キリスト教音楽の旅 その27 日本のキリスト教と音楽 カルヴァン主義

カルヴァン(Jean Calvin)は宗教改革初期のフランスの神学者です。神の主権を強調する神学体系を提唱し、クリスチャン生活の実践を指し示す考えを提唱した指導者です。改革派神学(Presbyterian Theology)と呼ばれるカルヴァンの教えでは、礼拝を儀式とせず、聖書の解き明かしを中心とする簡素な様式に改め、またラテン語を使わず自国語を使うことです。伝統的な礼拝形式や教会暦をやめるのも特徴となっています。

ルター派のコラールのような会衆歌唱の重要性を認めますが、聖書尊重の立場から創作讃美の使用も避けるという徹底さです。礼拝ではフランス語韻文訳の詩編歌のみを使用することとし、1539年に最初の詩編歌集を出版するほどです。カルヴァンはルターに比べ、芸術とか文化に関心が低かったようで、音楽そのものも改革派の教会では広がらなかったといわれます。

カルヴァンの名声によって、改革派教会の教理はカルヴァン主義(Calvinism)と呼ばれるようになります。カルヴァン主義者はフランスではユグノー(Huguenot)、オランダではフーゼン(Fusen)、スコットランドでは長老派、プレスビテリアン(Presbyterian)と呼ばれ広くヨーロッパに浸透していきます。

キリスト教音楽の旅 その26 日本のキリスト教と音楽 聖公会

以前、ロシア正教会の歴史や音楽などに触れました。キリスト教音楽は教派の執り行う礼拝形式と深い繋がりがあることにも触れました。例えばルーテル教会の礼拝では個人の信仰を重視し、それに表現を与えることに熱心でした。それがコラールを生むことにつながりました。音楽を尊重したことから、16世紀から18世紀にかけてコラールの聖歌隊用の編曲が無数に作られました。後年のブクステフーデ(Dietrich Buxtehude)、パッヘルベル(Johann Pachelbel)、クーナウ(Johann Kuhnau)らの作曲家です。こうした音楽家の業績はバッハ(Johann S. Bach)によって集大成され、テレマン(Georg Telemann)によって近代的に味付けられたといわれます。

ルーテル教会と同様に、比較的ローマ・カトリック教会に近いといわれる聖公会の音楽はどうでしょうか。聖公会は英国国教会(The Church of EnglandとかAnglican Church)といわれます。アメリカでは監督派教会、The Protestant Episcopal Churchと称します。ただ、監督派は必ずしもこの教派だけの呼び名ではありません。The Church of Englandはイギリスにおける宗教改革に端を発して英国国教会となった経緯があります。ローマ教会に対する国民的な反感が起こります。ただ、教理上ではローマ教皇の権威を認めないことを除けば、カトリック教会の教理を継承しています。

聖公会は、ローマ教会、ルーテル教会、東方正教会と同様に成文祈祷や典礼書が備わっていて、教理、信仰、典礼、音楽に関してはローマ教会に近く、他の要素ではプロテスタント教会に近いのも聖公会の特徴といえます。例えば典礼では自国の言葉を使うのもそうです。ローマ教会はラテン語を使用します。

キリスト教音楽の旅 その25 日本のキリスト教と音楽 讃美歌

教会の会衆によって神への感謝や祈り、癒し、励ましなどの意味がこめられた歌の総称です。自分の信仰を告白し、民衆への証し的な性格が歌詞に埋め込まれています。特にプロテスタントを中心として、西ヨーロッパに広がり成長したキリスト教諸教派で用いられる宗教歌が讃美歌(hymn, anthem)です。

新約聖書のマタイによる福音書26章30節では、最後の晩餐の光景が記されています。晩餐の後「一同は賛美歌を歌うとそこを出て、オリーブ山に向かいました」とあります。この時の讃美歌は日々の糧への感謝です。使徒パウロは、新約聖書エペソ人への手紙5章15-21節で「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と説いています。ここでの「詩」とは詩篇(Psalm)、「賛美」は詩篇以外の旧約の歌、そして「霊の歌」は初代教会の信徒よって作られた讃美歌というように分類されるのが定説のようです。初代教会では、自分たちの信仰体験を表明するために讃美歌を創作していたといわれます。

讃美歌の分類には、霊歌とかスピリチュアル(spiritual)もあります。黒人奴隷の中に広がったキリスト教から、アフリカ独特の音楽的な感性が融合して生まれた歌、黒人霊歌を指すこともあります。教会讃美歌にくらべて、より生活に根ざした歌詞が歌われます。スピリチュアルに似たのが「ゴスペル」(Gospel)です。ゴスペルとは福音とか良き知らせという意味です。これも黒人教会文化が生んだ魂の歌ともいわれ、教会で会衆が総立ちになり、手を叩いたりステップを踏み体を揺らして歌うのです。

