日本にやって来て活躍した外国人 その四十六 ルーサー・メイソン

日本の音楽教育・西洋式音楽の輸入などで基礎を築いた功労者ルーサー・メイソン(Luther W. Mason)を紹介することにします。アメリカ各地で長年音楽の教師を勤め、主に初等音楽教育分野で第一人者となった教育者です。

アメリカに留学した人に伊沢修二がいます。伊沢は幕末の混乱期に、主に理系の洋学を中心にして学を修め、明治政府の文部省に出仕し、愛知師範学校校長となったのちの1875年に24歳で政府から米国留学を命じられます。留学した彼は、主にマサチューセッツ州(Massachusetts)のブリッジウオーター大学(Bridgewater State University)で、アメリカにおける師範教育の在り方を中心に学び、この時、ボストンで音楽教育家として名を成していたメイソンの教えを受けます。

帰国後、伊沢は文部省に進言して「音楽取調掛」の設立を準備し、メイソンを日本に呼び寄せて事業に協力してもらう手はずを整えます。1880年に伊沢を長として音楽取調掛はスタートします。そして、翌年の1881年にメイソンが来日し、足掛け2年間、メイソンは日本における音楽教育の基礎固めに関わることになります。音楽取調掛というのは、後の東京音楽学校=東京芸大音楽学部の担当官のことです。

音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行い、伊沢とともに『小学唱歌集』の作成にも関わります。また、ピアノとバイエル(Bayer)の『ピアノ奏法入門書』を持ち込み、ピアノ演奏教育の基本も築きます。東京芸術大学には、メイソンがアメリカから持ち込んだピアノが今も記念に残されています。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十五 イザベラ・バード

イギリスの女流作家にイザベラ・バード(Isabella L. Bird)がいます。当時の女性としては珍しい「旅行家」として、世界中を旅した女性でもあります。バードは1831年、イングランド北部ヨークシャー(Yorkshire)で牧師の2人娘の長女として生まれます。1878年、47歳で来日し東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅します。このときヘボン博士の紹介で伊藤鶴吉という従者兼通訳の日本人男性一人が同伴します。伊藤には英語能力のほか、英国人で植物学者であったチャールズ・マリーズ(Charles Maries)の植物採集に従事した経験があったからです。

国内旅行にはさまざまな制約がありました。イギリス公使であったハリー・パークス(Harry S. Parkes)の尽力で「外国人内地旅行免状」をもらい旅します。そのような時代にバードはアイヌの一拠点集落である平取をめざして北海道へ、そして関西・伊勢神宮へと旅します。彼女は日本滞在の7カ月で4,500キロ以上を旅したようです。その目的は当時の日本を記録すること、そしてキリスト教伝播の可能性を探ることでありました。

これらの記録を全2巻800ページを超える大著『日本の未踏の地:蝦夷の先住民と日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告』(Unbeaten Tracks in Japan)として残しています。北海道の旅の目的地を平取に定め、アイヌの長ペンリウク宅で3泊4日滞在し、アイヌの生活や文化を学び知ろうと全力を注ぎ、濃密な記録を書き残します。実はアイヌへのキリスト教伝道とも結びついていたようです。彼女の記録は、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況を詳しく紹介したほぼ唯一の貴重な文献となります。彼女の報告の原題は「Unbeaten Tracks in Japan: An Account of Travels in the Interior Including Visits to the Aborigines of Yezo and the Shrines of Nikkō and Ise」とあります。アイヌのことをアボリジニ(Aborigines)と呼んでいるのは興味あります。

バードの旅は時に地元紙にも紹介され、視察の旅であることが読者に伝えられていたといわれます。旅は用意周到に準備・計画され、ルートは目的に従い事前に設定されていました。例えば、日光から会津を抜け、津川から阿賀野川を舟で下って日本海側の新潟に出たのは、開港場であるが故にそこに宣教師がおり、その活動を学び知り新潟のさまざまな実態を明らかにするためだったようです

日本にやって来て活躍した外国人 その四十四  エライザ・シドモア

アメリカ人で著作家・写真家・地理学者であったエライザ・シドモア(Eliza R. Scidmore) のことです。オハイオ州のオーバリン大学(Oberlin College)に学びます。旅行に関心を抱いたのは、1884年から1922年まで在横浜米国総領事館に外交官として勤務していたジョージ・シドモア(George Scidmore)に因るところが大きかったようです。当時の日本は、西洋からの訪問者に対して門戸を開いたばかりだったので、シドモアはしばしば兄の任務に同行し、一般の旅行者にはアクセスできない地域へも渡航することができました。

19歳のときに初めて「National Republican」紙のコラムを担当し、その後、「New York Times」紙を含むさまざまな新聞に、ワシントンD.C.の社会に関する記事を投稿し、文筆が認められていきます。日本には3度も訪れて合計3年間滞在し、全国を行脚して様々な記録を残します。『ナショナルジオグラフィック』(National Geographic)の紀行作家であり地理学者。女性として初めて米国地理学協会の理事に就任し、東洋研究の第一人者として活躍した。後に、シドモアはナショナル ジオグラフィック協会の理事に選ばれた最初の女性です。

