心に残る一冊 その73 足軽槍一筋

無辺流という槍の遣い手に成田平馬という足軽がいました。武士の格好をした仲間で庭掃きか傘張りの内職をする身分です。藩の槍術指南番が金井孫兵衛。その息子に孫次郎がいます。平馬と孫次郎は小さいときから「孫やん」、「平やん」と呼んだ仲です。孫次郎は平馬の妹、近子と結婚する約束をしていました。

平馬の側をとおりかかった武士達が平馬の格好をみて、「なるほど、足軽は庭掃きや内職をしていれば御用が足りるかも知れない」と云うのです。
「ひとたび戦場となれば御馬前の駈退きにおいてもいささかも貴殿がたとは相違ないです」
「高禄をはむ貴殿がたと内職する我らと、いざ合戦の場合、いずれかお役に立つか試してみるのも一興であろう。さあ参られい、、」

十四五人いた誰も答えるものはありませんでした。冗談にしてしまうには余りに云いすぎている、といって平馬と立ち会う自信はない。みな色を変えて沈黙します。

そこに指南役の息子孫次郎が「相手をしよう」と立ち上がります。力量と技の凄さに平馬の槍が孫次郎の脛へ三寸あまり突き刺さります。
「、、、、参った」

一座の者が「おのれ、無道な奴、その足軽を生きて帰すな、斬ってしまえ!」
「何をするか、控えぬか」と物頭役の相良藤右衛門が立ち塞がります。
「しかし、このままでは士分一統の辱め、」
「無用、自ら招いた辱めでないか、裁きは藤右衛門がつける、鎮まれ!」

藤右衛門が平馬に云います。
「平馬、困ったことをしてくれたの、」
「恐れ入ります。しかしあのように足軽を辱められては黙ってはいられませぬ」
「ようよい、事情が拙者がよく存じている。だがことがこうなってはとても穏やかには治まらぬ。気の毒だが当地を立ち退いてくれ」
「些少だが、餞別だ。辞退されるほどではないから取ってくれ」と云って藤右衛門は紙入れを取り出して手早く金を包みます。
「はい、、、かたじけのう、、、、」平馬と妹の近子は藩を立ち去ります。

それから二年が経ちます。どうかしてひとかどの武士になろうと喰わずの旅を続けます。槍一筋の途はどこにもありません。ようやく信濃国松代藩へ五両二人扶持の足軽として仕えることになります。近子には「お手当は少ないが、馬廻り士分だ」と偽ります。

藩の中に武林源兵衛という八百石の御側役がいました。その倅、源之蒸は槍術の達者というので、平馬もはやくからその名を知っていました。槍もできるが、乱暴者としても評判で、家来の若者を連れて傍若無人にのし歩いています。近子の美しさに眼をつけなにかとうるさく付きまとっていました。
買い物にと出掛けた近子はなかなか帰りません。
「大変だ、お妹が武林おどら息子に、、、」
「買い物をしている途中、乱暴者の源之蒸が通りがかりに無理矢理、屋敷の中に引きずり込んでしまったぞ、」

平馬は憤怒の血にたぎります。もう松代もこれ限りだ、、、源之蒸の屋敷に着くと平馬の槍が源之蒸の脇腹に石突きを返して肋骨の三枚目から突き折ったから「うーっつ」と横にのめります。追っ手を残らず突き伏せると、近子を連れて二人は駈けに駈けます。
「お前に詫びることがある」
「松代藩に仕える時、手当は少ないが馬廻り士分だといったが、、、実は足軽奉公だった、」
「お兄様、なにもおっしゃいますな。近も薄々存じてはおりました」
「しかし、これでよいのだ。どこへ行っても足軽から武士になる機会などありはしない」
「武士を望むなら武士として踏み出さなければならない」
「今宵のことは武道の神が易きにつこうとした平馬の情心を諫める思し召しであったのかもしれない」

追っ手を怖れる兄妹は夜をついて道を急ぎます。休息していると「おーい、おーい、」という後から呼び声がします。
「や、、追っ手か、、」
ゆきの坂道を駆け上ってくるものがあります。脇に槍をかかえ右足を引きずるようにしながら、寄ってきます。十間余りの処にきたとき、平馬は愕然として「あ、金井孫次郎!」

孫次郎は親父から二百石の槍術の指南役として推挙があったことを平馬に伝えのです。そして昔の呼び名で「平やん、帰ったら近子さんを嫁にくれ!」
「あ、こいつ」
「大きな声をだすなよ、近子さんに聞こえるやないか」