アジアの小国の旅 その七十九 ジブチ

中東に派遣されている自衛隊の機体と要員の交代が行われるのがジブチ(Republic of Djibouti)です。3か月毎に交代するのです。紅海(Red Sea)のインド洋への出口にあたる地政学上非常に重要な場所、いわゆる「アフリカの角」(Horn of Africa)地域にあるのがジブチです。アフリカ大陸にある国としては3番目に小さい国です。面積は四国の約1.3倍といわれます。歴史上、イタリア、イギリス、エチオピア帝国の力関係の緩衝地帯のような役割を果たしてきた旧フランス領です。

スエズ運河の建設が始まった1859年にフランスは地元のダナキル族(Danakil)からタジューラ湾(Gulf of Tadjoura)のオボック港(Obock)を租借します。エチオピア帝国がハラール(Harar)までの鉄道敷設権をフランス企業に与えたのをきっかけに、その周辺地域を含めてフランス領ソマリ (Somaliland)として植民地化されます。ジブチがフランスから独立したのは1977年です。

国を構成する民族は、主にソマリ系のイッサ人(Issa)とエチオピア系のアファール人(Afar)の2大集団です。この部族間の対立もあって、アフリカ諸国の中では比較的遅くに独立を達成したという経緯があります。独立後もこの民族間の対立は尾を引き、1990年から2001年まで内戦が続きました。

過酷な気候のため農作物が育たず、国土も小さいため鉱物資源も少ない国です。かろうじて塩の生産が輸出品となっています。エリトリア独立によって港を失い内陸国となったエチオピア相手した海上貿易の利益、ジブチとエチオピアを結ぶ鉄道の収益、フランス軍を初めとする海賊に対応する各国軍の駐留による利益で経済が成り立っているのがジブチです。中国もジブチに基地をつくり、中東への影響を高めようとしています。ジブチは典型的な中継貿易国家といえそうです。

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アジアの小国の旅 その七十八  エリトリア

エリトリア(State of Eritrea)という国名を聞いたことがありますか?エトルリア(Etruria)はイタリア半島中部にあった古代都市、アナトリア(Anatolia)は、トルコのアジア部分の地域です。名称が似ていますが、全く違った地名です。エリトリアはアフリカの角と呼ばれるアフリカ大陸北東部にあり、西にスーダン(Sudan)、南にエチオピア(Ethiopia)、南東部にジブチ(Djibouti)と国境を接し、東は紅海(Red Sea)に面する国です。地図を見ますと、エリトリアは紅海に沿って約1350km続く海岸線を持ちます。領海域にはおよそ350の島々があります。

1869年にエジプトでヨーロッパとオリエントを結ぶスエズ運河(Suez Canal)が開通すると、イタリアがエチオピアに介入し始め、1882年に植民地宣言をします。エチオピアはエリトリア地域をイタリアの支配に委ねます。エリトリアは30年もの長きにわたる対エチオピア独立闘争の末に1993年に独立します。アフリカで2番目に新しい国といわれます。

国全体は熱帯乾燥気候に属します。小国にも関わらず多様性に富む地形により様々な気候が混在し、沿岸部の砂漠地帯には、年平均気温が30℃を超える世界一酷暑の地といわるダナキル(Danakil )低地があります。アフリカ大地溝帯にあるために、マグマが吹きだす活火山でも知られています。首都のアスマラ(Asmara)はイタリアの占領時代に発展した街で、近代建築(Art Déco)のならぶ街並みが2017年に世界遺産と認められます。Art Décoとは一つの装飾様式で線や記号、幾何学的な模様やパターンで構成されたデザインが特徴といわれます。

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アジアの小国の旅 その七十七 スーダン

世界中に、食糧が不足して子どもに食べさせることができない国があります。スーダン(Republic of the Sudan)もその一つといえそうです。今年はバッタの巨大発生で畑を食い散らしていることが報道されています。スーダンは、北東アフリカに位置し、アフリカ大陸で3位の面積を有しています。エジプト(Egypt)、リビア(Lybia)、チャド(Chad)、中央アフリカ、南スーダン、エチオピア(Ethiopia)、エリトリア(Eritrea)と国境を接し、東は紅海(Red Sea)に面しています。対岸にはサウジアラビア(Saudi Arabia)があります。紅海の先にはスエズ運河(Suez Canal)があります。

エジプト南部アスワン(Aswan)あたりからスーダンにかけてのナイル川(the Nile)流域北部はヌビア(Nubia)と呼ばれ、北に栄えた古代エジプトの影響を強く受けたところです。古代エジプトの諸王朝は、勢力が強まるとナイル川沿いに南下して金や象牙の交易拠点を作り支配領域を広げ、国力が衰退すると撤退することを繰り返したといわれます。