日本に関する記事や著作も残しています。「日本・人力車旅情」(Jinrikisha Days in Japan)を著し、1896年には三陸地震津波の被災地に入って取材し、「The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan」をナショナル・ジオグラフィックの9月号に寄稿しています。この投稿で、彼女は「Tsunami」という言葉を使っています。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十三 ポール・ブリュナ

フランス人の生糸技術者でお雇い外人にポール・ブリュナ(Paul Brunat)がいます。ドローム県(Droma)のブール・ド・ペアージュ(Bourg de Peage)に生まれます。お雇い外国人として、富岡製糸場の設立に携わり 計画、建設、操業の全てに関わった技師です。

1870年に明治政府は、自前で器械製糸工場の設立を決めます。大蔵省の役人だった深谷出身の渋沢栄一らは、フランス人公使、ロシュ (Michel Jules Roches)の紹介で指導者としてブリュナを製糸場建設・運営、指導の責任者として契約します。設立場所としてもともと養蚕業が盛んで東京や横浜に近い群馬・富岡に日本初の器械製糸工場の地として選びます。

ブリュナは、母国フランスから建築家や技師らを招き、さらに日本人工女に器械による繰糸の操作方法を教えるために、フランスから何人かの女性技術者を招き入れます。繰糸機や蒸気機関等を輸入して1872年に操業を開始します。この時に導入された機械は蒸気機関を利用した繭から糸を巻き取る繰糸作業を行うだけのものでした。やがて、この官営富岡製糸工場は日本の殖産興業に大きな貢献をします。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十二 ルイ・エミール・ベルタン

フランスの海軍技術者で日本海軍に招かれフランス人にルイ・エミール・ベルタン(Louis-Emile Bertin)がいます。1886年から1890年の4年間、日本海軍のお雇い外国人としてベルタンは、日本人技術者と船舶設計技師を育て上げ、近代的な軍艦を設計・建造し、海軍の施設を建造します。来日したときは45歳でした。フランス政府にとっては、当時工業化していた日本への影響力を高め、イギリスとドイツの技術を凌駕する機会ととらえていたようです。

ベルタンは、近代的な軍艦を設計して建造し、海軍の施設・呉、佐世保工廠などを建造するのを指揮します。この間に彼が手がけた軍艦に海防艦「松島」「橋立」「厳島」(通称「三景艦」)をはじめとする7隻の主力艦と22隻の水雷艇に及びます。これらは日清戦争における日本艦隊の主力となります。彼の努力は1894年9月の黄海海戦での勝利へとつながります。ベルタンは海防艦と一等巡洋艦建造のための設計を確立しただけではなく、艦隊組織、沿岸防御、大口径砲の製造、鉄鋼や石炭などの材料の使用法も教授しています。

フランスに帰国後は海軍機関学校校長、大将、海軍艦政本部部長を歴任し、在任中にフランス海軍を世界2位の海軍に育て上げます。その功績を記念してフランス海軍にはエミール・ベルタンの名を冠した巡洋艦が生まれます。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十一 フランシス・ホール

私の住む多摩にやってきたことのある幕末期のアメリカ人商人、新聞の通信員、フランシス・ホール(Francis Hall)のことです。あまり知られてはいない外国人です。1822年にコネチカット州(Conneticut)エリントン(Ellington)に生まれた。地方判事の父親ホール(John Hall)はイェール大学(Yale University)出の教育者でもあり、「エリントン・スクール(Ellington School)」という初めての学校を作った人物です。

ホールは父親が作った学校を1838年に卒業し、兄がマサチューセッツ州に開いた本屋を手伝ったのち、1841年にシラキュース(Syracuse)の本屋で働きます。知人の旅行作家が1855年のペリーの日本来航に同行したことに触発され、1859年日本へ冒険旅行に出かけます。

1859年に来日し、ジェームス・ヘボン(James C. Hepburn)らの宣教師家族とともに神奈川宿の成仏寺住みます。1860年に横浜の居留地に移ります。横浜居留地に店を構えていた貿易商社のウォルシュ・ホール商会(Walsh Hall)の友人ジョージ・ホール(George Hall)が1862年に帰国することになり、その後任として同社に参加します。

ホールはニューヨーク・トリビューン紙(Tribune)の通信員も兼ねていて、貿易業の傍ら7年間の日本滞在中に同紙に約70本の記事を送信します。滞在日記も1859年から離日するまで書き続けます。日本で一財産を築き、1866年にアメリカに帰国します。兄のエドワード(Edward Hall)は、1844年にエリントンに「ホール・ファミリー・スクール・フォー・ボーイズ(Hall Family School for Boys)」という男子校を創立します。同校には、ウォルシュ・ホール商会と懇意にしていた岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助が1872年に留学します。その学校の記念図書館建設に当たり、弥之助は2,000ドルを日本コレクション整備のために寄付するという記録が残っています。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十  ニコライ・カサートキン

