心に残る一冊 その85  「いさましい話」 笈川玄一郎 

山本周五郎の 「いさましい話」という短編の一回目です。

江戸時代は、国許から江戸に妻子を住まわせ、人質のようにして一種の秩序を保っていました。江戸に住む者と国許の人との間でそねみや不信感があったようです。江戸にいる人間からすれば、国許の人間は頑固でねじれている、性格が固定的で融通性に欠け排他的である、傲慢で粗暴である、女たちも悪くのさばるなどの風評がありました。気候風土のせいもあったのだろうといわれます。

国許は国許で、江戸の人間はふぬけで軽薄、人にとりいるのが上手いなどといって毛嫌いしていました。江戸から赴任してくる者を無視したり嫌がらせをするために、赴任生活は三年と続かないなどといういう定評があり、そういう事実も多々あったようです。

笈川玄一郎が勘定奉行として国許に下向してきます。藩の財政の立て直しという任務をおびています。奉行交代の披露とそれに続く招宴で藩中の彼に対する感情もあらまし玄一郎に伝わってきます。玄一郎の部下は、彼をよそ者扱いにして、初めから不服従と反感を示し、玄一郎を怒らせたり困惑させようと振る舞うのです。部下とは益山郁之助、三次軍兵衛、上原千馬という三人です。玄一郎は彼らの誘いにのろうとしません。

玄一郎に助言を与えるのが作事奉行である津田庄左衛門です。作事奉行の仕事は造営修繕、特に木工仕事の管理です。謙遜でいんぎんな物腰。いつも柔和な微笑で、挙措もゆったりし全体に枯淡な気品に包まれています。時々釣りで一緒し、次のような会話にふけるときもあります。
「わたしは貴方のお父上を知っておりました」庄左衛門は静かに云います。
「仁義に篤い、温厚な、まことに珍しいひとでした」
「、、、はあ、仰るとおりいい父でした」
「叱られたり折檻されたことはおあいですか?」
「いやありません」
「わたしは悔いの多い人間でしたが、、、」 庄左衛門は溜息をつきます。

年末の勘定仕切りのとき、払い出し帳簿をみると玄一郎が赴任したときの招宴費用が書き出されています。
「どんな理由があっても、こういうものを役所で払うわけにはいかん、公用の意味があるのならとにかく、これは全くの私費だから」
「江戸邸ではそんな例はないし、そういう慣習を守れという注意も受けていない」
「然し、あたしの一存で押し通すのもいかがですから、すぐ江戸邸へ使いをやって問い合わせることにしましょう」

穏やかに云い終え役所に戻ると、おっつけ国老席から人がきて江戸に問い合わせるには及ばない、こちらで払うからと云ってきます。  (続く)

心に残る一冊 その84  「菊千代抄」 椙村半三郎

山本周五郎の「菊千代抄」の二回目です。

半三郎は18歳になり元服します。そして菊千代の前に呼び出されます。
「今日はききたいことがある。そのほうは菊千代が男であるか女であるか知っているであろうな」
「、、、、おそれながら」
「返事をせぬか、半三郎」
「おそれながら、そればかりは、、」
「いえないというのでは、知っているからだな、半三郎!」
「面をあげて菊千代を見よ、この眼を見るのだ!」
「菊千代が女だということを、そのほうは知っていたのだな?」
「、、、、、はい」
菊千代は彼を生かしておいてはならないと考えます。そして半三郎の袖をつかみ、短刀で彼の胸を刺します。松尾は戻るやいなや「、、、おみごとにあそばしました」と云うのです。

やがて巻野家に男子が生まれます。それ以来「おまえは女だ、男ではない、女だ、女だ、、」という声が菊千代の頭の中で聞こえ、神経発作を起こすようになります。菊千代は分封され、中山の尾形という谷峡で松尾と矢島弥市という家来だけを連れて暮らすようになります。弥市と一緒に馬で領内をまわり、弓を持って山に分け入ったりします。領内で貧しい小作人らと出会います。竹次というひどい暮らしをする者に出会うのです。竹次は十年前にかけおちしてこの地に落ち着き妻と子で暮らしています。

その家族の近くの物置に1人のひどくやせた男が住んでいました。その男に侍や下僕たちが声高になにか云っています。通りかかった菊千代が黙って通り過ぎようとします。やせた男がじっと頭を垂れているのを目撃します。素性が怪しい、労咳などという病人では屋形の近くにおいておけないといって立ち退きを迫っているのです。菊千代は立ち退きには及ばない、許すからここにいて病気をいたわってやるがよいと命じます。

それから1年あまり、菊千代は落ち着いた静かな生活をおくります。彼女は時々、物置にいる男が歩き回る姿や薪を割る様子を見かけたりします。歩いていると丁寧に挨拶をしたりするのです。その身振りを見るたびに、男は武家の出で志操の正しい人間であると感じるのです。

父親が菊千代の世捨て人のような暮らしを変えようとして10人ばかりの供をつれて尾形にやってきます。芸達者なものも連れているのです。その中の一人、葦屋という芸人がつきっきりで菊千代の望む芸を披露します。ある夜、菊千代はひどくうなされます。「お姫さまとだけ、お姫さまと私二人だけ、」と葦屋が云って菊千代の耳へ口を寄せて呻ぐのです。菊千代は蒼くなり、葦屋が自分が女であることを知った、生かしておけないと思います。

菊千代は葦屋に向かって、短刀を振るおうとします。するとふいに横からつぶてのように走ってきて「お待ちください、御短慮でございます」こう叫ぶ者がいます。「お待ちください、どうぞお気をお鎮めください」と立ち塞がるのです。「どかぬと斬るぞ」菊千代は逆上したように刀をふり回します。「止めるな、斬らねばならぬ、どけ!」男は「刺してはいけません」と菊千代の前に立ち塞がり、自分の胸を開いて諫めようとするのです。胸元の傷を見た菊千代は、かつて自分が短刀を振るって傷つけた半三郎であることを知るのです。

半三郎はごく控えめな表現で菊千代に対する同情と愛憐の気持ちを伝えます。労咳を病みながらひところは医者にも見放されながらも、不思議に一命をとりとめて、若君のしあわせ見届けるまで、気力をふるいおこし、その一心を支えにここまで供をしてきたと告白するのです。

「今でもそう思ってくれるか」、「菊千代をいまでも哀れと思ってくれるか」
身を振るわせて菊千代は彼の手をつかみ、その手へ頬を激しくすりつけるのです。

心に残る一冊 その83  「菊千代抄」 家訓

「菊千代抄」という山本周五郎の作品の紹介です。菊千代は巻野越後守貞良の第一子として生まれます。貞良は筋目のよい譜代大名の出で、寺社奉行をつとめていました。巻野家には古くから初めに女子が生まれたらそれを男として育てるという家訓のようなものがありました。そうすれば必ずあとに男子が産まれるということで、これまでにもそうした例が実際にあり、そのまま継承されてきました。当時貴族や大名の中にはこういう類の家風は稀ではなかったようです。

菊千代の母は病身でごくたまにしか菊千代は会いません。身の回りの世話には松尾という乳母がします。父は菊千代が乳母の手に抱かれているのを見ながらしきりに酒を呑み、3、4歳になると膳を並べさせ、「さああ若、ひとつまいろう」などとまじめな顔で杯を持たせたりします。

  菊千代の遊び相手はみな男の子です。自分の体に異常なところがあるということを初めに知ったのは6歳の夏です。乳母の松尾が側を離れた隙をみて誰かが池の魚を捕まえようといいだします。そして裾をまくって魚をおいまわします。菊千代の前に立った一人が突然叫びます。
「やあ、菊さまのおちんぼはこわれてらあ、」

池畔にいた一人が袴をつけたまま池にはいってきて、「なにを云うのか、おまえは悪い奴だ、」と暴言を口にした者を突き飛ばし、菊千代の肩を抱いて池から助け上げます。そこに松尾が走ってきます。菊千代は泣きながら松尾にとびつき、みんなの眼から逃げるように館にかけだしていきます。池から菊千代を助け上げたのは、八歳の椙村半三郎です。

半三郎は面長で眉のはっきしりしたおとなしい子でした。松尾は菊千代に対して体に異常はないこと、もしそうであれば侍医が診ていることなどいろいろ説明してくれます。然し、その時受けた恐怖のような感情は消えません。池の中の出来ごと以来、菊千代は半三郎が好きになり、なにをするにも彼でなければ気が済まず、少しも側を離しませんでした。

父との会話で菊千代は云います。
「本当に男のままでいられるのですか?」
「若が望みさえすれば造作もないことだ、」父が云います。
「、、、でもあとに弟が生まれましたら?」
「巻野家を継ぐのではない。分封するのだ、」
父はそういって菊千代に云ってきかせるのです。分封とは所領の内から適当な禄高を分けてもらい、相応の家来を持って生涯独立した領主となることだと菊千代に説明します。

ある夜、菊千代は乳母の松尾にききます。
「若が女だということを知っているのは誰と誰だ、、、」 父と亡くなった母、侍医と取り上げた老女、国許の両家老、その他知っているものはないことを菊千代にきかせるのです。その時、6歳の夏で池で魚を追い回していたとき、「若さまの、、、、、はこわれている」と誰かが叫んだのを思いだします。菊千代は半三郎を想い浮かべます。彼は知っている、生かしておけない、とも思うのです。それまで常に半三郎と相撲をとり、柔術の稽古をし、組み合っては倒れ押さえこまれてきたのです。彼一人を相手に選んできたのです。(続く)

心に残る一冊 その82   「初蕾」 小太郎の父帰る

「初蕾」の二回目です。うめの乳母としての役割は、小太郎の一歳の誕生までということになっていました。やがて、せめて立ち歩きのできるまでということになり、うめの乳母は続きます。児に愛をもってしまっては身がひけなくなる、深い愛情の生まれないうちに出ようとうめは決心していました。

然し、怖れていた愛情はすでにぬきさしならぬ激しさで彼女を小太郎に結びつけていきます。それだけでなく、小太郎をとおして梶井夫妻までその愛情がつながっていくのです。実はうめはお民だったのです。

良左右衛門はうめに素読を教えることになり、決まって少しずつ稽古をしていきます。小太郎は六つのときに疱瘡にかかります。うめは昼夜一睡もせず看病をするのです。やがて小太郎は袴着の祝いをします。そのとき、老臣が半之助の居所を良左右衛門に伝えるのです。殿が昌平坂学問所の日課に出たとき、講壇にあがったのが半之助でした。その才能を認められ学問所の助教に挙げられたのです。殿が帰国のときに半之助もお供をするというのです。それを側できいていたうめは愕然とします。

うめは鳥羽の海の見える梅林の中にやってきます。
「どうしてお泣きになるの」
うめが振り返るとはま女は小太郎を連れています。
「半之助が帰ってくるのです。喜んでもいいはずではないか、あなたがお民どのだということも、小太郎が半之助の子だということも、私たちはずっと以前からわかっていたのですよ」
「でも、ご隠居さま、わたしは決して、、、」
「仰るな、過ぎ去ったことは忘れましょう、半之助が帰ってくること、小太郎をなかに新しい月日のはじまること、あなたはそれだけ考えればよいのです」
「わたしにはできません、、、」
「わたしは梶井家の嫁になる資格はございません」
「そうするつもりもございませんし、半之助さまに対しましても、、」