スーダンは1899年から再びエジプトとイギリスの両国による共同統治下に置かれます。1956 年にイギリス・エジプトから独立する際、北部と分離独立を求める南部の間で内戦が勃発し、2011年7月に、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立します。約半世紀にわたる長い紛争が続きました。このため、南スーダンでは子どもだけでなく大人も、平和な状態をほとんど知らないといわれます。

2018年9月にムウタズ・ムーサ(Motazz Moussa)首相となりますが、2019年4月に軍部によりクーデターが起こり、憲法を停止し暫定軍事政権が実権を握ります。同年8月よりアブダッラー・ハムドゥーク(Abdalla Hamdok)が首相となり組閣をし、軍と民主化勢力による3年の暫定共同統治を行っており、2022年の選挙実施を目指しています。

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アジアの小国の旅 その七十六  ソマリア

ソマリア(Republic of Somalia)は、東アフリカのアフリカの角(African Horn)と呼ばれる地域を占める国です。飢餓に苦しむ貧しい国というイメージが浮かびます。エチオピア(Ethiopia)、ケニア(Kenya)およびジブチ(Djibouti)と国境を接し、インド洋とアデン湾(Gulf of Aden)に面しています。

19世紀まではイギリスとイタリアの保護領として、北部はイギリス領、南部はイタリア領に分割統治されていました。1960年に南北が独立と同時に合併して「ソマリア共和国」を形成します。1991年に内戦が起こって以来、無政府状態が続いていましたが、2012年11月に「ソマリア連邦共和国」として、21年ぶりに統一政府が樹立されます。

1969年のクーデターによりバレ政権(Barre regime)が誕生します。1991年、バレ政権が崩壊して内戦状態になり、同年5月には北部で「ソマリランド共和国」(Republic of Somaliland)が分離独立を宣言します。また1998年7月には北東部で「プントランド」(Puntlaand)も自治政府の樹立を宣言します。 特に、旧イギリス領にあたるソマリランド共和国は、国際社会では「国家」として承認されていない「未承認国家」ですが、ソマリアの中で最も治安がよく、安定した政治体制が築かれていて、独立国家としての機能を有しているといわれます。

1991年に崩壊して以来,ソマリアは,全土を実効的に支配する政府が存在しない状態に陥ります。劣悪な治安状況の下,大量の難民及び国内避難民が発生します。干ばつが加わり,食糧不足が悪化し重大な人道危機が生じます。世界中でこの危機が報道されたのは真新しことです。1992年以降,停戦監視及び被災民援助活動の支援のために国連ソマリア活動(UNOSOM: United Nations Operation in Somalia)が設立され,アメリカを中心とする統一タスクフォース(UNITAF: Unified Task Force)の活動が開始されます。しかし武装勢力の激しい抵抗を受けて、1995年3月には完全撤退を余儀なくされます。2018年1月現在,緊急人道支援を必要とする人口は390万人に及ぶといわれます。

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アジアの小国の旅 その七十五  イエメン

イエメン(Republic of Yemen)は中東のアラビア半島南端部に位置する共和制国家です。紀元前10世紀頃は、古代のイエメンの王国はインドと地中海及び東アフリカの貿易の中継地として繁栄したようです。そのため古代ギリシャ人やローマ人から「アラビアン・フェリックス」(Arabian Felix)と呼ばれます。ラテン語で「幸福なアラビア」という意味だそうです。ヘレニズム(Hellenism)やローマ時代の地理学者が,現在のアラビア半島南半部を呼んだ名称です。オマーンと同様に香料の産地で豊かな王国と考えられていたようです。

 イエメンの現代史です。1839年に英国がアデン(Aden)を占領し、以降南イエメン地域を保護領とします。その後イエメン・アラブ共和国が成立します。1962年に南アラビア連邦が発足しますが,反英運動が激化し,1967年英国から南イエメン人民共和国として独立します。1969年には社会主義政権が誕生し,1970年にイエメン民主人民共和国と国名を改めます

 東西冷戦構造の中で、1970年代,1980年代には南北イエメン間でたびたび武力衝突がおこりますが、南北で分裂していたイエメンは1990年に「イエメン共和国」に統一されます。しかし、イエメン国内での度重なる戦乱や弱体な中央政府、覚醒作用をもたらすカート(Khat)の栽培と使用の広がり、Wikipediaによると、イエメンにおける全雇用の15%がカート関連産業であるといわれます。さらにイスラーム過激派の跳梁といった問題を抱えています。世界の最貧国の一つとして知られています。

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アジアの小国の旅 その七十四  オマーン

欧米列強の進出に悩まされ、保護や植民地支配からの独立した国々は、今も内戦などで苦しんでいます。オマーンもまた、かつてポルトガル、イギリス、フランスの保護国となった歴史があります。

