アメリカ英語の修辞学 その11 問いー読者は誰か?

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「自分の文章はどのような読者層を対象としているのか?」この問いには明白な答えがあるように思えるでしょう。こうした問いはいつ、どこででも重要な意味を持っています。このブログを目にしている一般識者、学生や主婦、教師、心理学者、セラピスト、図書館司書など幅広いと思われます。その誰もが、自分で文章を書く機会が多いはずです。そのとき、読者に何をどのように伝えるかを考えることは至極当然なことです。

 読者層は、フォーマルな文章を期待しているのか、インフォーマルな文章を期待しているのか、真面目な文章を期待しているのか、ユーモラスな文章を期待しているのか、統計的な文章を期待しているのか、哲学的な文章を期待しているのか、詩歌のような文章を期待しているのか、実験的な文章を期待しているのか、、、、、、、、。こうした質問に自問自答してみることが大事です。この答えによって、私たちは自分の考えを効果的に伝える文章を作成する上で役立つはずです。

 いつの時代でも文章の読者層は誰かを念頭におくことは重要です。英語で文章を書くときもそうです。譬えれば、新しい写真を撮るたびにカメラのピントを合わせるように、読者に合わせて文章の書き方を調整する必要があります。提案書、報告書、文学論文、書評、法律文書、小説やエッセイなど、文章の種類は大きく異なります。いうまでもなく、こうした専門分野ではそれなりの専門用語を使うのはもちろんです。それに加えて修辞の技法を用いて、論文やエッセイの体裁を整えるのです。

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アメリカ英語の修辞学 その10 トランジッションー同格語

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良い英文を書くには、専門用語はもちろん、幅広く語彙を貯めておくことです。それではじめて、読み手に満足してもらえるのです。修辞は、潤沢な語彙の蓄積によって成り立つのです。今回は修辞の中でしばしば使われる手法、同格語の使い方です。

同格語は、従属接続の一つで二つの同じ意味の文章を一つの文にまとめる方法です。それによって、文章の冗長さを避けることが出来ます。冗長な文になる代表は「and」によってつなげる文章です。無駄が多く、必要以上に説明が重複し長くなっている状態のことです。一般的には「くどい文章」とも呼ばれます。日本文では、重複してもさして不自然にはきこえないのですが、英文ではなんとなく、ダブってきこえるのです。その代表は、「and」を使って二重に説明する場合です。

くどく弱い文: Knut Hamsum was a Norwegian novelist, and he won a Nobel Prize.
改善した文: A Nobel Prize winner, Knut Hamsun was a Norwegian novelist.

くどく弱い文: Mr. Edwards is the manager of the store, and he is a city councilman.
改善した文: Mr. Edwards, the manager of the store, is a city councilman.

くどく弱い文: My uncle brought me a gift, and it was a wristwatch.
改善した文: My uncle brought me a gift, a wristwatch.

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アメリカ英語の修辞学  その2 統一性

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留学生の中には、英語の段落という概念が馴染みのないものかもしれません。文が完全な考えを伝える単語の集まりであるように、段落は考えをさらに発展させる文の集まりです。各段落は、読者が読み終える頃には、読み始める前よりも多くの情報を得ている状態であるべきです。段落は通常、最初の文が数文字分、字下げされていることで識別されます。この字下げは、段落の内容が独立した思考単位であることを読者に示します。

 英語の段落が独立した思考単位であるという点が、その最も重要な特徴です。段落を作成する際、書き手は一つのトピック、あるいはトピックの一つの側面のみを論じます。この段落の特徴は、統一性、あるいは目的の単一性として知られています。英語の段落は一つの考えに焦点を当てているため、その考えを展開するために用いられる事実、例題、理由などはすべて関連性のあるものでなければなりません。段落のトピックに直接関係のない内容を導入すると、読者はそっぽを向いてしまう危険があります。

 次の短い段落を読んで、統一性とは何かをより深く理解してください。太字で示されている単語は接続詞です。すべての文が冒頭の文で提示されたテーマ、つまり海の始まりについて展開していることに注目してください。筆者は4番目の文で主題を改めて述べ、読者、そしておそらくは自分自身にも、段落の終わりに向かうすべての詳細は地球がどのようにして海を得たのか、そしてそのテーマのみを説明するものであることを思い出させようとしています。

以下はレイチェル・カーソンの「Mother Sea: Gray Beginnings」という本からの引用です。

Beginnings are apt to be shadowy, and so it it with the beginnings of that great mother of life, the sea. Many people have debated how and when the earth got its oceans, and it is not surprising that their explanation do not always agree. For the plain and inescapable truth is that no one was there to see, and in the absence of eyewitness accounts there is bound to be a certain amount of disagreement. So if I tell here a story of how the young plant Earth acquired an ocean, it must be a story pieced together from many sources and containing many whole chapters the details of which we can only imagine. The story is founded on the testimony of the earth’s most ancient rocks, which were young when the earth was young; on hits contained in the history of the sun and whole universe of star-filled space. For although no man was there to witness this cosmic birth, the stars and the moon and rocks were there, and, indeed, had much to do with the fact that there is an ocean.

訳:
 始まりは往々にして曖昧なものであり、生命の偉大な母である海の始まりもまた同様です。地球がどのようにして、そしていつ海を得たのかについて、多くの人々が議論を重ねてきましたが、彼らの説明が必ずしも一致しないのは当然のことです。なぜなら、誰もその場に居合わせたわけではないという明白で避けられない真実があり、目撃者の証言がない以上、ある程度の意見の相違が生じるのは避けられないからです。ですから、

 もし私がここで若い地球がどのようにして海を得たのかという物語を語るならば、それは多くの情報源から断片的に集められた物語であり、その詳細を想像することしかできない多くの章を含む物語でなければなりません。この物語は、地球が若かった頃に、若かった地球上で最も古い岩石の証言に基づいています。太陽の歴史や星々で満ちた宇宙全体に刻まれた出来事について。この宇宙の誕生を目撃した人間はいなかったのですが、星や月、岩石はそこに存在し、実際、海が存在するという事実と深く関わっていたのです。

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アメリカ英語の修辞学 その1 英語の段落―パラグラフ

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漂流する救命ボートに乗った孤独なピエロは、特有の問題を抱えています。彼は生涯、滑稽な芸と作り笑いで観客を楽しませてきました。しかし、海に漂う今、彼はその笑顔を理解できない世界に向けます。突然、彼はコミュニケーションが取れなくなってしまうのです。ピエロの孤独感とは、アメリカに初めて来た留学生の英語に対する不安と困惑を譬えています。

The New Yorkerより引用

 母国語ではない言語で文章を書くことを学ぶ学生も、同様の問題を抱えています。ピエロのように、彼は新しい世界が理解できる言葉でコミュニケーションする方法を学ばなければなりません。しかし、どの書き手も、新しい言語で頭の中に満ち溢れる多くのアイデアを表現することに苦労します。これらの抑圧されたアイデアから解き放つためには、新しい言語の語彙と書く技法を理解する必要があります。そうして初めて、彼は文章を通して自分自身を最大限に表現できるようになるのです。

 この章では、英語を上手に書くために必要な基礎知識を提供します。まず、英語の段落ーパラグラフの特徴について考察します。中国には「千里の道も一歩から」という諺があります。この章の内容を学習することは、英語の文章力を習得するための第一歩です。

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ポトマック川の五色桜

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今ワシントンD.C.のポトマック川の五色桜は満開です。もともと五色桜は、現在の東京都足立区の荒川堤に植えられていた桜の総称です。明治時代、ソメイヨシノだけでなく、多種多様な里桜が約78種類も植えられ、その多様な色彩から「荒川の五色桜」として世界的に有名になりました。1912年に日本からワシントンD.C.へ贈られた3,000本の桜の多くは、この荒川堤の苗木から育てられたものでした。

 しかし、本家である日本の五色桜は、その後の不幸な歴史によって絶滅の危機に瀕します。その理由は、工場の排煙や都市開発による環境悪化、荒川の改修工事に伴う伐採、そして第二次世界大戦による被害によります。これにより、東京の五色桜はほとんどが失われてしまいました。

 戦後、かつての美しい五色桜を復活させようという動きが日本で起こりましたが、すでに日本国内には元々の品種が揃っていませんでした。そこで、ワシントンに贈った桜が、当時の血統を保ったまま元気に育っていることに着目し、ワシントンから枝を分けてもらうことになったのです。1952年に荒川堤の改修を機に、初めてワシントンから枝が贈られました。1981年には「レーガン桜」として、さらに大規模な里帰りが行われ、足立区などに植樹されました。

 真珠湾攻撃後の戦時中、ワシントンでは日本への敵対心から桜が数本切り倒される事件が起きました。さらに「桜をすべて引き抜いてしまえ」という過激な意見も出たといいます。しかし、多くのアメリカ市民や関係者が「木に罪はない」「この桜は平和と友情の象徴である」として、桜を守り抜きました。戦時中は「日本の桜」と呼ぶ代わりに「東洋の桜」と呼び方を変えるなどの工夫をして、この美しい景観が維持されたのです。

The Goshikizakura (five-colored cherry blossoms) along the Potomac River in Washington D.C. are in full bloom. Originally, Goshikizakura was a general term for cherry trees planted along the Arakawa River embankment in what is now Adachi Ward, Tokyo. During the Meiji era, not only Somei Yoshino cherry trees but also approximately 78 varieties of other diverse village cherry trees were planted, and their diverse colors made them world-famous as “Arakawa’s Goshikizakura.” Many of the 3,000 cherry trees gifted from Japan to Washington D.C. in 1912 were grown from saplings along this Arakawa River embankment.

