アメリカの州鳥 その3 アメリカの50州と連邦政府

アメリカ独立宣言当時はデラウェア (Delaware)を初めとして13州でありました。独立戦争後はスペインやフランスなどと領土を割譲、買収、併合を経て、現在は50州となっています。州は連邦と主権を共有しながらも独立した主体となっています。独立宣言に加わった13植民地を起源として各州は連邦を構成していて自律性が非常に高いのが特徴です。日本ような県の国への従属的な関係とは違います。

合衆国憲法においては、連邦政府に授権された権限として、軍事、外交、通貨、通商以外は州および人民に留保されています。教育・福祉・治安(警察)はもちろん、民法・刑法も原則としては州法の管轄となっています。我が国のような地方交付税などはありません。消費税も州によって異なります。州には固有の憲法や州最高裁判所もあり、三権分立が確立されています。各州の行政や基礎自治体の体系もそれぞれ異なり、首長たる知事、議会はもちろんのこと共和制国家としての体裁を持っています。軍隊である州兵を有しています。

連邦政府には運輸省とか教育省があります。学校の運営は州や自治体に責任があります。国立大学はありません。共通の道路交通法規というものもなく、連邦捜査局にも交通取締りの権限はありません。歴史的には連邦政府の権限が強化され相対的に州の地位が低下する傾向があるように感じます。
特に、連邦政府は共同の防衛および一般の福祉に備えるために、租税、関税、輸入税および消費税を賦課し、徴収する権限を有しています。そして、すべての関税、輸入税お よび消費税は、合衆国全土で均一でなければならないことが合衆国憲法第1条8節に定められています。

アメリカの州鳥 その2 アメリカの独立

アメリカの独立戦争(American War of Independence) は、アメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地と植民地を支配していたイギリスとの戦いです。砂糖、綿花などへの高い関税に反対したり、東インド会社から持ち込まれる安いお茶への植民地商人の怒りが、1773年にボストン港を襲撃しボストン茶会(Boston Tea Party)事件となっていきます。

茶会事件に衝撃を受けたイギリスはボストン港を閉鎖、住民に対して強硬な姿勢を示していきます。ここにおいてアメリカ大陸13州の住民代表者はフィラデルフィア(Philadelphia)で史上初めての大陸会議を開き、植民地の自治権を求めてイギリスに対して反抗します。1775年4月、イギリスの駐屯兵と住民有志による民兵が衝突がレキシントン・コンコードの戦い(Lexington and Concord)となります。

1775年6月に起こったのがバンカーヒル(Battle of Bunker Hill) の戦いです。訓練も経験も乏しい植民地軍の民兵1,500名がバンカーヒルに砦を築き、白兵戦を展開し敗北します。このような民兵はミニットマン(minute man)と呼ばれました。しかし、イギリスの正規軍に大損害を与えます。結果としてアメリカ側の士気を高める結果となった戦です。バンカーヒルはボストン対岸の丘の名前です。

住民代表者は第2次大陸会議を開催、ジョージ・ワシントン(George Washington) を総司令官に任命して大陸軍を結成し、1776年7月4日の大陸会議においてトマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson) が起草し、プロテスタント的思想(protestantism)を盛り込んで近代民主主義の原点となったアメリカ独立宣言 (Declaration of Independence) を発表します。

プロテスタント的思想とは、神の前での人間の平等を強調する考えです。万人は平等につくられ、また、生命、自由および幸福追求を含む譲ることのできない権利を創造主から与えられているという考えです。

アメリカの州鳥 その1 アメリカの州の歴史

今回から50回にわたって「アメリカの州鳥」という話題を取り上げることにします。私もウィスコンシンなどで色々な鳥を見てきました。四季とりどりの鳥がいて、それが毎日のように本当に身近で見られることです。日本で見かけたことがない鳥も見ました。アメリカ大陸は広いので珍しい鳥がいます。雪解けになると南から北へむかって大群で雁(geese)が飛翔していきます。秋になるとその反対に大群が南に向かいます。群れが毎日何度も何度も上空を飛んでいくのです。季節を感じる風物詩です。

州鳥に触れていく前にアメリカの州の特徴を述べておきます。現在のアメリカは50の州から成ります。それで合衆国と呼ばれています。州はそれぞれの憲法を有していて、自治を有しいわば小さな国家のような形態をとっています。子ども達はアメリカの独立にいたる歴史を必ず学校で習います。そこで学ぶ大事なことは、アメリカの特徴の一つが多民族国家ということです。なぜ多民族国家となっていったかは、植民地時代の「開拓」によって、ヨーロッパ諸国からいろいろな人々が移民してきたこと、黒人奴隷が連れてこられたこと、アジアの国々から移民がやってきたこと、そして原住民(native american)から構成されているからです。

