クリスマス・アドベント その2 樅の木

アドベントリース(Advent wreath)には樅の木の枝が使われる。しなやかなので丸いリースを作りやすい。樅の木は、「Christmas Tree」とも呼ばれる。クリスマスのデコレーションに使う木である。有名なのは、ニューヨーク市のロックフェラーセンター(Rockefeller Center)前に立てられものだ。毎年その点火がニュースとなる。今年は本日12月3日に点火式が開かれるという。このセンター前の広場ではさまざまな催し物が演じれる。

樅の木に戻る。この常緑樹は強い生命力の象徴とされる。また「知恵の樹」とも呼ばれる。沢山の種類の飾り物がとりつけられる。子供たちの楽しみでもある。もともとはリンゴとかナッツなどの食べ物が枝にくくられたそうだ。そしてろうそくとなり今は豆電球で飾られる。ベツレヘムの星(Bethlehem)やガブリエルの天使(Gabriel)の飾りも目立つ。

樅の木がクリスマスの木として使われるようになったのは15世紀頃といわれる。ドイツ、Selestatにある St. George’s Churchがその起源とか。ブリタニカ百科事典(Encyclopedia Britannica)によると, 樅の木は常緑樹(evergreen trees)として、エジプト人や中国人、ヘブル人などが永遠の命を象徴する木として崇めていた。こうした信仰はヨーロッパの非キリスト教徒(pagan)らにも広まり、やがてスカンジナビアや西ヨーロッパに広まり、家々や納屋に立てられた樅の木は魔除けとしても、また鳥の止まり木としても飾られるようになったという。

樅の木の代わりに”Paradise Tree”という常緑樹もクリスマスでは飾られたといわれる。中世のミステリ劇に登場する。それによると12月24日はアダムとイブ(Adam & Eva)と命名された日として祝われる。そこに飾られる木には禁断の実とされたリンゴが供えられた。さらに、種なしの薄焼きパンーワッフル(wafer)も付けられた。ワッフルには聖餐(Eucharist)とか贖罪、救済(Redemption)の意味があった。

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クリスマス・アドベント その1 クリスマスリース

この季節になると、ところどころの玄関にリース(wreath)とかクランツ(cranz)と呼ばれる飾り物をつけているのを見かける。こうした家はクリスチャンの家族なのだろうと察する。

このリースは常緑樹である樅の木の枝を丸めて作る。祭壇に置くときは、柊の葉があしらわれてそこにろうそくを立てるのである。柊は季節にふさわしい漢字であり、緑々しい木である。柊が玄関の側に植えられるのは邪鬼を払うという言い伝えがある。教会で飾られるリースは特別な意味がある。リースにある先の尖った柊の葉であるが、柊は十字架上で処刑されたキリストの冠の棘を表す。ついでだが柊は英語で”holly tree”。

リースは、クリスマス・リース(Christmas wreath)とも呼ばれ11月最終日曜日からキリスト教会で飾られる。燭台となるリースの上には4本のろうそくが立てられる。この日からキリストの誕生を待ち望む期間、待降節といわれるアドベント(Advent)が始まる。アドベントはキリストの誕生までの4週間を指す。

アドベント期間の礼拝に出席すると目に飛び込んでくるのが色。例えば、ろうそくの色は悔い改めや望みを表す紫とか青である。聖職者の祭服や祭壇布、礼拝堂のタペストリーなどにも用いられる。典礼色に倣い、第三週のみピンクやローズカラーのろうそくを用いる場合が多い。ルーテル教会やメソジスト教会、聖公会などはそうである。

アドベントの礼拝や祈祷での賛美歌は、救世主メシア(Messiah)の到来を待ち望むものが歌われる。

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留学の奨め その20 マサチューセッツ州とスミス大学(Smith College) 最終回

マサチューセッツ州は、公立の小学校が全米で最初に設立されたところである。The Mather Schoolという学校で、創立は1639年となっている。 全寮制であるThe Governor’s Academyという高校は1763年に創立された。さらに全米で最も古い大学にご存知ハーヴァード(Harvard University)がある。1636年の創立である。アメリカの独立以前である。

アムハースト大学のそばの街、ノーザンプトン(Northampton)にスミス大学(Smith College)がある。全米屈指の名門私立女子大学という評判である。1960年代まで、アイビー・リーグの各大学はコーネル大学(Cornell University)を除いてすべて男子校であった。こうした男女別学の環境の中で七名門女子大学群(Seven Sisters)があって、スミス大学はその群に所属する大学の一校を構成している。

スミス大学の教授と学生の比率は1対9。全米で女子大学として最初の工学部を設置したことでも知られている。スミス大学の評価ランキングでは全米で19番目。年間の授業料と生活費が44,724ドルであるから460万円くらいとなる。

全米で最も古い女子大学としてマウントホリヨーク(Mount Holyoke College)がある。こちらの創立は1837年となっている。こうした大学の設立はヨーロッパから移民してきた人々が高等教育の必要性を知っていたからである。

なぜ1800年代に女子大学がいくつもマサチューセッツ州内に創られたのかである。その理由は、当時から男性社会にあって女性の自立のためには学問が武器となるという考えが根強かったといわれる。マサチューセッツ州の初代知事、ジョン・ハンコック(John Hancock)は女性の地位向上を支持したことでも知られている。

ジョン・ハンコックはフリーメイソン(Freemason)の会員であった。フリーメイソンとは「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」の5つを基本理念とする友愛組織で、ゆるやかな政治的な結社であった。ハンコックは7月4日に独立宣言に署名した最初の人としても知られている。リベラルアーツは人間形成に欠かせない一般的な知識と知的な技能を備える学問である。カレッジはフリーメイソンの理念を教える場所でもある。

granary-burying-ground  Granary Burying Ground, Boston2004-smith-college-gatejpg-1b82459dc77a423f Smith College

留学の奨め その19 マサチューセッツ州とウィリアムズ大学(Williams College)

今回も、マサチューセッツ州(Commonwealth of Massachusetts)には有名な私立のリベラルアーツの大学がたくさんあることの続きである。マサチューセッツは教育に力をいれている州であることを伝えたい。このブログが縁で留学するのもいい。教育の質は100%保証する。

マサチューセッツ州の西部、ニューヨーク州近くにウィリアムズ大学(Williams College)がある。この大学は、マサチューセッツ州ウィリアムスタウン(Willamstown)に本部を置く私立大学で、創立は1793年。2014年のUS ニュース・アンド・ワールド・レポート”(US News and World Report)ではリベラルアーツの大学として第1位の評価を受けている。ちなみにヴァージニア州にあるCollege of William & Maryとは別の大学である。こちらの創立はもっと古く1693年となっている。

2012年にウィリアムズ大学に入学した人は志願者の16.7%であり、アイビー・リーグ(Ivy League)レベルの教育を少人数で提供しているといわれる。もともと男子だけの大学であったが、1970年に共学となった。多くの大学評価では入学の最も難しい大学のひとつとされている。学生数はたったの2,077名、授業料と生活費は年間 $48,310となっている。

マサチューセッツ州にはその他に、上智大学と提携する1843年に創立されたイエズス会のホーリークロス大学(College of Holy Cross )、1863創立のマサチューセッツ大学(University of Massachusettes)、ヒラリー・クリントンが卒業した1875年創立のウェルズリー大学(Wellesley College) 、1887年創立のクラーク大学(Clark University)、1888年創立のマウントホリヨーク大学(Mount Holyoke College), などどれも長い伝統を有している。しかも、私立大学としての特色を出している。マサチューセッツ州ほど有名な私立のリベラルアーツの大学があるのは他にはない。

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留学の奨め その18 マサチューセッツ州アムハースト大学(Amherst College)

米国の大学の学部に留学するときは、リベラルアーツ大学(College of Liberal Arts)を選ぶことを勧める。なぜなら、少人数のきめこまかい指導を受けることができる。基礎学力もつく。綜合大学では孤立感を深める心配がある。望むならプリメッド(pre-medical)という課程の科目を履修し、その後医学部への進学テストであるMedical College Admission Test (MCAT)を受けることもできる。大学院へ行きたいときは総合大学を選べばよい。

今回はリベラルアーツ大学の話題である。マサチューセッツ州(Massachusetts)にはハーヴァード大学(Harvard University)やマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT)など名だたる総合大学に混じって、多くの私立単科大学がある。どれも1700年から1800年代に創立された由緒ある大学である。人々や基督教会は、当時人材の育成が課題で高等教育の大切さを意識していたことがわかる。そこでリベラルアーツ大学がどんな伝統や特徴があるかをマサチューセッツ州にある大学を例に紹介していくことにする。

札幌農学校の初代教頭で「少年よ大志を抱け」の言葉で知られるウイリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)が教鞭をとっていたのがアムハースト大学(Amherst College)である。長男宅から車で1時間のところのアムハースト(Amherst)という田舎町にキャンパスがある。創立は1821年。同志社大学創立者の新島襄や思想家の内村鑑三が学んだところでもある。クラークはやがて、同じくアムハーストにあるマサチューセッツ大学( University of Massachusetts)の第三代学長となる。

アムハースト大学は、「US ニュース・アンド・ワールド・レポート”(US News and World Report)」によれば、アメリカのリベラルアーツ大学としてこれまで10度も第1位の評価を受けている。2014年は、同じくマサチューセッツ州にあるウィリアムズ大学(William College)に続いて第2位となっている。大学の評価は、教官への満足度、教官一人当たりの学生数、一クラスの学生数、卒業率、基金額(endowment)など様々な観点からなされる。2012年度の志願者倍率は12倍となっている。それだけではない。年間の授業料と生活費の合算は$48,526というように極めて高い。クラスの89%は30人以下、クラスの平均は16人、教官と学生の比率は1: 8である。留学生は54カ国からきている。

もう一つ、アムハースト大学がなぜ注目されるかである。私と家族が学んだウィスコンシン大学のマディソン校は、創立が1848年。研究中心の総合大学である。2009年に大学理事会によって多くの候補からマディソン校の学長に選ばれたのがキャロライン・マーティン(Dr. Carolyn “Biddy” Martin)である。しかし彼女は、2011年にアムハースト大学からの招聘を受けて、ウィスコンシン大学を去った。学生数43,000人の総合大学学長を辞して、学生数1,785人リベラルアーツの単科大学へ移るというのは実に珍しいことで話題となった。アムハースト大学がウィスコンシン大学より創立が25年以上も古く、伝統のある魅力的な大学であるかを物語る。

Amherst+College   Amherst CollegeChaplin Hall, Amherst College HDR - Amherst, Massachusetts, USA