オマーン国(Sultanate of Oman)は、アラビア半島の東端にあり、アラビア海(Arabian Sea)とオマーン湾(Gulf of Oman)に面する絶対君主制国家です。北西にアラブ首長国連邦(United Arab Emirates: UAE)、西にサウジアラビア(Kingdom of Saudi Arabia)、南西にイエメン(Republic of Yemen)と隣接しています。石油輸出ルートとして著名なホルムズ海峡(Strait of Hormuz)の航路もオマーン飛地の領海内にあります。 首都マスカット(Muscat) はオマーン湾にのぞむオマーン最大の港湾都市で、政治や経済、文化、教育の中心です。全土が砂漠気候に属し、大きな河が存在しない珍しい国といわれています。

オマーンは東アフリカ、中東、ペルシア湾岸、インドを結ぶ航路を控え、戦略的に重要な位置にあります。ホルムズ海峡はエネルギー供給の大動脈と呼ばれ、S字型に曲がった航路を何度も舵を切りながら進みます。一日平均14隻のタンカーが航行しているといわれます。日本政府は、オマーン湾やホルムズ海峡へ海上自衛隊の護衛艦1隻と哨戒機2機を派遣しています。オマーンは産油による高い国内総生産も相まって政治の安定に寄与しています。

オマーンの農産物はナツメヤシ サヤインゲン、果物の他、カラン科の樹木から分泌される樹脂、乳香(frankincense)があります。乳香は数千年にわたり宗教的行事にお香などで利用されてきた歴史があります。芳香成分には、リラクセーションや瞑想に効果的であると考えられています。ベツレヘム(Bethlehem)でイエス・キリスト(Jesus Christ)が生まれた時、東方からやってきた3賢人がイエスに捧げた贈り物が乳香、没薬、黄金であったという記述がマタイによる福音書(Gospel According to Matthew)2章11節にあります。

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アジアの小国の旅 その七十三 ヨルダンとペトラ遺跡

ヨルダン川 (Jordan River)は、洗礼者ヨハネ(John the Baptist)がイエス・キリストに洗礼を授けた所とマルコによる福音書(Gospel According to Mark)1章9ー11節にあります。ヨルダンはこのヨルダン川中東にある人口約760万人ほどの国で、死海(Dead Sea)を挟んでイスラエルと接しています。人口の半数近くがパレスチナ難民とその子孫と言われています。また、最近では63万人のシリア難民が押し寄せているそうです。首都アンマン(Amman)は紀元前13世紀頃に首都として定められたヨルダン渓谷の街といわれます。

ヨルダンは古代オリエントの中で比較的新しい国です。ヨルダン川(Jordan River)を境に古代のパレスティナから分離しています。古代の歴史にあって文明の発祥の地として大きな役割をはたしてきた地域です。旧約聖書、創世記(Genesis)第36章以降に記述されるモアブ(Moab)、ギリード(Gilead)、エドム( Edom)といった王国はヨルダン渓谷(Jordan Valley)に存在し、そこに古代ナバテア人(Nabatean)の有力都市であったペトラ(Petra)があります。紀元前1200年頃から、エドム人(Edom)がペトラ付近に居住していたと考えられています。紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったアラブの遊牧民族ナバテア人(Nabatean)が居住し始めます。そしてナバテア王国(Nabatean kingdom)が誕生します。ナバテア人はアラビア付近の貿易を独占し、それに伴いペトラも栄えたといわれます。

ペトラですが、シルクロード(Silk Road)と西のローマを結び、香料、絹、香辛料など収益率の高い商品を扱い、キャラバン隊の中継基地そして通商上の要所です。隊商都市として繁栄を極めたといわれます。優れた灌漑や貯水対策を講じ、砂漠の都市でありながら水に不自由することは無かったといわれます。交易により巨万の富を築いたナバテア王国は貨幣の鋳造も行っていたことも記録されています。ナバテア王国はペトラからエドム人を排除して領域の支配を固め、他方で超大国であったローマ帝国とは対立を避けることで国を安定させます。

世界遺産「古代都市ペトラ」は、映画「インディアナ・ジョーンズ 」(Indiana Jones)の舞台ともなっています。架空の考古学者インディの冒険活劇映画です。ペトラ遺跡は、1812年8月スイスの東洋学者ヨハン・ブルクハルト(Johann Burckhardt)によって発見されます。

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アジアの小国の旅 その七十二 「牛乳屋テヴィエ」とユダヤ文学

後述しますがイディシュ文学(Yiddish)はアシュケナージと呼ばれるユダヤ人の文学です。今回は「牛乳屋テヴィエ」(Tevye the Dairyman)とユダヤ文学の話題です。世界に散ったユダヤ人「ディアスポラ」(Diaspora)は建国の精神を抱いてイスラエルの地に戻ってきます。Diasporaとはギリシア語で「散らされている者」という意味です。そこから英語の「disperse」(散らす)という単語が派生します。