もう一度云います。過ぎ去ったことは忘れましょう。七年前のあなたも今のあなたとの違いは私たちが朝夕一緒にいて拝見しています。旦那様がなぜ素読の稽古をなすったか、あなたにもわからないことはないはずです」

はま女はそういって傍らの梅の枝を指します。
ご覧なさい、この梅にはまた蕾がふくらみかけています。去年の花は散ったことを忘れたかのように、どの枝も始めて花を咲かせるような新しさで活き活きと蕾をふくらませています」
「帰ってくる半之助にとっても自分が初蕾であるように、あなたの考えることはそれだけです」
「女にとってはどんな義理よりも夫婦の愛というものが大切なのですよ」

「おかあさま、、」 うめは泣きながらはま女の胸にもたれかかるのです。

心に残る一冊 その81   「初蕾」 捨て児

半之助の両親は梶井良左右衛門とはま。良左右衛門は、倅の責を負って致仕します。致仕とは、官位を君主に還すことです。ですが殿が「領内に永住すること」というお沙汰があったので、夫婦は蔬菜をつくり、庭の手入れをしながら老後をおくっています。あるとき、はま女が夫に「これからは夜長になりますから、御書見でもあそばせ」、「お書物の行李でも明けましては?」と云うのです。行李の中の書物は半之助のものでした。

  ある夜、良左右衛門とはまの家の裏に捨て児が置かれているのを二人は発見します。そしてその乳飲み子を育てることにし名前を小太郎と名付けます。鳥居という隠居の名主に連れられて若い女が乳母としてやってきます。名を「うめ」といいました。起ち居や言葉つきはずっと世慣れて、蓮葉に思えるほどぱきぱきしていました。蓮葉とは、仕草や言葉が下品で軽はずみなことを示します。それを見て、はま女は云うのです。
「初めに云っておきましょう」
「お乳をやるときは、清らかな正しい心で姿勢もきちんとするようにしてください」
「乳をやる者の気持ちや心がまえは、乳といっしょにみな児に伝わるものですからね。小太郎は侍の児ですから、それだけは忘れず守っていただきます」

うめには欠点が多かったのですが、赤児の世話だけは親身になっていました。風邪けで具合の悪いとき、背負ったまま幾夜か寝ずに看病し、はま女の気持ちを惹き付けていきます。はま女はうめに云います。
「あなた、習字をなさらぬか」
「読み書きぐらいは覚えて損のないものです」
「よかったらお手引きぐらいはしてあげますから」

姿勢を正し、墨を摺る、手本を開き紙をのべ、呼吸を整えて静かに硯へ筆を入れます。習字をした終の清々しさをうめは感じるのです。
「乳をやるときは清らかな正しい気持ちでとおっしゃった、あれはこのような気持ちをいうのだな」
こうして月日は経過していきます。

心に残る一冊 その80   「初蕾」 お民

山本周五郎の「初蕾」という短編小説です。舞台は鳥羽港のあたりです。梶井半之助という若者がいます。見栄や衒いが少しもなく、かといって美男子でもありません。背は余り高くなく、笑うと眼が糸がひくように細くなります。酔ってうたう歌は調子はずれ。どこといって取り柄のない風貌です。然し半之助からゆったりと大きな温かさを感じ、静かに押し包まれるような気持ちにさせられるのがお民という女性です。

半之助は幼少から学問の好きな子で、やがて藩の学塾では秀才といわれ、17歳のときは塾の助教を命じられるほどです。ですが22歳のとき、彼の思想が老子の異端に類するといわれ、助教の職を追われるのです。彼の才能を妬むものの仕業でありました。

江戸時代では学問をする者は「道」を説く老荘思想を退けるのは自然。然し、朱子学以外に眼をつむることは単に御用学者として怠慢と云わなければならない、そう半之助は考えたのです。職を追われると半之助は性格が変わり、酒を呑んだり茶屋出入りをするようになります。

お民の兄と母が病で亡くなり、13歳のお民は「ふじむら」という店に奉公に出されます。お民は成長するにつれ、店にやってくる半之助の酌をしながら二人は語らい合うようになります。
「夫婦になっても3年か5年、くすぶった気持ちで厭々暮らすよりも、好きなうち、こうした楽しく逢い、飽きたらさっぱり別れてしまう。これが人間らいしい生き方じゃないか」
「その約束をしましょう、好きなうちは逢う、飽きたら飽きたと策さず云う、そしてあとくされなしに別れる、、、、、きっとですよ」

こうして二人の人目を忍ぶ逢瀬が続きます。半之助はやがて森田久馬という友人とそれぞれの生き方の違いで口論となり果たし合いをしてしまいます。そしてお民に告白するのです。

「森田は正しいことを云っていた。おれがどんな下等な卑しい人間だったかということ、おまえとこういう仲になっていながら、好きなうちは逢おう、飽きたらさっぱり別れよう、そんな約束まで平気でした。それが人間らしい生き方だったなどと云って、、」
「だが森田はこう云った。そういう考え方は人間を侮辱するものだ。幾十万人という人間の中から一人の男と女が結びつくということは、それがすでに神聖で厳粛だ、、、、きさまは自分を犬けだものにして恥ずかしくないか、この言葉が果たし合いの原因になったんだ、お民、」
「雨にうたれ、濡れて闇のなかをあるきながら、幾十万人という人間の中から一人の男と女が結びつく、それがどんなに厳粛かということを身にしみて悟った」
「お民、おれはお前を本当に愛していた、心から愛していたんだが、あんな約束はしたけど、気持ちには偽りはなかった、これから江戸に行って人間的になる」

そういって半之助はお民と別れそのまま行方しれずになります。

心に残る一冊 その79  「羅刹」

山本周五郎の作品を紹介しています。今回は「羅刹」という作品です。主人公の宇三郎は近江井関と呼ばれる面作りの師、かずさのすけ親信の門下生です。親信は京の三位侍従藤原糺公から「羅刹」の仮面の注文を受けます。「羅刹」とは仏教でいう守護神のことです。七夕会の催しでその面をつけて糺公は舞うのだというのです。

親信は三人の弟子を呼び、最も選れた傑れた仮面を作った者を井関の跡目とし、娘の留伊を娶らせるという条件で、羅刹の面のくらべ打ちを命じるのです。宇三郎はどうしても納得のいく面を彫ることができません。宇三郎を慕っていた留伊は、くじけそうになっている宇三郎に「あなたのほかに良人はありません」といって宇三郎を励ますのです。あるとき「羅刹」らしき面相を馬上の織田信長に見るのです。そして信長の姿を求めて京へやってきます。

本能寺の奥殿にまで身を挺して忍び入った宇三郎は織田信長の面貌に羅刹の相を見ます。そして信長最期の面を心に烙きつけのです。それを彫り上げて糺公に渡します。その面をつけてて舞う糺公を見た宇三郎は、踊り終えた糺公に平伏して云います。
「愚かにも百世にみる作と自負しておりました。然し、さきほど舞台に登る面を見ましたとき、私は増上慢の眼が覚めました。」
「これは名作どころか悪作の中の悪作、面作り師として愧死しなければならぬ邪徳の作でございます」

仮面は悪霊を退散させる羅刹の善性の面であるどころか、残忍で酷薄な形相であることを宇三郎は告白するのです。そしてその面を膝で打ち割ってしまします。それを聞いていた糺公と師匠の親信も宇三郎の言葉に深く感じ入るという物語です。

心に残る一冊 その78   「義理なさけ」

山本周五郎という人は、義理や人情を重んじるというより、正義とか道理をいうものを大事にして物語を組み立てるようなところがあります。人間の行動や志操、道徳を取り上げるのです。権威ある者を徹底して叩き、弱い市井の民の立場に与するのです。

「義理なさけ」の主人公は中山良左右衛門の息子、甲子雄と中山家のはしため、しず江です。甲子雄は、主家の大久保出羽守家の用人の娘と縁談が整います。非常に美貌とぬきんでた才芸をもっています。甲子雄の婚約が決まったとき、しず江は自分が甲子雄の子を宿しているという付け文を甲子雄渡して破談にしてしまうのです。甲子雄にとって全く身に覚えのない話です。実は縁談相手の娘が他の男と密通をしている証拠がでてきて、その娘は実家に帰されます。付け文は、その不義を知ったしず江の窮余の策だったのです。しず江も中山家を去ることになります。甲子雄は、破談になった自分が幸運であったことより、不義をしたその女が不幸な身の上であったことを哀れむのです。

やがて国詰となった甲子雄は、友人らとで立ち寄った菊屋という宿で女中になっているしず江に会います。甲子雄はしず江を嫁にしようと決心しますが、宿に戻ると、しず江は置き手紙をして身を隠すのです。

「お心にそむき申しそろ、今宵おこしあそばされてなに事の仰せあるやは僭越ながらおよそお察し申し上げそろ、川原にてのお言葉の端々、うれしくもったいなく、、、、お情けに甘えて己が身のためご縁談をこわし候ようにあいなり、義理あい立たぬ仕儀と存じ申しそろ。なにとぞしずのことはお忘れあそばし、一日も早く江戸へおたち帰りのうえ、よき奥様をお迎えあそばすよう、陰ながらお家百年のご繁昌をお祈り申しあげそろ。」

それを読み終えると甲子雄は決心します。そして近くにあるしず江の親戚の家へ馬を駆っていきます。「お前のほかよき妻があると思うか、会ったらそう云おう」

心に残る一冊 その77   「粗忽評判記」

山本周五郎の作品に「粗忽評判記」というのがあります。山本は好んで江戸時代に材をとり、市井の人々の悲喜や武士の哀感を描きます。庶民の側に立つという徹底した文筆態度です。権威ある者を風刺するような描き方をするのもあります。「粗忽評判記」もそうです。「小説というのは読後感が爽やかでなければならぬ」という信念を持って書いたといわれます。この作品も笑いがこみあげてくるようです。

主人公は苅田久之進という粗忽者です。粗忽とは、間抜け、おっちょこちょいということ。久之進の主君三浦壱岐守明敬も彼に劣らぬ粗忽な人です。壱岐守は、性急な質で忘れっぽく耳が早いという粗忽者の典型です。他方、久之進は落ち着き払って粗忽なことをやるので目だつこともこの上ないのです。

ある時、この二人が競争馬のことで馬と技の優劣を論じ合っています。壱岐守は次第に旗色が悪くなるので大いにせき、「では囲碁で勝敗を決めよう」と提案します。
「いかにも承知でござる」
久之進はにやにや笑いながら立っていきます。間もなく将棋盤を持ってきて据えます。落ち着いたものですが、肝心の物を間違えています。当人も気がつかないし壱岐守はもとより大いにせきこんでいるので、すぐに駒箱を明けながら「許す、先手で参れ」と云うのです。

