音楽の楽しみ その20  合唱曲の数々 「深き河」

Black Musicの「深き河」の歌詞を見ますと、黒人の厳しかった現実と救いへの憧れが描かれています。

 Deep river, my home is over Jordan
  Deep river, Lord,
   I want to cross over into campground

歌詞にある「My home」とは、旧約聖書の出エジプト記3章8節 (Exodus 3:8)にある「乳と蜜の流れる地」、豊かなカナン (Canaan) の地を指します。地中海とガリラヤ湖 (Sea of Galilee) 、ヨルダン川(River Jordan)、死海(Dead Sea) に挟まれた地域一帯の古代の地名で、かつて住み慣れた彼らの故郷アフリカをも示唆しています。Campgroundは、ヨルダン川の西岸、現在のWest Bank のことです。

イスラエルの民族指導者モーゼ (Moses)に率いられた民がエジプトから逃れ、ヨルダン川にたどりつくのは40年目。洗礼者ヨハネ(John the Baptist)はこの川のほとりの荒野で「悔い改め」を人びとに伝え洗礼を授けていたことがヨハネによる福音書1章26節(Gospel according to John 1:26 )にあります。

「深き河」はヨルダン川だけではないようです。ノースカロライナ州 (North Carolina)には、「深き河」と同じ名前の「Deep River」があります。この川は、北部州と南部州の境界を縦断するように流れています。「南北戦争当時、奴隷解放を推進していたクエーカー教徒(Quaker) の組織が存在し、彼らによって「深き河」が作曲されたのではないかという説もあります。

ノースカロライナ州は、奴隷制の維持に賛成する南部諸州の一つとして北軍と戦ったのですが、既に自由な身分を保証されたアフリカ系アメリカ人も数多く存在していました。ですが、その暮らしは差別と搾取のために過酷であったようです。

このDeep Riverは、モーゼがヨルダン川を渡りカナンの地に落ち着いたように、自由と隷属、生と死の境として象徴的に解釈されてきたという川です。

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ca. 1920s-1930s --- Contralto Opera singer Marian Anderson, (1902-1993). Marian Anderson was born in Philadelphia, PA, and was the first African-American singer to sing at the New York Metropolitan Opera. Undated photograph. --- Image by © Bettmann/CORBIS

ca. 1920s-1930s — Contralto Opera singer Marian Anderson, (1902-1993). Marian Anderson was born in Philadelphia, PA, and was the first African-American singer to sing at the New York Metropolitan Opera. Undated photograph. — Image by © Bettmann/CORBIS

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音楽の楽しみ その19  合唱曲の数々 「クンバヤ マイ ロード」 (Kumbaya My Lord)」

ボースカウトや子供たちの夏のキャンプでは、焚き火を囲んでよく歌われるのが「クンバヤ  マイ ロード」です。もともとはBlack Spirituals の一つで、黒人奴隷が主イエスに救いを求める心情を歌っています。

「Kumbaya My Lord」の由来ですが、アフリカ系アメリカ人なまりの英語で「Come by here My Lord」 (主よ、私の側にきてください)ということからきています。

1927年にロバート・ゴードン (Robert Gordon) というカリフォルニア大学バークレ校 ( University of California at Berkeley) の英語学者がアメリカの民謡を編集しアーカイブ (archive) を作成します。それが「Folk-Songs of America: The Robert Winslow Gordon Collection, 1922」です。アーカイブの中に加えられたのが「Kumbaya My Lord」です。「Kumbaya My Lord」の歌詞ですが、奴隷達の絶望や悲嘆さに神の助けや恩寵を願う内容となっています。ゴードンはこの曲がH. Wylieという女性によって歌われていたのを記録します。それ以来、この霊歌は急速に広がっていきます。

時代が変遷して、1962年頃には、ジョーン・バエズ (Joan Baez) がこの歌を歌い、公民権運動やヴェトナム反戦運動に大きな影響を与えていきます。

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音楽の楽しみ その17  合唱曲の数々 「Shenandoah」

「シェナンド (Shenandoah)」は19世紀の初めにアメリカで歌われるようになったといわれる民謡です。タイトルの「シェナンド」の語源は、原住民のインディアンであるイロクオイ族 (Iroquois) の酋長 ”Sherando”の名とする説や、大草原を意味する言葉”Skahentowane”に由来するものなど諸説があります。元来はインディアンの間で語られていたシェナンド河 (Shenandoah River) 創造の伝説にある「星々の美しい娘」という意味を持つ言葉だといわれています。

「シェナンド」で歌われる「シェナンド河」は、アメリカのヴァジニア州 (Commonwealth of Virginia) とウェストヴァジニア州(West Virginia) を流れる川で、この川はポトマック川 (Potomac River) の支流であり、ヴァジニア州とメリーランド州 (Maryland)との州境近くでポトマック川に繋がっています。また歌詞に出てくる「ミズーリ川(Missouri River)」はアメリカの中部を流れる川で、ミシシッピ川 (Mississippi River) の最も大きな支流です。

「シェナンド」という合唱曲は多くの合唱団や歌手によって歌われています。たとえば、ロバートショウ合唱団 (Robert Shaw Chorale)やロジェワグナー合唱団 (Roger Wagner Chorale) は有名です。Robert Shawによってロバートショウ合唱団は1948年に結成され、力強くも艶やかな音色の男声合唱で世界中で演奏した合唱団です。ジュリアード音楽院 (Juilliard School) やニューヨークにある他の音楽大学 (conservatories) の卒業生で構成されました。

ロジェワグナー合唱団は、Roger Wagnerによってつくられ、カリフォルニアを中心に活動し、その後世界的な混声合唱団となりました。Wagnerは教会音楽や32年間もカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (University of California, Los Angeles: UCLA)において大学教育にも携わり、UCLAの名誉教授の称号を得ています。

この二つの合唱団は1980年代に解散しますが、フォスター (Stephen Foster)の全曲を歌うなど、合唱音楽を世界に広める大きな貢献をします。

Oh Shenandoah, I long to hear you,
Way-hay, you rolling river
Oh Shenandoah, I long to hear you,
Away, we’re bound to go
cross the wide Missouri

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Images for travel story on Harper's Ferry, West Virginia by Sydney Trent. Harper's Ferry. WV from Maryland, Heights.

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音楽の楽しみ その16  合唱曲の数々 グレゴリオ聖歌

グレゴリオ聖歌 (Gregorian chant ) を取り上げます。もともとグレゴリオ聖歌は西方教会の単旋律聖歌(プレインチャント-plainchant)の中心に位置する聖歌で、ローマカトリック教会で使われる単旋律 (monophonic)、無伴奏の宗教音楽を指します。ミサ (Mass)や聖務日課の祈りの中で男性の聖職者によって歌われていました。グレゴリオ聖歌が男声合唱によって歌われることが多いのはそのためです。

教会の長い歴史では男声および少年合唱によって、また修道会では修道僧や修道女によってグレゴリオ聖歌は歌われてきました。スペインはカタルーニャ州 (Catalunya) のバルセロナ (Barcelona)近郊にあるモンセラート山 (Montserrat) に行ったことがあります。その山の中腹にネディクト会(Benedict) のサンタ・マリア・モンセラート修道院 (Santa Maria Monasterio de Montserrat)があります。そこにも少年聖歌隊 (Escolanía de Montserrat)がありました。

女子修道院(コンヴェント: convent)では、修業生活の一環として、ミサ及び聖務日課で歌うことが認められていました。聖歌隊に加わることは聖職者にのみ許される公的儀式とされていたため、一般の女性は聖歌隊で歌うことは認められていませんでした。しかし、教会の礼拝や音楽への女性の参加が一般的になるにつれ、今日ではグレゴリオ聖歌は女性を加えた混声合唱団によって演奏されることも多くなりました。それでもギリシャ正教会 (Church of Greece) 、あるいは東方正教会では今も男声が正教会聖歌の基本となっています。

現在では、世界の各地で聖歌やクラシックなどの曲を男声合唱団が歌っています。イギリスのキングズシンガーズ (King’s Singers)、アメリカのシャンティクリア (Chanticleer) などの男声合唱団はグレゴリオ聖歌から民謡、ゴスペル、ポピュラー音楽まで幅広く手がけ、カウンターテナー(countertenor) の響きも加えて癒しのブームにも支えられて高い評価を受けています。

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Montserrat

The Monks of Norcia, a group of Benedictine monks in Norcia, Italy. The group's new Gregorian chant CD debuted at No. 1 on Billboard’s classical music chart last week (June 10, 2015). Photo by Christopher McLallen, courtesy of the Monks of Norcia
The Monks of Norcia, a group of Benedictine monks in Norcia, Italy. The group’s new Gregorian chant CD debuted at No. 1 on Billboard’s classical music chart last week (June 10, 2015). Photo by Christopher McLallen, courtesy of the Monks of Norcia

音楽の楽しみ その15  合唱曲の数々 「埴生の宿」

ここ数年、衛星放送などで名画劇場のような番組をとおして映画を楽しんでいます。そういえば「日曜洋画劇場」の淀川長治、「金曜ロードショー」の水野晴郎らの映画解説が懐かしいです。独特の言い回しで映画をかみくだき視聴者に映画の楽しみかたを伝えていました。そうしたキャラクターがいなくなりました。

映画には必ず音楽が登場します。既に取り上げた「戦場にかける橋」の「クワイ川マーチ」、永遠の名作といわれる「サウンドオブミュージック (Sound of Music)」の「すべての山に登れ (Climb Every Mountain)」、「渚にて (On the Beach)」の「ウォルシング・マチルダ (Waltzing Matilda)」、「ビルマの竪琴」で歌われる「埴生の宿」や「仰げば尊し」などはジーンときます。

音楽は人間と社会にどのような役割を果たしてきたかは、第二次世界大戦を扱った映画から考えてきました。今回は竹山道雄原作の「ビルマの竪琴」を取り上げます。「ビルマの竪琴」が映画化されたのは1956年。監督は市川崑、出演者は安井昌二(水島上等兵)、三國連太郎(井上隊長)、西村晃 浜村純などでした。第二作は同じく市川崑の監督で1985年に制作されます。中井貴一(水島上等兵)石坂浩二(井上隊長)、川谷拓三、小林稔侍らが出演しました。両作品にも北林谷栄が物売りの老婆役で出演しビルマの民衆の逞しさを演じていました。

井上小隊長はかつては音楽専攻で、小隊では隊員に合唱を教えます。やがて合唱が隊の規律と憩いをもたらします。水島上等兵は竪琴で伴奏するのです。戦いの前夜、「埴生の宿」を合唱すると敵陣のイギリスの部隊からも合唱が流れるという場面、僧侶となった水島上等兵が戦友とで捕虜収容所のわきで再会し「埴生の宿」と「仰げば尊し」を竪琴を弾いて別れを告げる場面があります。