(住友林業グループより引用)

However, the original Goshikizakura in Japan faced extinction due to unfortunate circumstances. These included environmental degradation from factory emissions and urban development, felling during Arakawa River improvement work, and damage from World War II. As a result, almost all of Tokyo’s Goshikizakura were lost.

After the war, there was a movement in Japan to revive the beautiful Goshikizakura of yesteryear, but the original varieties were no longer available within Japan. Therefore, noticing that the cherry trees gifted to Washington were still thriving while maintaining their original lineage, it was decided to request branches from Washington. In 1952, during the renovation of the Arakawa River embankment, the first branches were gifted from Washington. In 1981, a larger-scale return of the trees, known as “Reagan Cherry Trees,” took place, with trees being planted in Adachi Ward and other areas.

During the war after the attack on Pearl Harbor, several cherry trees were cut down in Washington due to hostility towards Japan. There were even extreme calls to “uproot all the cherry trees.” However, many American citizens and those involved protected the trees, stating that “the trees are innocent” and “these cherry trees are symbols of peace and friendship.” During the war, efforts were made to preserve this beautiful landscape, such as changing the name from “Japanese cherry trees” to “Oriental cherry trees.”

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恭賀新禧 2026年

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 「月日は百代の過客にして、行き交ふ年も又旅人也」と芭蕉が『奥の細道』の冒頭で歌っています。ほとんどの人が高校時代に口ずさみました。Wikipediaで復習しますと「百代」とは永遠、「過客」とは旅人という意味だそうです。人に会うたびに、「本当に昨年はあっという間でしたね」という会話になります。時間は止まることがありません。そして今年は午年、偶然にも私の年です。亡き両親に感謝。

八王子市在住 原田朋栄氏作 (引用許諾済)

 大晦日の午後、駐車場脇に植えている花に水をやっていましたら、一階にお住まいの方から声をかけられました。ちょっとした立ち話をしていると、かつてシカゴで働いていたそうで、ウィスコンシン州のことも話題となりました。実は、私の3人の子どもと5人の孫はウィスコンシン州、マサチューセッツ州、ニューハンプシャー州、そしてモンタナ州に住んでいます。と言うわけで、私の一家は、日本を離れて各地に散らばる「ディアスポラ(Diaspora)」なのです。ディアスポラとは、古代ギリシア語で「離散」を意味するようです。世界史では、ユダヤ人が故郷を追われ離散した歴史、例えばバビロン捕囚などに由来すると言われます。

 今日、日系何々人と呼ばれる人々は、アメリカ、イギリス、カナダ、ブラジル、フリッピンなどで暮らしています。日系人初のアメリカ連邦議員となったダニエル・イノウエ氏とか2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏といった有名な人から、無数の名もなき人々まで、それぞれの地においてコミュニティを形成し、彼の地で貢献してきました。いわば現代のディアスポラです。

 マディソンで小中高の教育を受けた子どもはそのまま大学へ進み、今はアメリカ国籍を得て仕事をし家族を育てています。と言うわけで、我が家は堂々と「ディアスポラ」の一員と名乗ってよいと思われます。生前の父から私の家系を聞いたことがあります。元々は平家の落人で青森県の弘前付近に身を隠したようです。時代を経て両親は樺太へ移住し、戦後は北海道の美幌に引き揚げます。それから名寄、稚内、深川、旭川、札幌、下田と転々とし八王子で亡くなりました。「流浪の民」というわけです。私も血筋をひいているようで、埼玉から大学院に通い、それから琉球で幼児教育をやり、国際ロータリークラブなどから奨学金をもらいウィスコンシン州都のマディソンへ行きました。そこで学位を取得してからは横須賀と兵庫県の加東市で働きました。奇しくも両親と同じく八王子を終の住処としています。やがてこれから向かう処は決まっています(^0^)

と言うわけで我が成田家は「ディアスポラ」の誇りと矜持を抱いて今年も過ごしたいです。2026/01/02

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医療費の4兆円削減案

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現在、自民党は与党内で日本維新の会などと社会保障制度改革の議論を進めています。その中で高齢者の医療費窓口負担の3割への割合拡大や、市販薬と成分がほぼ同じ処方薬であるOTC類似薬の保険適用見直しなどが議論されています。OTC類似薬とは、湿布薬や保湿剤、解熱鎮痛薬、抗アレルギー薬など約7000品目あります。 ただし、現時点で「国民全員が3割負担になる」といった決定的な事実や既に制度が変更されたという真偽情報はありません。現在は保険適用で、患者の自己負担は薬価の1~3割で済みます。保険が適用除外となると、市販薬の購入費用が過度にかさんだり、治療の遅れにつながったりするとし、患者団体や日本医師会が反対しています。

厚生労働省より引用

 ついでですが「高齢者」とは、65歳以上を指す言葉が一般的です。しかし、日本の平均寿命が延びている現状から、65歳から74歳を「前期高齢者」、75歳以上を「後期高齢者」とする区分もあります。後期高齢者になると、4分の1にあたる人が要介護認定を受けており、入院や長期療養が増えるのも事実ですが、後期高齢者の半数以上が趣味やレジャーを楽しんでいるともいわれています。

 社会保障制度改革の議論のポイントについてです。現在、6歳から69歳までの現役世代の医療費窓口負担は、所得に関わらず原則3割です。これは今後も維持される見込みです。議論の焦点は高齢者の負担割合です。その議論の主な焦点は、高齢化に伴う医療費全体の増加を抑えるため、特に70歳以上の窓口負担割合を引き上げるというものです。11月5日の財務省の審議会では「70歳以上の医療費を原則3割負担にすべき」という提案が出されましたが、厚生労働大臣は「現実的ではない」と否定的な見解を示しています。

 現在、75歳以上の一定所得以上の人は既に2割または3割負担となっています。この「一定所得」の基準を見直すことなどが検討されています。前述の湿布薬や保湿剤、解熱鎮痛薬など、市販薬と成分が似ているOTC類似薬の処方について、医療保険の適用を維持しつつ患者の自己負担を追加する方向で議論が進んでいます。これは自民党と維新の会の連立合意に含まれた項目です。維新の会が訴える医療費4兆円削減に連動するような高齢者の負担増を意味します。

 しかし、これらの負担増の議論に対して、患者団体や日本医師会、共産党などからは、患者の経済的負担が大きくなり、治療の遅れにつながる可能性、受診抑制が発生する可能性などといった懸念の声が上がっています。

 私的なことですが、私は心不全のために2週間入院し、退院後も11種類の薬を服用し運動療法を受けています。医療費が2割から3割負担となると大変だな、、と懸念する日々です。安心して病気ができる国、安心して年をとれる国になることを皆が願っています。

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「経験」と体験との違い

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森有正についての第三稿です。森は言葉には、それぞれが本当の言葉となるための不可欠な条件があるといいます。それはその条件に対応する「経験」であるというのです。経験とは、事柄と自己との間の抵抗の歴史であると主張します。福祉を論ずるにせよ、平和に論ずるにせよ、その根底となる経験がどれだけ苦渋に充ちたものでなければならないかを想起することです。その意味で経験とは体験とは似てもつかないものであると主張します。体験主義は一種の安易な主観主義に陥りやすいと警告するのです。

 「人間は他人がなしとげた結果から出発することはできない。照応があるだけである。これは文化、思想に関してもあてはまる。確かに先人の築いたその上に築き続けるということは当然である。しかし、その時、その継続の内容は、ただ先人の達したところを、その外面的成果にひかれて、そのまま受けとるということではない。そういうことはできもしないし、できたようにみえたら必ず虚偽である。」

 「変化と流動とが自分の内外で激しかったこの十五年の間に、僕のいろいろ学んだことの一つは、経験というものの重みであった。さらに立ち入って言うと感覚から直接生れてくる経験の、自分にとっての、置き換え難い重み、ということである。」

 「経験ということは、何かを学んでそれを知り、それを自分のものとする、というのと全く違って、自分の中に、意識的にではなく、見える、あるいは見えないものを機縁として、なにかがすでに生れてきていて、自分と分かち難く成長し、意識的にはあとから それに気がつくようなことであり、自分というものを本当に定義するのは実はこの経験なのだ。」

