日本にやって来て活躍した外国人 その五 シーボルト

シーボルト(Philipp Franz von Siebold)は名前から分かるようにドイツ人で、江戸末期に長崎出島のオランダ商館に医師として来日します。正確なドイツ語の発音は「ジーボルト」なのですが、一般にシーボルトと呼ばれています。シーボルトの日本における活動は特筆すべきことがたくさんあります。西洋人として初めて出島外に鳴滝塾という私塾を開校し、日本人に最新の医学を教えた貢献は、偉大なものがあります。

1823年3月にインドネシア(Indonesia)のバタヴィア(Batavia)近郊にあった砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任します。バタヴィアは、首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称です。1823年6月末にバタヴィアを出て8月に来日し、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となります。シーボルトの医師としての活躍は、南蛮医学とかオランダ医学として、多くの日本人が彼の下で学びます。彼やその弟子の手によって多くの命が救われていきます。彼は当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝え、国内の医学は飛躍的に発

彼は医学のみならず、生物学、民俗学、地理学など多岐にわたる事物を日本で収集し、オランダへ発送します。幕府天文方高橋景保は、伊能忠敬が作製した日本および蝦夷の地図を写してシーボルトに贈ったりします。シーボルトは、国禁であったこうした品の国外持出しをはかりますが、それが発覚して多くの幕吏や鳴滝塾門下生が処罰されます。これが1828年に起こった洋学者弾圧のシーボルト事件です。シーボルトはこれによって国外に追放されますが、多くの標本などを持ち帰っていきます。この資料の一部は今もオランダのライデン(Leiden)、ドイツのミュンヘン(Munich)、オーストリアのウィーン(Wiena)に残されている

シーボルトの薫陶により杉田玄白、前野良沢、中川順庵などの蘭方医が育ちます。彼らの業績に『解体新書』の翻訳がつとに知られています。ドイツ人医師クルムス(Johann Adam Kulmus)の解剖学書の(Anatomische Tabellen)のオランダ語訳書「ターヘル・アナトミア」(tafel anatomie)がそうです。

日本にやって来て活躍した外国人 その四 ルイス・フロイス

次は、ルイス・フロイス(Luis Frois)のことです。彼は1532年、ポルトガルの首都リスボン(Lisbon)で生まれです。16歳の若さでイエズス会に入り、その後インドのゴアに行きます。当時のゴアはイエズス会の伝道の拠点になっていた所です。ここでフロイスはザビエルに出会います。29歳のときに叙階されて司祭となります。彼の筆力と語学の才能は高く評価されて、本国と布教先との連絡役を任されます。そして31歳のとき、ついにフロイスは日本へ布教をしに行けることになります。

フロイスは1563年(永禄6年)に今の長崎長崎県の西海市付近に上陸します。フロイスは語学の才能を活かし布教のために日本語や日本の風習を学び始めます。「パン」や「カステラ」など日本語に浸透したポルトガル語があるように、当時フロイスも「日本語はポルトガル語に少し似ている」ことを学んだようです。1565年1月に京都に入り、他の宣教師や日本人の修道士とともに布教活動を始めます。

1569年、将軍の足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城で初めて対面します。既存の仏教界に不信感を抱いていたのが信長です。フロイスは信長の信任を獲得して畿内での布教を許可され、イタリア人宣教師のオルガンティノ(Organtino Gnecchi‐Soldo)などと共に伝道活動をし多くの信徒を得ていきます。オルガンティノは30年間を京都で過ごし信長や秀吉などの時の権力者とも知己となるという人物です。

フロイスは、その後は九州において活躍しますが、1580年の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)の来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁します。巡察師とは伝道管区における布教状態を調べ宣教師達に助言を与えるとともに、本部に報告する役割を持ちます。フロイスは日本におけるイエズス会の活動記録を残すことに専念するよう命じられます。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めていきます。この記録が後に「日本史(Historia de Iapam)」と呼ばれることになります。

当初、秀吉は信長の対イエズス会の布教政策を継承していましたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになります。そして、1587年7月には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去り大村領長崎に落ち着きます。

