北海道とスコットランド その24  スコットランド、イングランド、日本

朝ドラ「マッサン」はまだまだ続くが、この「北海道とスコットランド」シリーズはこの稿で終わりとする。

筆者も、誠に細いつながりがスコットランドやイングランドとにある。数少ない友や知人を通して学校を視察したこと、障がい児教育の現場を見せてもらったことも忘れられない。ヨーロッパの歴史を表層的に学んだこと、特に幕末から明治にかけてのスコットランド人の日本での活躍、日露戦争前後の日本とイギリスの関わりは記憶に残る知識だ。それとルターと宗教改革がスコットランドに与えた影響、改革の意義を説教や勉強会で教えられたことも心の糧となっている。

東大出版会の「日英交流史」は興味深い本である。幕末から維新、その後の日本の歴史において国家や社会の形成に最も影響を与えたのはイギリスだ、という主題で貫かれている。弱小国日本はイギリスとの交流なしに帝国海軍の近代化もあり得なかったし、日露戦争も戦えなかったほどである。その後の日本の国際社会への進出もなかったはずである。

▼司馬遼太郎は「坂の上の雲」で次のように書いている。
「まことに小さき国が開化期を迎えようとしている」
「勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊を迎える作戦をたて、これを実施して撃破した」

イギリスは立憲君主制をしき、日本も天皇を頂点としながらも議院内閣制といった統治機構を有していた。日本は昭和の半ばまで議会選挙によって、まがりなりにも政党政治が行われていた。

イギリスはアフリカや中東、アジアに進出し、植民地を拡大していく。同時にインドへのロシアの進出を恐れていた。ロシアは清国政府を応援し、イギリスのアジアでの力を削ごうとしてきた。阿片商いの主導権争いでもあった。こうしてイギリスは長年ロシアと確執を続けてきた。日本もこうしたイギリスの動向から、その外交戦略を学んでいった。後の朝鮮や中国やインドシナへの進出もイギリス流の植民地主義の表れであろう。1902年の日英同盟はその結果といえるほどイギリスへの依存は高まる。

1921年には日英米仏の四カ国条約により日英同盟が廃止される。同年、皇太子裕仁親王のイギリスは訪問、続いて皇太子エドワードの訪日となる。1930年にロンドン海軍軍縮会議が開かれ、その結果を巡り海軍内部の対立と統帥権干犯問題が起きる。1937年の盧溝橋事件とともに日中戦争が激化し日本とイギリス、アメリカとの対立が決定的になる。イギリスとの不幸な時代が1945年まで続く。太平洋戦争の敗北は、単なる外交の失敗だけではないだろう。歴史や文化を学ぶことが欠けていたのではないか、科学技術の違いを認識できていなかったのではないかとも思うのである。

時代を経て1980年代には、首相マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)の政策である「小さな政府」による電話、ガス、空港、航空、水道等の国有企業の民営化や規制緩和などの大胆な改革が日本に影響を与えた。そうした政策から我が国でも国鉄、通信、専売の3事業の民営化が断行される。

イギリスと日本にはいろいろな共通点がある。地理的な特徴だけでなく、行動面での特徴、たとえばマナーの重視、感情表現のつつましやかさなどである。科学技術への取り組みにも熱心である。日本人は幾多のスコットランド人医師、技術者、宣教師、教育者によって薫陶を受け国を発展させてきた。これからも両国の人々の交流が続くことを期待したい。

ryudanhousyasin091118021  日露戦争Thatcher Margaret Thatcher