留学の奨め その17 ThanksgivingとSarah Hale

筆者の長男の嫁ケイト(Kate)は小学校の教師をしながら童謡を書いている。まだ作品は出版されたことがないようだが、、。かつて彼女から米国の女性作家であるサラ・ヘイル(Sarah J. Hale)のことを聞いたことがある。ケイトはヘイルを私淑しているようである。ヘイルは米国のThanksgivingの歴史では忘れられない女性である。今回はThanksgivingのしめくくりとしてサラ・ヘイルに触れる。

ヘイルは、1800年代に沢山の作品を書いた作家である。その代表作は”Mary Had a Little Lamb”という童謡(nursery rhyme)である。童謡はマザー・グース(Mother Goose)とも呼ばれ、英米を中心に親しまれている童話の総称である。

ヘイルが最初に発表した童話は”A New England Tale”。この作品の主題は奴隷制度を扱ったもので、この作品により最初の女性作家の一人と呼ばれるようになった。”A New England Tale”はニューイングランド(New England)の美徳や伝統を信奉し、国の精神的な富として大事にすることを主張した。しかも、当時いた黒人奴隷をリベリア(Liberia)の地に戻すということも主張し、この作品を一躍有名にしたとされる。

この本の二版の序文の中でヘイルは、奴隷主というのは奴隷の兄弟であり、使える者でもあること、そして博愛の精神が正しいことを求め悪を憎むということ、それを忘れていると警告したのである。奴隷制度がいかに非人道的なものであるか、人の道徳的な成長を阻害していることも書いたのである。

1828年、ある聖職者からの招きでヘイルはボストンに移り、ある雑誌の編集長になる。編集長として、彼女は女性が高等教育の機会に浴する必要性を主張し、教育によって女性一人ひとりが知的で道徳的に成長することを説いた。

前置きが相当長くなったが、ヘイルがThanksgivingにいかに関わったかである。彼女は米国で最初にThanksgivingを国民的祝日として主張した女性である。もともとThanksgivingはニューイングランドでは祝われていた。各州でも10月とか1月に設定されてはいた。彼女は歴代の大統領にThanksgivingの祝日とするように要望する手紙を出していた。そしてようやく1863年にアブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)の支持により国の祝日とする法律が制定されたのである。

Thanksgivingは、南北戦争で疲弊し分断された国を統合する象徴と考えられた。それまでは、国民の祝日だったのはジョージ・ワシントン誕生日と独立記念日だけであった。ヘイルはワシントンD.C.の郊外にあるマウントバーノン(Mount Vernon)にあるワシントン邸と農場を記念館にすることやボストンにあるバンカーヒル記念塔(Bunker Hill Monument)の完成のために多額の寄付金集めに奔走した。作家として、また運動家としての彼女の活躍は米国の歴史に記されている。
HD_haleSJ4c  Sarah J. Hale
abraham_lincoln_seated_feb_9_1864  Abraham Lincoln

留学の奨め その16 Thanksgivingの晩餐

留学生がThanksgivingを楽しく過ごすには普段から心掛けておくことがある。例えば大学の寮などで生活しているときは、米国人の学生らと親密になっておくことである。彼らはThanksgivingの週末には親元に帰って過ごす。友達づきあいをしておくと、必ず「一緒に行かないか、、」と誘ってくれる。

もし普通のアパートを借りていても隣近所の人々と仲良くしておくことだ。一緒にパーティをしたりBBQなどの会合には顔を出して会話することを心掛けておくことが大事だ。またキリスト教会などの礼拝に出席していると、必ず声をかけてくれる。自分からも飛び込むことである。求めると与えてくれるのである。毎日、独りぼっちで生活するのはいけない。

Thanksgivingは、人々が最も旅行する時期である。道路も空港も大混雑する。だが市営バスは本数を減らして運行する。学校、官庁、会社、その他の機関も4日間の休みとなる。多くの町や村ではパレードが行われる。子供も大人にも楽しみな行事である。家族や親戚、友人が集まって宴の晩餐を囲む。

料理の中心は七面鳥(turkey)である。そのほか、グランベリーソース(cranberry sauce)、パンプキンパイ(pumpkin pie)、ジャガイモ(potatoes)、スタッフィング(stuffing)、グレービー(gravy)が卓上に並ぶ。マッシュポテトにグレイビーをかけたものはアメリカ料理の定番のようだ。鳥肉料理にも欠かせないソースである。

宴の前には、必ず家の主が感謝の祈りを捧げる。招かれた者は勝手に皿をとって料理に手を伸ばしてはいけない。テレビでは寒さのさなか、フットボールが中継されている。Thanksgivingが終わるとクリスマスの待降節ーアドベント(Advent)が始まる。

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留学の奨め その15 感謝祭と植民地

Thanksgivingの頃の気候は誠に厳しい。木々の葉はすっかり散り、雪が冷たい風に吹かれて舞う。それだけに家の中の人々の高揚した雰囲気は格別なものがある。祝いの飾り付けも綺麗だ。家の主人はエプロンを着て張り切っている。

マディソンにいた頃、ミルウォーキー(Milwaukee)に住むかつての宣教師ご一家の晩餐に招かれたことがある。インターステート90(Interstate 90: I-90)を車で飛ばした。I-90は、シアトル(Seattle)からボストン(Boston)に至る4,990キロの全米で最も長い州間高速道路である。途中、シカゴ(Chicago)やクリーブランド(Cleveland)、シラキュース(Syracuse)などを通過する。道路際の至るところに「鹿に注意」の看板がでている。

午前中は教会でThanksgivingの礼拝が執り行われる。説教の題となるキーワードは平和、愛、捧げ、喜び、感謝、恵みなどである。例えば詩篇106章の1節では、
「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」
“Give thanks to the Lord, for He is good. His love endures forever.” と読み上げられる。

ボストンの南東にある半島はケープコッド(Cape Cod)と呼ばれる。ヨーロッパからの漁民が鱈を求めてきたところのようである。そこに移民しようとした人々は、砂地で水がないことからケープコッドをあきらめプリマスのあたりに植民地:コロニーをつくったとある。移民の中には干ばつや飢饉により多数の餓死者がでるほど、苦しい生活を強いられたようである。それだけに豊穣な収穫に対する感謝がThanksgivingにつながったといわれる。
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友へ

今朝、かけがえのない友を亡くした。昭和20年8月6日、広島で被爆した親友であった。そのときは9歳。それから69年間後遺症と闘ってきた。重篤な脊椎前弯症のため、家でも外出のときも毎日酸素吸入器をつけていた。5年前に同じく被爆した御母上を天国に送った。

彼の自宅には毎月一度訪ねるのを楽しみにしてきた。いろいろと語り合ってきた。その都度、被爆の体験や「ノーモアヒバク運動」などを語ってくれた。沢山の写真も見せてくれた。その中に自宅が鮮明に写る原爆投下前と投下後の写真をひろげてくれた。広島平和記念資料館にあったものを特別に複写してもらったのだという。米軍は詳細な地理を把握し、効果的に爆撃するために都市の航空写真を撮っていたのだ。誠におぞましいことである。制空権を失った日本は蹂りんされた。

写真の他に、被災者証明書の原本も見せてくれた。発行は広島市で昭和20年8月10日と刻印されてある。後年、それを資料館に持ち込むとそのコピーを欲しいというので差し上げたそうだ。それが今も資料館に展示されているという。

友人は原爆の絵を描き続けた丸木俊氏とも交友を持ち続けていた。一緒に埼玉県東松山市にある丸木美術館に連れていってもらったことがある。「原爆の図」が収められている。その前に立つと生と死が圧倒的に迫り、くらくらしそうになった。

手元に「ヒロシマ・ノート」がある。岩波新書のなかでも傑作といえる一冊である。1965年に出版された。被爆者や被爆者の治療にあたった医療関係者を取材して刊行されたノンフィクションである。戦後の平和や民主主義とはなにかを問い直している。

だが筆者には、大江健三郎氏以上に畏敬の念を抱いてきた原爆を生きる証し人であった。今、永遠の安らぎがようやく彼に与えられたと納得している。

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留学の奨め その14 感謝祭(Thanksgiving)の由来

苦しい留学生活にもつかの間の寛げる時がくる。9月に始まった学期に一息つける時である。勉強に相当疲れた頃にやってくるのが留学の奨め その14 感謝祭(Thanksgiving)の由来(感謝祭)の休暇である。11月の最終木曜日。今年は11月27日である。翌日はBlack Friday。大抵の州ではこの週末は4連休となる。

1598年に今のテキサス州(Texas) のエルパソ(El Paso)でThanksgivingが祝われたといわれる。1619年には、ヴァージニア植民地(Virginia Colony)でThanksgivingが執り行われたという記録がある。1621年にはマサチューセッツ(Masachusettes)のプリマス(Plymouth)という港町で収穫に感謝する祝いが開かれた。これが現在のThanksgivingの原型だといわれる。

しかし歴史家には別の主張をする者もいる。1623年の植民地に干ばつが長く続いた。その後に雨が降り、幸い作物を収穫できたことを人々は感謝したという。そして祝いの宴(feast)ではなく感謝の礼拝(worship service)が行われたのが原型だというのである。これもなるほどと頷ける。

11月最終木曜日が国民の祝日となったのは1789年である。そのときの大統領は初代のジョージ・ワシントン(George Washington)。すべての州がThanksgivingを祝日としたのは1863年である。

しかし、国民誰もがThanksgivingを祝うわけではない。1970年以降、一部の先住民族であるネイティブアメリカン(Native American)とその支援者は、この日を「全米哀悼の日」(National Day of Mouring)として抗議の日としている。プリマスにあるプリマスロック(Plymouth Rock)の前で記念式典を開いている。また、この日は「アメリカインディアン遺産記念日(American Indian Heritage Day)」ともされている。伝統文化や言語の遺産を再認識する日としている。プリマスロックの前にある記念碑には「1620年に清教徒団が上陸した場所」と記されている。

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留学の奨め その13 リベラルアーツ教育とサービス・ラーニング

あまり聞き慣れない用語であるが、「サービス・ラーニング(Service-Learning)」の概念が注目されるようになったのは、1970年代末以降のアメリカである。大学教育が専門性や知識の習得に偏重しているという批判がひろまり、そのような教育では公正な市民社会を築く上では不十分だと指摘されてきた。知識偏重の教育はいつどこでも叩かれる。受験勉強がそうだ。大学は幸いにして学んだことを社会で活かすことができる機会を備えることができる。それが各種の奉仕活動という体験である。