イスラエルの地に国を造ろうとした運動は、シオニズム(Zionism)と呼ばれます。宗教的、文化的復興を目指す近代化運動のことです。民族主義の昂揚とか祖国回復の運動ともいわれます。復習ですが、世界中から二種類のユダヤ人がイスラエルの地に戻ってきたといわれます。第一のグループはアシュケナージ(Ashkenazi)と呼ばれ主に東ヨーロッパなどに定住した人々やその子孫のユダヤ人です。第二のグループはセファルディ(Sephardi)と呼ばれ、主としてスペインやポルトガルまたはイタリアなどの南欧諸国やトルコ、北アフリカに住んでいたユダヤ人です。

さて「牛乳屋テヴィエ」は「屋根の上のバイオリン弾き」(Fiddler on the Roof)というミュージカルでも知られています。主人公はテヴィエ(Tevye)とその家族です。舞台はウクライナ(Ukraine)のユダヤ人が住む村です。この作品を書いた劇作家、ショーレム・アレイヘム(Sholem Aleichem)はウクライナ出身のユダヤ系アメリカ人です。アレイヘムの小説は、民衆の啓蒙を主題とし、離散したユダヤ人社会で生れたイディシュ文学の代表といわれます。「牛乳屋テヴィエ」に登場するユダヤ人はアシュケナージの人々です。

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アジアの小国の旅 その七十一 ユダヤ教徒とは

この記事は「シオンとの架け橋」(A Bridge between Zion and Japan)というサイトとBritannicaからの情報を基にしています。外部の人間がユダヤ教について、とやかくいっても理解することは難しいことです。民族や個人の社会的な背景や信仰によるところが大であるからです。教典や教義の解釈もまた違います。ユダヤ人は情報を大切にする民族といわれます。それゆえに何でも質問するので、いろいろな異なる答えが生まれる、という諺もあるほどです。それを示すのが、「3人のユダヤ人が議論すると4つの意見が対立する」という諺です。

全人口の4分の3を占めるユダヤ人は全員がユダヤ教徒で 、残りのアラブ人などはイスラム教(Islami)、ドルーズ教(Druze)、キリスト教徒などに分かれます。まず、ユダヤ教徒は4つの宗派に分かれています。 超正統派は男性なら黒い帽子、黒い上着と全身黒づくめで、女性は髪の毛を隠し、ロングスカートをはく人々です。次ぎに正統派は普通の服装ですが律法を守りユダヤ教を信じる人々です。さらに改革派は民族の伝統や人間の内面を重視し、食事の規定などを放棄する人々です。そして世俗派は宗教にも律法にも関心のない人々です。

ここで「律法」というのは、「ハラハー」(Halakhah)と呼ばれる宗教律法です。ハラハーは、古代から受け入れられてきた慣習,ラビと呼ばれる法学者・賢者の口伝律法といわれます。ユダヤ人の行為規範を指していることです。豚肉を食べないなど、割礼を施すこと、ユダヤ教の食事規定を守り、安息日の土曜日には仕事も料理も洗濯、裁縫もしない、電化製品を使わない、車に乗らない等の事柄です。 超正統派の人々の流儀です。

ある調査によりますと神を信じる人はユダヤ人の71%とあります。 イスラエルの人々が世俗的な人でも神の存在を意識していることです。逆にいいますと、ユダヤ教という宗教を信じない人々が多いのです。そこで「ユダヤ人とは一体誰か」という問いが生まれます。1950年制定の帰還法 (Law of Return)では、ユダヤ人とは「ユダヤ人を母とする者またはユダヤ教徒」と定義しています。すべてのユダヤ人にイスラエル移住の権利を与え、国外のユダヤ教徒がイスラエルに移民することを認める法律です。

注目したいことは、「ユダヤ人は全員がユダヤ教徒」という表記です。 ユダヤ教を信じない世俗的な人々も、「ユダヤ教徒」に分類されているのです。このことは、「日本は仏教徒の国である」「日本人は仏教徒である」という表現と似通っています。ほとんどの日本人は特定の宗教を信仰していないといわれます。しかし日本人の習慣や行事に古来の宗教が深く根ざしていることも事実です。

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アジアの小国の旅 その七十 パレスティナ自治政府

パレスティナ解放機構(Palestine Liberation Organization: PLO)とは、ヨルダン川西岸地区(West Bank)およびガザ地区(Gaza)を管理するパレスティナ人による自治機関です。パレスティナの独立宣言に基づいてパレスティナを国家として承認している国は137か国あります。日本はPLOを国家承認していないため,パレスティナ自治政府,またはパレスティナ自治区と呼んでいます。ただPLOとは友好関係を維持しています。

1988年5月にPLOとイスラエルの間で相互に承認しあったことは既に述べました。この歴史的な合意の立役者はPLO議長のアラファト(Ycasir Arafat)です。パレスティナ民族評議会でパレスティナの独立宣言を読み上げ,彼にはパレスティナ〈大統領〉の呼称が与えられました。アメリカが主導する中東和平プロセスのもとで,1993年オスロ合意に基づいて、PLOとイスラエルはパレスティナ暫定自治宣言に調印し、ガザとジェリコ(Jericho)の両地区にパレスティナ暫定自治政府(Palestinian Authority)が樹立されます。

