎると浜町堀となって隅田川に入る。この神田八丁堀によって江戸城や数々の大名屋敷をつないだ商行為が盛んになり、神田の職人町が隆盛した。今も鎌倉橋や竜閑橋や日本橋魚市場の跡がある。

「三井の大黒」という演目に匠が登場する。神田八丁堀で大工作業をしているところに半てんを着た男が現れる。そして江戸の大工仕事がやわい、下手だとけちをつける。男は怒った大工たちから寄ってたかって袋だたきにされる。棟梁の政五郎が仲裁して男にたずねると、西の国からきた番匠だ、という。番匠とは大工のこと。男は気に入られ、棟梁の居候となる。この男はぼうっとしたところがあって、箱根を越えるとき自分の名前を忘れたという。そこで若い大工たちに「ポン州」というあだ名を与えられた。「ポン州か。わしゃ、一度ポン州になりたかった。」

板を削る下働きを担当することになったポン州は、みっちりとカンナを砥いだ。ようやく削った2枚の板を重ねると、板はぴったりと重なり、若い大工が力を込めても一向にはがれない。大工達はおかしな仕事をするものだと呆れる。

上方に帰る前に、政五郎は歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないかと勧める。素直に応じたポン州は二階で食事も睡眠も取らず、一心不乱に何かを作る。数日後、ポン州は小僧に手紙を持たせてどこかに使いにやらせ、「湯に行ってくる」と出かける。そこに三井の使いという者が訪ねてきて、政五郎に「こちらに左甚五郎利勝様がおいでとか、、、」といって大黒様を頂戴にやってくる。政五郎はようやく得心する。

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8月19日から考える 元満蒙開拓団員と三里塚闘争

亡くなった叔父らのことに戻る。彼は樺太の大泊町で駅の助役をしていたときにソ連の捕虜となった。昭和25年頃、厚生省からの連絡によれば、死亡したところはクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)である。

クラスノヤルスクはロシア連邦シベリア中部の大都市である。戦後、クラスノヤルスクの北方80キロのエニセイ川(Yenisei)河畔に原爆製造センターが建設される。ロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedev)著「知られざるスターリン」(現代思潮新社)によると、クラスノヤルスクへの鉄道を建設するために囚人収容所が建てられる。囚人の中には懲役25年以上の政治犯、犯罪人、民族闘争を扇動したとして逮捕された民間人も多数いたという。スターリンの思想や行動、原爆製造センター建設の歴史は、メドヴェージェフの本に詳しく書かれている。

叔父は鉄道建設か原爆製造センターの建設に駆り出され、その間に死亡したのかも知れないというのが漠とした思いだが妥当な推理だ。原爆製造センターの所在は最高の軍事機密であったはずである。それゆえ、よしんば叔父が生きていたとしても日本に帰還できたかは疑問である。生前父は、「弟は現地で結婚し、まだ生きているかもしれない」と云っていた。

戦後の引揚者のことである。引揚者とは非戦闘員の呼び名である。全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた移住用集落がつくられた。割り当てられた所は痩せた土地が多かった。千葉県成田市の三里塚にも引揚げ者村がつくられた。元満蒙開拓団員も三里塚にやってきた。

1966年、佐藤栄作内閣は閣議で成田空港の建設地として三里塚、芝山地区を決定する。それから国の土地強制収容に反対する半世紀及ぶ三里塚闘争が始まる。国策で欺され翻弄された元満蒙開拓団員は粛然として「怨念」のプラッカードを掲げた。土地収用と土地所有権者への補償問題が今も続く。

開拓地には、茨城県つくば市の作谷地区もある。戦後すぐに「西筑波開拓団」を組織し、払い下げられた軍用地や山林などを開拓し始めた。開拓者の多くは、引揚者や復員軍人であった。痩せた土地で栽培できる芝の生産に携わっていく。

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8月18日を考える 見捨てられた人々ー棄民

長野県と岐阜県境にある恵那山。その東側に阿智村がある。人口6,500人。中央自動車道のそばにある谷間の村である。今は昼神温泉で知られているが、戦前は農村の人口過剰によって、満蒙開拓移民を国内で最も多く送り出した地域といわれる。この村に満州移民史を語る日本で唯一の民間施設「満蒙開拓平和記念館」がある。

「満蒙開拓平和記念館」に残る開拓民募集のポスターから、「楽園幻想」を宣伝文句にしていることが伺われる。ポスターには「北満の沃野へ」という標語がある。国策に誰も抗うことが難しい時代。海外移住というと響きはよいが、阿智村をはじめ全国から北満に移住した人々は戦後、外地に取り残された。移住者を集めるために番付表まで作ったというのだから恐れ入る。

もともと開拓団は関東軍の保護の元に開拓に従事するはずであった。しかし、ソ連の参戦によって兵隊や関係者はいち早く満鉄を利用し、ハルビンや長春、大連などへ撤退し始めた。置き去りにされた開拓団は自力で逃避行をせざるを得なくなった。開拓団の逃避行の有様は、いろいろな記録に残されている。山崎豊子の小説「大地の子」にもある。「棄民」と呼ばれた人々である。満蒙開拓は、八紘一宇、大東亜共栄圏の旗印で生まれた「棄民政策」である。

棄民は満蒙開拓団だけでない。戦前、ブラジル、メキシコ、ドミニカなどの中南米諸国へ移民した人々もそうだ。移民の募集要項を信じて、こうした国々に移住していった。ところが入植地としてあてがわれのは未耕地。開墾作業から始めたという。多くの者は開拓を断念し帰国したが、もはや安住の場所は少なかった。筆者の両親や親戚が昭和の初め、親戚の反対をよそに青森は弘前から移住したのが樺太であった。だが昭和20年、すべての財産を失い「引揚げ者」、あるいは「引揚げ民」として北海道の稚内に上陸した。

女性も国策によって看護婦として満州に送られ、中にはシベリア抑留を強いられた者もいる。ソ連兵に連れ去られ暴行された者もいた。そのドキュメンタリーが放映された。やがて故郷への「ダモイー帰還」がやってくる。だが抑留という過去の経験を親戚や知人が嫌がるのではないかと思い巡らし、帰国は辛いものとなったようだ。「誰も尋ねない、誰にも語れない深い傷を背負った帰還」となった。

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ウィスコンシンで会った人々 その75 匠噺 「浜野矩随」

江戸時代、名工とか名匠と云われる人々があちこちに大勢いたといわれる。経師職人、大工、絵師,木彫り師などである。経師屋だが、城や大名の屋敷が書画の幅や屏風 、ふすまなどを表装する職人である。表具師ともいわれた。今も東京表具経師内装文化協会というのもある。文字通り表具・経師・内装インテリアという3つの大きな業種部門における人材の育成を大きな目的としている。江戸時代の「匠」の技能を今に伝え普及しようとしている。

古典落語に「浜野矩随」(はまののりゆき)という演目がある。江戸は寛政年間、浜野矩康という腰元彫りの名人がいた。その作を求めて浜野家の前に道具屋が列をなして買い競った。その名人が亡くなって女房と一人息子の矩随が残された。しかし、息子の代になって列がぱたり途絶えた。それは矩随の作が誠に未熟であったからだ。それでも商人の若狭屋は先代のよしみで、どんなものでも1分で買い上げた。

今朝も矩随が若駒を彫って持ち込んできた。眠気のために足1本を彫り落としてしまったという。若狭屋は呆れて言う。「小僧達はこれを見て笑っている。下手な作品を作るくらいなら死んだ方がイイ。これからは縁を切るから5両の金を渡す。今後はここの敷居を二度とまたぐではない。死ぬなら吾妻橋から身を投げよ。」

矩随は家に帰り伊勢詣りに行くからと嘘をついたが、母はお見通しで、若狭屋の一件を聞き出した。母親は「死にたければ死んでも良いが、最期に私に形見を彫って欲しい」と観音様を所望した。矩随は井戸の水を浴び、仕事場に入った。隣では母親が神頼みの念仏を唱えていた。4日目の朝、出来た観音を母親に渡した。感心して見とれ「もう一度若狭屋さんに行って30両びた一文まからないからと見せておいで。それでも、まけろと言ったら好きな所に行っても良いよ。」と息子に言い聞かせた。「その前に、お水を一杯ちょうだい。後の半分をお前もお飲み。ではお行き。」矩随が若狭屋から30両を持って帰ると母は自害している。

浜野矩随はその後、父親に優るとも劣らぬ名彫師になったという噺である。

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8月16日を考える

今年の戦後70年談話(Statement)の内容と表現のことが話題となっている。アメリカの家族にもこの談話を読むように伝えた。筆者もわが国の戦前の帝国主義と植民地支配が近隣諸国に与えた影響を総理大臣がいかに総括するかに関心を持っていた。日本語と英語の文章を何度も読み返してみた。文章としては官僚らが良く練って作成されたことが伺われる。長い談話であるだけに、冗長さによって内容が損なわれているのが気になる。「誰が、いつ、どこで,なにを、なんのために」日本を戦争へ導いたのかが不明なのである。

かつての大東亜共栄圏、つまり帝国主義や植民地主義の発想に対する痛烈な反省と悔悟は、時代が変遷しても続けることが大事だと思うのである。「歴史は繰り返す」とは幾たび云われてきたことである。「未来志向の戦略的互恵関係とは、既存の現実の自体が如何なるものか顧みることから始まる」のではないかと思うのである。われわれも近隣の国々の人々も今回の70年談話に反省と悔い改めを期待したはずである。

大戦では310万の日本人が亡くなったと報道されている。各地に忠霊碑も建てられた。その数12,000箇所といわれる。だが、半数は廃墟になっているという。そうした中で、一人で忠霊碑を守る人が紹介されていた。「馬鹿でなければこんなことはできない」と、この墓守は述懐する。黙々と芝を刈り庭を手入れする後ろ姿に犠牲者への思いが伝わってくる。

今年は一国会議員が質問中に「八紘一宇」の標語を引用して注目された。広辞苑には「太平洋戦争期におけるわが国の海外進出を正当化するために用いた標語」とある。「八紘」とは世界、「一宇」とは一つの家の屋根という意味であるとWikipediaにある。しばし考えてみると、「安全保障」や「集団的自衛権」の考え方の遠因には、東亜の共同防衛や共存共栄があるように思える。

「八紘一宇」の呪縛から、われわれはもはや解放されていると考えるべきではない。「八紘一宇」をデマゴーグときめてかかるのではなく、その底に潜む論理はなになのかを反芻することが大事だと思うのである。そのことこそが、「謝罪を続ける宿命を背負っている」ということである。

131106962024913412628_DSC_0215  稚内市 氷雪の門IMG_0201 糸満市 平和記念公園

8月15日を考える

私は1945年8月15日をなにも覚えていない。かつて母親がこの年の8月に樺太の大泊から引揚げ船で稚内に上陸し、親戚を頼って美幌に落ち着いたことを教えられた。弟は1歳、筆者は2歳7か月、兄は4歳であった。父親は抑留され、数年後に帰ってきた。裸一貫となり家族5人の命だけが残った。