1982年に設立された非営利のサービス機関にInternational Partnership for Service-Learning : IPSLという団体がある。この組織は以来、主として米国の学部生や院生らを発展途上国にて各種の社会奉仕活動に従事させ、住民との交流を通して開発や環境などグローバルな課題や問題意識を学ぶ運動を推進している。 現在は各国の学生も受け入れている。IPSLのサイト(http://www.ipsl.org/)からService-Learningのなんたるかを簡単に紹介することとする。

サービス・ラーニングは「教室で得た知識が果たして社会生活の実践役立つのかどうかを確認する過程」とでもいえよう。インターンシップにも似ているが活字から学んだ概念や理論が実際の現場で果たして役立つのか、そうでなければ現場から学ぶこととはなになのか、、理論がなぜ適用できないのか、などを思考することではないか。それによって自分の知識の理解を再考し深化させながら、再理論化の作業をする。

次に、サービス・ラーニングはボランティア活動とは異なる。いろいろと周りが設定してくれた環境で活動する。期待されていることをやればよい。だが、大事なことは学生の主体性とか自発性を要求するのがサービス・ラーニングとされる。既存のメニュからだけでなく、学生自らが自分の問題意識にそって、コミュニティに分け入り社会に貢献しようとする気概が求められる。

さらにサービス・ラーニングは、経験の振り返り(reflection)のプロセスを強調する。そうした振り返りは、個人の日誌づけの励行とかブログなどで文字化してもよいし、グループでの討論によって経験を分かち合うことからも生まれる。振り返りは経験知をとおして既存の知識の修正にもつながり、やがて個人の成長に大きく貢献する。

リベラルアーツ教育の神髄とはこうした活字化と実践化の統合にあるように思える。そこからグローバルな視野を広げたり持続的な平和活動への関心が高まることにつながるようにも思える。

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留学の奨め その12 リベラルアーツ教育とボランティア活動の限界

最近の大学におけるリベラルアーツ大学のカリキュラムをみていると、バイリンガルな人材の養成、留学体験による他文化理解、そしてグローバルな資質の養成などなっている。そのために、他文化理解科目の設置や英語による授業、留学生との交流、留学の推進などを掲げている。一体そんな環境で国際的に活躍できる人材が育つのか? 全く「アカン」といいたい。

筆者は、留学とは学位を獲得することと定義している。英語研修とかホームステイによる異文化体験ということではない。ところが多くの大学が学生を仲介するのは、一週間とか二週間の英語研修である。そのため保護者も我が子のために数十万円の出費を強いられる。学生といえば、全くの海外旅行気分である。事前研修というのがある。小遣いはいくら位とか、パスポートの期限は大丈夫か、英語会話の練習とか、ホームステイの心構えとか、、、アホらしくなる。

最近は語学研修からボランティア体験が脚光を浴びているようだ。大学側もその準備のために相当な努力を強いられている。まずは、ボランティアを受け入れてくれるパートナー機関を探すことから始まる。機関は大学であったり現地のNPO法人であったり、政府関連機関であったりする。ボランティア体験は、主として現地での活動の観察や交流、各種の体験、話し合いなどとなる。

しかし、ボランティア体験だけではグローバルな人材を育てることには限界があることが、ようやく認識されてきた。それはボランティア活動の計画がすべて機関間で周到にお膳立てされ、学生の側の声やニーズが届いていなかったことである。受け身の姿勢からは学ぶことの果実は少ない。そこから「サービス・ラーニング(Service Learning)」という新しい発想が生まれてきた。

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留学の奨め その11 リベラルアーツ教育と国際系学部の新設

リベラルアーツを標榜する大学が日本でも増えているようだ。特に「国際リベラルアーツ」を掲げる学部の新設が相次いでいる。こうした学部のカリキュラムを国際系リベラルアーツと呼ぶのだそうだ。だがリベラルアーツの雄は国際基督教大学(ICU)。1949年に創立され、「国際的社会人としての教養をもって、神と人とに奉仕する有為の人材を養成し、恒久平和の確立に資することを目的とする」とある。戦後間もなくのことである。

かつて筆者も北海道大学の教養部で1年半を過ごした。東京大学にも教養学部があった。リベラルアーツ教育が重視されていた。だが、教養部の勉強は高校の延長のようなところもあった。目新しいことといえば、ドイツ語とフランス語のいづれかが必須であったことだ。それから哲学入門とか人生論ノートなどの本がたっぷり読めた。今思えば、筆者も海外での学びに至ったのは、この教養部時代からなんらかの影響を受けたといえる。

国際リベラルアーツのカリキュラムであるが、原則英語での授業、国際教養科目の充実などを強調している。また外国人留学生との交流とか留学を義務付けるというのもある。これといって珍しいことではない。国際系学部は私立だけでない。長崎大学が新設を検討している人文・社会科学系学部の概要だが、世界の政治や経済、文化を学べるコースを用意し、国際的に活躍できる人材を育てる拠点にするのだそうだ。

なぜこのような様相になってきているかである。それは国の指針「グローバル人材育成戦略」があり、大学はそれに沿って学部を新設しようとしている。我が国を取り巻くグローバル化は急速に進展しているといっても、1990年後半からの海外留学生数の減少、海外勤務を希望しない内向きの学生の増加が報告されてきた。そのため、政府もこのような状況を危惧し「グローバル人材育成推進会議 審議まとめ」を発表した。「高校・大学、企業、政府・行政、保護者等が積極的に若い世代を後押しする環境を社会全体で生み出すことが不可欠」と提言している。これが文部科学省の「スーパーグローバル大学創成支援事業」につながっている。

最近の報道では、大阪や山梨の私立大も「外国語・国際系学部」(仮称)をつくろうとしているそうだ。だが国際系学部は過当競争に陥りつつある。筆者には大学間の差別化が難しくなっているように思える。学生募集に奔走している姿が映る。大学が新しい学部をつくりグローバル化の牽引役になろとしても、そうたやすくことが運ぶものではないはずである。

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留学の奨め その10 米国大学への留学生の増加

米国のシンクタンク(think tank)、国際教育研究所(Institute of International Education: IIE)が発表した2013〜14年度の米国の大学や大学院への留学生の統計は興味深い。国際教育研究所はフルブライト財団の支援によるFulbright Programを主宰したり、国内外の留学生を支援する、いわば米国における国際交流教育推進の旗艦組織である。

この統計によると前年度と比較して8.1%増の約88万6千人で、留学生の総数は1,107万5千人であるという。米国は留学生で支えられているといってよいほどの数字である。率直にいって米国の大学への留学はやはり高い人気があるという印象である。

国別の留学生の数だが、第1位は5年連続して中国人で、27万4千人とあり、これは前年の16.5%の伸びで留学生全体の31%を占めた。第二位はインドで10万3千人の6.1%の伸び、第三位は韓国となっている。日本からは1万9千人。前年度より6.2%減っている。この減少は9年連続して続いている。1990年後半の留学生のピークだった頃と較べで半減してしまったといわれる。

留学生の増加の伸びでいえば、最高はサウジアラビアからの留学生の伸びが21%で5万4千人となっている。ブラジル、クエートからの留学生も大幅に増えている。この理由は国費留学生の増加であるという。

米国の大学で留学生が増加する第一の理由は、優れた高等教育を受けられる環境があるからである。留学中に学位を取得すれば、自国に帰ったときその身分が優遇され、地位や高所得が約束されている場合が多い。今も留学は大きなステイタスとなっている。

第二は派遣先の国内で、高等教育機関を十分な早さで作れないなど、人材養成が追いつかず、そのために留学生が増えているという状況である。若者の向学心を満たす教育や研究環境が不十分ということだろう。

第三は米国は伝統的に留学生の出身国がどこであれ歓迎するという姿勢をとっていることである。中国やインドだけでなく、キューバやイラン、ベネズエラからもたくさんの留学生を迎え入れている。しかも留学生の授業料は高い。大学にとっては大事な収入源ともなっている。

米国との外交関係が緊迫した状態にある国からも米国には留学生が押し寄せている。国際間の緊張が続くとはいえ、留学生を受け入れる体制、例えば人権の尊重、政教の分離、安全が整っているからだと考えられる。

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留学の奨め その9 研究者の仕事探しと異動

今回はアメリカの研究者の異動に関する話題である。若手の研究者とって、大学での仕事探しはどこも大変なものである。 彼らは業績やキャリアが不足しているので、誰もが通過しなければならない難関である。大学におけるポストの空きの広告がでると、自分の研究分野をにらみながら応募することになる。

はじめは、自分の研究業績のレジュメ(resume)を大学に送る。研究業績にはポスドクの経歴も入る。この書類審査を通過すると大学での人事選考委員会に招かれる。この時の旅費は招く側が負担する。ここが日本と違うところだ。首尾良くポジッションを得るしても、大抵は3年の雇用契約である。ここから終身雇用身分であるエニュア(tenure)への途が始まる。雇用契約が切れ更新がないとまた仕事探しである。まるで渡り鳥のように転々とする。その間業績を増やしていく。米国にもコネ(old boy connection)が働く。

もう一つは、大学が特定の研究者に招聘状を出す場合である。招聘する側からの一本釣りである。こうした研究者は研究業績にすぐれ、名が知れた人達である。引き抜く方の大学はその研究者の収入などを事前に調べ、それ以上の条件を提示する。例えば1.5倍の給料をだすとか、という具合である。指名された研究者は、提示された待遇、大学の所在地の環境、同僚となるスタッフの研究状況などを調べ自分の研究にプラスになるかなどを考慮する。

このとき、研究者は自分の上司や学部長などに「他大学から1.5倍の給料でオファーがきているが、もし大学が今の給料を上げてくれれば残るが、、、、」と交渉するのである。学部長が「お前に残って欲しい。給料を上げよう」といえば、他大学からのオファーを断る。「予算がないので、給料を上げるわけにはいかない」といえば、移ることになる。このように交渉が可能なのが面白いところだ。また学部長も予算やスタッフの給料を決める裁量を持っているのも驚く。

総じて米国の大学における研究者の給与は高いが、雇用契約や安定度に関しては研究職は日本よりも厳しい市場である。

tenuretrackstructure_new tenure_cartoon  “一つの扉はテニュア、もう一つはマクドナルド行きの扉だ”

留学の奨め その8 学長選び

アメリカの大学ではいろいろなことが話題となる。学長(President or Chancellor)の発言が報道されることが多い。フットボールコーチのほうが学長より年俸が高いとか、リーダーシップが強過ぎるといったことも取り上げられる。特に学長選びは新聞紙上を賑わせる。大学運営で最も大事なことだからだ。