1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見します。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡りますが、1595年に長崎に戻ります。そして 1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月大村領長崎にあった聖職者育成の学校、コレジオ(collegio)にて没します。

日本にやって来て活躍した外国人 その三 ザビエルと琵琶法師ロレンソ

サビエルは山口の街角では毎日二回説教し、神の福音を説いていきます。集まった者から宗教以外の色々の質問にも答えたいわれます。サビエルは修道院でいろいろな学問を修めていたので、自然界のこと、例えば地球の形、太陽の動き、雷や稲妻、雪、雨等の天文や気象に関するもの、自然科学に関する問いに答えたようです。

布教を通して有力な信者を得ていきます。そのうちでも盲人の琵琶法師は最も知られています。山口の街角でザビエルに出会い、自身の疑問をぶつけザビエルの回答を聞く中で、キリスト教の教えを理解し、やがてロレンソ(Lorenzo)という洗礼名を受けます。ロレンソは後に京阪神方面で活動し、織田信長や豊臣秀吉にも福音を説き、やがて高山右近等の名高いキリシタン大名を得ていきます。サビエルの生涯で、ロレンソなどの弟子を育てた山口での伝道活動は最も充実していたようです。

1551年11月に鹿児島のベルナルド(Bernard)、マテオ(Matthew)、ジュアン(Juan)、アントニオ(Antonio)という洗礼を受けた日本人青年4人を同行させ、ザビエルはトーレス(Tores)神父とフェルナンデス(Fernandez)修道士らを残して日本を離れます。神父というのはトリック教会の司祭で、修道士とは清貧や貞潔、服従の誓いをたてた者です。

日本にやって来て活躍した外国人 その二 フランシスコ・ザビエル

「日本史において活躍した外国人?」といえばどうしてもフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)を第一番に挙げたくなります。天文18年といえば1549年ですが、我が国に最初にキリスト教を伝えたことで知られています。ザビエルはスペイン人宣教師です。私は津和野を訪ねてから山口市に立ち寄ったことがあります。ザビエルのことを少し学んでいたからです。山口サビエル記念聖堂を訪ね、そこで観光客を案内していたスペインからの神父さんと会話したのを思い出します。

ポルトガル王ジョアン3世(Joao III)は、イグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio Lopez de Loyola)がイエズス会(Society of Jesus or Jesuit)という新修道会を創設したことを知り、ポルトガル植民地内の異教徒へキリスト教を布教する宣教師を派遣するようにロヨラに依頼します。ロヨラが推薦したのが、フランシスコ・ザビエルとシモン・ロドリゲス(Simon Rodríguez)です。こうしてザビエルは東方伝道の命を受けインドのゴア (Goa)に派遣されます。ザビエル最初に日本に上陸したのは鹿児島です。

ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え1551年4月下旬、周防に向かいます。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは一行を盛装させて、守護大名、大内義隆に謁見し珍しい文物を献上します。これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めます。

大内義隆は、廃寺となっていた山口の大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えます。これが日本最初の常設の教会堂となります。南蛮寺の第一号のようなものです。ザビエルはこの大道寺で説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったとあります。日本で初めてのクリスマス行事もここで行われたと記録にあります。現在の山口カトリック教会サビエル記念聖堂の落成献堂式は1952年1月、1991年9月に焼失しますが、1998年4月に再建されます。

日本にやって来て活躍した外国人 その一 西洋言語の到来

この稿からしばらく、日本で活躍した外国人の歴史を取り上げいきます。大勢の外国人が日本にやってきました。こうした人々は高い識見や知識、あるいは東洋に深い関心や興味を持って、何千マイルの彼方からやったきたのは間違いないことです。

こうした外国人は、主として交易や布教などを目的としてやってきたことが伺えます。後に食糧や水の供給、教育の普及を求めてきます。いわば探検家や開拓者のような人々です。

最初に日本にやってきた人々は、主にカトリックの聖職者でした。彼らは、神学校などにおいて哲学や自然科学、医学、工学などを学んでいましたから、当時の日本人、とりわけ大名や武士には、その知識は驚きをもって迎えられたに違いありません。

聖職者らは、数々の献上品を持参していました。その中には親書や聖書、世界地図、地球儀、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、その他小銃など日本には無かった品々が含まれていました。