 「自己の中の生活と経験とが発展し進化されて、おのずからその経験そのものが、平和を、自由を、人間形成を定義するようにならなければ、すべてが軽薄になり混濁してくる。経験が体験と違うのは、そしてそれについての一つのもっとも根本的な点は、前者が絶対的に人為的に、あるいは計画的に、作り出すことが出来ない、ということである。」

 「日本では、自由とか、平和とか、民主主義とか、そういう言葉そのものにつかまってしまって、それらの言葉の持つ真の意味を考えない。どうも、事態がすべて逆転している。これは非常に不幸だと思います。現在、言葉というものが、非常にむなしいものになっているとしたら、それは、経験の裏づけを失った、沈黙の重みをになったものでなくなってしまった、ということでしょう。」

 このように森有正は、経験という意味を深く追求することによって、真理であると思われることを一度真剣に、徹底的に疑う勇気が生まれるというのです。

 この本に「思索の源泉としての音楽」という章があります。森はオルガン演奏をこよなく愛した人です。特にバッハ(Johann Sebastian Bach)のパッサカリア(Passacaglia)やグレゴリアン聖歌(Gregorian Chant)に心酔していました。こうした音楽の本質は、人間感情についての伝統的な言葉を、歓喜、悲哀、憐憫、恐怖、憤怒、その他を、集団あるいは個人において究極的に定義するものだとします。人間は誰しも生きることを通して自分の中に「経験」が形成されると森はいいます。自己の働きと仕事とによって自分自身のものとして定義される、それが経験だというのです。この仕事は、あらゆる分野にわたって実現されるもので、文学、造形芸術などとともに音楽もその表れだといいます。

 この著作は森有正の人となり、生き方、フランス文化や日本文化に対するに関する思索や洞察、さらには音楽の意義に至るまで、その言葉や音楽の定義力の強烈な純粋さのようなものが織りなすエッセイとなっています。私の考え方の一つの道しるべのようなものとなった、かけがえのない一冊です。

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インクルーシブ教育とは

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近年日本でもよく耳にする「インクルーシブ教育」(Inclusive Education)とは一体なんでしょうか? インクルーシブ(inclusive) とは日本語で「包括的な」や「包み込む」と訳され、日本ではインクルーシブ教育は、「障がいの有無に関わらずすべての生徒が受け入れられる教育環境」という意味で用いられています。以前は「統合教育」「メインスツリーミング」という用語が使われていました。分離教育の対となる用語です。障がいのある生徒が、障がいのない生徒と同じ教室で学ぶことで得られる利点はたくさんあります。例えば次のようなものです。

 さらに、インクルーシブ教育は障がいのない生徒にも同様のメリットがあることが明らかになっています。また、私たちが理解しておかなければならないことは、インクルーシブ教育は単なる教育方法のことではなく、ある信条に支えられた「思想」とか「文化」のことを指しているのです。

 実は、インクルーシブ教育には各国共通の定義というものが存在しません。アメリカでは「最も制約の少ない環境 (Least Restrictive Environment、以下LRE)」と表現されます。他方1980年代以降インクルーシブ教育が発展したイタリアでは「すべての生徒が歓迎される環境」と定義されています。どのような定義にも、「生徒たちは彼らの障がいや特性に関わらず、学年に応じた教育が受けられるべき」であり、「教育関係者のバイアスによってそれらが阻まれるべきではない」という信条が込められています。

 アメリカの特別支援教育は、この「インクルーシブ教育の文化」がベースとなっています。このベースにより、障がいのある生徒たちは可能な限り、障がいのない生徒たちと一緒に過ごすことができるように考えられています。学校はもちろん、大学でもそうです。先日のアメリカの海軍大学の卒業式で車椅子の学生が、満場の拍手を受けて証書を貰っていました。また、日本においても、生徒や保護者に限らず学校教育に関わるすべての人々が上記の信条を共有していくことが、「インクルーシブ教育への転換」に必要な条件なのです。

成田滋のアバター

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文化的小児病と一政治家の発言

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最近の政治状況の中では、いろいろなフレーズが飛び交っています。こうしたフレーズは、迷言とか妄言とも呼ばれ、揶揄や笑いを呼んでいることに気がつきます。この有様は政情が不安であることの一つの証です。揶揄の中心にあるのは一国の総理大臣です。国際会議でスマホをいじったり、各国の首相がやってきたとき座ったまま握手をするとか、新人議員に10万円の商品券を配り、それを追求されて「自分を見失っていたところがあった」「世間の感覚と乖離があった」「そういう政治なのかい、という思いを抱かせてしまった」などの発言です。このような国会における答弁は「ひねくれたわんぱく小僧の言い訳」と批判されています。そして、こうした総理大臣の発言や態度は「小児病的」だと揶揄されるのです。

 このような小児病化状態を危惧したのは、オランダの哲学者のヨハン・ホイジンガ(Johan Huizinga)です。彼は著書「ホモ・ルーデンス」(Homo ludens)(遊ぶ人)の中で、こうした小児病化状態を」ピュエリリズム( Puerilisme–小児病)」と呼びます。Puerilismeという言葉は、ラテン語の「puer(少年)」に由来します。これを、日本では「文化的小児病」と訳されています。この単語を使ったのは評論家で東大教授であった西部邁です。著書「虚無の構造」の七章「言葉について-失語の時代」で「言葉の小児病化」についての記述があります。「文化的小児病」は、生理的小児病とは何の関係もなく、あくまで文化的な幼稚症のことを指しています。

Johan Huizinga

 ホイジンガは1933年にライデン大学学長就任演説をします。その演説は「文化における遊びと真面目の限界について」というものです。「ホモ・ルーデンス」でのルーデンス(Homo ludens)という概念はラテン語の「遊び」概念です。「ホモ・サピエンス」(Homo sapience)」「知恵のある」という概念を結び付けられています。この著作の第五章は遊びと戦争、敵に対する礼節、儀式と戦術、第七章は遊びと知識、競技と知識、そして第十章の芸術のもつ遊びの形式という箇所に注目していきます。

 ホイジンガは、社会に蔓延する小児病的な特徴を指摘しています。その小児病性を総理大臣の発言に照らして考察してみます。一国のトップである者の発言がいかに稚拙であるかがわかってきそうです。

 1 ユーモアの感覚の欠如:
  「お土産代合計の150万円はポケットマネーからの支出」「総理の仕事は天命である」「政治家は信念を持ち、嘘をつかないことが大切です」
 2 反感を秘めた言葉、ときには愛情を込めた言葉に対しても、誇張的な反応の仕方をすること:
  「そういう政治なのかい、という思いを抱かせてしまった」 
 3 物事にたちまち同意してしまうこと:
  「世間の感覚と乖離があった」「政治家は、信念を持ち、嘘をつかないことが大切です」
 4 他人に悪意ある意図や動機があったのだろうと邪推して、それを押しつけてしまうこと:
  「デモはテロ行為と本質的に変わらない」「集団的自衛権は、戦争をしかけられる確率を低くするための知恵」
 5 他人の思想に寛容でないこと:
  「総理の仕事は天命である」「絶叫デモはテロ行為と変わらない」
 6 褒めたり、非難するとき、途方もなく誇大化すること:
  「懇親会も先の総選挙の慰労を兼ねたプライベートなもの」「嘘を言ってまで当選するくらいなら、落ちたほうがいい」 
 7 自己愛や集団意識に媚びる幻想に取り憑かれやすいこと;
  「自分を見失っていたところがあった」「ゆっくり物事を考えたり、自分の自由になる時間が少し欲しい」

 本来ならば、文化的小児病はヨーロッパやアメリカ、日本など成熟した国々において取り上げられてはじめて、なるほどと理解されます。揶揄とやユーモアは、成人した国民の間で通用するからです。文化的小児病は、二つの側面があります。一つは、まじめで重要な言動と目されながら、それが全く空疎な遊びとしての性格を帯びている場合です。もう一つは、確かに遊びと目されてはいるのですが、その言動の態様からして、真の遊びとしての性格を失っている場合です。

 ホイジンガは、こうした小児病的特徴の多くは過去の各時代の中にもおびただしく見出されるとし、ある種普遍的だといいます。さらにこの症状は今日のあらゆる場に広まり、それが膨れあがって大きなうねりと化したり、エンタテインメント化し、残酷さと結びついたりしている、と警告するのです。「遊び」の文化的小児病の特徴はマスメディアによって担われているとし、政治、娯楽、スポーツ、そして家庭が、叩いたり追いかけたりして体を張った演技ーースラップスティック・ショウ(slapstick show)(ドタバタ芸)となっているというのです。

