心に残る名曲  その百九十二 レハール 「金と銀」

ワルツ「金と銀」(Gold and Silber)やオペレッタ「メリー・ウィドウ」(Merry Widow)などで知られるハンガリーの作曲家がフランツ・レハール(Franz Lehar)です。オペレッタについては、どこかで喜劇とか小喜劇と呼ばれ、ハッピーエンドで終わる歌劇のようなものであることを述べました。レハールの父親は軍楽隊長で、12歳のときプラハ音楽院(Prague Conservatory)に入学し,ヴァイオリンを学びます。ドヴォルザーク(Antonin Dvorak)らに作曲技法を学び、軍楽隊長を経てウィーンでオペレッタ作曲家としてデビューします。1902年からウィーンの劇場で指揮者として活動を始めます。

1905年に「メリー・ウィドウ」を発表するとウィーンを熱狂させたといわれます。この作品は,以後ドイツ各地,ペテルブルグ(St. Petersburg),ミラノ(Milan),ロンドン(London),ニューヨーク(New York)などで相次いで上演されます。「金と銀」ですが、ワルツのリズムに乗った流麗な旋律がオペレッタの特徴です。当時流行していたダンスのリズムや民族的な素材を取り入れ、和声的、対位法の技巧を駆使し旋律をいっそう豊かにしています。

FRANZ LEHAR Franz Lehar 30 April 1870 ? 24 October 1948 known in Hungarian as Lehar Ferenc Austrian composer of Hungarian descent, mainly for his operettas Credit: Peter Joslin / ArenaPAL

心に残る名曲 その百九十一 バルトークと「Divertimento」

バルトーク(Bartok Bela)はルーマニアで生まれハンガリーの作曲家です。ハンガリーのブダペスト王立音楽アカデミーに学びます。ブラームスの影響を受けた作曲活動にも取り組んでいたバルトークは、1898年にはウィーン音楽院に入学を許可されます。

Bartok Bela

しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだという、同じハンガリーの作曲家ドホナーニ(Ernst von Dohnanyi)の助言に従い、翌年ブダペスト王立音楽院(Royal Academy of Music,)、後のリスト音楽院に入学します。1903年にシュトラウス(Richard Strauss)から強い影響を受けて、1848年に起こったハンガリー独立戦争を題材にした交響詩「コッシュート」を作曲します。ハンガリー独立運動の英雄コシュート(Kossuth Lajos)への賛歌であったため世論を騒がせたといわれます。

Koday Zoltan

1905年からはコダーイ・ゾルタン(Koday Zoltan)とともにマジャール民謡,近隣諸民族の民謡の採譜と研究を開始します。その調査はやがてトルコや北アフリカにも及んだといわれます。これらの民謡の徹底した分析を通じての多くの民族音楽の特性を発見しますが、保守的なハンガリー音楽界にあってコダイとともに苦闘したようですが、研究成果はその後の創作上の源泉となっていきます。1907年、26歳でブダペシュト音楽院ピアノ科教授となります。

Ernst von Dohnanyi

1920年代後半から1930年代にかけて創作力は絶頂期を迎え,「弦楽四重奏曲第3番」、「同第6番」、「Divertimento」などを作曲していきます。第二次世界大戦が勃発し、ハンガリーももはや民俗音楽を研究できる環境ではなくなります。ナチスの文化政策などを嫌い、バルトークは1940年にファシズムの脅威が迫る祖国をあとに米国に亡命します。

心に残る名曲 その百九十 エネスク 「Oedipe」

ルーマニア(Romaniaの作曲家にジョージ・エネスク(George Enescu)がいます。ルーマニアといえば、1989年12月にニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceausescu)の独裁政権が市民革命によって打倒され、民主化へ踏み出した記憶に新しいことです。ですがその後の民主化の道のりは今なお険しいようです。

エネスクは7歳のときにウィーン音楽院(Vienna Conservatoryに入りヴァイオリンを学び始めます。1894年にはブラームス(Johannes Brahms)と親交を結び、本格的な古典音楽のスタイルを学びます。1895年にパリへ聴き、パリ音楽院では和声、対位法、古楽など作曲に関して幅広く学びます。1899年にパリ音楽院(Paris Conservatory)のコンクールでヴァイオリン部門において最高賞を受賞します。