そしてなによりもポルトガル語、スペイン語、オランダ語、英語などをもたらします。言語は知識を伝播する源となります。日本が文明開化していくのは西洋の言語を学び、さまざまな知識を吸収していく過程といえましょう。

アジアの小国の旅 その九十三 カンボジア

カンボジア(Kingdom of Cambodia)の話題です。南はタイランド湾(Thailand Bay)に面し、西はタイ、北はラオス(Laos)、東はベトナム(Vietnam)と国境を接します。国民の90%以上が、クメール語(カンボジア語)(Khmer)を話します。首都はプノンペン(Phnom Penh)となっています。

ベトナム戦争が北の勝利で終結することが間近となった1975年4月17日、カンボジアではクメール共和国が打倒され、民主カンプチアを樹立した政治勢力のクメール・ルージュ(Khmer Rouge)が政権につきます。その指導者はポル・ポト(Pol Pot)です。政権はシハヌーク(King Sihanouk)国家元首に推戴するも、実権はポル・ポトが掌握します。1979年までポル・ポト政権は原始共産制の実現を目指すクメール・ルージュの政策により飢餓、疫病、虐殺などで100万人から200万人以上とも言われる死者が出ます。教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、その他イデオロギー的に好ましくないとされる階層のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られます。

強制収容所の俗称は「Killing Fields」と呼ばれました。正確な犠牲者数は判明しておらず、現在でも国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘されるといわれています。トゥール・スレン(Tuol Sleng)という収容所が最も悲惨なところといわれ、今はトゥール・スレン虐殺犯罪博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)となっています。

1,000以上の寺院があるアンコールワット(Angkor Wat)は平和なたたずまいを見せています。ワットとは寺院にことです。仏教国のカンボジアでなぜ大量虐殺が行われたかは、大国の後ろ盾などがあったことも判明しています。

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アジアの小国の旅 その九十二 ミャンマー

ミャンマー(Republic of the Union of Myanmar)とききますと、私の世代ではビルマ(Burma)がぴんときます。 1885年から続いたビルマという国名は1989年にミャンマーと改名します。首都名も1948年から1989年まではラングーン(Rangoon)でした。1989年にヤンゴン(Yangon)となり、現在の首都はネーピードー(Nay Pyi Taw)となっています。

諸部族割拠時代を経て11世紀半ば頃に最初のビルマ族による統一王朝のパガン王朝(Pagan Kingdom)が成立します。その後、モンゴルの侵入(Mongol invasions)があります。モンゴルが去るとタウングー王朝(Taungoo dynasty)、コンバウン王朝(Konbaung dynasty)が生まれ、1886年にイギリス領インドに編入されます。戦後の1948年1月に民主国家としてビルマが独立します。

1962年3月にネ・ウィン(Ne Win)将軍に率いられたクーデター(coup detat)が起こります。それ以来ミャンマーは軍部によって支配されていきます。ミャンマーは多くの部族を抱え、部族間の対立や内紛が続いています。2015年11月に行われた総選挙アウン・アウン・サン・スー・チー (Aung San Suu Ky)議長率いる National League for Democracy:NLDが大勝し、側近のティン・チョウ(Htin Kyaw)を大統領とする新政権が発足します。スー・チー氏は,国家最高顧問,外務大臣及び大統領府大臣に就任します。

ミャンマーにおいて約半世紀ぶりに国民の大多数の支持を得て誕生した新政権は,民主化の定着,国民和解,経済発展のための諸施策を遂行します。しかし、依然として軍部の後ろ盾による政権が続きます。2018年8月,ラカイン州(Rakhine)北部における治安拠点への連続襲撃事件が発生します。その後の情勢不安定化により,70万人以上のロヒンギャ(Rohingya)部族の避難民がバングラデシュ(Republic of Bangladesh)に流出します。ミャンマーはロヒンギャ民族の市民権を認めていません。世界中から人権問題として非難されています。スー・チー氏のノーベル平和賞受賞についても疑問が高まっています。