「埴生の宿」は、もとはイングランド民謡で原題はHome! Sweet Home! です。

埴生の宿も  我が宿  玉の装ひ  羨まじ
       長閑也や 春の空  花はあるじ  鳥は友
      おお  我が宿よ  たのしとも  たのもしや

土間に筵を敷いて寝るような貧しい小屋 (広辞苑)、それが埴生の宿です。そんな家でも家族が結ばれて暮らしたことを思い、家族を心配し、国に帰りたい気持ちを表現していました。音楽は時に人の生きることの願望や憧れを最も強く伝えてくれる手段です。
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音楽の楽しみ その14  合唱曲の数々 「兵士の合唱」

男声合唱といえば「兵士の合唱 (Choeur des soldats) 」を忘れることができません。フランスの作曲家チャールズ・グノー (Charles Gounod) が作った全5幕の「ファウスト(Faust)」にでてきまます。「ファウスト」は、全5幕のオペラ。ドイツの文豪ゲーテ(Johann  Goethe) が書いた劇詩「Faust」題材にしているといわれます。

古典音楽はあまり聴かない方でも、どこかで聴いたことのあるメロディーです。まさに喜びに湧く勝利の歌の旋律は単純にして明快です。ヴェルディ (Giuseppe Verdi) の歌劇「トロヴァトーレ (Trovatore)」にも「兵士の合唱、兵士のラッパは高鳴り」がでてきます。

グノーは優れた曲を沢山作っています。れでも良く聴かれる「アヴェ・マリア (Ave Maria)」は有名です。この曲はバッハの「平均律クラヴィーア曲集(BWV846) 」第1曲の前奏曲を伴奏にして、ラテン語の聖句を歌詞に用いた声楽曲です。シューベルト (Franz Schubert)、モーツアルト (Wolfgang Mozart) のアヴェ・マリアと並ぶ名曲です。

グノーは知名度のわりに広く知られている旋律は少ないような気がします。ですが「ロミオとジュリエット (Romeo et Juliette)」、ヴァチカン国歌 (Anthem of Vatican City) なども作曲しています。是非一度お聴きください。

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音楽の楽しみ その13  合唱曲の数々 「狩人の合唱」

日本で大変人気のある作曲家にウェーバー (Carl von Weber) がいます。中学や高校の音楽鑑賞の時間にしばしば聴かされた曲があります。その一つが「魔弾の射手 (The Freeshooter)」です。序曲(Overture)や合唱がよく知られています。

この曲の舞台は1650年頃のボヘミアです。その地方の民話を題材とし、魔の潜む深い森や封建時代の人々の素朴な生活を描いています。この作品は、「歌劇におけるドイツ・ロマン主義(Romantic school) のを確立した記念碑的作品」と紹介されています。その伸びやかな音楽はその後ワーグナー (Richard Wagner) 、マルシュナー(Heinrich Marschner)、マイアベーア(Giacomo Meyerbee)、さらにやがて「ロシア五人組」の作曲家を育てたグリンカ (Mikhail Glinka)などにも大きな影響を与えたといわれます。

さて、「魔弾の射手」序曲は、荘厳な森の中の静けさの中に四本のホルンによって朝の情景が奏でられます。冒頭にでてくる旋律は、賛美歌285番「主よ御手もて 引かせ給え (Thy way, not mine, O Lord) 」として採用されています。賛美歌はいろいろな曲をアレンジして集められた聖歌集のことです。序曲全体は、穏やかな旋律で満ち、劇的な箇所も交えて聴いていて心地よさが伝わります。

あまたの男声合唱曲の中で「魔弾の射手」に登場する「狩人の合唱 (Huntsmen’s Chorus)」は、最も歌われているものです。

狩人の楽しみと比べられるものはこの世にはない
  狩人にこそ生命の杯はあわだちあふれる
   角笛の響きを聞いて緑に身を横たえ
    藪を抜け 池をこえて 鹿を追うのは
   王者の喜び 男子のあこがれ

狩人のマックス (Max) は恋人アガーテ (Agathe) を得るために百発百中の「魔弾」を手に入れて射撃大会に臨みます。
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音楽の楽しみ その12 合唱曲の数々 「カンタータ」

今年の「復活祭」、イースター (Easter) は3月27日。春分後、最初の満月のあとの日曜日と定められています。ですから毎年復活祭の日は異なります。このとき教会では特別な音楽が演奏されたり歌われたりします。カンタータ(Cantata-Kantate)もそうです。

カンタータというのは、器楽の伴奏に合わせて演奏される曲のことです。17世紀後半にイタリアで作曲されて広まります。バロック期 (Baroque) の作曲家、アレッサンドロ・スカルラッティ (Alessandro Scarlatti) がその基礎をつくります。やがて18世紀にはドイツにおいて、ルーテル教会などで演奏するために作曲されていきます。そのために、教会カンタータ (church cantata) と呼ばれるようになります。一般に演奏される世俗的なカンタータもあります。

主にプロテスタント教会 (Protestant Church) の礼拝用に書かれたのが教会カンタータです。オーケストラの伴奏による合唱 (コラール: Choral)と独唱(アリア: Aria) が交互に歌われます。合唱は礼拝に集う会衆がみんなで歌うものです。歌詞は聖書から引用されます。

教会カンタータの中でよく知られているのが、「目覚めよと呼ぶ声が聞こえあり (Awake, calls the voice to us) (Wachet auf, ruft uns die Stimme)」として歌われる「カンタータ140番」や「心と口と行いと生きざまもて(Heart and mouth and deed and life) (Herz und Mund und Tat und Leben) 」というカンタータ147番です。合唱と管弦楽の響きは素晴らしいものです。おそらく多くの人は、このいずれかをどこかで必ず聴いています。

数多くのカンタータを作曲したのはヨハン・セバスチャン・バッハ (Johann Sebastian Bach) です。その作品の主題目録番号はBWVと呼ばれています。BWV1から231は教会カンタータ、世俗カンタータ、そしてモテット (mottetto) から成ります。

「聖書の言葉を牧師が説明し、聖書の物語を音楽で再現する」ために、合唱と独唱を組み合わせたカンタータが広まったとされます。特に会衆みんなが歌うことを重んじた宗教改革者として知られるマルチン・ルター (Martin Luther) の考えに沿ったのがカンタータです。

今や多くのプロテスタント教会の通常の礼拝においても、カンタータは部分的ですが演奏されます。北大合唱団でもこの140番を取りあげました。その頃、私はこれが優れた宗教作品であることは理解できませんでした。私は信仰に対する畏敬の念や作曲家の想いへの理解がいかに浅薄であったかということです。

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音楽の楽しみ その11 合唱曲の数々  「カヴァレリア・ルスティカーナ」

男声合唱団のど素人にもかかわらず、一度だけ歌劇 (オペラ)に出演したことがあるのです。それは「カヴァレリア・ルスティカーナ (Cavalleria Rusticana) 」というピエトロ・マスカーニ (Pietro Mascagni) が作曲したものです。この歌劇は、シチリア (Sicilia) の田舎を舞台とした貧しい人々の暮らしぶり、三角関係のもつれから起きる男女の愛憎が主題となっています。華やかな舞台、衣装をまとった姿、大げさな演技、、、、ではなく、私は舞台裏で歌う出演?でした。用意されたテレビ画面には指揮者が写り、それに合わせて歌うというものです。

この歌劇では、幕間の休憩の後に演奏される間奏曲 (intermezzo) が良く知られています。物語が盛り上がり、いったん興奮を静めるかのようにオーケストラによる間奏曲が流れるのです。この間、主演者らは休憩をとります。歌劇のリハーサルを始めて経験し、オーケストラボックスでの演奏、舞台装置の複雑さ等に驚きました。

歌劇ですが、何世紀もの間イタリア歌劇が正統派歌劇の形式だとされてきました。特に18世紀においてもなお、イタリア音楽こそが最高のものであるという考えで、どこの宮廷でもイタリア人音楽家をこぞって重用したようです。その代表がジョアキーノ・ロッシーニ (Gioachino Rossini) 。「セビリアの理髪師 (Barber of Seville )」や「ウィリアム・テル (William Tell) 」、「アルジェのイタリア女 (Italian Girl in Algiers)」などで知られています。イタリアが生んだ歌劇の作曲家にジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini) もいます。

2010年8月にトスカーナの州都フィレンツェ (Firenze-Florence) を訪ねる機会がありました。ロッシーニの像があちこちにありました。あとでわけを聞くと彼は晩年はフィレンツェで過ごしたということでした。メディチ (Lorenzo de’ Medici) 、ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)、ボッティチェッリ(Sandro Botticelli) も活躍したところです。

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音楽の楽しみ その10 合唱曲の数々 「巡礼の合唱」

男声合唱をやったことのある方が必ず歌うレパートリーに「巡礼の合唱: Pilgerchor」 があります。この曲は、「タンホイザー(Tannhaeuser) 」に登場する有名な合唱曲です。作曲はドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)です。生まれはライプツィヒ (Leipzig)。この街は多くの作曲家や作家を生んだところといわれます。メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn)もこの地の生まれ。ゲヴァントハウス管弦楽団 (Gewandhausorchester Leipzig) もあります。

歌劇タンホイザーですが、快楽の世界に溺れた中世の騎士であり吟遊詩人であるタンホイザーは、禁断の地で官能の時を過ごしていました。やがて人々は彼を国から追放せよと罵倒し、タンホイザーはローマへの巡礼に向かいます。その帰り、巡礼者の中にタンホイザーの姿を探すエリーザベト (Elizabeth)がいます。巡礼の列にはタンホイザーはいません。この歌劇は、エリーザベトとタンホイザーの愛や死、そして救済という概念が中心で、この作品を鑑賞するうえで大事な要素となっています。

ワーグナーは、後に「メンデルスゾーンなどはユダヤ人だから真の芸術の創造はできない」といった過激な発言をしたことも記録されています。それ故に、ヒトラーがワーグナーの信奉者(Wagnerian)であったことと相まって、はるか後にワーグナーの作品はナチスに利用されることとなります。

ワーグナーは楽劇(music drama)の王ともいわれます。歌劇や歌い手や舞台装置が中心ですが、楽劇は台本を重視し、台本にそった音楽の役割がはっきりしていて、音楽をより劇的に表現する楽曲といわれています。

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音楽の楽しみ その9 合唱曲の数々 「ラ・ボエーム(La Boheme)」

北大での生活が落ち着いた頃、僅かな小遣いをはたいて中古のレコードを買いました。当時はLPとかSPというレコードの時代です。一番最初に手にしたのLPでした。「ラ・ボエーム 」というなんとも甘美で切なさに満ちたオペラ(歌劇)です。ジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini) の作曲した4幕オペラで、最も演奏されるイタリアオペラの一つといわれています。