しかし,イスラエルで2001年リクード党のシャロン(Ariel Sharon)政権が登場して以後,オスロ合意による和平交渉は行き詰まります。米国における9.11事件以後イスラエルは一層強硬策に転じ,2002年にはパレスティナに軍事侵攻し、対抗措置としてPLOの過激派による自爆テロも続発します。ブッシュ(George Bush)政権は2003年のイラク戦争後,パレスティナ国家の独立とイスラエルとの共存をめざす工程表を提示しますが、争いの連鎖が再燃し,情勢はむしろ悪化します。

2004年のアラファト議長の死後,穏健派のアッバス(Mahmoud Abbas)が後任となり,和平交渉の気運が高まります。2005年8月,ガザ地区と西岸地区北部の一部からのイスラエル人入植者の退去が完了します。しかし2006年イスラム原理主義のハマス(Hamas), が総選挙で勝利し,2007年にハマスと穏健派のファタハ(Fatah)の連立政権がいったん成立しますが,内部抗争が続き,連立政権は崩壊します。イスラエルとアメリカはハマスを相手にせず、穏健派のファタハを交渉相手にすると宣言し、軍事面を含む援助を行うという複雑な構図です。

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アジアの小国の旅 その六十九 イスラエルの経済発展

1948年以降、西ヨーロッパや北アメリカから高等教育を受けたり高度な技能を持った大量のユダヤ人がイスラエルに戻ります。こうした人々は移民後、様々な職業に就きますが、高い技能を有する人材バンクの中核として、大学や研究機関、ハイテク企業の設立に携わり、国の経済拡大に尽力し、やがてイスラエルの国内総生産を押し上げていきます。

イスラエルは世界中のユダヤ人からの寄附、西ドイツからのナチスの犯罪に対する補償、アメリカ政府からの多額の援助などによる資産を得ます。こうした資産をもとに、イスラエルはは貸し付けや国内投資、外国投資などに向けるのです。イスラエル政府の経済政策は、国内需要の増大と発展を海外の市場に向けることです。同時にイスラエルにはこうした方針を阻む国内問題があります。それは急激な人口の増加、隣国アラブ諸国からの交易上のボイコット、膨大な軍事費、天然資源の不足、高いインフレ、大量生産を阻む国内の小さな市場などです。

こうした困難にも関わらず、イスラエルは国民の高い生活レベルを維持していきます。工業品の輸出、観光業、世界的な高度な科学技術による製品の輸出がこうした高い国民生活を支えていきます。
しかし、高い国民生活水準はアラブ系の住民には行き渡っていません。未だに貧しい生活をしています。ユダヤ人の二つの派であるアシュケナージとセファーディムの間にも所得の格差があります。

イスラエルは、高度な技術力を背景としたハイテク・情報通信分野及びダイヤモンド産業を中心に経済成長を続けており,基本的には輸出を志向する産業構造となっています。近年,ネゲブ(Negev)付近の排他的経済水域内において,大規模な天然ガス田の開発が進められ,2013年からは一部で生産が開始されています。

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アジアの小国の旅 その六十八 イスラエルの政治情勢

イスラエルの3/4はユダヤ人で、残りはイスラム教徒であるアラブのパレスチナ人で構成されています。イスラエルにおける宗教の影響は政治にもかかわっています。ユダヤ人にはアシュケナージ(Ashkenazi)とセファルディ(Sephardi)という二つの民族がいることは既述しました。両者は長い伝統と文化を継承し、そこから政治、経済、社会についての異なる主義や思想を持っています。

一般に、イスラエルではアシュケナージが富裕層であり既存体制の支持者層であるのに対し、セファルディは世俗的で社会の改革を支持する層であり低所得者層を占めているといわれます。この二つの支持層では当然対立が起こり、現在のイスラエルの政界でも起こっています。宗教的に原理主義の立場をとる派と世俗的な考えを政治や日常生活に反映しようとする派との対立です。イスラエルにおける内政上の対立は、この「世俗と宗教の相克」ということにあります。宗教的な価値に基づいた政治体制を要求する勢力が挑戦し、その影響力を拡大しているという現在の政治勢力の姿は、イスラエルとパレスチナ双方に共通して見ることができます。

イスラエル政治の最大の特徴は、単独与党が存在した経験がなく、建国以来常に連立政権であるということです。イスラエルの現政権の基盤はリクード(Likud)という政党です。党首はネタニヤフ(Benjamin Netanyahu)で、労働党と並ぶ二大政党として2005年から政権を担当しています。この政党は領土拡張を強硬的に主張する保守派です。ガザ地区でのイスラムの原理主義で過激派ハマス(Hamas)の台頭に対して敵愾心を強めています。

