ハングルと私 その6 支払いと割り勘

客へのもてなしはどこの国にもある言葉です。韓国人のもてなしで気がついたこと、それは「徹底している」ということです。前回の食事の際のマナーなどの習慣もそうです。食事の際の支払いもそうです。

「先生、いろいろとお世話になっております。今夜の夕食は私が招待させていただきます。」といっても駄目なのです。客がホストを招いても、支払いはホストがするということのようです。お土産を一緒に買いにいっても、ホストが払ってくれるのです。スーパーマーケットにいったとき、土産品をレジに持って行くとどうしても私に払わせないのです。

それから、韓国人同士では食事を計画し誘ったものが支払うという習慣です。「ワリカン」はないといって間違いありません。誰かが順番に食事に誘うことによって、結局は皆が支払うことになるのです。日本では、食事の前後に幹事が一人ひとりから集金します。韓国では、若い人同士の場合は除いてこのような習慣はありません。年上の者、上司が払うのも当たり前です。目上の人への態度にも気をつけるのが韓国です。

ハングルと私 その5 チゲとマナー

最初の韓国訪問は1998年頃だったことは以前述べました。そのとき一緒に行ったのは当時外国人研究員として兵庫教育大学に招いたアメリカの友人、Ray Myers氏です。若い頃、平和部隊員として数年インドの貧しい田舎で英語を教えていた経験があります。Myers氏はその後、連邦教育省で働きました。インドの貧しさを知っていたので、アジアの人々に共感的でした。このときは彼も韓国訪問は初めてでした。同行したもう一人の方は、兵庫教育大学附属小の教師でした。

ソウルの金浦国際空港(김포국제공항)で出迎えてくださった方は、同じく兵庫教育大学でかって客員研究員をされていた趙という方でした。専門は社会科教育で当時はソウル教育大学校の教授でした。ソウルの公園などを案内してくださり、公園の側にあった韓国風の庵のようなレストランへ昼食に招いてくれました。まず、二人のウエイターで運ばれてきたのは、料理が一杯に並べられた大きなテーブルです。全ての料理が小鉢に盛られています。味噌汁は鍋に盛られています。一種のバフェスタイル(バイキング)です。

一人ひとりのお膳スタイルではありません。皆、好きなものを手を伸ばしていただくのです。味噌汁はいわゆるチゲ(된장찌개)なのですが、これも皆で自分のスプーンで手を伸ばしてすくってはいただくのです。皿などを手にとって口をつけたりしません。料理が一通りなくなると次のテーブルが運ばれてきます。これが続くのです。料理が無くなるのは客に失礼なので、残り物がでるまで出てくるというのです。「趙先生、もうお腹が一杯です」といって、テーブルの料理を残すとそれで食事は終わりとなります。この「残す」ということが客のマナーであることを後に知りました。これこそカルチャーショックでした。「残すのはもったいない」のですが、、、

ハングルと私 その4 ユージン君

ウィスコンシン大学の家族寮にいた頃です。寮のすぐ向かいにソウルから来ていた留学生家族と親しくなりました。この院生は政府から派遣された優秀な人でした。政府の奨学資金をもらうのを大変誇りにしている様子でした。こうした留学生は学位をとると、国に帰って「サイエンティストー科学者」として遇される恵まれた人々です。それに引き替え、わたしのほうは不如意な院生でアルバイトに精を出す有様でした。

この家族に一人の息子がいまして、その名を「ユージン」といいました。英語で書くとEugeneとなります。時々見かける名前です。この家族との付き合いがやがて他の韓国人留学生とつきあうきっかけとなります。キャンパスには中国本土からきた留学生と同様に、多くの韓国人が学んでいました。韓国人の新婚カップルも宿舎の二階に住んでいました。こちらも同じく政府派遣の「エリート」でした。このカップルに招待されて焼き肉をご馳走になりました。「プルゴギ」(불고기)です。ちなみにコギとは肉の意味で、牛肉はソコギ(소고기)、豚肉はトエジゴキ(돼지고기)と発音します。

夕食の後に、韓国の結婚式の写真を見ながら韓国の習慣を教えてくれました。このカップルも大変裕福な家庭で育ったようで、式の服装や贈り物の豪華さに驚きました。相手を選ぶときは、家系、姓などを詳しく調べて、風水師とも相談して結婚するそうです。祖先を大事にし、男尊女卑のような習慣も残っていること、ヤンバン(양반)という特権的な国家公務員となる人々がいること、支配階級の人々です。なによりも儒教の精神が社会を包むことを留学生から教えてもらいました。愉快な付き合いをさせていただきました。

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ハングルと私 その3 ハングルの特徴

朝鮮語は構造上は日本語に似たアルタイ(Altai)語型といわれます。アルタイ地方とは、西シベリア(Siberia)南部のオビ川(Obi River)の流域に広がる地域です。アルタイにはロシア帝国時代の政治犯らの流刑地であったクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)という都市があります。戦後樺太で抑留された私の叔父が昭和28年頃ここで亡くなったという通知を父が貰ったのを覚えています。

