北方領土を考える その十三 アイヌ語と美幌とレーション

はじめに。今年最後のブログ記事となりました。来年もどうぞお付き合いください。

子供時代の北海道のことを回想しながら、今年一年のブログも終わりとします。私は昭和20年、樺太から引き揚げて落ち着いたところが美幌です。親戚を頼って着の身、着のままやってきました。母と兄弟の四人でした。父は樺太で抑留されました。

美幌とはアイヌ語の「ピ・ポロ」。響きが素敵です。”水多く大いなる所ところ”という意味だそうです。生活し始めた美幌の家は長屋でした。風呂もなく週一度は街の銭湯へ歩いていきました。帰りは手ぬぐいがかちかちに凍るのです。板のように平べったくなります。布団の襟が吐く息でうっすらと凍り付いていたことを覚えています。

近年、市町村合併が進展し新しい名前を冠するところもあります。「つくば市」とか「さいたま市」です。これではいけません。美幌に新しい名前をつけるとすれば、「ピ・ポロ」とか「ピリカ」がふさわしいようです。私が町長になれば必ずそうするでしょう。地域の伝統と歴史を伝えるのが地名です。

美幌には色々な思い出があるのですが、その一つは昭和20年の秋に駐留軍が元の海軍航空隊施設にやってきたことです。チョコレートやチューインガムを兵隊がトラックからばらまいていました。ガキの私もそれをもらい、なんと甘いものかとむしゃぶりつきました。それとともにパイナップルの缶詰も珍しいものでした。レーション (ration) もそうです。携帯食品ともいえるでしょうか、乾パンから粉の珈琲、タバコまで入っていました。摂取すべきカロリーが計算されていたというのですから驚きです。

レーションを思い出すと、日米の彼我の差を感じざるをえません。戦争に負けて当然だったのです。戦争の唯一の楽しみは食事です。食事を通して命を大事にするかしないかが勝敗の分かれ目です。武士道精神だけでは足りないのです。旧海軍航空隊基地は、今は陸上自衛隊美幌駐屯地となっています。

北方領土を考える その十二 松前藩と「シャクシャイン」

昔の北海道は稲作が不可能でした。人々はせいぜい馬鈴薯や小麦、トウキビによって生計をたてていました。漁業や狩猟の他、牛や馬、羊を飼っていました。細々と砂金とりも行ったいたようです。和人とは交易によって、獣皮や鮭、鷹羽や昆布などを鉄製品や漆器、米や木綿などと交換していました。

今でこそ北海道の米の生産量は作付面積とともに全国一位です。その中心は石狩、空知、上川といった平野です。しかし、この姿を明治の時代、誰が予測しえたでしょうか。 米作の先駆者に中山久蔵という人がいました。明治四年に広島から札幌郡広島村に入植した中山は、地米の「赤毛」と「白髭」を水田に植えます。これが米作の開始となります。その後改良を加えて日本一の生産量を誇るまでとなります。

少し遡って江戸時代の松前藩の歴史に触れます。江戸幕府は松前藩に蝦夷に対する交易独占権を認めた黒印状を慶長9年 (1604年)に発給したといわれます。黒印状とは墨を用いた印判を押した武家文書です。ブリタニカ国際大百科事典によると、朱肉を用いた朱印状が将軍の発行した文書に限られたのに対して,黒印は旗本や大名の発行するものに用いられた、とあります。

江戸時代の初期までは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていました。松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出してぶつぶつ交換していました。しかし、幕藩体制が進むにつれ幕府の黒印状により対アイヌ交易権は松前藩が独占して他の大名には禁じられることとなります。アイヌ民族にとっては対和人交易の相手が松前藩のみとなり、自由な交易が妨げられることとなります。

さらに、不利な交換条件を嫌い交易を拒否するアイヌに対し和人が無理やり交易を強要し、アイヌには和人への不満が広がっていきます。 不利な取引きや搾取が深刻化するにつれ、アイヌ惣大将同士による地域集団の争いが起こります。日高地方の静内川流域の領分や和人による砂金採取の保護を巡る争いです。やがて多数のアイヌ民族集団による対松前藩蜂起へと発展していきます。1669年6月に「シブチャリ」の英傑といわれた「シャクシャイン」を中心として起きた松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起です。シブチャリとは、北海道は日高にある新ひだか町付近の地名です。