学長を選ぶのは大学の理事会(Board of Regents)である。学内での学長選挙などない。どんなに高名な教授でも学長にはなれない。理事会は候補者をいろいろな基準をあてて、全米から探す。そしてねらいを付けた数名の候補者を大学に招いてヒアリングをやる。ヒアリングは公開される場合もある。ヒアリングの後はパーティまで開いて候補者と理事、参加者が懇談するというあっけらかんさもある。

学長は研究者から選ばれる。研究業績、政府とのパイプ、学会活動、研究費の獲得などが選考の基準となる。そして、大学運営にかかわってきた経歴も重視される。ノーベル賞受賞が学長に選ばれるなどとはきいたことがない。ほとんどの場合彼らは大学運営では全くの素人である。

かつて兵庫の小さな大学で働いていたとき、3年ごとの学長選挙を経験した。以前は、教授に投票権があってそれ以外の教員は傍観する有様であった。選挙が公示されると立候補者の推薦陣営が水面下で運動をやる。陣営の活動は、出身大学を出たものが仲間を誘い込むというものである。筆者は、こうした地元の大学出身ではない、いわば地盤も看板もないアウトサイダーのような存在であった。それゆえ、立候補者の陣営から盛んに電話がかかってきた。

そして投票日。立会人は候補者の側から選ばれる。彼等は投票行動をじっと見つめる。筆者のような「無党派層」は特に注目される。「成田」というのと「朝野」というのが学長に立候補しているとする。記名するときは、後者のほうが時間がかかる。立会人はそれを見て、「誰それは誰に票を投じた」とわかるそうだ。まるで田舎の町長や村長選挙のようである。実にくだらない話しだが、こんな学長選びが10数年前まで行われていた。蛸壺の中のような大学運営であった。今は、理事会が実質的に決める。欧米にならった学長選びだ。

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North Carolina State University Chancellor, Randy Woodson

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University of Wisconsin Chancellor, Rebecca Blank

留学の奨め その7 Intermission 週末の学生生活

留学生の米国生活のことは、別に目新しいことではない。だが苦学した筆者には普段の院生の日課とはかけ離れた毎日だった。それは家族を抱えてアルバイトに専念しなければならなかったからだ。授業のない土日は家族を支える金子の稼ぎ時だった。

大学は日曜日の午後から始まる。週末をのんびりすごしたり、フットボールで浮かれた学生はぞくぞくと図書館にやってくる。アメリカの学部だが、授業に休講はない。基本的に詰め込みの連続である。大教室でも私語はない。出欠とりもない。だが教室は学生で一杯だ。試験が2回、そして小論文が一つ課されるのが普通である。そのために勉強は大変である。大学院も然り。授業時間は1日平均すると3時間程度、留学生であればその前に与えられるアサインメントのための予習、そして復習をこなすのに5、6時間はかかる。

学期は二期制。9月〜12月と1月〜5月である。学期の末には卒業式がある。それぞれ16週間の学期は各々独立していて異なる科目を履修する。7〜8週間ごとに中間と期末テストがあり、加えてそれぞれの科目について10枚くらいの小論文を提出しなければならない。だから金曜日になると、ヤレヤレという気持ちになる。この緊張のとけた空気のことを “TGIF(Thank God, it’s Friday)” と呼ぶ。”神様、ありがとう。ようやく金曜日が来ました ” という雰囲気である。金曜日の午後は授業はない。午後4時頃になると構内は閑散となる。学生はつかの間の羽目を外す時間がくる。

1学期、16週間という速いペースに馴れると、学生生活を楽しむことができるようになる。

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留学の奨め その6 図書館司書の優秀さ

筆者は北海道大学と立教大学で学び、その後はウィスコンシン大学で学位をとり、国立特殊教育総合研究所と兵庫教育大学で仕事をした。だが日本の大学の図書館で世話になったことは全くない。なんでも自分で検索などの作業をしなければならなかったからだ。有能な図書館司書(librarian)がいなかったということだ。

今回の話題は図書館司書の専門性と養成についてである。振り返ると日米の大学の違いは、大袈裟にいえば図書館の置かれている地位と図書館司書の専門性、そして図書館学(library of science)の認識にあるのではないかと考える。

ウィスコンシン大学では、オリエンテーションで図書館の利用方法を教えてもらった。そのお陰で専門職である司書にひとかたならぬお世話になった。そしてその専門性には驚いたものである。実に良く訓練されている。もっとも、司書は最低の条件として図書館学の修士号を有している。

我が国とアメリカの司書養成の仕組みや内容を調べると、そこに大きな違いがあることがわかる。まず、我が国では司書となる資格は図書館法に規定する公共図書館の専門職員となるためとなっている。しかし、公共図書館の大部分では、司書の資格を取得した者を正職員として採用する人事制度がない。事務職員としての採用制度だからである。公立、私立の小中高校に司書はいないのというのは誠に貧弱な体制だ。

我が国では、司書資格の取得方法は二つある。大学の正規の教育課程の一部として設置されている司書課程と夏季に大学で集中して行われる司書講習がある。大学の司書課程はそのための全国統一的なカリキュラムが、図書館法の制定以来、現在に至るまで作成されていない。専門性に必要な科目の単位数が少なく、司書講習に相当する科目の単位の認定を受けて、大学を卒業すれば司書資格を取得できてしまう。

次に司書講習である。本来現職の図書館職員向けのものとされているため単位認定が甘く、「暇と講習料さえあれば取得できる資格」といわれるほど講習内容が貧相でおざなりな講習会といわれる。我が国の司書に関する根本的な課題とは。それは司書の専門性と役割を重視しない風土、そして図書館学の未熟さである。ところで心配になったのだが、公立図書館や大学に司書の資格を持った者がいるのだろうか。

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留学の奨め その5 図書館の利用

アメリカの大学の特徴はいろいろとある。その一つは図書館サービスの充実である。図書館の利用は留学生には力強い味方となる。多くのアメリカの大学図書館は学外者に対しても広く門戸を開放している。自分がウィスコンシン大学に行っても、理由を説明しパスポートを見せると入館証を発行してくれる。図書館の開館時間は大学によって異なる。閉館は21〜22時というところが多い。試験期間中は通常24時間開いている。

私立のボストン大学(Boston University)は市中心部にあるので、地下鉄などを利用して家賃の安いアパートから通学する学生が多い。そうしたこともあって、この大学の図書館は地下鉄の終電に合わせて午前2時閉館となっている。地下鉄沿線に住んでいる学生は2時近くまで安心して勉強できる。ボストンの郊外、ケンブリッジ(Cambridge)にあるハーバード大学は、徒歩圏内に大学寮や学生向けのアパートがあるので、そこにいる人は深夜でも安心して図書館を使うことができる。人文社会科学の図書館であるLamont Libraryは24時間開いている。

もし図書館が24時間開館というのであれば、利用者はいつでも帰れるというのが開館の大きな前提となる。日本の大学で24時間開館という例は京都大学の一部を除き、きいたことがない。恐らく京大近辺は徒歩圏内に学生寮やアパートがたくさんあって、夜中でも人通りがあるという恵まれた条件があるからではないだろうか。

アメリカにおける大学図書館の地域住民への開放を促す歴史は古い。税金で賄われている大学図書館がその門戸を開くのは当然だという観念がある。大学図書館の地域開放は善意や地域社会との良好な関係を築くためではなく、行わなければならない義務であるという主張が高まったのである。だが人口の増加により公共図書館は、地域住民に対するサービスが不十分になってきたこともある。高等教育への関心が高まり、新しい大学が次々に設立され、その教育をサポートするだけの十分な資料がなかったことなどから、大学図書館はその専門的な情報の保存と発信基地として地域に貢献してきたのである。

図書館の開放によって大学は地域社会と良好な関係を作り上げてきた。それに至るまで、長年にわたって大学図書館の地域開放の長所や課題が議論されてきた。そうした歴史を踏まえ、アメリカの大学図書館の多くは開放という姿勢をとり続けている。個々の大学の発展だけではなく、アメリカ全体の教育や研究水準の発展を志向するからだろうと考えられる。

screenshot_118  New York City Libraryscreenshot_119 George Peabody Library

留学の奨め その4 入学審査

外国の大学にどのようにして入学するか。今回はアメリカの大学に限定してみる。学部も大学院も共通した手続きとなる。大学の入学係のサイトをみると、留学生向けの出願規定がでている。まずは入学試験というのはない。外国人学生は高校の成績証明書、英語力検定試験のTOEFLの結果の提出を求められるはずである。ウィスコンシン大学マディソン校(University of Wisconsin-Madison)では、その他に担任教師やスクールカウンセラーからの推薦状をつけるようにとある。こうした書類によって審査される。アメリカの学生は、SAT(Scholastic Assessment Test)という大学進学適性試験を事前に受けてその結果を提出する。

TOEFLの得点だが、学部一年に入るためには、ペーパーテストでは580ー620点、Web上での得点は95-105点が必要とある。もしこの通過点に達していなければさらに勉強して試験を受け直す。大学によっては留学生にはSATかACT(American College Test)が要求される。

IELTS(International English Language Testing System)も権威ある英語力検定試験である。アメリカ国内の3,000以上の大学や機関はIELTSを公式に認めている。IELTSで8.0-7.0をとっていれば入学を許可してくれるはずである。

大学の中には自分の簡単な履歴(resume)の提出を要求するところもある。この履歴には、自分の得意な科目、スポーツ、特技、課外活動、ボランティア活動、表彰歴、海外留学経験、リーダーシップの経験などを正確な英語で書くことが大事だ。このリーダーシップは特に審査員の目にとまるはずである。

エッセイ(小論文)の内容には創造性や独創性が要求される。しかも書いた内容の洞察力の鋭さや質の高さが求められる。推薦状においても学力、才能、人格、素養、課外活動のすべてにおいて秀でた個性が映し出され、できれば格調高い英語で表現されていれば万全である。エッセイは、英語学などで修士号を有し修辞に詳しいネイティブに点検してもらうことを勧める。そこらのALTではいけない。

大学には預金残高証明(Financial Verifiation)を提出することを義務づけているのもある。前回述べたように、大学で学ぶ資金がないと受け入れてくれない。はじめから奨学金を当てにして「行けばなんとかなるだろう」という考えは論外である。アメリカは高学歴が幅をきかす社会なので、ハイリターンには高額の投資が必要である。授業料はアメリカでも高騰してきている。貧しい家庭の子弟には苦しい状況である。

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北海道とスコットランド その24  スコットランド、イングランド、日本

