ウィスコンシンで会った人々 その28 Intermission 琉球とランチョンミート

筆者は1970年3月にに幼児教育を始めるようにとの辞令もらい家族と一緒に琉球へ出かけた。パスポートとわずかのドルを持参し予防注射を受けた。そして1972年5月15日に那覇で本土復帰の日を迎えた。丁度雨がしとしとと降る日であった。5月15日は長男の誕生日でもある。

今年は沖縄戦の終結から70年の節目。1945年6月23日に旧日本軍の組織的戦闘が終結したことにちなみ、当時の琉球政府及び沖縄県が定めた記念日が慰霊の日である。

樺太に生まれ、北海道で暮らし、東京で勉強し、琉球に渡った。どこもそれぞれに思い出がある。琉球に着いたとき青い空、赤いデイゴやハイビスカスの花、紅型の美しさが眩しかった。幼児教育はルーテル教会活動の一環として始まった。そこでいろいろな人々と出会う。沖縄戦のとき、琉球気象台に勤めていて糸満の摩文仁に逃げる途中弾丸を足にうけて助かったという国吉昇氏である。彼は後日私のウィスコンシン大学への留学を支援してくれた恩師である。

教会にはハンセン氏病で治癒された信徒もおられた。名護の北、屋我地にある国立療養所沖縄愛楽園という施設で長らく生活された方である。日本聖公会も愛楽園で患者やその家族を支援するさまざまな活動をしていた。信徒の方の家を訪問したときである。お菓子とお茶がだされたが菓子はどうしても手をだすことができなかった。暇してから途中で手を洗った。この情けない行為は今もひきづっている。

話題はランチョンミート(luncheon meat)である。琉球で始めて出会った食べ物の缶詰である。この缶詰にはたくさんの種類があった。なぜこのような缶詰が琉球に多いのかがやがてわかった。沖縄戦が終結し、米軍がこの缶詰を持ち込んだのである。戦争当時、ランチョンミートは戦場携行食のレーション(ration)であったようだ。

ランチョンミートの缶詰をみると、アメリカやオランダ製のものが目立った。特にアメリカのホーメル(Hormel)とデンマークのチューリップ(TULIP)社のものが有名であった。琉球ではポークとかポークランチョンミートと呼ばれていた。ホーメル社のランチョンミートはもともとHormel Spiced Hamとよばれていた。それがやがてスパム(SPAM)という名前として日本でも知られるようになる。

琉球でランチョンミートを食したときは、実に美味しい肉だな、と思った。琉球ではスライスして炒めものに使っていた。琉球の味噌汁やソーキそばにも入っていた。ゴーヤチャンプルーの味はランチョンミートからでる油と出汁のようだ。こんな美味しいものはそれまで食べたことがなかった。琉球で始めて口にしたステーキも思い出だが、ランチョンミートのほうが何倍も美味しいと感じた。

その後、ハワイにでかけたとき海苔でまいたおにぎりに出会った。なんとその上にランチョンミートが載せられていた。琉球もハワイもかつてはアメリカの施政権下にあった。ランチョンミートが人気があるのは戦場携行食、レーションの名残であろうと納得したのである。

_MG_8142 hormel-luncheon