「それはなりません。先手は下手なほうがとるもの。お上と拙者とでは段が違います」
「余の命令じゃ、先手で参れ!」
「御意なればやむを得ません、では、、」
久之進はしぶしぶ駒箱の中へ手を入れます。

ここで久之進は気がつくかと思うのですがそうではありません。指先で駒を弄りながらはてなと考えだします。碁は打つもの、将棋は並べて指すものです。駒と石とが違うのですから摘んではみますが、具合が変なのは当たり前です。

壱岐守も,駒を捻っていましたが、久之進の様子をみて、こいつまた何かそそっかしいとをしたなと思います。粗忽人の癖としてこうなると「失策だ」という考えだけで突き当たって他のことは忘れてしまうのでのす。しばらく駒を弄りまわしていましたが、ついに壱岐守がとって付けたように笑いだします。
「どうだ久之進、えーーどうだ、あははは、参ったか!」
何がどうなのか分かりません。ところが久之進のほうもまたひどく恐縮した様子で、「いやどうも、まことにどうも」
「あっははは、どうだ久之進、どうだ、どうだ、あっははは」

しきりにどうだ、どうだと云って笑っているのです。久之進も笑いだします。二人でしばらくけらけら笑っていましたが、やがて碁のことには一言も触れず、揃って庭のほうへ出て行くところをみると、両方とも何を間違えて可笑しくなったのか分からずじまいらしかったのです

心に残る一冊 その76  「朝顔草紙」  文絵

槍奉行が闇討ちにあったという知らせで監物が登城し、信太郎と小雪は相対して坐っています。
「文絵どのは拙者のことを存じだったでしょうか」
「はい、存じ上げておりました、、、生きているうちに一度はお目にかかりたい、一目お会いしてから死にたいと、口癖にように申しておりました」
小雪は袂を顔に押し当てて嗚咽し、しばし肩を振るわせます。
「失礼なお尋ねですが、先ほどのお琴は貴女がお弾きになったのですね」
「お恥ずかしゅう存じます」
「たしか朝顔の曲だと思いましたが、,」
「はい、、」
「亡き従姉上がお好きで、あの曲を弾くと、毎も、、、貴方様のことが想われると申しておりました」

そこへ、けたたましく犬の吠える声がおこり、「うるさい畜生だ、ぶった斬るぞ!」という荒々しい声が聞こえます。庭前へ鳥刺しの装束を着た男が二人、ずかずかと入ってきます。刃向かおうとする信太郎に小雪は止めにかかります。そして男達が去ると説明します。
あれは鳥刺しの組の者といいまして、領内いずれの屋敷へも出入り勝手とお上からお触れがでているのでございます」

信太郎は、槍を預けていた老番士に鳥刺しの組のことを訊きます。あの腹黒い奴神尾采女がお上を焚きつけて企てた仕事であることがわかります。堪りかねた相談役らがお上に諫言すると、ことごとく采女の部下らに暗殺されるというのです。信太郎は、槍奉行の闇討ちは鳥刺し組の仕業ということがわかります。

信太郎に烈火のような怒りが湧いてきます。そして神尾采女を屠ろうと計画します。采女の登城、下城のお供は厳重をきわめ、鉄砲二丁、槍五本、徒士二十人ということを探ります。討つなら下城の途中であると信太郎は考えます。采女の下城の行列がひたひたと宗念寺の塀の外にさしかかります。

采女の駕籠が眼前にさしかかると、信太郎は「神尾采女、天誅だ」と叫びながら駕籠の中に一槍いれます。手応えありとみるや、さっと槍を曳いて武林の中に引き返します。
「曲者、曲者!」と叫ぶ共侍を突き伏せると駕籠の側に近づき「采女、采女!」と呼びかけてぐいと引き戸を明けます。そして胸元深くトドメを刺します。

同じ頃、監物は居間で遺言状を認めています。最早どんな手段を使っても、采女の勢力をそぐことは出来ない、万策尽きた、腹を切ろう決心したのです。
「ご免ください」
「誰じゃ、」
「信太郎でございます」
「何処かへ出掛けたときいたが」
「はい、ちょっとそこまで出て参りました」

すっかり旅支度のできている信太郎をみて驚きます。
「どうしたのだ、その姿は」
「お暇仕りたいと存じまして」
「なに帰る、、、この夜中にか」

監物は小雪を呼び寄せます。そして信太郎が江戸に戻ることを伝えます。
「お別れについて、お願いがございます。文絵どののご位牌を頂戴いたしとうございます」
「未練だぞ、信太郎、文絵をそれほど想ってくれる志は忝ないが、その方は安倍の家名を継ぐべき大事な身の上、一日も早く他から嫁を迎えて、親に安心させるが孝の道だ」

監物は黙っています。小雪も蒼白めたおもてを伏せたままです。乳母のかねに対して、「かね、位牌をもってきてやれ」 監物がしばらくして云います。
「頂戴いたします」 信太郎はじっと位牌を見つめるとそれを旅の袋に収めます。

「お待ちくださいませ」と堪りかねたかねが叫びます。
「もうわたしは我慢ができません。お嬢様、どうか本当のことをお話あそばせ、、」
「これ何を申すか!」
「いえ、いえ申します、位牌を生涯の妻にするとまで仰せられた信太郎さまのお言葉が貴女にきこえませぬか、」
「安倍の若様、あなたのお持ち遊ばした位牌は、小雪といわれる旦那様の姪御のもの、これにおいでなさるのが、真の文絵さまでござりまする!」
信太郎は雷に撃たれたように立ちすくみます。

「信太郎、赦してくれ、、」
「かねの申すとおり、これが、、、文絵じゃ、いままで欺いていた罪を赦してくれ」
「何故、何故、またさような」
「十五年以前の約束を守って、遙々きてくれたお前にたいして、盲いた娘をこれが文絵だと云うことができようか、、わしにはできなかったのだ」

「文絵どの、お支度をなさい」信太郎がきっぱりと云います。
「どうするのじゃ、」
「駕籠は表にきています。すぐに江戸に出立いたしましょう」
「夜道をかけてはじめての夫婦旅、寒くないように支度をするのです」
「信太郎の妻は文絵どのです、さあ、」
「今宵ただ今から信太郎が貴女の眼になります。なにものも怖れずしっかりとこの手をつかんでおいでなさい」
「信太郎さま、、」

文絵の声は歓びと感動にわなわなと震えています。監物も乳母も泣きながら、然しつきあげてくる歓びに顔を輝かしています。

二人を送り出した半刻、監物のところに使者がきて神尾采女が何者かに闇討ちをかけられたことを伝えます。
「即刻ご登城くださるようにとのことです」
「そうか、信太郎め、采女をやりおったか」と監物は呻くように云うのです。

心に残る一冊 その75 「朝顔草紙」 藩の奸物

石見国浜田藩の物頭格で五百石を貰い仕えていた安倍信右衛門は、今は江戸に退身しています。藩主に直諫し暇をだされたのです。地位などに遠慮せずに、率直に相手を諫めたのが因です。その息子に信太郎がいます。二人の間で次のような会話が交わされます。

「突然のことでだが、そのほう明日江戸を立って、故郷まで行ってきて貰いたいのだ」
「石見へでございますか」
「石見の浜田だ」
「なんぞ急な御用でも、、、」
「一人、、、人を斬るのだ」
「父が永の暇をだされたのは十五年前、なぜ退身したかということは話をしていなかった、」
「その仔細ならあらまし存じております」
「亡くなる二年ほど前、母上から聞かせていただきました」
「では神尾采女のことを知って居るな?」
「はい」

「父が浜田を退身したのは、武士の本分に欠けていたからだ。真に君家を思うならば諫死をも辞すべきでない。少なくとも采女を斬って立ち退くくらいの覚悟が出来ないはずがなかった。それを、、、父はまだ若く客気満々であったため、尽くすべき本分を尽きずにきてしまった」

神尾采女は非常な才人で主君松平大和守の寵愛を受けていました。若くして御用人に取り立てられると、政治の面にまで進出し、奸曲の人物となっていました。それを信右衛門は再三再四遠ざけるように主君に進言したのです。それが因で暇をだされます。采女は、国老までのぼり、いまや藩政の実権を握り、藩の民を苦しめていることを信右衛門は知ります。

「十五年前に、父が斬っていたらこの禍根は残らなかった、、」
「首尾良く采女を討ち取ったら、国家老建部監物の娘、文絵どのを嫁に迎えて帰れ」と信右衛門は云います。

自分の未来の嫁がいるという夢を抱いて、信太郎は浜田に着くやいなや父の指示に従って国家老をしている建部監物の屋敷に落ち着きます。
「はい、実は、、、突然のことで、甚だ不躾とは存じますが、予て父が在藩中にお約束申し上げました。ご息女との婚約のことにつきまして、、、」
「おお、では文絵を迎えにきてくれたのか、、」

信太郎そっと眼を上げると監物の眉は苦しそうに深い縦しわを刻んでいます。ああ、すでに文絵は他に嫁したな、信太郎はそう思います。
「かたじけない、よく迎えにきてくれた」
「もし文絵が生きていたらどんなに悦んだことであろう」
「去年の秋から病みついて、この春の花を待たずに死んでしまったのだ」
「残念だが、最早なんとも致し方がない、諦めてくれ信太郎」
「、、仏間へご案内へ願えませぬか、」
「回向してくれるか、、さぞ文絵も喜ぶであろう」

寝苦しい一夜が明けます。気がつくとさして遠くない部屋から琴の音が聞こえてきます。哀調帯びた曲です。朝食の席に着いたとき、監物の隣に一人の娘が座っています。色の透き透るように白い、眉に憂いを含んだ淋しげな、然し驚くほど美しい顔立ちです。娘は盲いています。

監物が云います。
「これは文絵の従姉妹で小雪である、見るとおり眼が不自由であるが文絵とは姉妹のように育ってきた、彼女のことなら何でも知っている、話し相手になってくれ、、」
そのとき、監物が柴野という同僚の槍奉行が闇討ちにあった、という知らせをきいて急ぎ登城していきます。

心に残る一冊 その74 「無頼は討たず」

甲州街道、大月から半里を行くと笹子峠。右に清れつな流れを見ながら三十町で初狩という村です。山梨韮崎の貸元で佐貫屋庄兵衛という人がいました。気風も良く、金も切れ、おまけに徳性で子分の面倒をよくみていました。百人あまりの身内もでき、押しも押されぬ顔役になっていました。早くから「やくざはおれ一代限り」と宣言し、一人息子の半太郎を十五の歳に江戸の太物問屋に奉公に出していました。

庄兵衛と盃を飲み分けた弟分に猪之介という博打打がいました。鼻が大きいので「鼻猪之」といわれ、ひどく気の荒い本性です。お信という娘がいます。親に似ぬきりょうよしで、気性も優しいでき者です。猪之介は末は娘を庄兵衛の半太郎と夫婦にしようと考えています。

骨の髄までやくざに染まった猪之介は、やがてあぶれ者を身内に殖やして事毎く庄兵衛に楯突くようになります。あげくの果て、「やくざの縄張りは腕と腕でこい」とばかり縄張り荒らしをはじめます。