朝鮮語の文章の要は述語にあるといわれます。述語は文末に位置します。アルタイ語は(主語-目的語-動詞)の語順をとること、文法では名詞の格や動詞の活用を示す語尾を語幹末に付着させて示すことなど、日本語とよく似た類型を示します。

ハングルは1443年に「訓民正音」の名をもって李朝第四代の国王、世宗のもとで作られます。ハングルは表音文字で要素文字24字はそれぞれ単音を示します。ローマ字と異なり要素文字の結合で一つの単位をつくり、一音節を表します。要素文字24字中、14文字は初声(終声)で子音を表し残りの10文字は母音を示します。

朝鮮語の子音体系で特徴的なのは、初声の場合、閉鎖音、p、t、k、及び破裂音cに無気音、有気音、濃音の3種類があることです。濃音とは子音の発音のとき、咽頭に激しい緊張を伴い、日本語でいう促音のような響きを持ちます。朝鮮はかつては古中国文化圏に属していたといわれます。従って漢字を書くのが知識人の資質でありました。その結果、日本と同様に漢字を長く使ってきました。漢字は必ず朝鮮独特の漢字音で音読し、日本のように訓読することはありません。

ただ、漢字を朝鮮語に順応させようとした試みがあったようです。日本のように漢字から仮名を作り上げるようなことは韓国ではありませんでした。今日の韓国は漢字廃止の方向にありますが、全廃には至っていません。新聞や雑誌などには依然として漢字が使われ、ハングルと併存しています。現代の文学作品では漢字は用いられていません。

ハングルと私 その2 日本との歴史

ソウル(서울)市内には、日本と韓国の関係を示す公園や史跡があります。日本が韓国を併合したのが1910年。それが終戦まで続きます。長い日本による統治でしたから、史跡はどうしても反日色や独立運動の足跡が強くでているところとなっています。

ソウル市内にある王宮の一つが景福宮(경복궁)です。ここにはかっての朝鮮総督府の建物がありました。朝鮮総督府庁の完成によって、街から景福宮はみえなくなります。総督府の建物は戦後は長らく中央博物館として利用されていましたが、いかにも重厚な建築物といわれても、忌まわしい植民地時代の象徴とされてきました。そうした国民感情から1995年に撤去されました。

ソウルの中心部にはタプゴル公園(탑골공원)があります。1919年に「三・一独立運動」が起きます。タプゴル公園はこの抗日独立運動の発祥地となった場所です。そのとき独立宣言書が読まれ、それがレリーフとなっています。 ソウル市内の中心部の南にある南山(남산)一帯に市民の憩いの場、南山公園があります。公園の中腹に安重根( 안중근)義士記念館があります。韓国独立の英雄として知られています。

西大門独立公園(서대문독립공원)はソウルの西の郊外に位置しています。ここには西大門刑務所というのがあって、抗日独立運動で捕らえられた政治犯などが収容されたり処刑された場所です。「西大門」は、日本政府の弾圧を象徴する地名となっています。

ハングルと私 その1 「ジョッパリ」

令和元年は我が国と大韓民国(韓国)との間の関係がぎくしゃくしています。それは政府と政府の関係であり、国民一人ひとりからの側からみれば、そんな不幸な関係とはなっていません。両国は持ちつ持たれつの関係にあるのです。今日からしばらく私と韓国、ハングルのことをエピソードから紹介することにします。

私は小さい時、母親から叱られるときに「ジョッパリ!」といわれました。母親の言うことに反抗したり従わない時に浴びせられました。父親は津軽の出身。津軽弁でも「ジョッパリ」があり、「頑固者」「意地っ張り」という意味で使われます。津軽の人の気性を表した方言です。後に韓国には「チョッパリ」という語があることを知りました。「チョッパリ」から「ジョッパリ」が生まれたという説もあります。「ジョッパリ」とは日本人の蔑称であることも知りました。母がそれを知っていて使ったかは定かではありません。

日本が韓国を併合したのが1910年(明治43年)。それが終戦まで続きます。その間、いろいろな言葉、たとえば、「チョッパリ」のような短かく、「便利な」言葉が入ってきます。「チョンガ」。これは結婚をしない、もしくは独身男性を馬鹿にするときに使われる言葉といわれます。私たちの周りには朝鮮語が沢山あることを意識したのは、なんといっても韓国の人と接し、ハングルを勉強し始めてからです。

私は隣国の韓国を随分遠い国だと思っていました。始めて訪れたのは1998年頃です。最初に韓国を訪れたとき、ソウル教育大学校の先生とお会いしました。私はハングルを全然知らないで行ったので英語で表敬の会話を交わしました。訪問の終わり頃、この方が「成田先生、私たちは日本語を知っています。先生もハングルを勉強してください」というのです。韓国人と私とが英語で会話するというのは、確かにおかしいものです。このとき、ハングルを学ぶことの大切さを痛感したものです。