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アジアの小国の旅 その九十一 モルドバ

モルドバ(Republica Moldova)は東ヨーロッパに位置する共和制の国です。国土は九州よりやや小さい内陸国であり、西にルーマニア(Romania)と他の三方はウクライナ(Ukraine)と国境を接しています。旧ソビエト連邦を構成していた国家の一つとしてモルドバ-ソビエト社会主義共和国(Moldavian Soviet Socialist Republic)でしたが、1991年のソ連の崩壊によりドニエストル川(Dniester River)西岸地域を領有し独立します。首都はキシニョフ(Chisinau)となっています。

モルドバ人は言語的、文化的にルーマニア人との違いはほとんどなく、歴史的には中世のモルダビア公国以後、トルコとロシアならびソ連、ルーマニアの間で領土の占領・併合が繰り返された地域です。

ソ連が崩壊した際、「モルドバ共和国」として独立を宣言しますが、ニストリア川(Niestria River)沿岸であるウクライナ国境に住む約50万人のロシア系及びウクライナ系住民がこれに反発し、1992年には本格的なトランスニストリア紛争(Transnistria War)という武力紛争に発展します。現在は停戦状態にあります。2014年6月、モルドバとEUとの連合協定が締結され、全ての締約国による批准が完了します。

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アジアの小国の旅 その九十 ウズベキスタン

ウズベキスタン(Republic of Uzbekistan)といえば、シルクロード(Silk Road)を思い浮かべます。人口は約220万人の首都のタシュケント(Toshkent)はシルダリヤ川(Syr Darya)の支流であるチルチク川(Chirciq River)の流域に位置する歴史的なオアシス都市といわれます。タシュケントは、ソ連邦の時代から中央アジアの中心都市として発展します。第二次世界大戦後、タシケントに連行された日本人捕虜によって建てられたナボイ劇場(Navoiy Theater)があります。

ウズベキスタンは、13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされます。やがて14世紀末に英雄ティムール(Temuriyla)が現れ、ティムール王朝の建国者となります。中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王国です。

ウズベキスタンといえば、シルクロード沿いの古都サマルカンド(Samarkand)です。中国と地中海地域を結んだ古代の交易路シルクロードに関連する史跡で知られています。「砂の場所」という意味のレギスタン広場(Registan)をはじめ、さまざまなイスラム建築の歴史的建造物が残っています。かつての首都サマルカンドは、いろいろな王族たちが住み、ティムール朝は元来が遊牧政権でありながら、盛んな通商活動に支えられて学問、芸術などが花開いたといわれます。サマルカンドの“サマル”とは「人々が出会うこと」、“カンド”は「町」を意味するとWikipediaにはあります。

サマルカンドブルー(Samarkand Blue)と呼ばれる青を基調としたイスラム建築が並ぶ「青の都」として一躍注目されています。市内の壮麗なモスクや建築群はこのティムール王朝以降のものであり、これらは「サマルカンド-文化交差路」として世界遺産にも登録されています。

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アジアの小国の旅 その八十九 タジギスタン

タジキスタン(Republic of Tajikistan)は中央アジアに位置する共和制国家です。総面積の93%が高地です。「世界一の山岳国」とも言われます。その象徴が「世界の屋根」と呼ばれる平均標高5000mのパミール高原(Pamir Mountains)とワハーン回廊(Wakhan Valley)です。国の平均標高は3300mといわれます。南にアフガニスタン(Afganistan)、東に中華人民共和国、北にキルギス(Kyrgyz)、西にウズベキスタン(Uzbekistan)と国境を接しています。タジキスタンの人口は約900万人、首都はドウシャンベ(Dushanbe)となっています。

タジギスタンの国民の多くは、タジク人(Tojiki)やウズベク人(Uzbek)で、もともとはアーリア系(Aryan)スキタイ(Skythai)遊牧騎馬民族であったとあります。パミール高原を境とする中国、インド・アフガニスタン、イラン・中東の結節点としての文明の十字路たる地位を確立してきたとあります。