演奏家として幅広いレパートリーを持ち、ほぼ全ての作品を暗譜で演奏、指揮することができるほど、音楽史上の音楽家の作品を研究していたといわれます。バッハ(J. Bach)やワーグナー(R. Wagner)への傾倒するような作品や、新古典主義の風潮、半音階による複雑な旋律などの作風を表していきます。

エネスクの器楽曲では技巧に彩られた多彩な旋律が伸びやかに演奏されます。ルバート(rubato)というテンポにとらわれず、自由に感情表現を行う演奏の仕方を駆使して作曲します。祖国ルーマニアの音楽を題材にした作品も多く創作しています。「パルランド・ルパード」(Parlando rubato)というルーマニアの民族的哀歌の旋律は全作品を通じて現れ、その装飾的な音の動きはエネスクの特徴の一つといわれます。「Balada pentru vioara」、「Rumanian Rhapsody」、「Legende」、「Oedipe」などの作品にそれが伺えます。

心に残る名曲 その百八十九  ロッシーニ 「ウィリアム・テル」序曲

ジョアキノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini)はイタリアの作曲家。多数の歌劇(オペラ)を作曲しています。父はトランペット奏者、母は舞台での袖役の歌手でした。そのようなわけで、劇場で少年時代を過ごしたようなものです。同時に怠け癖の多い少年だったといわれます。14歳のときにボローニアの音楽学校(Bologna’s Philharmonic School)に入学します。ヴァイオリン、ホルン、ハープシコード(harpsichord)を習います。やがて指揮者の見習いとなり、ハイドンやモーツアルトに感化されていきます。それから20年の間、40余りの歌劇を作曲するのです。

多くの歌劇のなかで「セビリアの理髪師」(The Barber of Seville)、「セミラーミデ」(Semiramide)、「アルジェの女」(The Italian Woman in Algiers)、「シンデレラ」(Cinderella)、「泥棒かささぎ」(La gazza ladra) などが有名です。なかでも「ウイリアム・テル」(William Tell)は劇的な歌劇として、序曲が広く演奏されています。

Statue of Swiss medieval folk hero William Tell / Wilhelm Tell with son and crossbow in the city Altdorf, Uri, Switzerland

「ウイリアム・テル」はロッシーニの最後の歌劇となります。この歌劇は、スイス人の民族主義と自由、そして独立ということをテーマにしています。弓矢の名手、ウィリアム・テルはハプスブルク家の支配に立ち向かい、やがて彼は英雄として迎えられます。これをきっかけに反乱の口火を切り、スイスの独立に結びつくという伝承を元にしています。

しかし、歌劇「ウイリアム・テル」は、権力に抵抗する革命的な人物を賞賛しているという理由でイタリア人検閲官と摩擦を起こし、イタリアでの上演が制限されたといわれます。それだけ「ウイリアム・テル」という人物もこの曲もイタリアの庶民の間で好感を呼んでいたということでしょう。

心に残る名曲 その百八十八 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第五番「皇帝」

Krystian Zimermanのピアノ、ウィーンフィル(Wiener Philharmoniker)の演奏、Leonard Bernsteinの指揮によるピアノ協奏曲第五番「皇帝」(The Emperor Concerto) は、聴いていて誠にしびれを感じるようです。この演奏を生で聴いた人は幸いなるか、といいたいほどです。

この曲名「皇帝」とは、もちろんナポレオン(Napoleon Bonaparte)を指すと思われます。しかし、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)はドイツ人ですから、どのような心境でこの曲を作ったのかは興味あることです。Emperorという響きからベートーヴェンは、彼なりに英雄としてのナポレオンに敬意を表していたのではないかと想像できます。

Krystian Zimerman

第1楽章はアレグロ(Allegr)変ホ長調で、独奏協奏曲式ソナタ形式です。驚くことに、いきなりピアノの独奏で始まります。このような出だしは他に知りません。展開部は木管が第1主題を奏して始まり、豪快に協奏しながら第1主題を中心に展開してゆきます。

第2楽章はアダージョポオモッソ(Adagio un poco mosso)と付けられ、穏やかな旋律が響きます。全体は3部からなっており、第3部は第1部の変奏となっています。章の最後で次の楽章の主題を変ホ長調で予告するかのようで、そのまま続けて3楽章に流れていきます。

