世界を旅する その十一 ポーランドと日本の移民の歴史

19世紀中葉にかけては、アメリカ合衆国への移住者が最も多い時期です。英語以外の言語を母国語とする人々のうち、ドイツ系、イタリア系の人々に次いで多いのがポーランド移民です。1960年代には637万人がポーランド系と推定され、そのうち75万人がポーランド生まれといわれます。

こうした移民の特徴は、ポーランドにおける政治や経済の不安定、農業形態や経済構造の変化にともなう農村部を中心とする余剰労働力の増加という事情が指摘されています。ポーランドからの海外への移動は「出稼ぎ」ではなく「定住」という移民形態でありました。それゆえ家族を同伴した移動が主流でありました。

我が国における移民の歴史にも触れることにします。最初の移民は、1868年で、当時スペイン領であったグアム島(Guam)へ農業移民42人が渡ります。これは「出稼ぎ」でありました。ハワイへ(Hawaiʻi)の移民も1868年に始まります。横浜在住のアメリカ商人で元駐日ハワイ総領事のバンリード(Eugene Van Reed)が斡旋した「出稼ぎ移民」で150人の日本人労働者をハワイのサトウキビのプランテーションへ送りだします。

1885年には、ハワイ王国(Kingdom of Hawaiʻi)との間で 結ばれた「移民条約」によってハワイへの移民が公式に許可され、946人の日本人が移民します。さらに沖縄からは、1899年に26人がハワイのサトウキビ農場へ「出稼ぎ移民」として渡ります。

少しさかのぼり、1880年代よりカリフォルニア(California)に日本人移民が渡り、 1900年代に急増します。1905年には 約11,000人がハワイへ、1920年に 6,000人がアメリカへ移住します。日米開戦当時、アメリカ本土には日系1〜3世含めて約128,000人が住み、そのほとんどがカリフォルニア州を中心にオレゴン(Oregon)、ワシントン(Washington)といった太平洋岸の州に住んでいました。

世界を旅する その十 ポーランド人の移民

私がウィスコンシン(Wisconsin)の州都マディソンに住んでいたとき、ポーランドの地名や市町村名が地図に沢山あることに気がつきました。その代表はPoland, ワルシャワ(Wausau)、ワーケシャ(Wauksha), ワーパカ(Waupaca)、ワーノキ(Waunakee)、ワートマ(Wautoma)、ポーテジ(Portage)といった町です。

1900年代のStevens Point

1857年に最初のポーランド人がウィスコンシン州の東部から中西部にかけて移植してきます。南北戦争が始まる以前です。ウィスコンシンで最初のポーランド人コミュニティが形成されたところがポーテジとかスティーブンスポイント(Stevens Point)です。その定住地、コロニーは「Polonia」と呼ばれます。

ウィスコンシン州にやってきたポーランド人は、ポーランドの西部地方である「Kaszuby」付近からやってきたといわれます。「Kaszuby」はバルト海(Baltic Sea)に面するグダンスク(Gdansk)のあたりです。ウィスコンシンを選んだのは、気候や土地が母国と似通っていたことが主たる理由です。ポーテジ郡のあたりには、ドイツやアイルランドの移民もすでにいて、農地に適した肥沃な土地はすでに耕されていたようです。ポーランド人は、氷河が残した岩や石が混ざる土地を選ばざるをえませんでした。農地の開墾は、岩や石を取り除く作業から始まります。やがて、教会堂や学校をつくっていくのです。

世界を旅する その九 ポーランドと日本 魂の救済

上皇上皇后両陛下がポーランドを訪問したとき挨拶の中で、2人のカトリックの聖職者と日本との関わりを語っています。その人とは、ポーランド人のコルベ神父(Maksymilian Maria Kolbe)とゼノ修道士(Zenon Zebrowski)です。この2人が日本でどのように活動したかを紹介します。

コルベ神父

1930年にフランシスコ修道会(Franciscan Missionaries)のコルベ神父がゼノ修道士らと長崎に到着します。コルベ神父は哲学博士号を有する学者でもありました。早速長崎教区に対して『無原罪の聖母の騎士』という布教誌の出版を願い出ます。教区はそれを認め、コルベ神父は教区の神学校で哲学を教えることになります。翌月の5月には、長崎の大浦で日本語版の布教誌を出版し、長崎の本河内に「聖母の騎士修道院」を設立します。現在は「聖コルベ記念館」となっています。1936年にポーランドに帰国したコルベ神父は、ユダヤ人をかくまった罪でナチスに逮捕さrれ、アウシュビッツ(Auschwitz)で餓死刑を受け、47歳で死去します。この惨い出来事はいろいろな本やサイトで紹介されています。

