キリスト教音楽の旅 その18 日本のキリスト教と音楽 その3 セミナリオと音楽

1605年に長崎で「司祭用サクラメンテ」(Sacramenta Ecclesiae Ministranda)という司祭によって執り行われる典礼の解説書が出版されます。ここには各典礼で用いられる聖歌が指示されています。五線譜(ネウマ)付きのグレゴリオ聖歌19曲が納められています。これは日本最古の洋楽譜ともいわれ、キリシタン音楽を語る唯一の資料といわれます。「サクラメンテ」とはカトリック教会では秘跡とか聖礼典と呼ばれています。

「司祭用サクラメンテ」に収録されるグレゴリオ聖歌19曲のうち、13曲は葬儀用となっています。日本人が葬儀を大事にしていたことを伺わせるものです。残りの6曲は各地を訪問するときの行列や典礼の入場のときに歌う曲といわれます。

有馬のセミナリオ

少し遡りますが、1551年にザビエルが周防山口で大内義隆に献じた土産品に鍵盤楽器があります。13本の糸が張られた楽器です。これは「Cravo」とか「Clavicordia」と呼ばれていました。オルガンが普及する前はこのCravoが典礼で使われていました。1580年、島原の有馬と近江の安土にセミナリオが開かれます。セミナリオは日本人聖職者を養成する神学校です。ラテン語、日本文学、キリスト教教義のほか音楽や工芸なども教え,修学期間は3〜4年であったといわれます。

セミナリオの課程にある音楽とは、「唱歌と音楽」のことで、生徒の中には「Cravo」や「Clavicordia」を学ぶ者もいたようです。典礼では音楽は欠かせない要素ですから、音楽に力をいれたことは容易に想像されます。1558年、織田信長が安土のセミナリオを訪問したことが、臣下であった太田牛一の記した「信長公記」にあります。音楽で信長をもてなしたかもしれません。

キリスト教音楽の旅 その17 日本のキリスト教と音楽 その2 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

ポルトガルから1554年にやってきた第三次宣教師団にはルイス・フロイス(Luís Frois)の他に、コレジオ(collegio)と呼ばれる聖職者育成の神学校から聖歌に熟練した5人の青年神学生が含まれていました。その一人に、アイリス・サンシエス(Iris Sanchez)がいて、聖務日課や単旋律聖歌などを携行していました。豊後府内、今の大分の信徒は聖週間になると「Miserere mei, Deus」、”神よ憐れみ給え”を歌い、11月の死者の記念日には連祷(Litany)を歌ったといわれます。

ルイス・フロイス

1560年以降、西日本各地の教会には附属する初等学校ーセミナリオ(seminario)が作られます。生徒らは祈りや聖歌をラテン語や日本語で歌いこなし、ミサ仕えをするほどになったといわれます。サンシエスは天草の志岐、島原の口之津にも少年少女聖歌隊を組織し、「その発音も歌唱力もきわめてすぐれ、楽曲および歌唱を相当会得した」と記しています。1565年頃、府内ではモテットなど多声楽も歌いことなすようになります。1579年にはアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)がやってきて、布教活動は活発になります。1580年頃には島原の有馬と安土にもセミナリオが開かれます。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

フロイスは、織田信長や豊臣秀吉らと謁見しその信任を得て畿内での布教を許可されます。主に安土の付近での宣教活動です。ヴァリニャーノの通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁します。既存の仏教界のあり方に信長が反感を持っていたのも幸いしたようです。フロイスはその後、聚楽第で秀吉と会見したとも記録されています。この頃が日本おけるイエズス会の最も盛んで安定した宣教状態でありました。

安土のセミナリオ址

キリスト教音楽の旅 その16 日本のキリスト教と音楽 その1 フランシスコ・ザビエル

日本に西洋音楽が入ってきた時代をとりあげます。キリシタン音楽ともいわれます。キリシタンとはポルトガル語の「Crista」、「キリスト教徒の」という意味の言葉を転訛したものです。漢字では切支丹とか吉利支丹という表記となります。現在はクリスチャンというのが一般的です。

キリシタンの日本伝道は、イエズス会(Societatis Iesu)の宣教師フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が来日した天文18年(1549年)に遡ります。最初、ザビエルは周防山口で大内義隆に謁見します。その時、ザビエルは礼儀を失して義隆から冷たくあしらわれたと云われます。天文20年にザビエル再び義隆に引見します。その時一行をは珍しい文物を義隆に献上したようです。献上品にはポルトガル(Portugue)のインド総督とゴア(Goa)司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったといわれます。そして義隆はザビエルに対して布教の許可を与えるのです。ここで「洋琴」という献上品が入っていたことに注目したいです。恐らく弦楽器のことです。