リクードはイギリスがパレスチナの範囲をヨルダン川西岸に限定したことに反発し、「大イスラエル」を実現させること主張しています。パレスチナ被占領地–ヨルダン川西岸における入植地拡大、対イラン制裁などを党の方針としています。

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アジアの小国の旅 その六十七 イスラエルとシオニズム

イスラエル(State of Israel)を小国と呼ぶには大いにためらうのですが、国土の面積が日本の四国程度の大きさなのです。そのようなわけで小国と呼んでおきます。人口は890万人くらいです。この国ほど建国にいたる歴史において劇的な経過を辿った国は他にないだろうと思われます。このようなイスラエルの歴史を数回にわたり取り上げます。

地中海沿岸の東に位置するイスラエルは、北東にシリア(Syria)、南東にヨルダン(Jordan)、南西にエジプト(Egypt)と面しています。首都はエルサレム(Jerusalem)であるとイスラエルは主張していますが、各国からは広い支持を得てはいません。

イスラエルは、ユダヤ人(Jewish)によって作られた歴史的には若い国です。しかし、その建国に至る歴史は旧約聖書時代に遡るほど古いものです。イスラエルの国土は、もとはローマ帝国(Roman Empire)の一部であり、その後はビザンチン帝国(Byzantine Empire)の領土となります。7世紀にはイスラム帝国 (Islamic Caliphate)によって征服されます。 十字軍(Crusades)が派遣されてくる頃、この地域はパレスチナ(Palestine)と呼ばれるようになります。そしてオスマン帝国(Ottoman Empire)の支配が第一次大戦まで続きます。大戦後は世界連盟(League of Nations)の決議でイギリスの占領統治下に入ります。イギリスはユダヤ人の民族郷土建設の考え方を支持していきます。

その施策を進めたのが初代高等弁務官(High Commissioner)でユダヤ系イギリス人のハーバート・サミュエル(Herbert Samuel)です。ユダヤ人はパレスチナへの移民を進め、ユダヤ機関を設置したり自警組織を結成し、ヘブライ大学(Hebrew University of Jerusalem)の開校などを進めるのです。これはユダヤ人の国家建設に向けての運動でありました。

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アジアの小国の旅 その六十六 レバノン

地中海(Mediterranean Sea)の東岸に位置する現在のレバノン(Lebanese Republic)は、古代はフェニキア人(Phoenician)の定住地でありました。フェニキア人とは、東地中海岸で紀元前13世紀ごろから海上貿易に活躍したセム語族(Semites)の人々です。セム語族の起源は、旧約聖書創世記(Genesis)5章の大洪水と箱舟(Noah’s Ark)に登場するノア(Noah)の3人の息子の1人であるシェム(Shem)から由来するといわれます。

レバノンの歴史ですが、古代はフェニキア人が住んでいたティロ(Tyre)、シドン(Sidon)、バイブロス(Byblos)という港街が紀元前3世紀頃に栄え文化や貿易の中心となっていました。フェニキア人は、レバノンから地中海を渡り、現チュニジア(Tunisia)のカルタゴ(Carthage)、バルセロナ(Barcelona)、リスボン(Lisbon)、マルセイユ(Marseille)など各地に植民地を形成した民族です。

1920年代になるとフランスが進出しキリスト教を持ち込み、その後押しでレバノン王国をつくります。1926年にレバノン共和国として成立し、1943年に独立を遂げます。レバノンは宗教や民族の多様性で隆盛していくのですが、内政や外交、経済では大きな問題を抱えていきます。特にイスラエル(Israel)やアラブ(Arab)諸国との関係、そして国内に住む多数のパレスチナ(Palestinian)難民です。

国内では、多数の政党間の微妙なバランスは、パレスチナ問題や宗教的な対立で次第に崩れていきます。それが顕在化したのが1975年に起こった内戦です。政治組織は分解していきます。1990年に内戦が終結すると、レバノンは社会的、経済的にも安定していきます。にもかかわらず他国による干渉や介入、政党間の抗争が今も続いています。

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アジアの小国の旅 その六十五 中東ー三大陸の接点

中東(Middle East)とか近東(Near East)という用語の使い方は第二次大戦で始まったといわれます。イギリス軍がエジプトの統治の際に使った用語が中東です。

20世紀の中頃までは、中東とはトルコ(Turkey), キプロス(Cyprus), シリア(Syria),レバノン (Lebanon),イラク (Iraq),イラン (Iran),イスラエル (Israel), ヨルダン川西岸(West Bank), ガザ地区(Gaza Strip),パレスチナ(Palestine), ヨルダン (Jordan), エジプト(Egypt),スーダン (Sudan),リビア (Libya)を指していました。