「ゴスペル」にはハーモニーやリズム、インプロといった特徴があります。もとの故郷アフリカの文化が色濃く反映されているようです。聖書の言葉に自分たちなりの意味を持たせて歌ったのでしょう。聖書には「自由」「解放」という言葉が多く出てきますが、これは彼らにとって「奴隷制からの解放」を意味し、自由をもとめて仲間と共に歌うことで悲惨な境遇を耐え忍んだのでしょうか。
“Let Us Break Bread Together”


キリスト教音楽の旅 その24 日本のキリスト教と音楽 ミッション・スクール

明治時代に再来したカトリック教会は、新しく布教を開始したプロテスタント教会に比べて聖歌集の数が少ないといわれます。それには理由があります。もともとカトリック教会では、ミサで聖歌を歌うのは司祭および聖歌隊など特定の人でありました。会衆は静かにそれを聴いていたのです。外国人宣教師の中に聖歌集の編纂に携わるに音楽家はいなかったことにも原因していたようです。

Nichole Barre

他方、プロテスタント教会ですが、16世紀の宗教改革運動は、ドイツ語聖書と信仰問答書と讃美歌によって進められたともいわれます。ルター(Martin Luther)から始まるコラール(Choral)という会衆賛美歌が礼拝で歌われるようになり、バッハ(Johann S. Bach)をはじめ有名な作曲家によって数々の宗教音楽が作られ今に至っています。そこから会衆が歌うという伝統がつくられたのです。会衆が歌うことによって多くの歌が生まれ、宗教的な民謡の普及も広まり、19世紀以降の讃美歌は、聖書的表現と伝統的な教理を結びつけることにより歌詞が福音的な内容になっていきます。

Isaac Ferris

カトリック教会では日本語聖歌がミサの中心となることはありませんでした。ただ歌によるミサが行われたのは都市部の限られた教会で、ミサ以外では集会や日曜学校で歌われたようです。通常、朗誦ミサがほとんどを占めていたのが日本とカトリック教会です。西洋の音楽を日本人が習得するまでに、またカトリックの作曲家を生むまでにかなりの時間を要したようです。日本人によるカトリック聖歌が現れたのは、昭和初期時代になってからといわれます。時代を経て1970年代に入って新しい聖歌集「典礼聖歌」を作ます。そしてプロテスタント教会の賛美歌のように会衆も歌うようになります。

キリスト教音楽の旅 その23 日本のキリスト教と音楽 「Jesus loves me」

キリシタン禁制の高札が撤去される前年の1872年に聖書翻訳委員会を設置しようとして、第一回プロテスタント宣教師会議が横浜の居留地にあるジェームス・ヘボン(James Curtis Hepburn)宅で開かれます。当時来日していた宣教師たちが日本伝道の方策を練り、教派間の友好協力を深めるための集いです。ヘボンはアメリカの長老派教会の医療伝道宣教師で、後に明治学院大学を創立した人です。ラテン文字を使って日本語を書き表す方法のヘボン式の提唱者としても知られています。

会議には長老派、改革派、会衆派、バプテスト派、聖公会、ユニオン・チャーチ、日本基督公会からの宣教師が参加します。この会議では、各教派の違いを乗り越えてプロテスタント教会の設立を提唱した宣教師もいました。しかし、各教派宣教師の主張が激しく対立したといわれます。

明治学院大学ヘボン館

この会議で、改革派教会のバラ(James H. Ballagh)という宣教師により日本語に翻訳された讃美歌が披露されます。これが英語による讃美歌の初めての日本語訳といわれます。その一つは“Jesus loves me, this I know”です。当時アメリカの日曜学校で歌われていた讃美歌です。日本基督公会の信徒によって訳されたもので「主われを愛す」という題名で、その後最も愛唱された賛美歌です。こうした翻訳を契機に英語の讃美歌の日本語翻訳や編集、出版が始まったといわれます。

Jesus loves me! This I know,
 For the Bible tells me so;
   Little ones to Him belong,
   They are weak but He is strong

キリスト教音楽の旅 その22 日本のキリスト教と音楽 キリスト教信仰の回復

日本におけるキリスト教信仰の自由が回復すると、カトリック教会と正教会、そしてプロテスタントの諸教会の多くの宣教師たちが続々と来日します。改革派、会衆派、長老派、バプテスト、聖公会、ユニオン派、フレンド派などです。宣教師はまずは学校作りなどの教育活動を始めて、人々の信頼を得ていきます。西洋文明を日本に伝え、だんだんと聖書と聖歌および讃美歌を日本人に伝えていこうとしました。