旦那衆の宴会の帰り道、庄兵衛は惨殺されます。噂では猪之介親分が手にかけたといわれます。半太郎が江戸から帰郷します。お身内衆が半太郎を出迎え復しゅうをしようと待ち構えます。しかし、半島は父の三十五日の席で集まった身内子分に対して、自分は佐貫屋一家をたたむと伝え、蓄えと家屋を払って子分に分け与えると云います。

「皆さん、わたしは父の敵を討とうなどとは思いません」
「なんでーざんすって?」
「やくざ渡世は初めから生命を賭けているはず。強い者が勝ち、弱い者が負ける、ただそれっきりの世界、人並みの義理や人情を持ち出すことのできない、いわば人間の道を踏み外した稼業でございましょう。斬るも斬られるのも素より稼業柄のことで、堅気の私どもから問われる事じゃありません」
「若親分!」
「おまえさん、それで口惜しくはありませんか、親を殺されて残念だとは思いませんか」
「それとこれとは話が別でございます」
「別とはどう別なんで!」
「それは云えません」
「おめえさんは臆病風にとりつかれているんだ、男の性根をなくしているんだ、なんだべら棒め!」

佐貫屋をたたんで半太郎は、それから母親とともに道外れに織物の小さな店をだします。毎日大きな荷物を背負って売り歩くのです。ある時、家に抜き身をもった男が裏の雨戸をけって飛び込んできます。
「すまねえが、ちょっとかくまってくんね、追われているんだ」
「やっ、、お前さんは猪之介、、、さん」
半太郎は猪之介を納戸に押し入れて後をしめます。そこに渡世風の男三四人が戸を蹴って踏み込んできます。
「いまここの鼻猪之の奴が逃げ込んだろう、どこへ隠した!」
「おまえさんらはどこの誰ですかい」
「誰だろうと汝の詮議には受けね、鼻猪之が来たろう訊いているんだ!」
「ええ、面倒だ、家探しをしろ!」

半太郎は殺された庄兵衛の息子であることをやくざに云います。佐貫屋の遺族の住居とは知らなかったので、やくざは出端をくじかれてしまいます。
「こりゃ悪いことをいたしました」と云いながら「野郎はどこへずらかりやがったか、」といって立ち去るのです。

半太郎のところに和田源という年寄役がきて、顔を貸して貰いたいと云います。その席に猪之介もいます。そして云います。
ふだんの付き合いどころか悪い因縁のある仲で、助けてくれた。お主の前に男の頭を下げてどんなにでもわびをする。どうか前の事は水に流して勘弁してもらいたい」
「悪かった、佐貫屋庄兵衛を殺したのはわるかった、面目ねえ、この通りだ」

とたんに半太郎の左手が伸びて和田源の腰の物をひっつかみます。
「小父さん、拝借!」というと立ち上がりざま、「父さんの敵、猪之介の首を貰うぞ」と叫びながら抜き打ちに斬りつけるのです。

「人を殺して悪かったと一度も思わぬような奴は、やくざの気風かもしれぬが、人間じゃない犬畜生だ。犬畜生を親の敵と狙う私じゃありません。だが悪いことをしたと後悔して、人らしくなれば、お父さんの仇、今こを恨みを晴らさなければなりなせん。」
「は、、、放しておくんなせ」猪之介は苦しそうに叫びます。

「いまの、いまの一言で今日までの半太郎どんの、苦しい気持ちがよく分かった私あ斬られます。これで借りが返せるんだ、、、、」
「その代わり半太郎どんに頼みがある、どうかお信のことを頼みます。あれは私の実の子じゃね、死んだ女房の連れ子、おれとはこれっぼっち血のつながりのねえ娘だ」
「き、、きいてくれるっか半太郎どん」
「、、、承、、承知だ」と云って半太郎はどうと座り込むのです。

心に残る一冊 その73 足軽槍一筋

無辺流という槍の遣い手に成田平馬という足軽がいました。武士の格好をした仲間で庭掃きか傘張りの内職をする身分です。藩の槍術指南番が金井孫兵衛。その息子に孫次郎がいます。平馬と孫次郎は小さいときから「孫やん」、「平やん」と呼んだ仲です。孫次郎は平馬の妹、近子と結婚する約束をしていました。

平馬の側をとおりかかった武士達が平馬の格好をみて、「なるほど、足軽は庭掃きや内職をしていれば御用が足りるかも知れない」と云うのです。
「ひとたび戦場となれば御馬前の駈退きにおいてもいささかも貴殿がたとは相違ないです」
「高禄をはむ貴殿がたと内職する我らと、いざ合戦の場合、いずれかお役に立つか試してみるのも一興であろう。さあ参られい、、」

十四五人いた誰も答えるものはありませんでした。冗談にしてしまうには余りに云いすぎている、といって平馬と立ち会う自信はない。みな色を変えて沈黙します。

そこに指南役の息子孫次郎が「相手をしよう」と立ち上がります。力量と技の凄さに平馬の槍が孫次郎の脛へ三寸あまり突き刺さります。
「、、、、参った」

一座の者が「おのれ、無道な奴、その足軽を生きて帰すな、斬ってしまえ!」
「何をするか、控えぬか」と物頭役の相良藤右衛門が立ち塞がります。
「しかし、このままでは士分一統の辱め、」
「無用、自ら招いた辱めでないか、裁きは藤右衛門がつける、鎮まれ!」

藤右衛門が平馬に云います。
「平馬、困ったことをしてくれたの、」
「恐れ入ります。しかしあのように足軽を辱められては黙ってはいられませぬ」
「ようよい、事情が拙者がよく存じている。だがことがこうなってはとても穏やかには治まらぬ。気の毒だが当地を立ち退いてくれ」
「些少だが、餞別だ。辞退されるほどではないから取ってくれ」と云って藤右衛門は紙入れを取り出して手早く金を包みます。
「はい、、、かたじけのう、、、、」平馬と妹の近子は藩を立ち去ります。

それから二年が経ちます。どうかしてひとかどの武士になろうと喰わずの旅を続けます。槍一筋の途はどこにもありません。ようやく信濃国松代藩へ五両二人扶持の足軽として仕えることになります。近子には「お手当は少ないが、馬廻り士分だ」と偽ります。

藩の中に武林源兵衛という八百石の御側役がいました。その倅、源之蒸は槍術の達者というので、平馬もはやくからその名を知っていました。槍もできるが、乱暴者としても評判で、家来の若者を連れて傍若無人にのし歩いています。近子の美しさに眼をつけなにかとうるさく付きまとっていました。
買い物にと出掛けた近子はなかなか帰りません。
「大変だ、お妹が武林おどら息子に、、、」
「買い物をしている途中、乱暴者の源之蒸が通りがかりに無理矢理、屋敷の中に引きずり込んでしまったぞ、」

平馬は憤怒の血にたぎります。もう松代もこれ限りだ、、、源之蒸の屋敷に着くと平馬の槍が源之蒸の脇腹に石突きを返して肋骨の三枚目から突き折ったから「うーっつ」と横にのめります。追っ手を残らず突き伏せると、近子を連れて二人は駈けに駈けます。
「お前に詫びることがある」
「松代藩に仕える時、手当は少ないが馬廻り士分だといったが、、、実は足軽奉公だった、」
「お兄様、なにもおっしゃいますな。近も薄々存じてはおりました」
「しかし、これでよいのだ。どこへ行っても足軽から武士になる機会などありはしない」
「武士を望むなら武士として踏み出さなければならない」
「今宵のことは武道の神が易きにつこうとした平馬の情心を諫める思し召しであったのかもしれない」

追っ手を怖れる兄妹は夜をついて道を急ぎます。休息していると「おーい、おーい、」という後から呼び声がします。
「や、、追っ手か、、」
ゆきの坂道を駆け上ってくるものがあります。脇に槍をかかえ右足を引きずるようにしながら、寄ってきます。十間余りの処にきたとき、平馬は愕然として「あ、金井孫次郎!」

孫次郎は親父から二百石の槍術の指南役として推挙があったことを平馬に伝えのです。そして昔の呼び名で「平やん、帰ったら近子さんを嫁にくれ!」
「あ、こいつ」
「大きな声をだすなよ、近子さんに聞こえるやないか」

心に残る一冊 その72 西品寺鮪介 針を割る

大晦日に「赤ひげ」「椿三十郎」「用心棒」など三船敏郎が出演する黒澤明監督尾作品をみました。養生所の頑固な医師、寡黙で豪快なサムライのキャラクターが三船と黒沢のモノクロの作品で圧倒的な存在感をみせていました。

さて、山本周五郎の「西品寺鮪介」という作品を紹介する二回目です。
鮪介は五十石をもって士分に取り立てられ、村の名をとって姓を西品寺、名は鮪介となり城下に家を貰って住みます。周りの者は、「ご覧なさい。あれ、あすこを通る勇士、鮪介とかいう百姓の倅でござる。あの馬鹿天狗が通ります。」というようにたちまち綽名が広まります。勇士どころか挨拶もろくに出来ぬ田舎ものです。悪童どもも「やあーまた馬鹿天狗が針を割りよるぞ」とはやしたてる始末です。ですが鮪介は石のように感じません。

あるとき、鮪介が大工町筋にさしかかると二人の武士が土器商人にいいがかりをつけるのを目撃します。
「ま、ちょくら待たっしゃれ」
「何だ、何か用か」
「へえ、おらはへ通りがかりのものだが、商人が無礼をしたとか、邸へ連れていかっしゃると聞いて、及ばずながら、はあ止めに入りやした。おらが商人になり代わって詫びるため、どうか勘弁してやってくらっしゃれ」
「貴公がこやつになり代わる、面白い」
「この場で勝負しよう」
「そりゃせっかくだが駄目ですが、」
「なに、何が駄目だ、」
「勝負をしてはやまやまだが、おらお殿様から立ち会いを禁じられているだ」
「貴公、姓名は?」
「西品寺鮪介と申しやす」
あ、馬鹿天狗と思わず一人が呟きます。

@–ž–ÖŠJ‘ñ’c‚Ö‚ÌŽQ‰Á‚ðŒÄ‚ÑŠ|‚¯‚éƒ|ƒXƒ^[BˆÚ–¯‚͍‘ô‚Æ‚µ‚Đi‚ß‚ç‚ꂽ‚P‚OŒŽA’·–쌧ˆ¢’q‘º‚Ì–ž–ÖŠJ‘ñ•½˜a‹L”OŠÙ

「しからば御上意で勝負がならぬとあれば是非もござらん」
「格別の我慢をもって我ら他に望を致そう」
「どうすればいいだが、」
「我ら両名、貴公の頭を五つずつ殴る、それにてこの町人を赦して遣わそう」
「土百姓、分際を知れ!」と罵りながら、拳が空を切って鮪介を力まかせに殴るのです。