さらに国名が続きます。サウジアラビア(Saudi Arabia)、クウェート(Kuwait)、イェーメン(Yemen)、オマーン(Oman)、バーレン(Bahrain)、カタール(Qatar)、今のアラブ首長国連邦(United Arab Emirates)等も含むような使い方をします。こうした曖昧な概念の定義によって、中東は北アフリカの国々を含むようにもなります。すなわちチュニジア(Tunisia)、アルジェリア(Algeria)、リビア(Lybia)、モロッコ(Morocco)の国々です。

中東は、地理的にはヨーロッパ、アフリカ、アジアの三大陸の接点にあたります。東西文明が行き交い、交易や人々の交流の役割を果たしてきました。また近代から現代にかけて、特に1938年頃から本格的にサウジアラビアやクウェートで石油が産出されます。湾岸各国は油を採掘する技術は持っていなかったので、メジャーと呼ばれる国際石油資本によって油田は採掘されます。メジャーは石油の採掘から販売まで一貫して操業する大手の石油会社です。この石油の産出により、中東は第二次大戦により軍事的にも経済的にも重要な一帯となるのです。

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アジアの小国の旅 その六十四 中東とか中近東の歴史

今回から「アジアの小国の旅」というテーマで稿を進めてまいります。中東(Middle East)から始めていきます。中東という言葉と接するとなんとなく「イスラム教の国々」という印象を受けます。確かにその通りなのですが、中東とは、地中海沿岸国(Mediterranean Sea)やモロッコ(Morocco)やアラビア半島(Arabian Peninsula) 、イラン(Iran)などの国々を指すようになっています。

中東とは西アジアとアフリカ北東部の総称です。こうした中東の中心のあたりの地域をヨーロッパの地理学者や歴史学者が近東(Near East)と呼ぶようになりました。こうした学者によれば、東方諸国(オリエント:Orient)とは、三つにまたがる地域であると主張します。第一は地中海からペルシャ湾(Persian Gulf)に至る地域、第二はペルシャ湾から東南アジアに至る地域、そして日本を含む太平洋に面した地域というのです。

オリエントというと、第一にエジプト(Egypt)、メソポタミア(Mesopotamia)を中心とする小アジア・西南アジア・北アフリカの地域です。通常、世界最古の文明発生地一帯をオリエントと呼ばれます。第二はアジアの総称で特に東アジアを指すことです。どちらもラテン語の「Oriens」という日の出を意味する単語、すなわち東方に由来するといわれます。

中東は、19世紀以降にイギリスなどがインド以西の地域を植民地化するために使われた概念といわれます。もともとは、イランやアフガニスタン(Afghanistan)およびその周辺を指しました。中東に含まれる地中海沿岸地域は近東と呼ばれました。しかし、中東と近東の概念を混同した中近東という概念も使われるようになります。ただし、中東、近東、中近東の違いは明確ではありません。このような地域の区分は第二次世界大戦中にイギリス軍が始めて使ったといわれます。

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ヨーロッパの小国の旅 その六十三 アルメニア

「ヨーロッパの小国の旅」の最後の稿です。アルメニア(Republic of Armenia)は、南コーカサス(Transcaucasia)に位置する共和制国家です。東ヨーロッパに含められることもあります。首都はエレバン(Yerevan)で、黒海(Black Sea)とカスピ海 (Caspian Sea)の間にある内陸国です。西にトルコ(Turkey)、北にジョージア(Georgia)、東にアゼルバイジャン(Azerbaijan)、南にイラン(Iran)とアゼルバイジャンの飛び地(Exclave)、ナヒチェヴァン(Naxçıvan)自治共和国と接します。

アルメニアもまた近隣の国々と同時に長い歴史を有しています。この稿では現代史に限定することにします。1918年にロシア帝国(Russian Empire)から独立します。1920年にはトルコとロシアによって侵略されます。その年の9月にソビエト–アルメニア共和国が樹立されます。1922年になるとコーカサス-ソビエト社会主義共和国となります。1936年にはアルメニアはソビエト連邦に併合され、長い間ソ連の統治化に置かれます。

1991年にソ連保守派のクーデターが失敗したため、同年9月にアルメニア社会主義ソビエト共和国は「アルメニア共和国」として独立します。同年12月25日付でソ連邦は解体・消滅し、アルメニアは晴れて独立国家となります。

アルメニアは内陸に位置し山岳地帯に囲まれています。国の平均海抜は1800mです。火山地帯にあり、これまで大地震に襲われてきました。1988年12月に起きた地震では約25,000人が犠牲となるほどの規模でした。

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ヨーロッパの小国の旅 その六十二 アゼルバイジャン

アゼルバイジャン(Republic of Azerbaijan )は、カスピ海(Caspian Sea)と南コーカサス(Transcaucasia)に位置する共和制国家です。南はイラン(Iran)とアルメニア(Armenia)、北西はジョージア(Georgia)とロシアに隣接しています。首都は、古代都市でも有名なカスピ海に面する港湾都市のバク(Baku)です。

