ユダヤ人と日本人 その19 スターリンによる大粛清 その2 新聞報道

1953年代の新聞記事を調べると、そこからスターリンの政治活動とその死がどのように報じられたかがわかる。新聞社の姿勢と戦後間もない時代の思想上の混乱が感じられる。

1953年3月7日、 朝日新聞夕刊の「こども欄」に、スターリンの追悼記事が掲載された。タイトルは「なくなったスターリン首相、子供ずきなおじさん、まずしかった少年時代」とある。記事の内容だが、「貧しさの中に育ったので、早くから、貧乏な人たちに対する暖かい同情があった」というスターリン像を掲載している。誠に驚くべき記事である。

言うまでもなくスターリンは、日ソ中立条約を一方的に破棄し、対日参戦の成果によって南樺太を占領し、さらには北海道の東半分の割譲を連合国に迫ったという史実がある。極度に中央集権化された全体主義国家を率いた指導である。「貧乏な人たちに対する暖かい同情があった」などという記事がどうして書かれたのか。その見識を疑う。

読売新聞は1992年6月3日朝刊で「日本軍捕虜50万人を移送せよ」というスターリンの命令に関する資料を掲載している。同じく読売新聞2000年12月に元玉川大学教授若槻泰雄氏のコラムを次のように報じている。「シベリア抑留は戦争、特に負け戦が国民に強いる悲惨さを如実に示す史実だ。引き揚げに伴い旧満州で死亡した邦人は20万人以上で、原爆による犠牲者にも匹敵する。その多くは旧ソ連軍の国際法を無視した犯罪行為もといえる蛮行によるものだが、今日にいたるまで旧ソ連はその全容を明らかにしていない。旧満州とシベリアの惨状は、旧ソ連と共産主義に対する日本人の嫌悪、不信を決定的にしている。」

スターリンは史上、例のない完全独裁体制を築き上げ、情報をすべて掌握し、科学から哲学にいたる全ての分野に対して具体的な指示をして全てを決定したといわれる。ヒットラー(Adolf Hitler)と共に稀有な独裁的な権力者であった。同時にソビエトの近代化を進めたという点で、国内での貢献も非常に高いという評価を受けてもいる。史家の評価は異なっている。
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ユダヤ人と日本人 その18 スターリンによる大粛清 その1 叔父の死

数回にわたり、ロシアの民族主義に反する者を徹底的に潰し迫害したと同時に、極度に中央集権化された全体主義国家、工業の発達した軍事大国にしたといわれるスターリン(Joseph Stalin)とユダヤ系ロシア人、そしてシベリアで逝った親戚のことを取り上げる。

スターリンの名前を知ったのは1952年頃である。なぜかというと、父親の弟である筆者の叔父がシベリアで抑留されているのをきいていた。そしてソビエト大使館より当時の厚生省を通して死亡通知が父親のところに届いた。死亡した場所はクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)とあった。その頃新聞では盛んにモロトフ(Vyacheslav Molotov)、マレンコフ(Georgy Malenkov)などの政治家の名前がでていた。そしてブルガーニン(Nikolai Bulganin)といった名もあった。

講和条約の締結によってGHQ(General Headquarters)が廃止されて間もない1953年3月6日の朝日新聞朝刊には、スターリンが死去しニキタ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)が葬儀委員長となること、スターリンの後任にはマレンコフが選ばれことなどが紹介されている。だがマレンコフは9日で失脚し、フルシチョフが共産党第一書記となりブルガーニンを首相として指名する。内政面では1956年党大会で非スターリン化を推進した。この間の共産党内の権力闘争は熾烈なものであったことが報道されている。

本格的にスターリンの行動や人となりを知ったのは高校で世界史を勉強したときだ。第二次大戦の末期、ヤルタ会談とかポツダム会議で大戦後の情勢を協議したのだが、スターリンは必ずその中にいた。やがて、1949年に北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization: NATO)とワルシャワ条約機構(Warsaw Treaty Organization)が結成され、冷たい戦争が始まったのである。スターリンはこの両方の機構の成立には欠かせない人物である。スターリンは意外にもイスラエル国家の樹立に賛成していることも最近知った。

ユダヤ人と日本人 その17 「The Yiddish Language」 その2 言語研究

イディッシュ語はヘブル語やドイツ語から派生してものである。その語彙の三分の二はドイツ語からもたらされたが、ヘブル語からも引用している語彙も多い。その他、アシュケナジムが住んでいた地方からの語彙も使われていたのが特徴とされる。なにはともあれ言語の大切は云うまでもない。

以下は、「Judaism 101」にある”Yiddish Language and Culture”からの引用である。http://www.jewfaq.org/yiddish.htm

イディッシュ語の文法であるが、独特な形式を有する。表記はヘブル語のアルファベット文字を使う。研究者の中には、イディッシュ語はゲルマン語の一部と主張する者もいて論争が続けられている。

イディッシュ語はアシュケナジムによって使われたと述べたが、セファルディック(Sephardic Culture)というユダヤ人の間では使われなかったということがある。セファルディック系のユダヤ人とは、スペイン、ポルトガル、バルカン半島、北アフリカ、中東に住んでいたユダヤ人を指す。

セファルディック系ユダヤ人は、「Ladino」とか 「Judesmo」という独特の言語を持っていたとされる。Ladinoの語源は「Latin」とされる。 「Judaeo-Spanish」とも呼ばれ、宗教書や世俗文学、歌などで使われた。イタリア、フランス、イギリス、その他、オスマン帝国(Ottoman)であったバルカン諸国、トルコ、中東、北アフリカでセファルディック系ユダヤ人によって使われた。

「Judeo-Christian」という単語があるが、この意味は、ユダヤ教とキリスト教の教義上の共通した文化性のことである。であるから「Judaeo-Spanish」というのは、ユダヤ人とスペイン人の融合した文化を意味すると考えられる。