朝ドラ「マッサン」はまだまだ続くが、この「北海道とスコットランド」シリーズはこの稿で終わりとする。

筆者も、誠に細いつながりがスコットランドやイングランドとにある。数少ない友や知人を通して学校を視察したこと、障がい児教育の現場を見せてもらったことも忘れられない。ヨーロッパの歴史を表層的に学んだこと、特に幕末から明治にかけてのスコットランド人の日本での活躍、日露戦争前後の日本とイギリスの関わりは記憶に残る知識だ。それとルターと宗教改革がスコットランドに与えた影響、改革の意義を説教や勉強会で教えられたことも心の糧となっている。

東大出版会の「日英交流史」は興味深い本である。幕末から維新、その後の日本の歴史において国家や社会の形成に最も影響を与えたのはイギリスだ、という主題で貫かれている。弱小国日本はイギリスとの交流なしに帝国海軍の近代化もあり得なかったし、日露戦争も戦えなかったほどである。その後の日本の国際社会への進出もなかったはずである。

▼司馬遼太郎は「坂の上の雲」で次のように書いている。
「まことに小さき国が開化期を迎えようとしている」
「勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊を迎える作戦をたて、これを実施して撃破した」

イギリスは立憲君主制をしき、日本も天皇を頂点としながらも議院内閣制といった統治機構を有していた。日本は昭和の半ばまで議会選挙によって、まがりなりにも政党政治が行われていた。

イギリスはアフリカや中東、アジアに進出し、植民地を拡大していく。同時にインドへのロシアの進出を恐れていた。ロシアは清国政府を応援し、イギリスのアジアでの力を削ごうとしてきた。阿片商いの主導権争いでもあった。こうしてイギリスは長年ロシアと確執を続けてきた。日本もこうしたイギリスの動向から、その外交戦略を学んでいった。後の朝鮮や中国やインドシナへの進出もイギリス流の植民地主義の表れであろう。1902年の日英同盟はその結果といえるほどイギリスへの依存は高まる。

1921年には日英米仏の四カ国条約により日英同盟が廃止される。同年、皇太子裕仁親王のイギリスは訪問、続いて皇太子エドワードの訪日となる。1930年にロンドン海軍軍縮会議が開かれ、その結果を巡り海軍内部の対立と統帥権干犯問題が起きる。1937年の盧溝橋事件とともに日中戦争が激化し日本とイギリス、アメリカとの対立が決定的になる。イギリスとの不幸な時代が1945年まで続く。太平洋戦争の敗北は、単なる外交の失敗だけではないだろう。歴史や文化を学ぶことが欠けていたのではないか、科学技術の違いを認識できていなかったのではないかとも思うのである。

時代を経て1980年代には、首相マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)の政策である「小さな政府」による電話、ガス、空港、航空、水道等の国有企業の民営化や規制緩和などの大胆な改革が日本に影響を与えた。そうした政策から我が国でも国鉄、通信、専売の3事業の民営化が断行される。

イギリスと日本にはいろいろな共通点がある。地理的な特徴だけでなく、行動面での特徴、たとえばマナーの重視、感情表現のつつましやかさなどである。科学技術への取り組みにも熱心である。日本人は幾多のスコットランド人医師、技術者、宣教師、教育者によって薫陶を受け国を発展させてきた。これからも両国の人々の交流が続くことを期待したい。

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北海道とスコットランド その23  スコットランド宗教改革の先駆者パトリック・ハミルトンとジョン・ノックス

「岩波キリスト教辞典」によるとスコットランドの宗教改革はパトリック・ハミルトン(Patrick Hamilton)を始めとして、本格的な宗教改革が進められたとある。しかし、ハミルトンは異端視されて処刑される。後にジョージ・ウィシャート(George Wishart)も宗教改革を実践し、カルヴァン(Jean Calvin)とフルドック・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli)の信仰をスコットランドに広めたが、彼もハミルトン同様に1546年に処刑される。

既に述べてきたが、ウィシャートの弟子であったジョン・ノックス(John Knox)らにより長老派教会が形成され、スコットランド教会の宗教改革が進められた。ノックスは、スコットランドにおける教会はローマ教皇と決別し、カルヴァン派の信仰告白を採用すべきとした。スコットランド信条(Scottish Confession)は1560年にスコットランド全議会に提案され、神の誤りない御言葉に基づく教理として全議会の公開の投票によって批准される。この結果、カトリックのミサは非合法化され、改革派の教会が建ち上げられた。

スコットランド信条は、使徒信条(Apostles’ Creed)の構成順に25条からなる。使徒信条とは、信条が使徒たちの忠実な信仰のまとめとみなされていることによる。プロテスタント教会では、この信条は三位一体の信仰を強調しており、礼拝において唱えられている。

ドイツから始まりやがてヨーロッパ全体にひろがった宗教改革という運動は、カトリック教会の「堕落」に対する改革という側面がある。と同時に、ローマカトリック教会の呪縛や支配から訣別し、信徒の立場から聖書に基づく信仰を確立しようとしたノックスらの考え方と、それに共鳴した者たちによって新たな教会を設立しようとする運動でもあった。

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      Patrick Hamilton

北海道とスコットランド その22  宗教改革の聖書的根拠

前回、ルターが主張した信仰義認、すなわち人が救われるのは、その人の功徳でも免罪符でもなく信仰であり、その信仰の基盤は聖書にあるということに触れた。スコットランドの長老派教会もそれを受け継ぎ、現在の教会制度を維持している。

さて、この信仰義認はなかなか手強い思想である。それは、人は思いと言葉と行いとによって存在するものであり、自由な意志を授かっているからである。だが、生まれながらにしてその意志は薄弱なのである。なんとかして善行をして義とされたい、罪をおかさないようにしたい。こうした葛藤を抱え続けながら生きなければならない。

ルターは聖職者として、また神学者として同じような精神の苦しみ経てきた。それは、自分がいかなる行為によってこうした状態を克服できるかを模索する苦しみであったようである。しかし、彼はそうした葛藤が己の行為によって解決できるということをいわば諦めるのである。そして、罪深い人間の救いが聖書の教えのなかにあることにたどり着く。こうした結論を次のような聖書の解釈から導くのである。

第一は、エペソ人への手紙(Letter to the Ephesians)2章8節-9節である。そこには次のようにある。
▼「あなたがたの救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるものではない。」

第二は、ローマ人への手紙(Letter to the Romans)1章17節である。
▼「神の義はその福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」

人間は善行でなく、信仰によってのみ (sola fide) 義とされること、すなわち人間を正しいものであるとするのは、すべて神の恵みであるという理解に達し、徹底的に聖書の教えの原点にかえることを説くのである。

このような信条はローマカトリック教会からは、教会の権威を失墜させるまやかしの神学であると断定され、ルターは異端者として破門される。そして1521年にヴォルムス帝国議会(Diet of Worms)にルターが召喚され尋問が始まる。

尋問の場面について、Wikipediaには次のようにある。「ルターは自分の著作が並べられた机の前に立った。ルターはまず、それらの著作が自らの手によるものかどうかを尋ねられ、次にそこで述べられていることを撤回するかどうか尋ねられた。ルターは自説の撤回を拒絶する。”聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。自分は聖書に則る。それ以上のことはできない。神よ、助け給え”(“Here I stand. I can do no other.”)」

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北海道とスコットランド その21  宗教改革とマルチン・ルター

ルターは、罪の赦しが教会の権威によってなされること、そのために免罪符を買い求めることで救われるということに大いなる疑義を呈する。ルターはそれを質問状としてヴィッテンベルク(Wittenberg)城教会門に貼ったのが「95か条の論題(意見書)(The Ninety-Five Theses)」である。1517年のことである。これが宗教改革の発端とされている。この意見書とはカトリック教会への連判状のことであった。

免罪符を求めることによって罪は果たしてあがなわれるのか? ルターはそれに対して、人が救われるのは、その人の功徳でも業でも免罪符でもなく信仰によるのだ、と主張する。少し難しい言葉ではあるが、信仰義認(Justification by faith)である。そして信仰の基礎は聖書にあると説くのである。ローマカトリック教会は教皇を頂点とし、選ばれた司祭によって組織されていた。それに対してルターは、教会制度とは万人が司祭である共同体であるべきだ、という革命的な提言をするのである。

ルターは、いかなる信仰の問題に関して疑問を投げかけたかである。それは一言でいえば人間の罪からの救いはいかにして可能であるかということである。それには次の五つの信条にのみ(solas)あると主張する。▼第一は、「聖書によってのみ、 Sola Scriptura (by Scripture only)」、▼次に「恩寵によってのみ、Sola gratia(by grace only)」、▼さらに「信仰によってのみ、Sola fide(by faith only)」、▼「キリストによってのみ。 Solus Christus(by Christ only)」、▼そして最後に「神の栄光によってのみ、 Soli Deo gloria(by God glory only)」という宣言であった。このように、教会の権威や威光ではなく、徹底的に聖書の教えという原点に立ち返ることをルターは主張したのである。

カトリック教会は長い伝統と権威を有する教会であるが故に、こうしたルターの提言は異端であると断罪し弾圧を加え、血なまぐさい宗教闘争が始まるのである。

138267896807925369225_4496-131004-042  神はわが櫓Martin-Luther-Here-I-Stand マルチン・ルター

北海道とスコットランド その20  宗教改革と免罪符

外国を知るには、伝統や文化を形成した宗教の影響を考えるのが大事だとかねがね考えている。スコットランドも長い宗教の歴史がある。特に宗教改革(Reformation)が及ぼした運動がその後の国作りに反映していることが分かる。

宗教改革といっても一口で語るのは難しい。Encyclopædia Britannicaによれば、ローマカトリック教会の様々な縛りや制度に対する抵抗としてとらえるのが一般的である。抵抗の槍玉になったのが「免罪符」(indulgence)である。免罪符は、16世紀、カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書のことである。免罪符は罪の赦しを与えるとか、責めや罪を免れるものや行為そのものを指すこともある。

元来、キリスト教では洗礼を受けた後に犯した罪は、告解によって赦されるとされていた。一般に、課せられる「罪の償い」は重いものであった。ところが、中世以降、カトリック教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという発想が生まれてくる。これが「贖罪」、いわば罪滅ぼしである。免罪符によって罪の償いが軽減されるというのは、「人間が善行や業によって義となる」という発想そのものであった。

前稿でも触れたことだが、教会の免罪符による赦免という世俗的な行為とその権威の失墜などに対して、改革の機運が生まれる。罪ある人間はいかに救われるのかという根源的な問いが広まる。それを世界に訴えたのが聖アウグスティン(St. Augustine)修道会の聖職者であり神学者であったマルチン・ルター(Martin Luther)である。