東京は神田にきたとき、是非訪れて欲しいのが通称「ニコライ堂」です。ロシア正教(Russian Orthodox Church)の宣教師、ニコライ・カサートキン(Ian D. Kasatkin)を紹介することにします。名前はイアンですが、ニコライ(Nikolai)は修道士となって付けられた名前です。イアンは1860年6月に按手を受けて修道士となり名をイアンからニコライと改めます。サンクトペテルブルグ神学大学(St. Petersburg Seminary)の十二聖使徒聖堂で司祭に叙聖され聖ニコライとなります。

聖ニコライが箱館領事館付司祭として渡来したのは1861年です。サンクトペテルブルグ神学大学在学中にゴロウニン(Vasilii Gorovnin)の書いた「日本幽囚記」を読み日本に興味を抱いたと伝えられています。聖ニコライは後に日本での伝道活動が軌道に乗ってくると、正教会において、十二使徒のうちの聖使徒ペトル(ペテロ)と聖使徒パウェル(パウロ)を記憶して祝う祭り、ペトル・パウェル祭の日を日本における伝道方針を定める日とします。

日本ハリストス正教会(Orthodox Church in Japan) を組織後、上京し神田駿河台に本部となる東京復活大聖堂(Holy Resurrection Cathedral in Tokyo)を創建します。通称神田ニコライ堂と呼ばれ、ビザンティン様式の教会建築として有名です。ニコライ堂には苦難の歴史があります。1894年に竣工されますが、高台にあって皇居など東京を見渡せるので、スパイ活動をするのではないかと疑われたのです。

それに先立ち、日本人最初のイコン画家になったのが、山下りんです。帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクに留学し、女子修道院にてイコン(Icon) 製作技術を学び、1883年に帰国します。そしてニコライ堂内にイコン画を納めます。 

1904年には日露戦争が勃発しますがニコライ大主教はロシアに帰国しません。反ロシアの機運が高まることによって、聖堂が破壊されるのを恐れたからです。1923年9月1日に関東大震災が起こり、ニコライ堂の鐘楼やドームが破壊され、内部のイコン画などが焼失します。ニコライ堂が再建されたのは1924年です。関東大震災で消失したと思われていた日記-『宣教師ニコライの日記抄』が発見され2007年に日本語版が出版されます。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十九  アーネスト・サトウ

ロンドン生まれのアーネスト・サトウ(Ernest M. Satow)は、ルーテル派(Lutheran)の宗教心篤い家柄で育ちます。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(University College, London)で学び、在日本英国公使館の一等書記官であったローレンス・オリファント(Laurence Oliphant)が著わした「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れたといわれます。1861年にイギリス外務省の領事部門へ通訳生として入省します。

1862年9月、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任します。初代駐日総領事で同公使であったラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)の下で働きます。当時、横浜の成仏寺で日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ブラウン(Samuel Brown)や、医師の高岡要らから日本語を学びます。成仏寺は外国人宣教師の宿舎で、ヘボン(James C. Hepburn)も住んでいました。公使館の医師であったウィリアム・ウィリス(William Willis)らと親交を結びます。ウィリスは後に日本に赤十字精神をもたらし、鹿児島大学医学部の前身である医学校兼病院の創設に尽力します。

サトウが初めて日本語通訳としての仕事をしたのは、1867年の5月10日をもって攘夷を行うという将軍徳川家茂が孝明天皇に約束したことを知らせる内容の手紙を翻訳したことといわれます。1863年8月に薩摩藩とイギリスとの間で薩英戦争が起こります。サトウもウィリスとともにアーガス号(Argus)に通訳として乗船します。薩摩藩船・青鷹丸が拿捕されます。その船に、後に大阪経済界の重鎮となる五代友厚や日本の電気通信の父と呼ばれる寺島宗則が乗船していて捕虜となります。

下関戦争では四国艦隊総司令官付きの通訳となり、英・仏・蘭の陸戦隊による下関にあった前田村砲台の破壊に同行します。長州藩との講和交渉では高杉晋作を相手に通訳を務めるという経歴を有します。サトウの日本滞在は1862年から1883年と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると25年間となります。アーネスト・サトウは「お雇い外国人」ではありませんでしたが、通訳として外国との折衝にあたります。イギリスは江戸幕府を応援していましたので、サトウの役割も大きかったと思われます。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十八 ヴェンセスラウ・デ・モラエス

ポルトガル人(Portugue)の外交官、海軍軍人、文筆家だったヴェンセスラウ・デ・モラエス(Wenceslau Jose de Sousa de Moraes)の日本での活躍です。日本では余り知られていない文筆家ですが、意外と彼の著作はポルトガルでは関心を呼んだようです。1854年、モラエスはポルトガルの首都リスボン(Lisbon)で生まれます。海軍学校を卒業後、ポルトガル海軍士官となります。ポルトガル領だったマカオの港務局副司令を経て1889年に来日します。