まずヴァージニア(Virginia)やカロライナ(Carolina)にはイギリス人(England)が、ルイジアナ(Lousiana)にはフランス人が(French-Lousiana)植民地を築くなど、この開拓は主にイギリス人とフランス人2つの民族によって行われます。大西洋東海岸のニューヨーク(New York)やニュージャージー(New Jersey)にはオランダ人(Netherland) が、デラウェア(Delaware)にはスウェーデン人(New Sweden)が、フロリダ(Florida)にはスペイン人(Spanish) が、それぞれにアメリカ大陸に植民地を築いていきます。こうして、アメリカ東部には、すでに17世紀半ばに現在のアメリカ文化となっていく欧米文化が移植されていたのです。

アメリカの歴史における宗教の多様性に関する簡単な歴史です。当初の移民はフランスやスペインなどからのカトリック(Catholic)教徒でありましたが、16世紀にヨーロッパでプロテスタント(新教徒)が勃興し、カトリック教会に対する抵抗の宗教改革運動へ発展していきます。続いて宗教戦争が起こり、カトリック教会からの迫害がおこると、清教徒(Puritan)による1620年のメイフラワー号(Mayflower) のマサチューセッツ(Massachusetts)のプリマス(Plymouth)への移民をきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次いで入植します。こうしてカトリックとプロテスタントが共存していくのです。

日本にやって来て活躍した外国人 その五十一 ラフガディオ・ハーン その2

「日本にやって来て活躍した外国人」のシリーズはこの稿で終わりとなります。
ハーンは1890年8月に島根県松江にやってきます。なぜ松江を選んだのかはわかりません。松江尋常中学校及び師範学校の英語教師となります。その後は熊本第五高等学校をはじめ神戸など、日本の各地の学校や新聞社で働き、1896年には東京帝国大学の講師になっています。退職後の後任は夏目漱石となり、ハーンは早稲田大学に移り教鞭を執ります。

彼の著作には『知られざる日本の面影』 Glimpses of Unfamiliar Japan (1894) ,『心』 Kokoro (96) ,『仏の畑の落穂』 Gleanings in Buddha-Fieldsなどがあります。中でも、日本の伝説に取材した『怪談』 Kwaidan (1904) は最も読まれた作品といえましょう。『怪談』のなかに「耳なし芳一」とか「雪女」、「のっぺらぼう」、「ろくろ首」などがあります。

ハーンの父親はアイルランド出身でした。いわゆるアイリッシュ(Irish)です。アイルランドといえば妖精のイメージが強いところです。アイルランドの詩人で神秘主義的思想家、イエイツ(William B. Yeats)が編纂した「ケルト幻想物語集」(Legends of the Celts) というシリーズには、幽霊、魔女、巨人、取り換え子…など怪談のような話から、日本の妖怪に近いようなお話まで網羅されています。ハーンも小さい時は、こうした物語を聞かされたり、読んだりしていたはずです。「ケルト人(Celt)」とは、ケルト語派の言語が話される国であるアイルランド、スコットランド、マン島(Mann)に住む人々を指します。

アイルランドのウオータフォード(Waterford)という街に「The Lafcadio Hearn Japanese Gardens」というのがあるそうです。以下のURLで調べましたが、気持ちよく散策できるような雰囲気を感じます。アイリッシュの人々も小説家ハーンには、思い入れがあるのでしょう。
https://www.lafcadiohearngardens.com/ 

日本にやって来て活躍した外国人 その五十 ラフガディオ・ハーン その1

山陰へ行かれたときは、松江市にある小泉八雲記念館を是非訪ねて欲しいものです。記念館には第1と第2展示室があり、第1展示室では「その眼が見たもの」「その耳が聞いたもの」「その心に響いたもの」というコンセプトで紹介し、第2展示室では八雲の事績や思考の特色を「再話」「ジャーナリズム」「教育」「いのち」「八雲から広がる世界」などが紹介されています。小泉八雲という名前ですが、「小泉」は妻・セツの姓で、「八雲」は、出雲の国の枕詞が「八雲立つ」なので、そこから拝借したといわれます。

ラフガディオ・ハーン( Patrick Lafcadio Hearn)、1850年6月にギリシャ西部のレフカダ島(Lefkada)で生まれます。父チャールズ(Charles)はアイルランド(Ireland)出身の軍医、母ローザ(Rosa)はギリシャ人でした。アイルランドは当時まだ独立国ではなかったので、ハーンはイギリス国籍でありました。2歳の時にアイルランドに移り、その後イギリスとフランスでカトリックの教育を受けます。16歳の時、遊戯中に左目を失明します。

19歳でアメリカに単独で移民し、シンシナティ(Cincinnati)でジャーナリストとして文筆が認められようになります。その後、ルイジアナ州(Louisian)ニューオーリンズ(New Orleans)などで旺盛な取材や執筆活動をします。ニューオーリンズ時代に万博で出会った日本文化、ニューヨークで読んだ英訳『古事記』などの影響で来日を決意し、1890年4月に日本の土を踏みます。その時ハーンは39歳でした。

まもなく島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師となります。その後は熊本第五高等学校をはじめ神戸など、日本の各地の学校や新聞社で働き、1896年には東京帝国大学の講師になっています。