大内義隆

宣教師が伝道するにあたっては、音楽を用いたことは容易にうかがわれます。例えば行列のときに音楽を奏でたり、後に典礼のなかでグレゴリア聖歌を唄ったということも想像できます。日本で西洋音楽をもたらしたのはイエズス会の宣教師ということになります。ミサ典礼は周防山口で降誕祭で始めて行われたといわれます。その歌ミサは邦人信徒に喜ばれます。ザビエルは来日前に、ゴアでグレゴリオ聖歌を中心とする典礼が異教徒を惹き付けることを知っていたようです。

ザビエル記念聖堂

キリスト教音楽の旅 その15 グレゴリオ聖歌とビザンツ聖歌

キリスト教伝統の聖歌の2回目です。東方の雄をビザンティン聖歌(Byzantine Chant)とすれば,西方教会を代表するものがグレゴリオ聖歌(Gregorian Chant)です。グレゴリオ聖歌は正式にはローマ典礼聖歌と称されます。第64代ローマ教皇グレゴリウス1世 (Gregorius I)が集大成したといわれます。これには異論があるようですが,770年ごろからグレゴリオ聖歌とよぶ習慣となります。古代ユダヤの詩篇唱や賛歌が母体になり、大部分はラテン語聖書からなる典礼文を歌詞とします。全音階的な教会旋法にもとづいて歌われる単旋律の聖歌です。リズムや拍子を有する西洋音楽の源泉となった音楽といわれます。

Portrait of Pope Gregory I — Image by © Bettmann/CORBIS

他方、ビザンチン帝国における音楽はビザンツ聖歌を指します。単旋律で主に全音階で自由なリズムである点などはグレゴリオ聖歌と多くの共通点を有しています。違いといえば、直接聖書からとった歌詞でないことや、ミサに比べて聖務日課のほうが入念につくられていることが特徴とされます。最も初期の聖歌は4~5世紀頃に起こったトロパリオン(troparion)というもので,「詩篇」(Psalm)の各節の朗読の間に歌われます。6世紀頃から,短い導入部と繰返しを持つ同じ構造の節で成り立つコンタキオン(kontakion)が盛んになります。さらに7世紀頃からはカノン(canon)という楽曲が生まれます。カノンは9部分から成る非常に長い詩で、それぞれ数行から成るトロパリオンから成り立ちます。ビザンチン教会ではギリシア語が用いられたといわれます。ユダヤ(Judea)やシリア(Syria)の東方典礼の中の聖歌に基づいて生まれた音楽です。

誠実な十字架 グレゴリオ聖歌

キリエ エレイソン ビザンツ聖歌



キリスト教音楽の旅 その14 ビザンツ聖歌

ロシア正教の音楽のことです。330年にコンスタンティノープル(Constantinople)がローマ帝国東方領の行政首都となります。現在のイスタンブールです。ビザンチン帝国(Byzantine)ともいわれます。この地で広まったのが東方教会です。1453年に滅ぶまで、東地中海のギリシア語圏を中心に発展した帝国です。東方教会の音楽、あるいはビザンティン音楽の中心は聖歌です。広義にはビザンティンの典礼に添う教会の伝統が込められています。特にギリシアとギリシア系の教会の伝統を継承して発展します。ドイツ語読みでのビザンツ(Byzanz)音楽ともいわれます。

ビザンツ聖歌(Byzantine Chant)は、古典時代およびヘブライ(Hebrew)音楽が組み合わされ、その芸術の産物によって成立し、徐々に発展していったといわれます。初期ビザンツ聖歌は会衆の歌であり、口伝承であったために記譜されなかったようです。実際にどのように歌われていたかはYoutubeでの歌唱を聴くと少しは伝わります。

9世紀頃になると「ネウマ音楽記譜」(neumatic notation)が現れます。聖書朗唱の節回しをエクフォネシス(ekphonesis)といい、棒読みではなくほんの少し音高や読み方を変える歌い方です。キリスト教が国教になるとエルサレム(Jerusalem)やコンスタンティノープルには大聖堂が建てられます。前回引用したハギア・ソフィア(Aagia Sophia)がその代表です。巨大なドームでの礼拝にふさわしい厳粛な儀式が執り行われ、新しい聖歌が次々と作られていきます。

正教会の礼拝は歌によって始まり、歌によって終わるといっても過言ではありません。説教以外に読誦はありません。祈祷書のテキストはさまざまな段階の音楽に乗せて歌われます。歌には祈りの共同体性を強め、教えを記憶に留める効果があります。歌では伴奏となる器楽は一切使われません。ユダヤ教礼拝堂シナゴーグ(synagogue)で器楽が用いられなかったことによるといわれます。「みことば」による礼拝が重視されてきたからです。