1899年に日本に初めて神戸にポルトガル領事館が開設されると同副領事として赴任し、後に総領事となり1913年まで勤めます。モラエスは神戸在勤中に芸者のおヨネと出会い、ともに暮らすようになります。しかし1912年にヨネが死没すると、総領事の職を辞任してヨネの故郷である徳島市に移住します。さらにヨネの姪である斎藤コハルと暮らすのですが、彼女にも先立たれてしまいます。

『おヨネとコハル』『大日本』『日本精神』『徳島の盆踊り―モラエスの日本随想記』や日本についての著作があり、また日記・書簡など、ポルトガルの新聞や雑誌などに寄稿した文章が多数残されています。すべてポルトガル語であるため、日本ではあまり知られることがなかったようです。著作のほとんどが彼の死後、日本語に訳されて日本礼讃の書として知られるようになります。

「緑、緑、緑一色!…」。モラエスは徳島の最初の印象を作品「徳島の盆踊り」(岡村多希子訳)に書いています。ですがモラエスの徳島での生活は必ずしも楽ではなかったようです。身長180cm以上で、長い髭を延ばした風貌だったこともあり、「とーじんさん」と呼ばれて珍しがられたようです。ドイツのスパイと疑われたり「西洋乞食」と蔑まれたりすることもあったといわれます。

モラエスは1902年から1913年まで、ポルトガル北部の港湾都市ポルト市(Porto)の著名な商業新聞に当時の日本の政治外交から文芸まで細かく紹介します。それらを集録した書籍『Cartas do Japão(日本通信)』全6冊が刊行されます。ポルトガルにて、東洋の国、日本への関心を高めて話題となったといわれます。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十七 アーネスト・フェノロサ

高校の美術の時間では、岡倉天心と並んでアーネスト・フェノロサ(Ernest F. Fenollosa)のことを学びます。彼はマサチューセッツ州(Massachusette)のセイラム(Salem)生まれ、地元の高校を卒業後、ハーバード大学(Harvard University)で哲学、政治経済を学びます。美術が専門ではなかったのですが、ボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)付属の美術学校で油絵とデッサンを学んだことがあり、美術への関心はあったことが伺われます。

フェノロサは、動物学者エドワード・モース(Edward Morse)の紹介で1878年に来日し、東京大学で哲学、政治学、理財学(経済学)などを講じます。フェノロサの講義を受けた者には岡倉天心、嘉納治五郎らがいます。来日後は日本美術に深い関心を寄せ、助手の岡倉天心とともに古寺の美術品を訪ね、天心とともに東京美術学校の設立に尽力します。1888年天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感し、日本初の芸術教育機関、東京美術学校、現在の東京芸術大学を設立し初代校長となります。フェノロサは副校長に就き、美術史を講義します。

当時の日本では、神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で、多年にわたり仏教に虐げられてきたと考えていた神職者や民衆が起こした廃仏毀釈が起こります。それに対して、西洋文化崇拝の時代風潮の中で見捨てられていた日本美術を高く評価し、研究を進め、広く紹介したのがフェノロサです。明治時代における日本の美術研究、美術教育、伝統美術の振興、文化財保護行政などにフェノロサの果たした役割は大きいといえます。

1890年に、ボストン美術館(Museum of Fine Arts Boston)に日本美術部が新設されフェノロサのもとへ「学芸員になって欲しい」と依頼が届きます。折りしも日本政府との契約が満期終了となり同年、ボストン美術館東洋美術部長に就任し、日本美術の紹介に尽力します。1896年に、2度目の来日で東京高等師範学校教授となる。この年、夫人と共に天台寺門宗の総本山三井寺・法明院を訪ねます。フェノロサは法明院の茶室で寝起きしたといわれます。法明院にはフェノロサの墓があります。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十六 魯迅 その2

魯迅には、人間嫌いという側面があったといわれます。嫌悪は他者ばかりでなく、自己を含む面です。同胞の人々を卑俗性ゆえに避けたというのですが、魯迅自身をも嫌悪することにはね返ったのではないかという説です。魯迅が仙台での授業の合間に見た記録映像がありました。ロシアのスパイをしたとして中国人が日本の兵士に銃殺されるシーンで物見遊山で見守る中国人が「万歳!」と歓声を上げるのを見るのです。魯迅は「ああ、何も考えられない!」と嘆き、身体ではなく精神の改造へと転向するのです。魯迅は医学の道をやめて東京へ向かいます。

東京にいた中国人留学生には、立憲君主制を唱える改良派、異民族征服の王朝であった清朝打倒を説く革命派、無政府主義の者など、さまざまなグループがありました。魯迅はどうも革命派に位置していたようです。