日本の各地を渡り歩いて,『知られざる日本の面影』(Glimpses of Unfamiliar Japan),『心』 (Kokoro) ,『仏の畑の落穂』 (Gleanings in Buddha-Fields) などで日本の風土と心を紹介していきます。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十九 アリス・ベーコン

アメリカの女子教育者にアリス・ベーコン(Alice M. Bacon) がいます。日本の初めての女子留学生大山捨松、津田梅子の親友で、彼女らの要請で1884年、華族女学校、後の学習院女学校の英語教師として来日します。

捨松はコネチカット州(Connecticut)のニューヘイブン(New Heaven)のベーコン牧師(Rev. Bacon)の家族のもとでホームステイし、ベーコン家の末娘アリス・ベーコンと出会います。捨松は高校卒業後、東部の名門女子大学であるヴァッサーカレッジ (Vassar College)に入学します。捨松は成績優秀で学級委員長を務めるなどして大学生活を送ります。捨松は帰国までに時間があったので、アリスの兄が開いた看護婦養成学校で3ヶ月の訓練を受け看護婦資格も得ました。スイス留学から帰国した大山巌と結婚し積極的な活動を開始しました。世は鹿鳴館時代です。大山巌夫人として捨松は「鹿鳴館の華」と謳われます。

日本の女子教育に強い関心を持っていた捨松は、華族女学校の設立に参加し、津田梅子も華族女学校で教授補として教壇に立ちます。そして、二人の要請に答え、アリス・ベーコンが1888年に華族女学校英語教師として来日します。捨松、梅子、アリスの3人の再会です。

梅子は高校卒業後1889年に再度渡米し、ペンシルベニア州(Pennsylvania)フィラデルフィア(Philadelphia)にあるブリンマーカレッジ(Bryn Mawr College)に入学します。大学を卒業し帰国した梅子は、1900年に女性英語教師育成のための「女子英学塾」を開校します。現在の「津田塾大学」です。捨松は顧問に就任して梅子を支えます。そしてアリスが再来日して「女子英学塾」で教えます。

ベーコンは帰国後はハンプトンHunpton)師範学校校長となりますが、1900年、大山と津田の再度の招聘により東京女子師範学校で後のお茶の水女子大学と女子英学塾、後の津田塾大学の英語教師として赴任します。1902年4月に任期満了で帰国するまで明治期の女子教育に貢献します。彼女の著作は後にルース・ベネディクト(Ruth Benedict)の『菊と刀』(Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture) の重要な参考資料になります。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十八 ピエール・ロチ

南フランスはロッシュフォール(Rochefort)出身であるピエール・ロチ(Pierre Loti)を紹介します。海軍大佐で世界中を旅し、1885年、修理のため長崎に停泊した巡洋艦ル・トリオンファント(La Triomphante)号の乗員として来日します。中国に発つまでの約2ヶ月間長崎に滞在し、周旋人を通して17歳のおかねという少女と愛人関係を結びます。十人町の家を借りて1ヵ月ほど共に暮らしその経験を後に「お菊さん(Madame Chrysantheme)」という小説に書き、1887年にフランス国内では最も古い歴史を持つフィガロ紙(Le Figaro)に発表します。

日本の自然や生活様式などを異国情緒たっぷりにリアルに描いたこの作品は、また従順で大人しい日本女性のイメージが強く印象づけられています。日本および日本文化に対する強烈な好奇心をかき立てられたようです。フランスのジャポニズムにも大きな影響を与えます。アメリカのジョン・ロング(John L. Long)はこの日本人女性の話を長崎にいた妹、コレル(Correll)から聞き、短編小説にします。これらがプッチーニ(Giacomo Antonio Puccini)のオペラ『蝶々夫人』の原型になります。

鹿鳴館の時代の真っ只,「お菊さん」の他に「秋の日本」,「ニッポン日記」,「日本の婦人たち」 などの作品を発表します。長期間にわたって日本で暮らした経験のある“親日家”(例えば,ラフカディオ・ハーン)の著作とは大きく異なり,フランス人のロチがはじめて目にする日本の印象が冷えた眼差しで鋭く克明に綴られています。フランス人のエスプリ(esprit)でしょうか、ロチの描く日本人女性の姿はひどく、「意思も感情も表情もない」などと描写しています。また日本を「遅れた野蛮な国」のように書いているのが気になります。

日本の婦人たち」 には,ロチは鹿鳴館についての印象を次のように記しています。
『東京のど真ん中で催された最初のヨーロッパ式舞踏会は,まったくの猿真似であった。そこでは白いモスリンの服を着て,肘の上までの手袋をつけた若い娘たちが,象牙のように白い手帳を指先につまんで椅子の上で作り笑いをし,ついで,未知のわれわれのリズムは,彼女たちの耳にはひどく難しかろうが,オペレッタの曲に合わせて,ほぼ正確な拍子でポルカやワルツを踊るのが見られた。』