美幌では製材所の長屋があてがわれ、生活が始まった。酷い造りの家屋である。誰もが味わった惨めな引揚げ生活である。特に食料難である。母は3人の子供を連れて農作業をやった。食べ物が少なく、一家心中も考えたことがあったと後々述懐していた。それから馬鈴薯、とうきび、カボチャ、、なんでも作ったという。真冬の最中、とぼとぼ歩いて街の銭湯に通った。帰り道、手ぬぐいはカチカチに凍り付いた。

母の話で怖ろしかったのは、樺太からの引揚げ船上でのことである。瀕死の状態の乳飲み子を抱いた一人の母親がその子を海へを投げ入れたのを目撃したというのである。この話を聞いたのは我々兄弟が成人してからである。母親を前にして「俺たちも投げ込まれなくて良かったな、、、」と冗談気味に言い交わした。

「戦後70年 安倍首相談話の全文」(Statement by Prime Minister Shinzo Abe)を読んでいる。「満州事変、国際連盟からの脱退、、、進むべき進路を誤り、戦争への道を進んでいった。そして70年前、日本は敗戦した。」 誰が加害者で誰が被害者となったのか、、為政者の責任は大きい。

国策として送り込まれた満蒙開拓団の悲惨な逃避行に比べて、樺太からの引揚げはまだましな姿だったかもしれない。だが、船上での一人の女性の苦悩や農作業の母親の労苦を偲ぶとき、そこに深い情愛を感ぜずにはおれない。

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ウィスコンシンで会った人々 その74 葬式噺

貧乏長屋の住人から疎んじられていた卯之助、あだ名は「らくだ」という。あるとき、熊五郎という「らくだ」の兄貴分が訪ねてみると、フグにあたったようで死んでいる。兄貴分は「らくだ」の葬式を出してやろうと考える。そこに屑屋の久六がとおりかかる。熊五郎は、「らくだ」の持物を方付けように久六に依頼するのだが、ろくなものがないので久六は渋る。熊五郎にある考えが浮かぶ。

久六に対して、月番のところへいって長屋の住人から香典を集めるように、と伝える。月番は「らくだが死んだか!」といって喜び、香典を集めを了承して、赤飯を炊こうする。戻ってきた久六に対して、長屋の大家のところへも行って酒と煮染めを持ってくるように伝えろ、と指示する。大家は大の吝嗇、「らくだ」の店賃が大分貯まっているのに料理なんぞ出してたまるものかと剣もほろろに断る。それを熊五郎に伝えた久六、さらに熊五郎から「死骸の置き場に困っている。大家のところに運んできて、”死人(しびと)にかんかん”踊りをさせる」と脅かす。大家は驚かない。本当に死骸が運び込まれると、慌てて酒と料理を届けるという。

さらに久六は八百屋に使いに出させられる。死骸をいれる棺桶代わりに漬け物樽を借りてこいといわれる。八百屋もまた「らくだ」に散々苦しめられていたので、「そうか、フグもよく当ててくれたか、、」といって取り合わない。そこで”死人にかんかん踊り”の話をすると、驚いて「わかった、わかった、何個でも持って行け!」。

香典、酒や肴が集まったところで熊五郎は久六にかけつけ三杯と酒をすすめる。この久六、実は大酒呑み。とうとう酔っぱらって性格が豹変する。そして、酒がなくなると熊五郎に「酒屋にいって酒をもらってこい、もしいやだというなら”死人にかんかん踊り”をやらせるといえ、、」と脅す。攻守ところが変わるのが可笑しい。

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ウィスコンシンで会った人々 その73 夫婦の情愛噺

山手線田町と品川の間に新しい駅ができる。その名前がいま話題となっている。「芝浜」が一つの候補。新品川などという洒落にもならない駅名はご免だ。車内放送で「次は芝浜、芝浜、財布を忘れないように」と流れると面白い。JR東日本の社長は粋か無粋かが注目である。

芝は金杉に住む魚屋の勝五郎。良い腕をしているのだが怠け者。年越しも近いというのに、相変わらず仕事を休み、ササを食らって寝ているばかり。女房の方はいても立ってもいられなくなり、真夜中に亭主をたたき起こして、このままじゃ年も越せないから魚河岸へ仕入れに行ってくれとせっつく。

勝五郎はしかたなく、芝の浜に出て時間をつぶすことにする。海岸でぼんやりとたばこをふかし、暗い沖合いを眺めているうち、だんだん夜が明けてくる。波打ち際に手を入れると、ボロボロの財布に触る。指で中をさぐると確かに金貨。二分金で四十二両。

こうなると、商売どころではない。当分は遊んで暮らせると、家にとって返し、あっけにとられる女房の尻をたたいて、酒を買ってこさせ、友達とドンチャン騒ぎ。そのまま酔いつぶれて寝てしまう。

不意に女房が起こすので目を覚ます。
女房 「年を越せないから仕入れに行ってくれ」
勝五郎 「金は四十二両もあるじゃねえか」
女房  「どこにそんな金があるの。おまえさん、夢でも見てたんだよ」
勝五郎  「おかしいな、金を拾ったのは夢、酒を飲んで大騒ぎしたのは本当か、、、」

今度はさすがに勝五郎、自分が情けなくなり、それから酒はきっぱりやめて仕事に精を出す。

それから三年。すっかり改心して商売に励んだ勝五郎。得意先もつき、小さいながら店も構えている。大晦日、片付けも全部済まして夫婦水入らずという時、女房が見てもらいたいものがあると出したのは紛れもない、あの時の四十二両の財布だ。

サゲは是非ご自身で確かめて貰いたい。酒と夢と夫婦の情愛が秀逸である。

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ウィスコンシンで会った人々 その72 夢噺

筆者も毎晩のように夢をみる。現実の体験のようなことが拡がる。観念や心像だが、後悔や願望も現れるようである。去る2015年7月17日に夢が元で話がこじれる笑いを取り上げた。名奉行?までもが夢の話を聞きたいというものである。▽ウィスコンシンで会った人々 その49 名奉行噺 http://naritas.jp/wp1/?p=1992

夢の分析は古代バビロニアにもあったというから驚きである。夢は何かを象徴しているとされる。その元は経験である。従って、夢を分析すれば神経症の治療にも役立つとしたのがユング(Carl Yung)である。

落語に戻る。落語に出てくる夢噺には、多くの場合現実に起こりにくい事象を夢の中で再現しようとする願望が現れている。それは、いつも尻に敷かれている旦那がなんとかして、女房を見返したいとか、酒癖が悪くそれがもとで身を持ち崩すが、たまたま品川の海辺で拾った金で酒宴を開き、目覚めたとき女房から「夢でもみたんじゃないか、、」といわれ、それから立ち直って懸命に働き始める。有名な「芝浜」の一節である。

眠りながら鼻水の提灯をつくっていて、女房に起こされ、「お前さん、いったいどんな夢を見ていたの?」と夢の話をせがまれる旦那。これが「天狗裁き」。夢の中でうなされていた盲目の旦那が「あああ、夢か。。。お竹、おらあもう信心はやめるぜ、、」「どうして?」「目が見えるって妙なものだ。寝ているうちだけ、よぉーく見える」という「景清」。

「欲深き人の心と降る雪は、積もるにつけて道を忘るる」という狂歌を枕にして始まるのが、「夢金」という演目である。船頭の熊蔵が駆け落ちをしようとした扇屋という商家の女を送り届けると、旦那が喜んで五十両の紙包み二つをお礼として差し出す。熊蔵は紙包みを両手で強く握りしめる。「ああ、痛え、、」すべては夢で、目が覚めた熊蔵は自分の大事なモノを強く握りしめていた。

4d648716-2-1 94dcf7da3a1bb401b781cf50aefed21ccarl_jung_22 Carl Gustav Yung

ウィスコンシンで会った人々 その71 道楽噺

伊勢屋の若旦那、吉原通いにはまっている。怖いのは親父。湯屋に出掛け帰り際にばったり出会ったのが、貸本屋の善公である。「善公、おまえ他人の声色が上手かったな、わたしの代わりをしておくれ」。若旦那は善公に代役を押し付けて吉原に出掛けようとする。

善公、駄賃として袴をくれるというので断りきれない。言われるままに若旦那の部屋に入り代役を引き受ける。一階に住む大旦那、「おい、倅、今朝がた干物をもらったはすだ。どこに置いたんだ?」善公としてもそんな細かい話は聞いていない。「干物箱でしょう。」「うちに干物箱なんてない。」そんなやりとりで何とか大旦那の追及をかわす。

ひと安心した善公は、若旦那が花魁から受取った手紙を見つける。それを元に若旦那から金をせびろうと考える。ところが手紙に書かれていたのは、善公への悪口雑言である。善公がふんどしを忘れ、その匂いが四方八方までひろがるというのだ。そこで役所がDDTを撒くというのを読んで、「ひでえな、馬鹿だ、カスだなんて。花魁、ひでえよ!!」、大声を張り上げるので、大旦那にすっかりバレてしまる。

そこへ戻ってきたのが若旦那。窓際で声を掛ける。
若旦那 「おい、善公、紙入れ(財布)、紙入れ、忘れちまった、投げてくんな!」
親父 「バカヤロー」
若旦那 「おっ、善公うめえもんだ。親父にそっくりだ」
「干物箱」という演目である。

「唐茄子屋政談」の主人公も道楽で身を持ち崩し苦労する。商家の若旦那、徳兵衛は、道楽が過ぎて勘当され、親戚を頼っても相手にされず、友人からも見放され、吾妻橋から身を投げようとする。そこへ若旦那の叔父が偶然通りかかり、若旦那を押しとどめる。叔父の家で食事をあてがわれた若旦那は、「心を入れ替え、何でも叔父さんの言うことを聞く」と約束する。

翌朝、若旦那は叔父に起こされ、「お前は今日から俺の商売を手伝え。天秤棒をかつぐのだ」と命じられる。叔父の職業は唐茄子、カボチャの行商人であった。若旦那はひとりで慣れない重い荷物をかついで歩くうち転び、カボチャをばらまいてしまい、思わず「人殺しィ!」と叫ぶ。若旦那の叫び声を聞きつけた人々が集まってくる。若旦那の身の上話を聞いた人々は同情し、カボチャを買う。カボチャは残り2個になる。

通りでは、ほかの行商人たちが売り声を張り上げている。若旦那も負けじと声を出そうとするが、勇気が出ない。人気のない田んぼ道で売り声の練習をしているうち、そこが花街の近所であることに気づき、遊女との甘い思い出に浸るうち、売り声が薄墨のようにか細くなるという噺である。

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ウィスコンシンで会った人々 その70 「舞台番」に「湯屋番」噺 

「舞台番」や「湯屋番」には、うつけ者、お目出度い者が登場するというのが一般である。決して根性が悪いのではないのだが、一本調子なのである。そこがまた可笑しい。今は、舞台小屋も銭湯も数少なくなったが、江戸の情緒はこうした場所に漂う。

「蛙茶番」という一席である。とある商店で、店内に舞台をしつらえ、店員や出入りの商人とで『天竺徳兵衛噺』を演じることになる。くじ引きで配役を決まる。当日になり、巨大なガマガエル役の伊勢屋の若旦那が、仮病を使って休んでしまった。そのため芝居の幕を上げることができず、舞台上で一切を取り仕切る役の頭取、番頭は困り果てる。番頭は丁稚の定吉を代役に仕立てることにする。定吉からは安くない駄賃と休暇を要求される。