イスタンブルとソフィアの旅から その21 宗教と文化相対主義

二つの都市を訪ねながら宗教の及ぼした複雑な影響を考えています。特にイスラムによる統治が色濃く表れたバルカン半島のほんの一部を訪ねただけですが、学ぶことの多い旅でした。

「イスラム教とかイスラム主義は教条的で原理主義的なもの」ととらえる見方が強いのですが、それは誤解のようです。いろいろな考え方のイスラム主義者(ムスリム)が存在します。戒律を日常生活、政治や制度にも厳格に適用しようとする人々から、イスラム教の信仰を個人の生き方に留めようとする人々もいます。イスラム圏に存在する文化的、社会的、またジェンダーに関する生活上の制限に対しては、宗教的、非宗教的な手段によって抵抗するムスリムもいます。このようにイスラム主義を習慣、制度、パタン化された思考で理解しようとすべきではないと思われます。

アメリカの人類学者、ボアズ(Franz Boas)が文化相対主義(Cultural relativism)ということを提唱します。彼は、自身の文化を相対的に把握したうえで、異文化と相手側の価値観をとらえ、その文化、社会のありのままの姿を理解しようとすることを提唱します。文化の洗練さは外部の価値観によって測ることはできない、と考えのです。このような文化相対主義に基づいて、イスラム主義の多様性という側面を理解することも大事だと思うのです。

トルコは政治から宗教色を排除している国であることは既に述べました。宗教と政治の関係は複雑で微妙です。ただ明白なことは政教分離の原則は、近代社会の特徴であるということです。たとえば、国教を廃止したフランス。国の宗教的活動及び宗教への援助を禁じ、宗教の特権や政治上の権力行使を認めない日本もそうです。アメリカは、「宗教と国家の分離」ではなく「教会と国家の分離」を掲げ、教会と公権力の癒着を禁止しています。宗教団体に政治上の権力を行使させないだけではなく、公の場から宗教色を排除することで、宗教の領域と政治の領域を分けています。

しかし、今世紀はすでに自文化中心主義(ethnocentrism) という 民族、人種の文化を基準として他の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする態度や思想が台頭しています。「Racism」という語を定着させた人類学者にMargaret Mead がいます。歴史は繰り返す、と云われます。”History repeats itself.”

イスタンブルとソフィアの旅から その20 リラ修道院 その4 色彩の競演

リラ修道院は海抜1,100mのところにあります。空を仰ぐとバルカン半島の峰で既に雪をかぶった標高2,729mとあるマリョヴィツァ山(Malyovitsa)が遠望できます。丁度、季節は紅葉の真っ最中。青い空、白い峰々、縞模様のアーチ型をした修道院の回廊や教会の柱や壁の白と黒。そしてフレスコ画。こうした素晴らしい色の競演をよそに、僧院は静かなたたずまいをみせています。

修道院に関して、前回イコンで飾られたイコノスタシスという壁のことを記しました。この壁は「聖障」と呼ばれています。聖所と至聖所を区切るのが聖障でです。聖所は礼拝堂内のことで、信者や観光客が案内されるところです。だが至聖所の中は見ることも入ることもできません。至聖所は天国をあらわすというのだそうです。リラ修道院を見学するのに拝観料はありません。だがいくばくかの献金(喜捨)をするのがマナーというものです。

修道院内にも宿坊があり、観光客は宿泊できます。一泊40〜45レフですから3,000円くらい。修道院の裏側に数件のホテルとレストランがあります。レストランは屋外テラスで暖かい日差しを受けながら食事を楽しむことができます。名物はこの地方の特産、鱒料理です。薄切りレモンが添えられ焼かれた大きな鱒がでてきます。それにワインを注文して賞味するのはなんともいえない気分になります。ワインはキリストの血を象徴するものです。

イスタンブルとソフィアの旅から その19 リラ修道院 その3 イコノスタシス

再度、リラ修道院のフレスコ画の話題を取り上げます。ソフィアにあるブルガリア正教会のアレクサンドル・ネフスキー大聖堂(Alexander Nevsky Cathedral)の内部は蝋燭がともされ、フレスコ画や天井の色がくすんでいます。しかし、リラ修道院は違います。19世紀に再建された聖母誕生教会はパウェル・イアノフ(Pavel Ioanov)によって設計されたとあります。1834年から1837年にかけて聖堂は完成し、5つの塔、3つの聖壇、2つの礼拝堂から成ります。そしてイコノスタシス(Iconostasis)という木造の壁には精緻な彫刻が施され、表面は金箔となっています。この完成には4人の彫刻師によって5年の年月を要したと記されています。そういえば、神田にあるロシア正教会ニコライ堂も多層式イコノスタシスとして知られています。

今も極彩色で輝くフレスコ画は、1864年に完成したと記されています。バンスコ(Bansko)、サモコフ(Samokov)、ラズログ(Razlog)といった町から画家が呼び寄せられたとあります。なかでも有名だったフレスコ画家はザハリ・ゾグラフ(Zahari Zograf) とディミタ・ゾグラフ(Dimitar Zograf)という兄弟です。