『この卑しい物真似は通りがかりの外国人には確かに面白いが,根本的には,この国民には趣味がないこと,国民的誇りが全く欠けていることまで示しているのである。ヨーロッパのいかなる民族も,たとえ天皇の絶対的命令に従うためとはいえ,こんなふうに今日から明日へと,伝統や習慣や衣服を投げ捨てることには肯(がえ)んじないだろう。』

日本にやって来て活躍した外国人 その四十七 テオドール・フォン・レルヒ

日本にスキーを伝えたのは、オーストリア(Austria)の将校、テオドール・フォン・レルヒ少佐(Theodor von Lerch)です。わが国の軍事視察と軍事教練を目的として来日します。その背景には、1902年1月に起こった八甲田雪中行軍遭難事件があります。陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件です。訓練に参加した210名中199名が死亡するという史上最悪の遭難事件です。この遭難を教訓に、寒冷地での軍事教練を強化し指導するためにレルヒは招聘されます。

1911年1月にレルヒは高田、現在の上越市の陸軍第13師団の歩兵58連隊に送られます。彼はさっそく雪の中を進む軍事訓練として、兵士たちにスキーを紹介します。彼はオーストリアから持ってきた1組のスキー(Ski)を見本をもとに、訓練用のスキーを製造し、数名の青年将校にスキーの練習を命令します。レルヒがその講師です。

レルヒは1年余りを高田で過ごします。この間、陸軍第13師団において良き理解者に恵まれ、スキーの指導にも熱心に力を注ぎました。訓練用のスキーは一本のステッキを使って操作するものでした。レルヒは、スキーを学んだ将校たちに、越後地方の学校でスキーを教えるように促します。レルヒも民間人にスキーを教えることには大いに乗り気で、特にジャーナリストと教師にスキーを教えます。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十六 ルーサー・メイソン

日本の音楽教育・西洋式音楽の輸入などで基礎を築いた功労者ルーサー・メイソン(Luther W. Mason)を紹介することにします。アメリカ各地で長年音楽の教師を勤め、主に初等音楽教育分野で第一人者となった教育者です。

アメリカに留学した人に伊沢修二がいます。伊沢は幕末の混乱期に、主に理系の洋学を中心にして学を修め、明治政府の文部省に出仕し、愛知師範学校校長となったのちの1875年に24歳で政府から米国留学を命じられます。留学した彼は、主にマサチューセッツ州(Massachusetts)のブリッジウオーター大学(Bridgewater State University)で、アメリカにおける師範教育の在り方を中心に学び、この時、ボストンで音楽教育家として名を成していたメイソンの教えを受けます。

帰国後、伊沢は文部省に進言して「音楽取調掛」の設立を準備し、メイソンを日本に呼び寄せて事業に協力してもらう手はずを整えます。1880年に伊沢を長として音楽取調掛はスタートします。そして、翌年の1881年にメイソンが来日し、足掛け2年間、メイソンは日本における音楽教育の基礎固めに関わることになります。音楽取調掛というのは、後の東京音楽学校=東京芸大音楽学部の担当官のことです。

音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行い、伊沢とともに『小学唱歌集』の作成にも関わります。また、ピアノとバイエル(Bayer)の『ピアノ奏法入門書』を持ち込み、ピアノ演奏教育の基本も築きます。東京芸術大学には、メイソンがアメリカから持ち込んだピアノが今も記念に残されています。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十五 イザベラ・バード

イギリスの女流作家にイザベラ・バード(Isabella L. Bird)がいます。当時の女性としては珍しい「旅行家」として、世界中を旅した女性でもあります。バードは1831年、イングランド北部ヨークシャー(Yorkshire)で牧師の2人娘の長女として生まれます。1878年、47歳で来日し東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅します。このときヘボン博士の紹介で伊藤鶴吉という従者兼通訳の日本人男性一人が同伴します。伊藤には英語能力のほか、英国人で植物学者であったチャールズ・マリーズ(Charles Maries)の植物採集に従事した経験があったからです。

国内旅行にはさまざまな制約がありました。イギリス公使であったハリー・パークス(Harry S. Parkes)の尽力で「外国人内地旅行免状」をもらい旅します。そのような時代にバードはアイヌの一拠点集落である平取をめざして北海道へ、そして関西・伊勢神宮へと旅します。彼女は日本滞在の7カ月で4,500キロ以上を旅したようです。その目的は当時の日本を記録すること、そしてキリスト教伝播の可能性を探ることでありました。

これらの記録を全2巻800ページを超える大著『日本の未踏の地:蝦夷の先住民と日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告』(Unbeaten Tracks in Japan)として残しています。北海道の旅の目的地を平取に定め、アイヌの長ペンリウク宅で3泊4日滞在し、アイヌの生活や文化を学び知ろうと全力を注ぎ、濃密な記録を書き残します。実はアイヌへのキリスト教伝道とも結びついていたようです。彼女の記録は、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況を詳しく紹介したほぼ唯一の貴重な文献となります。彼女の報告の原題は「Unbeaten Tracks in Japan: An Account of Travels in the Interior Including Visits to the Aborigines of Yezo and the Shrines of Nikkō and Ise」とあります。アイヌのことをアボリジニ(Aborigines)と呼んでいるのは興味あります。

