ユダヤ人と私 その17 ユダヤ人の日本とのつながり ヨセフ・トランペルドール

マーヴィン・トケイヤー師(Rabbi Marvin Tokayer)は著者の中で、日本とユダヤの関係は、日本がユダヤから影響を受けるだけでなく、日本がイスラエルに大きな影響を与えたこともあったというエピソードも紹介しています。

Die sogenannten “Hep-Hep-Krawalle” in Frankfurt am Main, Antisemitische Ausschreitungen in Deutschland 1819; Radierung, zeitgenössischOriginal: Frankfurt am Main, Historisches MuseumStandort bitte unbedingt angeben!;

日露戦争で捕虜となったヨセフ・トランペルドール(Joseph Trumpeldor)のことです。数千人のロシア兵捕虜の一人として大阪は堺市の捕虜収容所で暮らします。彼は収容所での親切な扱いに感激し、日本のような小さな国がどうして大国ロシアに勝てたのかと考え、「日本を手本としたユダヤ人国家を建設する」と誓ったとか。収容所内でユダヤ人に関する新聞を発行し、小さな教室を開いて歴史や地理、文学に関する講義をしたようです。後にトランペルドールはシオニスト運動に加わり英国軍とパレスティナの各地で戦いイスラエルの建国に尽くします。

少し遡りますが1848年には、那覇にユダヤ系で当時はイギリス国籍であった医師兼プロテスタント宣教師のバーナード・ベッテルハイム(Bernard Bettelheim)とその家族がやってきます。本土でユダヤ人共同体が構成されたのは万延元年の1860年頃といわれ、開港間もない長崎の外国人居留地にコミュニティがつくられます。横浜の外国人居留地には、幕末の時点で50家族のユダヤ人が住んでいたとあります。横浜は山手の丘の上にある外国人墓地では、ユダヤ教の象徴である「ダヴィデの星」の墓碑をみることができます。

1861年には、ロシアやポーランドで集団的迫害であるポグロム(Pogroms)を受けたユダヤ系の難民が長崎に上陸します。さらに1894年頃、長崎に日本初の礼拝所であるシナゴーグ(Synagogue)がつくられます。このシナゴーグは別名ケヒッラー(Qehillah)と呼ばれるユダヤ教徒のコミュニティのことです。技術者、船員、商人が多く、シナゴーグと宗教的指導者であり学者でもあるラビ(rabbi)をおいて、学校もつくったといわれます。こうした記録は墓銘などから分かっています。ユダヤ人にとって宗教的な教育は大事な活動だったことが伺われます。

ユダヤ人と私 その15  ユダヤ教とキリスト教の論争

19世紀に入り、近代化の流れの中でヨーロッパに政治運動としてのシオニズム(Zionism)が台頭します。その理由は、ナポレオン一世(Napoleon Bonaparte) が征服した国々の中でユダヤ人の平等視を命じたことにあります。こうして一方でヨーロッパでユダヤ人が政治的に解放されていくにつれ、他方でユダヤ教の民族性脱却の考え方への不満を反映していく機運が高まっていきます。これがシオニズム運動です。

のような経緯かといいますと、伝統的なユダヤ人とユダヤ教がローマ・カトリック教会(Roman Catholic Church)やプロテスタント教会(Protestant Church) と同じように民族性を越えた信仰者の団体であるべきことを確信するユダヤ人との間で激しい論争が交わされていたことです。この論争を終息させたのは、皮肉にもナチス時代の迫害でありました。

ユダヤ教の立場からは、キリスト教はユダヤ教の異端の一つであるという見方です。この二つの宗教の確執は2000年にもわたります。キリスト教の側は、キリスト教が契約の真に成就した教義として宣言します。しかし、両者の新しい和解の芽生えが1993年のヴァチカン(Vatican)とイスラエル(Israel)との外交関係の樹立です。単に政治的な関係の改善だけでなく、和解という宗教的な意味を持つできごとでした。

和解の具体的なこととして、両者がパレスチナ(Palestine)の重要な役割を認識すること、ユダヤ人コミュニティの教会的な定義づけが歴史に公正な判断を下すことにならないこと、ユダヤ教が観念的な教義で成り立つと見なすことは神学的に健全でないこと、反ユダヤ主義や人種差別と対決すること、礼拝の自由を擁護し、ユダヤ教、キリスト教の聖地を尊重することなど、政治的な内容を越えたものが盛り込まれます。

