文化を考える その8 見捨てられた人々 その1 満蒙開拓民

当たり前だが、不思議なことにまた8月15日がやってきた。筆者がいつも思い起こすのは「国策としての移民」、そして「棄民」という言葉だ。私の親たちは敗戦の日、樺太と満州にいた。幸い帰国を果たしたのだが、兄弟がシベリアに抑留され、かれこれ1955年頃に外務省から死亡通知書が届いた。父は半信半疑だった。死亡地はクラスノヤルスクとあった。恐らく金鉱山で働いたか、水力発電所の建設に従事したようだ。

悲惨だったのは、国策によって満州に向かった「満蒙開拓民」の農業従事者と家族である。開拓団とか移民団と呼ばれたが、実は対ロシア防衛を目的とした「満州開拓武装移民団」であった。彼らは満州への出発前に簡単な軍事教練を受けた。

開拓団の人々は25万人とも30万人ともされる。20の都道府県から約300の開拓団が組織されたという。その中には地縁と血縁でつくられ、集落全員で組織されたのもある。最も開拓民が多かったのが長野県であった。1932年から満州への入植が始まった。割り当てられた所は今の満州吉林省である。

戦局の悪化により、満州に駐屯していた関東軍は南方へ移動する。こうしたなか、兵力を補うために14歳から17歳までの男子が青少年義勇兵として訓練を受け、開拓民団に配属された。武装農民であった。満州の邦人女性も看護婦見習いになる訓練のために赤紙を受けとる。

1945年8月9日、ソ連が日本に参戦し開拓民の大半はソ連との国境付近に取り残され、年寄りや老人は置き去りという長い辛い逃避行が始まる。助かった者の多くは抑留される。

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