 1918年にホイジンガはアメリカ紀行を綴った「America: A Dutch Historian’s Vision from Far and Near」という本を書いています。ホイジンガはこの旅行体験をふまえて、アメリカにはピュエリリズムの特徴に関する「文明、哲学、人間関係、公の言論、社会的価値など、ありとあらゆる種類の検討材料」が揃っていると観察します。「ヨーロッパでは子どもっぽいといわれることが、アメリカではナイーヴ〔素朴〕なことである場合がたくさんあると観察し、真のナイーヴさはピュエリリズムの非難を免れるというのです。まだまだ、アメリカには「遊び」の真面目さ、厳粛さ、神聖さを伴ったフェアなものが見られると主張します。遊びには秩序(ルール)を守る心の余裕が必要であるが、アメリカにその余裕が見られるというのです。この見方には異論もあろうかと思われます。

 ホイジンガの提案する「遊び」の形式的な特徴は次のようなものです。
 1 自由な行為: 強制されたり命令された遊びは遊びではない。自発的な行為でなければならない
 2 仮構の世界: 日常生活の枠外にある。仕事や学業に結びつけてはいけない。
 3 場所的、時間的な限定性をもつ: 定められた時間と場所の範囲内で行われ終わる。一過的な行為とする。
 4 秩序を創造する: 規則(ルール)を厳守する。規則が犯されると遊びは成り立たない。
 5 秘密をもつ: 小さな秘密を作ることで魅力を高める。私的な行為であり、誰にも干渉されたり助言されることはない。

  ホイジンガの提案する「遊び」の機能面からの特徴は次のようなものです。
 1 なにかを求めての戦い: スポーツ、チェスなどの競争でスリルや目眩を楽しむ。
 2 なにかを表す演技: ごっこ遊び、音楽や演劇などで自由な創造を楽しむ。

 ついでですが、フランスの文芸批評家で社会学者であるロジェ・カイヨワ(Roger Caillois) は、遊びを「競争」、「偶然」、「模擬」、「眩暈」の4つの要素に分類しています。カイヨワはこれらを「基本範疇」と呼び、遊びの多様性を分析するのです。それぞれの遊びは〔遊戯=原初的なもの〕のレベルから〔競技=組織的・制度的なもの〕へと進化していくと考えます。カイヨワはもちろんながらホイジンガの著作を知っていたことが伺えます。カイヨワは、戦時中は反ナチ文書の執筆者・編集者としてラテン・アメリカ(Latin America)におけるナチズム(Nazism)の浸潤と戦った経歴があります。カイヨワとホイジンガは、反ファシズム(Antifascism)などの左翼的政治活動に関わることで共通しています。

Roger Caillois

 ホイジンガは、二つの機能を有する遊びには「祭祀」という性質があると主張します。祭祀とは宗教的儀式のことであり、そこには「聖的な感覚」や「厳格な規則」が存在し、それが人々を魅了するというのです。この意味は難しいのですが、キリスト教会の礼拝に出席すると荘厳さの中に恍惚のような気分を味わうことがあります。宗教的儀式の中から「厳格な規則」、つまり静粛さ、賛美歌斉唱、聖書朗読といった典礼が消え失せてしまったら、それは宗教的なものではなく、単なるお祭り騒ぎになってしまうだろうとも指摘するのです。

 「真の遊び」について、ここでは「非日常的な時間と空間で厳密なルールの下に行われるあそび」と理解しておくことにします。ホイジンガはナチスが勃興する1930〜40年代のヨーロッパのことを書いているわけですが、ナチスのおおげさな「ガチョウ足行進」のような歩調にみられるような動作は、空しい遊びとしかいいようのないものだ、と断言するのです。彼はナチス批判を行った廉で、オランダに侵攻したナチスドイツによって強制収容所に収監された経験があります。同じ制服に身を包んだ兵隊が一糸乱れぬ行進をする光景は、おもちゃの兵隊を並べて楽しむ幼児的な悦びではないかとも観察するのです。

 子どもが遊んだおもちゃの兵隊や戦車の代わりに本物を前にして、壇上のヒトラー(Adolf Hitler)もムッソリーニ(Benito Mussolini) もほのかな笑みを浮かべて引見する写真があります。独裁者には晴れ晴れしく気持ちが高揚したでしょうが、「ガチョウ足行進は、空しい贋(まがいもの)の遊びとしかいいようがない」とホイジンガはナチズムを断罪するのです。

 スポーツについてのホイジンガの考察です。スポーツは「遊び」です。たかがスポーツなのに勝ち負けで泣いたり怒ったり癇癪を起こす幼児のような反応は、遊びの堕落だというのです。こうした文化的小児病の典型、それは「勝負にこだわりすぎて、精神的なものをすっかり隅に押しこめてしまう」とも主張します。「聖なるもの」や「聖的な感覚」が薄れ、スポーツニュースも歪んだ内容となり、「遊びとまじめの混淆」する姿であるというのです。

Leiden University

 こうした精神状態は「集団組織の画一化作用のみによってもたらされるのではなく、技術の発展それ自体が文化的小児病をつくりだしている」とホイジンガは言います。当時普及しつつあったラジオのことに触れて、彼は次のように指摘します。「ラジオという機器を通じて一つの大陸を自分のものにすることができる。ボタンを押せばそれでよい。生が彼のほうにやってくる。」

 ホイジンガの眼に映った1930年代末のヨーロッパ、それは「一つの高度で豊かな文明が、発生的にみて疑念の余地なく低劣で未組織の他の文明に次第次第に席を譲り渡していく事態であったというのです。「遊びとまじめの混淆」の結果、日本に限らず世界に広がる光景を見ればよく分かるはずです。ラジオはテレビになり、テレビはインターネットへとテクノロジーは発展してきましたが、その技術の発展によって人間は果たして成熟していくだろうかと疑問を投げかけているようです。

 子どもっぽいことと呼んで当然のことなのに、一総理大臣のような高度のまじめさを装う姿は、まるでひねくれたわんぱく小僧の発言としか評価の下しようがありません。こうした政治家の発言や演説は別に珍しくもなく、また今に限ったことでもありません。

 ホイジンガが回避しようとした大衆化の道は今も延長されているようです。たとえば「大衆目当ての宣伝の作りだす流行の行き過ぎた滑稽な繰り返しの道を我々は歩いている」と主張します。遊びが日常生活のなかに侵入し、それにつれ遊びのルールは、曖昧になり、今やスマホのボタンを押しながら、現代人はこの機器やインターネットを玩具として遊んでいるのは、ホイジンガや西部邁がいう「文化的小児病」の姿かもしれません。

参考文献
「ホモ・ルーデンス」 ヨハン・ホイジンガ 講談社学術文庫、2018
「虚無の構造」 西部邁 中央公論新社、2013
「America: A Dutch Historian’s Vision from Far and Near」Johan Huizinga Harper & Row、1972
「遊びと人間」 ロジェ・カイヨワ 岩波書店、1970

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定額4%の働かせ放題と給特法の問題

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 1971年に名称が変更され施行された「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」が大きな話題となっています。この法律は「給特法」と略されています。給特法は、公立の義務教育諸学校等の教育職員(教員)の給与や勤務条件について特例を定める法律で、教員の仕事の特殊性に基づき、給与や勤務条件について特例を設けています。

 給特法の肝は、教員に残業手当を支給しない代わりに教職調整額を支給すると定められていることです。これを携帯電話料金に譬えていえば、「定額働かせ放題法」で、定額基本料金以外の従量課金はないものの、使用できるアプリ(業務)を四つに限定するというものなのです。この一種の揶揄が労働基準法との対比で論議されているのです。

 第2次世界大戦後、労働基準法が1947年に施行され、週の労働時間は40時間、1日の労働時間は8時間までと決められました。労働基準法には、残業や休日出勤、時間外労働をさせる際には、労働組合または労働者の過半数を代表する人と書面による協定をしなければならないことが定められていました。これがいわゆる「36協定」と呼ばれる労使間の約束事です。公務員にも労働基準法が適用されていました。

 しかし、教員は職務によって拘束時間が大きく異なり、勤務時間を単純に測定することが難しく、残業手当が支払われないようなことが度々起こり、2018年9月の「埼玉教員超勤」という裁判にもなりました。そうした状況を踏まえ、教員に関しては、残業手当は支給しないこととし、代わりに週48時間以上勤務することを想定して、基本給の4%に相当する教職調整額を支給することにしたのです。つまり残業手当は支払わないが、一定額の賃金を上乗せをすることで教員の職務の特殊性に対応しようとしたのです。これが給特法です。

 給特法では、校長、副校長、教頭を除く教員には、時間外勤務手当や休日勤務手当などの残業手当を支給しない代わりに、教職調整額を支給しなければならないことになっています。教育調整額とは、教員の勤務時間の長短を問わず、働いている時間・働いていない時間関係なしに、給料月額4%が支払われるものです。このように給特法は残業手当を支給しない代わりに教職調整額を支給すると定められ、教員に時間外勤務をさせないようにする意図が含まれています。しかし、それでは教員の働き方に即さないとの理由で、給特法では政令で定める基準に従い、条例で定める場合には、教員に時間外勤務をさせることができるとされています。 