ユダヤ人と私 その13 エスノセントリズムとホロコスト

ユダヤ民族の悲劇は第二次大戦中のホロコスト(Holocaust)です。Encyclopaedia Britannicaによりますと「Holocaust」は「神への焼かれた生けにえ」という意味のギリシャ語を語源とする言葉といわれます。ホロコストは、生けにえを捧げる儀式「燔祭」から由来し、後にナチスが組織的に行った大量虐殺のことです。旧約聖書の「創世記」(Book of Genesis)には、年老いたモーゼ(Moses)と不妊の妻サラ(Sarah)との間にもうけた一人息子イサク(Isaac)を生けにえとして捧げるよう、モーゼが信じる神によって命じられるという試練の記述があります。

エスノセントリズムの代表例がホロコストです。自分の属する内集団と,属さない外集団との差別を強く意識し,内集団には肯定的服従的態度を,外集団には否定的敵対的態度をとる精神的傾向を指します。これが極端になるとユダヤ人迫害のホロコストにみられるような極端な排外主義になります。アングロサクソン(Anglo-Saxons)を含むゲルマン(Germanic peoples)民族の選民思想や人種思想を標榜したのがナチスドイツでありました。

ワシントンD.C.のモール(Mall)の一角にホロコスト記念博物館(Holocaust Memorial Museum)があります。1993年4月に開館した比較的新しい博物館です。ついでながら、この博物館で私の国際ロータリー奨学金のスポンサーであるDr. Robert Jacobsの名前が寄付者の碑にありました。

ユダヤ人と私 その12 選民思想と「エスノセントリズム」

反ユダヤ主義者(anti‐Semites)は、「ユダヤ教は強烈な選民思想であり、民族や人種の文化を基準として他の文化を否定的にとらえる自民族中心主義である」などと主張します。それはユダヤ人への偏見と憎悪に満ちた見方であります。ユダヤ人は散らされた民であるがゆえに、共同体をつくり、知恵を絞り懸命に働いて財をなし、生き延びなければならなかった歴史があります。

4月14日、最近になって顕在化する反ユダヤ主義的な言動は、一時的な苛立ち、それとも無理解、あるいは単なる無知からくるものなのだろうか。写真は2014年9月、ベルリンで行われたユダヤ人差別に反対する大規模集会の開始を待つ男性(2017年 ロイター/Thomas Peter)


ユダヤ人は、神が選びだして聖なる使命を与えた民族であり、神との間に特別な「契約」を結んだ民族であるということを信じています。ユダヤ人は選ばれた民族であることを誇りにしますが、理不尽に他を排除することはありません。ですが安全保障を脅かす者に対しては,武力などあらゆる手段を講じます。その例は三度にわたる中東戦争であり、エルサレム(Jerusalem)のユダヤ化政策であり、分離壁の建設です。この意味で、現在のイスラエルは軍事国家といえるのです。

選民であるという思想は、しばしばエスノセントリズム(ethnocentrism)と関連しています。エスノセントリズムは、自文化中心主義ともいわれ、自己の属する集団のもつ価値観を据えて,異なった人々の集団の行動や価値観を評価しようとする見方や態度を指します。キリスト教での定義では「選ばれた」という状態は自らを卑下する思想とされます。この考え方は他者よりも多くの責任を負い、ときに自分を犠牲にするという姿勢です。ユダヤ教の選民思想とは異なります。

ユダヤ人と私 その11 「戦場のピアニスト」

映画は、私たちが文字で学ぶ歴史を可視化してくれる不思議なメディアです。歴史の場にいなくても歴史の事実を追体験させてくれ、我々の知性や悟性を大いに刺激してくれます。

「The Pianist」という映画がありました。ここに登場するのは、第二次大戦のポーランド・ワルシャワ(Warsaw)と苦悩する市民です。破壊尽くされた街を一人の男がとぼとぼと食料かなにかを求めて歩いています。これが有名なピアニスなどとは誰も想像できません。戦争は人間を貴賤の別なく、哀れな存在としておっぽり出すのです。栄光も名誉もかなぐり捨てて食べ物をあさる人々がそこにいるのです。

「The Pianist」は、ポーランドに住み、ピアニストとして活躍していたユダヤ人ウワディスワフ・シュピルマン(Whadyshaw Szpilman)の生き様を描いています。シュピルマンは、廃墟でピックルス入りの缶詰を拾い、それを開けようとします。そこにドイツ軍将校が立っています。「お前は誰か?」、「お前の職業はなんだったのか?」とシュピルマンにきく。

シュピルマン:「ピアニストだった。」
将校:「では弾いて貰おうか。」

半信半疑の将校は、ピアノのある部屋にシュピルマンを案内します。こうしてシュピルマンはピアノに向かってしばらく沈黙し、そして意を決して弾き始めます。曲はショパン(Frederic Chopin)のバラード一番、ト短調(Ballade NO.1, G minor)。戦争の最中、将校は至福の時間を過ごすかのように聞き惚れるのです。