かっと眼を見開いた鮪介、空を睨んで一言、「分かった、これだ!」
呻くように叫ぶとぱっと起つなり駆け出します。度肝を抜かれた一同、「や、馬鹿天狗の気が狂った」と叫びます。
鮪介は家に戻ると水をざぶざぶと浴び、据物術の用意をします。しばし瞑目してやおら刀を上段に構え振り下ろします。「かーつ」
刃は見五に命中。縫い針は二つに割れるのです。
「分際を知れば心に執念も利欲もない。針を割るごときはすでに末の末である。これで十分だ。」

急いで許嫁のお民の家にやってきます。
「あれ、鮪さでねか」お民は云います。
「おらあ針を斬り割っただ。それでお民との約束を果たすべとやってきたんだ」
「その鍬をこっちに貸せよ、これからこの土地全部を因幡さまの上地にしてみせるだぞ」
「どりゃ、おらの仕事ぶりを見せべえか」
鮪介は侍をやめて百姓に戻ります。

それから二年後。池田光政が鮪介の畑を通ります。
「私がたの田より反辺り十二表を収穫し、大豆は五十石止まりのところを九十石も上げあした。本願を達したとは申せませぬが、いま二、三年もすればどうやら半人前の百姓になれようかと存じまする」
「あっぱれ、よくぞ申した」光政は膝を叩いて
「あっぱれ、本願成就ときけば、定めし針を割ったことを申すであろうと存じたが、収穫の自慢をいたすところ、真の極意を会得した証拠だ、光政満足に思うぞ!」

一人の百姓は百人の西品寺鮪介よりも尊い国の宝であると光政は述懐するのです。

心に残る一冊 その71 「西品寺鮪介」 仕官する

山本周五郎の「西品寺鮪介」という作品を紹介する一回目です。
池田光政の家臣佐分利猪十郎が田舎を回っていると、据物を前にして自刃を振るっている野良着姿の若者をを目撃します。眼前三尺の地上をはたと睨んで、咄嗟に「かーっ」と喚くと刀を振り下ろします。「できる!」と猪十郎は呟きます。

「はばかりながら据物とはなんでござるか」猪十郎は尋ねます。
据物とは斬らんとするもののことです。据物の意味がわかった若者は、身をかがめると地面に突っ立ってあった一本の縫い針をつまんで猪十郎の鼻先に差し出します。

「針!針を折りなさるのか、」
「三年べえやっとるが、とんとあ折れましね。なかなか真っ二つにやなんねえ。まあ、死ぬまでにや一本も割れべえかと思ってね」
この若者の名は「鮪介」、「しびすけ」と呼ばれていました。

鮪介には四年前からお民という許嫁がいました。剣術狂いの鮪介は、一本の針をうち割るまでは決して祝言をあげないと云っています。

鮪介は猪十郎の推挙によって城中に召し抱えられるという破格の扱いを受けます。競射が催され鮪介は技を披露させられます。剣法御覧という儀式です。鮪介はわら人形でも括り付けられたように黙った八方破れの構えです。まるで木偶のごとく、木剣をもつ法さえろくに会得していないのです。ですが、打ち込みの早さと殺気の鋭さ、急所にぴたりと入る金剛力によって五人を倒すのです。

光政は云います。「聞けばそのほう農家の次男とか申すことだが、武者修行は武家を望んでのことか?」
「は、はい」
「農は国の基といって大切な業だ。これを嫌って侍を志望いたすなどとは曲事であるが、たって望とあらば光政取り立てて遣わす。どうじゃ、」

こうして侍となった鮪介の家では、親類縁者を招いて二日二晩大盤振る舞いをします。酔いがまわり風に当たっているところに、嫁婿の約束をしていたお民が現れます。
「汝がお城にあがってお侍になると聞いたからびっくりして飛んできただ、本当だか?」
「本当だ、おらあもうじき侍になるだ」
「鮪さ、汝はお侍と剣術の試合をして勝ったというが、それは何かの間違いだと思わしゃらねえか?」
「現におらあ五人まで勝ち抜いているぞ」
「それは魔がさしたとでも云うべきだべ」
鮪はぎくりとします。

「勝ったのは本当かもしれぬ。けれどそれには何か訳がある。なあ、鮪さよ、侍になるなんという無法はやめてどうか、約束通りおらが婿にきてくれろ。そうすれば、わしがなんでも鮪さの思うままにするだ。針が割りたければ、一生涯割っているがいい。汝の分までわしが野良でかせぐだから、なあ、、」

心に残る一冊 その70 源八、生きて還る

本陣での評定によって武田への攻略作戦が始まります。源八は五十騎を与えられ砦の奪取を命じられます。しかし、味方の損害が刻々と増していきます。
「斬り込ませてください。もう駄目です」
「なにを狼狽える、黙れ!」
「馬鹿なことを云うな。おれの隊が本領を発揮するのはいつもこれからだ、がんばれ!」
この言葉が兵たちを奮い立たせます。

闘いが終わり、砦はどこもかしこも敵と味方の死者で埋まっています。酒井忠治は云います。「源八はおらぬな、、」負傷兵をみかけそばに近寄って声をかけます。
「そのほうら兵庫源八郎をみかけなかったか」
「存じません。ただ敵兵の中に斬り込んでいくのをちらっと見ました。それが最期でした」
「源八郎も討ち死にか、、、」
あの男もやっぱり不死身ではなかった、そう云いたいようでした。

忠治らが砦を出ようとしたとき、叢林を押し分けて一人の武者が現れます。引き裂かれた鎧兜を身につけ、返り血を浴びた姿です。

「おお、兵庫、、、、」「生きていたのか兵庫、、」忠治は感動を押さえつけた声でそう呼びかけます。
「そのほうはなにをしていたのだ、」
「誠に恥ずかしい次第でございますが、じつは兜を取り返しにいっておりました、、」
「ここから斬って出まして、敵と組み打ちになりました」
「敵はかなわないと思ったようで、逃げ出したのです」
「するとそやつの鎧の留め金にわたしの兜がひっかり、それをぶら下げたまま、逃げ出していったのです」
「わたしはその兜を返せ、とどなったのです。そして谷底まで追いかけそれを取り返してきました。誠に恥ずかしいことです」

「取り戻してきた」というところで従者の者たちがどっと笑い声をたてます。けれども哄笑する人々の中で一人だけ、「よく還った、よく生きて戻ってくれた」と呟く者がいました。眼の周りを紫色に腫らした小林大六です。

心に残る一冊 その69 「生きている源八」

時代は1570年代の元亀。徳川家康の配下、酒井忠次の部隊に属する徒士に兵庫源八郎というのがいました。短軀でどうみても豪勇の風格はありません。幾度となく合戦に参加するのですが、とりたててめざましい功名をたてたことがありません。にも拘わらずだんだんと存在が認められ、徒士組三十人頭に取り立てられます。属している部隊が激しい戦をして全滅の危機にあっても不思議と生き残って還る男です。

はじめのうちは、逃げ隠れているのではないかと悪口を云われるのですが、そうではないことがわかると注目されてきます。どんな激戦でも生きて還るのです。矢玉が雨あられと飛んでくるなかでも、決して物陰に隠れるとか身をかかめるということはしないのです。なぜ好んでそんな戦い振りをするのかと周りがききます。源八は云います。

鉄砲というものは平常落ち着いてよくよく狙って撃ってもなかなか的にあたらない。まして戦場では気があがっているので、いくら狙って撃っても当たる弾は百に一つか二つだ。だから自分はまっすぐいく。除けたり隠れたりするとかえって命中するのだ。槍も同じで突っ込んでくる槍はたいてい外れる。合戦のなかではなおさらだ。

彼のいる部隊は見違えるように活気だってきます。矢玉は除けるほうが危ないという彼の確信、人柄や徳がそのままほかの者に伝わり、指揮する一隊はいつもぴたりと一つとなり、らくらくとした戦いを続けるようになります。

長篠の戦いを前に、武田軍の配備を偵察することになります。斥候として白羽の矢があたったのが源八です。同輩に小林大六という兵士がいます。かれはつねづね源八を白い眼で見、とかく悪評をふりまきたがる男です。酒井忠次は、二人が不仲であることを知っていたのですが、源八はなぜか大六を偵察に同行させたいと申し出ます。源八にはなにか策があるのだろうと忠次は考え大六を同行させます。

源八と大六は敵陣のかがり火をめあてに、哨戒線に近づきます。「敵の前哨がそこにいる」と源八は大六に云います。大六が湧き水の溜まり顔を洗おうとすると源八は素手で大六の顔をはっし、とたたきます。「なにをする!」「黙れ!きさまはふだんにおれに憎い口をきくぞ、おぼえたか!」二人は泥まみれになって取っ組み合いの喧嘩をし始めます。

源八は「誰かおらぬか、、」と絶叫します。「誰かまいれ、曲者だだ、曲者だ、」

そこに五六人の甲州兵が現れます。「縄だ、縄はないか。こいつは徳川の忍びだ、」源八は叫びます。

源八のやり方は敵の意表をついたのです。源八と捕虜にさせられた大六の二人は歩きながら巧みに案内の甲州兵から本塁の布陣の模様を探り出すのです。本陣を望む丘で源八は甲州兵を始末して大六とともに帰還します。復命はことのほか詳細で正確。忠治はひそかに舌を巻きます。そして信長の本陣で評定が開かれ、武田軍への攻略作戦が始まります。

心に残る一冊 その68 三十年後 「青べか物語」

「青べか物語」の「私」は、三十年後に浦粕町という漁師町に戻ります。明治27年に浦安に川蒸気船が開航し、大正8年には定期船が就航して浦安-江東区間を約1時間半で結びます。発着場となった「蒸気河岸」はべか舟もひしめく大変な盛況ぶりだったようです。

 

蒸気河岸 第一江戸川橋梁(東京メトロ東西線)付近 千葉県浦安市

「私」は浦粕の蒸気河岸へ行きます。車で千本という町の前で停めると、店の前にいた船頭らしい者が「いらっしゃい、いらっしゃい、」と景気よく呼びかけてきます。釣りをするためにタクシーを乗りつける者が「カモ」であって、「私」は車を出るとすぐ彼らに片手を振って、「釣り客ではない、、」と云います。

土堤の右へおりると、その辺りはすっかり家が建ち、文化住宅ふうの洒落たアパートなどが見えます。汚く濁った下水に沿っていくと、小さな掘り割りがあり、「これが一つ汄(いり)」だと説明されていました。「え、これが一つ汄だって、これが、、」。「こんな汚い割りになっちまっただ」、「田圃ができて農薬をつからねえ、今じゃ鮒一尾いやしねだよ」と地元の人は口々に云います。

これが広い荒地の中に済んだ水を湛えていたあの一つ汄だろうかと「私」は回想します。藻草が静かに揺れている水の中を覗くと、ひらたという軀の透明な川蝦がい、やなぎ鮠だの金鮒などがついついと泳ぎ回っていたはずです。「私」が青べかを漕いで鮒を釣った川柳の茂みはどの辺りにあたるのだかと見渡します。いまでは底が浅くなり、土地色に濁って異臭を放ちそうな水が流れるでもなく、泥っと沈んでいます。