イディッシュ語は、20世紀には世界中にいる1,800万人のユダヤ人うち、1,100万人の間で主要な言語として使われたと云われる。しかし、ユダヤ人の同化や迫害によって使用は激減した。それ例であるが、最も多くのユダヤ系アメリカ人が住むニューヨークですら25万人の位の人がイディッシュ語を理解しているといわれる。多くはかたことのイディッシュ語を使うが公式の場で使われることはないそうだ。

イディッシュ語の研究の中心は、オックスフォード大学(Oxford University)とコロンビア大学 (Columbia University)である。両大学ともイディッシュ語の研究学科を有している。オックスフォード大学では16世紀からヘブル語や文学の研究(Yiddish studies programme)が行われているという。コロンビア大学では1952年にYiddish Studies Programが始まったという。この大学はニューヨーク市内にある。
o-OXFORD-UNIVERSITY-facebook  Oxford Universitycolumbia-university-campus Columbia University

ユダヤ人と日本人 その16 「The Yiddish Language」 その1 消滅の恐れーアイヌ語

ユダヤ人の文化や言語を調べていくとイディッシュ語に出会う。筆者には全く知らなかった言葉である。ヘブル語は少しながら知ってはいたが、それも聖書に触れてきたお陰だ。そこでイディッシュ語の存在を知って俄然好奇心が湧いてきた。消滅の危機にある言語といわれるようである。

北海道出身の筆者には、アイヌの地名がついた町や村に慣れ親しんできたのでアイヌ語について考えることはあった。当て字とはいえ、札幌や稚内、美幌、名寄に住んだ筆者には北海道の地名は読める。知床などは読者に読めるだろう。弟子屈、音威子府、標茶、和寒、厚岸、長都、問寒別、納内、野幌、歯舞、厚岸などは大分読めるだろう。発寒、忍路、大楽毛、相内、比布、占冠、訓子府、興部、足寄は如何?輪厚が読めたらたいしたものだ。

アイヌ語は「孤立した言語」とされている。ユネスコによって2009年2月に「極めて深刻な消滅の危機にある言語」と指定された。その理由はアイヌ語が文字を持たないために伝承が難しいのである。今では完全なアイヌ語で会話ができる人は10人も満たないという説もある。そうした人は皆、高齢者であるといわれる。

母校の北海道大学には、わが国唯一のアイヌ・先住民研究センターがある。今は6人の専任スタッフを抱えるまでになった。今後の研究が待たれるが、なんとでもしてアイヌ語が深まるような研究とともに普及活動を願いたい。

そこでイディッシュ語だが、かつてはアシュケナジムによって使われた国際的に通用する言語の一つだったといわれる。繰り返すが、アシュケナジムとは東、中央ヨーロッパに住んでいたユダヤ人の呼称である。
kuna4 ainu-print アイヌ紋

ユダヤ人と日本人 その15 「屋根の上のヴァイオリン弾き」 その3 ショーレム・アレイヘム

今回は、 「屋根の上のヴァイオリン弾き」の作者「ショーレム・アレイヘム」とはどのような「アシュケナジム」であったかという話題である。彼は1859年、ウクライナのキエフ(Kiev)近郊の町で生まれた。当時はロシア帝国の統治下にあって、両親は商売で成功し富裕な家庭に育ったようである。

15歳のとき、小説ロビンソン・クルーソ(Robbinson Crusoe)に感化され小説を書くきっかけとなったといわれる。1883年に著した小説「Two Stones」の中では、イディッシュ語で擬似語である”Sholem Aleichem”という表現を使った。この語は、ヘブル語の”shalom aleichem” つまり「平和がありますように」(Peace be with you)という挨拶語にあたるものであった。その後、アレイヘムはこの擬似語をしばしば使ったといわれる。そして1913年に刊行したのが「テヴィエと娘たち」(Tevye and His Seven Daughters)である。ロシア語でオデッサ(Oddessa)の新聞やロシア系ユダヤ人が経営する最も大きな出版社であるVoskhodなどに投稿する。

1905年に南ロシアでユダヤ人に対する集団的迫害行為:ポグロムが起こる。このポグロムを目撃したアレイヘムは、翌年キエフを発ってニューヨークに移住する。ポグロムはユダヤ人の国外脱出の引き金となりやがてシオニズム運動(Zionism)へと発展していく。こうした脱出は、出エジプト記に源流があることを既に述べた。

一つのエピソードがある。アレイヘムはしばしば「ユダヤ人のマーク・トウェイン(Mark Twain)」と呼ばれた。彼ら二人は類似した文章スタイルやペンネームを使っていた。この二人は同じ人物や子どもを描き、各地で講演活動をしていた。ある時、トウェインはアレイヘムが「ユダヤ系のマーク・トウェイン」と呼ばれているのを聞いて、「今度彼に会ったときは俺は”アメリカ系のショーレム・アレイヘムだ”と伝えてくれ」というエピソードが残っている。1914年、アレイヘムは家族と共にニューヨーク市のマンハッタンにやってくる。
Postage stamp Russia 1959 Sholem Aleichem, Yiddish Writer Sholem Aleichem
Mark_twain2 Mark Twain

ユダヤ人と日本人 その14 「屋根の上のヴァイオリン弾き」 その2 イディッシュ文化

「屋根の上のバイオリン弾き」はもともとは「テヴィエと娘たち」あるいは「酪農家テヴィエ」という劇作であることは前回述べた。さらに「アシュケナジム」が東欧に住みついたユダヤ人の呼称であることも記した。こうした人々が作り上げた文化がある。それがイディッシュ文化(Yiddish Culture)である。