番頭は、舞台袖で客の騒ぎをしずめる役の「舞台番」を担当するはずの建具屋の半公がいつまで待ってもやって来ないことに気づく。定吉が迎えに行くと、半公は怒っていて「いい役をやらせてもらえると思ったら、こんな裏方なんかやっちゃいれない」と定吉にこぼす。引き返してきた定吉の報告を聞いた番頭は、「半公が岡惚れしている小間物屋の娘、みい坊の名を使って半次を釣れ。『素人役者なんかより、半ちゃんの粋な舞台番を観たいわ』と言っていた、と半公に吹き込め」と半公のところに再度行かせる。それを聞いた半公はすっかりポーッとして舞台番で登場するが、とんでもないものを客に見せてしまう。

次に「湯屋番」である。吉原通いに夢中になって勘当され、出入りの大工、熊五郎宅の二階に居候中の若旦那。しかし、まったく働かずに遊んでばかりいるので、居候先の評判はすこぶる悪い。とうとうかみさんと口論になり、困った棟梁は若旦那にどこかへ奉公に行くように薦めた。
「奉公ですか? 良いですねぇ、ご飯がいっぱい食べられる」
『それでは、家で殆ど食べさせてないように聞こえるじゃないですか』と文句を言う熊五郎。
「もちろん頂いてますよ、『死なない呪い』程度にね」

何でも、熊五郎の外出中にご飯を食べようとすると、必ず御かみさんが傍に張り付き、給仕と称して嫌がらせをすると言うのだ。
「お櫃のふたを開けるとさ、おひつを濡れたしゃもじでピタピタと叩き、平たくなった上っ面をすっと削いで茶碗に乗せるんだよ。見かけは一杯だよ、だけど中身はガランドウだ、お茶をかけたらすぐ終わり!」

それじゃあ可愛そうだ。何とかすると言い、改めて奉公の話をすると「日本橋に奴湯っていう銭湯があるんだ。あそこで奉公人を募集してるって話だから、行ってみようと思うんだ」

銭湯といえば湯屋番。若旦那は喜び勇んででかけるのだが、そこでの仕事というのは町内での薪集め。火事場などから古材を買ってくるのである。江戸の華といえば火事と喧嘩。木造の長屋が多かった江戸では薪は不自由しなかったようだ。

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ウィスコンシンで会った人々 その69 「家見舞い」噺 

ある二人組男。この兄貴分が所帯をもち家を建てた。その引越祝いにと、二人の男は水瓶を贈ろうと考える。だが、銭を持たない二人。いろいろ考え、古道具屋なら安いものがあるのではと歩き回る。当然そんな水瓶があるわけがない。

困っていると、ある古道具屋の主人がこの瓶なら金はいらないという。二人は喜ぶが、なぜかその瓶には水がいっぱい張ってある。早速、差し担いで運ぼうとする。

道具屋 「あんた方、それを何に使いなさる?」
二人組男 「水瓶だよ」
道具屋 「そりゃいけねえ。見たらわかりそうなもんだ。おまえさん方、毎朝あれにまたがるだろう」
二人組男 「ん……? 毎朝またがる? 」

よくよく見ると、果たしてそれは紛れもなく、もとの肥瓶であった。しかし、タダという言葉には勝てず、二人はその瓶を引き取る。そんなわけで瓶を手に入れた二人、そのまま渡したらバレるであろうから、まず瓶に水を張り、湯屋に行ってさっぱりして兄イの新宅に瓶を持っていく。

何も知らず、もらった兄イは大喜びし、お礼にと酒を振る舞いご馳走をしてくれる。ご飯に焼き海苔、おしたし、香の物、湯豆腐。うめえ、うめえと食っているうちに、ふと気づいて二人、腰が抜けた。出される料理はどれもその瓶から汲んだ水であつらえられている。

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ウィスコンシンで会った人々 その68 講中噺 

リーダーを中心に今も昔も団体旅行は盛んである。古くは伊勢詣や熊野詣、金比羅詣りなど信心深い人々。先達というまとめ役を先頭にして何日もかけて無病息災を祈って出掛けた。

相模国、神奈川県の名山に大山がある。丹沢の山々とともに丹沢大山国定公園に属し、日本三百名山や関東百名山の一つで美しい姿をみせている。大山は江戸時代に山岳信仰で盛んになった大山詣りで知られている。江戸からは先達が中心となって講中という相互扶助組織の男達が団体で山に登った。

大山の山頂には大きな石を御神体として祀った阿夫利神社の上社があり、中腹に阿夫利神社下社、大山寺が建っている。大山は別名を「阿夫利山」、「雨降り山」ともいわれる。阿夫利神社には雨乞いの神を祀られている。大山はもともと女人禁制。大山詣りというのは表向きで、大山詣りの後には男たちの楽しみがあった。男だけの大山講になっていた。

講中噺の古典落語の代表が「大山詣り」。ホラ吹きの熊による講中の金沢八景沖における水難遭難報告から、女房連中が一斉に剃髪して尼になるという噺である。途中のエピソードは飛ばすが、主人公のホラ熊が大山詣りから長屋に一人で帰ってくる。そして残された女房達に男連中は全員溺れて死んだと報告する。そして自分は、僧侶になって菩提を弔うためといって坊主頭を見せる。それを見た女達は遭難を信じてしまう。ホラ熊に唆されて尼さんになろうとして剃髪する。

そうとは知らない講中の一行。帰ってみると、長屋中「忌中」の札が張ってある。そして百万遍が聞こえてくる。

ホラ熊 「さ〜ぁ、みなさん、死んで間もないから、亡者が入口あたりで騒いでいる、しっかりお念仏を唱えてくださいよ。」
女房達 「あら、いやだ。うちの旦那だわ。」
男達 「誰がこんな事を。熊の野郎か。お前は決め式で坊主になったのだろう。」
ホラ熊 「ワラジを履いている内は旅の最中だ。腹を立てたら二分ずつ出しな。」
男達 「う〜ぅ。先達さ〜ぁん、、、?」
先達 「これは目出度い事だ。」
男達 「あんたのかみさんも坊主なんだぞ?どこが目出度いんだ?」
先達 「お山は晴天、家へ帰ればみんなが坊主、お毛が(怪我)なくってお目出度い。」

A1903450-1_im  阿夫利神社118925619777716113779 相模の大山

ウィスコンシンで会った人々 その67 吝嗇噺

以前、「ドケチ噺」を取り上げた。ケチは吝嗇ともいう。広辞苑には「吝嗇」を過度にもの惜しみをすることとある。度を越した節約ぶり、ケチのことである。かつては、落語では「三ぼう」という言葉があった。どんな観客にも不快を催させない、といわれそれぞれの語尾からとられた。

まずは「泥棒」。落語の中ではどんなに悪く言っても、自ら名乗りでて怒鳴り込んでくる泥棒はいない。次に「けちん坊」。わざわざ金を出して噺を聴き笑いに来る客にケチな人はいない。最後は「つんぼう」。耳の聞こえない者は落語を聴きにこない。今では差別語とされるが、落語の噺なのでお許しをいただこう。

▽吝嗇にまつわる小咄がいろいろとある。ケチの人間を俗に「六日知らず」という。なぜなら一般に日付を勘定するときには、「1日、2日、、」と指を折っていくが、吝嗇家は6日目を勘定しようとすると、一度握った指を開くのが惜しくなってしまうそうだ。

▽ある男の向かい側の家が火事で丸焼けになった。それを知った男は、妻に焼け跡から種火を取って来させようとした。当然、相手は怒る。男はふてくされ、「今度こっちが火事になっても、火の粉もやらん」

▽ある大店の旦那。10人の使用人を雇っていたが、節約のために5人にする。それでも仕事に余裕があるので、その5人も解雇し、夫婦だけで経営を続ける。主人は自分ひとりでも仕事が間に合う、というので妻と離縁し、最後には自分自身もいらない、と自殺してしまう。

▽ケチの親子が散歩をしていると、父親が誤って川に落ちてしまう。泳げない息子は通行人に助けを求めるが、ケチの通行人は「助けはお代次第」という。値段交渉になり、2千円、3千円、4千円と値が釣り上がっていく。沈みかけている父親が叫んでいわく「もう出すな! それ以上出すなら、俺は潜る(または、「それ以上出すぐらいなら、もう死んでしまう」)」

▽店の内壁に釘を打つことになり、主人は丁稚に、隣家からカナヅチを借りてくるよう命じる。丁稚は手ぶらで帰ってきた。隣家の主に「打つのは竹の釘か、金釘か」と聞かれ、丁稚が金釘だ、と答えると、「金と金(金属同士)がぶつかるとカナヅチが擦り減る」と言って貸してくれなかったという。主人は隣人のケチぶりにあきれ果てて、「あんな奴からもう借りるな。うちのカナヅチを使え。」

▽男は「1本の扇子を10年もたせる方法」を考案した、と言い出す。半分だけ広げて5年あおぎ、次の5年でその半分をたたんで、残りの半分を広げて使う、というものだ。男は「始末はしてもケチはしてはいかん」と評し、「わしなら孫子の代まで伝えてみせる。扇子は動かさんと、顔の方を動かす」。

▽うなぎ屋の隣に住んでいる男。飯時になると、うなぎ屋から流れてくるかば焼きを焼く匂いをおかずにして飯を食べていた。それを知ったうなぎ屋が、月末に「匂いは客寄せに使こうてるさかい、代金を支払え」と言って家に乗り込んでくる。

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ウィスコンシンで会った人々 その66 死人噺

猛暑の時候。少しは涼しくなる話題といきたい。以前「片棒」という演目を紹介した。赤にし屋ケチ兵衛はある時三人の息子のうち一人に店の身代を譲ろうと考え、三人の金銭感覚を試すために自分が死んだらどんな葬式をだしてくれるかを話させる、という演目であった。自分が死んで入れられている棺桶の片棒を自分が担ごう、と申し出るケチの噺である。

長屋に住むのが卯之助。あだ名を「らくだ」という男。そのらくだの長屋に、ある日兄貴分の熊五郎がやってくる。返事がないので入ってみると、何とらくだが死んでいる。フグにあたったらしい。兄弟分の葬儀を出してやりたいが、熊五郎だが金がない。考え込んでいると、上手い具合に屑屋の久六がやってきた。早速、久六を呼んで室内の物を引き取ってもらおうとするが、それまで久六はらくだの家財道具はガラクタばかりを引き取らされたらしく断られる。ますます困る熊五郎。

「月番を呼んでこい」と久六を月番の所に行かせ、長屋から香典を集めてくるよう言いつけさせるの。久六は断るが、仕事道具を取られ、しぶしぶ月番の所へ。「らくだが死んだって? フグもうまくあてやがったか!」と喜ぶ月番。香典の申し出には「一度も祝儀を出してもらったことはない」と断るが、結局「赤飯を炊く代わりに香典を出すよう言って集めてくる」と了承した。