バードの旅は時に地元紙にも紹介され、視察の旅であることが読者に伝えられていたといわれます。旅は用意周到に準備・計画され、ルートは目的に従い事前に設定されていました。例えば、日光から会津を抜け、津川から阿賀野川を舟で下って日本海側の新潟に出たのは、開港場であるが故にそこに宣教師がおり、その活動を学び知り新潟のさまざまな実態を明らかにするためだったようです

日本にやって来て活躍した外国人 その四十四  エライザ・シドモア

アメリカ人で著作家・写真家・地理学者であったエライザ・シドモア(Eliza R. Scidmore) のことです。オハイオ州のオーバリン大学(Oberlin College)に学びます。旅行に関心を抱いたのは、1884年から1922年まで在横浜米国総領事館に外交官として勤務していたジョージ・シドモア(George Scidmore)に因るところが大きかったようです。当時の日本は、西洋からの訪問者に対して門戸を開いたばかりだったので、シドモアはしばしば兄の任務に同行し、一般の旅行者にはアクセスできない地域へも渡航することができました。

19歳のときに初めて「National Republican」紙のコラムを担当し、その後、「New York Times」紙を含むさまざまな新聞に、ワシントンD.C.の社会に関する記事を投稿し、文筆が認められていきます。日本には3度も訪れて合計3年間滞在し、全国を行脚して様々な記録を残します。『ナショナルジオグラフィック』(National Geographic)の紀行作家であり地理学者。女性として初めて米国地理学協会の理事に就任し、東洋研究の第一人者として活躍した。後に、シドモアはナショナル ジオグラフィック協会の理事に選ばれた最初の女性です。

日本に関する記事や著作も残しています。「日本・人力車旅情」(Jinrikisha Days in Japan)を著し、1896年には三陸地震津波の被災地に入って取材し、「The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan」をナショナル・ジオグラフィックの9月号に寄稿しています。この投稿で、彼女は「Tsunami」という言葉を使っています。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十三 ポール・ブリュナ

フランス人の生糸技術者でお雇い外人にポール・ブリュナ(Paul Brunat)がいます。ドローム県(Droma)のブール・ド・ペアージュ(Bourg de Peage)に生まれます。お雇い外国人として、富岡製糸場の設立に携わり 計画、建設、操業の全てに関わった技師です。

1870年に明治政府は、自前で器械製糸工場の設立を決めます。大蔵省の役人だった深谷出身の渋沢栄一らは、フランス人公使、ロシュ (Michel Jules Roches)の紹介で指導者としてブリュナを製糸場建設・運営、指導の責任者として契約します。設立場所としてもともと養蚕業が盛んで東京や横浜に近い群馬・富岡に日本初の器械製糸工場の地として選びます。

ブリュナは、母国フランスから建築家や技師らを招き、さらに日本人工女に器械による繰糸の操作方法を教えるために、フランスから何人かの女性技術者を招き入れます。繰糸機や蒸気機関等を輸入して1872年に操業を開始します。この時に導入された機械は蒸気機関を利用した繭から糸を巻き取る繰糸作業を行うだけのものでした。やがて、この官営富岡製糸工場は日本の殖産興業に大きな貢献をします。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十二 ルイ・エミール・ベルタン

フランスの海軍技術者で日本海軍に招かれフランス人にルイ・エミール・ベルタン(Louis-Emile Bertin)がいます。1886年から1890年の4年間、日本海軍のお雇い外国人としてベルタンは、日本人技術者と船舶設計技師を育て上げ、近代的な軍艦を設計・建造し、海軍の施設を建造します。来日したときは45歳でした。フランス政府にとっては、当時工業化していた日本への影響力を高め、イギリスとドイツの技術を凌駕する機会ととらえていたようです。

ベルタンは、近代的な軍艦を設計して建造し、海軍の施設・呉、佐世保工廠などを建造するのを指揮します。この間に彼が手がけた軍艦に海防艦「松島」「橋立」「厳島」(通称「三景艦」)をはじめとする7隻の主力艦と22隻の水雷艇に及びます。これらは日清戦争における日本艦隊の主力となります。彼の努力は1894年9月の黄海海戦での勝利へとつながります。ベルタンは海防艦と一等巡洋艦建造のための設計を確立しただけではなく、艦隊組織、沿岸防御、大口径砲の製造、鉄鋼や石炭などの材料の使用法も教授しています。

フランスに帰国後は海軍機関学校校長、大将、海軍艦政本部部長を歴任し、在任中にフランス海軍を世界2位の海軍に育て上げます。その功績を記念してフランス海軍にはエミール・ベルタンの名を冠した巡洋艦が生まれます。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十一 フランシス・ホール