 使用者である校長などが教員に時間外勤務を命じることができる仕事は「超勤4項目」といわれます。教員の時間外勤務から「学生の教育実習の指導に関する業務」は外されています。現在、多くの教員が超勤4項目に該当しない時間外労働に従事しています。超勤4項目とは、具体的に以下の業務を指します。

 ・校外実習その他生徒の実習に関する業務
 ・修学旅行その他学校の行事に関する業務
 ・職員会議に関する業務
 ・非常災害の場合、児童、生徒の指導に関し緊急の措置を必要とする場合

給特法が抱える問題点
 給特法の問題点は、教員が長時間の時間外勤務をしているのにもかかわらず正当な対価を受け取れていないところにあります。一律4%の上乗せ賃金で働いているというよりも、その上乗せ賃金で働かされているのです。文部科学省(文科省)が実施した教員の勤務実態調査によると、かつてよりも在校時間が減少しているものの依然として長時間勤務をしている教員が多いことが判明しています。

 ただし、文科省の立場は、給特法は、教員の職務の特殊性に配慮した法律であり、そもそもその特殊性は、教師は時間外を含め自主的に働くものであるから厳格な時間管理はなじまない、というものです。つまり、この法律は教員の勤務時間に自由な裁量がある程度確保されていることがあるのだ、という立場です。こうしたことも、教員が自発的で創造的に働く意欲をそぐなど、給特法が教員の勤務実態に合わなくなってきている、と指摘されている要因だと考えられます。

 実際の教員の時間外労働は、この超勤4項目に「該当しない」業務が大半を占めています。早朝の登校指導、入試業務、家庭訪問などの校務、さらに近年問題となっている部活動などは、超勤4項目に該当しない業務です。本来であれば、教員に命じることのできない時間外勤務であり、教員はこれらの業務を拒否することができます。

 いくら時間外労働をしても超勤手当が支給されないことから、給特法は携帯電話料金にたとえて「定額働かせ放題法」とも揶揄されています。繰り返しますがそれ故に給特法は「定額働かせ放題法」と呼ばれるのです。

 文科省はそれでも次のように主張します。つまり「現行制度上では、超勤4項目以外の勤務時間外の業務は、超勤4項目の変更をしない限り、業務内容の内容にかかわらず、教員の自発的行為として整理せざるをえない。 このため、勤務時間外で超勤4項目に該当しないような教員の自発的行為に対しては、公費支給はなじまない。」文科省はさらに、「使用者(校長)の指示」がなければ、それは教員の「自発的行為」であり、労働基準法には抵触しない」としているのです。て「定額働かせ放題法」とも揶揄されています。繰り返しますがそれ故に給特法は「定額働かせ放題法」と呼ばれるのです。

 登校指導や家庭訪問、部活動などの業務は、いずれも「使用者から義務づけられ、又はこれを余儀なくされていた業務」に含まれるはずです。そして、これらの業務に従事している時間は労働時間に該当すると考えられます。使用者の指揮命令下に置かれていると評価されるかどうかは、教員の行為が使用者から義務づけられ、又はこれを余儀なくされていた等の状況の有無等から、教員の厳しい勤務実態を勘案して柔軟に判断されるべきものと考えられます。

参考資料リンク
労働基準法
公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法
教員の職務について
教育職員の勤務実態調査
埼玉教員超勤裁判
・高橋 哲「聖職と労働のあいだ」岩波書店、2022年

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その140 スペイン政府のジレンマ

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スペインは、悲惨なジレンマに陥ります。スペイン政府は、アメリカとの戦争に備えて陸軍や海軍の準備をしておらず、スペイン国民にキューバを放棄する理由を伝えていませんでした。戦争とは確実に災いを意味します。キューバの降伏は、政府、あるいは王政の転覆を意味するかもしれませんでした。スペインは目の前の藁にすがるしかありませんでした。他方では、ヨーロッパの主要な政府からの支援を求めていました。イギリスを除けば、主要な政府はスペインに同情的でしたが、口先だけの支持しか与えようとはしませんでした。

 4月6日、ドイツ、オーストリア、フランス、イギリス、イタリア、ロシアの代表がマッキンリー大統領(William McKinley)を訪れ、人道の名のもとにキューバへの武力介入を控えるよう懇願してきます。マッキンリーは、もし介入が行われるなら、それは人類の利益のためであると断言します。ローマ教皇レオ13世(Pope Leo XIII)による仲介の努力も同様に無駄でした。他方、スペインは3月27日のマッキンリーの条件を受け入れる方向で進んでいました。ウッドフォード公使(Minister Woodford)がマッキンリーに、時間と忍耐があれば、スペインはアメリカとキューバの反乱軍の双方に受け入れられる解決策を講じることができると進言するほどでした

 スペインはキューバでの再集権化政策を廃止しようと考えます。アメリカの調停を受け入れる代わりに、自治プログラムの下で選出されるキューバ人民委員会を通じて島の平和を求めるというものです。スペインは当初、武装勢力からの申請があった場合のみ休戦を認めるとしていましたが、4月9日に自らの判断で休戦を宣言します。しかしスペインは、マッキンリーがキューバの平和と秩序を回復するために不可欠と考えた独立を依然として認めようとしません。

 マッキンリーは、議会内の戦争派とこれまで一貫して取ってきた立場、すなわちキューバで受け入れ可能な解決策が見つからない場合、アメリカの介入につながるという主張を譲り、スペインの新しい譲歩を報告し4月11日の特別メッセージで議会に「キューバの戦争は止めなければならない」と勧告を出します。大統領は議会に対し、「スペイン政府とキューバ国民の間の敵対行為の完全かつ最終的な終結を確保するために」アメリカの軍隊を使用する権限を求めます。これに対して議会は、4月20日に「キューバ国民は自由であり独立した存在であり、当然そうあるべきである」と力強く宣言します。議会は、スペインがキューバに対する権限を放棄し、軍隊をキューバから撤退させることを要求し、大統領がその要求を実行するためにアメリカの陸軍と海軍を派遣することを承認します。

 コロラド州の上院議員ヘンリー・テラー (Henry Teller)が提案した第4の決議は、アメリカがキューバを領有することを放棄するというものでした。大統領は、現存するが実体のない反乱政府を承認することを盛り込もうとする上院の試みを退けるのです。反乱政府を承認することは、戦争遂行と戦後の平和維持の両方において、アメリカ外交の方針に反すると考えたからであり、平和維持はアメリカの責任であると予見していました。決議案署名の知らせを受けたスペイン政府は、直ちにアメリカと国交を断絶し、4月24日にアメリカに宣戦布告します。合衆国議会も4月25日に宣戦布告を行い、その効力は4月21日に遡及するというものでした。

 スペイン帝国は最盛期にはブラジルなどを除く南アメリカ大陸、メキシコなど中央アメリカの大半、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島などを領有していました。植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀からヨーロッパにおける覇権国的地位を築きます。しかし、1588年のアルマダ(Armada)の海戦で無敵艦隊が英国に敗れて弱体化が始まります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その137 経済の回復

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 1897 年 3 月 4 日の就任直後、マッキンリー大統領は再び関税を改定すべ多くの品目を自由リストから除外します。それによって輸入関税は全般的にそれまでの最高水準に引き上げられます。さらに金本位制(Gold Standard Act) の維持は1896年の共和党の最大のアピールポイントでしたが、1900年3月になってようやく議会は金本位制法を制定し、財務省には最低1億5,000万ドルの金準備を維持することを義務づけ、その最低額を守るために必要であれば債券の発行を許可することになります。

 1900年当時、金の十分な供給は現実的な問題ではなくなり、このような措置はほとんど期待はずれのものとなります。1893年以降、アメリカでの金の生産量は着実に増加し、1899年までにアメリカの供給量に加えられた金の年間価値は、1881年から1892年までのどの年よりも2倍になりました。この新しい金の供給源の中心は、1896年の夏にカナダ・ユーコン準州クロンダイク地方(Klondike)で発見された金鉱床となります。

 1898年には不況は一段落し、農産物価格と農産物輸出量は再び安定的に上昇し、西部の農民は当面の苦労を忘れ、経済の見通しに自信を取り戻したように見えました。産業界では、反トラスト法にもかかわらず、企業結合の動きが再開され、ニューヨークのJ.P.モルガン(J.P. Morgan) をはじめとする大手銀行が必要な資本を提供し、その見返りとして、大資本が設立した企業の経営に大きな影響力を持つことになっていきます。