安心した久六だが、らくだ宅に戻ると今度は大家の所に通夜に出す酒と料理を届けさせるよう命令される。ところが、大家は有名なドケチ。そのことを話すと、熊五郎は「断ったらこう言えばいい」と秘策を授ける。死骸を文楽人形のように動かし、久六に歌わせて「かんかんのう」と踊らせる。本当にやると思っていなかった大家、縮み上がってしまい、酒と料理を出すと約束する。

可哀想に、またもや久六は八百屋の所へ「棺桶代わりに使うから、漬物樽を借りてこい」と言い渡される。しぶしぶ行くとやはり八百屋はらくだの死を喜び、申し入れは断わる。久六が「かんかんのう」の話をすると「やってみろ」と言われる。「つい今しがた大家の所で実演してきたばかりだ」と言うと「何個でもいいから持っていけー!」。

これで葬式の準備が整った。久六がらくだ宅に戻ると、大家の所から酒と料理が届いている。熊五郎に勧められ、しぶしぶ酒を飲んだ久六。ところが、久六という男、普段は大人しいが実はものすごい酒乱。呑んでいるうちに久六の性格が豹変する。もう仕事に行ったらと言う熊五郎に暴言を吐き始める。これで立場は逆転、酒が無くなったと半次が言うと、「酒屋へ行ってもらってこい! 断ったらかんかんのうを踊らせてやると言え!!」

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ウィスコンシンで会った人々 その65 親孝行噺

越後の小さな松山村に、18年間毎日両親の墓参りを欠かさないという百姓がいた。名前は正助。それがお上に聞こえ、褒美を貰うことになる。無欲な正助は、地頭が申し出る褒美に全く関心を示さない。「金を貰えばそれを使って働かなくなる」とか、「土地をもらっても小作人を雇わなければならない」、「新しい服をもらっても着る機会が無い」、、といって断る。地頭も正助の真面目さに少々困惑する。そして正助に云う。「それでは、お前が欲しいものを必ずかなえてやろう」

正助はそこで「18年前に死んだ父親に、夢でもいいからもう一度だけ会いたい」という。困った地頭、思案して「父親は何歳で無くなったのか」ときく。45歳であることがわかる。そして正助も45歳であった。二人は瓜二つの顔をしていたことを聞き出す。しめた、とばかり地頭は家来に鏡を持ってこさせる。松山村には鏡というものがなかった。

正助は鏡を見て「おとっつあん、、、」と感涙にむせぶ。まだ鏡というものを知らない。それを大事に持ち帰り、納屋の古葛籠中にしまっておく。それからは、毎日納屋に通い、とっつあんに会うのである。正助が蔵に出入りするのを不思議がった女房のお光が、正助のいない間、納屋に入って鏡を見つける。それを見て驚く。「何だぁ、この女は?」写った自分を夫の愛人と勘違いし、お光は嫉妬に狂って泣きだす。そして帰ってきた正助とつかみ合いの喧嘩となる。

そこに通りかかった隣村の尼。二人の話に割って入り、二人の言い分をきいてから、「その女に会ってみるべ、、」ということになる。鏡をみると二人にいう。「正さん、お光さん、喧嘩しちゃいかん、お前さんらが喧嘩するんで、この女きまりが悪いって尼さんになって詫びている、、、、」
この演目は「松山鏡」。文楽や志ん生名人の話芸は聞き応えがある。

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ウィスコンシンで会った人々 その64 地噺と「塩原多助一代記」

この落語シリーズの46で「鰍沢」という地噺を取り上げた。http://naritas.jp/wp1/?p=1969
地噺は笑いを誘うというよりは、語りで聞かせようという落語である。今回は、五代目名人古今亭志ん生が演じる「塩原多助一代記」である。演目のようにかなり長大なストーリーとなっている。落語でしばしば演じられるのは、「多助序」と「青との別れ」である。

塩原多助は実在の人物で、後に「塩原太助」となり江戸で冨をなした人といわれる。そのためか、歌舞伎や浪花節の演目としても脚色されたようである。以下、「多助序」と「青との別れ」である。
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裕福な塩原角右衛門が亡くなる。彼には後妻のお亀がいた。その腹違いの息子、多助が将来家を継ぐはずなのだがお亀には邪魔になり、色と欲に目がくらんで愛人、原丹治と一緒に多助を亡き者にしようと画策する。

ある夜、お亀は多助に隣の元村まで油を届けるように頼む。その途中で多助を殺す手はずをする。多助は愛馬、青を曳いて出掛ける。ところが隣村との境にくると青がどうしても先へと進もうとしない。なんとしても青は動かない。困っているとそこに朋輩の円治郎が通りかかる。事情をきいた円治郎が代わって青を曳いて隣村に向かう。そしての元村の庚申塚で円治郎は丹治にめった切りにされる。青は逃げ帰る。

多助が家に戻るとお亀は驚く。そして多助が円治郎を殺したに違いないとでっち上げる。馬の青が丹治を見ると激しくい鳴くのを多助は見て、丹治が円治郎を殺したことを確信する。多助はもはや塩原家に住まうことは困難だと判断し青と別れ江戸に向かう。

落語は笑うだけでない。会話や仕草といった通常の演出を避けるのが地噺。叙物語をしみじみ聴くことにも楽しみがあると思うのである。「多助序」と「青との別れ」はそれを感じさせてくれる。

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ウィスコンシンで会った人々 その63 富くじ噺

「富久」という演目は古き良き江戸の風物や庶民の姿を描いている。江戸の華といわれた火事と富くじが舞台である。富くじは、寺社にとっては大切な収入源。あちこちに広がって行ったため、江戸幕府は禁止令を出したほどだ。だが寺社普請のための富くじが再開される。幽霊話にも富くじや博打がでてくる。今も昔も宝くじは廃れることがない。

幇間の久蔵。人間は実直だが大酒のみが玉に瑕。酒の上での失敗で仕事にあぶれている。幇間とは男芸者。年の暮れ、久蔵は深川八幡の富札をなけなしの一分で買う。深川八幡は富岡八幡ともいわれる。札は「松の百十番」。一番富に当たれば千両、二番富でも五百両。ところでWikipediaによれば、一両は今の6〜10万円、一分は1〜4万円といわれる。

久蔵は長屋の大神宮の神棚に札をしまい、「二番富でも当たるように」と柏手をうつ。とある夜更けにまた半鐘の音。今度は久蔵の家がある浅草方向というのだ。久蔵急いで長屋に戻ると既に遅く、家は丸焼け。仕方なく出入り商人の居候になる。

数日後、深川八幡の境内を通ると、ちょうど富くじの抽選。「オレも一枚買ったっけ」と思い出したが、あの札も火事で焼けちまったと、諦め半分で人混みの興奮を見ている。
役人 「一番、松の百十番」
久蔵 「あ、当たったッ」

久蔵は卒倒した。今すぐ金をもらうと二割引かれるが、そんなことはどうでもいい。「冨札をお出し」と役人からせっつかれる。
久蔵  「札は………焼けちまってないッ」

「水屋の富」という演目も富くじが主役である。そして江戸時代に流行った「水屋」が主人公である。玉川上水とか神田上水がつくられたのは江戸時代。これによって水が曳かれた。それでも桶に水を入れて担いで売る「水屋」が多かったといわれる。坂の多いのが江戸の町。重くて安い料金だが、お得意さんが待っているから一日も休めない。

ある水屋が、大事な金をはたいて富くじを買う。それが、幸運にも千両が当たる。「水屋から足が洗える」と大喜びで、手数料の二割を引かれた八百両を持ち帰る。しかし、水屋はお得意さんが待っているので、代わりが見つかるまで辞めることができない。

お宝の八百両の隠し場所にも水屋は困る。持ち歩くわけにもいかず、悩んだ挙句、ボロ布でくるんで縁の下に隠す。やれ安心と商売に出てみるが、周りがすべて泥棒に見える。商売もそこそこに家に戻って、縁の下のお宝を確かめて安心して寝るのだが、今度は泥棒が夢に現れて殺される夢ばかり見る。毎日これの繰り返しで、水屋はもうフラフラ。

水屋が毎晩縁の下を確かめるのを見ていたのが隣の遊び人。何かあるなと縁の下を探して、お宝を見つけそっくり盗んでしまう。戻ってきた水屋、縁の下のお宝が無くなっている。そして一言、「これで苦労が無くなった」。

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ウィスコンシンで会った人々 その62 習い事噺

人は,余裕がでてくると何か習い事をしたくなる。筆者もそうである。そこで始めたのは囲碁である。結局はものにならないということが多い。どうも真剣味が足りないというところらしい。昇段の決勝戦で何度も敗れた。それ以来、昇段ということを気にしないで、無心に打つことを心掛けている。

習い事を始める男を可笑しく取り上げた演目が「あくび指南」であり「寝床」である。今でいうカルチャーセンターに通う者が主人公である。江戸時代、茶の湯、長唄、常磐津、新内などを習うことが粋とされたようである。「欠伸」の仕方も教えるという長閑な時代だったのだろう。

「あくび指南」だが、町内に変わった看板がかけられる。黒々と「あくび指南所」とある。妙齢の女性が掃き掃除をしている。この女が教えてくれるのだろうと、若い衆はすっかり舞い上がる。いろいろな稽古処があるのだが、あくびの指南は珍しい。金を払って習う指南所なので、なにか有るに違いないと、好奇心の旺盛な男が友達を誘ってでかける。

男達は妙齢の女性が応対してくれると出掛けると、そこに指南役の旦那が現れる。名前は「長息災欠伸」。男たちはガッカリする。指南役がいうには、普段やっているあくびは、「駄あくび」、一文の値打ちもないと云う。そして「あくびという人さまに、失礼なものを風流な芸事にするところに趣があるのだ」と講釈する。男どもには、なんだかわからない。そして夏のあくびの指南が始まる。それを眺めていた同輩が欠伸をし始める。

「寝床」は大店の旦那が主人公である。義太夫を始めた旦那、どうしても習い事の成果を披露したくて、人前で騙りたくなる。店の者達は、旦那のだみ声や唄いに辟易している。最初のお披露目は、お付き合いもあって、近所の長屋連中が仕方なしにやってくる。そしておべんちゃらを振っては、「良かった、良かった、またやってくれ、、」という。それに気をよくした旦那、二回目の講談会をやろうとする。

丁稚が旦那の指示で触れ回る。だが誰一人として参加したいという者はでてこない。「旦那の義太夫をきくと義太熱にやられる」、「酒を飲んで聞かないと、神経がやられる」なんていうのもでてくる。「風邪をひいた」、「成田山へお詣りの約束がある」、「かみさんが臨月だ」、「法事に出す生揚げやがんもどきをたくさん発注されて忙しい」といった口上を述べては断る。

そこで旦那、「今回は店の者に義太夫をきかせる」と宣言する。丁稚や小僧達はこれまた「飲み過ぎた」、「眼から涙が出てとまらない」といって全員仮病をつかってでようとしない。旦那は怒って店の者は全員クビだ、長屋の住人には「店立て」、強制退去という乱暴なことをいいだす。追い出されては大変とばかり、長屋の連中は義太夫を聞きにくることになる。旦那はそれが気にくわない。そして義太夫が開始する。だが、だが神経を麻痺させようとして酒を飲んできた長屋一同、途中から居眠りを始める。