1909年に魯迅は帰国し、浙江省の師範学同堂の教員となります。1911年に辛亥革命がおこり、各地で民衆が蜂起し清王朝の支配が終わります。列強の中国大陸への進出により、中国各地で抗日運動も広がっていきます。魯迅は、作家として翻訳家として、文学革命運動を担って祖国の青年に精神を教える立場に変わります。不朽の名作「阿Q正伝」は、ルンペンで愚民の典型である架空の一庶民、阿Qを主人公とした短編小説です。

阿Qは反封建的で半植民地的な中国社会の産んだ人間の一タイプとして描かれます。権威には無抵抗で弱者をいじめる滑稽な人物で、人間のもつ奴隷根性の化身で、そして万人に通じその意味で普遍性を備えた人間としても描かれます。革命に同調し謀反に荷担したとして阿Qは捕らえられ処刑されるのです。「阿Q正伝」は民衆の無知と無自覚を痛烈に告発した作品として知られています。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十五 魯迅 その1

このブログのタイトル「日本にやって来て活躍した外国人」にそうかどうか心配ではありますが、中国の偉大な作家、魯迅を取り上げます。中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた作家で、その作品は日本や中国だけでなく、東アジアでも広く愛読されています。

魯迅が生まれたときは、大清国の崩壊していった時代です。清国は古来から対朝鮮関係で占めていた特権的地位を失い、西欧列強や日本に領土を割譲し、賠償金を支払います。これは中国の識者に与えた衝撃は大きく、自国の体制を内部から考え直す視点に立つようになります。魯迅の父は将来息子の一人は西洋へ、一人は日本へやって学問をさせようとします。科挙しか眼中になかった当時の識者の間に変革の気運が起きるのです。

1902年に魯迅は、鉱路学堂という学校の同期生とともに官費留学生として日本に留学します。最初、東京の弘文学院という清国留学生に日本語と普通教育を授けるために設けられた学校に入ります。この学校は、東京高等師範学校校長であった嘉納治五郎が中国人留学生の速成教育のために設けた学校です。魯迅はこの学校の普通科で2年間、日本語のほか算数、理科、地理、歴史などの教育を受けます。

1904年9月、魯迅は国費留学生として仙台医学専門学校、現在の東北大学医学部に入学します。無試験で授業料は免除されました。医学専門学校は全国に5校ありましたが、仙台を選んだのは、「中国留学生のいない学校に行きたい」という理由だったようです。特に解剖学の藤野厳九郎教授は魯迅を丁寧に指導したようです。医学を専攻しながら、同時に西洋の文学や哲学にも心惹かれていきます。ニーチェ(Friedrich W. Nietzsche)、ダーウィン(Charles R. Darwin) のみならず、ゴーゴリ(Nikolai Gogol)、チェーホフ(Anton Chekhov)などロシアの小説を読み、後の生涯に大きな影響を与えていきます。

仙台医学専門学校留学時代の魯迅と藤野厳九郎の関係は、魯迅の短編小説「藤野先生」により伺い知ることができます。仙台医学専門学校の課目は解剖学・組織学・生理学・化学・物理学・倫理学・ドイツ語・体操などで、藤野厳九郎は解剖学を担当していました。藤野厳九郎は教育者として厳しく真面目でした。他方で魯迅のノート添削に丁寧に対応していました。魯迅は、1904年9月から1906年3月までの約1年半しか仙台にいませんでした。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十四  エドモンド・モレル

鎖国時代が終わり、明治政府は積極的にアメリカやヨーロッパ諸国に働きかけて専門家を日本に招き、「近代化」を図っていきます。イギリスからは鉄道開発、電信、公共土木事業、建築、海軍制度を学んでいきます。エドモンド・モレル(Edmund Morel)のことを紹介します。

モレルはキングス・カレッジ・スクール(Kings College School)およびキングス・カレッジ・ロンドン(Kings College London)において学びます。オーストラリアのメルボルン(Melbourne)において土木技術者として8か月、続いてニュージーランドのウェリントン(Wellington)地方の自治体の主任技師として働くという経歴を有します。

モレルは1866年1月から北ボルネオ(Borneo)において、石炭輸送用の鉄道建設に当たります。その後夫人を連れて横浜港に到着します。1870年4月のことです。日本でイギリス公使を18年にわたり務めていたハリー・パークス(Sir Harry Parkes)の推薦によりモレルは、明治政府から建築師長(技術主任)に任命されます。そして鉄道建設を指導をすることになります。

民部大蔵少輔兼会計官権判事であった伊藤博文に、人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出します。また民部大蔵大輔の大隈重信と相談の上、日本の鉄道の軌間を1,067 mmの狭軌に定めます。さらに、「森林資源の豊富な日本では木材を使った方が良い」と、当初イギリス製の鉄製の物を使用する予定だった枕木を、国産の木製に変更するなど、日本の実情に即した提案を行います。こうして外貨の節約や国内産業の育成に貢献することになります。後にそうした活躍から「日本の鉄道の恩人」と賛えられていきます。