 クロンダイク地方で金鉱が発見されると、一獲千金を狙う人々が殺到します。ゴールドラッシュでできた町ドーソン・シティー(Dawson City)は一時人口が3万人以上にまで膨れ上がったとか。その中で幸運にも金を採掘出来たのは約4,000人と言われます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その135 アメリカで最も不人気な大統領

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 1893年3月、スチーブン・クリーブランド(Stephen Cleveland)が2期目の大統領に就任したとき、アメリカは金融恐慌の瀬戸際にありました。6年間続いたミシシッピ西部の不況、マッキンリー関税法の施行による外国貿易の衰退、民間債務の異常な高止まりなど、不穏な情勢にありました。しかし、最も注目されたのは、連邦財務省の金準備高でした。政府債務を金で償還するためには、最低1億ドルの準備金が必要だと考えられていました。1893年4月21日、金準備高がこの金額を下回ると、心理的な不安は広範囲に及びます。投資家は保有金を金に換えることを急ぎ、銀行や証券会社は苦境に立たされ、多くの企業や金融機関が破綻しました。物価は下がり雇用は減り、深刻な経済不況が3年以上続きます。

 この金融不安の原因は多岐にわたり複雑でしたが、金準備高に注目すると、財務省の金供給量の回復という一点に関心が集中しがちでした。財務省の資金流出の主な原因は、大量の銀を購入する義務にあると広く信じられていました。そのためには、シャーマン銀買入法(Sherman Silver Purchase Act)を廃止することが必要であるとされました。

 この問題は、経済的なものであると同時に、政治的なものでありました。この問題は両党を二分するものでしたが、銀政策の提唱者の多くは民主党でした。しかし、クリーブランドは、長い間、銀買い入れ政策に反対しており、この危機に際して、財務省を保護するために不可欠な措置として、シャーマン銀買入法の廃止を決意します。そして彼は1893年8月7日に特別議会を招集します。

 新議会は、上下両院とも民主党が過半数を占め、マッキンリー関税の撤廃を支持していました。銀貨の増刷を支持する議員が民主党議員の半数以上を占めていたため、銀の問題に関しては議論になりませんでした。クリーブランドは、議会で廃止を強行することは至難の業でありましたが、あらゆる権力を行使して目的を達成します。シャーマン銀貨購入法は、10月末に銀貨鋳造の補償規定がない法案で廃止されます。クリーブランドは、個人的には大勝利を収めるのですが、党内は分裂し、国内ではその時代で最も不人気な大統領となりました。

 クリーブランドは議会が可決した法案に拒否権を次から次に発動した大統領として知られています。彼は580回以上の拒否権を発動しました。4年の任期を終え、4年後の1893年に再度就任した最初の大統領としても知られています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その125 ラザフォード・ヘイズ大統領

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 1877年にラザフォード・ヘイズ(Rutherford Hayes)が第19代大統領に選出されます。1881年までの在任期間中、彼は選挙に必要な南部で争われた票を確保するために、南部の人々が主張する公約を着実に実行に移します。彼は南部に駐留していた連邦軍を撤退させ、テネシー州の元上院議員デイヴィッド・キー(David Key)を郵政長官として閣僚に任命します。

 ヘイズは、こうした融和的な態度によって、南部の多くの保守派が将来的に共和党を支持するようになることを期待します。しかし、南部の人々の最大の関心事は白人至上主義の維持であり、そのためには民主党が南部の政治権力を独占する必要があると考えていきます。その結果、ヘイズの政策は、南部での共和党の復活ではなく、事実上消滅することになります。

 ヘイズの南部への働きかけは一部の共和党員を苛立たせます。連邦公務員の支持に対する彼の政策は、党にとってより直接的な課題でありました。1877年6月、ヘイズは連邦政府職員による政治活動を禁止する大統領令を発布します。ロスコ・コンクリング(Roscoe Conkling)上院議員の友人二人がこの命令に背くと、ヘイズは二人をニューヨーク港管理局のポストから解任します。コンクリングと共和党の仲間たちは、1879年に彼らの仲間の一人であるアロンゾ・コーネル(Alonzo Cornell)をニューヨーク州知事に当選させ、1880年にはもう一人のチェスター・アーサー(Chester Arthur)を共和党の副大統領候補として指名し、ヘイズに対する軽蔑の念を表していきます。

 ヘイズが直面した最も深刻な問題の一つは、インフレの問題でした。ヘイズをはじめとする多くの共和党員は、健全な通貨政策を堅く支持していましたが、問題は党派的というよりむしろ通貨政策の問題に起因していました。一般に農業地帯である南部と西部ではインフレに好意的でしたが、北東部の産業・金融グループは、インフレは債権者の犠牲の上に債務者を利するとして反対します。

 1873年、米国議会は銀貨の鋳造を中止します。この行為は、後に銀を愛する人々から「73年の犯罪(the Crime of ’73)」と呼ばれるようになりました。1879年1月以降、南北戦争の戦勝国紙幣を金で償還することを定めた法律を廃止し、銀貨の鋳造を再開するようにインフレ論者が議会を説得するキャンペーンを開始します。その結果、通過した法律(Bland–Allison Act) には、銀貨の鋳造を再開し、さらに重要な点として、ジョン・シャーマン(John Sherman)財務長官に対して、毎月200万ドル以上400万ドル以下の銀塊を市場価格で購入することを義務付けるというものでした。

インフレ反対派は、財務長官が、グリーンバックの償還を求める財務省の要求に応えられるよう、十分な金準備高を確保するための準備を入念に行っていることに安心します。また、長い不況からようやく回復する兆候もインフレ反対派を安心させるものでした。こうして政府の財政は安定し、グリーンバックの償還期日が来ても、財務省に金との交換を求めるという大きな要求は生まれませんでした。

 南北戦争の費用捻出のため、1861年に発行された緑色の裏面の無利子証書の約束手形がグリーンバックです。その色から「greenback」というニックネームが付きました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その117 先住部族政策

西部の広大な土地は、特定の先住部族が独占的に居住するために法律で保護されていました。しかし、1870年になると、これらの土地に大勢の探鉱者、牧畜業者や農民、大陸横断鉄道員が侵入し、一連の野蛮なインディアン戦争が勃発し、政府の先住部族政策に重大な疑問が投げかけられるようになります。インディアン局の役人の多くは、部族との直接交渉の責任を怠り、その職務を遂行しようとはしませんでした。多くの西部の人々や一部の陸軍将校は、部族問題の唯一の満足できる解決策は、白人が欲しがっているすべての土地から部族を追い出すことであるとまで主張したのです。

 南北戦争後間もなく、改革者たちは先住部族が最終的にアメリカ社会に同化できるようなプログラムを採用することを提唱します。1869年、改革派はグラント大統領と議会を説得し、政府と先住部族との関係を監督する非政治的なインディアン委員会(Board of Indian Commissioners)を設立します。しかし、この委員会は政治的な反対にあい、ほとんど成果をあげることができませんでした。改革者たちは次に、農民として定住生活をする準備ができていると思われる部族の各家族の長に、特定のエーカーの土地の所有権を与えるという法案を提案しました。議会はこの提案に反対しますが、土地を欲しがる西部の人々が、このように土地を分配すれば、膨大な余剰地が生まれ、公有地に追加できると考えます。

 この法律は、大統領に農民としての新しい生活様式を受け入れられると考えられる部族に対し、各家族の長に160エーカー(65ヘクタール)の所有権を、部族の単独メンバーにはより小さな割り当てを与える権限を与えたものでした。この土地は、25年間は先住部族に譲渡することができず、また、先住部族に市民権も与えられるというものでした。改革派は、部族にアメリカ社会で尊厳ある役割を果たす機会をようやく与えたと喜びながらも、部族文化に保存すべき価値があることを見逃してしまいます。他方、土地開発業者たちは、ドーズ法の適用を早め、より多くの土地を占拠し投機するよう歴代大統領に強い圧力をかけていきます。

 ドーズ法とは先住民族の指定居留地(Indian Reservation)の民族的所有地を解体し、個々に個人所有地として割当て,先住民族を独立の自営農民として市民社会に同化させることをねらいとした法律です。同時にそれ以外の余剰地を白人に提供することを主な内容としています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その103 戦争の余波と南部の再構築

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南北戦争は両陣営に多大な犠牲を強いることになりました。連邦軍は約36万人の死者を含む50万人以上の死傷者を出し、南軍は約25万8千人の死者を含む約48万3千人の死傷者を出しました。両政府とも、戦争遂行のための資金集めに懸命に努力し、不換紙幣を作るために印刷機に頼らざるを得ませんでした。南軍の個別の統計は明確ではありませんが、この戦争で最終的にアメリカは150億ドル以上の損害を被ります。

 特に、戦争により大半が行われ、労働力を失った南部は、物理的にも経済的にも壊滅的な打撃を受けます。結論からいえば、アメリカの連邦は維持され回復しましたが、肉体的、精神的苦痛の代償は計り知れず、戦争がもたらした精神的傷は長く癒されませんでした。