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ウィスコンシンで会った人々  その61 人情噺と「妾馬」

お馴染み八五郎が登場する演目に「妾馬」がある。別題は「八五郎出世」。人情噺にいれてよい内容で、江戸時代の庶民と殿様の生活振りも伺い知れる佳作である。

道楽男の八五郎。妹に器量よしのお鶴がいる。このお鶴は、お殿様に見染められて奥に入る。やがて男の子を産み「お鶴の方」と呼ばれるようになる。八五郎は、殿様に招かれて出掛ける。そのとき、長屋の大家に「言葉の頭に『お』の字をつけ、語尾には『奉る』を付けろ」といわれる。お世取りの意味が解らず鳥の一種か何かだと思い込んでしまう。

殿様の前で、八五郎が自分の名前に『お』の字を付けたり、『奉る』を付けるので、殿様さっぱりわからない。そこで朋友の前で使う言葉づかいにするようにと云われる。「殿様、話がわかる、、」といって八五郎の無礼講が始まる。「八五郎、そちはササを食するか?」そして、酒肴がどっさり出てくる。すっかりいい気持ちになって、ふと見ると殿様の隣に妹のお鶴が着飾って座っている。

八五郎 「お鶴、綺麗だな、赤ん坊も可愛いな、お袋が喜んで言っていたぜ。初孫なのでおしめを洗ってやりたいが身分も違うのでそれもかなわないと」
八五郎 「早く赤ん坊を抱けるような時代がくればええな、、、とお袋がいっていたぜ、」
八五郎 「お鶴、、、子供ができたからと自惚れてはいけないぞ、」

この下りが「妾馬」の最高潮の場面である。八五郎は「話が湿っぽくなったな、、」といってざっかけない自分の話題にひき戻す。「古典落語は単に笑わすのじゃなくて泣かすことも大事なのだ。」と誰かが言っている。初孫を見たいお袋の姿を演者はしみじみと語る。まるで新しい芸の境地を切り開くような落語である。

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ウィスコンシンで会った人々 その60 ドケチ噺

ドケチとかしみったれ、というのは落語の定番の話題になる。ケチは「吝嗇」ともいう。

吝嗇を笑う「味噌蔵」を取り上げる。
独り身の味噌屋の主人ケチ兵衛。嫁をもらうと子供ができれて経費がかかってしかたがないといまだに独身。心配した親類一同が、どうしても嫁を持たないなら、今後一切付き合いを断る、と脅したので、泣く泣く嫁をもらう。

やがて嫁さんは妊娠。臨月が来たらかみさんを実家に押しつけてしまえばいい。そうすれば費用はみなあちら持ちだ。ケチ兵衛はやっと一安心する。無事男子を安産の知らせが届いたので、ケチ兵衛は小僧の定吉をお供に出かけることにする。旦那が出かけると、奉公人一同、このチャンスにと、のみ放題食い放題、日ごろのうっぷんを晴らそうと番頭に申し出る。

なにしろ、この家では、朝飯の味噌汁が薄くて実なし。番頭が、勘定は帳面をドガチャカごまかすことに決め、寿司に刺身、鯛の塩焼きに酢の物と、ごちそうをあつらえる。相撲甚句に磯節と、陽気などんちゃん騒ぎ。そこにケチ兵衛が帰ってくる。
「片棒」の吝嗇は馬鹿息子の間抜けさを引き合いにした笑いが中心である。赤にし屋の主人ケチ兵衛は、身代を築いたケチな旦那。三人息子の誰かに跡目を継がそうかと考える。そこで息子達の金銭感覚を試すために、「もし私が明日にでも死んだらどんな葬式にするか」と質問した。

長男の金蔵は、立派な葬式を出すべきだ、と言う。通夜は二晩行い、本葬は大寺院を借り、50人の僧侶に読経させ、会葬客の食事は折り詰めでなく豪華な重箱詰めにし、東西の酒を揃え、客の帰りには交通費や豪華な引き出物を渡すべきだと言う。ところがケチ兵衛はカンカン。「そんな葬式なら自分もでたい」と呆れさせる。

次男銀蔵は、葬式はイキに色っぽくやるべきだと主張する。町内中に紅白の幕を張り巡らせて、木遣唄や芸者衆の手古舞ではじめ、ソロバンを持ったケチ兵衛そっくりのからくり人形を載せた山車や主人の遺骨を積んだ神輿を神田囃子に合わせて練り歩かせるというのだ。最後に花火を打ち上げて落下傘をつけた位牌を飛ばすといった葬式。銀蔵は怒った父親に部屋から追い出される。

三男銅蔵は質素で倹約家。「死骸はどこかの高い丘に置いて鳥葬にしよう」と言う。さすがに主人が嫌がると、しぶしぶ通夜を出す案を話す。「出棺は11時と知らせておいて、本当は8時ごろに出してしまえば、客への茶菓子や食事はいらないし、持ってきた香典だけこっちのものにすることができる。早桶は物置にある菜漬けの樽を使う。そうして臭い物には塩をまいて蓋をする。樽には荒縄を掛けて天秤棒で前後ふたりで担げるよう運ぶようにする。人手を雇うとお金がかかるから、片棒は自分が担ぐ。でも、一人では担げないからもう片棒は人を雇る。」ここでケチ兵衛が銅蔵を制し、「心配するな。片棒は俺が担いでやる」

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ウィスコンシンで会った人々 その59 藪医者噺

落語にでてくる医者はどれも頼りない。江戸時代には今のような免許制度なく、医術の心得がなかろう医者になろうと思えば誰でもなれた。藪医者とは「藪のように見通しがきかない」という説がある。「藪にも至らない」という意味を込めて「筍医者」というのも落語での枕にでてくる。ヘボ医者ということのようだ。

それでも真面目に医術を習得しようとする者は、医者に弟子入りする。そして師匠に腕を認められ、代診の期間を経て独立を許され開業する。治療だが、主として薬草を煎じ薬、貼り薬や塗り薬を処方したようである。そして小石川養生所ができたのが1722年。困窮者救済が主たる役目だった。山本周五郎の「赤ひげ診療譚」は、長崎で修行した医師保本登と赤ひげ、そして不幸な人々の救済物語である。

医者に関する二つの演目を紹介する。まずは「夏の医者」。夏の暑い盛りの昼間、ある村の農夫が仕事中に倒れる。村には医者がおらず、叔父に相談すると「山向こうの隣村にお医者の先生がいる」という。息子は山すそを回って長い道のりを行き、往診を頼みに向かう。

さて、息子と医者は山道を向かうが、歩き疲れて山頂で少し休憩をとろうと横になる。すると急にあたりが真っ暗になる。医者は「この山には、昔から住むウワバミがいる、これはおそらく腹の中に飲まれてしまったな。このままでは、足の先からじわじわ溶けていく」脇差を忘れてしまったので、大蛇の腹を裂いて出ることもできない。思案した医者は薬箱から大黄の粉末を取り出し、周囲にたっぷりと振りまく。胃袋に下剤を浴びせられた大蛇は苦しんで大暴れする。「薬が効いてきたな。向こうに灯が見える。あれが尻の穴だ」ふたりは、外に放り出される。ところがウワバミの中に肝心の薬箱を忘れてしまう。そして取り返そうとしてウワバミにもう一度飲み込んでくれと頼む。ウワバミは首を振って、
「夏のイシャは腹に障る。」

「代脈」であるが、尾台良玄という名医に銀南という弟子がいた。ごひいきの商家に綺麗な娘がいて療養していた。良玄はこの銀南を初めての代脈に行かせることにした。少々与太郎気味の銀南であったので、詳しく挨拶の仕方、お菓子の食べ方、お茶の飲み方から脈の取り方など、娘の対応の仕方を指南する。特に診察の仕方をこと細かに説明する。特に娘の左の腹にあるシコリには絶対触ってはならないと言い聞かせる。シコリは放屁だというのだ。

銀南は、丁寧に挨拶してひざをついて娘に近づき挨拶をする。脈を診て、舌を診て、胸から小腹を診る。銀南は、綺麗な娘がオナラをするはずがないと思い込んでいる。これが大きな間違い。止せばいいのにシコリの部分をグッと押す。たちまちものすごい音が響き渡った。銀南は、「最近のぼせの加減で耳が遠くなっているのでなにも聞こえなかった」と白をきる。娘の母親が、「大先生もそのようなことを仰ってましたが、若先生ものぼせでございますか?」
「ええ。ですからさっきのオナラも聞こえませんでした!」

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ウィスコンシンで会った人々 その58 夫婦噺

お馴染み八五郎が、町内のご隠居のところにやってきて、質屋の婿養子が死んだと伝える。気の毒なことに、これで婿養子が亡くなったのは三度目。

隠居は「婿養子が短命なのは、妻が美人なのが元だ」と言う。「タンメイ?」「早死にすることを短命という」「じゃあ逆に、長生きのことは何と?」「長命だ。」夫が短命なのは妻が美人だから、という隠居の講釈を理解できない八五郎に、隠居は次のような話をした。

「食事時だ。お膳をはさんで差し向かい。おかみさんが、ご飯茶碗を旦那に渡そうとして、手と手が触れる。おかみさんの手は白魚を5本並べたように透き通るようだ。そっと前を見る。……身震いするような、いい女だ。……短命だよ。」
八五郎は何のことだかわからない。

「そのうち冬が来るだろう。二人でこたつに入る、何かの拍子で手が触れる。白魚を5本並べたような、透き通るようなおかみさんの手だ。そっと前を見る。、、、ふるいつきたくなるような、いい女だ。、、、短命だよ。」
八五郎はこれでも何だかわからない。

ご隠居は次に、以下のような川柳で説明しようとする。
”何よりも傍が毒だと医者が言い”

ようやく八五郎は、隠居の意趣が分かる。隠居は婿養子たちは房事過多で死んだのだと言いたかったのだろうと。隠居宅から自宅に戻った八五郎は、戻るなり妻に怒鳴られる。「なぜ短命な婿養子たちと、俺はこうも違うのだろう」と幻滅する。八五郎は昼飯を食べる際、ふと思いついて妻に話しかけた。

「給仕をしろ。茶碗をそこに放り出さず、ちゃんと俺に手渡すんだ」
妻は茶碗を邪険に差し出す。夫婦の指と指が触れ、「そっと前を見る。……」妻の姿を見つめた八五郎は深くため息して、「ああ、俺は長命だ。」

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ウィスコンシンで会った人々 その57 半可通噺

笑いの中では、知ったかぶりをする者が出てきて、それをおちょくる者が出てくる。当人は、笑われていることに気がつかないところに可笑し味がある。その代表が「酢豆腐」という演目である。数年前に朝ドラで落語ブームに火をつけたのが上方落語の「ちりとてちん」である。江戸落語では「酢豆腐」となっている。

