世界を旅する その十五 アイルランド その4 街道をゆく「アイリッシュの気質」

アイルランドはイギリスを含む周辺諸国からの侵略や差別などの苦難に耐え抜いてきた歴史があります。17世紀にイギリス本土での清教徒革命(Puritan Revolution)で実権を握ったオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)が行なったアイルランド侵攻もそうです。プロテスタントによるカトリック弾圧から続いてきた「アイルランド人に対する抑圧」が前回登場したIRA成立の背景にあります。

Oliver Cromwell

そうした逆境の影響からか非常に辛抱強く負けん気も強く、大胆で誇り高い民族という見方もできそうです。アイリッシュには努力家の人も多い傾向があるといわれます。民族意識や民族性は、歴史により育まれた産物であるともいえそうです。

司馬の「愛蘭土紀行」では「アイルランド人の気質」について次のようなことが書かれています。アイルランド人としての典型的性格は、映画化しやすいというのです。例として、クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)が演じている映画「ダーティ・ハリー」(Dirty Harry)という刑事ものをあげています。非常に頑固な性格で、正義感や責任感も強く、情に深い一面があり、自分を曲げない芯の強さがあるというのです。ダーティ・ハリーの名はHarry O’Callahanといってアイルランドの名前です。チームワークを嫌い、悪をはなはだしく憎み、独力で悪に挑戦し、時に法さえ超えてしまう行動です。

Dirty Harry

アイリッシュをステレオタイプ化した性格でとらえるのは、はなはだ危険ではありますが、一般には組織感覚が少なく、統治されることを忌み嫌うもといわれます。「ダーティ・ハリー」は、その典型のようなところがあります。「演劇化しやすいのがアイリッシュだ」というのも、あながちうがった見方ではなような気がします。

世界を旅する その十四 アイルランド その3 街道をゆく「愛蘭土紀行」

司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズは、日本国内はもとよりアイルランド・アメリカ・中国・オランダ・韓国・モンゴル・台湾など旅の紀行集です。その30巻が「愛蘭土紀行」です。「愛蘭土」という漢字を誰がどのような理由で付けたかはわかりません。司馬は、国々の特徴や民族や文化などについて幅広い知識で記録しています。「雑学」に長けていると揶揄する評論家もいますが、そうした評論家が果たして「街道をゆく」のような紀行文を書けるかとなると疑問です。それほど司馬は知的な好奇心が強く、かつ博識だったといえましょう。

アイルランドの首都はダブリン(Dublin)。アイルランドの歴史の中で重要な役割を果たしてきたところです。スコットランドの対岸に面しています。ジェイムズ・ジョイスは小説「ユリシーズ」においてダブリンの街を克明に記述しているため、ジョイスは「たとえダブリンが滅んでも、ユリシーズがあれば再現できる」と語ったという逸話があります。

司馬遼太郎

もともともアイルランドはイギリス領でした。1916年4月24日といえば、キリスト教でいう復活祭(Easter) の時期です。「イースター蜂起」と呼ばれる7日間に渡る武装蜂起をきっかけに独立運動が起こります。これがアイルランド独立戦争(Irish War of Independence)のきっかけで、1919年から1921年まで続きます。このイースター蜂起で主要な役割を担ったのがカトリック系武装組織であるアイルランド共和軍(Irish Republican Army) 、略称IRAです。「愛蘭土紀行」にはアイリッシュの気質に触れている箇所があります。アイリッシュの典型的性格、チームワークを嫌い、組織感覚がなく独力で戦うという記述もあります。こうした描写はなぜか読者を惹き付けるものです。そういわけでアイリッシュの気質は次号で触れます。

Dublin, Irland

世界を旅する その十三 アイルランド その2 親父とジェイムズ・ジョイス

父親は96歳で八王子は高尾の地で他界しました。趣味の中でことの他、読書が好きで書斎に閉じこもってはお気に入りの小説を読んでいました。疲れたときはクラッシック音楽を聴くのがおきまりの日課でした。なぜか親父はアイルランド人、アイリッシュ(Irish)である作家ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)の「ユリシーズ」(Ulysses)を読んでいたようです。私と会う度に、「ユリシーズは難しい小説だ」といっていたのを記憶しています。不肖の私はまだこの小説を読んでおりません。