北方領土を考える その十一 松前藩と蝦夷

樺太生まれで北海道育ちの私には、北方諸島の話題をどうしても回顧したい気持ちに駆られます。父方の成田家、母方の吉田家はこの地で働き生計(たっき)をたててきました。戦後、抑留や引き揚げというヨレヨレの姿から平成に至るまでしぶとく生きてきました。引き揚げ以来、両親や親戚が島に一度も踏み入れる機会がなかった無念さのような心持ちを、ここで代わって回想しております。

古代のエミシは,主として奥羽地方以北の住人を指した語で,アイヌそれ自体を指した語ではないという説もあります。ただし、アイヌ人は奥羽地方にも散開してしていたはずですから、エミシはアイヌ人といってよいでしょう。

さて、室町時代になり津軽の豪族、安東氏を引き継いだのが渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏です。蝦夷地の総代官となります。渡島半島は道南部の松前や渡島、檜山地方のあたりです。1599年には蠣崎氏は支配地にちなんで松前氏と改名します。徳川幕府により、蝦夷全島の行政や交易に関する支配権を与えられ、松前藩となります。松前藩は石高による格付けを持たない例外的な藩となります。そしてエゾと和人との貿易を政治的に支配するのが松前藩です。

松前藩の行政権では、エゾの自由な往来や交易権の保障が規定されていたようです。それは「夷人に対する非文の儀」というもので、道理にはずれたこと、分不相応な対応をしてはならぬというものです。エゾは昆布や馬、毛皮や羽根などの特産物を和人にもたらし、代わりにエゾは米や布、鉄を得ていました。

そのためエゾは松前藩主からも賓客扱いされ、それまでの「ウイマム」という朝貢貿易を続けることができました。しかし、蝦夷地の奥地に入り込んだ和人の貿易商らの悪辣な搾取が積み重なるとともに東蝦夷における小さな反乱が起こります。廻船業者で海商である高田屋嘉兵衛らが箱館を拠点として活躍する少し前の時代です。淡路島出身の嘉兵衛は地元で酒や塩などを仕入れて酒田に運びます。酒田では米を購入し箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るのです。嘉兵衛は稀代の商人です。詳しくは「菜の花の沖」でどうぞ。

北方領土を考える その十 蝦夷の歴史

今、蝦夷開拓の歴史をアイヌの人々の生き方をとおして調べています。アイヌの古称は「エミシ」とか「エビス」と呼ばれていたことは既に述べました。エミシはもともと「勇者」の意味です。同時に「東の抵抗する勇者」ともされていました。「あらぶる人たち」、「まつろわぬ者たち」とされたエミシは「あずまびと」への賤称でありました。

国語辞典に「夷」はヒナともあります。漢字は「鄙」とも書けます。「鄙」とは卑しいとか田舎という意味です。「あずま」もヒナ=辺鄙ということになります。エミシは「ヒナ人」とされました。エミシは中央に従わない無法や無道と民とされていました。律令国家の統一に抵抗し、その支配と文化を受け入れなかったのです。体制側からすれば、政治的、文化的異民族で未開で野蛮な人たちであります。けだし人種上の異民族であったかどうかは議論されるところです。

平安時代の末、東北の人たちによって「夷」とは最北部の人たちだけについて呼ばれていました。北海道は「奥夷」の「胡国」でありました。ちなみに「胡国」とは野蛮な国という意味です。奥夷の島、夷狄の島、夷島が蝦夷でした。東北にとっては蝦夷は全くの外国です。

近世になるとアイヌの人々、エゾは「ウイマム」と称するいわば御朱印船で朝貢貿易を行っていました。中国は元や明王朝の頃です。その頃は、朝鮮は中国の支配下にありました。「ウイマム」とは「お目見え」という日本語に由来するようです。エゾには「ニシバ」と呼ばれる首長がいて、その中国からさまざまな貢物を受け、その品を下賜してその物資で交易します。この交易形態によって、「シャモ」と呼ばれた和人はエゾの支配を始め、それを継承していきます。シャモとは、海を渡ってきた新参者のことです。エゾはやがて和人領主と交易を巡って争いを起こします。

鎌倉時代、蝦夷地は流刑地とされていました。渡島半島南部は「渡党」と呼ばれ、その後の松前藩の中心となっていきます。鎌倉幕府は蝦夷地を津軽の土豪、安東氏に支配させます。安東氏の城下は津軽十三湊で、夷船や京船が集まって賑わったといわれます。この湊は今の五所川原市です。