私の住む多摩にやってきたことのある幕末期のアメリカ人商人、新聞の通信員、フランシス・ホール(Francis Hall)のことです。あまり知られてはいない外国人です。1822年にコネチカット州(Conneticut)エリントン(Ellington)に生まれた。地方判事の父親ホール(John Hall)はイェール大学(Yale University)出の教育者でもあり、「エリントン・スクール(Ellington School)」という初めての学校を作った人物です。

ホールは父親が作った学校を1838年に卒業し、兄がマサチューセッツ州に開いた本屋を手伝ったのち、1841年にシラキュース(Syracuse)の本屋で働きます。知人の旅行作家が1855年のペリーの日本来航に同行したことに触発され、1859年日本へ冒険旅行に出かけます。

1859年に来日し、ジェームス・ヘボン(James C. Hepburn)らの宣教師家族とともに神奈川宿の成仏寺住みます。1860年に横浜の居留地に移ります。横浜居留地に店を構えていた貿易商社のウォルシュ・ホール商会(Walsh Hall)の友人ジョージ・ホール(George Hall)が1862年に帰国することになり、その後任として同社に参加します。

ホールはニューヨーク・トリビューン紙(Tribune)の通信員も兼ねていて、貿易業の傍ら7年間の日本滞在中に同紙に約70本の記事を送信します。滞在日記も1859年から離日するまで書き続けます。日本で一財産を築き、1866年にアメリカに帰国します。兄のエドワード(Edward Hall)は、1844年にエリントンに「ホール・ファミリー・スクール・フォー・ボーイズ(Hall Family School for Boys)」という男子校を創立します。同校には、ウォルシュ・ホール商会と懇意にしていた岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助が1872年に留学します。その学校の記念図書館建設に当たり、弥之助は2,000ドルを日本コレクション整備のために寄付するという記録が残っています。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十  ニコライ・カサートキン

東京は神田にきたとき、是非訪れて欲しいのが通称「ニコライ堂」です。ロシア正教(Russian Orthodox Church)の宣教師、ニコライ・カサートキン(Ian D. Kasatkin)を紹介することにします。名前はイアンですが、ニコライ(Nikolai)は修道士となって付けられた名前です。イアンは1860年6月に按手を受けて修道士となり名をイアンからニコライと改めます。サンクトペテルブルグ神学大学(St. Petersburg Seminary)の十二聖使徒聖堂で司祭に叙聖され聖ニコライとなります。

聖ニコライが箱館領事館付司祭として渡来したのは1861年です。サンクトペテルブルグ神学大学在学中にゴロウニン(Vasilii Gorovnin)の書いた「日本幽囚記」を読み日本に興味を抱いたと伝えられています。聖ニコライは後に日本での伝道活動が軌道に乗ってくると、正教会において、十二使徒のうちの聖使徒ペトル(ペテロ)と聖使徒パウェル(パウロ)を記憶して祝う祭り、ペトル・パウェル祭の日を日本における伝道方針を定める日とします。

日本ハリストス正教会(Orthodox Church in Japan) を組織後、上京し神田駿河台に本部となる東京復活大聖堂(Holy Resurrection Cathedral in Tokyo)を創建します。通称神田ニコライ堂と呼ばれ、ビザンティン様式の教会建築として有名です。ニコライ堂には苦難の歴史があります。1894年に竣工されますが、高台にあって皇居など東京を見渡せるので、スパイ活動をするのではないかと疑われたのです。

それに先立ち、日本人最初のイコン画家になったのが、山下りんです。帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクに留学し、女子修道院にてイコン(Icon) 製作技術を学び、1883年に帰国します。そしてニコライ堂内にイコン画を納めます。 

1904年には日露戦争が勃発しますがニコライ大主教はロシアに帰国しません。反ロシアの機運が高まることによって、聖堂が破壊されるのを恐れたからです。1923年9月1日に関東大震災が起こり、ニコライ堂の鐘楼やドームが破壊され、内部のイコン画などが焼失します。ニコライ堂が再建されたのは1924年です。関東大震災で消失したと思われていた日記-『宣教師ニコライの日記抄』が発見され2007年に日本語版が出版されます。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十九  アーネスト・サトウ

ロンドン生まれのアーネスト・サトウ(Ernest M. Satow)は、ルーテル派(Lutheran)の宗教心篤い家柄で育ちます。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(University College, London)で学び、在日本英国公使館の一等書記官であったローレンス・オリファント(Laurence Oliphant)が著わした「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れたといわれます。1861年にイギリス外務省の領事部門へ通訳生として入省します。

1862年9月、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任します。初代駐日総領事で同公使であったラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)の下で働きます。当時、横浜の成仏寺で日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ブラウン(Samuel Brown)や、医師の高岡要らから日本語を学びます。成仏寺は外国人宣教師の宿舎で、ヘボン(James C. Hepburn)も住んでいました。公使館の医師であったウィリアム・ウィリス(William Willis)らと親交を結びます。ウィリスは後に日本に赤十字精神をもたらし、鹿児島大学医学部の前身である医学校兼病院の創設に尽力します。

