心に残る名曲 その七十六 グスタフ・マーラー その2 反ユダヤ主義の台頭

オーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Marhler)の二回目です。1880年頃から指揮者としてチェコの地方劇場で演奏します。得意のレパートリーとしていたのがワーグナー(Richard Wagner)やモーツアルト(Wolfgang Amadeus Mozart)です。1891年にはハンブルグ市立歌劇場(Hamburgische Staatsoper)の首席指揮者となり、ハンブルグ管弦楽団(Philharmoniker Hamburg)を率いて演奏します。さらに1897年には、ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper )の総監督に就任。ヨーロッパ音楽界の最高の地位に就きます。

その頃からヨーロッパでは反ユダヤ主義が急成長していきます。反ユダヤ主義者がウィーン市長になると、マーラー批判を繰り広げていきます。マーラーはユダヤ人であることを意識しながら、ワーグナーの反ユダヤ主義の政治思想から距離をとっていきます。そして、ユダヤ教からカトリックに改宗するのですが、反ユダヤ主義者は、「ゲルマン文化の冒涜者」としてマーラーをウィーン宮廷歌劇場の総監督の座から下ろすのです。

マーラーは後年、10の交響曲を作曲するのですが、どれもウィーンの古典派の伝統に基づきながらも、その伝統を新しい角度から見直して斬新な音楽の世界を開拓するという意図が反映されているといわれます。交響曲第8番はその代表です。「1,000人の交響曲」とも呼ばれています。しかしながら、芸術上の冒険をあまり好まないウィーン市民の気質との確執で、マーラーはウィーンを離れることを決心したようです。

反ユダヤ主義者に攻撃されたマーラーは、1907年12月にニューヨークへ渡ります。そしてメトロポリタン歌劇場(Metropolitan Opera House)やニューヨークフィル(New York Philharmonic)の指揮者として活躍し始めるのです。

心に残る名曲 その七十五 グスタフ・マーラー その1ユダヤの家系

オーストリアの作曲家にグスタフ・マーラー(Gustav Marhler)がいます。1860年生まれです。20世紀初頭にかけてヨーロッパやアメリカで活躍した指揮者であり作曲家です。

オーストリア帝国に併合されていたボヘミヤ(Bohemia)の寒村カリステ(Kalischt)で、ブランデーの製造を営むユダヤ人家庭で育ちます。4歳のころからピアノを学び音楽の才能を示します。その後、イグラウ(Iglau)tという街にあるギムナジウム(Gymnasium)に入学します。ギムナジウムというのは中高一貫校のようなものです。

その頃から、彼は、もともとチェコ人(Czech)でありながらドイツ語を話し、国籍がオーストリア人でありながら、ユダヤ人であるという人種の葛藤を経験します。それが後の作曲活動や作品にも影響を与えることになります。

心に残る名曲 その七十四 アントニエッタ・ステッラと二人のライバル 

ステッラは、1950年代から1960年代に活躍したイタリアの代表的な歌手です。彼女の活躍した時代には、二人の巨星といわれるソプラノ歌手がいました。マリア・カラス(Maria Callas)とレナータ・テバルディ(Renata Tebaldi)です。少し割を食ったのが、ステッラを含めた同じ世代のソプラノ歌手といえそうです。ステッラは、NHKイタリア歌劇団公演で3度にわたり来日しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

女性の声の種類は、ソプラノ、メゾソプラノ、そしてアルトに分けられます。ソプラノにはいくつかの種類があります。よく聞くのがコロラトゥーラ(coloratura)で、歌いが速くコロコロと転がすような装飾が付くのが特徴です。もう一つはスピント(spinto)といって、情熱的で激しい感情をあらわす声のソプラノです。スピントのソプラノ役柄は例えば、「カヴァレリア・ルスティカーナ」(Cavalleria Rusticana)、「トロヴァトーレ」(Trovatore)、「ドン・カルロ」(Don Carlo)といった歌劇でしょう。

ステッラもマリアカラスもスピントの歌手といえそうです。19世紀中頃からのロマン派オペラから多く現われています。ヴェルディ(Giuseppe Verdi)やプッチーニの歌劇での歌唱で知られています。

 

心に残る名曲 その七十三 歌手アントニエッタ・ステッラ

1960年代の学生時代に僅かの小遣いを使って、中古のLPレコードを始めて買いました。手にしたのが、『ラ・ボエーム』(La Bohème)という歌劇のレコードです。ジャコモ・プッチーニ(Giacomo A. Puccini)の作曲した4幕オペラで、最もよく演奏されるイタリアオペラです。ジャケットに美しい女性が載っていました。それがイタリアのソプラノ歌手アントニエッタ・ステッラ(Antonietta Stella)です。