北方領土を考える その九 単冠湾と山本五十六

通常ならばとても「ひとかっぷわん」とは読めない地名が単冠湾です。択捉島の太平洋に面しています。湾口の幅は約10kmといわれ、天然の良港といわれます。ヒトカップとはアイヌ語で「山葡萄の樹皮」を意味します。hat(山葡萄)とkap(樹皮)の合成地名です。

1941年11月23日に大日本帝国海軍第一航空艦隊という機動部隊が密かにこの湾に集結し、同26日に真珠湾攻撃のため部隊がハワイへ向け出港した場所として知られています。当時の連合艦隊司令長官であった山本五十六らが練りに練った戦術が真珠湾攻撃という先制攻撃です。

山本五十六のことです。1918年から、当時から世界的に流布していたナショナル・ジオグラフィック(National Geographic)を購読していたというのですから並の軍人ではありません。1919年4月に35歳の若さでアメリカ駐在を命じられ、ハーヴァード大学(Harvard University)に留学します。アメリカ滞在中は各地を見聞し、多くの油田、大規模な自動車産業や飛行機産業など、彼我の物量の圧倒的な差にショックを受けたといわれます。アメリカの国力を知ることとなった留学経験がアメリカとの戦争に反対するきっかけとなります。

1929年11月には海軍少将に昇進し、ロンドン軍縮会議(Conference of the Limitation of Armament, London)に次席随員として参加し、軍縮案に強硬に反対するような気骨ある軍人だったようです。軍縮案の採択によってアメリカと日本の軍備力や国力の差が開くことを予見していたはずです。

帝国海軍の劣勢とアメリカ海軍の優秀さを知っていた山本は、もしアメリカ戦うとしたら、空襲による先制攻撃をし、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出るほか勝ち目はないと考えていたといわれます。戦争が長引けば圧倒的な国力の違いで日本は負けると見通していたのです。こうした正確な判断によって、山本の慧眼さはやがて各国から賞賛されることになります。1905年5月の日本海海戦でバルチック艦隊(Baltic Fleet) を迎え敵前回頭と丁字戦法を考えた秋山真之参謀らの活躍も思い出されます。

北方領土を考える その八 アイヌと北海道旧土人保護法

北方領土や北海道をもっと知るためには、どうしてもアイヌ語やアイヌ文化を知る必要があると考えています。北海道の市町村の名前はおよそ八割がアイヌ語に基づくといわれます。現在の地名は、アイヌ語で呼ばれていた地名がカタカナなどで記録され、類似する音の漢字が当てはめられたものです。

アイヌ社会においてはアイヌ語を文字表記しなかったようです。現在では北海道アイヌ協会が教科書で使用したラテン文字表記がある程度知られています。カタカナ表記はラテン文字の近似的な発音を表したものです。

道央の白老町にアイヌ民族博物館があります。ここにはアイヌ民族の歴史が伝えられています。アイヌの社会の特徴の一つとして、活発な交易を行っていたことが、近年明らかにされつつあります。13世紀後半の中国の資料には、黒竜江、アムール川下流域に勢力を伸ばしてきた「元」と、交易上のトラブルが原因で交戦したと記録されています。17世紀初頭のキリスト教宣教師の記録にも、北千島産の高価なラッコ皮をもたらす道東のアイヌや、中国製の絹織物を運ぶ天塩のアイヌの来航により、松前が繁栄している様子が記されています。また津軽海峡を渡って、自由に和人社会との交易も行われていました。

北海道旧土人保護法というのがありました。この法律は「貧困にあえぐアイヌの保護」が目的とあります。和人(シャモ)の進出や開拓政策のためにその生活圏を侵食され,窮迫するアイヌの人々に対し,土地の確保と農耕の奨励,教育の普及などを目的として制定された法律です。旧土人とは1878年の開拓使の達しによって統一されたアイヌに対する呼称です。農業に従事するアイヌに対して1万5000坪以内の土地を無償で払い下げること,土地の売買や譲渡、質入れを禁止することが規定されます。アイヌの集落には小学校を設置すること,などが法律の骨子ですが、結果的に次のようなことも強いられます。
・アイヌ固有の習慣や風習の禁止
・日本語使用の義務
・日本風氏名への改名による戸籍への編入

 