宗教改革という運動は、普遍的な教会とされたカトリック教会から訣別しプロテスタント教会(Protestant Church)という信徒の集まりをつくることになっていく。この改革運動から新しい教会が生まれただけでなく、既存のカトリック教会にも大きな影響を与え、その余波はヨーロッパ文化や思想にも及んでいく。

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                                      Choral

北海道とスコットランド その19 スコットランド人の宗教 その2 John KnoxとJames Hepburn

スコットランド信条では、信徒や会衆がキリストの教えを伝える使命があるとし、誰もがあまねく祭司であるという立場をとる。万人祭司ということである。そこから会衆から選ばれたもの、長老による合議によって教会を運営する教会制度を取り入れるのである。こうした教会制度の理論的な指導者が前稿で紹介したノックス(John Knox)であった。

スコットランド信条であるが、神学的にはカルヴァン主義であるといわれる。Wikipediaでは、「すべての上にある神の主権を強調し、それに依ってキリスト者は実践する」とある。カルヴァン主義とはローマカトリック教会を改革し、新しい教会を樹立するという神学である。改革派教会とか長老派教会の思想的基盤である。カルヴァンは「聖書のみ」ということを強調したのに対し、ルターは「信仰のみ」ということを強調した。だが、互いに相反する教義ではなく聖書解釈の違いであり、二人の宗教改革の精神は共通していた。

やがて日本に最初の長老派の教会ができる。1877年に横浜に設立された日本基督一致教会である。その後、伝道者であり神学者であった植村正久が指導者として教会を発展させていく。米国長老派教会系医療伝道宣教師で医師であったジェームス・ヘップバーン(James Hepburn)も教会の発展に大きな貢献をする。ヘップバーンの祖先はスコットランドから北アイルランドへ移ったスコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)である。しかし、ヘップバーンは日本人向けに「ヘボン」という名前を使った。そのために日本ではヘボンが広く知られている。ヘボンは英学塾「ヘボン塾」をつくり、それが明治学院大学へと発展していく。横浜のフェリス女学院大学もヘボン夫人が開いた家塾から始まった。興味深いことに、ヘボン式ローマ字の創始者としても知られている。

医師でもあったヘボンは横浜で医療活動を行った。横浜近代医療の歴史はこの活動に始まる。その功績を残すために、横浜市金沢区にある市立大学医学科講義棟の多目的ホールは、ヘボンホールと名付けられている。
James_Curtis_Hepburn James Hepburn romaji01 ヘボン式ローマ字john-knox  John Knox

北海道とスコットランド その18 スコットランド人の宗教 その1 長老派教会と宗教改革

仏教にいろいろな派があるように、キリスト教にもさまざまな教派(synod)がある。教派とは集まり(assembly)とか集会(meeting)という意味である。誰が教義をどこで広く宣布したかによっていくつもの組織ができた。そのため教派によって教義や強調点が違う。ルーテル教会、改革派教会、バプテスト教会、聖公会など微妙に教義や典礼が違う。

スコットランドの教会は伝統的に長老派教会(Presbyterian Church)である。長老派教会は新教の一つ、カトリックと相対する一派である。聖職者と信徒の代表である長老とが共同で教会を運営する仕組みである。長老は会衆によって選ばれた教会役員といってもよい。この制度は、各教区や各地の教会の代表が地域ごと、地方ごと、そして国全体で集まりその合議によって自律的に教会を運営していくというものである。長老とは年寄りのことではない。

本日10月31日は宗教改革記念日といわれる。神学者でもない自分だが、学んできた宗教改革の歴史を語ると長くなる。要は、それまで長い間、世界の政治と宗教を支配していたローマカトリック教会やローマ教皇が伝統的に保持してきた神学に異議を唱え、そこから新しい教会運動が起こった日である。その中心はマルチン・ルター(Martin Luther)であり、ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)である。スコットランド人の信仰はこの宗教改革に依るところ大きい。

スコットランドの宗教改革に最も貢献したのはジョン・ノックス(John Knox)といわれる。1560年にスコットランド議会は、それまでのカトリック教会とそれを支える法を無効とし、カルヴァン主義(Calvinism)を基調とする信仰告白であるスコットランド信条(Scottish Confession)を採択した。スコットランドの信仰告白とは、キリストが唯一の教会の頭であり、「信仰義認」、そして万人祭司というものである。善行によって神は人を義とするというのではなく、信仰によってのみ人は義とされるというのが信仰義認である。

Luther Martin Luther

john-calvin  Jean Cavin

北海道とスコットランド その17 Intermission NO.3

日本人にはそれぞれ外国との相性というものがあるのではないか。相性とは憧れのようなものである。その憧れに強調されるのは、徹底した個人主義とか文化や伝統の深さとか、人々の考えの奥行き、さらに自然の素朴さであったりする。

カリフォルニアやニューヨークの自由さや競争の厳しさに共感する者もいる。ノーベル賞受賞者で青色発光ダイオードLEDの実用化に成功した教授がそうである。彼にはカリフォルニアの風土との相性が良かったのだろうと察する。

北欧の白夜やフィヨルド、ドイツの森に魅了される人、アフリカの朝の美しさ、アラブ人の義理堅さを指摘する人、韓国人の道徳への志向性にうなずく人、ロシアは好きではないが、ロシア人の底抜けの親切さや懐の深さに感じ入る人もいる。その他、理由はないが、なぜか相性が合う、波長が合うというかウマが合うこともある。こうしてみると人と国との間にも相性のようなものが確かにあるのは間違いない。

日本人がスコットランドに惹かれる理由っていろいろある。それは相性に近いものではないか。ある人にはタータン(tartan)やキルト(kilt)であったり、スコットランドのスピリットと呼ばれるウイスキーであったり、ゴルフでいえばセント・アンドルーズ(St. Andrews)であったり、小説であればウォルター・スコット(Walter Scott)の「アイヴァンホー(Ivanhoe)」、さらに詩であればロバート・バーンズ(Robert Burns) の「故郷の空」や「蛍の光」の歌詞や旋律であるかもしれない。

いろいろな資料、特に文化事典やキリスト教事典をとおしてスコットランドのことを調べている。だが、確かな洞察を得るには誠に不十分であることを認めざるをえない。また、短時間の旅から旅による経験でも、洞察にいたるには極めて足りない。本来なら定住して定点観測しなければものにならない。腰を落ち着ければおのずと周りの良さや醜さ、その背景やからくりがわかってくる。「スコットランドとはかくかくしかじか、、」などと託宣するのは実に危ういことだと気をつけている。文化を知るには時間をかけること、人との付き合いが大事であることを努々忘れてはならないとも思っている。

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北海道とスコットランド その16  なぜスコットランド人が日本へ来たのか その3

イギリスの日本への関わりの続きである。日英同盟の締結は日本が世界の舞台に登場するきっかけとなった事件であった。それに先だつ激動の足跡を調べてみる。

1862年にはイギリス書記官アーネスト・サトウ(Ernest Satow)が来日する。彼の日本滞在は通詞としての1862年から1883年と駐日公使としての1895年から1900年に及ぶ。外交官としてその活躍は明治政府からも一目置かれたといわれる。

1862年に薩摩藩士によりイギリス人が殺害される横浜鶴見での生麦事件が起きる。イギリス公使代理のエドワード・ニール(Edward Neale)は、幕府との賠償や処罰などの交渉にあたる。1863年には井上聞多、伊藤俊輔、後の井上馨、伊藤博文など長州藩士5名が藩命としてイギリスへ留学する。サトウはグラバーらと共にそうした橋渡しもする。1863年には薩英戦争が起きる。この戦争の終結により英国が薩摩藩に接近することになる。

続いて1864年に下関戦争が勃発する。攘夷を唱える長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、報復でイギリス海軍がフランスなどと共に下関の砲台を占拠する。そして1868年の明治維新である。その年、明治新政府軍と旧幕府軍とで戊辰戦争が起きる。いわば日本の内戦である。そのとき、イギリス公使ハリー・パークス(Harry Parkes)は戊辰戦争で中立を装いながら、実質的に明治新政府を支援する。パークスは幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務める。

その間、1872年には岩倉使節団によるアメリカやイギリス訪問がある。この一行はイギリスには4か月滞在したという。この使節団には大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、そして後年津田塾大学を作った津田梅子らも加わる。

日本はさらにイギリスとの関係の強化につとめる。そこには両国には共通の懸念、ロシアの拡張主義政策があった。この懸念が両国を結びつけていく。1902年に日英同盟ができる。1904年には日露戦争が勃発する。このとき戦費の調達のためにイギリスの銀行などが日本国債を購入するなど、日本はイギリスから支援を受けることとなった。1911年には日英通商航海条約の改正がなされ、条約上の不平等が解消される。さらに1914年には日英同盟に基づき、日本も第一次大戦に参加し、巡洋艦を地中海に派遣する。その年、ドイツの租借地であった清の青島をイギリス軍とともに占領する。

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    Ernest Satow          津田梅子

北海道とスコットランド その15 なぜスコットランド人が日本へ来たのか その2

今でも、日本からみるとスコットランドとかアイルランドは地の果てにあると思える。昔スコットランド人らも「日本に行かないか」と誘われたとすると、日本というところはどこにあるのか、辺境なところでないかと思ったに違いない。

幕末から明治維新の前後は、イギリス人の外交官の活躍が光る。維新政府との良好な関係を発展させるために、こうした外交官の働きはめざましいものがある。それらは初代イギリス駐日総領事ラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)、書記官アーネスト・サトウ(Ernest Satow)、公使ハリー・パークス(Harry Parkes)、公使代理エドワード・ニール(Edward Neale)である。オルコックは軍医でもあった。

こうした外交官らの尽力によって幕末の志士がイギリスに渡り、当時のイギリスの発展ぶりや科学技術、軍隊組織、イギリス憲法、王室制度などを学んで帰国する。イギリスの制度を取り入れたことの一つは、1870年に兵制改革により大日本帝国海軍が成立し、イギリス海軍を模範とした組織整備を進めたことである。イギリス海軍顧問団団長として来日したアーチボルド・ダグラス(Archibald  Douglas)は日本の海軍兵学校教育の基礎を築いた。日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本海軍は軍備拡張政策を進める。1902年に戦艦三笠がイギリスで造られたのもイギリス海軍の影響である。明治政府の近代化政策とイギリス外交が折り合い、イギリスの先端技術を取り入れることによって明治政府は殖産興業に拍車がかかったといえる。