ゼノ修道士

もう1人のポーランド人の聖職者、ゼノ修道士のことです。本名の綴りは前述した「Zenon Zebrowski)」ですからゼブロフスキーと読んだ方が正確です。ですが日本では「ゼノ神父」として慕われていたといわれます。1945年8月9日に長崎で被爆する体験をします。戦後は戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くし、特に浅草のバタヤ街など全国各地で支援活動を行うのです。「バタヤ」とは鉄や銅くず、縄くず、紙くず等を拾い集めて回収する日雇い労働者のことです。当時廃品回収や仕切りをする「蟻の会」という労働者の生活協同体があり、そこで人々を支援します。魂の救済活動です。それ故「蟻の街の神父」と呼ばれたようです。

世界を旅する その八 ポーランドと日本 日本文化研究

2002年7月に、現在の上皇上皇后両陛下がポーランドを訪問したとき、ポーランド大統領夫妻主催の晩餐会でなされた挨拶は、ポーランドと日本の関係を示す貴重なものです。その中で、ワルシャワ大学東洋学部日本語学科の教授をしていたコタンスキ(Wieslaw Kotanski)教授のことに触れています。コタンスキ教授は日本語や日本文化研究者で「古事記」の研究を始め,雨月物語、雪国、日本文学集などをポーランド語で紹介しています。1957年以来何度も来日し、日本における宗教発展の概要についての著作もあります。

上皇上皇后両陛下は、同じく挨拶の中でアンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)を中心として両国の多くの人々の協力によって,古都クラクフ(Krakow)に設立された「日本美術技術センター」のことにも触れています。1987年にワイダは稲盛財団による京都賞の思想・芸術部門で受賞します。「人間の尊厳と自由精神の高揚を力強く訴えてきた」というのが受賞の理由です。ワイダは賞金を全額寄附し「京都クラクフ財団」をつくります。そしてクラクフで日本美術技術センター設立のために動きます。日本ではそれに呼応して、放送作家であり映画プロデューサで岩波ホール総支配人の高野悦子が5億円の寄付活動を始めます。日本政府もその企画を支援し、1994年に日本美術技術センターが完成します。

ワイダ夫妻や高野悦子氏ら

センターにはヤシェンスキ(Felix Yaschenski )というポーランドの美術品コレクターが集めた15,000点に及ぶ日本美術のコレクション(Felix Yaschenski Collection)が展示されて、両国の文化交流の一つの中心としてその役割を果たしているといわれます。ポーランドを訪ねたときは、是非立ち寄ってみたいところです。

クラクフの日本美術技術センター

世界を旅する その七 ポーランドと日本 「灰とダイヤモンド」

この映画は、アンジェイ・ワイダが1958年に制作した作品です。ポーランドは地政学的に近隣諸国から翻弄された歴史があります。123年にわたる分割占領から独立を回復したのが1918年。しかし、第二次大戦によって再び大国の支配に蹂りんされます。戦後は、ソ連の手先である統一労働者党が実権を握り、一党独裁の社会主義国家となります。そして1989年に大統領制が復活し、自由な選挙により新しい国家、ポーランド共和国ができます。

「灰とダイヤモンド」はポーランドが社会主義政府支配のもとで作られた映画です。言論が統制されていた時代です。ワイダをはじめ文化人らは、厳しい検閲などに注意を払いながら作家活動を続けたことが容易に伺えます。

「灰とダイヤモンド」は1945年5月数日のポーランドが舞台です。ポーランドのロンドン亡命政府派は、ソ連の手先である労働者党県委員会書記のシュチューカ(Szczuka)の暗殺を指示します。亡命政府派のゲリラであるマチェク(Maciek)がそれを引き受けます。誤って別人を暗殺し、人民軍によって射殺されます。この映画でワイダは、青年マチェクのポーランド独立への心意気や苦悩を下敷きにしたようです。