Leonard Bernstein

最終楽章はロンドアレグロ(Rondo Allegro)といわれ、ソナタ形式で快活なリズムで始まります。ホルンの通奏低音が入り、終わり近くでティンパニが同音で伴奏する中で、ピアノが静まっていきます。

心に残る名曲  その百八十七 オッフェンバック 「天国と地獄」序曲

ジャック・オッフェンバック(Jacques Offenbach)は1819年、プロイセン王国(Kingdom of Prussia)のラインラント州(Rhineland)ケルン(Cologn)に生まれます。父親はユダヤ教シナゴーグの聖職者でした。一家はユダヤ人に対して寛容であったフランスに移住し、1833年には、オッフェンバックはパリ音楽院(Paris Conservatoire)のチェロ専攻の学生となります。1844年にはカトリック教徒に改宗します。そしてフランス劇場(Theatre Francais)の指揮者となり本格的な作曲活動に入ります。

Jacques Offenbach

オッフェンバックは、歌詞と踊りのあるオーケストラ付きの音楽「オペレッタ」(Operetta)の原型を作り、音楽と喜劇との融合を果たした作曲家といわれます。オペレッタは、基本的には喜劇であって軽妙な筋と歌をもつ娯楽的な作品が多く、終りはハッピーエンドとなるようです。オペレッタ「地獄のオルフェ」(Overture From Orpheus in the Underworld)の別題が「天国と地獄」です。通常は序曲の第3部を指すことが多いといわれます。 ホフマン物語からのホフマンの舟唄( The Tales of Hoffmann)は実に優雅なワルツです。

絶世の美女スパルタ王妃ヘレネの話をパロディー化した「美しきエレーヌ」 (La Belle Helene)は見ていて楽しい喜劇です。プロイセン帝政下で問題となっていた社会的地位のある人々の不倫などを風刺しているようです。「 La Périchole」という喜劇は二人の貧しい女性歌手を愛人にしよとする好色な総督の物語です。

The Tales of Hoffmann

心に残る名曲 その百八十六  ムソルグスキー 「展覧会の絵」

ロシアの作曲家ムソルグスキー(Modest Musorgskii)はロシア国民楽派五人組の一人ロシアといわれます。地主の子として生まれ,軍人を志して陸軍士官候補生となりますが、1858年に退役します。そしてバラキレフ(Mily Balakirev)に師事して作曲法を学びます。

Modest Musorgskii

この頃のロシアですが、1861年の農奴解放令により身分的規制は解消されたにみえますが、土地取得は有償のままでした。そのため農民の大半は債務を負って地主に対する隷属が強められ,また離村して都市労働者となるものも多かったといわれます。農村や農民は疲弊します。帝政末期が近づき革命が迫る頃です。

農奴解放による経済的打撃で、ムソルグスキーは1863年より官吏となりますが、飲酒癖から健康を害しながらも作曲を続け,ピアノ曲,交響曲,オペラ,歌曲などを作曲します。ロシア固有の旋法や大胆な和声,変則的なリズムを豊富に使った独自なスタイルは,印象派のドビュッシー(Claude Debussy)をはじめ,近代音楽の作風に大きな影響を与えたといわれます。主な作品はオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」(Boris Godunov),交響組曲「展覧会の絵」(Pictures at an Exhibition)、その他交響詩「はげ山の一夜」(Night on Bald Mountain) ,歌曲集「子供部屋」(The Nursery, The Cycle of Songs)などで知られています。

心に残る名曲  その百八十五 シューマン 交響曲第1番 変ロ長調 「春」

再び古典派の音楽に戻ります。文学に造詣が深い作曲家の一人に、ロベルト・シューマン(Robert Schumann)がいます。文学から得た詩的な幻想を創作に活かすのです。作品に様々な題名を付けたのがシューマンです。ピアニストのクララ(Clara Wieck-Schumann)との恋愛と結婚は、シューマンの創作活動に多大な影響を及ぼしたといわれます。

ピアノソナタ第3番「子供の情景」(Kinderszenen)のように、大人が見た子どもの日常の様子を精密に綴ったもの、ピアノソナタの「フモレスケ」(Humoreske)変ロ長調は詩として劇として展開されている曲です。交響曲第1番 変ロ長調 「」は、春というイメージを言葉ではなく、音によって詩にしたようです。壮大で壮麗な第一楽章は長い冬が明けた喜びや草花の息吹を感じさせてくれます。