サトウが初めて日本語通訳としての仕事をしたのは、1867年の5月10日をもって攘夷を行うという将軍徳川家茂が孝明天皇に約束したことを知らせる内容の手紙を翻訳したことといわれます。1863年8月に薩摩藩とイギリスとの間で薩英戦争が起こります。サトウもウィリスとともにアーガス号(Argus)に通訳として乗船します。薩摩藩船・青鷹丸が拿捕されます。その船に、後に大阪経済界の重鎮となる五代友厚や日本の電気通信の父と呼ばれる寺島宗則が乗船していて捕虜となります。

下関戦争では四国艦隊総司令官付きの通訳となり、英・仏・蘭の陸戦隊による下関にあった前田村砲台の破壊に同行します。長州藩との講和交渉では高杉晋作を相手に通訳を務めるという経歴を有します。サトウの日本滞在は1862年から1883年と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると25年間となります。アーネスト・サトウは「お雇い外国人」ではありませんでしたが、通訳として外国との折衝にあたります。イギリスは江戸幕府を応援していましたので、サトウの役割も大きかったと思われます。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十八 ヴェンセスラウ・デ・モラエス

ポルトガル人(Portugue)の外交官、海軍軍人、文筆家だったヴェンセスラウ・デ・モラエス(Wenceslau Jose de Sousa de Moraes)の日本での活躍です。日本では余り知られていない文筆家ですが、意外と彼の著作はポルトガルでは関心を呼んだようです。1854年、モラエスはポルトガルの首都リスボン(Lisbon)で生まれます。海軍学校を卒業後、ポルトガル海軍士官となります。ポルトガル領だったマカオの港務局副司令を経て1889年に来日します。

1899年に日本に初めて神戸にポルトガル領事館が開設されると同副領事として赴任し、後に総領事となり1913年まで勤めます。モラエスは神戸在勤中に芸者のおヨネと出会い、ともに暮らすようになります。しかし1912年にヨネが死没すると、総領事の職を辞任してヨネの故郷である徳島市に移住します。さらにヨネの姪である斎藤コハルと暮らすのですが、彼女にも先立たれてしまいます。

『おヨネとコハル』『大日本』『日本精神』『徳島の盆踊り―モラエスの日本随想記』や日本についての著作があり、また日記・書簡など、ポルトガルの新聞や雑誌などに寄稿した文章が多数残されています。すべてポルトガル語であるため、日本ではあまり知られることがなかったようです。著作のほとんどが彼の死後、日本語に訳されて日本礼讃の書として知られるようになります。

「緑、緑、緑一色!…」。モラエスは徳島の最初の印象を作品「徳島の盆踊り」(岡村多希子訳)に書いています。ですがモラエスの徳島での生活は必ずしも楽ではなかったようです。身長180cm以上で、長い髭を延ばした風貌だったこともあり、「とーじんさん」と呼ばれて珍しがられたようです。ドイツのスパイと疑われたり「西洋乞食」と蔑まれたりすることもあったといわれます。

モラエスは1902年から1913年まで、ポルトガル北部の港湾都市ポルト市(Porto)の著名な商業新聞に当時の日本の政治外交から文芸まで細かく紹介します。それらを集録した書籍『Cartas do Japão(日本通信)』全6冊が刊行されます。ポルトガルにて、東洋の国、日本への関心を高めて話題となったといわれます。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十七 アーネスト・フェノロサ

高校の美術の時間では、岡倉天心と並んでアーネスト・フェノロサ(Ernest F. Fenollosa)のことを学びます。彼はマサチューセッツ州(Massachusette)のセイラム(Salem)生まれ、地元の高校を卒業後、ハーバード大学(Harvard University)で哲学、政治経済を学びます。美術が専門ではなかったのですが、ボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)付属の美術学校で油絵とデッサンを学んだことがあり、美術への関心はあったことが伺われます。

フェノロサは、動物学者エドワード・モース(Edward Morse)の紹介で1878年に来日し、東京大学で哲学、政治学、理財学(経済学)などを講じます。フェノロサの講義を受けた者には岡倉天心、嘉納治五郎らがいます。来日後は日本美術に深い関心を寄せ、助手の岡倉天心とともに古寺の美術品を訪ね、天心とともに東京美術学校の設立に尽力します。1888年天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感し、日本初の芸術教育機関、東京美術学校、現在の東京芸術大学を設立し初代校長となります。フェノロサは副校長に就き、美術史を講義します。

当時の日本では、神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で、多年にわたり仏教に虐げられてきたと考えていた神職者や民衆が起こした廃仏毀釈が起こります。それに対して、西洋文化崇拝の時代風潮の中で見捨てられていた日本美術を高く評価し、研究を進め、広く紹介したのがフェノロサです。明治時代における日本の美術研究、美術教育、伝統美術の振興、文化財保護行政などにフェノロサの果たした役割は大きいといえます。