Wikipediaによると、イディッシュ文化はドイツ以外のドイツ語圏の方言であるイディッシュ語を母語とする人をはじめとする文学・音楽・演劇などとある。9世紀から12世紀にかけてラインラント(Rheinland)と呼ばれるライン川沿岸の一帯を指す地方に興り、11世紀以上の大規模なアシュケナジムのポーランドやリトアニアへの移住により、このあたりがイディッシュ文化の中心となったといわれる。

「屋根の上のバイオリン弾き」に戻る。この作品にはウクライナ地方の村でユダヤ人家族が助け合った生きる姿が描かれている。作家ショーレム・アレイヘムはユダヤ教徒の純粋さを描いてユダヤの同志愛の必要性を促したともいわれる。離散した民族がいかにして幸福な生活をおくることができるかは、ユダヤ人としての誇りや文化を大切にすることであることをアレイヘムは訴えたかったのだろう。

アレイヘムは、イディッシュ語をその文化の中心に据え、この言葉こそがユダヤ人の言語であると熱心に喧伝した。ヨーロッパの他の言語と同じように比類のない伝統や特徴を有するがゆえに、誇りうる言語であると叫んだのである。イディッシュイズム(Yiddishism)と呼ぶにととどまらず、この文化性はイスラエル文化の復興運動であるシオニズム(Zionism)に通じるといわれる。
yiddish-alive3  アシュケナジムの子孫

ユダヤ人と日本人 その13 「屋根の上のヴァイオリン弾き」 その1 ショーレム・アレイヘム

ミュージカル好きの読者なら「屋根の上のバイオリン弾き」はご存じのはず。だがこの作品がウクライナ地方の村アナテフカ(Anatevka)にいたユダヤ系ロシア人の家族の生活を描いていることは、意外と知られていない。

「屋根の上のバイオリン弾き」の原作は、「テヴィエと娘たち」(Tevye and his Seven Daughters)であり、別に「酪農家テヴィエ」(Tevye the Dairymanとも呼ばれている。1913年に書かれ、1919年にイディッシュ語(Yiddish)で発表された。1950年代後半に、アメリカでロジャース(Richard Rodgers)やハマースタイン(Oscar Hammerstein)らによってこの原作をもとにしたミュージカルが企画されたようだ。

どうして 「テヴィエと娘たち」が「屋根の上のヴァイオリン弾き」となったかの経緯はわからないが、ローマ時代の虐殺の際に屋根の上で平然とヴァイオリンを弾いていたユダヤ人がいたという。ヴァイオリン弾きhは、冷静で沈着なユダヤ人の魂を象徴しているというのである。テヴィエの家族もそのようなユダヤ人であることを示唆している。こうした聖書理解によって邦文タイトルをつけた人の慧眼に感じ入る。

以上の劇作はともかくとして、この作家はショーレム・アレイヘム (Sholem Aleichem)と呼ばれるユダヤ系のロシア人である。後年はアメリカ国籍を取得するのだが、ユダヤ系のロシア人と呼んだほうが、失礼な響きにもなりそうだがぴたりとくる。それにはわけがある。

ショーレム・アレイヘムはウクライナ生まれのアシュケナージ系ユダヤ人である。何度も述べるようだが、アシュケナジム(Ashkenazim)とは、離散したのユダヤ人のうち主として東ヨーロッパなどに定住した人々やその子孫の呼び名である。ついでだが、中東系ユダヤ人を指す語として「セファルディム」(Sephardim)がある。筆者にはその基本的な違いは分からない。

やがてアレイヘムはユダヤ人のみならず、世界の人々に与えた影響を考えるのである。それはアシュケナージ系ユダヤ人の独特な文化といわれるイディッシュ文化(Yiddish Culture)を世界に知らしめたことである。ユダヤ系のロシア人としてイディッシュ文化の熱心な唱道者となるのである。「屋根の上のバイオリン弾き」の作品はその一翼を担っているように思える。
2_masterworks_fiddler_cast__800x646 テヴィエと娘たちHw Yiddish

ユダヤ人と日本人 その12 ツァーリズムと新たなExodus

前回の話題から少し戻る。「屋根の上のヴァイオリン弾き」を観た人も多いかと察する。主人公テヴィエ家(Tevye)のウクライナ(Ukraine)の農村からの追放が主題である。家族と村人はユダヤ系のロシア人であった。帝政ロシア時代のウクライナであったことだ。

16〜20世紀初まで続くロマノフ朝(The Romanov)を中心とする絶対君主制がツァーリズム(Tsarism)である。ツァーリ(Tsari)とは皇帝を指す。農奴制を基礎にし,厳格な身分秩序と官僚制機構を骨格とした。ロマノフ朝は1613年から1917年までロシアに君臨したロシア史での最後の王朝とされる。

「ユダヤ人の歴史」によれば、ロシアは、ヨーロッパ列強の内で最もユダヤ人に対して非寛容的態度をとっていた。帝政ロシアの揺籃期である15〜16世紀では国民の間にユダヤ教へ改宗の散発的な運動が起こった。しかし流血によって鎮圧された。その後に続く女帝は全て小ロシアからユダヤ人を追い出す勅令を出している。特に1727年に皇位についた女帝(Sophie Yekaterina)は、三度にわたるポーランドの分割により、ポーランドの最も恵まれた部分をロシアに併合する。こうしてロシアは、ユダヤ人口のうち他国の全ユダヤ人人口に優るほどの支配権を有した。

ツァーリの政策であるが、ユダヤ人を新しく獲得した西部のポーランド、いわゆる「居住の枠」に閉じ込めて、帝国内の他の部分に拡がらないようにすることであった。1855年に即位したのはアレクサンドル二世(Nikolaevich Alexander)は、西欧化を試み始める。富裕なユダヤ人商人、大学卒業者、技術者を登用し司法官の道も開いた。