「日本人は自分の手で国土をぶち壊し、汚濁させ廃滅させているのだと「私」は思った。そんなに農薬をつかって米ばかり作ってどうしようかというのか。」

心に残る一冊 その67 「かあちゃん」

山本周五郎の作品には、市井の人びとのささやかな営み、ひたむきな女性の健気さ、道を究めようとする者の真剣さなど、人生を懸命に生きる人間の姿が描かれています。「かあちゃん」は1955年に「オール読物」に発表された読み切りの佳作です。


時代は天保の末期。大飢饉、百姓一揆、不景気など暗い事件が続きます。天保の改革の効なく、江戸庶民の生活は困窮を極めています。主人公は5人の子を持つ43歳の未亡人、お勝です。お勝と長女は裁縫の内職、長男は大工、次男は左官、三男は魚河岸づとめ、六歳の末っ子までも拾い集めた金物を屑屋に売って稼いでいます。そのくせ、近所付き合いのわずかな寄附も出ししぶるので、長屋の人たちからは「業突く張り」とひんしゅくを買っています。業突く張りとは、「欲張りで強情なこと」という意味です。

「いまにこのまわりの一帯の長屋を買い占めるつもりじゃねえのか」という悪口を居酒屋で耳にした若者が、その晩、お勝の家に忍びこみますが、初めての泥棒体験なので、すぐにお勝に足下をみられます。

「ひとこと聞くけれど、まだ若いのにどうしてこんなことをするんだい」

「食えねえからよ」「仕事をしようったって仕事もねえ、親きょうだいも親類も、頼りにする者もありゃあしねえ、食うことができねえからやるんだ」

「なんて世の中だろう、ほんとになんていう世の中だろうね」「お上には学問もできるし頭のいい偉い人がたくさんいるんだろうに、去年の御改革から、こっち、大商人のほかはどこもかしこも不景気になるばかりで、このままいったら貧乏人はみんな餓死をするよりしようがないようなありさまじゃないか」

そういってお勝は太息をつきます。
「そんなことを聞きたかねえ、出せといったら早く金を出したらどうだ」

凄んでみせる若者を前にして、お勝は「一家でせっせと貯めている理由を聞かせるから、それでも強奪するというのなら好きにしなあ、、」と言って業突く張りの事情を明かすのです。

その話を聞いた若者は黙って出ていこうとしますが、お勝は職も寝る所もない若者を引き留めます。親戚の者だといって同居させることにします。5人の子どもは母親の説明を疑わず、若者を迎えるのです。長男が若者に働き口を探してきます。家族の一員となった若者は思わず「かあちゃん」と呼んで働きに出掛けていくのです

心に残る一冊 その65 「青べか物語」

再び山本周五郎の作品です。小説の舞台は昭和初年代の浦粕町。今の浦安市にあたる漁村です。最初に芳爺さんという凡そ常識外れの年寄りがでてきて、語り手の「私」が手もなくその術策にはめられます。それは青いペンキで塗られた「べか」と呼ばれた舟を買わされるのです。「べか」とは一人乗りの底が平たい舟で海苔や貝を取ったりする舟のことです。底が薄板の舟です。たいそう変わった人々が住む町に「私」はやってきたという設定です。

よそ者とみれば骨までしゃぶられるような浦粕町です。「私」は蒸気河岸先生と呼ばれます。文筆家のような彼は「長」というしつこい三年生や「倉あなこ」という温和な青年に援けられて、次第に町の中に溶け込んでいきます。「私」とは山本周五郎のようです。山本は大正15年の春、浦安町に移ります。そして昭和4年までこの地に留まります。23歳から26歳までであったようです。昭和5年に結婚し、大森の馬込に転居します。この浦安と馬込が山本のかけがえのない青春時代だったといわれます。

「青べか物語」は作者の体験に基づいているといわれます。この小説を読んでいると、登場する「私」は山本の一つの投影だろうと察せられます。常識離れをした狡猾さや愉快さ、質朴さであふれる漁村浦安の住人に囲まれた生活振りを実にユーモラスに描いています。昭和の初め頃が舞台だったようです。その筆の使いようは山本の作品では珍しいような気がします。

心に残る一冊 その64 「クリスマス・キャロル」 (A Christmas Carol)

冷酷で無慈悲な老事業家のスクルージ(Ebenezer Scrooge)は、周りから守銭奴と呼ばれています。クリスマスの前夜、3人の精霊(spirit) によって、自分の過去、現在、未来を見せられ、罪を悔い善人に立ち返えるのが、クリスマス・キャロル(A Christmas Carol)のあらすじです。

スクルージの改心には、共同の事業者であったマーレイ (Marley)という男の存在があります。彼は死後、スクルージの前に亡霊となって現れ、生前自分が良い行いをしなかったことを後悔し、さすらいの旅を続ける苦しさを語り、3人の精霊がスクルージに現れることを告げます。

「精霊は、相変わらず身動きもしなかった。スクルージはからだを震わせながら、墓のほうへ忍びより、指さすかたを追っていくと、だれもかえりみるもののない墓石にエベネゼル・スクルージという自分の名前が刻まれてあるのを読んだ。」

スクルージの事務所には、クラチット(Cratchit)という薄給で働く事務員がいます。妻子と共に愛に満ちた心豊かな生活をおくっています。スクルージと対照させて庶民の心の豊かさを浮き彫りにします。もう一人の人物はちびのティム(Tim)です。病気がちで松葉杖にすがる身なのですが、両親や兄姉の献身的な支えによって育ちます。やがて悔悛したスクルージにかわいがられます。

「思いやりのある精霊さん」 スクルージは、いきなり精霊の前の地面にひれ伏しながら、言葉をつづけます。「あなたは、やさしい心でわしをとりなし、わしをあわれんでくださいます。生活を変えれば、あなたがみせてくださったあの影を、まだ変えることもできるのだと保証してください!」

精霊からスクルージは約束以上によくやったとほめられます。ちびのティムにはもう一人の父親となります。よき昔の世界で、よき昔のロンドンにも、ほかのどんなよきむかしの市や町や村にもいなかったような友達、よい主人、よい人間に彼はなります。がらりと変わった彼を見て笑う人もありましたが、彼は勝手に笑わせておいて、あまり気にかけませんでした。この世の中にはどんなためになることでも、はじめは誰かが笑うことを彼は賢明にも知っていたのです。

スクルージはその後、絶対禁酒主義で押し通します。彼はいつも次のように云われます。クリスマスのじょうずな祝い方を知っている人がいるとすればそれこそあの男だ、と。

心に残る一冊 その63 「オセロ」

「オセロ」(Othello)は、ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の悲劇で5幕の作品です。副題は「ヴェニスのムーア人」(The Moor of Venice)となっています。

オセロはムーア人(Moors)の歴戦の将軍です。ブリタニカ百科事典によりますとムーア人とは中世期頃、イベリア半島(Iberian Peninsula)やマルタ島(Malt)、シシリー島(Sicily)などに住むマグレブ(Maghreb)と呼ばれたイスラム教徒の子孫で、アラビア語(Arabic)を話す人々の総称といわれます。

この中年の勇士は、戦場を駆け巡り赫各たる功績をたててきます。その輝く名声のために、ベニス(Venice)の国に雇われます。そしてベニスの貴族の年若い娘デズデモナ(Desdemona)と結婚します。デズデモナは父親の猛烈な反対を押し切るのです。彼女は夫のオセロを慕い愛します。

無事に結ばれた二人の結婚生活は平穏で幸せなものと読者には思われます。しかし、無残に破綻するのです。それは、オセロの腹心の部下イアーゴ(Iago)がオセロの心に疑いの念を植え付け、やがてオセロに愛する妻への嫉妬をかき立て、不貞を確信させるのです。

オセロは軍人としてその経験からも、どんな危険を前にしても冷静さを失わないかのような存在のようですが、妻への嫉妬に激しく悩みもだえる姿は、堂々たる軍人をすっかり忘れた小人のような姿になるのです。軍人としての知略には長けていても、子どものように単純で、世の中の駆け引きには疎いのです。デズデモナに対する愛情と信頼の深さ、人種差別、愛、嫉妬、裏切り、復讐、そして悔い改めなどの感情が見事にオセロの生き方に現れています。

デズデモナの貞操(chastity)を知ったオセロはイアーゴを斬りつけます。そして自分で自殺するのです。オセロの最後の科白です。

「おまえを殺す前に、くちづけしてやったな。今、おれにできることは、こうしてみずからを刺して、死にながら口づけすることだ。」

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心に残る一冊 その62 「町奉行日記」 町奉行日記から

ある藩の江戸邸のことです。望月小平太という下級武士が主人公です。何人もが町奉行に任じられては解任されたあげく、着任前から悪評が高く無頼放埒な行動で知られた小平太に町奉行のおはちが回ってきます。小平太は着任以来一度も役所へ出仕したことがなく、夜になると役宅を抜け出し、飲酒や遊蕩に耽っています。彼は剣術にはたけていました。

壕外という一角がありました。そこは密貿易、売春、賭け事勝手な、町奉行には治外法権だったのです。主君の命令で代々の町奉行が壕外への手をつけ掃除しようとしますが、それがことごとく押しつぶされてしまいます。この壕外の撤去には国許の重職が反対していました。壕外の三人の親分が権益を握り、重職と長年結託してお互いに甘い汁を吸っていたのです。この三人とは難波屋八郎兵衛、大橋の太十、継町の才兵衛です。

重職らが壕外を潰そうとすることへの反対の理由はつぎのような言い分です。
「人家に厠が必要なように、人が集まって生活するとこには、必ず不浄な場所が出来る。それを無くそうとするのは自然に反する。」

町奉行の解任が続くなか、新たに任じられたのが小平太です。そして掃除をする番が回ってくるのです。彼は決して力尽くで壕外を潰そうとはしません。壕外をとりしきる三親分と兄弟分の盃を交わすという奇想天外な軟派政策によって、彼らを壕外から移転するのを承知させるのに成功します。三親分は家財を処理していずれかへ立ち退きます。いかなる理由かは誰にもわかりません。

小平太は役目が終わると奉行を解任されます。書役と呼ばれていた役所の記録係中井勝之助は次のように日誌に記しています。

「望月どのは着任前から悪評の高い人だったが、こんどの解任も着任以来の不行跡を咎められたらしい。それにしても着任から解任されるまで町奉行として一度も出仕されなかったのは、奉行所日記として唯一の記録であるろうと思う。」

心に残る一冊 その61 「晩秋」 町奉行日記から

山本周五郎作の「町奉行日記」からです。徳川氏の最重要拠点であった岡崎藩の重臣新藤主計は、強い義務感を持ち重税政策を藩内で実行しようとします。部下の浜野新兵衛はそれに反対し上申書を出します。ですがそれが受け入れられず切腹を言い渡されます。やがて、主君の死後、主計はお家の改革のために国許に預けられ裁きを受ける身となります。新兵衛の娘、都留は主計の世話役を命じられます。

主計は都留の父を死に追いやった張本人です。都留は母から懐剣を預かって、仇を遂げてほしいと云われます。彼女は主計の世話をしながら仇討ちをしようと考えます。都留は、自分は女であるのに父母の想いを背負わなければならないという複雑な思いを抱いていたはずです。