James Joyce

ジョイスの他にアイルランドの文芸復興を促したといわれ、日本の能の影響を受けた詩人に劇作家のウィリアム・イェーツ(William Yeats)がいます。同じくアイルランド出身の劇作家、小説家、詩人にサミュエル・ベケット(Samuel Beckett)もいます。ベケットはフランスのレジスタンスグループに加入。ナチスに対する抵抗運動をしたという経歴を有します。1923年にイェーツはノーベル文学賞を、ベケットは1969年に同じく文学賞を受賞します。童話でも知られる強烈な風刺作品「ガリヴァー旅行記(Gulliver’s Travel)」を書いたジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)もアイリッシュです。

Samuel Beckett

日本で知られるアイルランド出身の小説家でジャーナリストといえばラフガディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)でしょう。父はアイルランド出身でプロテスタント・アングロ=アイリッシュ(Angro-Irish)です。両親とともに首都ダブリン(Dublin)で幼少時代を同地で過ごします。あちらこちらを遍歴し、さまざまな職業に就きますが、1890年に来日し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺したことで知られています。1896年に日本に帰化し奥方の姓で「小泉八雲」と名乗ります。

Lafcadio Hearn

アイリッシュがなぜ不朽の傑作を世界中に残したのか、それが知りたくなります。

世界を旅する その十二 アイルランド その1 St. Patric Day

今年はアイルランド(Ireland)に行きそびれました。長男の家族4人、そして嫁さんの両親が7月上旬にアイルランドの西海岸方面で避暑を楽しんだようです。彼らの結婚50周年記念の旅でした。嫁の母親、Dianeはアイルランド系で、この旅はいわばセンチメンタル-ジャーニー(sentimental journey)というわけです。言い忘れるところでしたが、私はまだアイルランドを旅したことがありません。

家族等が滞在したのは、アイルランドの西海岸にあるゴールウェイ(Golway)という街です。名前の由来は、ガリヴ (Gallibh)という外国人という意味のアイルランド語であるといわれ、今は「外国人の町と呼ばれているようです。アイルランド語は、ゲール語(Gaelic)とも呼ばれ、アイルランドにおける第一公用語となっています。

私とアイルランドのちっとしたつながりです。ルーテル教会の礼拝にいったときです。親しくしていた夫人からキスをされました。たまたま私は緑の服装をしていました。「今日はセント・パトリック・デイ(St. Patric Day)だというのです。」 私はそんな風習を知りませんでしたが、心地良い気分になりました。そういえば、周りの信者さんは緑色の物を身につけていました。アイルランドにキリスト教を広めた聖人、聖パトリックの命日、3月17日がSt. Patric Dayとなったとあります。アイルランド共和国の祝祭日となっています。

世界を旅する その十一 ポーランドと日本の移民の歴史

19世紀中葉にかけては、アメリカ合衆国への移住者が最も多い時期です。英語以外の言語を母国語とする人々のうち、ドイツ系、イタリア系の人々に次いで多いのがポーランド移民です。1960年代には637万人がポーランド系と推定され、そのうち75万人がポーランド生まれといわれます。

こうした移民の特徴は、ポーランドにおける政治や経済の不安定、農業形態や経済構造の変化にともなう農村部を中心とする余剰労働力の増加という事情が指摘されています。ポーランドからの海外への移動は「出稼ぎ」ではなく「定住」という移民形態でありました。それゆえ家族を同伴した移動が主流でありました。

我が国における移民の歴史にも触れることにします。最初の移民は、1868年で、当時スペイン領であったグアム島(Guam)へ農業移民42人が渡ります。これは「出稼ぎ」でありました。ハワイへ(Hawaiʻi)の移民も1868年に始まります。横浜在住のアメリカ商人で元駐日ハワイ総領事のバンリード(Eugene Van Reed)が斡旋した「出稼ぎ移民」で150人の日本人労働者をハワイのサトウキビのプランテーションへ送りだします。

1885年には、ハワイ王国(Kingdom of Hawaiʻi)との間で 結ばれた「移民条約」によってハワイへの移民が公式に許可され、946人の日本人が移民します。さらに沖縄からは、1899年に26人がハワイのサトウキビ農場へ「出稼ぎ移民」として渡ります。

少しさかのぼり、1880年代よりカリフォルニア(California)に日本人移民が渡り、 1900年代に急増します。1905年には 約11,000人がハワイへ、1920年に 6,000人がアメリカへ移住します。日米開戦当時、アメリカ本土には日系1〜3世含めて約128,000人が住み、そのほとんどがカリフォルニア州を中心にオレゴン(Oregon)、ワシントン(Washington)といった太平洋岸の州に住んでいました。