主役はお針子のミミ (Mimi)と詩人のロドルフォ(Rudolfa)。二人はヨーロッパではジプシーと呼ばれていたボヘミアン(Bohemian)でパリの場末に住んでいます。ミミを歌っていたのはアントニエッタ・ステッラ (Antonietta Stella) というイタリア人のソプラノです。

ロドルフォのアリア「冷たい手を」、ミミのアリア「私の名はミミ」などの曲が知られています。以下ロドルフォとミミの二重奏の情景と台詞をWikipediaからの引用します。

ミミがカンテラの火を借りに来たのだが、めまいがして床に倒れ込む。ロドルフォに介抱されて落ち着いたミミは火を借りて礼を言い、立ち去る。しかし、彼女は鍵を落としたといって戻ってくるが、戸口で風が火を吹き消してしまう。再度火を付けようと、近寄ったロドルフォの持つ火もまた風で消えてしまう。しかたなく二人は暗闇で鍵を探す。ロドルフォが先に見つけるが、彼はそれを隠しミミに近寄る。そして彼女の手を取り、はっとするミミに自分のことを詩人らしく語って聞かせる「冷たい手を」。続いてミミも自己紹介をする「私の名はミミ」。

プッチーニはイタリア中部、トスカーナ地方 (Toscana) の生まれ。「ラ・ボエーム」に加えて「マノン・レスコー (Manon Lescaut)」、「トスカ (Tosca)」、「蝶々夫人 (Madama Butterfly 」でも知られています。クラシック音楽やオペラの初心者にとっても、プッチーニの作品は親しみやすく魅力的です。

アントニエッタ・ステッラがジャケットに載っていたのを忘れません。そして安い蓄音機で聴いたものです。オペラとか歌劇の中で歌われる合唱が身近になった曲、それが「ラ・ボエーム」です。

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音楽の楽しみ その9 合唱曲の数々「戦場にかける橋」

アメリカ軍による日本本土への初空襲は1942年4月18日といわれます。首都東京への本格的な空襲は1944年11月24日に始まり、1945年3月10日の下町空襲へと続きます。勉誠出版の東京空襲写真集によりますと、この日の空襲では低高度から1600余トンの焼夷弾が投下され、95,000人を超える人々が亡くなりました。一日の死者としては原爆を超えて最大とあります。東京大空襲・戦災資料センターや江戸東京博物館に行きますとその惨状が伝わってきます。

戦争の悲惨さや不条理さが取り上げられています。この体験が風化しないようにすることの難しさもいろいろと語られています。映画は戦争を語り継ぐものとしてその役割を果たしています。そして映画音楽もその一翼を担っています。

第二次大戦のタイ(Thail) とビルマ (Burma) を舞台として、戦争の非情さと人間の愚かさを描く不朽の名作といわれるのが「戦場にかける橋」(The Bridge on The River Kwai)です。舞台は両国の国境近くにある日本軍の捕虜収容所とクワイ河 ( River Kwai) です。連合軍捕虜を使って国境に流れるクワイ河に鉄橋を架ける計画が進められます。ニコルソン (Nicholson)英軍大佐(アレック・ギネス: Alec Guinness)はジュネーヴ協定を盾にして、捕虜収容所長の斉藤大佐(早川雪洲)と対立します。彼は最初、橋造り作業を拒否するのです。収容所にいたアメリカ人の海軍少佐と偽る捕虜(ウイリアム・ホールデン:William Holden)は脱走を試み、やがて完成する橋の爆破に加わります。

橋の完成によって捕虜となり誇りを失っていた兵士の意気が上がります。戦いに負けて捕虜になった者が自分たちで造った橋の完成で勝利の気分を味わいます。ところが映画のお終いでは、鉄橋の破壊を命じられた潜入部隊によって一番列車が通る橋が、無残にも爆破されます。その悲惨な光景を見ていた士官は呆然として「愚かしいことだ、信じられない、、」と叫ぶのです。

この映画のテーマ音楽が「クワイ河マーチ」です。数ある映画音楽の中でも最も親しまれている作品の1つとされます。もともとは「ボギー大佐 (Colonel Bogey)」と呼ばれていたのをこの映画で使ったようです。イギリス軍兵士が口笛を吹きながら歩くこの行進曲は、兵士の士気を鼓舞します。この状況での音楽は、「美的な価値の追求」といったものではなく、「帰属意識を高める」役割を果たしています。これも音楽が有する特徴といえましょう。

1957年の映画ですが、今に伝えるメッセージで一杯です。機会がありましたらご覧ください。

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音楽の楽しみ その8 合唱曲の数々 北海道大学男声合唱団

北海道大学に入学してまずは勉強しようかと意気込みました。ですがなにか授業は高校の延長のような雰囲気でした。英語は特にそうでした。かすかに新鮮だったのは、「君たちは英英辞典を使わないと、、」という川村という教授の言葉でした。

中央ローンという芝生と小川の広場があります。休講が時々あるとそこでのんびりしました。今のように補講をやるなどの緊張感はありません。「男声合唱団にでも入るか」という気分になりました。

北大合唱団ですが、結構歴史があるのです。大正4年、大学の前身であった東北帝国大学農科大学時代に ポール・ローランド (Paul Roland) という英語教師が「農科大学グリークラブ」を発足させ演奏会を開いたのが先駆けといわれています。今年は創部95年目にあたります。

男声合唱団の呼称はグリークラブ (glee club) といいます。音楽ジャンルの「グリー」とは無伴奏でホモフォニー (homophony) と呼ばれる複数の声部が和声を組み立てる音楽です。少し付け加えますと、賛美歌やコラール (Choral) を聴いていてわかるのですが、リズムが非常に似通っていることがあります。これはホモリズム (homorhythm) といいます。こうした音楽を聴いていると落ち着きを感じるのは、ホモリズムのせいだということです。

北大合唱団は原則として練習は毎週一回、狭い部室でやりました。文字通り男ばかりの部活です。男声合唱を4年間やりますと、楽譜の読み方、歌い方、他の声部を聴きながら自分の歌い方を調整できるようになります。男声合唱はテノール(1, 2)、バリトン、ベースの4声部から成ります。私の所属はベース。従って、メロディはほとんど歌うことがありません。大半の曲を歌うときは、他の声部をいわば支えるような役割となります。

夏は合宿がありました。秋に開かれる定期演奏会に備えるのです。それと全日本合唱連盟主催の大学合唱コンクールに出場するためです。定期演奏会では、日本音楽著作権協会との交渉、プログラムに載せる広告集め、チケット作り、ポスター貼りなどを分担します。演奏会が近づくと各自が割り当てられたチケットを売り歩きました。

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音楽の楽しみ その7  合唱曲の数々 「戦場のピアニスト (The Pianist)」

音楽と権力、音楽とプロパガンダ、そして音楽の普遍的な価値のようなことを映画を通して考えます。「戦場のピアニスト (The Pianist)」という名作です。監督したのはローマン・ポランスキー (Roman Polanski ) 。この映画も音楽が主要なキャストとなっています。ショパン (Frederic Chopin) などの曲が流れます。、戦時中ポランスキーはホロコスト(Holocaust) を経験し肉親をアウシュビッツ (Auschwitz) で亡くします。

1930年代後半。舞台はポーランド (Poland)のワルシャワ (Warsaw)です。ユダヤ人であるシュピルマン (Wladyslaw Szpilman) はピアニストとして活躍していました。しかし1939年9月、ナチス  (Nazi)はポーランド侵攻を開始、シュピルマンが働くラジオ局は破壊されます。そこから脱出したシュピルマンは混乱の中で友人の妹ドロタ (Dorota) と出会います。

ポーランドの戦況は悪化します。ワルシャワはドイツ軍に占領され、親衛隊と秩序警察による過激な弾圧が始まり、ユダヤ人はダビデの星の腕章をつけることが義務付けられます。そして1940年後半には、ワルシャワ・ゲットー (Warsaw Ghetto) に押し込められます。ある日、シュピルマンとその家族はその他多くのユダヤ人と共に親衛隊の命令で、トレブリンカ (Treblinka) の絶滅収容所 (Extermination camp) 行きの列車に乗せられます。シュピルマンだけは知り合いのユダヤ人ゲットー警察署長の機転で救われその場を逃れます。家族との永久の別れです。

シュピルマンは、ゲットー内で強制労働を課せられます。ここでシュピルマンは生き残ったユダヤ人たちが蜂起の準備をしていることを知ります。仲間の配慮で倉庫番や食料調達の仕事に回されます。シュピルマンは蜂起への協力を志願し、食料調達の立場を利用してゲットーへの武器の持ち込みを手伝うのです。そんなある日、食料調達のため街に出かけたシュピルマンは市場で知人女性のヤニナ (Janina Bogucki)を見かけ、彼女を頼ってゲットーの外に脱出することを決意します。

ゲットーを脱出したシュピルマンは、反ナチス地下活動組織に挺身するヤニナとその夫アンドレ (Andrzej Bogucki)に匿われて、ゲットーのすぐそばの建物の一室に隠れ住みます。ほどなくワルシャワ・ゲットー蜂起 (Warsaw Ghetto Uprising) が起こり、シュピルマンは部屋の窓からレジスタンスとドイツ軍との激しい交戦を目の当たりにします。だが蜂起は鎮圧され、ゲットー内の大半の人が殺されてワルシャワは報復として完膚なきまで破壊されるのです。

ある日、廃墟の中で食べ物をあさっていたシュピルマンは缶詰を発見します。何とか開けようと悪戦苦闘していたところにドイツ軍将校ホーゼンフェルト (Wilm Hosenfeld) に物音で見つかってしまいます。ホーゼンフェルトはシュピルマンを尋問し、ピアニストであることを知ると何かを演奏するように命じます。ショパンのバラード一番ト単調 (Chopin’s Ballade No.1 G Minor) を弾くと、その見事なピアノの腕前にホーゼンフェルトは、密かにシュピルマンに食料を差し入れます。包みの中にはライ麦パンと共に缶切りが添えられているというプロットです。

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音楽の楽しみ その6 合唱曲の数々 「音楽は国の統治になにを及ぼしたか」

果たして音楽は国を造り国を変える力を有していたのかを考えます。国歌のない国はありません。国歌にしろ行進曲にしろ、国威の発揚に音楽は欠かせない要素です。それだけに国歌の存在は国旗と同じようなシンボルとしての役割を果たしています。

1967年に制作された映画「誇り高き戦場 (Counterpoint)」は、音楽が政治にどのような影響を及ぼしたのか、あるいは音楽と権力とは独立した活動だったのかを考えさせてくれる作品です。監督は「野のユリ: Lilies of the Field」のラルフ・ネルソン (Ralph Nelson) です。

第二次大戦中のヨーロッパ。アメリカ人指揮者のエヴァンス(Lionel Evance) は、慰問団として管弦楽団をひきいてベルギー (Belgium) を訪れます。一行が演奏会を開いた夜ナチスドイツ軍の総反撃によって全員捕虜にされてしまいます。そしてルクセンブルグ (Luxemburg) のドイツ軍司令部に送られます。司令部は楽団員の処刑を命じますが、エバンズの演奏に心酔していたシラー将軍(General Schiller)はそれを中止させます。