北方領土を考える その七 「蝦夷」とは

「蝦夷」とはアイヌの古称と言われます。白川静氏の「字通」にこの記述があります。もともと「エビス」、「エミン」又は「エミシ」とも言われます。「蝦」はエビという漢字です。ブリタニカ国際大百科事典によりますと「夷」は「エミシ」と呼ばれ、本来勇気ある者を指し、多く男性の美称として用いられたとあります。このように「蝦夷」とは東北北部から北海道、千島方面にかけての先住民に限られた使い方です。もともともは地名ではないのです。

「夷」についてもう少し触れます。この漢字の構成からして、「夷」は「弓人」の意味ではないかという説があります。弓と大との組み合わせで、大は人の意味。「大に従い、弓に従う」という意ともなります。ですから「夷」、「エミシ」は勇者となるというのです。

昔は「毛人」という用字がありました。古代「エゾ」は本来は「毛人」と書かれていました。このことは中国の史書である「宋書」にあるそうです。「蝦夷」という文字の日本語読みとしては「エミン」というのは古い使い方で、「エゾ」というのは新しい用字だったようです。日本書紀にも唐帝に蝦夷の男女二人が使節の中に随員として同行していたという記述があるそうです。やがて日本では、「毛人」 が 「蝦夷」という言い表し方をするようになります。

「蝦夷」についての中華思想は興味あります。「世界民族問題事典」(平凡社)によれば、中国では「夷」は狭い意味があって、「勇武な蛮族についてのみ用いられる」というのです。古代の蛮夷思想によれば、「蝦夷」という人々は政治的、文化的に「蛮族」の観念とされます。政治的に中央の権力に奉じない、文化的にも「華風」になじまないというのです。そのような理由で蛮族は「化外の民」として扱われてきました。「化外」と「辺境」が蛮民の住むところと考えられてきました。

「化外」の民は本州にもいました。東国の古名「あずま」は、「田舎」とか「辺鄙」の意味です。東北の古名は「道奥」で文字通り「道の奥」であり、政治や文化の外、「化外」の意味となります。東国、道奥の人々は古代の辺民、蛮族を代表することとなり、「エミシ」といえばそれは東夷、特に奥夷を意味し「蝦夷」となったという説です。

北方領土を考える その六 択捉島の産業

ロシアによる北方四島の実質的な支配とその強化は、現地企業の成長にも表れているようです。その筆頭は択捉島に本社がある「ギドロストロイ社」(Gidrostroy) という企業です。自前の船団を有し漁業や水産加工から建設業、さらには金融まで手がけています。かつては洋上で、獲れた魚を日本の業者と直接取引していた会社です。サケマスやカニなどを択捉島や色丹島に4つある工場で缶詰加工しています。そのため需要が急速に伸びている中国や日本の他かに、欧米や韓国にも輸出するという成長振りです。

ギドロストロイ社はロシア政府から優先的に漁業権の割当を受けているといわれ、豊富な水産資源を押さえています。ロシアの産業はすべて政府の許認可によるものです。お役所仕事には賄賂や接待、汚職がつきものです。日本の企業も許認可に必要な書類の作成や待ち時間に悩まされていると報道されています。円滑に事を運ぶために、恐らくは袖の下を使っているはずです。

会社の規模ですが、10年前は500人ほどだった従業員の数は3,000人を超え、択捉島では就労人口の大半がギドロストロイ社で働いているといわれます。島内には直営のホテルやスポーツジム、温泉まであります。建設業は、空港、港、道路、住宅、軍事施設など多岐にわたります。こうした工事を請け負うのもギドロストロイです。高い賃金や安定した仕事を求めて出稼ぎ労働者が集まります。

ギドロストロイ社の成功に深く関わっているのが、性能の良い日本製の機械の導入といわれます。そのため日本人技術者がビザで入国しています。冷凍機のほか、水産物の加工用の切断機やイクラの分離をする機械、缶詰の生産プラントが必要です。機械の操作や加工技術の指導、さらに修理や部品交換のため日本人技術者がかかわっています。水産加工場の写真を見ると、昔稚内にあった沢山の加工場の姿を思いだします。スケソウダラの肉で竹輪を焼いたり缶詰を作っていました。