 19世紀、パリのカルチェラタン(Latin Quarter)には、貧しい学生や芸術家が多く住んでいます。主人公のミミ(Mimi)もその一人です。貧しいお針子(seamstress)です。そこのアパートに一緒に住んでいたのが詩人・ロドルフォ(Rodolfo)です。彼も貧しく火の気の無い部屋で仕事をしています。暖炉に入れて売れ残りの原稿をくべて寒さに耐えています。二人ともボヘミア(Bohemia)からの移民のようです。 「Bohème」とはボヘミア人という意味です。

あるときミミがロウソクの火を借りにロドルフォの部屋のドアをたたきます。ロドルフォが開けると、ミミはめまいがして床に倒れ込むのです。介抱されたミミは火を借りて礼を言い、戻ります。そのときミミは鍵を落としたことに気がつき戻ってきます。戸口で風がローソクの火を吹き消してしまいます。暗闇で二人は鍵を探すのです。ロドルフォが先に見つけそれを隠してミミに近寄ります。それから彼女の手を取り、はっとするミミに自分のことを詩人だと云って聞かせるのが「」冷たい手を(Icy cold hand)」です。続いてミミも自己紹介をして歌うのが「私の名はミミ(They Call Me Mimi)」です。

やがて二人の愛情のこもった二重唱で幕がおります。

心に残る名曲 その七十二 グリークと「ピアノ協奏曲イ短調」

グリーグによる唯一のピアノ協奏曲(Concerto in A minor)です。1868年デンマークのSollerodに訪問している時に作曲されたグリーグ初期の傑作といわれます。たった一曲のピアノ協奏曲とは珍しいことです。我々日本人の琴線に触れる旋律がこの曲にはあります。色彩豊かな旋律、金管楽器の壮麗な演奏、ピアノ奏者でもあったグリークは繊細なメロディをピアノに添えています。

第一楽章 Allegro molto moderatoは、やや早めの楽想です。ティンパニーに続いてピアノが響き、そして管弦楽でテーマが演奏されます。ソナタ形式のよりテーマが繰り返されます。甘い旋律のテーマはしびれる程です。第一楽章は12分の演奏です。第二楽章Adajoは北欧の自然や村、フィヨルドを思い起こさせるような優雅な曲です。第三楽章Prestは、文字通り軽快で速い演奏です。終章には新たな抒情的なテーマ曲がピアノで演奏されます。管弦楽が国歌とも思えるメロディを奏でて終わります。

 

心に残る名曲 その七十一 グリークと「抒情小曲集」

グリークはライプツイッヒ音楽院での留学後、帰国してベルゲン(Bergen)でピアニストや作曲家として活躍します。次第にドイツやデンマークのロマンティックな語法から離れ、やがてノルウェーの国民主義的形式に向かいます。故郷の民俗音楽的要素に基づく作曲活動をしていきます。ノルウエーの民俗音楽に創作の原典を見いだし、やがて種々の編曲を通じて国民的な音楽の基礎を築きます。そして母国の民謡や舞曲を芸術的なものに高めるのです。

 グリークは1871年に音楽協会を設立します。グリークの作曲の特徴は、小規模な歌曲やピアノ曲において最も発揮されているようです。1867年から1903年にかけて作曲した全66曲からなる「抒情小曲集」第3集があります。その中の「春に寄す」という曲は、春の息吹とノルウェーの美しい情景が目に浮かぶ抒情的な作品です。「2つのノルウェー民謡による即興曲」、「ノルウェーの踊りと歌」といったピアノ独奏曲もあります。歌曲では「山とフィヨルドの思い出」、合唱曲アルバムでは「ノルウェー民謡による12曲」が知られています。

 

心に残る名曲 その七十 グリークとドイツロマン派音楽 

先日、鬼籍に入った囲碁仲間がいます。入院している病院に見舞いに行ったところ、前日の早朝に亡くなられたとか。もう少し早めに見舞うべきでした。

ペール・ギュント(Peer Gynt)の物語に放蕩息子を溺愛する母親オーゼ(Ase)の死の曲があります。管弦楽の荘重な響きが悲しみを伝えています。葬送曲といえばいろいろなジャンルがあります。代表的なものはレクイエム(Requiem)がです。鎮魂歌ともいわれ、死者の安息を願うミサ曲です。モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の「レクイエム ニ短調」が有名です。葬送行進曲もあります。葬儀に死者を運ぶときに使われます。ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の交響曲第3番「英雄」の第2楽章が知られています。

さて、グリークの作品の特徴です。彼の両親はスコットランド系とドイツ系で、母親はピアノを弾いていたのでその薫陶を受けます。1858年にライプチッヒ音楽院(Hochschule für Musik und Theater)に4年間留学します。この音楽院は、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)によって創立されたとあります。そこで和声対位法、作曲法などを学び、特にシューマン(Robert Schumann)らのドイツロマン派音楽の影響を受けます。1868年、グリークがデンマークで25歳のときに作曲した「ピアノ協奏曲イ短調作品16」はロマン派音楽の香りが濃く漂います。