そしてシラーは、司令部内でエヴァンスに演奏を命じます。しかしエヴァンスは敵国のために演奏することをいさぎよしとせず、断り続けます。そのため楽団員は全員地下に閉じ込められてしまいます。映画の終わりでは、音楽の価値を理解していたシラーの取り計らいで全員脱出するというストーリーです。

音楽とは権力や戦争、あるいは民族の憎悪を生み出すこととは無縁であったはずなのですが、残念ながら利用されるという歴史を経てきました。音楽はナチスによってプロパガンダに利用されました。日本の軍部も八紘一宇の思想と運動において、音楽を駆使して国威の発揚につとめました。音楽によって民族主義は大いに高揚されたといえます。

「音楽ほど普遍的で、人間の行動に深く影響し、操作的に働く文化的な活動はない」といわれます。戦争中のできごとを通して、音楽が権力に及ぼした大きな役割も忘れてはならないことです。

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音楽の楽しみ その5 合唱曲の数々 「山に祈る」

山よ  お前のふところは    山の男のふるさとよ
        うれしい時は山へ行く   さびしくなれば尾根歩き
   満天の星 凍る夜気、山々はくろぐろと雪に埋もれた小屋を包む (山の歌から)

今も登山ブームが続きます。北アルプスは特に人気があるようです。山ボーイとか山ガールには60歳〜70歳台の人達も多く、遭難者全体の中で35%も占めているといわれます。ヘリと山岳救助隊員の活躍も残念ながら報道されます

長野県警察のサイトを見ますと、滑落や冬山遭難の事例が掲載されています。バックカントリーやスキー場コース外の滑走で、道に迷う遭難が多発しています。冬季の単独登山は、ルート判断を一人で行うだけでなく、体調不良や負傷、気象が急変するなどのトラブルが発生したら大変です。パーティを組んだ登山より危険のリスクが高まります。私は冬山登山はしません。体力と気力が萎えています。

1959年に長野県警察は遭難者の遺族たちのメモを集めた「山に祈る―遭難者の母親らの手記」という小冊子を発行して遭難防止を訴えました。 折しもこの頃は安保闘争などで世の中が騒然としていた時です。激しい政争の中で多くの若者が登山に出掛け、憩いを求めたようです。9ヶ月の短い間に3件の事故で4人の若者が命を落とします。何れも墜落事故といわれます。

合唱組曲「山に祈る」の作曲は清水脩。一遭難者が書き残した最後の手記と、我が子を亡くした母の悲しみを、母の朗読と合唱歌で綴っています。清水は「親しみやすく誰もが口ずさめる平易な旋律を心掛けた」と回想しています。

主人公の元気な姿から死にいたる筋に合わせて、明るい曲調から次第に暗い曲調へと移っていきます。
手の指、凍傷で、思うことの千分の一も書けず。
    全身ふるえ、ねむい。なぜ 山へ登るのか、山がそこにあるから。

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清水脩

音楽の楽しみ その4  合唱曲の数々 「月光とピエロ」

「月光とピエロ」 という合唱組曲を取り上げます。作詞者は堀口大學。彼は大正4年に外交官である父親と共にスペイン (Spain) の首都マドリッド (Madrid) に赴いたようです。そのとき彼は23歳。そこで9歳年上で女流画家で詩人でもあるマリー・ローランサン (Marie Laurencin) と出会い交遊を深めていったようです。しかし彼女との恋は成就することはありません。

大學は「月光とピエロ」で自分を道化師 (ピエロ: pierrot) と宣言したようです。彼はピエロのなんたるかも承知していたようです。馬鹿にされながら観客を笑わせ、そこには悲しみを持つ存在として描かれるのがピエロとかクラウン (clown) です。「叶わぬ恋をする自分は所詮ピエロだ」という思いのようです。

月の光の照る辻に
    ピエロさびしく立ちにけり
      ピエロの姿白ければ
       月の光に濡れにけり

「月光とピエロ」を曲にしたのは清水脩です。この曲が発表されたのは1948年。戦後間もないすさんだ世相や渇いた青春時代にピエロという仮想の人物に自分を投影するかのように、多くの青年の心を揺さぶった「合唱組曲」です。「秋のピエロ」はもう半世紀を経ましたが、男声においてのみ表現しうる音程と音感を醸しだしています。曲調は高く低く、長調から短調へ、時に斉唱となり、大學の詩の中に包み込まれている愛や孤独、寂しさ、はかなさなどの情感を見事に表現しています。男声合唱の最高峰に位置する作品とされています。

合唱組曲というのは、いくつかの小品を組み合わせて、ひとつの組曲となっているものです。一ステージで一組曲を演奏するというスタイルは、今ではすっかり一般的になりました。清水は全日本合唱連盟の設立に関わっています。合唱の作曲家としては、この人の右に出る者はいないでしょう。次に紹介する「山に祈る」など、その作曲活動は目覚ましいものです。

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音楽の楽しみ その3 合唱曲の数々 「仰げば尊し」

音楽との出会いです。終戦間近のとき、樺太から母は私を含む三人の子供を連れて親戚を頼って美幌に引き揚げてきました。三人は5歳、3歳、1歳です。やがて美幌小学校へ入学しました。1年生の時の担任は「山本みかる」という方です。なぜこの先生を忘れないのか。それは単に最初の先生だったからというだけではありません。彼女は私の名前をきちんと覚え、とても優しいという印象が残っているからです。それと私の母のようにふくよかな面立ちの先生でした。高校生のとき、この先生は亡くなられたことを人づてに聞きました。

小学校3年生の担任は「横山エンタツ」先生でした。本名を書くのは憚るのであだ名とします。あまり良い印象を持っていなかったからです。私はいわばクラスではガキの仲間でした。エンタツ先生は我々のようなガキを嫌い、女の子をえこひいきしてました。それも比較的恵まれた家庭の女の子ばかりをです。無性に腹が立ちました。子どもなりに、こうした教師の感性はすぐ伝わります。不登校ならぬ不勉強がこうじて、その頃の成績は惨憺たるものでした。

1952年の3月に十勝沖大地震が起きました。学校の建物に大きなヒビがが走りました。その年の8月に大火が起こり、住んでいた鉄道官舎が燃えているのを学校の2階から眺めました。かつての木造二階建ての学校は、すっかり様変わりしています。

美幌小学校から名寄南小学校へ転校します。そのときの音楽の先生に「近藤艶子」先生がおりました。私が廊下で力道山の真似をしたプロレスをしているときに、「ついていらっしゃい、、」と音楽室に連れていった先生です。全くの音楽文盲状態の私に音符や楽譜の読み方を教えてくれました。まるっきり歌い方など知りません。合唱に導いてくれたのがこの艶子先生です。艶子先生に出会わなかったら、音楽との出会いも男声合唱の魅力も味わうことがなかったでしょう。艶子先生に再会したのは30年前。いまも旭川市にご健在です。「先生、お元気でピアノを子供に教えておられますか?」

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音楽の楽しみ その2 合唱曲の数々  「多田武彦と北原白秋」

北海道大学男声合唱団にいたとき歌った曲に「柳河風俗詩」があります。作者は北原白秋です。なぜは「柳川」ではなく「柳河」と表記されたかの経緯はわかりません。

もうし、もうし、柳河じや、柳河じや。
   銅の鳥居を見やしやんせ。
    欄干橋をみやしやんせ。
     馭者は喇叭の音をやめて、
      赤い夕日に手をかざす。

白秋の生家は、代々屋号を「古問屋」とか「油屋」という海産物問屋でしたが、白秋の父の代になると、柳川地方でも有名な酒造業者にもなります。しかし、酒蔵が大火で全焼し、その後商売が傾きます。次第に白秋は雑誌『明星』などを濫読し、やがて上京して本格的に詩壇で頭角を上げていきます。

「柳河風俗詩」には、古い言葉がでてきます。それに柳川付近の方言も使っています。「柳河風俗詩」は詩集「思ひ出」の一部です。「あざみのはえた その家は ふるいむかしのノスカイヤ、水に映ったそのかげは 母の形見の小手鞠を 赤い毛糸でくくるのぢゃ」という歌詞もでてきます。ノスカイヤとはお女郎屋のことです。

この曲を作ったのは多田武彦という人です。世間ではほとんど知られていませんが、男声合唱の分野では超一流の作曲家です。多田は、京都大学在学中に男声合唱団の指揮者として活躍します。第1曲『柳河』は、全日本合唱コンクール課題曲の佳作となります。全曲初演は多田が24歳の時のこととあります。「柳河風俗詩」の初演は京都大学の学生集会所内の食堂だったという記録があります。多田が作曲の指導を受けたのは、日本の合唱曲作曲者の第一人者といわれた清水脩です。

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音楽の楽しみ その1 合唱曲の数々  「柳河風俗詩と柳川」

これから暫く、私が過去に歌った合唱曲にまつわる音楽のエピソードを文章化し、音楽の足跡を振り返ることにします。相当にこだわる話題となります。

通信制高校で働いた三年目の卒業式が福岡県の田川郡にある本校であり、連れ合いと出向きました。校長という職の冥利は卒業式の告辞を述べることです。北原白秋が近くにある柳川の出身であることを知っていたので、白秋の詩を題材として卒業生や参列者に語りました。素原稿を練るのに一週間ほどかけました。取り上げた詩は「からたちの花」です。ミカン科の落葉低木からたちは春に白い花を咲かせます。

からたちの花が咲いたよ。 白い白い花が咲いたよ。
  からたちのとげはいたいよ。 青い青い針のとげだよ。

楚々としたからたちの花を白秋はなんのてらいもなく歌ったようです。私はこの白秋の詩をつくる姿勢、つまりありのまま自然を見つめて文章化することに白秋の人柄がでていると感じました。卒業生には朝早く起きて、昼間は一生懸命働き、夜は早く寝るといった平凡ながら規則正しい生活の大切さを語りました。

卒業式の翌日、念願だった柳川を訪れました。立花藩12万石の城下町として古い歴史を持つ街です。水郷「柳川」としても知られています。白秋はこの街の出身です。ここに白秋生誕百年を記念した記念館があります。記念館は北原家の広大な旧跡地の一隅に建てられています。ここには詩聖ともいわれる白秋の遺品やパネルなどが多数展示されています。建物は、壁面に平瓦を並べて貼り瓦の目地に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る工法で造られた独特の風合いを出しています。この工法は「なまこ壁」と呼ばれています。