弾き終わると自分のマントを寒さにあえぐシュピルマンに与えます。その時からピアニストに食料を届けるのです。将校の名はウィルム・ホーゼンフェルト(Wilm Hosenfeld)。弾く者と鑑賞できる者に国籍はいりません。この瞬間に二人には戦争もありません。

ユダヤ人と私 その10 「シンドラーのリスト」

「シンドラーのリスト」(Schindler’s List)という映画には、見応えのある印象的な手法が随所に散りばめられています。監督スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)がいかに創造的な映画制作者であるかを考えさせられる作品でもあります。

登場するシンドラー(Oskar Schindler)はドイツ人の実業家です。ドイツ軍への食器類を製造しています。決して死の商人ではなく、ドイツ人将校を賄賂で手玉にとり、ビジネスを発展させるのです。ですがユダヤ人に対するナチスの苛酷な対応に次第に疑問を持ち、少しでも彼らを救おうと決心します。シンドラーの改心ともいえるところがこの映画の一つの見所です。

シンドラーは、ポーランドのクラカウ・プラショフ(Krakow-Plaszow)という街で琺瑯食器工場を造り、軍に納めるのです。そこで闇マーケットで活躍するスターン(Itzhak Stern)というユダヤ人を会計士として雇い、ビジネスを展開します。シンドラーとスターンは工場経営のために、いろいろなところから融資を受けます。そして多くのユダヤ人を工員として採用するのです。これによって強制収容所行きを免れるのです。

クラカウ・プラショフ強制収容所の所長としてエーモン・ゲート(Amon Goeth)という将校が赴任すしてきます。残忍な手法でユダヤ人を苦しめるのですが、シンドラーは巧みに振る舞い、賄賂によってゲートからいろいろな譲歩を引き出します。シンドラーはゲットーや収容所での恣意的な拷問や殺害を目撃します。一人の少女が赤い服を着てナチスから逃れようします。だが、シンドラーはやがてこの赤い服を着て冷たくなった少女が手押し車に積まれて運ばれるのを目撃するのです。

ユダヤ人と私 その9 Hannah Arendtと「凡庸な悪」

アドルフ・アイヒマンの裁判は1961年4月にエルサレムで開始されます。この様子は世界中に報道されます。罪状は「人道に対する罪」や「ユダヤ人に対する犯罪」ということです。

ユダヤ系のアメリカ人であるハナ・アーレント(Hannah Arendt)は、原告と被告とのやりとりを傍聴し、その記録を精査しながら、1961年に雑誌「The New Yorker」において、「エルサレムにおけるアイヒマン:凡庸な悪」と題して投稿します。その中で、被告は思考を停止した「凡庸な悪(Banality of Evil)」を実行した人物であり、命令を忠実に実行し、その行為と結果になんらの評価もせぬ一凡人であり、弾劾するに値しない人物だと看破するのです。

この裁判は、世界中の人々の監視にさらすことで公正な裁き期そういう意図ですが、アーレントはセンセーションを煽るようなこのような裁判に疑問を投げかけます。こうして彼女は、ホロコストの犠牲者に対する冷酷で憐れみのない人間として、同胞やの友人から強い批判を受け、教鞭をとっていたニューヨーク市内のThe New Schoolからは辞職を勧告されます。だが彼女の信念は揺るぎません。

「人間は人道的、技術的な知力を身につけるにつれ、行動の結果を制御する能力がなくなくなるパラドックスに直面する存在である」とアーレントはいいます。このパラドックスは現代においても私たちを脅かし続けています。例えば、核開発競争と平和運動であり、自由貿易主義と保護貿易主義のせめぎ合いといったことです。

ユダヤ人と私 その8 映画「Hannah Arendt」

映画「Hannah Arendt」を観た方はいるでしょうか。2012年のドイツとフランス合作の伝記ドラマ映画です。この映画のテーマは、ドイツ系ユダヤ人の哲学者であり政治理論家であったハナ・アーレント(Hannah Arendt)の「人間の知性には限界がある」という主張です。どいうことかを2回に分けて説明します。

映画はアーレントがアドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)の裁判を傍聴するところから始まります。ナチスドイツの親衛隊中佐(SS)としてホロコスト(Holocaust)に関わったアイヒマンは、1960年に逃亡先のブエノスアイレス(Buenos Aires)でイスラエル(Israel)の諜報特務機関であるモサド(Mossad)によって逮捕されます。

この裁判は1961年4月、イスラエルのエルサレム(Jerusalem)で開始されます。アイヒマンは「人道に対する罪」、「ユダヤ人に対する犯罪」、および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴されるのです。その裁判は世界に報道され国際的な注目を浴びました。多くの証言によってナチスによる残虐行為が語られ、ホロコストの実態がいかに醜いものであったか、ナチスの支配がいかに非人道的であったかを世界中に伝えられることになります。