 南北戦争における当初の北部の目的は連邦の維持であり、自由州のほぼ全部が同意した戦争の目的でした。 戦闘が進むにつれ、リンカン政権は、軍事的勝利を確保するために奴隷解放が必要であると結論づけました。その後、自由は共和党員にとって第二次戦争の目的となります。

  チャールズ・サムナー(Charles Sumner) やサディアス・スティーブンス(Thaddeus Stevens)のような共和党のより過激なメンバーは、政府が解放奴隷の市民的および政治的権利を保証しない限り、解放は偽物であると考えていました。したがって、法の前のすべての市民の平等は、この強力な派閥の第三の戦争の目的となります。連邦の再構築(Reconstruction)時代の激しい論争は、これらの目標のどれを主張すべきか、そしてこれらの目標をどのように確保すべきかについて集中しました。

 リンカン自身は国の再構築に対して柔軟で実用的なアプローチをとっており、南部人が敗北した場合、連邦への将来の忠誠を誓い、奴隷化された人々を解放することだけを主張します。南部の諸州が征服されると、彼は軍の総督を任命して、その回復を監督させていきます。これらの任命者の中で最も精力的で効果的なのはアンドリュー・ジョンソン(Andrew Johnson)あり、テネシー州で忠実な政府を再建することに成功した民主党員であり、1864年にリンカンと共に共和党候補として副大統領に指名さます。

 1863年12月にリンカンは、1860年の大統領選挙で有権者数の少なくとも10 パーセントに支持された場合、憲法と連邦を支持し、奴隷を解放するとした州の政府を承認することを約束して、南部諸州の整然と再建していきます。ルイジアナ州、アーカンソー州、テネシー州では、リンカンの計画の下で連邦政府に忠実な州政府が形成されます。そして彼らは連邦への再加盟を求め、議会に上院議員と代表者を送り出していくのです。

 北軍の勝利で南北戦争は幕を閉じます。その後合衆国は工業化が進み、強大な近代国家へとなり、より中央政権的な連邦国家となります。終戦後の1865年1月、憲法の修正が連邦議会で成立し、奴隷制度の禁止が謳われます。しかしその後も南部では黒人の公民権を否定する運動が続きます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その99 外交問題と戦争の成否

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デイヴィスや多くの南軍の盟主たちは、イギリスやフランスが自分たちの独立を認め、戦争に直接介入してくれるものと期待していました。しかし、リンカンやスワード国務長官、チャールズ・アダムス (Charles Adams)駐英大使の巧みな外交術と、戦争の重要な局面での南軍の失敗により、彼らは決定的な支援を取り付けることに失敗します。

 イギリスとの最初のトラブルは、1861年11月、チャールズ・ウィルクス大佐(Capt. Charles Wilkes)が英国の蒸気船トレント(Trent)を停船させ、ヨーロッパに向かう2人の南軍使節、ジェームズ・メイソン(James M. Mason)とジョン・スライデル(John Slidell)を強制的に連行したときでした。最終的に二人は解放されたのですが、ロンドンのパーマストン卿(Lord Palmerston)の政府との外交的断絶だけは防ぐことができました。

 さらにアダムス駐英大使の抗議にもかかわらず、イギリス諸島で建造されたアラバマ号(Alabama)が完成後に出航し、南軍の海軍に加わることが許可されたことで、連邦とイギリスの間に危機が訪れます。さらに、イギリスで南軍のために2隻の強力な軍艦が建造されていることがリンカン政府に伝えられると、アダムスは有名な「これは戦争だ」というメモをパーマストンに送り、土壇場で軍艦はイギリス政府によって押収されたと言われています。

 サムター要塞の占領後、両軍は直ちに軍隊の調達と編成を開始します。1861年7月21日、南軍の首都リッチモンドに向かって行進していた約3万の北軍は、マナサス(Manassas)で止められ、トーマス・ジャクソン将軍(Gen. Thomas Jackson)とP・ボーレガード将軍(Gen. P.G.T. Beauregard)率いる南軍によってワシントンDCに追い返されます。敗戦のショックは北軍に活気を与え、北軍は50万人の増員を要求します。ジョージ・マッケラン将軍(Gen. George McClellan)は、北軍のポトマック軍(Army of the Potomac)を訓練する任務が与えられます。

 1862年2月、北軍のユリシーズ・グラント将軍(Ulysses Grant)がテネシー州西部の南軍の拠点であるヘンリー砦(Fort Henry)とドネルソン砦(Fort Donelson)を占領し、戦争の最初の主要作戦が始まります。この行動に続いて、北軍のジョン・ポープ将軍(Gen.John Pope)がミズーリ州ニューマドリッド(New Madrid)を占拠し、4月6、7日のテネシー州シロー(Shiloh)での流血の戦いがありますが、決定的な結果とはならず、6月にはテネシー州のコリント(Corinth)とメンフィス(Memphis)を占拠することになります。また、4月には北軍の海軍大将デビッド・ファラガット(David Farragut)がニューオリンズ(New Orleans)を制圧します。

 東部では、マッケランがリッチモンド攻略のために10万人の兵力で待望の進攻を開始します。リーと彼の有能な副官であるジャクソン(Jackson)とJ.E.ジョンストン(J.E. Johnston)の反対で、マッケランは慎重に行動し、7日間の戦い(Seven Days’ Battles)で後退し、彼の半島キャンペーンは失敗に終わります。第二次ブルランの戦い(Second Battle of Bull Run)で、リーはポープ率いる別の北軍をヴァジニア州から追い出し、その後メリーランド州に侵攻します。マクレランはアンティータム(Antietam)でリーの軍勢を牽制することができます。リーは撤退後再編成しますが、12月13日にマッケランの後継者であるA.E.バーンサイド(A. Burnside)にヴァジニア州フレデリックスバーグ(Fredericksburg)で大敗を喫してしまいます。

 1862年9月、リンカンは奴隷解放宣言の予備宣言を出し、南部諸州に対して黒人奴隷を解放を迫ります。さらに、翌1863年1月に本宣言を出して、戦争の目的を黒人奴隷制度の廃止にあることを明確に示します。これによってイギリス、フランスなどの国際世論は北部に理があるとして支持に転換します。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その96 1860年の大統領選挙と内戦の勃発

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 1860年の大統領選挙は非常に緊張した雰囲気の中で行われました。南部の人々は、自分たちの権利が法律によって保証されるべきだと判断し、領土内の奴隷制の保護を主張する民主党候補を支持します。そして彼らはスティーブン・ダグラス(Stephen Douglas)を拒絶し、その国民主権の教義を疑問視し、ケンタッキー州出身のジョン・ブレッキンリッジ(John Breckinridge)を支持します。

 ダグラスは、北部および国境州の民主党員のほとんどに支持されており、民主党候補で出馬しました。年配の保守派は、党派的な問題のあらゆる扇動を嘆き、解決策を提案しませんでしたが、ジョン・ベル(John Bell)を立憲連合党(Constitutional Union Party)の候補者として提案します。成功に自信を持っていた共和党員は、長い公務であまりにも多くの責任を負っていたウィリアム・スワード(William Seward)の主張を無視し、代わりにエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)を大統領候補に指名します。共和党の勢力はほぼ完全に北部と西部に限定されて、リンカンは一般投票では多数しか得られませんでしたが、選挙人団(electoral college)では大勝します。

 南部では、リンカンの大統領当選が脱退の合図となり、12月20 日にサウスカロライナ州(South Carolina)は合衆国から脱退した最初の州となります。すぐに南部の他の州がサウスカロライナに続きます。ブキャナン政権(Buchanan’s administration)による南部諸州の脱退を阻止しようとする努力は失敗に終わります。ブキャナンは国が分裂と内戦へ進むのを防ぐための統率力を発揮せず、消極的な対応に終始したといわれます。

 南部諸州の連邦要塞のほとんどが次々と脱退主義者に占領されていきます。他方、別の妥協点を探るワシントンでの精力的な努力は失敗に終わります。その最も期待された計画は、連邦上院議員のジョン・クリッテンデン(John Crittenden)による、奴隷州から自由州に分割するミズーリ妥協線を太平洋まで延長するという提案でした。

 脱退を目指している極端な南部人も、苦労して勝ち取った選挙での勝利の報酬を手にしていた共和党員も、妥協にはあまり関心がありませんでした。1861年2月4日、リンカンがワシントンで就任する1か月前に、南部の 6 つの州、サウスカロライナ、ジョージア、アラバマ、フロリダ、ミシシッピ、ルイジアナ)がアラバマ州モンゴメリーに代表を派遣し、新しい独立政府を樹立します。テキサスからの代表者がすぐに彼らに加わりました。