1929年、タジク国と呼ばれていたタジギスタンはウズベク・ソビエト社会主義共和国から分離し、ソビエト連邦構成国のひとつ、タジク・ソビエト社会主義共和国に昇格します。タジク国家は1990年に主権宣言を行い、1991年に国名をタジキスタン共和国に改めます。ソ連の解体にともなって独立を果たします。1992年、タジキスタン共産党系の政府とイスラム系野党反政府勢力との間でタジキスタン内戦が起こります。この内戦で5万人以上の死者を出したといわれます。その影響で国民の生活水準は低下、旧ソ連諸国の中で最貧国といわれます。

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アジアの小国の旅 その八十八 トルクメニスタン

トルクメニスタン(Turkmenistan)は、中央アジア南西部に位置する共和制国家です。西側はカスピ海(Caspian Sea)に面し、東南がアフガニスタン(Afganistan)、西南にイラン(Iran)、北東をウズベキスタン(Uzbekistan)、北西はカザフスタン(Kazakhstan)と国境を接しています。首都はアシハバート(Ashgabat)です。

国土の9割がカラクム砂漠(Kara kum Desert)で国土面積の多くを占めていて、国民のほとんどは南部の山沿いの都市に住んでいます。おもな産業は、天然ガス、石油、綿花栽培、繊維工業です。特に天然ガスは狭い国土にもかかわらず世界第4位の埋蔵量を誇る資源国です。輸出額に占める天然ガスの割合は2017年時点で約83%というのですから、ほとんど石油に依存していることがわかります。

旧ソビエト連邦の構成国でしたが、ソ連の解体とともに1991年に独立し、永世中立国を宣言します。独立前の1990年10月から大統領職にあったニヤゾフ(Saparmyrat Nyyazow)大統領は,反対派勢力を排除して強力かつ個人崇拝的な独裁体制を確立し、しかも議会の全会一致で終身大統領となります。「中央アジアの北朝鮮」と呼ばれていたようです。他方,その非民主的体制や人権問題について国際社会からの批判を受けたといわれます。

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アジアの小国の旅 その八十七 シンガポール–「最も住みやすい都市」

シンガポールの特徴といえば、多くの国際順位で格付けされている発展ぶりです。金融・人的資本・イノベーション(innovation)・ロジスティクス(logistics)・製造・技術・観光・貿易・輸送・教育・エンターテインメント・ヘルスケアの充実は目を見張るほどです。世界経済フォーラム(World Economic Forum: WEF)の2019年版の「世界競争力報告」よれば、シンガポールが1位となり、米国は2位、日本は6位となっています。「テクノロジー対応」でもトップを占め、世界で最もスマートな都市といわれます。

2013年以来、イギリスの週刊誌、Economistはシンガポールを「最も住みやすい都市」として格付けしています。世界銀行の『ビジネス環境の現状2020』(Doing Business 2020)」の報告書では、シンガポールは9年連続で世界で最もビジネス展開にふさわしい国として選定されています。

シンガポールの国際空港 (Changi Airport)には驚きました。ニュージーランドへの直行便は値段が高いのでチャンギで乗り継ぎました。とてつもなく大きく24時間営業する空港です。待ち時間の間、プールで泳ぎました。2013年から7年連続で「世界一位のエアポート」となったことも十分頷けます。

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アジアの小国の旅 その八十六 シンガポール–イギリスからの独立

シンガポール(Republic of Singapore)は東京23区と同程度の国土です。領土は一貫して埋立てにより拡大してきました。面積はこのように小国なのですが、国力は堂々たる大国です。高い山がなく降雨の貯水や海水淡水化などでは給水量を賄えないので、隣国マレーシアから水を購入するという珍しい国です。人口580万の都市国家シンガポールには、100万人以上の外国人の出稼ぎ労働者がいます。

北はジョホール海峡 (Straits of Johor)により半島マレーシア(Malaysia)から離れていて、南はシンガポール海峡(Straits of Singapore)によりインドネシア(Indonasia)の諸島州から各々切り離されています。国語はマレー半島周辺地域で話されるマレー語(Malay)となっています。ラビア文字のようです。マレー語でのSingapuraとは、「ライオンの町」という意味だそうです。シンガポールが「Lion City」と呼ばれる所以です。

