北方領土を考える その十一 松前藩と蝦夷

樺太生まれで北海道育ちの私には、北方諸島の話題をどうしても回顧したい気持ちに駆られます。父方の成田家、母方の吉田家はこの地で働き生計(たっき)をたててきました。戦後、抑留や引き揚げというヨレヨレの姿から平成に至るまでしぶとく生きてきました。引き揚げ以来、両親や親戚が島に一度も踏み入れる機会がなかった無念さのような心持ちを、ここで代わって回想しております。

古代のエミシは,主として奥羽地方以北の住人を指した語で,アイヌそれ自体を指した語ではないという説もあります。ただし、アイヌ人は奥羽地方にも散開してしていたはずですから、エミシはアイヌ人といってよいでしょう。

さて、室町時代になり津軽の豪族、安東氏を引き継いだのが渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏です。蝦夷地の総代官となります。渡島半島は道南部の松前や渡島、檜山地方のあたりです。1599年には蠣崎氏は支配地にちなんで松前氏と改名します。徳川幕府により、蝦夷全島の行政や交易に関する支配権を与えられ、松前藩となります。松前藩は石高による格付けを持たない例外的な藩となります。そしてエゾと和人との貿易を政治的に支配するのが松前藩です。

松前藩の行政権では、エゾの自由な往来や交易権の保障が規定されていたようです。それは「夷人に対する非文の儀」というもので、道理にはずれたこと、分不相応な対応をしてはならぬというものです。エゾは昆布や馬、毛皮や羽根などの特産物を和人にもたらし、代わりにエゾは米や布、鉄を得ていました。

そのためエゾは松前藩主からも賓客扱いされ、それまでの「ウイマム」という朝貢貿易を続けることができました。しかし、蝦夷地の奥地に入り込んだ和人の貿易商らの悪辣な搾取が積み重なるとともに東蝦夷における小さな反乱が起こります。廻船業者で海商である高田屋嘉兵衛らが箱館を拠点として活躍する少し前の時代です。淡路島出身の嘉兵衛は地元で酒や塩などを仕入れて酒田に運びます。酒田では米を購入し箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るのです。嘉兵衛は稀代の商人です。詳しくは「菜の花の沖」でどうぞ。

北方領土を考える その十 蝦夷の歴史

今、蝦夷開拓の歴史をアイヌの人々の生き方をとおして調べています。アイヌの古称は「エミシ」とか「エビス」と呼ばれていたことは既に述べました。エミシはもともと「勇者」の意味です。同時に「東の抵抗する勇者」ともされていました。「あらぶる人たち」、「まつろわぬ者たち」とされたエミシは「あずまびと」への賤称でありました。

国語辞典に「夷」はヒナともあります。漢字は「鄙」とも書けます。「鄙」とは卑しいとか田舎という意味です。「あずま」もヒナ=辺鄙ということになります。エミシは「ヒナ人」とされました。エミシは中央に従わない無法や無道と民とされていました。律令国家の統一に抵抗し、その支配と文化を受け入れなかったのです。体制側からすれば、政治的、文化的異民族で未開で野蛮な人たちであります。けだし人種上の異民族であったかどうかは議論されるところです。

平安時代の末、東北の人たちによって「夷」とは最北部の人たちだけについて呼ばれていました。北海道は「奥夷」の「胡国」でありました。ちなみに「胡国」とは野蛮な国という意味です。奥夷の島、夷狄の島、夷島が蝦夷でした。東北にとっては蝦夷は全くの外国です。

近世になるとアイヌの人々、エゾは「ウイマム」と称するいわば御朱印船で朝貢貿易を行っていました。中国は元や明王朝の頃です。その頃は、朝鮮は中国の支配下にありました。「ウイマム」とは「お目見え」という日本語に由来するようです。エゾには「ニシバ」と呼ばれる首長がいて、その中国からさまざまな貢物を受け、その品を下賜してその物資で交易します。この交易形態によって、「シャモ」と呼ばれた和人はエゾの支配を始め、それを継承していきます。シャモとは、海を渡ってきた新参者のことです。エゾはやがて和人領主と交易を巡って争いを起こします。

鎌倉時代、蝦夷地は流刑地とされていました。渡島半島南部は「渡党」と呼ばれ、その後の松前藩の中心となっていきます。鎌倉幕府は蝦夷地を津軽の土豪、安東氏に支配させます。安東氏の城下は津軽十三湊で、夷船や京船が集まって賑わったといわれます。この湊は今の五所川原市です。