世界を旅する その六 ポーランドと日本 アンジェイ・ワイダ

先日 秋篠宮ご夫妻がポーランドを親善訪問されたというニュースがありました。両国は国交樹立100周年を迎えたとのことです。私は両国がそんなに長くから国交があったことを始めて知りました。1919年が国交樹立の年となります。1919年といえばソビエトが社会主義共和国が樹立し、朝鮮半島では三・一独立運動が起こり、 ガンディが非暴力・不服従運動を開始し、ヴェルサイユ条約が締結され、日本はロシア革命への干渉としてシベリアに出兵し、中国山東省のドイツ利権を日本が取得するなど、内外の情勢が緊迫する時代です。

Andrzej Wajda

今回はポーランドを代表する映画監督アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)のことです。私はこの監督がメガホンをとった二つの作品を観ています。一つは1956年制作の「地下水道(Kanal)」、もう一つは1958年制作の「灰とダイヤモンド(Ashes and Diamonds)」という映画です。ワイダは戦時中、対独レジスタンス運動に加わった経歴があるといわれます。この二つの作品は、そうした経験とは切り離せないようなポーランド人の苦悩とともに不屈の精神を描いています。

PHOTO: EAST NEWS/POLFILM KANAL; CANAL; THE LOVED LIFE; PRODUKCJA: ZESPOL FILMOWY KADR; 1956; REZYSERIA: ANDRZEJ WAJDA; SCENARIUSZ: JERZY STEFAN STAWINSKI; ZDJECIA: JERZY LIPMAN

「地下水道」の舞台は、1944年のワルシャワです。ポーランド国内軍は占領していたドイツ軍に武装蜂起を起こすのです。しかし、銃火器で有利な攻撃で追い詰められ、ワルシャワの地下水道から市の中心部に出て活動を続けようとします。夜になって隊員は地下水道に潜っていきますが、やがて皆は離ればなれになり、ある者は暗闇と悪臭に耐え切れず、マンホールから外に出るのです。それをドイツ軍に発見され射殺されるのです。

世界を旅する その五 ポーランドと日本 分割から連帯へ

1500年代、ポーランドはヨーロッパで最も大きく強大な国家でした。1772年から1918年まで、ロシア、プロイセン(Prussia)、オーストリアといった絶対主義体制の国々が台頭します。ロシアはロマノフ家(Romanov)、プロイセンはホーエンツォレルン家(Hohenzollern)、オーストリアはハプスブルク家(Habsburg)が統治した国です。ポーランドはこの三国によって分割・併合され、ポーランドという国家が消滅するという歴史もあります。

こうした困難な時代にあってもポーランドの文化や芸術は豊かだったといわれます。思想的にもパルスキ(Kazimierz Pulaski)やコシスコ(Tadeusz Kosciuszko)といった愛国指導者が現れます。この二人の思想はやがてアメリカの建国やフランス革命にも受け継がれていきます。1791年にポーランド憲法が制定されます。この憲法はヨーロッパで最も古いものといわれます。こうした思想家の思想が国民に広く理解されるとともに、1918年に国家が再興されます。

ポーランドは二つの大戦で翻弄されます。第二次大戦は特にポーランド人民に過酷な試練を与えます。その代表はユダヤ系ポーランド人に対するホロコスト(Holocaust)で、これに並ぶ悲劇的な歴史はないと思われます。数百万人の非ユダヤ系ポーランド人も犠牲となります。ナチスの支配が終焉するとポーランドは共産圏の衛星国としてソビエトの支配下におかれます。

こうして半世紀にわたる共産主義体制での統治が続く中で、労働者やカトリック教会は、共産主義支配の経済の失敗を叫けんでいきます。1970年代後半、レフ・ワレサ(Lech Walesa)らが率いる独立自主管理労働組合「連帯」が結成され、民主化運動が全国に広がります。そして1989年にポーランドは共産主義体制から民主主義体制へとなります。

世界を旅する その四 ポーランドと日本 「戦場のピアニスト」

忘れられない映画に「戦場のピアニスト」という戦時中のポーランドの首都ワルシャワ(Warsaw)を舞台とした作品があります。監督は多くの人道的な映画を作ったポランスキ(Roman Polanski)です。ワルシャワの放送局でピアニストをしていたユダヤ系ポーランド人、シュピルマン(Władysław Szpilman)が映画の主人公です。

