ヨーロッパの小国の旅 その二十七 ムーミン・トロール

「ねえ ムーミンこっちむいて はずかしがらないで モジモジしないで、、」 この歌をご存知の方は童心に溢れる方です。フィンランドで忘れられないものに「ムーミン」(Moomin)という童話といいますか、児童小説があります。主人公は「ムーミン・トロール」(Moomintroll )。トロールは北欧の民間伝承に登場する妖精の一種です。一見するとカバ(hippopotamus)に似ています。

ムーミンの物語に登場するトロールは、作者トーベ・ヤンソン(Tove Jansson)が独自に創造した架空の生き物で、男の子という設定です。人形の登場人物も人間ではなく、架空の小人の一種のようです。『ムーミンパパの思い出』に登場するミムラねえさん(Mymble)やミイ(Little Me)らが住む丸い丘の国のに済みます。そして自由に旅することをこよなく愛し、物を所有することや何かを禁止されたり、命令されたりするのを嫌うスナフキン(Snufkin)は人間の格好をしています。

ムーミン達が住むところはムーミン谷(Moomin valley)と呼ばれます。谷の東には「おさびし山」(Lonely Mountains)がそびえ、その麓から川が流れています。川にはムーミンパパ(Moominpappa)の作った橋がかかっていて、その橋の先に「ムーミン屋敷」があります。ムーミンパパが設計図を書いて建てた理想の家です。ムーミン屋敷の北側にはライラックが咲いています。西は海に面しています。

ムーミンパパとムーミンママ(Moominmamm)は、作者ヤンソンの両親を投影しているといわれます。とりわけムーミンママの言葉と行いはヤンソンの母親の生き写しだったといわれます。1945年の第一作である「大きな洪水と小さなトロール」(the Great Flood)では、トロールたちは人間と同じ世界で共存しますが人間には感知されない存在として描写されています。

ヨーロッパの小国の旅 その二十六 フィンランド その2 歴史

フィンランド共和国の歴史です。首都ヘルシンキ(Helsinki)は1894年1月に締結された露仏同盟以来、ロシアの主要都市であるサンクトペテルブルク(St. Petersburg)方面へ西側諸国が投資や往来をするための前線基地となってきました。同じく近くに位置するヴィボルグ(Vyborg)はフィンランド湾に面していて、ロシアと欧州諸国の間にある地政学的な重要性から、たびたび勢力争いの舞台や戦場になりました。ヴィボルグは今はロシア連邦の一部です。

国会議事堂

人口や経済規模は大きいとはいえないのですが、一人当たり国内総生産-GDP(Gross Domestic Product)では豊かな国となっています。2014年の経済協力開発機構(OECD)の報告書では「世界でもっとも競争的であり、市民が生活に満足している国の一つである」と報じられたほどです。フィンランドは雇用や所得、住宅環境、保健衛生、社会保障、育児や教育、地方分権、生活の質(QOL)、個人の安全、主観的幸福の各評価において、すべての点でOECD加盟国平均を上回っているのです。2019年の幸福度調査(Happiness Survey)で156カ国・地域のうち世界第1位、日本の順位は58位とあります。

Idyllic summer landscape with clear lake in Salamajarvi National Park, Finland

第二次大戦後、フィンランドの親ソ路線は外交政策の基本となります。それは、中立外交という政策です。大国ロシアと約1,300キロにわたり直接国境を接しているため、国家の安全を確保するための中立外交を貫いてきたのです。これが同国の「軍事的非同盟政策」といわれるものです。この外交政策は、フィンランドが今も北大西洋条約機構(NATO)に加盟しないことにも現れており、伝統的中立政策を維持していることを示します。大国に翻弄されてきた歴史の知恵ともいえましょう。しかし、ソ連の崩壊を機にフィンランド外交は西ヨーロッパと連動しています。EUには加盟していますが、NATOには当面加盟しないとの方針を堅持しています。