主計は蟄居以来、時を惜しんで文書の整理に没頭します。それは自らの失政を示す書類をつくり、裁きの場に出そうとしていたのです。それを側で見ていた都留は次第に復しゅう心が萎えていくのです。そして「少しお肩をもみましょうか、、」と主計に声をかけます。

主計は云います。
「わたしはお前を知っている。お前が誰の娘かも、、ふところから懐剣をはなさないことも、、今朝は懐剣を持っていないようではなか、、」

そうして肩をもみながら、都留と主計は庭のうつろいを見つめます。主計は呟きます。

「花を咲かせた草も実を結び枝も枯れて一年の営みをおえた。幹や枝は裸になり、ひっそりとながい冬の眠りに入ろうとしている。自然の移り変わりのなかで、晩秋という季節の美しさは格別だな」

心に残る一冊 その60 「土佐の国柱」 町奉行日記から

主人公は土佐藩の高閑斧兵衛という山内一豊の懐刀です。かつて一豊は安土の馬寄において、妻が金十両をだして良人に名馬を買わしめたというので信長の目にとまり、出世の端緒を得ます。斧兵衛はずっと一豊に仕えてきたのです。慶長五年、一豊は土佐に封じられます。長宗我部が長年領主として君臨してきた土佐です。名君として領民によって神の如く崇拝されたのが長宗我部一家です。

一豊が土佐にやってきたのですが、長宗我部を慕う土民が多く、一豊も施政の上で苦労するのです。一豊が亡くなりその息子山内忠義が跡を継ぎます。実は一豊の死に際して、追腹を切るつもりであった斧兵衛ですが、一豊から「三年待て」といわれていました。

一豊の百日忌の仏事の行列に土民の中から生魚が投げ込まれます。家来達は土民を捕らえ斬ってしまえと叫びます。そこに一豊の寵臣であった斧兵衛がやってきて、「鎮まれ!」と叫ぶのです。それは土佐の旧領主長宗我部の遺徳をいまだに慕う領民を山内側に統一せよ、と生前に一豊に言い含められていたからです。我慢せよという意味が込められていたのです。

斧兵衛は手を尽くして領民の慰撫につとめるもその効果が上がらず、藩内からも斧兵衛の手ぬるさを非難する者も多くいました。やがて斧兵衛は反山内派の豪族や残党を集め、彼らと共に山内に叛旗をひるがえそうと密謀します。斧兵衛の娘小百合がその密謀を知って隣に住む池藤小弥太に伝えたのです。実は小百合が密謀を知ったのは偶然ではなく、斧兵衛が反山内派の一味を滅ぼすための苦肉の策であることをほのめかしたのです。そして密計は発動前に発露し、斧兵衛も討手の小弥太の手にかかり討ち取られます。

最期に及んで「最早お家は万歳!」と笑みを湛えた斧兵衛を小弥太はみるのです。こうして反山内の一味は滅ぼされます。山内忠義はこれをきいて感動に震えます。そして「斧兵衛は土佐の国柱なり」と述懐するのです。斧兵衛は当家にとって格別な者であることを知ったのです。一豊と斧兵衛の心と心がかくまで触れ合うものかと忠義は思い起こすのです。

心に残る一冊 その59 「誰がために鐘は鳴る」

この作品は、アーネスト・ヘミングウエイ(Ernest M. Hemingway)の小説「老人と海 (The Old Man and the Sea)」、「武器よさらば (A Farewell to Arms)」と並ぶ名作といわれています。スペイン内戦 (Spanish Civil War)を主題としています。原題は「For Whom the Bell Tolls」。

スペイン内戦は、スペイン軍の将軍フランシスコ・フランコ(Francisco Franco)に率いられたグループがスペイン人民戦線政府といわれた共和国政府に対してクーデター(military coup)を起こすことにより始まります。この内戦は1936年から1939年まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結します。それによってフランコ政権下というファシスト体制ができあがるのです。この政権はやがてイタリアのムッソリーニ(Benito Mussolini)やドイツのヒットラー(Adolf Hitler)からも支援を得て連合国と戦うことになります。

舞台は、スペイン、マドリッド(Madrid)の郊外の山中です。すでにファシスト軍の包囲にあり、共和国軍はその攻撃にさらされます。一アメリカ青年ロバート・ジョーダン(Robert Jordan)は、その激しい情熱によって、スペイン内戦に馳せ参じ共和国政府軍の義勇軍に加わり、ファシスト軍への救援を阻止するためにパルチザン(Partisan)であるゲリラ隊を指揮して山中の橋を爆破しようとします。彼の活動は4日3晩という期間なのですが、死の爆破を前に知り合ったスペイン人の娘マリア(Maria)と熱烈な恋に陥いります。

ジョーダンはファシスト軍への最後の抵抗を試みるために、マリアと別れて一人立てこもります。そして 「誰がために鐘は鳴る」は、次の文で終わります。

「ロバート・ジョーダンは木陰に伏せて、注意深く細心に気を引き締めて、両手をしっかり支えていた。彼は敵の士官が、松林の端の木々と草地の緑の斜面との境目のあたり、日の光のあたっているところまでくるのを待っていた。彼は、森の松葉の散り敷く地面に押しつけられた心臓が、激しく鼓動するのを感じることができた。」

心に残る一冊 その58 「変身」

カフカ(Franz Kafka)は、チェコフロバキア共和国(Czechoslovakia)の首都プラハ(Prague)のユダヤ人の家庭に生まれます。チェコフロバキアは11世紀頃からドイツ化が進んだため、カフカもまたドイツ語に精通していました。斜陽となったオーストリア帝国に支配されていたのがチェコフロバキアです。法律を学んで学位を取得し保険局に勤めながら作品を執筆し始めます。父親は頑健な立志伝にあるような商人だったようです。カフカはこの父の圏内に生きることで苦しめられたといわれます。

 

 

 

 

 

やがて「ユーモラスで浮ついたような孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させる」ような独特の小説作品を残していきます。「変身」(The Metamorphosis)は、旅回りの布地販売員グレゴール・ザムザ(Gregor Samsa)が主人公です。いつも骨の折れる職業を選んだことを後悔しています。毎日毎日旅をしながら、商売上の神経の疲れを感じています。旅の苦労は、汽車の乗り換え、不規則で粗末な食事、絶えず相手が変わって長続きせず、決して心からうち解け合うようなことのない人付き合いをしています。

「ある朝、ザムザが気がかりな夢から目覚めたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変わってしまっていることのに気づいた。彼は甲殻のように固い背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓形のすじにわかれてこんもりと盛り上がっている自分の茶色の腹が見えた。」

勤めてから一度も病気になったことないグレゴールは、ベッドの上で考えます。恐らく雇い主は家に電話をかけて、どうして出勤しないのかと聞くだろう。そして、健康保険医を連れてきて、両親に向かって怠け者の自分を非難するだろうと。やがて次第に家族に疎まれていきます。

虫への変身という変わったモチーフは作者カフカの人間として境遇を見つめる姿を表しています。希望と絶望、真実と虚偽、自由と束縛、現世の生活と未来の生活、という人間のさまざまな対立と不断の緊張にある存在をカフカは描くのです。

心に残る一冊 その57 「車輪の下」

ドイツ語原題は「Unterm Rad」、英語では「Beneath the Wheel」です。作者は「郷愁」や詩集でも知られるヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)です。

ひたむきな自然児であるだけに傷つきやすい心の少年ハンス・ギーベンラート(Hans Giebenrath)は、豊かな天分を有しています。ハンスは父親や牧師や教師の野蛮な虚栄心との葛藤で成長します。周囲の人々の期待にこたえようとひたすら勉強にうちこみ、難関とされるヴュルテンベルク(Wurtemberg)州立学校の試験に合格し、14歳のときにマウルブロン(Maulbronn)神学校に入学します。

「リンゴの木の下で彼は湿った草地に横になった。さまざまな不快な感情や悩ましい不安やまとまらない考えのために眠ることができなかった。彼はけがされはずかしめられたような気持ちがした。どうして家に帰れよう?父親に何と言おう?明日は自分はどうなるだろう?彼はもう永遠に休み、眠り、恥じねばならないかのように、すっかり滅入り、みじめな気持ちになった。頭と目が痛んだ。立ち上がって歩き続けるだけの力も、もうなくなっていた。」

ひたむきなハンスが、必死になって夜遅くに机にうつ伏すまで勉強する姿、試験に通った喜びに胸を躍らせる姿、それは多くの読者に伝わります。しかし、神学校の生活は少年の心を踏みにじる規則ずくめなものでした。少年らしい反抗に駆りたてられた彼は、半年で学校を去って見習い工として出なおそうとします。しかし、その努力はやがて権威との戦いに敗れ、犠牲となっていきます。無理解な教育という車輪の下敷きになり、生活に敗れ、はかない初恋によろめき死に去っていくのです。当時のヘッセの経歴は、「車輪の下」の原体験となっていると言われます。

心に残る一冊 その56 「月と6ペンス」

「月と6ペンス」の作家はサマーセット・モーム(Somerset Maugham)。原題は「The Moon and Sixpence」 です。まずはこの小説のストーリーです。ロンドンの一株式仲買人であるストリックランド(Charles Strickland)という平凡な家庭人が主人公です。この四十男が突然ものに憑かれたように、自分は絵を描くのだと言い出し、妻子を棄てて出奔します。いろいろな徘徊を重ねて、やがて太平洋タヒチ島(Tahiti)にわたり、最後はライ病(leprosy)にかかりながら、会心の大作を残して亡くなります。

次のような情景があります。ライ病に罹ったストリックランドは自分が納得する果物の絵を描きます。側には、現地人の娘のアタ(Ata)がかいがいしく寄り添います。当時この辺の島では隔離ということが厳しく行われていなかったので、ライ病患者は自分が望めば、自由に居住することが許されていたようです。

「俺は山の中に入る」 ストリックランドはいった。
するとアタは、さっと立ち上がって、彼と向かい合った。

 「ほかのものは、行きたけりや、行かせていいけど、わたしはあんたを放したりはしないわ。あんたは私の男で、わたしはあんたの女だもの。あんたがわたしをおいて行くのなら、わたし、家の裏にあるあの木で首を吊ってしまう。神様に誓ってもいいわ。」

一瞬、ストリックランドの剛毅さがぐらつき、両の目が涙で一杯になり頬を伝わって流れます。

主人公ストリックランドの遍歴からは、人は決して首尾一貫した存在ではないこと、善人と思われる者も、実はとんでもない悪の因子を秘めていること、逆に悪人であってもどうにかすると珠玉のような善の要素をもっているのだということが語られます。表から見ただけでは人間はわからない存在であることをモームはストリックランドを通して言わせています。

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心に残る一冊 その55 「風と共に去りぬ」

アメリカ南北戦争(American Civil War)時代を舞台とするリアリズムの歴史小説といわれるのがこの作品です。原題は「Gone with the Wind」。出版は1936年です。作者はマーガレット・ミッチエル(Margaret Mitchell)。映画にもなりました。南北戦争は1861年から4年間続きます。

Olivia de Havilland and Hattie McDaniel, featured here in a scene still from “Gone with the Wind,” were both nominated in the Supporting Actress category at the 12th Academy Awards®. McDaniel won the Oscar® for her role as Mammy in the 1939 film. Restored by Nick & jane for Dr. Macro’s High Quality Movie Scans Website: http:www.doctormacro.com. Enjoy!