1881年にアレクサンドル二世が暗殺される。それとともにユダヤ系ロシア人に対する激しい迫害が起こる。ユダヤ人襲撃といわれるポグロム(pogrom)である。ちなみにホロコスト(holocaust)は組織的なポグロムである。ウクライナのキエフ(Kiev)、オデッサ(Odessa)で大規模な争乱が続いた。ツァーリは、罪人の処罰ではなく、犠牲者を断固抑圧する方針をとる。その結果悪名高い「5月法」と呼ばれる反ユダヤ法が施行される。その内容は以下の通りである。

1 町以外におけるユダヤ人居住の禁止
2 町以外におけるユダヤ人の商業活動、および土地賃貸の禁止
3 ユダヤ人の日曜日(キリスト教祭日)の商業活動の禁止

村に居住しているユダヤ人の村間の移動が禁止される。ポグロムが起こる。彼らの唯一の希望は逃亡にあったといわれる。ポグロムが爆発するごとに、避難民の波が国境へ向かった。どの列車も船も亡命者で一杯となる。新たなExodus(エジプト脱出)が絶え間なく続いたといわれる。

帝政ロシア、ツァーリにおけるユダヤ人政策は、5月法によってその完成をみる。ユダヤ人の商業活動と都市進出に注目し、それをロシアに同化させ利用しようとした試みも失敗し、最後には差別政策を押し出さざるを得なかった。その背景の一つとしてユダヤ人迫害の伝統のあるウクライナを中心とする民衆運動が、政府に影響を与えたことは無視できない。
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ユダヤ人と日本人 その11 ロシア革命

日露戦争の終結は、ロマノフ家(the Romanovs)のロシア帝政=ツァーリの弱体化が大いに起因していたといわれる。日本の陸・海軍が優勢であったとはとても思えない。へとへとで戦っていたと司馬遼太郎は「坂の上の雲」で書いている。戦争は、総力戦であるから足下に内紛といった火種を抱えていては勝てない。その内紛の一つがツァーリにおけるユダヤ人を含む深刻な民族問題であった。

1917年10月、首都ペトログラード(Peterograd)における労働者や兵士らによる武装蜂起を発端とした革命が起こる。これはロシア革命、あるいはボリシェヴィキ革命(Bolsheviki)と呼ばれる。ペトログラードは今はサンクトペテルブルク(Saint Petersburg)となっている。

ロスの「ユダヤ人の歴史」によれば、ロシア革命直後における共産党員の民族別構成比の統計には次のような記述がある。それは、ユダヤ人の党員中の割合がかなり高いということである。ユダヤ人は知識人の革命家も実に多く存在していたといわれる。トロツキー(Leon Trotsky)、カーメネフ(Lev Kamenev)、ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)、ラデック(Karl Radek)、さらに、社会主義右派勢力のメンシェヴィキのマルトフ(Yuliy Martov)など革命指導者のほとんどは、優秀なユダヤ系ロシア人であったとされる。

1917年頃は、ユダヤ人によって創立された労働運動の母体であるリトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟「ブント(Bundt)」、また、シオニスト社会主義労働者党、ユダヤ人社会主義労働者党、社会民主主義労働党などの、ユダヤ人による社会主義、民主主義諸政党も盛んに活動していた。

ロシア革命以後、ユダヤ人は教育機関など公職における役職、企業の管理部門、その他重要なポストに昇進した。しかし、これは彼らの敵対者の憎悪を呼び起こし、”コミュニストはユダヤ人だ”、ないしは”ユダヤ人はコミュニストだ”というスローガンを助長することになった。こうした革命とユダヤ人の活動、やがて襲う粛正のことは、トロツキーの「ロシア革命史」に詳しい。

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ユダヤ人と日本人 その10 日露戦争とジェイコブ・シフ

毎週、再放送されている「坂の上の雲」を観ている。司馬遼太郎の文章もいいが、ビデオもいい。日露戦争の緊張が伝わる。この戦争は日本の命運を賭けた一大事件ともいえるものである。なぜヨーロッパの大国ロシアを相手に戦いを挑んだのか。戦争を遂行するだけの国力や財があったのかが知りたくなる。調べていくとそこにユダヤ人と日本との関わりがあったようだ。

アジアにおける帝国主義は、とりわけ日本とロシアの関係に緊張をもたらす。ロシア帝政=ツァーリの満州や朝鮮への進出が日本の権益とぶつかるのである。当時日本は、欧米列強にくらべ経済力でも軍事力でも大きく立ち後れていた。にも関わらずロシアとの戦争を予想していた。そのためには戦時国債として1,000万ポンドを調達する必要があった。

日銀副総裁であった高橋是清が外債募集のためアメリカにわたる。だが交渉は失敗に終わる。次に日英同盟が結ばれていたイギリスにわたり、そこでユダヤ系のアメリカ人銀行家であったジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)に会う。そして彼の経営するクーン・ローブ社(Kuhn Loeb)から500万ポンドの融資交渉に成功する。シフらの支援を受けて、残り500万ポンドの国債もイギリスの金融機関から引き受けて貰うことになる。

こうして1904年5月、日本は戦時国債を発行することができた。今でいえば200億円くらいの調達額にあたる。以後、日本は3回にわたって公債を募集する。シフはドイツのユダヤ系銀行やリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)やニューヨークのウォール街(Wall Street)における日本の資金調達に尽力する。こうしたシフの日本への強力な資金援助は、日露戦争における日本の勝利と帝政ロシア崩壊のきっかけをつくることになったといわれる。