こうした外交を仲介したのが日本に滞在していたイギリスの政商とか実業家である。その中で最も活躍したのがトーマス・グラバーであることは既に述べてきた。もう一人、イギリスとの関係の樹立に貢献した人物にスコットランド人のアレキザンダー・シャンド(Alexander Shand)がいる。22歳の若さで当時、Chartered Mercantile of India, London & Chinaという貿易会社の一員として1866年に横浜にやってくる。維新政府は1872年に国立銀行条例をつくり、国立銀行の設置が決まる。シャンドはやがて大蔵太輔であった井上馨と雇用契約を結び、大蔵省紙幣頭付書記官になる。岩倉使節団に加わった木戸孝允と知遇を得たりする。

シャンドは帰国後、シティにあるアライアンス銀行(Bank of Alliance)やパース銀行(Bank of Perth)の支配人となる。彼は日本からの訪問客や留学生を手厚く世話したといわれる。日露戦争中は、日銀副総裁だった高橋是清のロンドンでの起債を仲介し、イギリスの銀行による国債引き受けなど、戦費調達の成功に導く。忘れてはならないスコットランド人の一人だと思うのである。

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                      Alexander Shand

北海道とスコットランド その14 なぜスコットランド人が日本へ来たのか その1

今回は、スコットランド人が何故日本にやってきたかである。決して偶然のでき事ではなく、そこには理由があるはずである。地味に恵まれているとはいえない耕作地、少ない人口、樹木が育ちにくい丘陵、、そうした風土から多くの冒険家や科学者、冒険家、経済学者が生まれた。そして海外へと渡っていく。だがスコットランドからすれば日本は辺境の地、辺鄙な地であったろうと察する。

スコットランド人は宗教や教育に熱心であった。宗教であるが、スコットランドは伝統的に新教の長老派教会(Presbyterian Church)である。上からの押しつけを嫌い、男女の違いを超えて自分たちで指導者を選ぶいわば草の根的な教会制度である。国王や女王が教会を支配する国教会のイングランドとは大きく異なる。そのため両者の間でたびたび宗教戦争が起こった。

アメリカやオーストラリア、ニュージーランドには、イングランドに抵抗した政治犯が流罪された祖先を有する者が多いといわれる。幸い行き着いた土地は肥沃で自由に満ちていた。それが伝統的に実学を重視するスコットランド人に海外への雄飛や移民への刺激を与えた。スコットランド人の日本への渡航と活躍は、徳川幕府と明治維新前後の歴史にそれが如実に描かれている。

日本とイギリスの関係は1840年のアヘン戦争に遡る。この戦争でイギリスが清朝に勝利し香港を獲得する。その結果に驚く幕府は、1825年に出していた異国船打払令を撤廃することになる。その後、遭難した船に限り補給を認めるという「文化の薪水給与令」を出す。1854年10月には、日英和親条約が調印される。翌1858年8月には日英修好通商条約が結ばれる。これも不平等条約の典型で、例えば関税自主権の制限や治外法権承認など、日本に不利な内容となった。この条約により、長崎英語伝習所が設立され英語通訳である通詞が養成される。

1859年7月、初代駐日公使ラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)により高輪の東禅寺に英国公使館が開設される。その年、ジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings)の代理人としてスコットランド人のトーマス・グラバー(Thomas Glover)が長崎へ来日し、その後幕末や明治政府と財界とに深く関わることになる。

pccross  Presbyterial Emblemtozenji  東禅寺

北海道とスコットランド その13  スコットランド人と「炎のランナー」

1924年のパリ・オリンピックの陸上競技での出場を目指す二人の青年を描いた映画「炎のランナー」を観た読者も多いだろう。主人公は、実在のスコットランド人である。原題は「Chariots of Fire」で1981年に製作された。

その一人は、スコットランド人で聖職者を目指し、神の教えを伝えようとする青年である。彼の名はエリック・リデル(Eric Liddell)。もう一人はユダヤ人青年で弁護士を志望しているハロルド・エブラハムス(Harald Abrahams)。二人とも俊足をかわれ、オリンピックでは短距離走者として出場する。

リデルは、400メートル予選が始まる日曜日が安息日であるという理由で棄権しようとする。他の種目でメダルを獲得した友人が別な予選枠をリデルに譲る。そしてリデルは見事に優勝する。

やがてリデルは選手生活を辞し、宣教師となって中国での布教活動に従事する。丁度日本が日中戦争に突入する頃である。ところが日本軍の捕虜となってしまう。リデルは収容所で会った宣教師の子供に「敵を赦すことの大切さ」を教える。その少年はやがて、かつての敵国、日本に宣教師として赴任する。中国や日本に宣教師団を送ったのは長老派教会(Presbyterian Church)である。長老派教会の歴史は宗教改革を絡めて後日取り上げる。

この映画が撮られた場所はスコットランドの海岸や田舎である。全英オープンで有名なセント・アンドルーズ(St. Andrews)やスコットランド最古の大学であるセント・アンドルーズ大学(University of St. Andrews)が登場する。ケンブリッジ公爵(Duke of Cambridge)であるウィリアム王子(Prince Williams)とケンブリッジ公爵夫人(Duchess of Cambridge)であるキャサリン(Princess Catherine)も卒業した由緒ある大学といわれる。

133881220393713110452_Scene-from-Chariots-of-Fi-001  Chariots of Fire1e207aca

 

北海道とスコットランド その12  「埴生の宿」

このところ朝ドラ「マッサン」ではイギリスの民謡が流れている。その一つ、「埴生の宿」は耳慣れていて郷愁を湛えている。この歌は日本の唱歌で「楽しきわが家」として紹介されている。作曲したのはイングランド出身のヘンリー・ビショップ(Henry R. Bishop)である。

「埴生の宿」の原名は「Home! Sweet Home!」となっている。「埴生の宿」がなぜ唱歌で「楽しきわが家」という訳題がついたのかはわからない。「楽しきわが家」では元の歌詞の意味が伝わってこない。

埴生の宿も わが宿 玉の装い 羨まじ 、、、、

「埴生の宿」とは,床も畳もなく土間が剥き出しのままの家のことである。誠にもって貧しく粗末な家である。日本も農村は素朴な家が残っている。今は古民家と呼ばれるようだが、生活が農業と一体化していて土と共にある姿が浮かぶ。イギリスもそうだったようだ。

古語では,「たのし」にも「たのもし」にも「富んでいる」、という意味があるそうである。生活が貧しく、家が粗末であっても、家族とともにある生活で心は富む、家庭ほど大切な所はないということが歌われる。Sweetとは「甘い」とか「楽しい」ではなく「優しく包み込んでくれる」という意味である。

Home, home, sweet, sweet home,
   There’s no place like home.

「埴生の宿」の旋律を聞く度に思い起こすのが二つの映画の場面だ。一つは『ビルマの竪琴』である。1946年から数年の間、竹山道雄が執筆した作品である。市川崑が監督し1956年に上映された。竪琴を弾く水島上等兵が主人公である。水島を演じたのは安井昌二である。1985年にも同じ映画が作られた。水島を演じたのは中井貴一である。日本人捕虜がビルマからの帰国を前に、「埴生の宿」を歌う。そこに竪琴を持った仏僧が現れ伴奏を弾く。かつての水島上等兵だ。

「埴生の宿」が歌われたもう一つの映画は、壺井栄作の『二十四の瞳』である。木下恵介が監督し1954年に上映された。小学校の大石先生を演じたのは高峰秀子であった。戦争が終わって教え子が集まり、大石先生を囲む同窓会が開かれる。盲目になった生徒が、かつての12人の友達の写真を見つめながら一人ひとりを指さして大石先生に説明する。戦争の爪痕が皆の心に深く残る。

132861245019013205138 ビルマの竪琴twentyfoureyes66sss 二十四の瞳

北海道とスコットランド その11  スコットランド人の活躍は続く その4 エドモンド・モレル

エドモンド・モレル(Edmund Morel)1876年にお雇い外国人として来日。主として官設鉄道工場の監督(Locomotive Superintendent)などを歴任して、1897年まで在勤したスコットランド人である。スコットランド人は伝統的に職を求めて海外に渡った。中世では傭兵として大陸に渡り現地化した。18、19世紀の移民運動の中で学識と技術を有して海外に進出する。モレルもその一人であった。

明治の初頭、イギリスの駐日公使であったハリー・パークス(Harry Parkes)の推薦によって日本にやってきた。そして工部省に雇われる。その働きを評価され技師長である建築師長に任命される。さらに工部卿であった伊藤博文に近代産業と人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出している。また大蔵卿であった大隈重信とは協議のうえで、日本の鉄道の線路幅を今の狭軌に定めている。

1872年に日本最初の鉄道は新橋と桜木町の間に造られた。枕木はもともと鉄製にする予定であったが、森林資源の豊富な日本の木材を使うことにしたのもモレルである。さすがに線路と機関車はイギリスから輸入した。このように国内の天然資源を活用することによって、産業の育成に貢献することになったといわれる。鉄道関係の技術者の養成にも熱心だったという。

モレルは来日前から結核で苦しんでいたといわれる。最初の鉄道開通記念行事の後、間もなく彼は横浜で亡くなる。中区山手にある外国人墓地内はモレルの墓所となっている。桜木町駅近くにはモレルを記念した「モレルの碑」が「鉄道発祥記念碑」とともに設置されている。新橋日比谷口に蒸気機関車が展示されているのもモレルを記念するからである。「日本の鉄道の恩人」と賛えられている。

こうしたスコットランドの技術者から薫陶を受けた弟子らがやがてスコットランドに留学し、世界最新の技術を誇った機械、造船、鉄道、電信、土木などの科学技術を習得し、その後の日本の近代化に貢献していく。

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北海道とスコットランド その10  スコットランド人の活躍は続く その3 ヘンリー・フォールズ

明治政府が外国人を雇い入れた中で多い職業が医師である。西洋医学の採用によって医療技術者を養成しようとしたことは誰もが得心できる。ヘンリー・フォールズ(Henry Faulds)もその一人である。グラスゴー大学(University of Glasgow)で医学を修める。彼は同時に宣教師でもあった。

フォールズはスコットランドから1874年に来日する。彼を送り出したのはスコットランド長老派教会(Scotland Presbyterian Church)である。1875年に楽善会という視覚障害者の訓盲事業団体の設立に加わり、1879年にジョシュア・コンドル(Josiah Conder)が来日後初めて設計した訓盲院を造る。訓盲院はその官立東京盲学校、そして筑波大学附属盲学校へと発展する。

さらに1882年、東京築地に築地病院を開設する。布教とともに医療活動や医学生の養成に当たった。築地病院はその後、聖路加国際病院となる。主としてコレラなどの伝染病の予防や治療に当たったといわれる。