宿坊を中心とする建物は4階からなり300の部屋、4つの礼拝室、修道院長室、歴史博物館、図書室、厨房を擁しています。図書室には250記録文書や9,000冊の古文書が収蔵されています。今も4階は修道士の宿坊となり修行しています。

歴史博物館の秘蔵品は、ラファエル(Raphael)という修道士が彫った高さ50cmの木彫りの十字架。140もの聖書物語が彫り込まれています。十字架に彫られている人物は約1,500。一つひとつ人物の表情が異なっています。

歴史博物館には次のような英文の説明があります。
Dear Guests,
Welcome to the Ecclesiastic and Historical Museum of Rila Monastery. Founded in the 10th C. by the most worshipped Bulgarian Saint Ioan Rilski, Abbey has preserved through the ages exquisite examples of the Bulgarian and foreign ecclesiastic arts and crafts. Part of this priceless treasure is exposed in our exhibition. We sincerely hope that it will be also treasured in your hearts.

大切な用語を説明します:
 ecclesiastic 伝道的、宣教的
 monastery 修道院、僧院
 abbey 寺院、礼拝堂
 priceless かけがえのない、至宝の
 treasured 大事にする

イスタンブルとソフィアの旅から その18 リラ修道院 その2 フレスコ画

リラ修道院は訪ね甲斐のある歴史的な遺産です。その中心は、聖母誕生教会(St. Mary Nativity Church)の壁や天井に極彩色で燦然と輝くフレスコ画(fresco)といえます。

フレスコとは、「壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」である状態で砂と石灰を混ぜて作ったモルタルで壁を塗って、その上に水だけで溶いた顔料で絵を描く方法」とあります。石灰がつくる結晶のなかに顔料の一粒一粒が閉じ込められるため、色が美しく、耐久性は抜群で非常に長期間、その色を保ち続けるのだそうです。

フレスコで想い出すのが、人類最古の絵画と言われるアルタミラの洞窟壁画(Cave of Altamira)です。我が国の高松塚古墳の壁画もそうです。時代はくだり、バチカン(Vatican)にあるシスティーナ(Sistine)礼拝堂にあるミケランジェロ(Michelangelo)が描いた「天地創造」、「最後の審判」、ラファエロ(Raphael)による「アテナイの学堂」、これらもフレスコ画です。

リラ修道院に戻ります。フレスコ画のモチーフはいうまでもなく聖書物語です。聖書の36場面が描かれています。礼拝堂内に入ると無数のイコン(icon)で飾られたイコノスタシス(iconostasis)という壁が目に飛び込んできます。金箔が施されています。この壁は「聖障」と訳されていて、正教会と東方諸教会の聖堂では、聖所と至聖所を区切るのにイコンで覆われたこうした壁が必ずあります。

神田にある通称ニコライ堂は、東京復活大聖堂(Holy Resurrection Cathedral)と呼ばれます。東方正教会の流れをくみます。聖堂内のイコノスタシスには、金と白金箔がはられています。ビザンチン様式のこの建物はあたりの景色に際立っています。神田川に架かるアーチ型の【聖橋】はこの聖堂のデザインと関連があるのではないでしょうか。

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イスタンブルとソフィアの旅から その17  リラ修道院 その1

ブルガリアの首都ソフィアの南、110キロ余りのところにリラ修道院(Rila Monastery)があります。路線バスに揺られ2時間余り。途中いろいろな人が乗り降りします。運転手は煙草を吸っています。途中のリラ村からは緑の深い森をくねくねと走ると、そこに忽然として男子の修道院が現れます。UNESCOの世界遺産、リラ修道院です。

創建は10世紀に遡ります。St. Ivan of RilaとかIoan Rilskiという僧がこの深い谷間を隠遁の地として選び礼拝堂を建てます。当時は、岩壁の洞窟を使ったと記録されています。やがて各地からやって来た若い求道者が現在の位置に教会堂などを建て始めたようです。

リラ修道院は、長い間ブルガリア帝国の支配者から厚い庇護を受けて文化や霊的な教育の中心として発展します。それはオスマン帝国の支配が始まるまで続きます。14世紀には、修道院としての規模となり充実します。リラ修道院の現存する最も古い建物は、修道院正面の門と大司教の正座、そして石造りの礼拝堂と塔でです。フレリョ塔(Tower of Hrelja)と呼ばれます。

16世紀にはいると修道院は数々の攻撃や破壊を受けます。しかし、マラ・ブランコビッチ(Mara Brankovic)というセルビア王国(Serbia)の王妃やロシア正教会などの援助で元通りに再建されるのです。修道院の宿坊は1816年に造られます。1833年、大火のために修道院は焼失しますが、当時有名な建築家アレクシ・リェッツ(Alexi Rilets)の設計と裕福なブルガリア人などからの多額の浄財とによって1862年に再建されます。修道院内の複合建築物には、ブルガリアの言語や文化を代表する書物や遺品を所蔵し、収蔵所としての役割を果たしています。