肺を患っていたモレルは、1871年に休職してインドへの転地療養を願い出ます。政府はモレルの功績に応じて5,000円の療養費を与え出国を許可します。日本の鉄道の開業を目前にして1871年11月、横浜において満30歳で没します。モレルの遺志は、副主任のジョン・ダイアック(John Diack)らに受け継がれます。ダイアックは新橋 – 横浜間の鉄道敷設の測量を指導し、1872年に鉄道は開業します。ダイアックは後の東海道本線である京都 – 大阪 – 神戸間の測量や敷設工事も指導します。我が国の鉄道技術の発展は、イギリス人技術者の働きによるところ大であったのです。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十三  ヘンリー・ダイアー

グラスゴー大学 (University of Glasgow)は、スコットランド(Scotland)のグラスゴー市(Glasgow)に本部を置くイギリスの大学です。1451年に設置されました。500年以上の歴史を有する英語圏最古の大学の一つです。1840年に英国で最初に設置された工学部があり、産業革命で大きな役割を果たした人材を送りだした大学です。

中世からカトリック教会の聖職者を輩出し、近世では、蒸気機関の発明や電力単位のワット(W)で知られるジェームズ・ワット(James Watt)、経済学の祖であり国富論を著したアダム・スミス(Adam Smith)、物理学者のウィリアム・トムソン(William Thomson)など歴史上の重要人物も多く輩出している大学です。ヘンリー・ダイアー(Henry Dyer)またグラスゴー大学の出身です。大学の工学部にあたるアンダーソンズ・カレッジ(Anderson College)を卒業します。

ダイアーは日本の産業発展に貢献すべく創設された工部省工学寮工学校(東京大学工学部の前身)に招かれエンジニア教育に従事します。教鞭を執ったダイアーの方針は、専門分野の学力をつけること、実践力を磨くこと、専門職に直接役立たないような教養も学ぶことでありました。工部大学校は1873年に開校し、基礎・教養教育、専門教育、実地教育をそれぞれ2年とする6年制とし、土木学・電信学・機械学・造家学(建築)・化学・冶金学・鉱山学の7学科が設けられます。後に造船学と紡績学の2科が追加されたが、9名の教授陣はすべてイギリス人で占められていました。

グラスゴー大学には世界各国からエリート層が留学して来るようになり、母国で政治家や科学者となって国家に貢献した卒業生も多い。日本からの留学生も帰国後に名声を得たものが多く、著名人としては化学者でタカジアスターゼとアドレナリン(adrenaline)という分泌物からの薬を発明した高峰譲吉、日本のウイスキーの父とよばれた竹鶴政孝などがいます。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十二  グイド・フルベッキ

グイド・フルベッキ(Guido H. Verbeck)は、オランダ出身でアメリカに移民し、日本にキリスト教オランダ改革派宣教師として派遣された法学者・神学者・宣教師であります。

1855年にニューヨーク市(New York)にある長老派のオーバン神学校(Auburn Seminary)に入学します。神学生の時に、サミュエル・ブラウン(Samuel R. Brown)の牧会するサンド・ビーチ教会(Sand Beach Church)で奉仕し、これをきっかけにブラウンと共に日本に宣教することになります。1859年オーバン神学校を卒業する時に、ブラウン、シモンズ(Duane B. Simmons)と一緒に米国オランダ改革派教会の宣教師に選ばれます。長老教会で按手礼を受け改革教会に転籍して、正式に米国オランダ改革派教会の宣教師に任命されます

1859年11月にフルベッキは長崎に上陸します。キリシタン禁制の高札が掲げられており、宣教師として活動することができません。しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていたようです。1862年には、自宅でバイブルクラスを開き、1861年から1862年にかけては佐賀藩の大隈重信と副島種臣がフルベッキの元を訪れ、英語の講義を受けます。

さらに佐賀藩が長崎に英学を学ぶための藩校としてつくった致遠館でフルベッキは大隈重信や副島種臣など多くの指導者を育成します。その後は明治政府に登用され、太政官顧問になります。退官後、1878年には日本基督ユニオン教会で旧約聖書翻訳委員に選ばれ、文語訳聖書の詩篇などの翻訳に携わります。1883年4月大阪で開かれた宣教師会議で「日本におけるプロテスタント宣教の歴史」について講演もします。1886年の明治学院の開学時には、理事と神学部教授に選ばれて、旧約聖書注解と説教学の教授を務めます。1888年には明治学院理事長に就任します。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十一 バーナード・ベッテルハイム

ベッテルハイム(Bernard J. Bettelheim)は英国国教会より日本に派遣されたキリスト教宣教師兼医師です。沖縄群島にやってきた最初のプロテスタント宣教師でもあります。英国国教会が組織した宣教団体は、「Loochoo Naval Mission」といいます。LoochooとはRyukyu(琉球)を表しています。ベッテルハイムは派遣のリーダーとして1843年から1861年の間、琉球にて活動します。