Wikipediaによれば、シフの日本に対する融資の理由は、ロシアでのユダヤ人迫害といわれるポグロム(pogrom)に示されるツァーリによる反ユダヤ主義(Anti-semitism)に対する反対であったようである。特に1903年、今のモルドバ(Republica Moldova)の首都であるキシナウ(Kishinev)で発生した大規模なキシナウ・ポグロム(Kishinev pogrom)にシフは唾棄しそれへの痛烈な非難を向けたいう。

シフのツァーリ打倒運動は、第一次世界大戦の前後を通じて世界のほとんどの国々に融資をしてきたことに示される。さらに1917年にレーニン(Vladimir Lenin)、トロツキー(Leon Trotsky)に対して資金を提供してロシア革命を支援した。ついでだがトロツキーはユダヤ系ロシア人であった。

日露戦争が終わり、1905年のポーツマス条約の締結によって南樺太が日本に割譲される。これにより国策により大勢の移住者に混じって筆者の父方の成田家、母方の吉田家も南樺太へ向かう。筆者は樺太生まれである。
cfd6ac01e70baa4c43114dc3c7ddda6a Treaty_of_Portsmouth ポーツマス講和会談

ユダヤ人と日本人 その9 ユダヤ人と金融資本の成立

誠に根拠が稀薄なのだが、なぜかユダヤ人はずる賢いとか守銭奴といわれてきた。ユダヤ人は周りからそのように仕立てられてきたと、哲学者、サルトルは云う。だがユダヤ人の商取引における傾向とは、銅貨や金貨や紙幣に対する愛着からではない。貨幣のような手にとって確かめられるものは、実は危ういものだということを知っていたのである。このあたりの感覚はユダヤ人の特徴のようだが、なにがそのように敏感にするのかが、筆者にとって驚きなのである。

彼らにとって大事なものは、債券とか小切手とか、銀行預金とかの抽象的なものである。ユダヤ人が執着するのは、金の感覚的なものというよりはむしろ抽象的な形象である。それは誰もが持つ購買力という普遍的なものとされる。購買において、買い手はどのような人種であってもよい。買い手の特質によって商取引が変化することもない。

例えば武器は敵も味方も欲しがる。購買力とはそのようなものである。ユダヤ系のアメリカ人銀行家であったジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)がかつて日露戦争の戦費調達のために、日本の国債を引き受けたり、ロシア革命政府に資金援助したことはそういうことである。物品の値段はどのような買い手にも向けられている。ただ、シフの行動は反ユダヤ主義への抵抗や日本軍の士気の高さがその動機であった点が通常の取引とは異なるようだ。シフのことは後日触れることになっている。

やがて金融資本というのがひろまる。資本主義が帝国主義の段階に入った段階に出現したといわれる。ユダヤ人は、世の中の動きを情報網から正確に集めてきた人種といわれる。19世紀末から20世紀にかけ、資本の蓄積が進行する一方において、ヨーロッパの諸銀行が競争によって淘汰され、少数の巨大銀行が多額の貨幣資本を有する状態となった。株式会社制度の発展とも重なり、産業資本家の持つ産業資本は銀行資本と重なる。銀行資本も産業資本へと転じるようになる。

銀行と企業のつながりは、筆者には複雑だとは思われない。それはそうだろう。銀行はその業務として企業の実態を把握し、人を送り込んで産業を支配する。産業もまた銀行株を所有して銀行経営に携わる。かくて銀行資本は産業資本に転化し、産業資本は銀行資本の担い手となるという構図である。日本でもどこでもこのような現象はみられる。だが、ウェルズ・ファーゴ(Wells Fargo)、ゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)、ソロモン・ブラザーズ(Salomon Brothers)といった世界規模の企業にいかにしてユダヤ人は発展させたのか、そこが知りたいのである。

ユダヤ人と日本人 その8 サルトルの反ユダヤ主義への批判

フランスの哲学者、サルトル(Jean Paul Sartre)は、「ユダヤ人」(岩波新書)の中でユダヤ人迫害の原因を指摘する。聖書に始まりホロコストに至るまで、反ユダヤ主義とか反セミティズム(Anti-semitism)は、すべての社会悪の責任をユダヤ人になすりつけ、選民的全体主義をつくる手段であるという。

「もしユダヤ人が存在しなかったなら、反ユダヤ主義者はそれに代わるものをつくりあげただろう。それは黒人であり有色人種であったりする」。そしてサルトルは、反ユダヤ主義にあっては、被害者側にはその理由は見あたらず、加害者側にあったことを断言する。

反ユダヤ主義に耽溺する者は、ユダヤ人から金銭と暗さを連想する。シェイクスピア(William Shakespeare)の「ヴェニスの商人」(The Merchant of Venice)に登場する守銭奴のシャイロック(Shylock)のような陰険な存在、フリーメーソン(Free Mason)をはじめとする秘密結社を結ぶ反社会的勢力と考えがちである。

呪われたユダヤ人は、呪われながらも欠くことのできぬ職業についていた。土地をもつことも軍隊に加わることもできなかった彼らは、金銭の取引を行っていたが、それはキリスト教徒が近寄ることのできぬ職業だったからである。伝統的な宗教的嫌悪という呪いに加えて、経済的な呪いが加わったのである。こうした金銭に関する職業という非生産的な職業についていることを反ユダヤ主義は軽蔑し非難するが、反ユダヤ主義者こそがユダヤ人に対して、全ての職業を禁じたからに他ならない。「キリスト教徒がユダヤ人を創造した」とサルトルは云う。

不幸にして、こうしたユダヤ人に対する否定的な概念は、物理学者のアインシュタイン(Albert Einstein)やオッペンハイマー(Robert Oppenheimer)、小説家のカフカ(Franz Kafka)、作曲家や音楽家のガーシュイン(George Gershwin)やスターン(Isaac Stern)、俳優や映画監督のチャップリン(Charles Chaplin)やスピルバーグ(Steven Spielberg)、哲学者アーレント(Hannah Arendt)といった輝かしい人物をもってしても拭い去ることは困難なほどである。