ピアノ曲「謝肉祭」や「交響的練習曲」、「詩人の恋」など、詩は主題や対象を説明するのではなく、暗示的に表現するものとなっています。す。「謝肉祭」では、小品の集まりが一つの曲として構成されていて、文学的で幻想的な構成となっています。音楽は描写するのではなく、主題を暗示するものだと考えていたようです。

作曲家の中には、自然や生活の細部を描写する表題的な音楽としたり、技巧を追求する構成とする音楽を作る人もいます。シューマンは少し違うようです。詩は着想を得る契機とするのであり、詩を音楽で表現するのではないと主張しているようです。このあたりの解釈は私にはわかりかねます。

心に残る名曲 その百八十四 ジェームズ・ホーナー「2001年宇宙の旅 」

あまり聞き慣れない作曲家ですが、「2001年宇宙の旅」(2001: A Space Odyssey)の映画音楽作者といえば思い出されるかもしれません。ジェームズ・ホーナー(James Horner)はカリフォルニア州・ロサンゼルス出身。英国王立音楽アカデミー(Royal Academy of Music University of London)‎においてユダヤ系ハンガリーの作曲家ジェルジ・リゲティ(Ligeti Gyorgy)の元で作曲を学びます。

その後南カリフォルニア大学にて学士号を習得し、UCLAの大学院に進み修士号を取得した後、同大学で教鞭をとっていたロジャー・コーマン(Roger Corman)という映画監督に見出され「ジュラシック・ジョーズ」(Up from the Depths)といったスリラー映画の曲を作ります。「宇宙の7人」(Battle Beyond the Stars)というSF映画で作曲も手がけます。「エイリアン2」(Aliens)、「タイタニック」(Titanic)、「アバター」(avatar)などの映画でも作品を作ります。、1968年作のスタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)監督の名画「2001年宇宙の旅」のサウンドトラックが有名です。

UCLAで音楽理論を教えていた強みからか、シンフォニックなものから「コクーン」(Cocoon)や「ニューヨーク東8番街の奇跡」(Batteries not Included)のジャズ風のものまで幅広い作風を駆使します。その意味で現代音楽の作曲家ともいわれ、クラシック音楽で実験的な作品を多く残します。民謡研究の延長線上で作曲した初期の管弦楽曲「ルーマニア協奏曲」(1951年)などがそうです。1961年の管弦楽曲「アトモスフェール」(Atmospheres)、1965年のソプラノとメゾソプラノの独唱、合唱、管弦楽のための「レクイエム」(Requiem)などの代表作を残します。

心に残る名曲 その百八十三  ビー・ジーズ 「Massachusetts」

1970年代後半に活躍したビー・ジーズ(The Bee Gees)は、イギリスとオーストラリア出身のポップーロックバンドです。当時最高の売り上げを誇り、その音楽スタイルを変化させながら、高いハーモニー、精錬された旋律、そして華麗な伴奏を従えて音楽界に多くのヒット曲を送りだします。

両親はオーストラリアに移住するのですが、子ども三人、バリ・ーギブ(Barry Gibb)、ロビン・ギブ(Robin Gibb)、そしてモーリス・ギブ(Maurice Gibb)はイングランドに戻ってビー・ジーズを結成します。別名、「Brothers Gibb」と呼ばれました。彼らの歌い方ですが、三声部の微妙なハーモニー、ロビン・ギブのビブラートをきかせたリードボーカル、そしてバリー・ギブのリズム/ブルース調の裏声(falsetto)が特徴です。1967年に大ヒットした「Massachusetts」という曲にそれがよくでています。

ビー・ジーズは映画音楽も作ります。1971年制作の「小さな恋のメロディ」(Melody)というワリス・フセイン(Waris Hussein)監督の映画では「Melogy Fair」というテーマ曲が流れます。11歳のダニエル(Daniel)、同じ学校に通うメロディという少女との恋を瑞々しく描いた作品でした。

ロビン・ギブは2012年5月に亡くなります。その時の葬儀の様子がYoutubeにあります。彼がいかにイギリスの人々から親しまれていたかが描かれています。2012年に「タイタニック・レクイエム」を製作します。生涯、菜食主義(vegan)を通したのですが、、、