シンガポール島嶼には人々が定住したのは2世紀頃といわれます。それ以降はいろいろな王国などに属していきます。現代のシンガポールは、1819年にトーマス・ラッフルズ(Thomas Stamford Raffles)がジョホール王国(Johor Sultanate)からの許可を得て、イギリス東インド会社(East India Company)の交易所として設立したことから始まります。1824年、イギリス帝国は同島の主権を取得し、1826年にはシンガポールは英国の海峡植民地の1つになります。対戦中は日本により占領されますが、1963年にはイギリスからの独立を宣言します。

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アジアの小国の旅 その八十五 キルギス

キルギス共和国(Kyrgyz Republic)と言われて「中央アジアの国」を想起する日本人はどのくらいるでしょうか。キルギスは地形の険しい中央アジアの国で、中国と地中海を結ぶ古代の貿易ルートとして知られるシルクロード沿いにあります。カスピ海(Caspian Sea)の東に位置する内陸国キルギスは、旧ソ連邦の1国でしたが、1991年に独立国となります。人口約600万人、国土面積は約20万平方キロメートルで、日本の半分ほどの広さです。

地図をみますと、中国の西に位置し、北のロシアと南のインドの中間あたりにあります。首都はビシュケク(Bishkek)で、かつては天山山脈を通るキャラバンの停泊地だったようです。イラン系の商人によって街がつくられたのが始まりとされています。キルギスという国の魅力は、その圧倒的な自然にあるといわれます。なるほど。ビシュケクの写真集をみますと、遠くに見える天山山脈の偉容は是非みたくなります。

1991年以前のソヴィエト連邦ならびにその構成共和国はNIS諸国(New Independent States: NIS)と呼ばれています。NISの12か国の一員がキルギスです。1人あたりGDPでいうと、下から2番目となっています。主な産業は鉱業と農業ですが、鉱物資源はほぼ金に偏っています。輸出額でも宝石や貴金属が4割を占めるといわれます。野菜製品が1割弱です。そのうちドライフルーツやスパイスが主要な輸出品となっています。

アジアの小国の旅 その八十五  東ティモール民主共和国

アジア太平洋の小国へ話題が移ります。今回取り上げる国は東ティモール民主共和国(Democratic Republic of Timor-Leste)です。なんとなく聞いたような国ですが、独立をめぐる内乱状態が続いたことで知られるようになりました。東ティモールは島国であり、小スンダ列島(Lesser Sunda Islands)にあるティモール島(Timor Island)の東半分とアタウロ島(Atauro Island)、ジャコ島(Jaco Island)、飛地アmベノ(Ambeno)で構成されています。南方には、ティモール海(Timor Sea)を挟んでオーストラリアがあります。

地図をみますと、ティモール島の東半分が共和国の領土となっているのは不思議な印象を受けます。ティモール島は16世紀にポルトガルによって植民地化されます。その後オランダが進出し、1859年に西ティモールをオランダに割譲したことで、ティモール島は東西に分割されます。

ポルトガルが中立を守った第二次世界大戦時には、当初はオランダ軍とオーストラリア軍が保護占領し、ティモール島の戦いのあとオランダ領東インド地域と合わせて日本軍が占領します。日本の敗戦によりオーストラリア軍の進駐を経てポルトガル総督府の支配が復活するのです。

1999年5月、インドネシア、ポルトガルと国連、東ティモールの住民投票実施の枠組みに関する合意文書に調印します。長らくインドネシアの占領が続き、2002年5月に東ティモール民主共和国として独立します。不思議なことに、この独立は国際法上はポルトガルよりの独立となっています。しかし、独立後もインドネシアの介入が続き、内戦が起こります。2002年4月14日に行われた大統領選挙により,シャナナ・グスマン(Kay Rala Xanana Gusmao)が当選し初代大統領に就任します。

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アジアの小国 その八十四 ブータンと国民総幸福量

ブータン王立研究所(Centre for Bhutan Studies)は、国民総幸福量(Gross National Happiness: GNH)という指標を用いて、ブータン国民の幸せの状況を測るGNH調査を継続的に実施しています。調査はブータン全土20県、約8,000世帯(人口の約1%)におよび、対象者1人に対して148の質問を2時間半ほどかけてゆっくり実施します。