日本にまでこうした否定的な反ユダヤ主義が染み込んでいるのは、論理的、経験的な理由からではない。日本はどうか。戦争中、中国人や朝鮮人に対してどのような態度でどのように臨んだかを考えてみる。果たしてどのような根拠があって大東亜共栄圏なるものを作りあげたのか。決して反ユダヤ主義は人ごとではないことがわかる。反ユダヤ主義は理性的な思想とは全く別物である。むしろ情熱であるとサルトルは云う。
French Philosopher and Novelist Jean-Paul Sartre  Jean Paul Sartre

ユダヤ人と日本人 その7 ユダヤ人の遍歴 その2

前回に続き、「ユダヤ人の遍歴その2」である。中世に追放されたユダヤ人の多くは東方へと移民した。ポーランド(Poland)、オーストリア(Austria)、ボヘミア(Bohemia)、モラヴィア(Morabia)などの地域へ拡散したことを記した。特にユダヤ人が多かったのがポーランドであった。

Wikipediaによれば、1025年から500年間続いたポーランド王国(Kingdom of Poland)は立憲君主制の先駆けといわれる。民族や宗教の多様性が顕著で、宗教的な寛容さが実現していたといわれる。その一例が「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」発布である。これによってユダヤ人の安全と個人の自由を保障し、ユダヤ人らは安心して自分たちの信仰を守り、商売を行い旅行することができたといわれる。

その間、イスラム教徒(Muslim)によって「聖地」が冒涜されているとか、巡礼者への冷たい対応に対する救援を依頼するようになる。そこで異教徒より聖地を取り返すことを目的として二世紀の間、8回の十字軍(Crusade)が派遣される。キリストの流した血は、彼を殺したユダヤ人の血を流すことで仇討ちするということにも発展するのである。だが、イスラム教徒の攻撃により壊滅し逃走を余儀なくされたり、奴隷になったり死亡する者も大勢いた。異端への布教とか討伐という十字軍が失敗するのである。ユダヤ民族の殉教の時代を迎えるのである。

アーサ・ケストラー(Arther Koestler)の「ユダヤ人とは誰か」によれば、西ヨーロッパのユダヤ人が定住したのは、今のフランスとドイツにまたがるラインラント地域(Reinland)ある。だが第一次十字軍においては、ラインラントで多数のユダヤ人が十字軍運動に熱狂したドイツ人などにより虐殺されたと云われる。さらに1290年にはイングランドから、1394年にはフランスからユダヤ人が追放された。15世紀になるとドイツ諸邦でも、神聖ローマ帝国やドイツ騎士団、大司教などによってユダヤ人は迫害や虐殺されたりした。

ユダヤ人はヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ交易商人だったが、ヨーロッパ・イスラム間の直接交易が主流になったこと、自分たちへの迫害により長距離の旅が危険になったことから、定住商人へ、さらにはキリスト教徒が禁止されていた金融業(銀行業)へと進出していく。キリスト教社会では、金融業は「身を汚さずには近寄ることもできない」卑しい職業=金貸しと見なされていたのである。やがて「ユダヤ人高利貸」というステロタイプな呼び方はこうして定着するようになる。
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ユダヤ人と日本人 その7 ユダヤ人の遍歴 その1

紀元前17世紀、アブラハム(Abraham)、イサク(Isaac)、ヤコブ(Jacob)などユダヤ民族の族長らがイスラエルの地に定住する。もともとユダヤ人は農耕や牧畜に従事していた。しかし飢饉によりユダヤ人はエジプトへの移住を余儀なくされる。

紀元前13世紀頃、イスラエルの民はモーセ(Moses)に率いられてエジプトを脱出しシナイ半島(Sinai)の砂漠を40年間流浪し、やがてイスラエルの地に定住しユダ王国(Kingdom of Judah)を建設する。首都はエルサレム(Jerusalem)、初代王はサウル(Saul)となる。このあたりは地中海とアラビヤの砂漠に囲まれた肥沃な土地であった。この史実は出エジプト記(Exodus)の1章から4章に詳しい。有名な十戒(Ten Commandaments)は同記20章に記述されている。

だが紀元前597年、ユダ王国がバビロニア(Babylonia)の王ネブカドネザル(Nebuchadnezzar)によって滅び、捕虜となったユダヤ人が現在のイラクの南部にあたるメソポタミア(Mesopotamia)に移住を強いられる。これがバビロン捕囚(Babylonian Captivity)である。エジプト脱出が序章とすればバビロン捕囚はユダヤ人流浪の第二章といってもよい。

時代は中世に移る。追放されたユダヤ人の多くは東方へと移民した。まずはオーストリア(Austria)、ボヘミア(Bohemia)、モラヴィア(Morabia)、ポーランド(Poland)などの地域へ移住する。ポーランド王国は1264年にポーランド中央部の都市カリシュ(Kalisch)において「カリシュの法令」、別名「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」を発布してユダヤ人の社会的権利を保護した。こうしてポーランド地方はユダヤ人にとって非常に住みやすい国となった。彼らは後にポーランド・リトアニア(Lithuania)共和国の全地域へと拡散した。

こうして大きなユダヤの民族集団が東ヨーロッパや地中海を端から端まで移動することになるのだが、シースル・ロス(Cecil Roth)は「ユダヤ人の歴史」の中で「その特徴は自分たちの宗教だけでなく、自分の文明も一緒にもって移動することに成功した」と指摘する。この事実が、幾多の迫害を受けてきたにも関わらず、今に至るまで宗教的伝統や生活を高度に維持し、世界に存在感を示しているというのである。
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ユダヤ人と日本人 その6 なぜユダヤ人に関心を抱くのか(2)