えもいわれぬ風情のあるたたずまいでした。

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柳川

初めに言葉があった その52 デフレからの脱却  その12 「インフレーションからスタグフレーションへ」

我が家でいえば、年金額は下がり物価が上昇する現象が起こっています。雇用や賃金が減少する中で、物価の下落ではなく物価の上昇が発生する状況です。収入が減るうえ貨幣や預貯金の実質価値まで低下するような時代です。多くの年金生活者はこのような現実に直面しているはずです。この現象は「スタグフレーション (stagflation) 」というのだそうです。「Stagnation」とは停頓という意味の単語です。それと「Inflation(インフレーション) 」を組み合わせた造語のようです。

経済学者でノーベル賞受賞者であるポール・クルーグマン (Paul  Krugman) は「日本では今(2015年)、急速な円安のマイナス面が表面化し、物価が上昇している。それに対して賃金の上昇が追いついていないために、スタグフレーションに陥りつつある」と指摘しています。円安のマイナスの影響で物価はすでに上昇しています。この理由は農産物などの輸入価格が上昇するからです。原油価格の下落は物価を押し下げているようですが、、、物価だけが上昇するのは好ましいことではありません。賃金は年に3〜4%上がり、物価は年に2%上がるのが好ましいと一般的にいわれています。収入が頓挫するのでは、消費を控えなければなりません。

「ぜいたくは敵なり」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「欲しがりません、死ぬまでは、、」

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初めに言葉があった その51 デフレからの脱却  その11 「翻弄される通貨」

識者を前にして、厚顔無恥にも最も身近なお金とか通貨のことを話題を取り上げています。度素人は当たり前のことばかり書いております。

2011年3月の大規模地震災害で福島の原発がメルトダウンを起こします。この大惨事による保険金の支払い、企業の損出穴埋め、復興の需要のために巨額の資金が必要となりました。投資家はこ海外資産を処分して日本に資金を還流させようとしました。復興による株価の上昇を期待したのです。そのため一気に円高が進みます。震災後には歴代での最安値である1ドル=77円をつけます。このように円はアメリカの景気や大災害などによって左右される「翻弄される通貨」のような有様です。

2016年2月28日の円相場は一ドル=113円となっています。かつて一ドル=360円は超円安で、今は113円でも円安といわれています。素朴な疑問ですが、一体円安や円高というのはどんな基準があるのかということです。

今、政府は物価の2%上昇を目指しています。このように円安がインフレを誘導する大きな要因であることは確かです。安部政権下で構成された役員からなる日銀は、アベノミックスの推進役を果たしています。日銀の独立性は一体どうなったのか、という疑問も沸きます。

100円の大台の打診はいつごろになるか、ということが言われています。現実的には106円台は桜が咲く前に実現するだろうという見方もあります。足元の株安や円高はアベノミクスの終焉を示唆する兆候だと指摘するアナリストもいます。この予想にはアメリカの影響もありそうです。例えば、民主党大統領候補のヒラリー・クリントン (Hillary Clinton) は、日本政府は円安を誘導しているとして批判しています。

また原点に戻るような疑問なのですが、一体インフレーションという通貨の膨張は何のために、誰のためにの経済現象なのかということです。我が家でいえば、年金額は下がり物価が上昇するスタグフレーション (stagflation) が起きているといえそうです。

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初めに言葉があった その50 デフレからの脱却  その11 「1ドル=90円」

私が米ドルを買おうとしたもう一つの理由は、外国為替市場が円安に向かい、一ドル=100円くらいになったら一ドル=90円で買っておいたドルを売ろうとしたことです。実に短絡な発想です。退職を機に、自分が知らない分野のことを少し勉強してみたくなりました。経済とか景気とかといった未知の世界です。私は、政府のインフレとデフレ政策が円高や円安を誘導するといった仕組みを知りませんでした。市場が決めるのだろうと思っていたのです。アベノミックスの前のことです。

現在は円安が続いているといわれます。為替市場が円安に向かうと、日本国内はインフレに向かいます。繰り返しますが、1ドル=90円の相場で1万ドルは90万円です。それを購入したとします。1ドル=100円になるとこれが100万円になります。皆が差額の10万円を得たとしますと、円安に誘導されるので物の価格が上昇します。すなわちインフレが起こります。今は円安のせいで外国人観光客の来日が続いています。財布に一万円札をぎっしり詰め込んだ中国人らしき人がテレビで写っています。これがインフレ状況かどうかはわかりません。

2007年頃から米国の住宅価格の上昇に陰りがでて、低所得者向けのローンに焦げ付きが見られるようになりました。このサブプライム・ローン(subprime lending) の信用がなくなり、大量に証券を保有していたリーマン・ブラザーズが2008年9月に破たんします(Bankruptcy of Lehman Brothers)。なぜ低所得者がローンの支払いができなくなったのかの原因はまだ理解できておりません。

ただ、銀行や証券会社の破産など、不動産投資に対する警戒感のせいでしょうか、日本はサブプライム・ローン関連債権などにはあまり手を出していなかったようで、リーマン・ショックの直接的な影響は軽微だったといわれます。ですがショックを境に世界的な経済の冷え込みによって、国内における消費の落ち込みやら金融不安で急速な円高ドル安が進みます。米国市場への依存が強い輸出産業がダメージを受け、結果的に日本経済の大幅な景気の後退にもつながります。

このあたりまでの景気のからくりや外国為替市場の動向は、ようやくわかるようになりました。
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初めに言葉があった その49 デフレからの脱却  その10 「一ドル=360円」

暫くインフレとデフレのことを話題にしています。この二つの現象に直結するのは基軸通貨である米ドルと円の相場です。外国為替について私は、たいしたことではないのですが三度の経験をします。

最初の経験は、1972年の沖縄の本土復帰のときです。幼児教育を始めるようにとの指示で1970年に那覇へ家族を連れて赴任しました。一ドル=360円のときです。このとき沖縄はドルが使われていました。そして復帰の1972年、一ドル=300円と設定されました。固定相場です。高度経済成長の頃です。当時の首相は佐藤栄作です。

復帰前にドルでの預貯金を持っていたほとんどの沖縄の人は、この変換レートによって損をしたのです。沖縄キリスト教短期大学の学長がしきりに嘆いていたのを覚えています。一ドルで60円も損をしたのです。今からすれば、超円安です。円の価値が低いインフレーションの時代です。さらに1973年10月に起こった第一次石油ショックにより一ドルは280円台に急騰しました。

第二の経験は、国際ロータリークラブより奨学育英資金を頂戴したときです。一年間の資金は19,000ドルでした。1978年に渡米したのですが、そのときのレートは確か一ドル=175円位で推移していました。このとき、円で奨学資金を貰っていたら、ドルを買うとして大分目減りしたはずです。

ドル/円の相場は、1976年10月まで米国の景気拡大を背景として日本の輸出が顕著な伸びを示し、経常黒字が拡大したことから円高が進みました。アメリカにおける日本製の小型自動車の輸入が増大し、周りの人の中にも日本車を購入する者が増えていきました。1985年9月にニューヨークで先進五か国の蔵相らが集まって為替レートの安定化に関する会議が開かれます。当時、アメリカは対日貿易が大幅に赤字でした。そのためアメリカは円高ドル安に誘導する必要がありました。これが「プラザ合意」 (Plaza Accord) です。アメリカが「プラザ合意」を目論んだのは赤字の是正のためです。1年後にはドルの価値は下がり150円台で取引されるようになります。

第三の経験は、円高が続いたころです。1995年4月には1ドル=79円という値がつきました。それから10年後の2005年に退職したときに得た僅かの円で、1ドル90円でドルを買うことにしました。まだ円高といえる頃です。当時の首相は小泉純一郎でした。なぜドルを買おうとしたかですが、3人の子供と孫たちはアメリカで仕事をし生活していました。特に孫の誕生日が近くなるとプレゼントを贈るのですが、彼らが何を欲しているのか、たとえ服であってもそのサイズはなにか、ということで悩みました。そこでドルを送るのが一番手っ取り早いと思いました。

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初めに言葉があった その47 デフレからの脱却  その9 「終活」

四文字熟語が多いなと感じていましたが二文字熟語も多いのですね。シュウカツという言葉をきいていたら「就活」ではなく「終活」だったので私は頭をかきました。2010年頃からこの言葉が出回ったようです。この単語を知らなかっただけです。ちなみに「終活ジャパン協会」というサイトも見てみました。

人生でタチが悪いことの一つは、「自分は明日は死ぬことはないだろう」と思い込んでいることでしょう。七十代でも八十代の人もそう思っている人が大半です。「今自分は健康だから」、「毎日健康に留意しているから」、「病気したことがないから」、「家系は皆長寿だから」、、、ですが確実に鬼籍に向かっています。

「終活」はなぜ必要なのでしょうか。残される者への心遣いでしょうか。その他、自分の体と財産のことでしょう。入院したら延命措置をどうするか、献体したほうがよいか、葬式の宗派や墓はどうしてもらうか、一体誰に相続させるか、誰が手続きするかなどなどあります。「就活」は一生を決めかねない出来事です。それに比べて「終活」はエンディングにあたっての備えですからたいしたことではないといえるでしょう。

幸い私にはこれといった財産はありません。残された者は苦労しないはずです。住み家は連れ合いが相続し、僅かの預金は三人の子供で分割するように伝えてあります。簡単なエンディング・ノート (ending note)は長男らに伝えてあります。

インフレーションと終活ということです。これからはしばらく葬儀屋さんの商売も忙しくなるようです。ですが葬儀費用を抑えようとするいろいろな工夫がされています。かつてのような豪華で高価な葬儀は市井ではあまり見られません。気軽な「プチ終活」も人気があります。もはや冠婚葬祭に関しては恥も外聞も気にする時代でなくなりました。実質婚も家族葬も年々盛んです。ウエディングもエンディングでも「インフレはもったいないことだ」という雰囲気です。私も終活はデフレでよいと考えます。静かに送り送られるのがいいのではないでしょうか。

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初めに言葉があった その46 デフレからの脱却  その8 「「患者のための薬局ビジョン?」

日本薬剤師会によると75歳以上の高齢者だけでも残薬は年間およそ475億円分に上ると推計されています。薬は飲まないことにこしたことはないのですが、、、これほどの薬が無駄になって医療費に反映されていると考えると苦々しくなります。国民の医療費に占める薬局調剤医療費は14.2%だそうで、その伸びは11年で372%以上、国民医療費での比率にして3倍強というのです。いかに薬剤の処方が増えているかを物語ります。高齢化の進行によって薬を必要とする人が増えているという理由だけの数字ではありません。

医薬分業が始まったのは1974年。これを機に病院と薬局の経営が別となりました。ただ薬局は道を挟むなど分かれて立地することを義務付けられていて「門前薬局」が立ち並ぶことになりました。沢山の薬局の看板を見ながら、果たして経営は成り立っているのかとさえ思ってしまいます。厚生労働省は2015年10月に「患者のための薬局ビジョン〜門前からかかりつけ、そして地域へ」という方針を打ち出しています。これを読みますと「かかりつけ薬剤師・薬局が持つべき機能」として、服薬情報の一元的・継続的な把握とか、服薬情報の一元的・ 継続的な把握とそれに基づく薬学的管理・指導とか、かかりつけ医との連携により地域における総合的な医療・介護サービスを提供する、などとあります。