近所の男が、旦那の誕生日だというので訪ねてくる。旦那は白菊、鯛の刺身、茶碗蒸し、白飯でもてなす。出された食事に嬉しがり、「初めて食べる」、「初物を食べると寿命が75日延びる」とべんちゃらを言い、旦那を喜ばせる。そのうち、裏に住む竹という男の話になる。この竹、何でも知ったかぶりをするため、誕生日の趣向として、旦那達は竹に一泡吹かせる相談を始める。水屋で腐った豆腐が見つかり、これを元祖 長崎名産「ちりとてちん」として竹に食わせるという相談がまとまる。そうとは知らずに訪れた竹が、案の定「ちりとてちん」をよく知っていると言う。台湾旅行のときは毎日食べた大好物だというのである。そこで「ちりとてちん」食わせると、一口で悶え苦しむ。旦那が「どんな味や?」と聞くと、竹曰く「ちょうど豆腐の腐ったような味や・・・」。半可通のことを「酢豆腐」と呼ぶようになったのは、この噺からだといわれる。

既述した演目であるが「千早振る」に出てくる「先生」の異名を持つ隠居も知ったかぶりの代表だろう。百人一首の一句「ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」の意味を知りたいといってきたのが八五郎。隠居は戸惑うのだが、頓智を働かせて八五郎に説明する。隠居は「ちはやぶる」が枕詞であることを知らない御仁なのである。それを、「千早」という女性が無男の竜田川という相撲取りを袖にする、というようにでっち上げる。それを真に受ける八五郎の反応になんともいえない滑稽さがある。

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ウィスコンシンで会った人々 その56 祭噺

現在の聖路加国際病院近くにある隅田川の対岸は、高層マンションで囲まれている。この一角に佃住吉神社がある。江戸時代には、汐入や千住の渡しとともに隅田川最後の渡し舟があったところといわれる。江戸に摂津国から移住した漁師たちが、石川島近くの砂州に築島して定住することとなり、この島を故郷である佃村にちなんで「佃島」と命名したとある。住吉神社の夏の祭礼で賑わうのが「佃祭」であった。その祭礼では雑魚を煮詰めたものを供えていた。これが佃煮である。保存性のよさと値段の安さから江戸庶民に普及した。

江戸時代から伝わる年中行事の祭や花火は今が最盛期。江戸の祭りといえば、神田明神で行われる神田祭、官幣大社の日枝神社で行われる山王祭、そして富岡八幡宮で行われる深川祭である。落語には祭りをめぐる笑い噺が結構ある。今回は東の「佃祭」と西の「祇園会 」を取り上げる。

昔、神田は岩本町に於玉ヶ池というのがあって、北辰一刀流の道場「玄武館」があったらしい。このあたりで小間物問屋を営んでいたのが次郎兵衛。佃祭に出掛け、最後の渡し舟で帰ろうとする。満員の舟に乗ろうとしたとき、一人の女に引き留められ渡しに乗りそびれる。女は詫びながら実は三年前、奉公先の金を紛失してしまい、本所一ツ目の橋から身を投げるところを次郎兵衛に助けらたと告白する。次郎兵衛は女のことを思い出し、仕方なく船頭の辰五郎と所帯をもつこの女のところに行くことになる。

辰五郎が帰ってくると、外が騒がしい。渡し舟が重みで沈没したという。一人も助かったものがなく、川岸は死体の山だという。沈んだ渡し舟に次郎兵衛が乗っていたらしいというので、次郎兵衛の住む長屋は大騒ぎ。忌中という札をだし、棺桶を用意したり、弔問客に対応したりでてんやわんや。やがて夜明けに辰五郎に送られた次郎兵衛が、そんな騒ぎとも知らずに長屋に帰ってくる。読経の声がきこえる。はておかしいと家をのぞくと、驚いたのは長屋の面々。次郎兵衛を幽霊だと勘違いして大騒ぎ。これを聞いた長屋の月番の一人与太郎、自分も誰かを助けようと身投げを探して永代橋へでかける。

東山区八坂神社の祭礼で知られるのが祇園祭である。祇園祭は数々の祭りでも豪華絢爛さで知られる京都の三大祭のひとつ。その他上賀茂神社と下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭がある。「祇園会 」は江戸からの一見さんと京男との奇妙な会話がお国自慢に発展し、はては大喧嘩になるという噺である。

江戸っ子の八五郎、祇園祭の時期に京にやってくる。話の種にと叔父の案内で祇園の揚屋の二階を借り、酒を飲みながら祭見物をすることになる。ところが、当日になって叔父が急に来れなくなり、代わりに叔父の友達だという源兵衛がやって来る。これがそもそもの間違いとなる。

京者の源兵衛はやたらとお国自慢をする男で、何かにつけて「京は王城の地」とうるさいのなんの。「酒は伏見、人は京。なんて言うたかて京は『王城の地』どすからな。江戸とは違いますわ。」ちょっとカチンときたものの、八五郎ここで怒っては江戸っ子の評判を下げるので我慢する。

それに気をよくしたのか、源兵衛とうとう禁句を口にしてしまう。
「江戸ッ子なんか、所詮は東夷の田舎者、武蔵野の国の「むさい者」どすな。」

ここで遂に八五郎の堪忍袋の緒が切れる。
「いくら古いか知らないが、こんな抹香臭い所はもうたくさんだ!!」

そこからは土地柄から食べ物、果ては祭囃子まで飛び出す壮絶なお国自慢が始まる。
「御所の紫宸殿の砂利を掴んでみなはれ、”おこり”が落ちるちぃまんにゃ。」( おこりとは悪性の流行病)
「それがどうした!? こっちだって江戸城の砂利を掴んでみろい、、、」
「どうなります?」
「首が落ちらぁ!」

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ウィスコンシンで会った人々 その55 間男噺

「間男」とは広辞苑によれば「有夫の女が他の男と密通する」とある。この間男を話題とする落語も結構ある。古今東西、不倫は人間の興味の尽きない話題である。古典落語では、間男は陰険な男女関係を描くよりも、女性のたくましさとか男性のか弱さによって健康な笑いを醸し出すようなところが多い。男性中心社会へのささやかな抵抗といった文化も感じられる。ジェンダー研究の下地になるようだ。

間男を扱う演目に「紙入れ」がある。新吉という貸本屋の丁稚がいる。この本屋に出入りするおかみさんに誘惑される。そして旦那の留守中に迫られる。だが旦那が予定を変更してご帰宅。慌てた新吉はおかみさんの計らいで辛うじて脱出する。ところが、旦那からもらった紙入れを忘れる。紙入れにはおかみさんからの誘いの書き付けが入っている。

焦った新吉は逃亡を決意するが、ともかく様子を探ろうと、翌朝再び旦那のところを訪れる。出てきた旦那は落ち着き払っている。変に思った新吉は、昨夜の出来事を語ってみるが、旦那はまるで無反応。ますます混乱した新吉が考え込んでいると、そこへ浮気相手のおかみさんが通りかかる。旦那が新吉の失敗を話すと、おかみさんは「浮気するような抜け目のない女だよ、そんな紙入れが落ちていれば、旦那が気づく前にしまっちゃうよ」と新吉を安堵させる。サゲだが、旦那が笑いながら続けて「まあ、たとえ紙入れに気づいたって、女房を取られるような馬鹿だ。そこまでは気が付くまいて。」

既にこの欄で取り上げた演目「締め込み」も間男を疑う旦那と女房と盗人との可笑し味ある対話である。ある盗人が家に入り、箪笥をあけて衣類を風呂敷で包み、さあ逃げようとするとき旦那が帰ってくる。盗人はあわてて台所の床下にもぐりこむ。風呂敷包みを開けると、そこに女房の衣類が入っている。さあ、これは女房が間男して駆け落ちしようとしているに違いないと、旦那は動転する。そこに女房が帰ってきて大騒ぎとなる。

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ウィスコンシンで会った人々 その54 盲人噺

盲人が主人公の落語も結構ある。「心眼」という演目はほろりとして、また酒と夢、女が絡む可笑し味もある古典落語である。そのあらすじだが、目が不自由な按摩の梅喜、女房のお竹に慰められ、目があくようにと薬師如来に三七、二十一日の日参をする。それが叶って眼がみえるようになる。

得意先の上総屋の旦那から、女房のお竹は醜女だが、気だてのよい貞女であることを聞かされる。梅喜はわが女房ながらそんなにひどいご面相かとがっかり。そこで昔の馴染みの芸者、小春と一緒になろうと待合で酒を酌み交わす。

二人が富士横町の待合に入ったという上総屋の知らせで、お竹が血相を変えて飛び込んでくる。梅喜の胸ぐらをつかんで、
「こんちくしょう、この薄情野郎っ」
「しまった、勘弁してくれっ、おい、お竹、苦しいっ、、」

途端に梅喜は、はっと目が覚める。
「うなされてたけど、悪い夢でも見たのかい」という優しいお竹の言葉に、梅喜我に返って、
「あああ、夢か。。。お竹、おらあもう信心はやめるぜ」
「どうして?」
「目が見えるって妙なものだ。寝ているうちだけ、よぉく見える……」

「景清」は眼を治そうと一心に清水寺に日参し南無妙法蓮華経と唱える定次郎の話である。満願の100日目になった。奇しくも観音講にあたる18日で賑わう中、いつもにも増して熱心に願を掛ける定次郎。しかしいくらお願いしても、彼の眼はいっこうに明かない。とうとう怒り出した定次郎。心配して様子を見に来ていた甚兵衛にたしなめられるが、定次郎は涙ながらに答える。「母親が満願の今日に合わせて着物をこしらえてくれた。家で赤飯と酒の用意をして待ってくれている。」にわかに、空がかき曇り雨が降ってきた。稲妻が閃き、雷鳴が轟く。そして、取り残された定次郎に雷が落ち、定次郎は失神する。その衝撃で目が開くというお目出度い噺である。

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ウィスコンシンで会った人々 その53 言葉噺

百人一首からの演目もいくつかある。その一つが「千早振る」という作品である。崇徳院が作ったという「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の、、、」というのも落語の演目となっている。今回は在原業平の「千早ふる神代も聞かずたつた川、からくれないに 水くぐるとは」がテーマである。

八五郎の娘連中は百人一首のカルタ取りをしている。取るだけでは面白くないから歌の内容を調べてみようということになった。そこで八五郎をとおして隠居のところにその歌のわけをききにくる。隠居は2〜3回読み直しているとアイディアがひらめいてきた。「竜田川、、、八五郎、この竜田川は何だと思う」、「川が付くから何処かの川だと思うかい。違うんだな、竜田川ってのはおまえ、相撲取りの名だ」。人気大関の「竜田川」が吉原へ遊びに行った際、「千早」という花魁に一目ぼれするが、肘鉄をくらう。こうなると隠居の一人舞台になって前代未聞の歌の読み解きが始まる。

「たらちね」だが、ある長屋に住む独り者の八五郎が主人公。大家に呼ばれ、「店賃の催促かい?」と勘ぐりながら伺ってみれば、何と縁談話。相手の娘だが、年は二十、それに器量良し、おまけに夏冬のものをいっさい持参という触れ込みの娘である。独り者には願ってもない縁談、しかし話がうますぎる。不審に思った八五郎、大家に問いただしてみると、やはりこの娘には「瑕」があった。厳格な漢学者の父親に育てられたせいで、言葉が改まりすぎて馬鹿丁寧なのだという。八五郎は結局その娘を嫁にもらうのだが、嫁の語り口が何が何だかさっぱりわからなくなる。なお、「たらちね」の漢字表記は「垂乳女」となっている。