ベッテルハイムの生い立ちなどに触れます。彼はスロヴァキア(Slovak)首都ブラチスラヴァ(Bratislava)にユダヤ系の子として生まれます。9歳の時にはすでにドイツ語、フランス語、ヘブライ語で詩を書いていたといわれます。ユダヤ教の聖職者ラビ(rabbi)となるべく教育を受けますが、12歳で学校をやめ、ハンガリー国内で学んだ後、最後にイタリアのヴェネト州(Vèneto)のパドヴァ(Padova)で医学を学ます。その後はエジプトとトルコへ渡り、1840年にトルコのスミルナ(Smyrna)でキリスト教に改宗します。そして、イギリスへ渡り英国国教会の牧師から洗礼を受けイギリス国籍を取得します。

1846年4月に香港から琉球王国に到着し、那覇の護国寺を拠点に8年間滞在します。同行していたのは中国人の通訳です。ベッテルハイムの琉球伝道は、難破した英国軍人に暖かく接した琉球人への感謝からだとされています。しかし、彼の琉球王国での宣教活動は困難だったようです。これは琉球を支配していた薩摩藩と江戸幕府のキリシタン禁教政策のためです。

琉球側はベッテルハイムへ退去を要請しますが、布教活動は黙認され比較的自由に行動することができます。その間、医療活動も行います。ハンセン氏病患者にも接したという記録があります。宣教では、一人の洗礼者も育てることができなかったようです

1854年6月にマシュー・ペリーが来琉した時、ベッテルハイムは琉球の言語と文化についての知識からペリーのもとで働きます。そのとき琉米修好条約を締結しました。条約の内容は、アメリカ人の厚遇、必要物資や薪水の供給、難破船員の生命財産の保護、アメリカ人墓地の保護、水先案内人の件などを規定するものでした。ベッテルハイムはそのまま艦隊とともにアメリカに渡ります。アメリカではシカゴやニューヨークにおいて長老派牧師として活躍し、南北戦争(Civil War)では北軍の軍医として活躍するという波乱の生涯をおくります。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十 ハンナ・リデル

近代日本の夜明けの時代、英国人の聖公会女性宣教師がやってきます。その一人に、英国聖公会の宣教団体の1 つである英国聖公会宣教会(Church Missionary Society: CMS) のハンナ・リデル (Hannah Riddell)がいます。前回紹介したコンウォール・リー(Mary Helena Cornwall Legh)も同じ教会に所属していました。

そしてもう一人はリデルの姪で CMS の宣教師として来日したエダ・ライト(Ada Hannah Wright、1870-1950)です。ハンナ・リデルは、熊本の本妙寺で物乞いするハンセン病患者の悲惨な状況を見て、自らの全財産を処分し、回春病院を建てることになります。

彼女の業績は、ハンセン病患者の悲惨さに対して人々の関心を集めたことです。そして政財界の人々を動かします。当時の日本は、性や結婚には厳しい倫理観によって、分離政策をとっていました。彼女は数回草津を訪れ、1913 年回春病院の米原馨児という司祭を派遣し、光塩会を設立します。これは後の草津聖バルナバ教会です。また 1927年には、軽症のハンセン病患者で聖公会信徒の青木恵哉を沖縄に派遣します。彼は伊江島を拠点とし、洞窟や山に隠れている患者を発見し、食べ物や衣服を与え共に礼拝しました。

こうした日本聖公会の努力によって、今帰仁村の近くにある屋我地島を基にして1938年に国頭愛楽園、現国立療養所沖縄愛楽園が誕生したのです。「母さま」と呼ばれ敬愛されたリデルは、1932年に76 歳で永眠します。

姪のエダ・ライトがリデルに代わって病院を継ぎます。開戦時にはライトはスパイ活動の疑いをかけられ、特高の取調を受けたりします。1941 年に46 年存続した回春病院は閉鎖され、患者は国立療養所(恵楓園)に移されました。その後ライトは国外追放となりますが、1948 年再来日し80歳の1950 年に永眠します。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十九 メアリー・コンウォール・リー

コンウォール・リー(Mary Helena Cornwall Leigh)は、英国国教会(英国聖公会)の福音宣布教会(Society for the Propagation of the Gospel in Foreign Parts: SPG)が派遣する宣教師として来日します。東京を中心に8年間伝道活動に従事し、その後多くの施設を立ち上げ、ハンセン病(Hansen’s disease)患者のための生活や教育、医療に尽力したイギリス人女性です。

生地は英国のカンタベリー(Cantebury)で、父親は陸軍中佐、本家は男爵の家柄で一族専用の礼拝堂、司祭を有していたという裕福な家系です。十代で司祭によって感化されハンセン病者に奉仕しようと決心したようです。二十代のときロイヤル・カレッジ・オブ・アート(Royal College of Art)で水彩画を学んでいます。