UNESCOの世界遺産に登録されたのは1983年です。今もブルガリア正教会から手厚い援助を受けています。ブルガリアの最も文化的、歴史的、建築学的に重要な遺跡の一つといわれています。

イスタンブルとソフィアの旅から その16 「ヨーロッパの火薬庫」

誠に短い時間でしたがバルカン半島の一部を旅しました。ヨーロッパとアジアの接点にある半島であるがゆえに、民族紛争や覇権争い、戦争が数多く起こったところです。バルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」(European gunpowder)とも呼ばれました。遙か昔の話しですが、こうした事実は高校の北海道旭川西高校時代の世界史で学びました。バルカン半島を訪ねたときその頃を思い出しました。

バルカン半島の多くがトルコの支配下にありました。しかし、トルコの支配力低下と共に国民国家の概念がもたらされます。ギリシア正教(Greek Orthodox)やスラヴ(Slavs)民族主義の関係を利用してロシア帝国がこの地域へ勢力を伸ばそうとしたことで、ロシアとオーストリア、トルコの対立が先鋭化していきます。1914年6月、オーストリアとハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント(Franz Ferdinand)大公夫妻が銃撃されるというサラエボ(Sarajevo)事件を契機に第一次世界大戦が勃発します。

バルカン半島の地図を見れば、いかに領土や覇権を巡る争いが多いかったことは次の国々がひしめいていることでわかります。スロバキア(Slovakia)、スロベニア(Slovenia)、クロアチア(Croatia)、ボスニア(Bosnia)、セルビア(Serbia)、モンテネグロ(Montenegro)、コソボ(Kosovo)、マケドニア(Macedonia)、アルバニア(Albania)、モルドヴァMoldova)、ハンガリー(Hungary)、ルーマニア(Rumania)、ブルガリア(Bulgaria)、ギリシュ(Greece)、トルコ。皆、民族と宗教の違いが色濃く反映される地域です。民族の多様性とは一体人々を幸せにしてきたのか、と問いたくなります。バルカン半島は、これからも目を話せないかもしれないのです。特にシリア(Syria)が絡む難民問題などです。

世界史でユーゴスラビア国のチトー(Tito)という大統領のことを少し学びました。この社会主義連邦共和連邦の解体がユーゴスラビア紛争へ繋がります。そして、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立します。1992年、セルビア共和国とモンテネグロ共和国から成るユーゴスラビア連邦共和国が成立します。その間のバルカン半島での政治闘争は悲惨なものでした。

イスタンブルとソフィアの旅から その15 ブルガリアの生い立ち

ブルガリアはWikipediaによると、東ローマ帝国、ブルガリア帝国、オスマン帝国、ロシアの保護国、ブルガリア王国、ブルガリア人民共和国を経て、共産党の崩壊とともに2001年に現在の共和国となったとあります。

以上のようなブルガリアの建国への歴史は、この国に出掛ける前に学習はしておきました。今回なぜブルガリの首都ソフィア(Sofia)を訪ねたかです。一度も行ったことがなかったこと、トルコに近いこと、そして私にはヨーグルトを除いてあまり馴染みがない国だからです。

首都ソフィアは7世紀までは東ローマ帝国領であったために、多くの歴史的な遺跡が発見され、今も城塞、教会、住居、排水溝、公共風呂などの発掘調査が続いています。宗教では、ブルガリア正教会、イスラム教、ローマ・カトリックと多彩です。公用語はブルガリア語です。ブルガリア語で用いる文字は全30文字で、ロシア語で使われるキリル文字(Cyrillic)と似ています。通貨はレフ(lev)。1レフは60円くらいです。

東欧と呼ばれる地域は、戦争の渦中に巻き込まれた歴史があります。多くの民族がひしめき、争いが絶えなかったようです。ブルガリアもそうです。政治と経済、そして宗教の違いが絡むといっそう複雑になります。それでもブルガリはヨーロッパの影響を色濃く残しています。民族、服装、食文化、、、、やがて1989年に起こった一連の東欧革命の流れの中で共産党独裁が揺らぎ、ブルガリアでも民主化要求が高まります。東ヨーロッパ全体に共産党支配と抑圧からの解放の機運がひろがるのです。

1991年にはソビエト連邦が崩壊すると共に、ブルガリア共和国が2001年に成立します。そして2007年には欧州連合(EU))に加盟し、ユーロが使えるようになりました。長く続いた共産主義の統治は終わりこれから発展しようとする気概が感じられる国です。

イスタンブルとソフィアの旅から その14 ブルガリアとバルカン半島

ブルガリア(Bulgaria)はバルカン(Balkan)半島東部にあります。南はトルコとギリシャ(Greece)、西はユーゴスラビア(Yugoslavia) とマケドニア(Macedonia)、北はドナウ川(Danube)を隔ててルーマニア(Romania)、東は黒海(Black Sea)に面する人口847万人の国です。首都はソフィア(Sofia)です。この国の公用語はブルガリア語。文字はロシア語と同じキリル文字(Cyrillic)を用います。