国民総幸福量は、「精神的な幸せ」「24時間の使い方」「コミュニティーの活力」など9つの領域から成ります。ブータン南部の小さな村で行った調査の一エピソードです。「あなたが病気になった時にとても頼りにできる人は何人いますか?」という質問です。これは幸福量を図る領域の一つ「コミュニティーの活力」の調査項目です。この質問に対して、成人をむかえたばかりのブータン人男性は「50人ぐらいですね」と答えたそうです。この男性は、人と人とが助け合える家族のような関係を重視していることがわかります。

国内総生産(Gross Domestic Product: GDP)では人々の幸せということは反映されません。しかし、GNHは人々の幸せにとって大事な社会関係とか人間関係という資本も計ってくれるのです。対人関係という目に見えないものを可視化することで人間の有り様、人間の生き方、健康のカルテを示すのがGNHです。世界銀行の調査では、ブータンのGDPに基づいた経済成長率は近年4〜8%といわれます。しかし「精神的な幸せ」と「コミュニティーの活力」は下降傾向にあることがGNH調査により明らかになっているようです。

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アジアの小国の旅 その八十三 ブータン

ブータン王国(Kingdom of Bhutan)は、王国の名のように我が国には親しみがある国です。北は中国、東西南はインドと国境を接します民族はチベット系が8割、ネパール系が2割となっています。国教はもちろん仏教です。首都はティンプー(Thimphu)です。

公用語のゾンカ語(Dzongkha)ですが、Wikipediaによりますと、チベット・ヒマラヤ語群に属する言語です。この言語の歴史は12世紀に遡り、宮廷、軍幹部、高学歴エリート層、政府、行政機関の言語として発達してきたとあります「ゾンカ」のゾン(Dzon)とは「僧院・行政・軍事の機能を併せ持つ城砦」という意味だそうです。

17世紀,この地域に移住したチベットの高僧ガワン・ナムゲル(Ngawang Namgyal)が,各地に割拠する群雄を征服し,ほぼ現在の国土に相当する地域で聖俗界の実権を掌握します。ナムゲルは1594年から1651年まで僧侶として、また君主として治めます。その後はイギリスの影響が及んで、1864年にブータン戦争(Bhutan War)が起こり、イギリスは、ブータンにチベット周辺の交易路を確保します。1910年にはプナカ条約(Punakah)締結され1949年までイギリスの保護下に入ります。

従来ブータンの政治形態は、僧侶の代表者であるダルマ・ラージャ(Dharma Raja)と、俗人の代表者であるデパ・ラージャDepa Rajaによる二頭体制でありました。しかし1885年に内乱が勃発して以来国内が安定しなかったことから、1907年ダルマ・ラージャを兼ねていたデパ・ラージャが退き、代わって東部トンサ郡の領主ウゲン・ワンチュク(Ugen Wangchuc)が世襲の王位に選ばれ、初代ブータン国王となります。次いで1926年にその子息ジグミ・ワンチュク(Jigmi Wangchuc)が第2代国王となり、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクが1972年に急死すると、僅か16歳で即位したジグミ・シンゲ・ワンチュクが永らく第4代国王の座に即きます。その後ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク(Jigme Khesar Namgyel Wangchuc)が第5代国王に即位し今日に至っています。

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アジアの小国の旅 その八十二 ネパール

ネパール連邦民主共和国(Republic of Nepal)に移ります。東、西、南の三方をインドに、北方を中華人民共和国チベット自治区(Tibet Autonomous Region)に接する西北から東南方向に細長い内陸国です。国土は世界最高地点エベレスト(Mount Everest)を含むヒマラヤ山脈(Himalayan Mountains)および中央部丘陵地帯と、ガンゲティック平原(Gangetic Plain)yや南部のタライ平原(Tarai Plain)から成ります。この平原はネパールの穀物地帯です。

コサイ川(Kosi)、ガンダック川(Gandak)、カマリ川(Karnali)は急峻な谷を流れ、潅漑や水力発電の源となっています。1982年から世界銀行(World Bank)、クエート(Kuwait)、日本などからの資金によるダムの建設などで水害も抑制されているといわれます。