私がユダヤ人に関心を抱くきっかけとなったもう一つの理由は、その民族の不思議な歴史にある。これほど流浪を続け迫害を受けた人種はないであろうと思うほどである。旧約聖書にある出エジプト記にある「エクソダス」(Exodus)はユダヤ人の流浪の始まりである。そうして全世界に離散(diaspora)していく。

「エクソダス」は、旧約聖書の申命記(Deuteronomy)などで記述される「乳と蜜の流れる場所(a land flowing with milk and honey—the home of the Canaanites)」、「豊穣の地」、「 恩寵の地」、「安住の地」を求める旅である。神がアブラハム(Abraham)の子孫に与えると約束したカナン(Canaan)である。カナンは地中海とヨルダン川、そして死海に挟まれた地域といわれる。

離散された民、ディアスポラは離散先での永住と定着を示唆している。そこには偏見や差別に満ちた世界でもある。だが彼らは難民ではない。難民は元の居住地に帰還する可能性がある。ディアスポラにはそれがない。

近代の「エクソダス」は中東からヨーロッパへの大量移住がよく知られている。ユダヤ系のディアスポラのうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々とその子孫はアシュケナージム(Ashkenazim)と呼ばれる。語源は創世記10章3節に登場するノア(Noah)の子孫として「アシュケナズ」(Ashkenazi)である。

アシュケナージムの離散の歴史を調べると、まさに過酷さのそれといえそうである。その最たるものが、精神科医ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl)の「夜と霧」に記される強制収容所送りであろう。この体験記の翻訳はみすず書房から1946年に出版された。
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ユダヤ人と日本人 その5 なぜユダヤ人に関心を抱くのか(1)

このシリーズの最初に記したが、私には留学中にお世話になったユダヤ系のアメリカ人がいる。現在、ミルウォーキー(Milwaukee)の郊外で整形外科の医師をしている。熱心なロータリークラブ(Rotary Club)の会員で週一の例会は欠かしたことがない。出張したときは、近くにある別のロータリークラブの例会に出席するのだそうだ。奉仕活動にも積極的に参加し、中南米の医療チームに加わったりした。

私は国際ロータリインターナショナル(Rotarty International)からの奨学金でウィスコンシン大学で学ぶことができた。そのスポンサーがこの人である。名前はDr. Robert Jacobsという。Jacobsとはユダヤ人の名、「ヤコブ」と日本語では表記される。

大学に入って早々、留学生を迎えるためにマディソンまでワゴン車で迎えにきてくれた。そしてご自宅にホームスティさせてくださった。その時、ご自身が長老をされているシナゴーグ(Synagogue)に連れて行ってくれた。礼拝所に入る前にヤマカ(yamaka)という帽子をちょこんと頭に載せた。Dr. Jacobsは熱心なユダヤ教徒である。

さてユダヤ教のことである。ユダヤ教がキリスト教と一線を画する点は、新約聖書(New Testament)イエス・キリスト(Jesus Christ)の誕生には言及しないことだ。旧約聖書における唯一の神、ヤハウェ(Yahwe)を拠りところとする。ヤハウェは全世界の創造神とされる。なお新約聖書では、エホバというように使われる。

ユダヤ人の精神性は二つの律法から形成されていると考えられる。一つはトーラ(Tola)である。モーゼが記したといわれる旧約聖書の最初の5つの書のことを指す。トーラは律法のことである。もう一つはタルムード(Talmud)である。ユダヤ人の生活、宗教、道徳に関する口伝で語り継ぐべき教えの集大成である。

Dr. Jacobs家の先祖は、第一次大戦後、東欧ポーランドのあたりから迫害を逃れアメリカ大陸に移民してきたのだそうだ。人種差別や迫害の歴史はユダヤ人のことであるといっても過言でないほど、翻弄されたものである。私はこのことをDr. Jacobsから教えられた。
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ユダヤ人と日本人 その4 「Le Concert」から考える(4)

ユダヤ系ロシア人音楽家の苦悩と喜びを描いた映画「Le Concert」の大団円である。

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そして遂に公演の夜になる。パリ市内で好き勝手なことをしてた団員は、携帯電話からの連絡で公演がリアを追悼する演奏会であることを知らされ劇場に集まってくる。だが一度もリハーサルはしていなかった。

その間、ボリショイ劇場の支配人がたまたまパリに休暇にきていた。そして偽のボリショイ楽団の演奏会のポスターを目にする。あわてて演奏を中止しようとする。マネージャーのガブリロフは支配人を清掃具入れに押し込めて演奏中止を阻止する。

公演の幕が上がる。だが練習不足やリハーサルなしのぶっつけ本番で調子っぱずれの演奏が始まる。聴衆はざわつく。それでも、団員が自主的にハーモニーを引きだそうとするアンドレの演奏の理念を団員は知っていた。そして、アンマリーの類い稀なるヴァイオリン独奏の技巧は聴衆を魅了する。彼女の技巧は、実は母親であったリアが注釈をつけた楽譜から学んだものであった。

公演は大成功裏に終わり、その後この楽団はアンドレを指揮者とする「アンドレフィリポ・オーケストラ」として再出発する。世界各地での演奏会にはアンマリーがいつも独奏者として同行するのだった。

この映画は偏見と差別、迫害を描いて残酷である。ユダヤ系ロシア人は長い厳しい道を歩んできた。それでもなお弛まなく挑戦する姿に共感と感動を与えるのである。

ユダヤ人と日本人 その3 「Le Concert」から考える(3)

 