さらに、大森貝塚の発見者であるエドワード・モース(Edward Morse)とともに各地の貝塚の発掘に従事した。そこで、指紋の特徴に気がつきそれが終生変わることのないものであること、指紋によって個人の識別ができることをまとめ、イギリスの科学誌「ネイチャー」に発表する。この研究は警察関係者に特に注目された。その功績を称え1961年に聖路加国際病院の一角に「指紋研究発祥の地 ヘンリー・フォールズ住居跡」記念碑がつくられた。

指紋の研究と実用的な応用ではイギリスでは多くの論争が続いたようである。だが日本では指紋が犯罪の解明に役立つことを早くから知られ応用されてきた。これもフォールズの貢献といえる。

henryfaulds   Henry Faulds
src_11938480  楽善会

北海道とスコットランド その9  スコットランド人の活躍は続く その2 ジェームズ・マードック

明治政府が最も力を入れたのが人材の養成である。その中心はなんといっても東京帝国大学をはじめ、他の帝国大学の基礎をつくることだったのではないか。

スコットランド生まれのジェームズ・マードック(James Murdoch)第一高等学校(一高)の英語と歴史の教師として迎えられる。一高では1889年から4年間教鞭をとる。

教え子の一人に夏目金之助、後の漱石がいる。漱石は英語が嫌いな学生だったといわれる。だが、マードックを「僕の先生」と呼ぶほどだったという。他の生徒からも敬慕されていたといわれる。漱石は1890年、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学となる)英文科に入学する。

マードックは1894年から1897年まで金沢の第四高等学校で英語を教えた。 1899年には東京に戻り、高等商業学校で、現在の一橋大学で経済史を教えた。その後、鹿児島の第七高等学校に移る。1903年に、「初期における外交関係の日本史ー15421651) 」を刊行する。語学の才に長けたマードックはこの本をラテン語、スペイン語、フランス語、オランダ語に自らが訳している。

1917年に、かねてから滞在していたオーストラリアに戻る。王立軍学校(Royal Military College)やシドニー大学(University of Sydney)で日本語を教える。そして終身雇用の教授となる。オーストラリアは当時、白豪主義(White Australia Policy)を掲げていた。オーストラリアは移住制限法などを日本に課していた。それに対して日本はロンドンとシドニーの在外公館を通じて抗議を行ったほどである。白人至上主義の強硬論が豪政府や議会でも根強かったが、マードックはそうしたオーストラリアの国策に批判的であった。

8c317bd5078c80a9ff64adcb9d067137 白豪主義反対デモasahi010101 多民族社会記事

北海道とスコットランド その8  スコットランド人の活躍は続く その1 トマス・グラバー

長崎にあるグラバー園は第一級の観光地である。なんといっても眺めが良く、建物も非日常的なたたずまいである。その館を建てたトマス・グラバー(Thomas Glover)もまたスコットランド人である。

グラバーは上海にあったスコットランド系の会社ジャディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings)で働く。マセソン商会は、上海を拠点にしてアヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で巨万の富を得た。それは「アヘン戦争」に深く関わっていた。21歳で来日しやがてマセソン商会の長崎代理店として「グラバー商会」をつくる。

当時、イギリスは世界の貿易をめぐり、フランスとのし烈なライバル関係にあった。徳川幕府を支援していたフランスとの角逐である。「グラバー商会」は、当時船舶、武器弾薬、機械の輸入、さらに茶や貝類、絹織物の輸出で利益をあげていた。亀山社中とも取引があった。製茶工場を造ったり、肥前藩とで高島炭鉱開発に着手するなど商取引を広げていく。薩摩、長州、土佐ら討幕派の雄藩を支援し、日本の近代史の幕開けに貢献する。グラバーは、やがて生麦事件をきっかけに起こった薩英戦争などで悪化した関係修復や強化にも奔走する。

グラバーは商売だけでなく、長州や薩摩の志士を国禁をおかしてイギリスに留学させる。その中に井上馨や伊藤博文らがいた。グラバーは商人ではあったが、先進国の傲慢や優越感にとらわれなかったといわれる。日本文化の良さや利点を学び、それに溶け込もうとした柔軟な精神をもっていたともいわれる。そうした精神構造や適応性は、日本の近代化に参加したスコットランド人に共通した特性といわれる。この点はさらなる検証が必要だと筆者は考える。

日本にやってきたスコットランド人の多くが日本人と結婚している。歌劇「蝶々夫人」のモデルとされるのがグラバーと結婚した談川ツルである。その経緯だが、ツルが格式の高い士族の出身であること、商人である外国人と結婚したことなどが、著者ジョン・ロング(John Luther Long)というアメリカ人小説家の目にとまったようである。西洋の男性にとっては、ゴシップのような話題であったようだ。

809_13_ Jardine Matheson Holdings9長崎市グラバー園

北海道とスコットランド その7  スコットランド人と北海道の開拓 その2 ニール・マンロー

北海道、特に道東と道北は小生が育ったところである。北海道開拓の歴史でもう一人のスコットランド人を紹介する。ニール・マンロー(Neil Munro)である。彼の業績については筆者も使った副読本で紹介されていたのを覚えている。

マンローはエジンバラ大学で医学を学び、インド航路の船医としてやがて日本にやってくる。医師のかたわら考古学にも関心を示す。神奈川の根岸や三ツ沢で貝塚を発掘している。アマチュア考古学者であったが、日本列島における旧石器文化の存在を示唆した。1898年北海道に上陸し、そしてアイヌの文化に惹かれその理解者となっていく。アイヌの木彫りが縄文式土器の文様に酷似しているころから、縄文人はアイヌの祖先ではないかという仮説をたてる。

アイヌ研究はアイヌとの深い信頼関係に根ざしていたようだ。アイヌと一緒に生活し、その文化に深く傾倒していく。晩年は平取町二風谷に長く住みそこで医療活動をする。アイヌの悲惨な境遇に接し、貧困が飲酒と怠惰に原因すると考え、生活の改善策として果樹栽培や畑作、牧畜をアイヌに奨励する。

マンローは晩年になると、国際情勢の緊張によりスパイの嫌疑がかかったこともあったようだ。だがアイヌなど地元の人々はマンローの人柄や研究への情熱に尊敬の念を抱いていた。マンローの葬儀は、アイヌの人の古式にそって執り行われたといわれる。彼が蒐集したアイヌ民具などのコレクションはエディンバラにあるスコットランド国立美術館(The National Galleries of Scotland)に収蔵されているという。

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北海道とスコットランド その6  スコットランド人と北海道の開拓 その1 エドウィン・ダン

北海道開拓の歴史にもスコットランド人が貢献したことを忘れてはならない。その一人がエドウィン・ダン(Edwin Dun)である。

ダンもまた明治期のお雇い外国人の一人。獣医師であり畜産や肉の加工などで多くの弟子を養成したといわれる。ダンの両親はスコットランド人で、アメリカのオハイオ州に移民しそこで酪農を始める。同州オックスフォード市(Oxford)にあるマイアミ大学(Miami University)を卒業後、父の経営する牧場で牧畜全般の経験を積み、さらに叔父の牧場で競走馬と肉牛の育成法を学ぶ。

1873年に明治政府との間で1年間の雇用契約を結び北海道にやってくる。技術指導者として、また獣医として畜産状の技術指導にあたる。札幌西部に牧羊場を、真駒内に牧牛場を開設し、バター、チーズ、練乳の製造およびハムやソーセージの加工技術を指導した。

競走馬の養成にも力を注ぎ、日高の新冠牧場では最高千数百頭もの馬が飼育されたといわれる。種馬や種羊を積極的に輸入し、品種改良や増産にあたった。日高地方がやがて日本における競走馬の主要な産地となっていく。

彼の功績を称える「エドウィン・ダン記念公園」が札幌の中心のやや南の真駒内にある。その中に記念館もある。札幌付近がスコットランドの風土と気候に類似していることから、酪農や食肉加工の地として相応しいこともダンの技術力が発揮できたとも考えられる。

hitsujigaoka  羊ヶ丘展望台Edwin-Dun エドウィン・ダン記念館

北海道とスコットランド その5 スコットランド人と日本のかかわり その3

スコットランドは産業革命より前から世界の科学技術の中心地であり、それを支えた多くの科学者や技術者を輩出している。数学、物理学、化学、細菌学など基礎的科学にはじまり、電気通信、医学など技術・工学の分野、さらに文学、思想、哲学、経済学に至るまで、あらゆる分野で希有な能力をもつ人材を輩出してきた。これは世界に類例を見ないことといわれている。

多くのスコットランド人が北米大陸に渡って行くが、その他の大陸にも発見を求めて雄飛していく。そして日本に、北海道にもわざわざやってくるスコットランド人の心意気は一体はどこにあるのか、どうして生まれたのかを考えている。それがこのシリーズの原点である。

有名な歴史学者のアーノルド・トインビー(Arnold Toynbee)は、スコットランド人をして近代のディアスポラ(diapora–離散された者)と呼んだということである。こうしてスコットランド人の歴史を調べていくと、そこに探検家、宣教師、医師など、特別な技術や知識を有する者が日本にもはるばるやってきていることがわかる。なにか感慨深いものがある。

デヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)は、スコットランド人。ヨーロッパ人で初めて「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断する。ハワイ諸島、オーストラリア、ニュージーランドなどを発見したジェームス・クック(James Cook)の父親もスコットランド人である。

明治維新は、封建の世から目覚めたばかりであった。司馬遼太郎が「坂の上の雲」と呼んだ欧米の列強を目の当たりにして、明治政府は日本の近代化のために多くの技術者を招聘した。それに貢献したのがスコットランド人の技術者である。幕末から明治維新にかけ工部大学校(東京大学工学部の前身)の初代総長となったヘンリー・ダイヤー(Henry Dyer)がいる。彼はグラスゴー大学(University of Glasgow)を卒業後、東京で技術者の養成にあたる。

同じく東大医学部の前身東京医学校の初代校長ウィリアム・ウィリス(William Willis)がいる。彼はエディンバラ大学(University of Edinburgh)の出身である。鉄道技師にエドモンド・モレル(Edmund Morel)がいる。1876年に来日し、やがて新橋と桜木町を結ぶ鉄道を建設する。今も「鉄道発祥記念碑」が桜木町駅付近にある。

エディンバラ大学は1583年に設立された、英国で6番目に長い歴史を有する国立研究大学である。エディンバラ大学はこれまで11名のノーベル賞受賞者がいる。グラスゴー大学からも6名の受賞がいるともWikipediaに記されている。すごい業績である。

IMG_00022  ヘンリー・ダイヤーの記事330px-Cook-death クックとハワイ島上陸