世界を旅する その十 ポーランド人の移民

私がウィスコンシン(Wisconsin)の州都マディソンに住んでいたとき、ポーランドの地名や市町村名が地図に沢山あることに気がつきました。その代表はPoland, ワルシャワ(Wausau)、ワーケシャ(Wauksha), ワーパカ(Waupaca)、ワーノキ(Waunakee)、ワートマ(Wautoma)、ポーテジ(Portage)といった町です。

1900年代のStevens Point

1857年に最初のポーランド人がウィスコンシン州の東部から中西部にかけて移植してきます。南北戦争が始まる以前です。ウィスコンシンで最初のポーランド人コミュニティが形成されたところがポーテジとかスティーブンスポイント(Stevens Point)です。その定住地、コロニーは「Polonia」と呼ばれます。

ウィスコンシン州にやってきたポーランド人は、ポーランドの西部地方である「Kaszuby」付近からやってきたといわれます。「Kaszuby」はバルト海(Baltic Sea)に面するグダンスク(Gdansk)のあたりです。ウィスコンシンを選んだのは、気候や土地が母国と似通っていたことが主たる理由です。ポーテジ郡のあたりには、ドイツやアイルランドの移民もすでにいて、農地に適した肥沃な土地はすでに耕されていたようです。ポーランド人は、氷河が残した岩や石が混ざる土地を選ばざるをえませんでした。農地の開墾は、岩や石を取り除く作業から始まります。やがて、教会堂や学校をつくっていくのです。

世界を旅する その九 ポーランドと日本 魂の救済

上皇上皇后両陛下がポーランドを訪問したとき挨拶の中で、2人のカトリックの聖職者と日本との関わりを語っています。その人とは、ポーランド人のコルベ神父(Maksymilian Maria Kolbe)とゼノ修道士(Zenon Zebrowski)です。この2人が日本でどのように活動したかを紹介します。

コルベ神父

1930年にフランシスコ修道会(Franciscan Missionaries)のコルベ神父がゼノ修道士らと長崎に到着します。コルベ神父は哲学博士号を有する学者でもありました。早速長崎教区に対して『無原罪の聖母の騎士』という布教誌の出版を願い出ます。教区はそれを認め、コルベ神父は教区の神学校で哲学を教えることになります。翌月の5月には、長崎の大浦で日本語版の布教誌を出版し、長崎の本河内に「聖母の騎士修道院」を設立します。現在は「聖コルベ記念館」となっています。1936年にポーランドに帰国したコルベ神父は、ユダヤ人をかくまった罪でナチスに逮捕さrれ、アウシュビッツ(Auschwitz)で餓死刑を受け、47歳で死去します。この惨い出来事はいろいろな本やサイトで紹介されています。

ゼノ修道士

もう1人のポーランド人の聖職者、ゼノ修道士のことです。本名の綴りは前述した「Zenon Zebrowski)」ですからゼブロフスキーと読んだ方が正確です。ですが日本では「ゼノ神父」として慕われていたといわれます。1945年8月9日に長崎で被爆する体験をします。戦後は戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くし、特に浅草のバタヤ街など全国各地で支援活動を行うのです。「バタヤ」とは鉄や銅くず、縄くず、紙くず等を拾い集めて回収する日雇い労働者のことです。当時廃品回収や仕切りをする「蟻の会」という労働者の生活協同体があり、そこで人々を支援します。魂の救済活動です。それ故「蟻の街の神父」と呼ばれたようです。

世界を旅する その八 ポーランドと日本 日本文化研究

2002年7月に、現在の上皇上皇后両陛下がポーランドを訪問したとき、ポーランド大統領夫妻主催の晩餐会でなされた挨拶は、ポーランドと日本の関係を示す貴重なものです。その中で、ワルシャワ大学東洋学部日本語学科の教授をしていたコタンスキ(Wieslaw Kotanski)教授のことに触れています。コタンスキ教授は日本語や日本文化研究者で「古事記」の研究を始め,雨月物語、雪国、日本文学集などをポーランド語で紹介しています。1957年以来何度も来日し、日本における宗教発展の概要についての著作もあります。