フィンランドは原子力の分野で先進的と言われています。国内には原子力発電所があり、高レベル放射性廃棄物を半永久的に地中に埋める最終処分場の建設がオルキルオト(Olkiluoto)という人口が極めて過疎の地域にある島で造られています。ただ最終処分場の建設反対運動も続いているようです。

サウナ

ヨーロッパの小国の旅 その二十五 フィンランド その1 スオミ

一挙にバルカン半島を離れ、バルチック海を渡りましょう。私にとってのフィンランド(Finland)とは、1952年のヘルシンキオリンピック(Helsinki Olympic)の想い出です。戦後日本が最初に参加した夏季オリンピックです。この大会で石井庄八がレスリングフリースタイルで優勝したことが報じられます。新聞やラジオで大きく報じられ、敗戦に打ちひしがれた国民に希望を与えるような快挙でした。さらにチェコスロヴァキア(Czechoslovakia)のエミール・ザトペック(Emil Zatopek)が、長距離種目の5,000メートル、10,000メートル、マラソンで金メダルを獲得する大会です。

フィンランドに関する2つ目の思い出です。1977年に国際ロータリー財団から奨学金を頂き、アメリカ南部ジョージア州(Georgia)の小さな大学に海外からの奨学生50名ほどが集まったときです。フィンランドからきた金髪の女性がいました。親睦パーティのとき彼女に「シベリウス(Jean Sibelius)のフィンランディア(Finlandia)が大好きだ」というと涙をながさんばかり喜んでいました。思いがけない会話だったからでしょう。この曲は交響詩と呼ばれ、交響組曲レンミンカイネン組曲(Renmin Kainen Suite)などとともにシベリウスの代表作といわれます。

フィンランドに関する3つ目の思い出です。1985年7月に国際精神遅滞学会(International Association on Mental Retardation)がヘルシンキでありました。そのとき論文を投稿し発表する機会に恵まれました。幸い二番目の娘もヘルシンキにやってきました。このときついでにフェリーでエストニア(Estonia)のタリン(Tallinn)へ渡りました。

フィンランドは、「フィン人の国」という意味で、フィンランドの人々は自分たちをスオミ(Suomi)と呼んでいます。国土の約70%が森林、約10%が湖沼や河川に覆われているので「森と湖の国」が代名詞となっています。北極圏内にある国土の4分の1はラップランド(Lappland)と呼ばれ、約6,000人の先住民族のサーメ(Sami)がトナカイの放牧などで暮らしています。神話や伝説が沢山あるところといわれます。神秘的なオーロラを見ようと観光客で賑わうそうです。

ヨーロッパの地図をみると、フィンランドはスカンジナビア(Scandinavia)半島の北東部に位置し、通常は北欧と呼ばれています。北側はノルウェー、西側はスウェーデンと国境を接しています。西はボスニア湾(Gulf of Bosnia)、南西はバルト海(Baltic Sea)、南はフィンランド湾(Gulf of Finland)に面しています。スカンジナビアは別名ノルディック(Nordic)とも呼ばれます。スカンジナビア諸国というときはデンマーク(Denmark)も含まれます。

フィンランドはもはやヨーロッパの小国ではありません。1980年代以降、農林水産業の経済から、携帯電話の生産量が世界1位になるなどハイテク産業を基幹とする工業先進国へと大きな変化を遂げたのがフィンランドです。その代表といえば、ノキア(NOKIA)やOSのリナックス(Linux)でしょうか。

ヨーロッパの小国の旅 その二十四 ルーマニアとチャウセスク

バルカン半島の中央部に位置するルーマニア(Romania)に移ります。 首都はブカレスト(Bucharest) で国の人口は1,930万人とあります。北はウクライナ(Ukraine)、東は黒海(Black Sea)とモルドヴァ(Moldova)、南はブルガリア(Bulgaria)、西はセルビア(Serbia)、ハンガリー(Hungary)に囲まれています。