「平林」もおかしみがある。丁稚の定吉は、医師の「平林」邸に手紙を届け、その返事をもらって来るよう店主から頼まれる。定吉は、行き先を忘れないように口の中で「ヒラバヤシ、ヒラバヤシ」と繰り返しながら歩くが、結局忘れてしまう。定吉は思い出すため、手紙に書かれた宛先の「平林」という名前を読もうとするが、そもそも字を読むことができなかったことに気づく。

そこで、通りがかった人に、「平林」の読み方をたずねることにする。最初にたずねられた人は「それはタイラバヤシだ」と答える。安心した定吉は、別の人に「タイラバヤシさんのお宅は知りませんか?」と聞くが、要領を得ないので手紙を見せると、その人は「「平」の字はヒラと読み、「林」の字はリンと読む。これはヒラリンだろう」と定吉に教える。また別の人に「ヒラリンさんのお宅は知りませんか?」と聞き、手紙を見せると、「平林」の書き順どおりに「イチハチジュウノモクモク(一八十の木木)と読むのだ」と定吉に教える。さらに別の人が同じように定吉に問われると、「ヒトツトヤッツデトッキッキ(一つと八つで十っ木っ木)だ」。

困った定吉は、教えられた読み方を全部つなげて大声で叫び、周囲の反応をひこうとする。叫びはやがてリズミカルになり、歌のようになっていく。「タイラバヤシかヒラリンか、イチハチジュウノモークモク、ヒトツトヤッツデトッキッキ」

やがて定吉の周りに人だかりができる。そこを通りがかった、定吉と顔見知りの職人の男が駆け寄ると、定吉は泣きながら「お使いの行き先がわからなくなった」と職人に訴える。職人が「その手紙はどこに届けるのだ?」と定吉に聞くと、
「はい、ヒラバヤシさんのところです」

「たらちね」は、和歌に見られる修辞である母を指す枕詞である。独特の情緒を添える言葉となっている。「青丹によし」は奈良を指す、というのは受験勉強でもでてきた。

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ウィスコンシンで会った人々 その52 幽霊噺

落語の定番といえるのが幽霊噺である。医術が未熟だった江戸時代は、死に対する恐怖は現代以上であったと想像する。それだけに幽霊は怖い存在であったことが伺える。それ故に、噺のネタとしてもたいそう庶民に受けたのだろうと察するのである。

「お菊の皿」という演目は幽霊と庶民の会話が中心である。筋は少し長くなるがお付き合いいただくことにする。旗本である青山主膳の番長邸にはお菊という女中がいた。美しい中にあどけなさの残る乙女で、主膳は側室にしようとした。だがお菊には許嫁がいたので、主膳の申し出を断る。どうしてもお菊は首を振らないので、お菊に管理させていた大事な皿を一枚抜いておいて、盗んだろうと濡れ衣を着せ、井戸に投げ入れて殺してしまう。ところが、夜な夜なお菊の幽霊が現れて青山主膳は狂い死にし、廃屋敷となる。

やが女中お菊の幽霊を見たいと考えた物好きな者が、怪談の舞台である番町の廃屋敷まで出掛けてゆく。果たして廃屋敷の井戸端にお菊の幽霊が現れ、恨めしそうに「一枚、二枚……」と皿を数え始めた。お菊の幽霊は恐ろしいが、妖艶で美しい。数える声を九枚まで聞くと狂い死にすると言うので、見物人たちはお菊が六枚まで数えたところで逃げ帰る。

幽霊お菊の噂が広まり、お菊を見に行こうとして見物人の数は日ごとに増えていく。やがて弁当や菓子を売る屋台ができ、客席が設けられて廃屋敷は芝居小屋のようになる。「お菊の皿数え」はまるで舞台演芸のようになり、幽霊のお菊は差し出しものも増える。お菊はふくよかになる。あげくの果てに客に愛想を振りまく。そしてお菊のファンクラブまでできるという盛況である。

今日もお菊の皿数えの上演がある。お菊は喝采を浴びて登場し、「一枚、二枚……」と皿の枚数を数え出す。お菊が六枚目を数えたところで客たちは逃げようとするが、客席が混雑していて逃げられない。ついに聞けば死ぬと言われている九枚目をお菊が数えた。しかし何も起こらず、お菊は「十枚、十一枚……」と皿を数え続ける。客たちが呆気にとられる中、十八枚まで数えたところで舞台は終わりとなった。
「なぜ十八枚まで数えたんだ」と客がお菊に尋ねる。お菊は「風邪気味で明日は休むので、いつもの倍まで数えた」と答える。

「お化け長屋」は江戸っ子は見かけとは裏腹に小心で恐がりというのたテーマ。長屋に空き店の札がでる。長屋が全部埋まってしまうと今まで空いていた部屋が自由に使えなくなる。そこで店子の古狸の杢兵衛が世話人の源兵衛と相談し、店を借りにくる奴に怪談噺をして脅かし、追い払うことにする。最初に現れた気の弱そうな男は、杢兵衛に「三日目の晩、草木も眠る丑三つ時、独りでに仏前の鈴がチーン、縁側の障子がツツーと開いて、髪をおどろに振り乱した女がゲタゲタゲタっと笑い、冷たい手で顔をサッ」と雑巾で顔を撫でられて、悲鳴をあげて逃げだす。ところが次に現れたのが怪談には全く無頓着な男。逆に二人を丸め込んで長屋をただで借りてしまうという噺である。

「死神」という演目も愉快だ。主人公は金に縁が無く、「俺についてるのは貧乏神じゃなくて死神だ」と言うと、何と本物の死神が現れる。仰天する男に死神は「お前に死神の姿が見えるようになる呪いをかけてやる。もし、死神が病人の枕元に座っていたらそいつは駄目。反対に足元に座っていたら助かるから、「オチャラカモクレン、アルジェリア、テケレッツノパ」の呪文を唱えて追い払え」と言い、医者になるよう助言して消える。この男、良家の跡取り娘の病をこの呪文で治したことで医者として有名になり、男は富豪となる。だた「悪銭身に付かず」でまた貧乏になる。

この「死神」にはさまざまなサゲがある。是非いくつかの噺家の「死神」を聞いて欲しい。

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ウィスコンシンで会った人々 その51 泥棒噺

泥棒の演目はいくつもあるが、その代表ともいえるのが「夏泥」。今の暑い時期に笑いたくなる噺である。夏のある日、貧乏長屋で男がふんどし一枚で寝ている。そこにやってきたのが盗人。おきまりのおどしで金を要求する。だが、男、貧乏三昧で死のうとしていたと告白する。食べるものがない、店賃の抵当(かた)に道具箱を持っていかれた、道具がなくて仕事ができない、着るものもないなど泥棒に身の上話をして「さあ、殺してくれっ!」と開き直られる。盗人は「声がでかいよ、」とうろたえてしまう。

困った泥棒、なにか食うものを買えといって小銭を男に渡す。だが、道具がないので仕事にでられないという。泥棒はさらに男に銭を差し出す。ところが質屋から道具を請け出すには利息が必要だといってさらに銭を搾り取る。おまけに仕事に出掛けるには仕事着が必要だといって、「この裸姿では仕事にでられない。、、貰った銭は返す、、さあ、殺せ!」と懇願する。困った泥棒、ますます深みに入っていく。まんまと金を泥棒からせびった男、、別れ際に「また来年の夏に入ってくれや、、」この泥棒は慈善事業をしたようだ。それがなんとも可笑しく共感を呼ぶ。

「締め込み」の舞台もまた長屋。戸締まりされていない長屋に賊が忍び込む。ヤカンが火にかかっていて、急いで物色した衣類を風呂敷に包む。そこへ部屋の主の男が帰ってくる足音が聞こえる。泥棒はとっさに台所の床板を上げ、縁の下に潜り込んで身を隠す。男は泥棒が残した風呂敷包みを認め、「古着屋が見本に置いて行ったのだろうか」とつぶやきながら開ける。風呂敷の中に女房の服が入っていることがわかる。

「女房は、俺の知らぬ間に間男をして、荷物をまとめて駆け落ちをしようとしているのだ」と勘違いし、激怒する。そこに女房が帰ってきて、組むつもたれつの大喧嘩となる。罵倒しあうが、女房の言い分に言い返せなくなった男は、そばにあったヤカンを投げつける。ヤカンのお湯が縁の下に隠れる泥棒のうえに注がれる。堪らなくなって泥棒は飛び出て、風呂敷包みは自分が作ったと白状する。男と女房は「お前が正直に話してくれなければ、俺たちは別れるところだった」と泥棒に感謝する。そして3人で酒を酌み交わす。

「締め込み」のサゲは読者に想像していただこう。

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ウィスコンシンで会った人々 その50 粗忽噺

「粗忽」。なんとも響きがよい。そそっかしい、あわてんぼうということである。広辞苑によると、 軽はずみとか唐突でぶしつけといった意味もある。

江戸時代、しばしば大火が起こり、そこら中に安普請のアパートが造くられた。長屋である。そのせいで宿替えとか引っ越しが日常的であったようである。「粗忽の釘」はそのような江戸の下町が舞台である。

粗忽者の亭主にしっかり者の女房が引っ越ししてくる。亭主はそそっかしいだけあって、運ぶ荷物を後ろの柱と一緒にくくってしまったり、それに気付かず担ごうとしたり、旧宅を出るまでに一騒動が起きる。女房が新宅にきちんと引っ越しても、亭主野郎はやって来ない。道に迷うわ行き先は分からなくなるわ。やっとの事で辿り着いた亭主に、呆れながらも女房は頼む。
「お前さん、ほうきを掛けたいから柱に長めの釘を打っとくれよ」
 「よしゃ、俺は大工だ、任しとけ!」

亭主はいい気になって釘を打ったが、調子に乗ってすっかり釘を打ち込んでしまう。それも柱ではなく壁に。おまけに八寸の瓦ッ釘。これが隣の家の仏壇の横に飛び出て、騒動の始まりとなる。

「転宅」という泥棒噺も粗忽の代表といえようか。大抵、落語の泥棒といえば間抜けなものと決まっている。お妾のお梅ところから旦那が帰宅する。お梅が旦那を見送りに行く。その留守にこそ泥が侵入してきた。この泥棒、旦那が帰りがけにお梅に五十円渡して帰ったのをききつけそれを奪いにやって来たのだ。

泥棒、座敷に上がりこみ、空腹にまかせてお膳の残りを食べ始める。そこにお梅が入ってきて鉢合わせる。慌ててお決まりのセリフですごんで見せるが、お梅は驚かない。それどころか、「自分は元泥棒で、今の旦那とは別れることになっている。よかったら一緒になっておくれでないか」と求婚する。