連れ合いには、ホームドクターがいます。いつもクリニックの隣にある「かかりつけ薬局」で薬をもらいます。この薬局は (1) 連れ合いの薬や体質の情報を一元的に管理している、(2) 連れ合い宅を訪ねて副作用や飲み残しがないか確認しドクターに報告している、(3) 医師に処方の変更を提案している、かといえば全くそんなことはありません。こうした実情を改善しようとするのが「患者のための薬局ビジョン」らしいのです。

厚生労働省のこのビジョンによれば、患者が選んだ「かかりつけ薬局」が、ホームドクターと連携して患者の服薬状況の全体を把握するよう促すことで、医療の質を高め医療費の削減につなげようと意図しています。「果たしてうまくいくのかな、、」という疑問が沸いてきます。
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初めに言葉があった その45 デフレからの脱却  その7 残薬はどうしてでるのか

私は幸いにしてこのかた薬を定期的に飲んだことはありません。70歳を過ぎてのちょっとした誇りです。連れ合いは長年、食後に服用しています。それも一つや二つではありません。ドバーッとした量です。丁寧に箱に詰めた複数の薬を食卓に広げます。服用後は空になった箱にまた薬を詰めるという作業です。これで食事が終わりです。なにか儀式のようです。

彼女は定期的にかかりつけの医院に出かけては薬を処方してもらいます。三週間に一度くらいです。「二ヶ月分を出してくれればいいのに、、」とブツブツいっています。だんだん出掛けるのが億劫になるようです。薬を飲んでいると精神的に安心するのでしょうか、、、一二度飲み忘れたとしても症状が進行するものでしょうか? 少しずつ薬は減らして欲しいと思います。プラセボ (placebo) を与えて、本物との違いを調べて欲しいものだとも感じます。多分、違いはでないのではないでしょうか。

今、残薬問題が深刻化しています。「飲み忘れ」や「飲み残し」が服用者の70%近くを占めているという数字があります。特に高齢者の飲み忘れがひどいようです。飲み忘れによって体調が良い、と感じたときは薬をやめて欲しいものです。かかりつけの医師も患者の健康状態を把握して、「薬の処方はもうやめましょう」といってもらいたいのです。そして、もっと外にでましょうとか、車をやめて歩きましょうとか、出かけて買い物は楽しみましょうとけしかけるのはどうでしょうか。高齢者もそうした後押しの言葉で体調に自信がでてくるはずです。

過度に薬に頼るのは、薬がないと不安に駆られるからだろうと察します。患者に「薬の量を減らしましょう」といっても効果があるとは思われません。なにせ、薬中毒のような状態にあるからです。そこで、医師は思いきって予備患者のような高齢者には薬を減らす決断をしてもらいたいものです。そして、点数を稼ぐのをなんとしても自粛してもらいたい。医師の倫理に期待したいものです。
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初めに言葉があった その44 デフレからの脱却  その6 「AD/HDは作られた病」

“注意欠陥多動障害(Attention Deficit/Hyperactive Disorder: AD/HD) の父”といわれるのが、アイゼンバーグ(Leon Eisenberg)という児童精神科医です。臨床心理学者でもあります。2009年に亡くなるまで、アメリカにおける児童精神医学界で活躍した人です。特にアメリカ精神医学会が発行している「精神障害の診断と統計の手引き(DSM)」や世界保健機関によるInternational Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems(ICD-10)の作成にも貢献しました。

2013年5月にアイゼンバーグが「AD/HDは作られた病であることをAD/HDの父が死ぬ前に認める」という記事がでました。アイゼンバーグが亡くなってから4年後のことです。アイゼンバーグは、AD/HDの研究や過剰な診断と相まって薬の売上を増加させた、と述懐したとあります。注意欠陥多動障害もまたインフレを起こしていたのです。

アイゼンバーグは言います。「実際に精神障害の症状を示す子供は存在するものの、過剰な診断と製薬会社の影響とによってAD/HDの患者の数が急増している。」 AD/HD患者の数が急増しているのは、AD/HDは過小評価されて、小児科医、小児精神科医、保護者、教師たちに思い込ませた製薬会社の力と、それまでは正常と考えられていた多くの子供がAD/HDと診断されたことによるものであるという衝撃的な発言です。

アイゼンバーグは、アメリカでは、製薬会社と医者との良好な関係によって子供たちが流行のようにAD/HDと診断され、薬物治療を受けている」ことに警告したのです。彼は、「AD/HDとは虚構の疾病である (AD/HD is a fictious disease.)というのです。一つの疑問ですが、なぜ、著名な研究者が死ぬ前に過剰な診断と薬の処方の増加に警告しなかったのかということです。

何事も恣意的に引き起こされることは恐ろしいことです。輪転機を回してやみくもに紙幣を印刷することもそうです。いくらデフレからの脱却とはいえ、給料も上がらず物価が2%上昇してお金の価値が下がっては若年労働者や定年退職者には堪えます。診断のインフレとは、正常を疾病として薬の処方が増え、教育サービスが増え、障害年金が増え、製薬企業の利潤が増えることです。そしてなによりも恐ろしいことは、子供を薬漬けにすることです。双極性障害(躁うつ病)(bipolar disorders) で薬漬けになり命を絶った高校生を知っています。
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初めに言葉があった その43 デフレからの脱却  その5 「偽陽性と偽陰性」

自閉症の増加に関してです。端的にいえば、診断のインフレ現象には精神医学界と製薬業界との「癒着」に似たところがあります。この両者は昔から持ちつ持たれつの関係にあります。医者は薬物療法として疾病に効き目のある薬を必要とします。製薬企業は新薬とか特効薬の開発にしのぎを削っています。「新しい診断には新しい薬が必要になる」ということです。今も昔も製薬は巨大な産業です。

診断とは難しい行為だと考えられます。誤診は日常的にあるものです。二つの誤診という過誤があると思われます。偽陽性(false positive)と偽陰性(false negative)です。前者は、疾病でないにもかかわらず疾病だと診断し、何らかの治療をすることです。無実の人を有罪にすることもこれにあたります。後者は、疾病であるにもかかわらず診断を間違え処方しないことです。ガンの発見を見間違え、治療を怠ることです。真犯人を無罪にするのもこれにあたります。

さてどちらの誤りとして重大かということです。通常は、疾病でいえば後者の偽陰性がたちが悪いと思われます。犯罪でいえば前者のほうが重大な問題であるように思われます。「自閉症がふえている」という現象でいうならば、前者のほうにあたります。危ういものには小さ目の網をかけておいたほうがいいだろうという判断です。これは幾分とも納得いくことです。こうして正常を病的とみなすという診断のインフレ現象が起きるのです。

一度診断されると何からの処方が続きます。その例が薬の処方です。新しい診断には新しい薬が必要となってくるのです。製薬会社が強烈なマーケティングを行い、新しい患者向けの薬の導入を医師に促すのです。DSM-4はこうした診断のインフレを防止できなかったという反省が表明されています。そしてDSM-5へと改訂されていきます。

別な理由として自閉症の発生率が増加したのは、自閉症が特別な学校サービスを受けるための要件となったことにも理由があります。診断書を貰いやすいという噂によって、保護者が特定の医者を選ぶという事例もたくさんあります。担任教員を補助する加配の教員を配置するにも、個別の指導に対応するにも診断が基となるのです。
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初めに言葉があった その42 デフレからの脱却  その4 「特定不能の自閉症スペクトル 」

那覇の幼稚園で出会ったAという子供です。この子は発語や会話がありませんでした。話しかけても指示しても応対しないのです。ただ、視線は合う状態です。粗野や自傷的な行動はなく、周りに迷惑をかけることはありません。興味や行動は多岐にわたり、同じことを繰り返すということはあまりありません。むしろ何かを探しているという状態でした。暑い沖縄ですので水遊びが好きで、保護者の寄付で造った小さなプールに入ることもありました。プールの中で一緒に泳ぐとか練習するということは嫌がりました。私は素人なりに「この子は自閉症ではないか」と考えていました。

DSMの診断基準では、自閉症スペクトラム障害 (Autistic Spectrum Disorders: ASD)については次のような基準を挙げています。
1  コミュニケーションにおける質的な障害
2  意思伝達の質的な障害
3  同じような形で繰り返される行動・興味・活動

第一は、対人関係の形成が難しい「社会性の障害」ということです。他の子供や大人と関わりをもとうとしないことです。第二は、ことばの発達に遅れがある「言語コミュニケーションの障害」です。会話が成り立たないのです。第三は、変化を嫌う「想像力の障害」ということです。

A児は、今思えば、DSMの診断基準にある、三番目の常同的な行動や興味に集中するということはないので、果たして自閉症といってよいのかは分かりませんでした。今思えば、特定不能の自閉症スペクトル (Autistic Spectrum Disorders – Not Otherwise Specified )というところです。自閉という状態は多岐にわたり程度もさまざまであることを知りました。

もう一人のBという子供です。この子は、A児とは正反対に会話ができ、行動も活発で集団行動も上手な子供でした。視線がしっかりと合い、指示に従って動く子供です。しかし、好き嫌いがはっきりしていて、ときに教師の指示を嫌がることもありました。周りの同胞との遊びでは自発的な動きを好むために、いざこざが起こりました。自分の意志が通らないときは相手を叩いたりして咬んだりして叱られることがありました。「乱暴者」でした。今の呼び名では「広汎性発達障害」(Pervasive Developmental Disorders: PDD)という分類にはいる子供だったかもしれません。

B児の目の表情から怒りや寂しさが伝わってきました。周りから孤立しがちだったのです。「溶け込む」のが苦手なのです。うまく立ち回るスキルがまだ不十分だったのです。それと年齢相応の言葉の能力も未発達でした。自分自身に困り感があったはずです。母親は毎日幼稚園に送迎していました。家でのB児の様子などを報告してくれる暖かい母親という印象でした。兄弟もB児をかばうなど良好な兄弟関係がうかがえました。私はといえば幼稚園での生活で試行錯誤しながら、B児への指導のとっかかりを探す毎日でした。
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初めに言葉があった その41 デフレからの脱却  その3 「自閉症スペクトラム障害」

私が自閉症に出会ったのは沖縄の幼稚園で働いていたときです。不思議な行動をする幼児がやってきました。園児も少なかったので受け入れることにしました。それから私の勉強が始まったようなものです。石井哲夫氏の「自閉症児がふえている」という本を見つけました。1969年頃でDSMの第2版が出た頃です。この「自閉症児がふえている」というタイトルは、実は、DSM-2の診断基準によるところが大きかったことを後で知ることになります。