ドイツによる空爆の後に、ワルシャワは占領されシュピルマンと家族はユダヤ人居住区であるゲットー(ghetto)に移住させられます。やがて家族は大勢のユダヤ人とともに強制収容所行きの汽車に乗せられのですが、シュピルマンは知人の計らいで脱出します。その後友人等の助けによって工場で働くのですが、そこも追われ廃墟と化した街を転々と身を隠すのです。ワルシャワ蜂起(Warsaw Uprising)という抵抗運動が起こるのですが、鎮圧されてしまうのを目の当たりにします。

半壊したような建物に潜みながら、そこにあるピアノの前に坐り、音をたてないように鍵盤を弾き始める動作をするのです。建物の中で見つけた缶詰をあけようとするところに、ドイツ将校ホーゼンフェルト大尉(Wilm Hosenfeld)に見つかります。名前や職業を訊かれ、ピアニストだったと答えます。ホーゼンフェルトはシュピルマンになにか曲を弾くように命じます。彼はショパンのバラード第1番ト短調(Ballad I G Minor)を静かに弾き始めるのです。

それからホーゼンフェルトは寒さに震えるシュピルマンに自分のマントを与えたり、食糧を届けるようになります。ソ連軍が侵攻してワルシャワは解放され、よれよれの姿でシュピルマンも廃墟からでてきます。ホーゼンフェルトと兵士らは捕虜となり、周りを通りかかるポーランド人からののしられるのです。

世界を旅する その三 ポーランドと日本 コペルニクスと地動説

ポーランドが輩出した科学者で右の横綱といえばコペルニクス(Nicolaus Copernicus)、左の横綱はキューリ夫人(Maria Curie)でしょう。カトリック教会が支配していた宇宙論は、もちろん天動説(Ptolemaic theory)です。地球が宇宙の中心に位置するという説です。それを覆す地動説(Geodynamic theory)を提唱したのがコペルニクスです。

コペルニクスの地動説は、宇宙は神聖かつ普遍であって、生成消滅するこの世の世界とは本質的に異なるという考え方です。当時、神学や哲学、さらには常識の根底にまで浸み込んだ天動説に真向から対立するものでした。

当時の神学者らは、観測事実を証明するのに不自然な手練手管を使っていたようです。そうした状態に疑問を抱いていた天文学者がいたのです。而、実用天文学上の観点からも根本的に変える考え方が醸成していたといわれます。「コペルニクス的転回」という言葉があります。 見方や考え方が正反対に変わることのたとえのことです。この言葉を使ったのがドイツの哲学者、カント(Immanuel Kant)です。

世界を旅する その二 ポーランドと日本 ヨハネ・パウロ二世

私はポーランドを旅したことがありません。ですがなんとなく親近感を覚える国です。なぜかといいますと、音楽家のショパン(Frederic Chopin)やピアニストのルビンシュタイン(Arthur Rubinstein)などの名前を知っているからかもしれません。

Arthur Rubinstein

まずはヨーロッパの地図を見ながらポーランドのおさらいです。北はバルト海に面し、東はベラルーシ(Belarus)とウクライナ(Ukraine)、北東はロシア連邦、南はチェコ(Czech)とスロバキア(Slovenska)、西はドイツと国教を接しています。このように中央ヨーロッパの国ポーランドは、歴史上さまざな困難に遭遇してきました。戦争によって国が翻弄されてきた歴史です。調べれば調べるほど頭が混乱しそうになるくらい、複雑な政治事情がうかがい知ることができます。

日本人にとってポーランドはどのようなイメージを描くでしょうか。前回、自由化と民主化に偉大な寄与をしたレフ・ワレサのことに触れました。ポーランド人の98%はカトリック教徒です。ポーランドカトリック教徒の誇りは、1978年に第264代のローマ教皇となったヨハネ・パウロ二世(John Paul II)です。ワルシャワの出身です。史上初のスラブ系教皇としても知られています。母国ポーランドを初めとする民主化活動の精神的支柱としての役割も果たします。

長崎にて

1981年2月にヨハネ・パウロ二世は広島と長崎を訪問します。広島において「平和アピール」を発表します。「戦争は人間の生命の破壊である、戦争は死である」というのです。ヨハネ・パウロ二世は、他宗教や他文化間の対話を呼びかけたことでも知られています。エキュメニズム(Ecumenism)というキリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動のリーダーでもありました。