上皇上皇后両陛下は、同じく挨拶の中でアンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)を中心として両国の多くの人々の協力によって,古都クラクフ(Krakow)に設立された「日本美術技術センター」のことにも触れています。1987年にワイダは稲盛財団による京都賞の思想・芸術部門で受賞します。「人間の尊厳と自由精神の高揚を力強く訴えてきた」というのが受賞の理由です。ワイダは賞金を全額寄附し「京都クラクフ財団」をつくります。そしてクラクフで日本美術技術センター設立のために動きます。日本ではそれに呼応して、放送作家であり映画プロデューサで岩波ホール総支配人の高野悦子が5億円の寄付活動を始めます。日本政府もその企画を支援し、1994年に日本美術技術センターが完成します。

ワイダ夫妻や高野悦子氏ら

センターにはヤシェンスキ(Felix Yaschenski )というポーランドの美術品コレクターが集めた15,000点に及ぶ日本美術のコレクション(Felix Yaschenski Collection)が展示されて、両国の文化交流の一つの中心としてその役割を果たしているといわれます。ポーランドを訪ねたときは、是非立ち寄ってみたいところです。

クラクフの日本美術技術センター

世界を旅する その七 ポーランドと日本 「灰とダイヤモンド」

この映画は、アンジェイ・ワイダが1958年に制作した作品です。ポーランドは地政学的に近隣諸国から翻弄された歴史があります。123年にわたる分割占領から独立を回復したのが1918年。しかし、第二次大戦によって再び大国の支配に蹂りんされます。戦後は、ソ連の手先である統一労働者党が実権を握り、一党独裁の社会主義国家となります。そして1989年に大統領制が復活し、自由な選挙により新しい国家、ポーランド共和国ができます。

「灰とダイヤモンド」はポーランドが社会主義政府支配のもとで作られた映画です。言論が統制されていた時代です。ワイダをはじめ文化人らは、厳しい検閲などに注意を払いながら作家活動を続けたことが容易に伺えます。

「灰とダイヤモンド」は1945年5月数日のポーランドが舞台です。ポーランドのロンドン亡命政府派は、ソ連の手先である労働者党県委員会書記のシュチューカ(Szczuka)の暗殺を指示します。亡命政府派のゲリラであるマチェク(Maciek)がそれを引き受けます。誤って別人を暗殺し、人民軍によって射殺されます。この映画でワイダは、青年マチェクのポーランド独立への心意気や苦悩を下敷きにしたようです。

世界を旅する その六 ポーランドと日本 アンジェイ・ワイダ

先日 秋篠宮ご夫妻がポーランドを親善訪問されたというニュースがありました。両国は国交樹立100周年を迎えたとのことです。私は両国がそんなに長くから国交があったことを始めて知りました。1919年が国交樹立の年となります。1919年といえばソビエトが社会主義共和国が樹立し、朝鮮半島では三・一独立運動が起こり、 ガンディが非暴力・不服従運動を開始し、ヴェルサイユ条約が締結され、日本はロシア革命への干渉としてシベリアに出兵し、中国山東省のドイツ利権を日本が取得するなど、内外の情勢が緊迫する時代です。

Andrzej Wajda

今回はポーランドを代表する映画監督アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)のことです。私はこの監督がメガホンをとった二つの作品を観ています。一つは1956年制作の「地下水道(Kanal)」、もう一つは1958年制作の「灰とダイヤモンド(Ashes and Diamonds)」という映画です。ワイダは戦時中、対独レジスタンス運動に加わった経歴があるといわれます。この二つの作品は、そうした経験とは切り離せないようなポーランド人の苦悩とともに不屈の精神を描いています。

PHOTO: EAST NEWS/POLFILM KANAL; CANAL; THE LOVED LIFE; PRODUKCJA: ZESPOL FILMOWY KADR; 1956; REZYSERIA: ANDRZEJ WAJDA; SCENARIUSZ: JERZY STEFAN STAWINSKI; ZDJECIA: JERZY LIPMAN

「地下水道」の舞台は、1944年のワルシャワです。ポーランド国内軍は占領していたドイツ軍に武装蜂起を起こすのです。しかし、銃火器で有利な攻撃で追い詰められ、ワルシャワの地下水道から市の中心部に出て活動を続けようとします。夜になって隊員は地下水道に潜っていきますが、やがて皆は離ればなれになり、ある者は暗闇と悪臭に耐え切れず、マンホールから外に出るのです。それをドイツ軍に発見され射殺されるのです。