現在のDSM-5では、自閉症スペクトラム障害 (Autistic Spectrum Disorders: ASD)は、様々な神経発達症(neurodevelopmental disorders)の中で分類された一つとされています。これまでの広汎性発達障害 (pervasive developmental disorders) を再定義しています。このように精神医学者や心理学者の中で自閉症の定義が変遷してきたのですが、保護者や子供にとっては一体どのような恩恵があったのかと考えてしまいます。

全米精神衛生研究所 (National Institute of Mental Health: NIMH) の所長を13年間勤めたインセル (Thomas Insel) は次のようにいっています。 「NIMHはDSM-5の診断カテゴリを黄金律としては扱わない。むしろ症候を基準としたカテゴリとして援用する。」こうしたコメントに対して、アメリカ自閉症協会も非常な賛意を表明しています。インセルは、全国自閉症協議会 (Interagency Autism Coordinating Committee: IACC)の委員長としても活躍する人です。

国際的な診断がインフレに向かい始めたのは、DSMの広範囲な普及にあると考えられます。我が国もDSMの影響を受けて出版関係だけでなく、医療関係や製薬会社などに広く需要が拡大していきます。既述しましがた、50年位前、ASDは10,000人に3〜4人だと言われてきました。しかし今、日本では1,000人に1〜3人の割合で生じているといわれます。アメリカ疾病予防管理センター(Centers for Disease Control and Prevention: CDC)によれば、およそ68人に1人がASDであると確認されています。

発生率とは、どこまでをASDの範囲とするかによって違ってきます。それにしても発生率が増加してきたのは間違いありません。もし診断基準が拡大したのなら、なぜ以前はそんなに狭いものだったのか、という素朴な疑問が沸いてきます。疑わしきものは、何らかの診断をして処方するという機運が高まってきたのです。
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自閉症診断のグラフ

初めに言葉があった その40 デフレからの脱却  その2 「自閉症」

英国の精神医学者であるラター (Michael Rutter) は1972年頃に自閉症の発症率は10,000人に3〜4人 (.03%)だと主張しました。当時、自閉症は、虐待など母親の愛情が不足であったり、母親と分離したことが原因で発症するとされていました。

自閉症研究者として名が知られていたベッテルハイム (Bruno Bettelheim) が著書「自閉症・うつろな砦」(The Empty Fortress: Infantile Autism and the Birth of the Self) 等の著作で「冷蔵庫マザー説」 (refrigerator mother) を説き、養育者の態度などの後天的な理由で発症するということを強調します。ジョン・ボウルビィ (John Bowlby) という英国の精神科医も同様に「母性的養育の剥奪」(deprivation of maternal cares) といった愛着行動の不足が自閉症の根底にある課題だと主張します。こうした子供を取り巻く環境説が広く社会一般に信じられますが、やがて誤りであるとして否定されます。

おさらいですが、自閉症とは、1人遊びが多く、 特定の物に強いこだわりを示し、コミュニケーションのための言葉がでないといった状態です。関わろうとするとパニックになったりもします。前述したラターは、自閉症は兄弟間での出現率は.2%と発表し、遺伝ではないかという仮説をたてます。アメリカの発達心理学者、リムランド (Bernard Rimland) は自閉症は神経発達の不全により障害であると主張します。

リムランドは、アメリカ自閉症協会 (Autism Society of America)の設立に尽力します。この協会もアメリカ精神医学会 (APA) も自閉症は先天性の脳機能障害であるという立場にたっています。次回は「診断のインフレ」について考えます。

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Bruno Bettelheim
Michael Rutter
Bernard Rimland

初めに言葉があった その39 デフレからの脱却  その1 「診断のインフレ」

インフレーション (inflation)とは望ましい現象なのかを考えています。普通、インレーションとかインフレとかは、物価が上昇し通貨の価値が継続的に下がる現象といわれます。日銀券を大量に印刷すると物の値段が上がる、というように理解すればよいでしょうか。その逆がデフレーション (deflation) です。一体市場にどの位の貨幣を適量に流通させればよいかは、貨幣論者にお任せすることにします。

インフレは経済社会だけに見られる現象ではありません。精神医学の世界にもあるのです。アメリカ精神医学会 (American Psychiatric Association: APA)という学会があります。その創立は1844年とあるように伝統のある学会です。この学会が発行する本に「精神障害/疾患の診断・統計マニュアル」(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders-DSM) があります。DSMは日本でも翻訳されています。DSMの出版は厳格な著作権が管理され、年間500万ドルという収入を上げています。世界各国での翻訳や出版から得られる収入です。

このマニュアルの初版が出たのは1952年です。その後1968年、1974年、1980年、1987年、1994年、2000年と順次改訂が加えられ、2013年に出たのが現在のDSM-5です。一般的にアメリカでは病院やクリニック、さらに保険会社は患者を治療するためにDSMの診断を要求しています。このようにDSMは臨床面では広く用いられ、また研究目的のために患者の状態をカテゴリ化して診断基準が検討され改訂されています。

幾たびとマニュアルの改訂が続く歴史は何を物語るのかが私たちの関心をひきます。DSM-5は良くまとめられているという評価がある一方で、なお多くの懸念すべきことも多いといわれています。それは診断の基準が、なにが最も信頼性や妥当性を有するのかについて主観的な判断に頼っているといわるのです。診断の不一致をいかに収束するかということがマニュアルの改訂に現れていると思うのです。

私たちの心の発達にはいろいろな要因があります。生育史、両親との関係、心的外傷 (psychological trauma) 、人間関係のストレス、過労、睡眠不足などが発達に影響してきます。素人考えなのですが、精神的な疾患というのは、人間社会の規範にあった振る舞いや発言をしているかとか、日常生活に支障をきたすことがないといったことを手本として診断されるようです。多くの精神科の医師も発達の研究者も、個々人の心の発達の基底にあるものが多様なために診断に悩まされているのは容易に想像できます。そこで「精神障害/疾患の診断・統計マニュアル」といったものが広く出回るとことになります。

「デフレからの脱却」は、精神障害の現状になにをもたらしているかを数回にわたり取り上げます。

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初めに言葉があった その38  「思うようにならない」

昨日、親戚の七回忌法要にでかけた。僅かになった親戚縁者に会うのが楽しみであった。お寺は港区青山にある。寺名は徳川家康以来の家臣であった老中の側室の法名から名付けられたという曰わく付きのお寺である。

さて法要であるが、長い日本人の伝統というか文化に法る宗教行事であるのはわかるのだが、どうにも落ち着かない。その理由は有り難いはずのお経の意味がさっぱりわからないからである。サンスクリット語で読み上げられているようである。最初と最後のあたりで故人の戒名が読み上げられるのだが、あとはただ、じっと我慢して聴いている。こんな不遜な態度でいいのかと反省はするが猛省はしない。意味を知ろうと努力せよ、という声が聞こえてきそうだ。

お経は釈迦の教えを信者達に説くための「教典」とある。一体、この拙い記事を読んでいただく方で、お経の意味をどれくらいの人が理解され納得されておられるだろうか。こうしたお経を静かに我慢しながら聴くのは、恐らくは全く知らない外国語で演説や祈りを聴いているのと同じような気がする。意味がわからないことほど辛いことはない。時間の浪費ではないかとさえ思ってしまう。

さてお経が終わると法話となる。これはお経の時と違って、お坊さんとの対面の時である。法話の話題は「四苦八苦とは」ということであった。仏教における「苦」の分類によると、「思うようにならない」ということを意味するのだという。大変な苦しみということではなさそうである。人知ではどうにもならない現象のこと、それが「四苦」だそうである。あとの四つの苦とは、を知りたかったのだが、法話の時間が長くなったせいか、「愛別離苦」とかを簡単に触れただけで終わった。

思うようにならない「八苦」のうち、五つまで分かった。残りの三つは家で調べようと考えながら、法会から功徳を頂戴した気分で帰ってきた。

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初めに言葉があった その37 主観性と世界の理解 「間主観性とは」

ようやく、「間主観性」(intersubjectivity) とか「間主観 」というところにやってきました。英語の表記のほうは意味が伝わってきやすい用語です。自分と他者、自我と他我、主観と主観の関係性といった響きです。ブリタニカ国際大百科事典には「intersubjectivity」を「共同主観性」「相互主観性」と表記しています。

「間主観性」とは、前稿ででてきたフッサール ( Edmund Husserl) が使った用語のようです。どのようなことかといいますと、主観がそれぞれ単独で働いて外界に向かうのではなく、主観同士が互いに交錯しあいながら働き、「共に」機能し、共通な世界を成り立たせる、ということがらを言い表す用語のようです。間主観性という概念は、こうして、「単独の主観が信用を失い、客観性という概念が疑われる場面で登場する」という意味で使われます。

自我とか主観性が私の内面にある、私だけのものという考えを捨てない限り、「他我をいかに認識ないし経験できるのか」という行き詰まりは解決できない、そう考えてフッッサールは、主観性とか自我は私の内面にあるのではなく、私と他人、人間と人間の中間にあるのではないかと考えて「間主観性」という概念に至ったということです。そのようなわけで「間主観性」は「共同主観性」ともいわれます。

自我とか主観性は人間と人間の間にあるということは、それが人間関係に由来する、関係概念だということです。フッサールは人間と人間の間に間主観性があり、私とか他人の心はその間主観性の枝分かれしたもの、それを分かち持ったものと考えられるようになりました。

このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や源泉を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは、世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や思考を留保することを提案します。このような判断や思考を留保することをエポケー (suspension of judgment)と呼び、意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱します。

周りの世界にあるいろいろな命題を「括弧に入れる」ことを意味するのが「エポケー」というのです。すなわち世界の外的現実についての自信の信念をいったん停止するのです。ただしこれは外界の存在を疑うという意味ではないとフッサールはいいます。

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初めに言葉があった その36 主観性と世界の理解 「科学的とか実証的とか」

主観に関して行動ということを話題としてみます。私たちの行動は、まだ幼い子供は別ですが、外在物や刺激によって直接引き起こされるのではなく、私たち自身がそれをいかに経験し知覚するかによって規定されています。

前回錯視を例にあげて、私たちが世界をどう見るかを考えました。「私にとっての見える世界と他者にとっての見える世界は同じ世界なのか? それとも二つの世界はまったく違う世界なのか?」という疑問を錯視の現象は問いかけています。ですがこの問いに誰もが納得する説明を下すことが困難なことも事実です。

この世界は、私にとってさまざまに絡み合って存在しています。世界のうちのある物事、たとえば一定の色や特定の音が独立しながら存在していることや、色が見えることと音が聞こえるということは、それぞれに「意味」をもっているともいえます。人によって視覚や音感が異なるからです。好みや嫌いという感覚もあります。