ルーマニアの地理をおさらいします。国土の1/3は山、1/3は森林地帯で残りが丘陵や平野となっています。平野が広く農業や酪農が盛んで。天然資源に恵まれ、原油、金銀などの採掘が行われています。多くの川では水力発電が盛んで、黒海沿岸は貿易やリゾートとしても賑わいます。

ルーマニア人の祖先はローマ時代に遡るとされます。9世紀から10世紀に侵入したマジャル人(Hungarians)、そのほかにトルコ人、ゲルマン人などの混血や同化によって、重層的に形成されたとされる説もあるようです。ルーマニア人を「Romani」、ロムニとも呼ばれ、ルーマニア人の9割を占めるといわまれます。

現代史を要約してみます。1939年8月に独ソ不可侵条約(German-Soviet Nonaggression Pact )により、ルーマニアはイギリスやフランスとの集団的安全保障(collective security)を求めます。1940年第二次世界大戦が始まると、ソ連はルーマニアの一部を占領します。列強の領土割譲要求にたいして、ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦します。ドイツの敗退により再度ソ連に侵攻され連合国側につき、国内のドイツ軍を壊滅させたあとにチェコスロバキアまで侵攻し対ドイツ戦を続けます。ルーマニアは1944年にソ連軍に占領され、1948年にはソ連の衛星国(Satellite of the Union of USSR)となります。

元共産党本部と大統領府

1948年からルーマニア社会主義共和国の指導者となったチャウセスク(Nicolae Ceausescu )は、書記長として長年にわたり独裁政権を維持します。他の東側諸国とは一線を画して、「一国共産主義」を唱え西側との結びつきも強めたのが特徴といわれます。独裁政権の最大の罪は「知識層を庶民の敵とみなして排除したこと」といわれます。1989年12月のルーマニア革命(Revolution of Romania)によりチャウセスクは逮捕後処刑されます。そして1990年に自由選挙が行われます。2004年には北大西洋条約機構(NATO)に、2007年に欧州連合(EU)に加盟します。

ヨーロッパの小国の旅 その二十三 ユーゴスラビアとチトー

私には、セルビアという国名よりも「ユーゴスラビア」のほうが親しみがあります。この理由はなんといっても強力な指導者であったチトー(Josip Broz Tito)という人の存在があります。丁度冷戦の時代、新聞やラジオで彼の名前はしばしば登場していました。そこにアジア、アフリカの第三世界と呼ばれた国々の指導者、たとえばエジプトのエジプトのナセル大統領(Gamal Abdel Nasser)、インドのネール首相(Jawaharlal Nehru)らが現れ、冷戦の緩和に役割を果たしていく頃です。

Kalemegdan Castle, Belgrade

チトーが登場したのは、1941年から1945年にわたりナチスドイツなど枢軸国(Axis units)と戦った人民解放軍(パルチザン:Partizan)の総司令官を務めたときです。その間、民主的な臨時政府の設立を宣言するのです。ドイツの敗戦により、チトーはユーゴスラビア社会主義連邦共和国首相兼国防相に就任します。1946年1月、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められ、ユーゴスラビア連邦が誕生します。その初代首相に選ばれるのです。6つの構成国とは、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツゴビナ、クロアチア、スロバニア、そして北マケドニアです。

チトーは、ソ連からの自立を意図し距離を置いていきます。そのため、ソ連によるユーゴスラビアの衛星国化を目指していたスターリン(Joseph Stalin)はユーゴスラビア社会主義連邦共和国を「共産党・労働者党情報局」、別名コミンフォルム(Comin form)から除名します。その後、チトーはソ連型社会主義と対峙し続け、1948年にはスターリンと断絶し、独自の政治路線を敷いていきます。チトーは1953年から1980年まで大統領を務めます。その間、企業における労働者による自主管理によって資本は労働者所有となり、経営者は労働者が選ぶとか、各共和国に大幅な自治権を与えるといったユーゴ独自の自主管理社会主義を建設していきます。これがチトー主義(Titoism)と呼ばれる考えです。