パリ外国宣教会は慈善事業や社会福祉事業に力を注ぎ、貧しい人々への宣教活動をしたことで知られています。御殿場に療養所を設立し、ハンセン氏病患者を収容します。熊本にも同じような療養所をつくります。1880年に孤児院を開設したのもパリ外国宣教会です。長崎の西出津町に女子救助院というのを設立して授産活動を始めます。そこに修道女となった者は、フランスからのもたらされた技術によって織布、編物、そーめん、マカロニ、パン、醤油の製造などを行い自給自足をしていきます。こうした働きの中心に立ったのは、マルク・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)という宣教師です。

Marc Marie de Rotz

1888年には築地教会の近くに後の雙葉学園の前身となる高等仏和女学校が開かれます。プティジャン司教は、フランスの女子修道会からも修道女の派遣を依頼し、来日した修道女らは1877年には、神戸で後の大阪信愛女学院となる孤児院と学校を創設します。

キリスト教音楽の旅 その21 日本のキリスト教と音楽 オラショと津和野

潜伏キリシタンは、仏教や神道などの信者として振る舞いながら、祈祷を意味する「オラショ」(Oratio)を密かに伝承していたといわれます。しかし、踏み絵を踏んだ者や密偵などによりキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件は「浦上一番崩れ」とか「四番崩れ」と呼ばれ、捕縛されたキリシタンには弾圧は拷問や磔、流刑が待っていました。例えば、島根県の津和野の町です。長崎からキリシタン153名がこの町に流刑され改宗が強要されて、そのうち37名が殉教した地です。津和野は文豪森鴎外の出生地で静かな谷間にある町です。どうしてこの地にキリシタンが送り込まれたのかは、私は訪れた時に調べませんでした。

キリシタンが歌ったオラショは、土着の風俗や習慣と混ざり正統的な聖歌ではありません。オラショを唱えるのは禁制だったので、本などの形にするのははばかられ、ほとんど口伝えでありました。キリシタンは聖母マリアやイエス・キリストをはじめ、聖女などが彫られた様々なメダイ(medalha)とかアヴェ・マリアを繰り返し唱える際に用いる数珠状の祈りの用具ロザリオ(rosario)、聖像聖画、十字架クルス(Cross)を秘蔵していました。

潜伏キリシタンは、やがてパリ外国宣教会によってカトリック教徒として復帰します。宣教師プティジャン(Bernard-Thadee Petitjean)らが執り行ったミサでは、また、新しく入信したカトリック信者は、馴染みのない西洋の音階による歌を歌うのが難しかったようです。そこで宣教師たちは正統的な聖歌を伝えるために、旋律を伴わない朗誦によってミサを唱えたといわれます。朗誦は、オラショに似た響きがあり、祈祷であると同時に神との対話であったといったほうがよいでしょう。オラショを聴きますと、長らく禁制の下で堂々と唱えることはできなかったことがその響きから伝わります。

津和野の街

キリスト教音楽の旅 その20 日本のキリスト教と音楽 大浦天主堂

久しくカトリック聖歌の声が消えて200 有余年、鎖国時代が終わります。禁教、海禁体制の終わりです。しかし、明治新政府は文明開化を目指しながらも、キリスト教禁止政策を継承します。長崎では肥前浦上信徒らへの激しい弾圧を続けます。これは「浦上教徒事件」といわれました。こうした弾圧に対して外国使節団は激しく抗議し、また1871年の岩倉具視らの遣欧使節団から、この弾圧が不平等条約改正の障害となっていることを指摘されます。1873年に新政府はキリシタン禁制高札を撤去し、西日本諸藩に送り込んだキリシタンを帰村させます。

少し時を遡り、禁教令の廃止に至る歩みです。19 世紀に入るとローマ・カトリック教会を母体としてアジアおよびアメリカ大陸で宣教活動を展開します。それまでキリシタン時代を築いたイエズス会に代わり、パリ外国宣教会(Missions Etrangeres de Paris)が東洋布教の任務につきます。その理由はイスパニアやポルトガルの衰退による列強からの脱落です。東洋布教を主導した同宣教会は、日本上陸と再伝道の準備を始めます。

