心に残る一冊 その47  「Transcendentalism」とエマソン

前回、ヘンリー・ソーロ(Henry D. Thoreau)の自然の中での簡素な生活の可能性を描いたことを綴りました。私の関心は、なぜ「自然からの崇高な啓示」を受けたのかであります。ソーロは奴隷制に反対し、「支配しない政府が最上の政府である」といった市民としての主権を主張もします。こうした思想の背景には、ハーヴァード大学で学んだこと、学校の教師についた経験があることなどが考えられます。ハーヴァード大学(Harvard University) はもともとは聖職者や指導者を養成する機関でありました。マサチューセッツ州の学校では体罰も容認されていました。こうした教育界の伝統にソーロは疑問を持ちます。

当時、マサチューセッツで文筆をふるっていたのがエマソン(Ralph Emerson) です。ハーヴァード大学の神学部を卒業し、やがてボストンにあったユニテリアン教会(Unitarian church)の副牧師となります。同時に州議会で儀式を執り行うチャプレン(chaplain)ともなります。エマソン父親もユニテリアン派の教職者でした。しかし、エマソンは次第に教会の組織や伝統、しきたりに懐疑的となり、もっと自由な立場で考え行動しようとして聖職を辞任するのです。ユニテリアンの信条は、「個人の思想信仰は権威への服従からではなく追求の結果から生じる」という宗教と哲学の折衷でまとまっています。

エマソンは同士とともに、1836年9月に「超越主義」を標榜する”Transcendental Club”という同好会を結成します。超越主義とは「先験主義」ともいわれ、人々を駆り立てるものは「思慮深い静寂」といった超越の体験(transcendentalism)であるという、ある種神秘的な考え方です。

私たちは、生命を受け継ぎながら、部分や単位に分断された状態で生きている。その一方で、人間の内には、全体としての魂、普遍の美が存在し、どの部分どの単位も一様にそこに繋がって、永遠なる一つを成している。

こうしたニューイングランドを中心に起った理想主義運動は、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する理神論,信仰による義認や予定説であるカルビニズム(Calvinism)などに反対します。カルビニズムはフランスの神学者であったJean Calvinの信仰思想のことです。そして認識や知識、真理の性質とかその起源、さらには人が理解できる限界などについて考察する認識論においては直観を重んじます。倫理的には人道主義や個人主義の立場に立ち,宗教的にはユニテリアン派に属する考え方といわれます。どこか汎神論的傾向が感じられます。