従って個人の行動の意味と原因を理解するためには、外的な要因を分析するだけでは不十分なのです。どういうことかといいますと、高齢者の徘徊も子供のいじめもガン患者の死への恐怖も、当事者が大事だと考えている状態、言い換えれば内的な準拠枠とは何だろうかということを理解する態度が必要なのです。年寄りだから徘徊は仕方ないと考えるのではなく、もしかして徘徊を楽しんでいるのではないかと考えてみるのです。自宅を出て電車に乗ってある駅で保護された認知症の人がいます。これは目的的な行動であり、徘徊といえるかどうかです。広辞苑によると徘徊とは「どこともなく歩きまわること」とあります。これは徘徊という行為を一面的にとらえた説明です。

エドムント・フッサール (Edmund Husserl) という哲学者が興味あることを曰っています。「19世紀の後半に近代人の世界観がもっぱら実証的学問によって規定され、その学問に負う繁栄によって眩惑され、他者による知覚や言動によって客観的世界の実在性を確信させ、世界に現実感を与えていることは明らかだ」というのです。徘徊という行為にも他者による知覚や言動によって規定され、本人は登場していないのが気になるのです。フッサールが言いたいことは、この世界があまりに客観的とか実証的といった「科学的態度」に価値を置きすぎているせいか、人間はそれを自明のこととしているということです。

フッサールはまた、日常的に私たちは、自分の存在や世界の存在をなぜ疑ったりはしないのか問いかけます。私たちは自分が「存在する」ことを意識しており、私の周りの世界もそこに存在していることを疑いません。フッサールは、この人間の自然な態度を以下の3点から批判します。

1 認識の対象の意味合いとか存在すること自体を自明としていること
2 客観的な世界の存在を不断から確信し、そうした関心の枠組みを暗黙の前提としていること
3 世界へ関心を向けることによって、意識の本来的機能である我を忘れるということが起こっていること

このフッサールが指摘した人間の態度は、ナチズムに心酔した指導者にも、現代の私たちにももしかして当てはまっているかのようです。

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初めに言葉があった その35 主観性と世界の理解 「錯視は知覚の多様性?」

私は先天赤緑色覚異常です。小学校低学年の時に色覚検査でそれがわかりました。当時は色盲検査と呼んでいたはずです。検査用紙の中に数枚判読できな数字があるのです。教師は驚いていたのを覚えています。これがもとで現在は差別用語である「カタワ」と呼ばれた経験もあります。将来就くことができない職業があるともいわれました。当時としては諍えない事実でした。現在、色覚異常で不便なことといえば、夕方西に向かって運転するとき信号機の色が弁別しづらいことがあります。幸い青色LEDの実用化で信号機が改善されてきています。

私は、色が満ちあふれるこの世界で大多数の人が見える現象が見えないことが多いのです。この見えないという現象は私にとって主観的であり客観的なのです。私には他の色は見えるという意味ある現象であり、私が意味を見いだしている世界ともいえます。検査する人が、私に向かって「この文字や数字が読めないのか?」というのは、検査者本人にとって意味あるものだけを自分の基本的な信念に合致するように認知しているからです。

こうした言動は外界の認知だけではなく、記憶についてもいえることです。私たちが想起する過去は、私たちの信念体系にとって意味あるものだけが選択され、しかも歪曲されています。個人は、往々にして自分が中心であるところの経験の世界に存在し、そうした場面で知覚するままに反応します。ですから色覚を検査する者は、「なぜ見えないのか、お前はおかしい」と呟いてしまうのです。

主観と客観の説明で用いられる目の錯視とか錯覚を取り上げみましょう。英語では「visual illusion」ですが、illusionとはいえ画像は迫真的なリアリティを有しています。錯視画像は数々あります。形をグラデーションや動きで変えると客観的世界の実在性に疑問を確信させ、目の前の世界に現実感を与えてくるのがわかります。物差しで測ってみて同じ長さであっても、私たちの目には長短があることが迫ってきます。見方によっては若い女性の横顔が年老いた女性にも見える錯視画像があります。100人が画像を見て、全員が若い女性というフラッグを上げ、全員が年寄り女性だというフラッグもあげることができるのです。ある壺には二人が向き合うように見えるのもあります。この事実はもはや「illusion」ではなく実在ではないでしょうか。これが「純粋な知覚や意識」といってよいのかもしれません。

錯視は錯覚はどう違うかはわかりませんが、錯視から言えること。それは個人に経験される世界は客観的で絶対的な実在の世界ではなく、各人によってさまざまに知覚される私的な現象的場 (phenomenal field) であるということです。どのように知覚されようと正しいとか誤りではないという世界があるのです。
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初めに言葉があった その34 主観性と世界の理解 「地球は平らか、」

私たちの日常には、不思議なことで満ちています。今暮らす地球のことから話を進めます。文字通り地球は丸いのですから、人が北極に立つとすれば南極では逆立ちしているはずです。ですがこの地球上で暮らしながら逆さまに立っているなんて想像することはまず好事家以外はありません。

地球が球体であることは紀元前にすでに信じられていたようです。宗教界では地球中心説が定着していました。中世期、地球中心説に対して太陽中心説を唱えたコペルニクス (Nicolaus Copernicus) 、地動説を称えたガリレオ (Galileo Galilei) 、天体の運行は楕円であると主張したケプラー(Johannes Kepler) など、地球は丸いと主張します。それまでは地球は平面だと誰もが教えられていました。地球平面説です。

少しくどくなりますが、誰かが「君はこの地球は丸く見えるか?」と、尋ねてみれば、相手は「あたり前じゃないか、ここ地球は丸くなくて何だと言うんだ」と、訝かりながら目の前の地球儀を指さすに違いありません。実際にそんな質問をしないにしても、私も他者も丸い地球が実在していることを自明なものとして把握している面があります。そういわれても、地平線は文字通り平らだという気がします。

逆に相手の人が「地球は丸いなら、地球の裏側では人は逆さまじゃないの?」などと言い始めたなら、あるいはあたかも逆さまに立っているかのような錯覚に陥っていると主張し始めたとしたら、知覚や本質の直観から地球は丸いと確信していたとしても、その確信はたちまち疑わしいものになります。そして球体性という理解は揺らいでしまうのではないでしょうか。このように他者の振る舞いというのは、地球の平面性にリアリティを与えていきます。

地球は丸いが逆さまに立っているなんて誰もが感じられないはずです。このように少し考えてみると、私たちの行動を促したり決定するものは、「客観的な世界」そのものではなく、「客観的な世界」を主観的にどのように認知するかである、という考えに立つということです。
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初めに言葉があった その33 「われは満ち足れり」

一体、誰がこのように宣言ができるのでしょうか。私たち一人ひとりはそれぞれの家族に生まれ、育てられ、教育を受け、生きています。「満ちたれる」とは一体どのような有り様なのでしょうか。自分を振り返るとき、恐らく誰もが反省とか後悔とかが先に立つのではないでしょうか。私たちはなんらかの理想を目指し、それを求めて懸命に努力し歩んでいます。しかし、その理想は高みにそびえ、その何合目かにいます。人知では到底計り知れない境地が先にあることを知らされています。

バッハ (Johann Sebastian Bach) の作品でもよく知られるのがカンタータ (Cantata) です。その第82番(バッハ作品番号ーBWV82)は「われは満ち足れり」(Ich habe genug) (I have now enough) と名付けられています。バッハのカンタータの中でも純粋な器楽伴奏付きのバス独唱の作品の一つとされています。この独唱とか朗唱は「レシタティーヴォ」(Recitativo) と呼ばれ、組曲形式の作品の中に現れる歌唱の一様式となっています。チェンバロやリコーダが伴奏となり、柔らかい雰囲気や感情などを静かに表現していきます。詠唱 (aria) などの旋律的な曲と組み合わせられます。

さて、「われは満ち足れり」です。この舞台は、「ルカによる福音書第2章第25節」(Gospel according to Luke 2: 25) です。エルサレム (Jerusalem) にシメオン (Simeon) という名の人がいました。この人は信仰深い人でイスラエル (Israel) が慰められるのを待ち望んでいました。彼には聖霊が彼に宿っていたとされ、「預言者シメオン (Prophet Simeon)」、「聖シメオン (Holy Simeon)」、「老シメオン (Old Simeon)」といわれていました。

救世主を待望していたシメオンは、イエスの誕生をきいてかけつけ幼子を抱きかかえ「われは満ち足れり」と言ったことがルカによる福音書に記述されています。この場面から、シメオンは「抱神者シメオン」(Simeon the Godbearer) とも呼ばれるようになりました。「自身の行いではなく、恵みによって満たされた」と宣言する言葉です。

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初めに言葉があった その32 Bernard Sanders

サンダース上院議員(Senator Bernard Sanders)はヴァモント(Vermont)という小さな州の出身です。1941年生まれ。大統領候補としては年配です。健康状態はどうなのでしょうか。次の予備選挙はニュー・ハンプシャー州(New Hampshire)で明日2月9日です。ヴァモントはニュー・ハンプシャーの北隣の州ですから当然、サンダース候補が優位といわれます。ニュー・ハンプシャーの南はマサチューセッツ州です。クリントン候補はニュー・ハンプシャー州の予備選挙のあとのマサチューセッツ州での選挙運動に力をいれることになります。

サンダース候補の経歴は興味があります。若い頃から公民権運動にかかわり、非暴力主義に心酔し人種平等にも賛同してきたようです。彼の選挙公約は、主として経済政策、特に収入や富の不平等に関心があります。最低賃金の上昇、公立大学の授業料の無償化、投機的取引への課税、所得が250,000ドル以上の収入者に対する課税、企業に対する家族休暇、育児や病気の休暇の保障などヨーロッパ諸国の休暇制度の導入をうたっています。シリアからの難民の引き受けも支持しています。ウオール街 (Wall Street) など一部の富裕層と政治の癒着を問題視して有権者を取り込もうとしています。若者や中間層を意識した公約です。

なんとなく大衆から受けそうな政策なのですが、合衆国の人々は自分は中間層の上の人間だという自負が高いのです。低所得者を支えているのだという自負も持っています。ですからサンダース候補の主張に賛同はするが投票は別、という気分なのです。経済や政治において国が強くならなければ市民生活に保障はないと考えるのです。アメリカの財政赤字は今も多額です。2014会計年度の財政赤字は最悪期の3分の1に減少したとはいえ、Sanders候補が公約する国民皆保険制度を導入できるほど税収入の増加が見込まれるのか、という悲観的な意見もあります。
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Nasir Bagh refugee camp near Peshawar, Pakistan. 1985.

Nasir Bagh refugee camp near Peshawar, Pakistan. 1985.

A general view shows a street after clashes between Free Syrian Army fighters and forces loyal to Syria's President Bashar Al-Assad, in Salah Edinne district, in the centre of Aleppo August 9, 2012. (Zohra Bensemra/Reuters)

A general view shows a street after clashes between Free Syrian Army fighters and forces loyal to Syria’s President Bashar Al-Assad, in Salah Edinne district, in the centre of Aleppo August 9, 2012. (Zohra Bensemra/Reuters)