ブルガリアのバルカン半島における歴史を少し振り返ります。オスマン帝国に対抗するバルカン同盟(Balkan League)が、ブルガリア、セルビア(Serbia)、モンテネグロ(Montenegro)、ギリシャの間で締結されます。そして1912年10月にオスマンへ宣戦布告をします。これは第一次バルカン戦争(First Balkan War)と呼ばれています。翌年1913年6月に第二次バルカン戦争(Second Balkan War)が起こります。ブルガリアが第一次バルカン戦争での取り分に不満を抱き、セルビア、ギリシャ、ルーマニアへの宣戦布告をした戦争です。しかし、ブルガリアは敗北し、ロンドン条約(Treaty of London)やコンスタンティノープル条約(Constantinople Treaty)によって国土は大きく戦勝国に割譲する結果となります。オスマン帝国もまたこの二つの戦争の結果、イスタンブル付近を除くバルカン半島の領土を失うことになります。

かつてのオスマン領はオーストリアの汎ゲルマン主義(Pan-Germanism)とロシアの汎スラヴ主義(Pan-Slavicism)の争奪戦によって浸食され、両陣営の対立によってバルカン半島は、前稿で述べましたが「ヨーロッパの火薬庫」と言われるようになります。1914年6月のセルビア人の民族統一主義者がオーストリア=ハンガリー帝国大公を殺害し、1914年7月にはオーストリアがセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦が勃発します。1939年9月に始まった第二次世界大戦で枢軸国陣営と連合国陣営のなかで、ブルガリアは当初は枢軸国側につき、枢軸国側が劣勢となると連合国側に鞍替えします。戦後は、共産主義国家・ブルガリア人民共和国となり、ソ連邦16番目の共和国となります。

1989年には、東欧改革はブルガリアにも及び、反体制派の連合体である民主勢力同盟が成立します。この同盟は下からの国民の改革意欲と不満を吸い上げ、共産党との対立姿勢を明確にします。1991年7月に大国民議会でブルガリアは議会制と大統領制を備えた共和国となります。それまでは長らくブルガリアは共産党中央委員会が統治の中心となっていました。ワルシャワ条約機構の解体に伴い、軍隊機構も改革され、憲法は信教の自由を認めます。他方でブルガリア共和国は伝統的宗教を東方教会であると規定しています。

イスタンブルとソフィアの旅から その13 ブルガリアへ

ブルガリア(Bulgaria)と首都ソフィア(Sofia)の旅の見聞を振り返ってみることにします。トルコの西隣にあるのがブルガリアです。「ヨーロッパの火薬庫」(European gunpowder)と呼ばれるバルカン(Balcan)半島にあり、東はトルコと黒海に面し、西にセルビア(Serbia)、南にギリシャ(Greece)、北にルーマニア(Romania)、マケドニア(Macedonia)と隣接しています。「ヨーロッパの火薬庫」については後述することにします。

トルコへの旅を計画したときは、是非とも、もう一カ国を訪ねたいと考えておりました。選んだのがブルガリです。イスタンブルから飛行機で一時間の距離です。首都は甘い響きのソフィア。ソフィアはギリシア語で叡智とか知性という意味です。哲学は英語でPhilosophy, Philosophiaですね。Philoとは愛という意味です。SophiaとかSophieなどとして使われる女性名詞です。イタリアの大女優ソフィア・ローレン(Sophia Loren)をご存知ですね。私ごとですが孫娘もSophia。この名前や都市のほか組織にも使われます。上智大学(Sophia University)がそうです。

ソフィアはヨーロッパ最古の都市の一つであり、その名はかつて東ヨーロッパ周辺に住んでいた民族トラキア人(Thracia)の集落、セルディカ(Serdica)と呼ばれていたとあります。有史以前のトラキア人集落跡が現在のソフィアの中心で見つかります。その歴史は7千年以上に及ぶとされます。紀元前29年にセルディカは古代ローマによって征服されます。

セルディカは拡大し、やぐら、防壁、公衆浴場、役所、一般の教会堂より上位にある教会堂であるバシリカ(basilica)が造られます。特に。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(Justinian I)の時代には繁栄を謳歌したうようです。この時のセルディカは巨大な城壁に囲まれており、その一部は遺跡としてソフィアのダウンタウンで見られます。そういえば、ダウンタウンの駅名もSerdicaで名残を留めています。セルディカの発掘と保存作業は現在も続いています。

イスタンブルとソフィアの旅から その12 トルコと日本

トルコ人は日本人に対して親しみを持ち、両国間で友好関係が築かれているといわれます。しかし、それは官僚や一部の政治家からみたステレオタイプな観察のようです。そのことが今回の話題です。