ソ連体制から”ユダヤ主義者は人民の敵”と称されたユダヤ系の演奏家の矜持を描いたフランス映画「Le Concert」の続きである。
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いよいよ、なりすましのボリショイ楽団はパリ公演にでかける。パスポートを業者に偽造させたり、楽器は借り物、演奏会用の洋服や靴をそろえるなどドタバタが続く。そしてパリにやってくる。だが団員は物見遊山ツアー気分で、パーティを楽しんだり、持参したキャビアを売ったり、タクシーの運転手などをして金儲けを始める。団員は集まらずリハーサルは流れてしまう。

このような団員のプロ意識の低さやアンドレの音楽界復帰のチャンスという意図に嫌気をさしたアンマリーは出演を断る。それをきいたチェロ奏者のアブラモビッチは、彼女に対してこの公演はアンマリーの過去や未だに会ったことのない両親を思い起こす機会となるとして出演を説得する。アンマリーは、幼い頃から両親は科学者で、アルプスで亡くなったきかされていた。

アンドレと妻のイリーナ(Irina)はユダヤ人音楽家であったリア、イヤーク・ストルム夫妻( Lea and Yitzhak Strum)の親友であった。リアはヴァイオリン奏者で、KGBによって演奏を停止させられた時のヴァイオリン奏者であり、指揮者はアンドレであった。

二人は自由ラジオヨーロッパ局やアメリカラジオ局を通じてブレジネフ政権やKGBの圧政と弾圧に公然と批判する。KGBが二人を連行しようとしたとき、二人はフランスからモスクワに公演にきていた楽団で演奏していたギレーネ(Guylene)に乳飲み子を託し、ギレーネはその赤子をチェロのケースに隠してパリに逃れるのである。その赤子こそがリアの娘アンマリーであった。
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ユダヤ人と日本人 その2 「Le Concert」から考える(2)

ソ連の政治体制への批判やユダヤ系ロシア人の気概がおかしみと真剣さを込めて描かれているフランス映画「Le Concert」の2番目のプロットである。

KGBのエージェントであったガブリロフ(Ivan Gavrilov)は、アンドレのパリ公演案を彼なりに注目し、一儲けをしようとしてアンドレのマネージャとなる。だがアンドレから公演を持ちかけられたかつての首席チェロ奏者アブラモビッチ・グロスマン(Abramovich Grossman)はこの計画に疑心暗鬼であったが、結局それに加わることにする。

ガブリロフとアンドレは、シャトレ劇場に対していろいろな要求をつきつける。パーティとかセーヌ川船上での夕食会などである。それは、ロスアンジェルス交響楽団を招くよりも費用が安いというのが要求の理由であった。また、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏者をパリに在住するアンマリー・ジャケ(Anne-Marie Jacquet)とすることも要求する。

ところがアンマリーはこの協奏曲を一度も弾いたことがなかった。だがボリショイ楽団と演奏したかったこと、さらにロシア以外でも有名だったアンドレと一緒に演奏したかったので、演奏依頼を引き受ける。

アンマリーの付き人であるギュレーネ・リビエラ(Guylene Riviera)は実はアンマリーの養母であった。彼女はこの演奏会にアンマリーが出演することにためらっていた。その理由は、ギュレーネがアンドレの過去を知っていたからだった。

さて、なりすましのボリショイ楽団は知名度の高かったマフィアのボスから支援を受ける羽目になる。このボスは自分も技術は酷いのだが舞台でチェロを弾きたいと願い出る。
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ユダヤ人と日本人 その1 「Le Concert」から考える(1)

しばらく「ユダヤ人と日本人」というテーマを考えていく。私個人の留学におけるユダヤ系アメリカ人スポンサーとの交誼、戦前の杉原千畝氏の活躍や満州で近所に一緒に住んでいた白系ロシア人との付き合い、父や叔父が樺太で抑留されていたときのロシア人との交流、1970年頃読んだ「日本人とユダヤ人」と著者イザヤ・ペンダサンなどがこのテーマの下敷きになっている。

「Le Concert」という映画を観た。2009年にフランスで製作された。一見コメディ風だがロシアの政治体制や人種、マフィアなどへの風刺もきき、音楽の素晴らしさを交えながら、社会問題を掘り下げた味わい深い佳作である。特に体制への批判やユダヤ系ロシア人の気概がおかしみと真剣さを込めて描かれている。

さて本シリーズは、映画「Le Concert」のあらすじから始める。舞台はモスクワ(Moscow)のボリショイ(Bolshoi Theater)劇場である。かつてボリショイ歌劇場交響楽団(Bolshoi Theater Ochestra)で世界的な指揮者「マエストロ」といわれたアンドレ・フィリポ(Andrey Simonovich Filipov)は、今は同劇場の掃除夫として働きアル中になっている。

アンドレは30年前に、当時のブレジネフ政権(Leonid Brezhnev)によるユダヤ人楽団員の排斥に抵抗したために、チャイコフスキー(Tchaikovsky)のヴァイオリン協奏曲を演奏中にKGBのエージェントであるイワン・ガブリロフ(Ivan Gavrilov)によって中止させられ、団員とともに楽団を解雇され掃除夫となる。

劇場支配人の部屋を掃除しているとき、一枚のファックスがでてきた。アンドレはそれを手にとって読むと、パリの有名なシャトレ劇場(Chatelet Theatre)からのもので、ロスアンジェルス交響楽団(Los Angeles Philharmonic Orchestra)の代わりにボリショイ楽団にパリで演奏してもらいたいという招待状であった。アンドレはそのファックスを手にして、かつての団員に呼びかけオーケストラを組織し、ボリショイ楽団になりすましてパリで公演しようと画策する。

古いユダヤの音楽やジプシー音楽を弾いているかつての団員など、追放された仲間に声をかけてチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をシャトレ劇場で演奏しようと持ちかける。この曲はKGBによって中止に追い込まれた怨念の曲であった。
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