心に残る一冊 その141 「若き日の摂津守」 その二 君辱められるれば臣死す

「若き日の摂津守」の二回目です。光辰は十人ばかりの供をつれて遠乗りにでかけます。そのとき鹿を見つけます。光辰は馬を乗り捨てて、ただもう鹿に気を奪われて、斜面をすばやくのぼります。供のことはすっかり忘れるのです。一刻近く歩くと小屋の集落があり、一人の老人が土を掘っては埋めています。そこにいた老女に「喉が渇いた、」と云います。光辰は老人のことをきくと、「あれは市兵衛さんといって、気が狂ってるんですよ」
「川辺が鴨狩りのお止場になって、土地を追われて気が狂ったんです」
「ああやってなにもならない土を掘っては埋めしているんです」
「どうして、自分の田や畑がなくなったんだ」

お止場は重臣たちの直轄となり、郡奉行の支配となり、許しをえなければ立ち入ることが出来なくなります。お止場とは狩り場のことです。土地を追われた者たちは、ここに掘っ立て小屋を建て、その日暮らしの生活をしているというのです。お止場は鴨だけでなく鮎釣り場にも及び、土地の者は追い立てられたというのです。

数日の後の夜、一綴りの書類が寝所に届けられます。おたきはそこに置いてある書類を取って戻ってきます。
「いまこれを宿直の間から入れた者がございます」おたきは云います。
書類の内容は、藩主を敬して遠ざけたうえに、世襲の重臣たちが交代で政治を支配し、年々一万石以上にあたる横領を続けてきたその例がくわしく列記してあります。お止場も一例として挙げてあります。鴨は狩りごとに二万羽ちかく捕れます。名物として知られているため、高い値段でさばくことができました。

古くから、鴨も鮎も古くから湖畔の住民たちの生計を支えるものでした。お止場を指定して住民を立ち退かせ、郡奉行の支配に移し、とれた鴨や鮎を御勝手入りとして売るのです。売った代銀も藩主のものになるという名目ですが、実際は重臣達が分け取りをしています。住民は窮乏しているのです。

「重大夫!」、と光辰云います。
「他の者も聞け、侍の心得として、君辱められるれば臣死す、ということがあるそうだ、知っているか」
「殿、、、」と重大夫がするどく戒めます。
「知っているか!」
「図書はどうだ、古大夫はどうだ、知っているかいないか、民部、そのほうだどうだ?」
「おそれながら、侍としてその心得を知らぬ者はないと存じます」永井民部が云います。
「よし、」と光辰は頷きます。
「、、、ここでは家臣が領主を辱めている、重大夫、もっと寄れ!」
「お口が過ぎますぞ、殿、御座にお戻りあそばせ」重大夫が云います。

すると光辰は槍の鞘をとります。静かな手つきで鞘をとると、槍を持ち直し「無礼者!」と叫んで重大夫の胸を刺します。動作は緩慢でしたが、槍を持ち直してからの素早さは水際たっています。それまでの光辰のぼうっとした表情は消えて、凜とした姿勢です。重臣達は度肝を抜かれ、口をあいたまま声を出す者がいません。そして周りの重臣たちに光辰は叫びます。
「重大夫の罪は死にあたると思うが、一命は助けてやる、江戸に帰ったら父上に申し上げ、改めてその罪の詮議をしよう、医者を呼んで手当をしてやれ!」
「民部帰るぞ、」 

永井民部は案内にたちながら、低い声ですばやく囁きます、
「いましがた城中から使者がありました。お部屋さまには御懐妊とのことでございます。」