裁判を通じてアイヒマンはナチスによるユダヤ人迫害について遺憾の意を表しながらも、自らの行為については「命令に従った」と主張します。さらに「戦争では、たった一つしか責任は問われない。命令に従う責任ということだ。もし命令に背けば軍法会議にかけられる。そうした状況で、命令に従う以外には何もできなかった。」と陳述するのです。そして「自分の罪は命令に従順だったことだ」とも弁明します。こうして、かつての親衛隊員に対して怨嗟していた傍聴者や報道機関を戸惑わせたといわれます。

ユダヤ人と私 その7  KosherとHalal

ユダヤ教では、食べてよいものと食べてはならないものの掟があります。旧約聖書のレビ記(Book of Leviticus)や申命記(Book of Deuteronomy)にその記述があります。この食事規定のことはヘブル語(Hebrew)でカシュルート(kashrut)とかユダヤ人食事法(Jewish dietary law)と呼ばれます。「kashrut」とはヘブル語で「相応しい状態」という意味です。

レビ記は清浄と不浄などを規定し、献げ物や動物の扱いに関しても定めています。レビ記はユダヤ教における律法の中心となったと神学者はいいます。申命記はモーゼが死海 (Dead Sea)の東岸にあるモアブ(Moab)の荒野で民に対して行った3つの説話から成り、十戒が繰り返し教えられています。食のタブーは宗教や民族によって異なる厳格なルールです。

食べてよいものは一般にコーシャ(Kosher)と呼ばれます。ユダヤ教に掟にそって作られたものです。マーケットにいくとコーシャ食品と名のつくものが時々目につきます。例えば、ピクルス(pickles)にも塩にもKosherというのがあります。コーシャの意味は「適正だ」(fit)とか「浄い」ということです。イスラム圏では、ハラル(Halal)がありイスラム法上で食べることが許されている食材や料理を指します。

ユダヤ人にとって宗教的に不浄な食物の例に豚肉があります。食事の作法も律法で規定されています。手を洗うこと、食卓に就いて感謝の祈りを捧げること、そして食後の感謝の祈りがあります。神が命じたことを守るという習慣と行為は、食事にはっきり示されています。食事が宗教儀式となっているといえます。

ユダヤ人と私 その6 「栄光への脱出」

映画好きの私は、ユダヤ教やキリスト教関連のフィルムの場面を想い出すことができます。「十戒」もそうです。この映画の舞台は旧約聖書時代です。時代を経て現代の作品となりますと1960年制作の『栄光への脱出』(Exodus) となります。この映画は、シオニズム(Zionism)を信奉するユダヤ人たちのイスラエル建国までの苦闘を描いた物語です。『栄光への脱出』は、アメリカ人歴史小説家、レオン・ユリス(Leon Uris)の作品「Exodus」に基づいています。

監督は、オーストリアーハンガリー(Austrian-Hungary)帝国生れのオットー・プレミンジャ(Otto Preminger)、憂愁に満ちたテーマ音楽を作曲したのはアーネスト・ゴールド(Ernest Gold)。二人ともユダヤ人です。サウンドトラックの演奏はHenry Manciniで知られている映画です。「Exodus」とは「大量脱出」とか「集団逃亡」という意味です。「Exodus」のもともとの出典は、旧約聖書の「出エジプト記」です。

祖国を失っていたユダヤ人がキプロス島(Cyprus)に集まります。しかし、英国による対アラブ諸国への政策によって拘留されます。英国は、アラブ諸国を刺激させないため、そのような措置をとっていたといわれます。アリ・ベン・カナン(Ari Ben Canaan)をリーダーとするユダヤ人地下組織がキプロス島に潜入し、収容されている同胞を貨物船エクソダス号で脱出させる計画を実行します。

1947年11月、国連はパレスチナ分割を可決し、翌年ユダヤ人の国イスラエル共和国が誕生します。しかし、その独立によってユダヤ人とアラブ諸国の争いが本格化することになります。元ナチ将校らに指揮されたアラブ人たちはユダヤ人地区を襲撃し地下運動家らを殺すのです。双方が多くの犠牲者を出すなかで、それを埋葬するアリはやがてユダヤ人とアラブ人が平和に暮らせる努力をすることを誓うのです。

第二次世界大戦以前、多くのユダヤ人はシオニズムを非現実的な運動と見なしていたといわれます。ヨーロッパにいたユダヤ人自由主義者の多くは、ユダヤ人が国民国家に忠誠を誓い、現地の文化に同化した上で完全な平等を享受すべきと説きます。そうしたユダヤ人には、シオニズムがユダヤ人の市民権獲得の上で脅威に映ったようです。ハナ・アーレント(Hannah Arendt)もそうした思想家の一人です。