チトーは国内では新聞などによる体制批判を認め、言論の自由をある程度認めるのです。国内のインフラ整備を推し進めて、年率6%の経済成長を達成していきます。医療費はすべて無料とし、識字率は91%まで向上させるのに貢献したといわれる指導者でした。「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」という多様性を内包する国を治めるのは容易なことではなかったと思われます。

Ivan Osim

チトーが大統領になっていた時には大きな民族問題が起こることはなく、1984年のサラエボ(Sarajevo)オリンピックが終わるまでは共和国体制を維持することができます。これもチトーのカリスマによって成り立っていたといわれます。1991年にユーゴスラビア紛争が勃発し血みどろの内戦に突入します。

ヨーロッパの小国の旅 その二十二 セルビアとユーゴスラビア

バルカン半島の地図を見ますと、セルビア(Serbia)は8つの国に囲まれています。すなわち北はハンガリー(Hungary)、東はルーマニア、ブルガリア、南は北マケドニア(North Macedonia)、コソボ、西はモンテネグロ(Montenegro)、ボスニア・ヘルツゴヴィナ(Bosia & Herzegovina)、そしてクロアチア(Croaia)となっています。首都は国際都市といわれるベオグラード(Beograd)で、ドナウ川(Danube)とサバ川(Sava)の合流地点に位置します。

セルビアは1920年代の頃、ユーゴスラビア(Yugoslavia)の一部でありました。ユーゴスラビアは、「南スラブの地」(Land of the South Slavs)と呼ばれ、セルビア、スロベニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツゴヴィナ、クロアチア、北マケドニアを含む国でありました。長らくオスマン帝国やオーストリア-ハンガリー帝国の支配にありましたが、こうした国々は1918年に「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」(Kingdom of Serbs, Croats, and Slovenes)を結成し、南西スラヴ人の統一国家が誕生します。1929年にセルビア王のアレクサンダル1世(Alexander I)がクーデターを起こしユーゴスラビア王国として多民族国家が生まれます。

ユーゴスラビアといえば、長年大統領として政治的な手腕を発揮したチトー(Josip Broz Tito)を思い出します。今日も優れた政治家として知られています。第二次大戦後、チトーはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の大統領となります。ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者でもあり、憲法改正によって各共和国や自治州の自治権を拡大するなどして連邦にありながら、国の自治に腐心します。ソ連のスターリンとも距離を置く共和国でした。

Josip Broz Tito

アメリカやソ連ソ中立的なユーゴスラビアは「第三世界」(Third World)の国といわれたこともあります。中立的な立場から国際連合平和維持活動にも参加します。労働者自主管理とか市場社会主義、非同盟外交などの独自の社会主義思想によるチトーの政治姿勢は「チトー主義」(Titoism)と呼ばれました。

ヨーロッパの小国の旅 その二十一 コソボと紛争

コソボ(Kosovo)という国は、1990年代に新聞やテレビで内戦の悲惨な状況が報道された国です。「ヨーロッパの火薬庫」という代名詞のいわば中心ともいえる国です。人々の苦悩が詰まった国の一つといえるでしょう。小国が「ひしめく」バルカン(Balcan)半島の歴史は、島国にはない紛争と戦-いくさの歴史のような印象を受けます。

コソボは、バルカン半島にある小さな領土の国です。2008年に独立を宣言し、アメリカやヨーロッパ諸国はそれを認めるのですが、ロシアや中国、さらにEU諸国の一部、たとえばスペイン、セルビア(Serbia)、ギリシャやモンテネグロ(Montenegro)は独立を認めていません。2010年に国際司法裁判所(International Court of Justice)はコソボの主権を認める判決をだします。しかし、国際連合(UN)の安全保障理事会常任国であるロシアや中国の反対で国連への加盟は果たしていません。