ビザンティン・チャント
ロシア正教チャント
ロシア正教賛美歌14
ロシア正教賛美歌アレルヤ
ユダヤ教の礼拝


キリスト教音楽の旅 その13 東京復活大聖堂とロシア正教会

先日、淡路島からきた友人と都内を散策しました。丁度日よりも良く20,000歩ほど歩きました。最後に回ったのが神田のニコライ堂です。正式名は、日本ハリストス正教会(Orthodox Church in Japan)「東京復活大聖堂」(Holy Resurrection Cathedral in Tokyo)とあります。この教会はロシア正教会と思っておりましたが、調べてみると間違っておりました。

現在のロシア、ウクライナ(Ukraine)、白ロシアの祖先である東アラブ族が統一国家をつくったのは9世紀後半といわれます。980年頃、ウラジミール1世(大公)(Vladimir)がギリシャ正教を国教と定めます。ウラジミール1世はビザンチン皇帝(Byzantine)の妹を妻として自らもギリシャ正教に改宗します。この時からロシア正教の公式な歴史が始まるといわれます。一般大衆は農耕と結びついた自らの宗教である太陽神を中心とした多神教を信じ、ロシア正教と原始宗教との抗争が続きます。結局はキリスト教のロシア化という形で原始宗教の諸行事がキリスト教の中に取り入れられていきます。

正教会が広まった地域がビザンチン(Byzantine)です。ビザンチン帝国、別名東ローマ帝国の首都であったコンスタンチノポリス(Constantinople)の旧名、ビュザンチオン(Βυzanνtiοv)を語源とするといわれます。コンスタンチノポリスは今のイスタンブール(Istanbul)です。ビザンチンは東ローマ帝国及びその文物を指す名称です。

正教会は一つの国に一つの教会組織を置くことが原則とされます。ギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会といった具合です。ことなる教義を信奉するのではなく、同じ信仰を有しています。神田のニコライ堂はロシア正教会の司祭ニコライ(Nicholas)によって正教の教えがもたらされ、日本ハリストス正教会の設立となります。

キリスト教音楽の旅 その12 オルガニスト 秋元道雄氏

私が最初にオルガン演奏を聴いたのは1965年です。札幌ユースセンター教会というルター派の教会でのことです。北海道で最初のオルガンです。演奏者は秋元道雄東京芸術大学教授でした。

秋元氏は東京芸術大学のオルガン科卒業後、ライプツィヒ=ベルリン楽派のヴァルター・フィッシャー(Walter Fischer)教授の門下生であった真篠俊雄教授に師事します。真篠教授にはオルガン奏法、楽典、オルガン教科書などの著作があります。やがて、秋元氏はイギリスとドイツに留学します。1955年にロンドン市立ギルドホール音楽演劇学校(Guildhall School of Music and Drama)より全英最優秀音楽留学生賞である「サー・オーガスト・マン賞」(Sir August Mann)を受賞します。

その後、パリのノートルダム寺院(Cathedrale Notre-Dame)での演奏会を含め数多くの演奏会活動を行います。プラハの春(The Prague Spring)国際オルガンコンクールなど多くの国際コンクールの審査員をつとめた経歴を有しています。東京芸術大学教授をしながら日本キリスト教団富士見町教会のオルガニストもつとめました。2010年1月に生涯を終えられました。

アトランティックシテイ、ボードウォークホールのオルガン

キリスト教音楽の旅 その11 オルガンの音楽

オルガンのことを話題にしますといろいろなことが思い出されます。オルガンを組み立てる行程を間近で見学できたこと、その組み立てを担当した日本で最初のビルダー辻宏氏のこと、そのオルガンの柿落で演奏を聴いたこと、そのときバッハのトッカータとフーガ ニ短調(Toccata e Fuga BWV 565)を始めて間近で聴いたこと、、、

オルガンの音楽には三つの種類があるといわれます。今回はそれを取り上げます。最初はオルガン・コラール(Organ Chorale)です。これはコラール旋律を基にしたオルガン曲の総称です。単に会衆のコラール歌唱を支えるための四声部編曲は除き、ポリフォニ(Polyphony)に作ったものというのが原則です。ポリフォニもすでに何度も説明しておりますが、多声部音楽のことで、各声部が独立した旋律とリズムを持ち、それらが調和している音楽のことです。フーガ(Fuga)はその代表といえましょう。