リーは東京・神奈川・千葉で8年間の伝道活動に従事します。草津の光塩会の宿澤薫の要請を受けて1915年に草津を視察し、草津湯の沢で奉仕することを決心します。1916年に、病者の人間回復とその生活を支える「聖バルナバミッション」(St. Barnabas Mission)を立ち上げます。リーは私財を投じ、また内外からの献金を用いて、聖バルナバ教会、病者のための聖バルナバホーム、幼稚園・小学校、さらに聖バルナバ医院を設立し、その運営に尽力します。1,000人を超えるハンセン病者にキリスト教を伝えるとともに、一人ひとりの人格や人権を重んじる救済事業を展開します。後に「ハンセン病者のマザーテレサ(Mother Teresa)」と賞賛されます。

少し時間を戻します。草津には千年以上前から湯治の人が訪れていた温泉です。1869年の江戸の大火以来、ハンセン病患者の来訪が増えてきたといわれます。1887年以来ハンセン病の人々は草津の湯之沢に移住させられます。全国から温泉の効能を頼りにハンセン病者が集まり共同体を形成していたのです。内科医師のアーヴィン・ベルツ(Erwin von Balz)が温泉の効果を宣伝したのはその頃です。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十八 ヴィレム・カッテンディーケ

オランダからやってきて活躍した人の話題が続きます。オランダの海軍軍人で後に政治家となったヴィレム・カッテンディーケ(Willem Johan van Kattendijke)のことです。1857年にペリーの黒船を見た徳川幕府はオランダに黒船のような軍艦を発注します。カッテンディーケは、完成したJapan(ヤパン)号を回送し、その艦長として大西洋、インド洋をまわり1857年に長崎に入港します。たった48.8mの木造艦で、やがて幕府の練習艦となります。

カッテンディーケは幕府が開いた長崎海軍伝習所の教官となり、2年に渡って勝海舟、榎本武揚らなどの幕臣に精力的に航海術・砲術・測量術などの近代海軍の教育を行います。特に勝海舟の能力を高く評価したといわれます。勝海舟は西洋式の海軍士官養成機関・海軍工廠である神戸海軍操練所を設立します。後に回想録『長崎海軍伝習所の日々』を著し、長崎の自然・風景や人々の風習や行事、日本人の態度などを記しています。薩摩藩11代藩主の島津斉彬、佐賀藩10代藩主の鍋島閑叟らの人物像なども記録します。島津や鍋島はアームストロング砲や蒸気船などに高い関心をもっていた人物です。

因みにヤパン号はやがて咸臨丸となり、1860年に勝海舟を船長とし、ジョン万次郎ら98名の日本人の遣米使節団一行が太平洋を横断してアメリカまで渡ります。カッテンディーケは帰国後は1861年にオランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任します。オランダと日本の関係は医学のみならず、軍備、航海術、天文技術などに及びます。明治維新に拘わる日蘭関係、あるいはオランダの果たした役割は重要だったといえましょう。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十七 ポンペ・ファン・メールデルフォールト

オランダ海軍の二等軍医にポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Pompe van Meerdervoort)がいます。響きが良いせいか、親しみを込めて一般に「ポンペ」と呼ばれるオランダ人医師です。ユトレヒト(Utrecht)陸軍軍医学校で医学を学び軍医となります。幕末の1857年に来日し、オランダ医学を伝えた功績者です。

当時、蘭医学は禁じられていました。将軍侍医で幕府の軍医であった松本良順は、他藩からきていた医師を自分の弟子としてポンペの講義を受けせます。多くの医師や幕臣以外の者も学べる塾がやがて手狭となると、松本は医学校建設を決意します。

ポンペは松本の奔走により作られた医学伝習所の開設にたずさわります。日本で初めて基礎的な科目から系統だった本格的な蘭方医の養成を始めます。医学伝習所は日本初の組織立ったオランダ医学の学校といわれます。ポンペは長崎で5年間にわたり医学を教えます。オランダ語や科学の基礎知識のない者に、言葉の壁を乗り越えて根気よく基礎から教えたポンペの努力と苦労が伝わってきます。解剖実習や臨床講義まで本格的な医学教育を行っていきます。ポンペが使ったカリキュラムは自分の受けたユトレヒト陸軍軍医学校に類似していたようです。

松本がこの伝習所にいたころコレラが大流行し、自らも感染した折、その治療でポンペが見せた患者への身分にかかわらず接したことに松本は心をうたれたようです。こうして江戸時代の身分制度に大きな影響を与えていきます。滞在した5年間に14,530人もの患者を治療し、外国人によるコレラや梅毒の蔓延を阻止するために奔走します。こうして長崎の町の人々はポンペに次第に信頼と尊敬を寄せるようになっていきます。ポンペの熱望していた西洋式の養生所の建設が近づきます。

1861年9月に養生所が長崎港を見おろす小島郷の丘に完成します。養生所は医学所に付置された日本で最初の124ベッドを持った西洋式附属病院であり、長崎大学医学部の前身となります。