コソボという呼び名は、セルビアで使われる「黒鳥の住む草原」(Field of Blackbirds)に由来します。中世期までセルビア帝国の支配にありましたが、コソボは15世紀中期から20世紀の初頭までオスマン帝国の支配下にありました。こうしてイスラム圏の拡大により、アルバニア人の人口が増えます。20世紀前半よりコソボはセルビアの一部となり、その後ユーゴスロバニア(Yugoslavia)に編入されます。イスラム教徒は東方正教会の人口を上回り、しばしば民族間の緊張が高まります。

コソボでは1991年、コソボ共和国としてユーゴスラビア連邦共和国からの独立を宣言します。ですが国際社会からはコソボは独立国と見なされず、ユーゴスラビア連邦の一自治州と見なされました。1998年にアルバニア人で結成された「コソボ解放軍」が反乱を起こし、コソボ紛争と呼ばれる内線に突入します。北大西洋条約機構(NATO)が介入しセルビア地区の空爆が実施され、セルビアによる統治はコソボから排除されていきます。

1999年のコソボ紛争後に採択された国連安全保障理事会決議にもとづきセルビア人部隊はコソボから撤退し、代わって国連コソボ暫定統治機構(UN Interim Administration Mission in Kosovo: UNMIK)の暫定統治下に入ります。2008年2月にコソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択し憲法を発布します。しかし、前述のようにロシアや中国が独立を認めず、バルカン半島における民族自決を掲げる少数民族国家、コソボのセルビアからの完全な分離独立は未だに不明な状況です。

ヨーロッパの小国の旅 その二十 ボヤナ教会のフレスコ画 

ヨーロッパの小国巡りをしています。ところが小国とはいえ、大国にない素晴らしい文化があることに驚きます。多様な民族、交易による人の交流、紛争、そして宗教心が民族の独自性を維持する力になったようでもあります。

Boyana Church

ブルガリアの首都ソフィアから南西に8km。ヴィトシャ山(Vitosha)の麓に建つ小さな教会がボヤナ教会(Boyana Church)です。ブルガリア正教会(Bulgarian Othodox Church)の礼拝堂です。2階建ての教会は、10世紀後半に建てられ、その後13世紀と19世紀に増築されます。ブルガリア正教会は東方正教会(Eastern Orthodox Church)の一員です。

この教会が世界的に有名なのは、礼拝堂や拝廊の内部に描かれているフレスコ画です。現存するのは、古くから描かれていたフレスコ画の上に上書きされたもののようです。礼拝堂の壁画には、240人の人物像があり、89の聖書の箇所が展開されています。東ヨーロッパの中世美術の中でも、最も保存状態の良いものとされています。

礼拝堂へつながる廊下、拝廊にある18場面は聖ニコラオス(St. Nicholas)の生涯を描いています。「海での奇跡」という画面では、船と船乗りの帽子がイタリアのヴェネツィア(Venice)の船を思わせるといわれます。「アドリア海の女王」とか「水の都」と呼ばれたヴェネツィアからの影響だろうと察せられます。

教会の北壁には、教会を巨額の浄財によって支えた有力な信徒や貴族たちの肖像画群となっています、教会のフレスコ画の中でも最も印象的で迫真的な作品とされます。その肖像画には、貴族カロヤン(Sebastocrator Kaloyan)とその妻デシスラヴァ(Desislava)、あるいはブルガリア皇帝のコンスタンティン1世(Constantine I)や皇妃イリーナ(Queen Irina)などが描かれています。

ヨーロッパの小国の旅 その十九 フレスコ画とリラ修道院

リラ修道院(Rila Monastery)はブルガリアに行くのでしたら是非訪れて欲しい場所です。この修道院はユネスコの世界遺産です。この修道院の見所といえば、聖母誕生教会(St. Mary Nativity Church)の壁や天井に極彩色で燦然と輝くフレスコ画(fresco)といえます。フレスコ(fresco)という言葉は、英語のfreshにあたるイタリア語です。文字通り「新鮮な」とか「爽やかな」という意味です。