心に残る名曲 その六十九 グリークと「ペール・ギュント」

主人公のペール・ギュント(Peer Gynt)の物語です。彼は嘘つきで仕事嫌い。おまけに妄想好きです。父親は道楽者で散財して臨終となります。ただ息子を溺愛する母親オーゼ(Ase)と貧しい2人暮らしです。

ペールにはソルヴェイグ(Solveig)という村の結婚式で出会った恋人がいます。知り合いのイングリッド(Ingrid)を結婚式でさらい山の中へ逃走します。嘆き悲しむイングリッドに飽きて、放浪し続けた先で山の魔王といざこざを起こし家に帰ります。ちょうど母親オーゼが死ぬ間際です。彼女は最愛の息子に看取られながら亡くなります。

その後、ペールはアフリカに渡って一人前のペテン師になって大もうけし、モロッコ(Morocco)でベドウィン (Badawin)の部族に迎えられます。酋長の娘アニトラ(Anitra)を誘惑したつもりですが、逆に騙されたあげく財産を全て取られてしまいます。その後、また大金持ちになり帰郷するのですが、途中で船が難破。命からがら帰り着いたペールは、彼を待ち続けていたソルヴェイグと再会します。彼女は彼を許し子守歌を歌い、ペールはその安らぎの中で息絶えるという筋です。

ペール・ギュントの破天荒な生き方を組曲で表現したのがグリークです。グリークは数度に渡って組曲を入れ替えています。1891年に編曲された第1組曲では次のような曲となっています。まだ「ソルヴェイグの歌-Solveig’s Song」(イ短調)は入っておりません。

第1曲「朝」(ホ長調)Morning Mood
第2曲「オーセの死」(ロ短調)The Death of Ase
第3曲「アニトラの踊り」(イ短調)Anitra’s Dance
第4曲「山の魔王の宮殿にて」(ロ短調)In the Hall of the Mountain King

心に残る名曲 その六十九 グリークと「ペール・ギュント」 

主人公のペール・ギュント(Peer Gynt)の物語です。彼は嘘つきで仕事嫌い。おまけに妄想好きです。父親は道楽者で散財して臨終となります。ただ息子を溺愛する母親オーゼ(Ase)と貧しい2人暮らしです。

ペールにはソルヴェイグ(Solveig)という村の結婚式で出会った恋人がいます。知り合いのイングリッド(Ingrid)を結婚式でさらい山の中へ逃走します。嘆き悲しむイングリッドに飽きて、放浪し続けた先で山の魔王といざこざを起こし家に帰ります。ちょうど母親オーゼが死ぬ間際です。彼女は最愛の息子に看取られながら亡くなります。

その後、ペールはアフリカに渡って一人前のペテン師になって大もうけし、モロッコ(Morocco)でベドウィン (Badawin)の部族に迎えられます。酋長の娘アニトラ(Anitra)を誘惑したつもりですが、逆に騙されたあげく財産を全て取られてしまいます。その後、また大金持ちになり帰郷するのですが、途中で船が難破。命からがら帰り着いたペールは、彼を待ち続けていたソルヴェイグと再会します。彼女は彼を許し子守歌を歌い、ペールはその安らぎの中で息絶えるという筋です。

ペール・ギュントの破天荒な生き方組曲で表現したのがグリークです。グリークは数度に渡って組曲を入れ替えています。1891年に編曲された第1組曲では次のような曲となっています。まだ「ソルヴェイグの歌-Solveig’s Song」(イ短調)は入っておりません。

第1曲「朝」(ホ長調)Morning Mood
第2曲「オーセの死」(ロ短調)The Death of Ase
第3曲「アニトラの踊り」(イ短調)Anitra’s Dance
第4曲「山の魔王の宮殿にて」(ロ短調)In the Hall of the Mountain King

心に残る名曲 その六十八 グリークと「北欧のショパン」

私は1971年に家族とともに沖縄に出掛けました。そして那覇で「丘の上幼稚園」を開設しました。本土復帰の翌年の1973年のときです。幼稚園は那覇市外を見下ろすことのできる上之屋というところにありました。園庭の隣りには市の泊浄水場がありました。

那覇は、赤いデイゴやハイビスカスと紺碧の空、そしてエメラルドの海で朝が始まります。幼稚園の朝はいつも同じ音楽を流しました。それがグリーク(Edvard Hagerup Grieg)の有名な組曲「ペール・ギュント(Peer Gynt Suite)」の第一曲である「朝(Morning Mood)」でした。オーケストラの伸びやかで爽やかな旋律が園庭に広がりました。

「北欧のショパン」と呼ばれるのがノルウェー(Norwegian)の作曲家グリークです。数多くのピアノ小品を残したからです。1843年にベルゲン(Bergen)生まれます。やがて壮大なクラシック音楽の数々を世に送り出していきます。本人も卓越したテクニックのピアニストとしても著名で、沢山の自作をヨーロッパ各地で演奏したようです。

「ペール・ギュント」は、数あるグリーグの作品の中で最も知られています。同じノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen)の戯曲が「ペール・ギュント」です。グリークはその付随音楽として作曲します。