第2のオルガン曲はオルガン・ヒム(Organ Hymns)です。グレゴリオ聖歌の旋律を基にするオルガン曲のことです。典礼中の歌唱をオルガンの奏楽で代行するものです。マニフィカート(Magnificat)、ミサの式文の大部分がオルガンで奏されます。グレゴリオ聖歌をモテット(Motet)の作曲技法で編曲したものも指します。モテットとは、聖句を歌詞とする中世の無伴奏多声合唱曲のことです。プロテスタント教会の礼拝で歌われる讃美歌もそうです。ルター派の教会はオルガンと讃美歌なしではあり得ないことです。

第3のオルガン曲はオルガン・ミサ曲(Organ Mass)です。ミサ通常式文の各段に対応する多声的オルガン曲です。通常のミサ曲が式文の歌唱を中心とするのに対し、オルガン・ミサはオルガンによる独奏曲です。会衆が式文を唱えるのと並行して奏せられることもあります。グレゴリオ聖歌などを基にしたフーガ、モテット形式の曲が多いのも特徴です。

キリスト教音楽の旅 その10 オルガンの歴史 その4 足の技法

オルガンには足で操作するいくつかの装置が備わっています。足で鍵盤(ペダルボード)を押すのです。そこで足の技法が要求されことになります。重要なのは足鍵盤をひく足さばきです。オルガンでは足は単なる手の補助ではありません。手と同等の運動性が奏者に要求されるのです。

足鍵盤もまた、単旋律だけでなく対位法的に書かれた二重声部を奏する場合もあるのです。今はつま先とかかとを同時に用いて奏する四声部の曲もあります。対位法とはこのブログのどこかで何回か取り上げましたが、「同時に響く幾つかの旋律を、ある規則体系にしたがって組み合わせる方法」というものです。西洋音楽の根幹をなす作曲技法です。

足鍵盤

足の動きに対して坐り方も大事だといわれます。初心者はしばしばベンチに深く坐りがちのようです。そうではなく、ベンチのあまり後方ではなく、かかと足鍵盤に接する位置に坐ります。ペダルを見ずに正確に演奏するには相当の練習が要求されます。例えば、足を嬰ニ(D)と嬰ヘ(F)の間におき、黒鍵の側面に軽く触れながら隣あわせのホ(E)、ヘ、ト(G)の白鍵に正確に到着できることです。オルガン演奏には脚の長さも有利に働くかもしれません。

キリスト教音楽の旅 その9 オルガンの歴史 その3 演奏の仕方

演奏者は鍵盤の前に坐り、手と足で音色を決定するストップ(stop)と呼ばれる音栓と音高を決める鍵盤によって、風箱にある二十の弁を開閉して任意の音を得ます。鍵盤上の音域は4オクターブか5オクターブが主です。作曲者はそのオクターブで曲を作りますが、ときに11オクターブに達する曲を作ることもあります。

音色は、ストップをいくつか組み合わせてつくられます。ストップレバーは鍵盤の左右に数個から数十個も配置されているので、奏者が、演奏中に組み合わせを変えるのは大変です。そのため、以前はストップの操作のために助手が付いていました。両足を使うのは、低く太い音を出す大きな木管や金管から発音させるときです。そのために靴も特別です。奏者は木製の長いベンチに坐ります。木製なので腰を左右に移動するのが容易になります。

ふいごで風を送る姿

今日、音楽ホールや大聖堂などに設置されるオルガンは、鍵盤を弾きながら弁を自在にコントロールしている感覚がします。タンギング(tonguing)のような感じなのです。tongueとは舌のことです。リコーダーでは吹き口に舌を当てて一音一音区切るように音を出す奏法があります。空気の流れを一時的に中断し、各音の出始めを明確にするのです。オルガンのタンギングは指先で行っているといえます。

オルガンの管理ですが、パイプの内部に入ったほこりで音がよく響かなくなります。空気と接する振動面が音を放出するのを溜まったほこりが妨げるからです。そのため掃除は10年に1回位で行われます。パイプを分解して修理するオーバーホールもあります。ビルダー(builder)という職人がやる仕事です。オルガンは温度や湿度にも敏感です。礼拝前や演奏前は通常は空調を入れておきます。

オルガンビルダー

オルガンのような機能を持つ楽器は他にありません。強いていえば管弦楽くらいものです。管弦楽はそれぞれの個性をもつ一つひとつの楽器、それを一人ひとりの演奏者が奏するアンサンブルといえます。オルガンは一人の演奏者による総合楽器とでもいえます。オルガニストは奏者でありながら、音楽全体を統括する指揮者でもあるのです。