アゼルバイジャンは1918年から1920年まで独立した国家でした。しかし、ソビエト連邦に併合され1936年にはソ連の連邦国(constituent republic)となります。ソ連邦の解体により1989年9月に共和国を宣言し1991年8月に完全に独立します。

アゼルバイジャンは、工業と農業が盛んな国です。特に石油と天然ガスが豊富な国です。石油製品,鉄鉱も生産しています。バクー油田が有名で、ソ連崩壊やアルメニアとの紛争で落ち込んだ経済を支えています。天然資源を巡る問題は、第二次世界大戦やチェチェン紛争とアゼルバイジャンの関係とも大きくかかわってきました。軽工業、食品工業なども盛んです。チェチェン(Chechen)紛争とは1999年に勃発したロシア連邦からの独立派勢力とロシア連邦への残留を希望するチェチェン人勢力との間で発生した紛争です。

アゼルバイジャンは、1997年に脱ロシア志向のウクライナ、ジョージア(グルジア)、モルドバとの4カ国(GUAM)による民主主義と経済発展を目指す国際機関を結成しています。

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ヨーロッパの小国の旅 その六十一  ジョージアとバラ革命

ジョージア(Republic of Georgia)は東ヨーロッパ、もしくは西アジアに区分されています。首都はトビリシ(Tbilisi)。2015年4月まで日本政府はグルジア(Gruziya)を国名として使用していました。

コーカサス山脈(Caucasus Mountains)の南麓、黒海(Black Sea)の東岸にあたります。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア(Armenian)、アゼルバイジャン(Azerbaijani)と隣接しています。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝でありました。そのため幾度も他民族の侵略に晒されてきました。今日もロシア正教(Russian Orthodox Church)の信仰などの伝統文化を守っています。温暖な気候を利用したワイン醸造の国としても知られています。

私がこの国を知ったのは2009年頃です。イリノイ大学(University of Illinois)の友人がこの国の大学に客員教授として招かれました。彼から電話で「今ジョージアにいる」というのです。私はてっきりアメリ南部のジョージア州からの電話だと思いました。彼からの電話は、かつてグルジア(Gruziya)と呼ばれていた国、ジョージアからでした。

ジョージアをより身近に感じたのは2018年初場所で優勝した栃ノ心です。彼がジョージア出身の力士であることを知ったことでした。その他、旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)の出身地がジョージアです。彼は、1922年から1953年まで共産党第一書記、1941年から1953年まで首相として、絶大な権力を有した独裁政治家です。

ジョージアは、ソビエト連邦の構成国でしたが、ソ連の崩壊とともに1991年に独立します。ロシア連邦など一部の国から国家承認を受けています。ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたために、独立後はロシアとの対立路線をとることが多いといわれます。

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ヨーロッパの小国の旅 その六十 モルドバ 

この国もあまり聞き慣れない国です。一体どこにあるのかをすぐには答えられません。以下、Encyclopaedia Britannicaで調べたモルドバ(Republica Moldova)の紹介です。

東ヨーロッパに位置する共和制国家がモルドバです。内陸国であり、西にルーマニア(Romania)と、他の三方はウクライナ(Ukraine)と国境を接しています。モルドバは以前はベサラビア(Bessarabia)と呼ばれ1812年まではルーマニアの一部でした。その後オスマン・トルコ(Ottoman Empire)に編入され、第一次大戦まではロシア帝国(Russian Empire)の一部となります。やがてルーマニア帝国(Great Romania)に編入され、1940年から41年まではソ連の占領下となります。モルドバ人自治によるソビエト社会主義共和国となり1991年8月のソ連の崩壊により共和国の独立を宣言し、国名をモルドバとします。1992年に国連に加盟します。

1991年の独立以来、モルドバは4つの問題を抱えてきました。第一は地方自治の伝統がなかったために、地方政府が樹立出来ないことです。第二は地方自治の政治が無かったために、ソ連による高度の中央集権化で憲法を制定するのが難しいという問題です。第三は統制経済下にあったために自由経済の考え方が行き渡らないことです。農業も「集団農場」(Collective Farm)での共同経営(State Farm)が行われ、生産物は政府に売却したり組合組織による経営が行われていたからです。土地の個人所有や個人生産によって、生産性の低下や混乱が起こります。

第四は、モルドバの東部にありウクライナ国境に接するドニエストル(Transdniestria)が独立を叫び、1990年には独立戦争を始めます。1992年には停戦が成立し、ロシアの軍隊がドニエストルに治安維持のために駐留しています。ドニエストル地域は、モルドバの電力を供給していて、首都は何度も供給を閉ざされ、そのために国家の建設が滞ってきました。外国からの投資もなく、ヨーロッパで最も貧しい国といわれています。

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