 ミシシッピ州のジェファソン・デイビス(Jefferson Davis)を首長に、ここにアメリカ連合国(Confederate States of America)が誕生し、独自の本部と部局を設置し、独自の通貨を発行し、独自の税金を上げ、独自の旗を掲げました。いろいろな敵対行為が勃発し、ヴァジニア州が連邦政府を脱退した後の1861年5月に新政府は首都をリッチモンド(Richmond)に移しました。アメリカ連合国の軍隊は南軍と呼ばれます。

 こうした南部の既成事実に直面したリンカンは、就任時にあらゆる方法で南部を和解させる準備をしていましたが、1 つの条件を除いて、合衆国が分裂する可能性があるとは考えていませんでした。彼の決意が試されたのは、次のことでした。すなわち、ロバート・アンダーソン少佐(Maj. Robert Anderson)の指揮下にある連邦軍のサウスカロライナ州のサムター要塞(Fort Sumter)の存在のことです。要塞は、当時まだ連邦政府の管理下にあった南部で数少ない軍事施設の 1 つでした。

 この要塞に迅速に補給するか、撤退させるかの決定が必要でした。閣僚内部での苦悩に満ちた協議の後、リンカンは南軍が最初に発砲をするとしても物資を送る必要があると判断します。1861年4月12 日、北軍の補給船が窮地に立たされているサムター要塞に到着する直前に、チャールストン(Charleston)の南軍の大砲がサムター要塞に発砲し、戦争が始まりました。

 アメリカ史では北部と南部に分断した内戦は「the Civil War」(内戦の意味) と言われます。建国以来の南部と北部の地域的性格の違いに黒人奴隷制問題が加わり、自由州と奴隷州のいずれに属するかというぬきさしならぬ対立に至ります。

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 (インターミッション) ノースカロライナと迫害されたキリスト教徒

注目

ノースカロライナ州のバーク郡(Burke County)というところの出身で現在名古屋に住む友人がいます。この郡にワルドー派(Waldensians)と呼ばれるキリスト教一派の人々住む人口4,490人のヴァルデイズ(Valdese)という小さな町があるのを教えてくれました。なぜこの田舎街にワルドー派の人々が定住したかの経緯は興味深いので、リサーチすることを勧められました。以下はその報告です。

バーク郡にあるヴァルデイズは、1893年にイタリア北部のピエモンテ州(Piedmont)のコッティ・アルプス(Cottian Alps)という地域からの移民によってつくられます。今この街には、アメリカ最大のワルドー派のキリスト教会があります。その教会名は、ワルドー派長老教会(Waldensian Presbyterian Church)として知られています。ヴァルデイズには他に20もの教会があります。後述しますが、ワルドー派の信徒は最初の新教徒(protestant)とか最古の福音派運動(evangelical movement)を始めた人々といわれています。彼らは宗教改革の中心人者であったマルチン・ルター(Martin Luther)よりも以前に福音主義を掲げていたのです。

ワルドー派は、宗教改革以前に西方キリスト教内の禁欲運動(ascetic movement)として始まった教会伝統の信奉者です。元々は12世紀後半にフランスのリヨンの貧者(Poor of Lyon)として知られ、この運動は現在のフランスとイタリア国境付近にあるコッティ・アルプスに広がりました。ワルドー派の創立は、1173年頃に財産を手放した裕福な商人ピーター・ワルドー(Peter Waldo)で、ワルドーは「使徒的貧困」(apostolic poverty)が完全なる生き方であると説いて信者を獲得していきます。

当時のカトリック教会の一派であるフランシスコ会(Franciscans)が「使徒的貧困」に異議をとなえること、さらに地元の司教の特権を認めなかったのでワルドー派の会衆はフランシスコ会と衝突します。そのため1215年までにワルドー派は異端と宣言され破門されて差別が始まります。

教皇インノケンティウス3世(Pope Innocent III)はワルドー派の人々に教会に戻る機会を与えると宣言します。ワルドー派の信徒は教会に戻りますが、「貧しいカトリック教徒」(Poor Catholics)と呼ばれるようになります。教徒の多くは使徒的貧困を信奉し続けたので、その後数世紀にわたって激しい迫害を受け、組織的で広範な迫害に直面していきます。

最も激しい迫害は1655年4月24日に起こります。この迫害と虐殺はピエモンテの復活祭(Piedmont Easter)として知られるようになります。推定約1,700人のワルドー派信徒や住民が虐殺され、この虐殺はあまりにも残忍であったため、ヨーロッパ全土で憤りを引き起こしたと記録されています。

初期の粛清でピエモンテから追放されたワルドー派の牧師にアンリ・アルノー(Henri Arnaud)がいました。彼はオランダから帰国し、ロッカピアッタ(Roccapiatta)という街での集会で感動的な訴えを行い、武装抵抗を支持する多数派の支持を獲得します。迫害団体との休戦協定が切れる4月20日に備えワルドー派は戦闘の準備を整えます。

1686年4月9日、ピエモンテを治めていたサヴォイア公(Duke of Savoy)は新たな布告を発し、ワルドー派に対し8日以内に武装を解除し、街を退去するよう命じます。ワルドー派の人々はその後6週間にわたって勇敢に戦いましたが、2,000人のワルドー派が殺害されます。さらに多くの信者がトレント公会議(Council of Trent)のカトリック神学(Catholic theology)を受け入れ改宗します。さらに8,000人が投獄され、その半数以上が意図的に課せられた飢餓または病気により6か月以内に死亡していきます。

しかし、それでも抵抗するワルドー派の人々はヴォードワ人(Vaudois)と呼ばれ、約200人から300人のヴォードワ人が他の領土に逃亡します。翌年にかけてヴォードワ人は、占拠する土地にやって来たカトリック教徒の入植者とのゲリラ戦を開始します。これらのヴォードワ人は「無敵の人たち」(Invincibles)と呼ばれ、サヴォイア公がついに折れて交渉に同意するのです。「無敵の人たち」は、投獄されている仲間を釈放し、ジュネーブ(Geneva)へ安全に移動する権利を勝ちとります。

やがてサヴォイア公は ヴォードワ人に直ちに退去するかカトリックに改宗することを要求します。この布告により、約 2,800人のヴォードワ人がピエモンテからアルプスを越えてジュネーブに向けて出発しますが、そのうち生き残ったのは 2,490人といわれました。

その後、貧困や社会的差別、人種的な偏見によりヴォードワ人は季節労働者としてフランスのリヴィエラ(Riviera)とスイスに移住します。イタリアのワルデンシア渓谷の故郷の土地は、1690 年の戦いの終結以来、増え続ける人口で混雑していました。家族の農場は世代を経て分割され、再分割されていたため、将来の世代に受け継ぐ土地はほとんどありませんでした。そこで南米やアメリカなど他の国に土地を求める決定がなされます。

1892年頃、ノースカロライナ州で土地を売りことを知った2人のワルドー派の先遣隊が、入植が可能かを調べるためにやって来ます。土地の広さは10,000エーカーほどで、一人はこの土地は新しい入植地として適しているだろうと考えます。もう一人は、岩が多すぎて肥沃な土壌が不十分でひどい土地であると考えます。実は後者の見方が正しかったのですが、ワルドー派は集団で土地を購入しすることに決めるのです。

1893年、29人のワルドー派入植者からなる小グループが牧師のチャールズ・アルバート・トロン(Dr. Charles Albert Tron)に率いられて、イタリアからノースカロライナの新天地に移住することにします。 彼らはイタリアから鉄道でフランスに渡り、その後蒸気船ザーンダム号(Zaandam)に乗ってニューヨークに向かいます。彼らは故郷の思い出と郷愁を抱きながら、豊かで肥沃な農地への期待を持ちます。ニューヨークから列車でノースカロライナへ向かいます。1893年5月29日に目的地のノースカロライナ州に到着します。1893年6月に18人の新しい入植者グループが、1893年8月に別の14人グループが、1893年11月に 161人のグループがバーク郡に到着します。しかし、彼らの豊かな農場と繁栄への夢は、寒い冬と貧しい家屋、岩の多い土壌という現実によって打ち砕かれます。

そうした試練は、彼らの神への強い信仰、勤勉、そして忍耐によってこれらの障害は克服され、ノースカロライナ州にコミュニティが設立されるのです。それが現在のヴァルデイズなのです。ヴァルデイズでは毎年夏に「From This Day Forward」という野外劇(outdoor drama)が催されます。ワルドー派の人々の長い迫害や辛い信仰生活など苦難の歴史を演じる内容です。

今日の宗教学者は、中世のワルドー派はプロテスタントの原型と見なすことができると説明します。ワルドー派はプロテスタントと歩調を合わせるようになり、やがてカルビン主義(Calvinism)の伝統の一部となります。ヨーロッパでのワルドー派は17世紀にはほぼ消滅して長老派教会(Presbyterian)に吸収されていきます。

以下、本稿の英訳を付けました。Google翻訳アプリを使い編集いたしました。

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