1890年に、ボストン美術館(Museum of Fine Arts Boston)に日本美術部が新設されフェノロサのもとへ「学芸員になって欲しい」と依頼が届きます。折りしも日本政府との契約が満期終了となり同年、ボストン美術館東洋美術部長に就任し、日本美術の紹介に尽力します。1896年に、2度目の来日で東京高等師範学校教授となる。この年、夫人と共に天台寺門宗の総本山三井寺・法明院を訪ねます。フェノロサは法明院の茶室で寝起きしたといわれます。法明院にはフェノロサの墓があります。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十六 魯迅 その2

魯迅には、人間嫌いという側面があったといわれます。嫌悪は他者ばかりでなく、自己を含む面です。同胞の人々を卑俗性ゆえに避けたというのですが、魯迅自身をも嫌悪することにはね返ったのではないかという説です。魯迅が仙台での授業の合間に見た記録映像がありました。ロシアのスパイをしたとして中国人が日本の兵士に銃殺されるシーンで物見遊山で見守る中国人が「万歳!」と歓声を上げるのを見るのです。魯迅は「ああ、何も考えられない!」と嘆き、身体ではなく精神の改造へと転向するのです。魯迅は医学の道をやめて東京へ向かいます。

東京にいた中国人留学生には、立憲君主制を唱える改良派、異民族征服の王朝であった清朝打倒を説く革命派、無政府主義の者など、さまざまなグループがありました。魯迅はどうも革命派に位置していたようです。

1909年に魯迅は帰国し、浙江省の師範学同堂の教員となります。1911年に辛亥革命がおこり、各地で民衆が蜂起し清王朝の支配が終わります。列強の中国大陸への進出により、中国各地で抗日運動も広がっていきます。魯迅は、作家として翻訳家として、文学革命運動を担って祖国の青年に精神を教える立場に変わります。不朽の名作「阿Q正伝」は、ルンペンで愚民の典型である架空の一庶民、阿Qを主人公とした短編小説です。

阿Qは反封建的で半植民地的な中国社会の産んだ人間の一タイプとして描かれます。権威には無抵抗で弱者をいじめる滑稽な人物で、人間のもつ奴隷根性の化身で、そして万人に通じその意味で普遍性を備えた人間としても描かれます。革命に同調し謀反に荷担したとして阿Qは捕らえられ処刑されるのです。「阿Q正伝」は民衆の無知と無自覚を痛烈に告発した作品として知られています。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十五 魯迅 その1

このブログのタイトル「日本にやって来て活躍した外国人」にそうかどうか心配ではありますが、中国の偉大な作家、魯迅を取り上げます。中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた作家で、その作品は日本や中国だけでなく、東アジアでも広く愛読されています。

魯迅が生まれたときは、大清国の崩壊していった時代です。清国は古来から対朝鮮関係で占めていた特権的地位を失い、西欧列強や日本に領土を割譲し、賠償金を支払います。これは中国の識者に与えた衝撃は大きく、自国の体制を内部から考え直す視点に立つようになります。魯迅の父は将来息子の一人は西洋へ、一人は日本へやって学問をさせようとします。科挙しか眼中になかった当時の識者の間に変革の気運が起きるのです。

1902年に魯迅は、鉱路学堂という学校の同期生とともに官費留学生として日本に留学します。最初、東京の弘文学院という清国留学生に日本語と普通教育を授けるために設けられた学校に入ります。この学校は、東京高等師範学校校長であった嘉納治五郎が中国人留学生の速成教育のために設けた学校です。魯迅はこの学校の普通科で2年間、日本語のほか算数、理科、地理、歴史などの教育を受けます。

1904年9月、魯迅は国費留学生として仙台医学専門学校、現在の東北大学医学部に入学します。無試験で授業料は免除されました。医学専門学校は全国に5校ありましたが、仙台を選んだのは、「中国留学生のいない学校に行きたい」という理由だったようです。特に解剖学の藤野厳九郎教授は魯迅を丁寧に指導したようです。医学を専攻しながら、同時に西洋の文学や哲学にも心惹かれていきます。ニーチェ(Friedrich W. Nietzsche)、ダーウィン(Charles R. Darwin) のみならず、ゴーゴリ(Nikolai Gogol)、チェーホフ(Anton Chekhov)などロシアの小説を読み、後の生涯に大きな影響を与えていきます。

仙台医学専門学校留学時代の魯迅と藤野厳九郎の関係は、魯迅の短編小説「藤野先生」により伺い知ることができます。仙台医学専門学校の課目は解剖学・組織学・生理学・化学・物理学・倫理学・ドイツ語・体操などで、藤野厳九郎は解剖学を担当していました。藤野厳九郎は教育者として厳しく真面目でした。他方で魯迅のノート添削に丁寧に対応していました。魯迅は、1904年9月から1906年3月までの約1年半しか仙台にいませんでした。