2006年のロクタントラ・アンドラン(Loctantra Andran)という民主化運動の結果、事実上の絶対君主制から象徴君主制へ移行します。ネパール語でロクタントラは「民主主義」、アンドランは「運動」を意味し、すなわちギャネンドラ国王(King Gyanendra)独裁に反対する運動でした。国王は国家元首としての地位を失い、首相がその職務を代行します。国号は「ネパール王国」から「ネパール国」に変更されます

海抜1,324mにあるのが首都のカトマンズ(Kathmandu)です。政治や経済の中心です。2015年4月にネパール中部を襲ったマグニチュード7.8の大地震によって約9,000名の死者と多数の怪我人がでました。カトマンズ市内の歴史的な建造物も破壊されます。カトマンズは今もヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしています。https://www.youtube.com/watch?v=nMoYUkWYfIs

アジアの小国の旅 その八十一 バーレーン

バーレーンは(Kingdom of Bahrain)は、ペルシャ湾(Persian Gulf)に浮かぶ 30 以上の島からなる国です。「Bahrain」とは、周りの二つの海(two seas)という意味だそうです。

バーレーンは古くから主要な貿易ルートの中心地として栄えます。古代バビロニア(Babylonia),アッシリア(Assyria)時代にはディルムン(Dilmun)という名の有力な貿易中継地であり,紀元前3世紀から15世紀にかけては真珠の産地として栄えたところです。18世紀後半にアラビア半島から移住したハリーファ家(Khalifah)がバーレーンの基礎を作ります。

1932年にはアラビア諸国では最初に石油の生産を開始し、その後近代化を進め1971年8月英国から独立します。ペルシャ湾岸国では原油(crude oil)や天然ガスの産出、石油精製、アルミ精錬などを始めとした工業化の推進による産業の多角化をすすめるとともに、近年は観光にも力を入れています。
バーレーンは港を外国に提供していきます。湾岸戦争を機にイギリスやアメリカの海軍基地ができます。中東の金融センターとしての地位の維持に努めています。

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アジアの小国の旅 その八十  アラブ首長国連邦

中東という地名を聞くと、なんとなく政情が不安定な国々というイメージが浮かびます。確かにその通りなのですが、例外があります。それはアラブ首長国連邦(United Arab Emirates: UAE)です。特に首都のアブダビ (Abu Dhabi)やドバイ(Dubai)は群を抜いて治安がよいことで知られています。「Emirates」とは「首長権限」という意味です。

この国の建国までの短い歴史です。紀元前3000年頃にさかのぼる居住跡が発見されています。7世紀イスラム帝国(Islamic Empire),次いでオスマン・トルコ(Ottoman Empire),ポルトガル (Portugal),オランダ(Netherlands)の支配を受けます。17世紀以降になると英国のインド支配との関係で,この地域の戦略的重要性が認識されていきます。18世紀にアラビア半島(Arabian Peninsula)南部から移住した部族が現在のUAEの基礎を作ります。1853年には、英国は現在の北部首長国周辺の「海賊勢力」と恒久休戦協定を結びます。

UAEは紅海に面し、北にはやがて造られるスエズ運河を控えています。1968年英国がスエズ運河以東撤退を宣言したため,独立達成の努力を続け,1892年には英国の保護領となります。1971年12月,アブダビ及びドバイを中心とする6首長国が統合してアラブ首長国連邦を結成します。爾来UAEはアラブ・イスラム諸国及び西側諸国等と協調的な外交を展開していきます。

UAEの主たる資源は原油や天然ガスで、原油製品や金加工製品を輸出しています。世界銀行の資料によりますと、国民一人当たりのGDP はなんと43,004ドル(450万円)に及んでいます。今や、UAEは石油への依存から世界の金融市場へと向かっています。2013年には世界最大の太陽光発電プラントを完成させ、2万世帯への電力供給を行っています。

建国以来、数十年で急発展しているUAEの発展は都市のドバイに現れています。ドバイは数多くの世界一があります。写真をみますと、例えばバージュ・カリファ(The Burj Khalifa) は、828mの世界一高いビルです。世界の最先端の技術や諸文化が集まるドバイ国際博覧会が2021年10月に予定されています。