2013年には島に渡るために1,450メートルの滑走路を有する空港も造られました。サハリンを経由して飛行機で択捉島へ行くのが一般的なようです。

北方領土を考える その五 Intermission 度忘れとアルツハイマー病の兆候

北方領土の話題を少し離れます。先日の朝、突然、それも全く思いもよらない経験をしました。朝食前にいつもどおりゴミをだし新聞をとりに行きました。そのとき、くらくらっとして新聞受けの暗証番号が浮かばなかったのです。四桁の数字で最後の数字は9であることは思い出しました。数字をいろいろと組み合わせましたが、どうしても開けることができません。仕方なく家に戻りました。暗証番号はもう9年間も毎日誤りなく使っていたので、ぞーっとしました。

少し冷静に考えてパスワードのリストにないかと探しましたがありません。四桁の番号は小さいほうから大きいほうに連なることは知っていました。そこで四桁の組み合わせをメモってみました。このとき[2]と[3]から始まり、大きい数字へ続くという思い違いをしていました。ですからどうしても開かなかったのです。[4]から始まる数字を試みるべきだったのです。

このように何度も数字の組み合わせを試みましたが開きません。新聞受けの前にあるエントランスには、数週間前に防犯カメラが設置されました。このカメラが気になりました。どうしても開かないので管理会社に連絡したところ番号を教えてくれました。実にあっけない数字の組み合わせだったのですが、ほんの僅かな違いだったのです。「2と3から始まる」という固定観念が四桁の数字の組み合わせを妨げてしまいました。

ただ単に組み合わせを覚えるだけでは、また同じ間違いをするはずです。そこで記憶と想起のための方略をと考えたのが、メモ帳に書きこんでおくという、なんていうこともない方法です。もう一つ、二つの偶数、二つの奇数が組み合わされるということをブツブツと繰り返すことでした。ついでに自宅と携帯の電話番号、郵便番号を何度も復唱しました。このような「度忘れの体験」 や記憶の障害がアルツハイマー病 (Alzheimer’s disease) の前兆なのかと思った次第でした。

ユダヤ人の名言に次のようなフレーズがあります。
「失敗とは、 あきらめてしまったときにのみ起こる現実なのだよ。」

北方領土を考える その四 択捉島とニイタカヤマノボレ

択捉島の中部に単冠湾(ヒトカップワン)があります。太平洋戦争では忘れることのできないところです。1941年11月20日、日本海軍によりあらゆる船の島への入出港が禁じられます。厳しい情報統制下の単冠湾に南雲忠一中将率いる航空母艦6隻を含む軍艦30隻の機動部隊が集結します。この島外との徹底した情報の遮断は太平洋戦争が開戦した12月8日まで続けられたとあります。そして、大本営より機動部隊に対して真珠湾攻撃の「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信され、部隊は11月26日にハワイへ向け単冠湾を出港していきます。

ワシントンDCでは、日本とアメリカとの戦争回避のための条件を日本に発した文書、いわゆる「」ハル・ノート(Hull Note) を巡り、外交交渉が続けられていました。日本側は野村吉三郎駐米大使、来栖三郎特命大使、アメリカ側はコーデル・ハル (Cordell Hull) 国務長官でした。

1907年の第2回ハーグ会議で「開戦に関する条約」が作成され、締約国は最後通牒の形式なくして相互間に戦争を開始してはならないと定められました。山本五十六連合艦隊司令長官は、真珠湾攻撃の前にアメリカに対して外務省が交渉の打ち切りと大使らの引き揚げといった最後通牒をしたかどうかを懸念したはずです。「不意打ち」を避けようとしたのです。宣戦布告の前に最後通牒をすることが外交の礼儀でありました。

17 Nov 1941, Washington, DC, USA — Saburo Kurusu, (right) Japan’s special envoy for a “final attempt at peace”. Secretary of State Cordell Hull and Kichisaburo Nomura. (left) Japanese ambassador to the United States, arrive at the White House, November 17th, for an hour and ten minute conference with President Roosevelt. The President told Japan’s trouble-shooter that he hoped that a major conflict in the Pacific could be avoided. — Image by © Bettmann/CORBIS

戦争とはその始まりも終わりもスパイなどによる情報合戦です。1993年に択捉島を題材にした著作物に基づくテレビ番組「エトロフ遥かなり」という番組がNHKで四回わたり放映されました。大戦前夜、日本海軍の動向を探るため、憲兵に追われながらも単身択捉島に潜入した日系アメリカ人スパイの賢一郎と島で暮らす娘ゆきが恋に落ちます。彼女は賢一郎の正体を知らないのです。そして彼らを取り巻く、様々な思いを抱く人々。開戦前の緊張が伝わりました。演じていたのは沢口靖子や阿部寛です。