今や、トルコの経済はヨーロッパや中東諸国、そして中国に依存しつつあります。貿易で栄えたトルコは、昔から経済活動に非常に敏感で旺盛な国です。欧米や中国、韓国、日本に対して多くの投資を期待し、企業の参入を競わせているのがトルコです。日本で喧伝されるほど一般国民の日本に対する関心は必ずしも高いとはいえないようです。

1890年の和歌山県串本町沖でのエルトゥールル号(Ertugrul)遭難事件、1905年ロシアとの日本海海戦での勝利などは、多くのトルコ人の記憶から忘れられています。10月末のボスポラス海峡横断地下鉄開業にあたり、安倍首相がトルコを訪問しましたが、トルコへの企業の進出はヨーロッパや中国に比べて遅れているようです。経済連携協定(Economic Partnership Agreement:EPA)に向けた交渉は今も続いています。

経産省の資料によれば、2012年度のトルコの総貿易額は輸入が輸出を大幅に上回っています。輸出先ではEU(47%),イラク(6.2%),中国(9.0%)、ロシア(4.4%)、日本(1.5%)でこれは,第12位にあたります。輸入ではEU(37.9%),ロシア(9.9%),中国(9.0%)、日本(1.8%)となっており、輸入額の順位では第10位という状態です。いずれも中国や韓国には及びません。2016年の名目GDPは約8,600億US$であり、2020年には1兆US$を超えると予測されています。

元々親日的といわれたトルコではありますが、このような貿易高の統計や実体経済からすれば、まだまだ両国の関係は深いとはいえないのではないでしょうか。

イスタンブルとソフィアの旅から その11 トルコとEU

トルコは地理的、経済的に潜在性の高い国の1つといわれ、日本の企業にとっても耳目が集まる重要な国となっています。その例は、トルコの人口の急激な増加があります。若年層が多く消費も旺盛なのが特徴なのです。イスタンブルには大きなショッピング・モールがいくつもあり賑わっています。

しかし、トルコは輸入超過国であり、投資家がリスクを回避しようとして資本を引き揚げるという懸念も取り沙汰されています。事実、通貨であるリラと株が売られ、他の新興国ど同様に資本が国外に流失したこともあります。さらに市民の生活や雇用、住宅などの不安が広まり政権に対する抗議デモも続き、2020年のオリンピックの招致に失敗したのも事実です。

トルコはそうした国内の経済の不安定な状態から脱却することに腐心しながら、欧州連合(EU)への加盟を以前から模索しています。ですがEUは経済情勢のみならす、クルド人への人権抑圧などを理由に、トルコの加盟には慎重な態度をとっています。トルコにとっては、ヨーロッパ、アジア、中東への地政学上の有利さをいかして、貿易の振興を図るためには、米ドルに次いで信用のある第2の基軸通貨とされるユーロを導入するのが必要とされています。そのためにもEU加盟は悲願なのです。如何せんトルコリラは信用度が低いままです。2018年にリラがおよそ30%も下落しインフレ率と金利が急上昇、内需が急激に縮小し、成長が著しく鈍化しました。

イスタンブルとソフィアの旅から その10 歴史の栄華と衰退 その3 イスラム教の多様性

イスタンブルは昔から交易で栄えた都市です。街に活気があるのは、グランドバザールを始め、街頭でも賑やかに商取引が繰り広げられていることからも伺えます。

ブリタニカによりますとイスラムの教えには、公正の実現というのがあります。その代表が商取引です。不正な取引や法外な儲けなどは戒められています。儲けたものは、弱者に施すという精神も大事にされます。五行にある喜捨の考えです。つまり富める者は喜んで捧げ、助けるということでしょう。欲望を抑制することが大事なのです。

一夫多妻制(polygamy)もこの救済という精神の延長であるという説があります。今もイスラムの世界では男性は4人まで妻を娶ることができるとあります。どの妻に対しても公平に愛情を注ぐことが定められているようです。建前上は、母子家庭の救済が一夫多妻制の考えにあるという主張もあるとききます。ですが現在は、イスラムの社会では一夫一妻がほとんどとなっています。

品行を保ち、堕落を防ぐために、自由を束縛する教えもあります。女性に対して家族や女性以外の者に顔や髪を隠すことを強いるのもそうです。飲酒は理性を失わせるという理由で、酒は戒律上は禁止されています。しかし、レストランやホテル、自宅では飲酒は自由です。タバコを吸うムスリムも多くいます。

女性の服装も多様になっています。男性の視線を遠ざけるために、体は包み隠すべしという考えもあります。外出の時全身を覆う黒い服装をしたり、スカーフをする女性も多いです。他方、若い女性にはジーンズや半袖姿も見られるのがイスタンブルです。

日本や欧米には、今も一部の原理主義派の活動から、イスラム教が厳しい戒律を有し、教条的な側面が強調される傾向があります。これは偏った見方のような気がします。イスラムの世界に存在する文化的、社会的、性的な抑圧に対して、宗教的、非宗教的な手段によって抵抗するリベラルなイスラム主義者が多数存在することも忘れてはならないと思うのです。イスラムの教えの縛りは社会の変化によって緩和されているのでしょう。