泥棒すっかり舞い上がってしまい、デレデレになってとうとう夫婦約束をしてしまう。そして形ばかりの三三九度の杯を交換する。「夫婦約束をしたんだから、亭主の物は女房の物」と言われ、メロメロの泥棒はなけなしの二十円をお梅に渡してしまう。泥棒は、今夜は泊まっていくと言い出すが、お梅がとっさに「二階に用心棒がいるから今は駄目。明日のお昼ごろ来るように」といって泥棒を帰してしまう。妾宅は平屋なのを泥棒は知らない。

翌日、ウキウキの泥棒が妾宅にやってくるとそこは空き家になっていた。近所の煙草屋に、お梅はどうしたかときくと、仕返しが怖いので引っ越したという。
「お梅は一体誰か、、」
「誰かといって、お梅は元義太夫の師匠だ」
「義太夫の師匠? 見事に騙られたぁ!」

「騙る」は「語る」を引っかけた落ちとなっている。「騙る」は「騙す」という意味ともなる。なんとも粗忽でおかしみのある泥棒である。

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ウィスコンシンで会った人々 その49 名奉行噺

鹿は春日大社の神使いとされ、誠に手厚く保護されてきた。庶民は鹿にかしずくほどであったという。ちょっと叩いただけでも罰金、もし間違って殺そうものなら、男なら死罪、女子供は石子詰めという刑が待っていた。興福寺の小僧が習字の稽古中に大きな犬が入ってきたと思って文鎮を投げたところ、それは鹿だった。当たり所が悪く死んでしまい石子詰を受けたという話もある。石子詰とは地面に穴を掘り、首から上だけ地上に出るようにして埋める罰である。

奈良の町に豆腐屋を営む老夫婦が住んでいた。ある朝、主である与兵衛が朝早くに表に出てみると、大きな赤犬が「キラズ」といわれた「卯の花」の桶に首を突っ込み食べていた。卯の花とはおからのこと。与兵衛が手近にあった薪を犬にめがけて投げると、命中し赤犬は死んでしまう。ところが、倒れたのは犬ではなく鹿だった。

当時、鹿を担当していたのは代官と興福寺の番僧。この二人が連名で願書を認め、与兵衛はお裁きを受ける身になる。この裁きを担当することになったのは、名奉行との誉れが高い根岸肥前守。お奉行とて、この哀れな老人を処刑したいわけではない。何とか助けようと思い、与兵衛にいろいろとたずねてみるが、嘘をつくことの嫌いな与兵衛はすべての質問に正直に答えてしまう。困った奉行は、部下に鹿の遺骸を持ってくるように命じる。そして鹿の餌料を着服している不届き者がいるとして、逆に代官や番僧らを責める。そして鹿が犬であることを認めさす。

「佐々木政談」はこちらも名奉行で知られた南町奉行、佐々木信濃守。非番なので下々の様子を見ようと、田舎侍に身をやつして市中見回りをする。そこで子供らがお白州ごっこをして遊んでいるのが目に止まる。面白いので見ていると、十二、三の子供が荒縄で縛られ、大勢手習い帰りの子が見物する中、さかしいガキがさっそうと奉行役で登場する。この奉行役の子供の頓智に佐々木信濃守は偉く感心してやがて子供をとり立てるという噺である。

「天狗裁き」の奉行は大分違う。家で寝ていた八五郎が女房に揺り起こされる。「お前さん、どんな夢を見ていたんだい?」八五郎は何も思い出せないので「夢は見ていなかった」と答えるが、女房は隠し事をしているのだと疑う。「夢は見ていない」「見たけど言いたくないんだろう」と押し問答になり、夫婦喧嘩になってしまう。喧嘩の仲裁に入った長屋の差配、町役人も夢の噺を聞きたがる。挙げ句の果てお白洲に訴えられ、奉行までもが夢の話を聞きたいといって八五郎を責め立てる。最後に高尾の山に飛ばされ、そこで天狗にまで夢の話を聞かせろと苛まれる愉快な話である。

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ウィスコンシンで会った人々 その48 与太郎噺

落語にはいろいろな人物が登場する。「八っぁん、熊さん、」などと並ぶ代表的なのが与太郎である。性格は八五郎に似ている。

例外なくぼんやりした人物として描かれる。性格は呑気で楽天的。何をやっても失敗ばかりするため、心配した周囲の人間から助言をされることが多い。こうしたキャラクターから、与太郎の登場する噺は爆笑ものが多く、与太郎噺と分類される場合もある。さらに「愚か者」の代名詞となっているが、決して憎めない存在だ。長屋の者は与太郎をかばうことも決して忘れない。

「孝行糖」という演目では与太郎は親孝行という筋書きになっている。孝行によって殿様から褒美の青ざし五貫文を頂戴する。五貫文とは一両一分で十万円くらいと云われる。長屋の者は、五貫文を元手に与太郎にお菓子の「孝行糖売りの行商を教える。自立させようというのだ。そして与太郎に客寄せの台詞教える。「チャンチキチ スケテンテン♪ 孝行糖、孝行糖〜」。

「錦の袈裟」という演目では与太郎にしっかりものの妻がいる。与太郎に錦の袈裟をふんどしをつけて男衆の集まりに送り出す。そして吉原に乗り込むが、与太郎は女達にすっかりもてる。与太郎を殿様だと勘違いしたからだ。周りの男は与太郎のもて振りにすっかりあてられる。

「牛ほめ」だが、新築の叔父の家を訪問し、父親に教えられた通りにほめ言葉を並べて感心されるが、最後に牛を見せられて失敗する。「大工調べ」では腕っぷしのいい大工として登場し、滞納した店賃のカタとして没収された道具箱を取り返すべく、大工の棟梁の助言で、あこぎな家主を相手に訴訟を起こす。お奉行も味方しようとするのだが、ばか正直なためになかなか決着しない。「つづら泥棒」は与太郎が泥棒を試みる数少ない噺。夜自分の家に泥棒にはいるという大失敗をする。

「佃祭」にも与太郎が登場する。佃島の祭りの帰りに渡し船が転覆して死んだと思われた近所の旦那の家に、ほかの住人たちに連れられて長屋の月番で代表の1人として弔問に訪れる与太郎。だが、悔みと嫌みの区別がついていなかったり、最初の一言が「このたびはどうもありがとうございます」だったりで、厳粛な雰囲気をぶち壊しにする。

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ウィスコンシンで会った人々  その47 世間知らずの殿様

筆者は落語の素人。まったくの後発組である。そのような訳で落語を語るには少々気恥ずかしい気分なのだが、どうしても筆を執りたくなるほど落語の世界は不思議と面白いと感じる一人である。素人の目からみた落語の内側には、人の生き様とかペーソスが充満していて、なんとしてもこうした欄で何かを書きたくなる。

落語の演目にはいろいろなモノが登場する。例を挙げると、名前では八五郎、与太郎、熊五郎、定吉、多助、三太夫、正助、三太夫、お鶴、お菊、などである。動物では犬、猫、狸、鹿、鷺、雀、ウワバミ(大蛇)、馬、魚では鰻、秋刀魚、鯛、白魚、カツオなどである。人に関しては、坊主、花魁、遊女、行商、盲人、間男、盗人、殿様、うつけ、侍、女房、妾、女中、くずや、魚屋、大工、長屋の差配、幇間、按摩、蕎麦屋、ケチ、お人好し、正直者、間抜け、世話好き、粗忽者、ほら吹き、博打好き、大酒飲み、乱暴者、藪医者、などなどきりがない。話題となると、夢、富くじ、大火、火の用心、怪談、幽霊、引っ越し、転失気、道楽、吉原、喧嘩、祭り、敵討ち、天狗、浅草寺、長屋、講中、白洲など多彩である。うつけは空け/虚けとも書く。

おおよそ落語に登場する人物には、名奉行や頓智のある子供などは例外として、真面目で頭の良い者は登場しないことになっている。こうした人物は笑いの対象にはなりにくいようである。江戸時代は士農工商の時。お侍が形の上では幅を利かしていた。町人は小さくなって歩いていた時代だ。そんなこともあってか、大名とか殿様は笑いの対象になっていた。世の中の動きに疎いこともあり、町方は殿様を茶化すのである。

そうしたぽーっとしたうつけ殿様の代表が「目黒の秋刀魚」にでてくる。自分でどうしても蕎麦をを打ちたくて、習ったばかりの蕎麦の作り方を家来に披露する。ところがその蕎麦がとても食せるような代物でない。だが、殿様の打った蕎麦を食べないと打ち首になるという。だから殿様手作りの蕎麦は「手うち蕎麦」というそうだ。

この殿様、目黒への早掛けの際に百姓が庭で焼いていた秋刀魚の味をしめる。ある園遊会があって、殿様は秋刀魚を所望する。ところが出てきた秋刀魚は、ぱさっぱさで香りがしない。おつきの者は、この秋刀魚は房州で獲れた新鮮なものだと説明する。殿様は「やっぱり秋刀魚は目黒に限る」と自慢するのである。武士をおちょくることで庶民は溜飲をさげたにちがいない。

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ウィスコンシンで会った人々 その46 「地噺」と鰍沢

落語は人情噺や滑稽噺のようにほろりとさせたり、笑わせるものだけでない。演者がストーリーを語ることを中心として上演されるものもある。これが「素噺」とか「地噺」と呼ばれる分野である。落語の多くは、登場人物の対話で話が進む。だが地噺は、演者が聴衆に人物の心理を周りの状況を説明しながら筋を進行させる。

筆者が好きなのは、名人古今亭志ん朝の地噺である。その中で、「鰍沢」と「塩原多助一代記」を取り上げる。「鰍沢」という地名は山梨県南巨摩郡にかつて存在したといわる。江戸時代には富士川舟運の拠点であった鰍沢河岸があった。今は富士川町となっている。南巨摩郡には身延町があり、日蓮宗の大本山久遠寺がある。

久遠寺での参詣を済ませたある旅人は、帰りに大雪の中、山道に迷う。たまたま見つけた一軒家で一夜の宿を頼む。応対したのが妙齢の婦人、お熊である。だがアゴの下から喉にかけて突き傷跡がある。体を暖めるためすすめられるまま卵酒を半分ほど飲む。話をするうち、お熊がかつては吉原の遊女であり、現在は猟師の妻であることが分かる。旅人はお熊と会ったことがあることを告げる。

お熊は夫の酒を都合しにと言って雪の中に出る。旅人は酔いと疲れのために道中差しを枕元において眠りに落ちた。そこへお熊の夫が帰ってきて、旅人が残した卵酒を飲み干す。だがたちまち苦しみ出す。帰ってきたお熊は夫に「旅人にしびれ薬入りの酒を飲ませて殺し、金を奪い取る算段だった」と明かす。それを聞いた旅人は、すでに毒が回った体で久遠寺の「毒消しの護符」を雪で飲み込み、吹雪の中へ飛び出し必死に逃げる。途中、体の自由が利くようになる。お熊は鉄砲を持って旅人を追いかける。

旅人は川岸の崖まで追い詰められる。そこへ雪崩が起こり、旅人は突き落とされる。運よく、川の中ではなく、岸につないであった筏に落ちそれが流れ出す。お熊の放った鉄砲の弾が旅人を襲うがそれる。急流を下りながら懸命に「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、、」。旅人は窮地を脱するという噺である。

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