Rila Monastery

フレスコ画とはですが、壁面に砂と石灰を混ぜた「石灰モルタル」を塗り、そのうえに水で溶いた顔料で絵を描いていく技法です。色の元である顔料そのものと、石灰が硬化する力で色を定着させていくので接着剤は使いません。乾燥すると石灰に膜が張られ、自然の保護膜ができるため、非常に耐久性が高くなります。さらに、石灰は元の石灰岩へと戻っていくため彩色大理石のようになり、何百年何千年と色あせない絵画ができるとも言われます。

フレスコで想い出すのが、人類最古の絵画と言われるアルタミラの洞窟壁画(Cave of Altamira)です。我が国の高松塚古墳の壁画もフレスコ画といわれます。時代はくだり、ヴァチカン(Vatican)にあるシスティーナ(Sistine)礼拝堂にあるミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti )が描いた「天地創造」、「最後の審判」、ラファエロ(Raffaello Santi)による「アテナイの学堂」、これらもフレスコ画です。2人ともルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家です。

リラ修道院に戻ります。フレスコ画のモチーフはいうまでもなく聖書物語です。聖書の36場面が描かれています。礼拝堂内に入ると無数のイコン(icon)で飾られたイコノスタシス(iconostasis)という壁が目に飛び込んできます。金箔が施されています。この壁は「聖障」と訳されていて、正教会と東方諸教会の聖堂では、聖所と至聖所を区切るのです。礼拝堂の壁、柱、梁、天井を埋め尽くす極彩色のフレスコ画はブルガリア宗教画の至宝でしょう。

リラ修道院にある博物館も見逃せないところです。そこにある秘蔵品は「ラファイルの十字架(Rafail’s Cross)」という縦横81×43 cmの木造の十字架です。その上に104の聖書の箇所が彫られ、650体の人物が描かれています。完成したのは1802年で、ラファイルという僧侶が作ったとあります。

ヨーロッパの小国の旅 その十八 リラ修道院

ブルガリアの首都ソフィアの南、110キロ余りのところにリラ修道院(Rila Monastery)があります。ソフィアを旅するときは、一日かけて訪ねる価値があります。バスに揺られ2時間余り。途中のリラ村からは緑の深いリルスカ峡谷(Rilska River)を走ると、そこに忽然として男子の修道院が現れます。UNESCOの世界遺産、リラ修道院です。修道院は海抜1,100mのところにあり周りの山はロドペ山脈(Rhodope Mountains)です。

創建は10世紀に遡ります。聖リラ(St. Ivan of Rila)という僧がこの深い谷間を隠遁の地として選び礼拝堂を建てます。当時は、岩壁の洞窟を使ったと記録されています。やがて各地からやって来た若い求道者が現在の位置に教会堂などを建て始めたようです。

リラ修道院は、長い間ブルガリア帝国の支配者から厚い庇護を受けて文化や霊的な教育の中心として発展します。それはオスマン帝国の支配が始まるまで続きます。14世紀には、修道院としての規模となり充実します。リラ修道院の現存する最も古い建物は、修道院正面の門と大司教の正座、そして石造りの礼拝堂と塔でです。フレリョ塔(Tower of Hrelja)と呼ばれます。

16世紀にはいると修道院は数々の攻撃や破壊を受けます。しかし、マラ・ブランコビッチ(Mara Brankovic)というセルビア王国(Serbia)の王妃やロシア正教会などの援助で元通りに再建されるのです。修道院の宿坊は1816年に造られます。1833年、大火のために修道院は焼失しますが、当時有名な建築家アレクシ・リェッツ(Alexi Rilets)の設計と裕福なブルガリア人などからの多額の浄財とによって1862年に再建されます。修道院内の複合建築物には、ブルガリアの言語や文化を代表する書物や遺品を所蔵し、収蔵所としての役割を果たしています。