日本へは1844年にフランス人宣教師フォルカード(Theodore Augustin Forcade)らがフランス軍艦で琉球に到着します。1858年に日仏修好通商条約が締結されます。1859年にはジラール(Prudence Seraphin Girard)がフランス総領事一行とともに、禁教以後はじめての公認されたカトリック宣教師として江戸に入ります。1862年にはプティジャン(Bernard-Thadee Petitjean)などが開港地の長崎や横浜に来航します。1862年、横浜には在日居留外国人のための横浜天主堂が、1865年には長崎にはフランス人と日本二十六聖人たちに捧げるために大浦天主堂が建設されます。その中心となった宣教師がプティジャンです。大浦天主堂の正式名は「日本二十六聖殉教者天主堂」といいます。1953年、国宝に指定された歴史的な建造物です。

大浦天主堂

キリスト教音楽の旅 その19 日本のキリスト教と音楽 その4 天正遣欧使節のもらたらしたこと

天正遣欧使節は、正使が 13歳の伊東マンショ、13歳の千々石ミゲル、副使が13歳の原マルチノ、そして14歳の中浦ジュリアンです。こうした名前は洗礼名です。セミナリオでの成績が優秀で、音楽にも長けていたことが想像されます。宣教師ヴァリニャーノらに付き添われて1582年2月に長崎を出航します。風向きを考慮してこの時期を選んだものと思われます。旧ポルトガル領であったマカオ、マラッカ、インドのゴア(Goa)を経て、南アフリカ最南端の喜望峰を回り、1584年8月ポルトガルのリスボン(Lisbon)に到着します。帆船による2年以上の船旅は若者には大変辛い経験だったろうと察します。なにせ風任せの航海です。船員の中には病気による死者もでたとあります。

遣欧使節の航路

天正遣欧使節は1584年11月にスペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ2世(Felipe II)に、1585年3月にはローマでローマ教皇グレゴリウス13世(Gregorius XIII)に謁見するという光栄に浴したようです。グレゴリウスはグレゴリウス暦を制定したといわれます。4人は日本の正装でローマ教皇に会見し、ラテン語で大友宗麟ら大名の親書を読み上げたということが宣教師の記録にあります。

ローマ教皇謁見の絵

1587年に秀吉は筑前箱崎にて「伴天連追放令」を出してキリスト教の禁止に転じます。ポルトガル語で「神父」を指す「padre 」から、伴天連とかバテレンが生まれます。秀吉は宣教師の退去と貿易の自由を言い渡します。1590年7月に一行は 長崎に帰港し、翌年3月聚楽第において豊臣秀吉の前でジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez)の曲を演奏します。彼らが伴天連追放令の解除を願い出るも、やがて一行をはじめ信徒は過酷な運命をたどります。伊東マンショは宣教師となるも若くして病死、千々石ミゲルは棄教、原マルチノはマカオに追放、中浦ジュリアンは殉教します。

グレゴリウス13世

キリスト教音楽の旅 その18 日本のキリスト教と音楽 その3 セミナリオと音楽

1605年に長崎で「司祭用サクラメンテ」(Sacramenta Ecclesiae Ministranda)という司祭によって執り行われる典礼の解説書が出版されます。ここには各典礼で用いられる聖歌が指示されています。五線譜(ネウマ)付きのグレゴリオ聖歌19曲が納められています。これは日本最古の洋楽譜ともいわれ、キリシタン音楽を語る唯一の資料といわれます。「サクラメンテ」とはカトリック教会では秘跡とか聖礼典と呼ばれています。

「司祭用サクラメンテ」に収録されるグレゴリオ聖歌19曲のうち、13曲は葬儀用となっています。日本人が葬儀を大事にしていたことを伺わせるものです。残りの6曲は各地を訪問するときの行列や典礼の入場のときに歌う曲といわれます。

有馬のセミナリオ

少し遡りますが、1551年にザビエルが周防山口で大内義隆に献じた土産品に鍵盤楽器があります。13本の糸が張られた楽器です。これは「Cravo」とか「Clavicordia」と呼ばれていました。オルガンが普及する前はこのCravoが典礼で使われていました。1580年、島原の有馬と近江の安土にセミナリオが開かれます。セミナリオは日本人聖職者を養成する神学校です。ラテン語、日本文学、キリスト教教義のほか音楽や工芸なども教え,修学期間は3〜4年であったといわれます。

セミナリオの課程にある音楽とは、「唱歌と音楽」のことで、生徒の中には「Cravo」や「Clavicordia」を学ぶ者もいたようです。典礼では音楽は欠かせない要素ですから、音楽に力をいれたことは容易に想像されます。1558年、織田信長が安土のセミナリオを訪問したことが、臣下であった太田牛一の記した「信長公記」にあります。音楽で信長をもてなしたかもしれません。