イスタンブルとソフィアの旅から その9 歴史の栄華と衰退 その2 法学者とムスリム

本当に短いイスタンブルの滞在でした。にも関わらずトルコの宗教について感想を記すのは誠に口はばったいのですが、敢えてそれに挑戦してみます。トルコという国は宗教色が強く、それも多様な側面を示すというのが印象です。超越的な存在に対する態度、すなわち信仰の表れが随所に見られることです。礼拝や巡礼が盛んなのです。早朝から夕方まで5回の礼拝への呼び掛けアザーン(Adhan)がミナレット(Minaret)と呼ばれる塔から響き渡ります。モスクや寺院は町にも村のどこにもあります。そしていつでも開放されていて、ムスリム(Mulim)と呼ばれる信徒は両膝をついて拝礼する姿が見られます。礼拝前には清浄を重んじ、礼拝堂入り口付近には顔や足の洗い場があります。

モスクに入ると法学者とムスリムが礼拝堂で丸くなって対話しています。イスラムにはキリスト教会と違って聖職者はいません。いろいろな相談事を打ち明けているのでしょうか。ムスリム同士の相互扶助はイスラム教の大事な実践とされているとききます。ムスリムには五行を日常生活を通して実践する教えがあります。五行とは、信仰、礼拝、喜捨、断食、そして巡礼です。

もともとイスラム社会は正教一元論に立っています。それ故、イスラムには政教分離は存在しないはずです。しかし、トルコは憲法でイスラム教を国教とはしていません。オスマン帝国のサルタンは西欧化主義によって国を繁栄させようとしてきました。その代表はアタテュルクです。彼の影響は国の隅々まで絶大だといわれます。

興味あることは、トルコはイスラム教徒が95%といわれますが、イスラム法というものを一切使っていません。全部、ヨーロッパ法を使っています。完全に政教を分離したのです。その意味でトルコは「世俗国家」と呼ぶことできそうです。他方イランやサウジアラビアは正教一元論の国です。トルコでは政治的なイスラム主義、あるいはイスラム原理主義は極めて少数派のようです。

トルコにおけるエスノセントリズム(ethnocentrism)という自文化中心主義のことですが、他の宗教や文化を批判したり否定する態度はどうも少ないようです。寛容の教えがイスラム教にあるからだろうと察します。イスタンブルを歩くとイスラム世界というのは、私たちが抱くような峻厳な戒律の教えの国というイメージとはどうも違います。

イスタンブルとソフィアの旅から その8 歴史の栄華と衰退 その1 宗教

どの国にも栄枯盛衰の歴史があります。トルコも幾多の変遷を経た歴史があります。それが今回のテーマです。歴史は民族と宗教が絡み微妙で複雑でありますが、敢えて取り上げなければ旅は終わらないという心境です。どうぞお付き合いください。

建国の柱には宗教や為政者があると思われます。民族をまとめ、国をある方向へ導くために支柱となるのが宗教とかカリスマ的な存在です。超越的なものに対する人々の態度、すなわち信仰がそうです。宗教には必ず教義や原理があります。峻厳な戒律があれば、寛容で緩やかな縛りのものもあります。ですが他の宗教には妥協しないのが宗教たる所以でもあります。共通な教えがあったとしても、それは末梢的なことです。普遍的なこと、譲ることのないものが人々に受け入れられかどうかによって、世界宗教となるか民族宗教となるかというです。

宗教を円で表してみましょう。円の状態が全く離れている、接点がある、重なる部分があるというが考えられます。原理主義や教条的な宗教は、他とは全くの接点がないと考えられます。教義や戒律に勝手な解釈を許さず、教えの一言一句に妥協しないことが特徴です。相互理解とか寛容の精神などという妥協は許さないのです。

これが徹底すると征服とか支配という現象が起こります。支配する者と抑圧される者の緊張です。中世カトリック教会の諸国が、イスラム教諸国から聖地エルサレムを奪還することを目指して派遣した遠征軍、十字軍(Crusader)はその例です。異なる民族から成る国には、多数者と少数者の緊張が絶えず起こりがちです。この緊張が昂じると民族主義を標榜した独立運動が起こりがちです。国が強力な軍事力を持つとき運動は鎮圧されますが、一旦国の経済が疲弊し支配力が弱まると、政教のたががはずれ内部から瓦解していきます。

今もトルコには、ロシア正教(Russian Orthdox Church)、アルメニア使徒教(Armenian Apostolic Church)、ユダヤ教(Judaism)、カトリック、プロテスタントなども存在します。オスマン帝国末期からトルコ共和国成立に至る経緯で、こうした少数民族は、抑圧や排除の歴史を経て信仰を守っています。建国の父といわれたアタテュルク(Mustafa Kemal Ataturk)が、憲法からイスラムを国教と定める条文を外したことも、宗教が共存している大きな理由です。トルコの歴史は宗教の歴史ともいえそうです。