北軍(Union)と南軍(Confederate Army)の戦いによる南軍の敗北、破壊と再建というアメリカで最も激動の時代を描きます。そこに生きたのが、美貌で勝気な気性の少女スカーレット・オハラ(Scarette O’hara)です。彼女を巡る愛欲関係と激動する社会を南部人の立場から描いています。

ジョージア州(Georgia)アトランタ(Atlanta)は南部の心臓部です。そこに近いタラ(Tara)に大農場主オハラ家の娘がスカーレットです。しかし、スカーレットは、近くに農場を持つウィルクス家(The Wilkes)の長男、アシュレイ(Ashley)の貴族的で優雅な文化と教養に惹かれます。アシュレイにはメラニー(Melanie Hamilton)という献身的で寛容な妻がいます。

緒戦は南軍が優勢でした。綿花を中心に農業を中心として富を貯え、さらに多くの優秀な指揮官がいたこと、奴隷制を維持し南部の生き方を守る、侵攻してくる北軍から郷土を守るといった明確な目的があるため士気が高かったといわれます。戦争が長期化するにつれて、装備、人口、工業力など総合力に優れた北軍が優勢に立つようになっていきます。

もう一人の主人公がレット・バトラー(Rhett Butler)。すでに南軍の敗北を予見し、戦争を馬鹿げた浪費だといって、密輸入によって巨利をしめる大胆な男です。スカーレットの前に現れては、独特のやり方で求愛し、やがて二人は結ばれ娘をもうけます。しかしスカーレットは娘を失います。自分を姉のように慕っていたメラニーまでが流産により命を落とします。死の床のメラニーに指摘されて初めて自分が愛しているのはアシュレイではなくレットだということを自覚します。

メラニーによって、スカーレットはそれまで何かを探していた自分のその何かがようやく見つかったと思い急いで帰宅し、レットに愛を打ち明けるのですが、レットはすでにスカーレットに疲れきっていました。もはやスカーレットを愛してはいないことを説明し、故郷に帰ってしまいます。娘とレットとメラニーを失い、ついに孤独となったスカーレットは、タラの地にて再出発の一歩を踏み出そうと決意します。

心に残る一冊 その54 「登と赤ひげ」

「赤ひげ診療譚」の続きです。小石川養生所の医師、新出去定は赤ひげ先生とあだ名されています。治療は手荒く、言葉もきわめて辛辣で乱暴です。見習いでやってきた保本登はその言動をじっと見ています。去定は徹底した合理主義者です。「医術がもっとすすめば事態は変わるだろう。だがそれでもその個体の持っている生命力を凌ぐことはできないだろう。」このように生きることの畏敬の念が去定の行動を支えていることを登は感じていきます。

あるとき、狂女といわれた住人の精神障害の原因究明を去定は登に命じます。それは生い立ちから今に至るまでの生活歴を徹底的に調べるということです。登は患者と面談をしながら、狂いがいじめやいやがらせを避けるための見せかけの振る舞いであることに行きつきます。そうした行為には貧しさと無知があることに気がつき、去定の医術に対する姿勢に私淑していくのです。

またあるとき、登は五郎吉とおふみという夫婦の一家心中に出会います。4人の子どもとともに鼠いらずを飲むのです。この家族は息つく暇もないほどの貧乏暮らしをしています。長屋では隣近所で兄弟以上の付き合いをしながらも死ななければならないほどだったのです。おふみは枕の上でゆらゆらとかぶりを振りながら登にいいます。

「子ども達も人並みに育てることは出来ない。育てるどころか、長次には盗みを教えてきたようなものだ。親たちからあたしたち夫婦、そしてこのままいけば子どもまで同じ苦しみを背負わなければならない。もうたくさん、もうこれ以上本当にたくさんだ、、」

「もし、あたしたちが助かったとして、そのあとはどうなるんでしょうか。これまでの苦労がいくらかでも軽くなるんでしょうか。そういう望が少しでもあったんでしょうか。」

登は不幸や貧困や病苦の姿から、そこに現れる庶民の赤裸々な生き様を見ます。そして養生所に残る決意をします。赤ひげは登の延長上にいるようです。何十年かの後の登は、まさに赤ひげであるかのような予感がしてくるのです。

心に残る一冊 その53 「ノルウェイの森」

「分厚い雨雲をくぐり抜けて着地すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れ始めた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズ(Beatles) の「ノルウェイの森」(Norwegian Wood)だった。」

この小説は、私の愛読書にはいるかどうかは今も定かではないのですが、主人公のワタナベの不真面目さと真面目さがまざって、それでいて青春の苦悩が伝わります。愛する者との別れと喪失感、そして再生への歩みが、とりまく恋人、友人、先輩によって語られます。たしかに、興味のある小説です。ですが「チボー家の人々」や「三太郎の日記」の主人公とは違って社会を変えようとしたり、変革しようとする思想は薄いような印象です。

「今では僕の脳裏に浮かぶのはその草原の風景だ。風の匂い、かすかな冷やかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがまず最初に浮かび上がってくる。とてもくっきりと。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。」

「ここのいちばん良いところはね、みんなが助け合うことなの。みんな自分が不完全だということを知っているから、お互いを助けあおうとするの。他のところはそうじゃないのよ。残念ながら。他のところでは医者はあくまで医者で、患者はあくまで患者なの。患者は医者に助けを請い、医者は患者を助けてあげるの。でもここでは、私たちは助けあうの。」

このような記述からは、社会もこのような助け合いの仕組みと人々の意識が必要ではないかと、作者はワタナベをして主張します。なにかしらこの主人公は作者本人の化身ではないかとさえ思えてきます。直子、レイコ、キズキ、緑、永沢らはそれぞれ個性的で、20歳のワタナベが成長するのを支えているようです。

心に残る一冊 その52 「赤ひげ診療譚」

主人公は赤髭先生の新出去定か、医員見習の保本登なのかは定かではありません。山本周五郎の有名な作品です。貧しく蒙昧な最下層の男女のなかに埋もれる幻滅から、登は赤髭に抵抗するのですが、彼の一見乱暴な言動に脈打つ強靱な精神に抗いながらも次第に私淑し成長していきます。

長崎での遊学で蘭学を勉強した登は、幕府の表御番医や御目見医を目指して、勇躍江戸にやってきます。だが、同じく町医者であった父親が、小石川養生所で新出去定から教えを受けるように登に言いつけるのです。登はふてくされ、周りの者を卑下し自分のプライドをぶら下げて、一刻もはやく養生所を出ようとします。養生所にやってくるのは誰も行き場所がなく、棄民のような姿です。暑い最中、赤髭に同行し回診しながら江戸に暮らす庶民の生活を知ります。その道すがら、赤髭は登に語るのです。

現在、われわれにできることで、まずやらなければならないことは、貧困と無知に対するたたかいだ。貧困と無知に勝ってゆくことで、医術の不足を補うほかない。

それは政治の問題だという云うだろう。誰でもそう云って済ましている。だがこれまでかって政治が貧困や無知に対してなにかしたことがあるか。貧困だけに限ってもいい。江戸開府このかた、幾千百という法令がでた。しかし、その中に人間を貧困のままにして置いてはならない、という箇条が一度でも示された例があるか、、、、

貧しい人間が病気になるのは大部分が食事が粗悪なためだ。金持ちや大名が病むのはたいてい美味の過食ときまっている。世の中に貪食で身を滅ぼすほどあさましいものはない。あの恰好を見ると俺は胸が悪くなる。

このようの赤髭は登に述懐するのです。

山本周五郎の多くの作品は、江戸時代に材をとっています。武士の哀感や市井の人々の悲喜を描いています。後に触れますが、「日本婦道記」とか「釣忍」などの作品に人間模様が克明に写しだされています。その世界は義理人情ではなく、命の尊厳とか人間性の回復ということがテーマとなっているようです。庶民の側に立った稀有の反権力者ともいえそうな作家です。

心に残る一冊 その51 エマソンと「自己信頼」

ラルフ・エマソン(Ralph Emerson) は、1800年代に主としてマサチューセッツ(Commonwealth of Massachusetts)で活躍した思想家、哲学者、作家、詩人です。彼を「自己啓発の祖」などと呼ぶ人もいます。本人は「そんな呼び名はどうでもよい」と思っているでしょうが、、、、彼の業績を称えるように全米各地に「Emerson」や「Thoreau」のついた小中学校があります。

「自己信頼(Self Reliance」という彼の著作があります。これを紹介してみます。私がこの本を読んで一番感じ入った言葉があります。

「人間は臆病で弁解ばかりしている。すっかり自信を失い、自分はこう思うとか私はこうだ、といいきる勇気もなく、どこかの聖人や賢人の言葉を引用している。」

「心に残る一冊」を通して、私も他人の信条や思想に共鳴しながらこのシリーズを描いているのでエマソンのこの言葉に少々狼狽えます。

「私たちは吟遊詩人や賢者たちが放つ目も眩むような輝きよりも、自分の内側でほのかに輝いている光を見つけ、観察するべきだ。人は自分の考えをそれが自分のものだ、という理由で無造作に片付けてしまう。そして天才の仕事をみるたびに、そこに自分が却下した考えがあることに気づく。これは、優れた芸術作品を前にしたとき、私たちが学ぶ最大のことに違いない。これらの作品は、たとえ周囲のすべてが反対していようとも、にこやかに、しかし断固として自分の中に自然に湧き上がってくる印象に従うべき、と教えてくれる。」

自分の印象や考えを徹底的に信じ生きることが大切だとエマソンはいうのです。

「さもなければ、翌日にはあなたがいつも考え、感じてきたものと全く同じことをどこかの誰かが言葉巧みに語り出し、あなたは恥じ入りながら、自分の意見を他人から頂戴する羽目になる。」

エマソンの主張する自己信頼とは、利己心とは違うようです。彼のいう自己信頼とは、自己(ego)ではなく、自分の中に住む普遍的な存在を指しているようです。これは精神の自律ともいうべき境地かもしれません

心に残る一冊 その50 「西部戦線異状なし」

原題は「Im Westen nichts Neues」、英語は「All Quiet on the Western Front」という小説です。作者はドイツ人エーリヒ・レマーク(Erich Remark)。第一次世界大戦が始まったのは1914年8月です。それらか4年間の戦いで集結しますが、フランス、ドイツ、イギリス、カナダ、アメリカらの兵士や市民あわせて326万人が犠牲となります。

この小説は、兵士達の勇敢で英雄的な行為を賛美するものではなく、兵士達が置かれた過酷な状況を描いています。絶え間ない砲撃や爆撃の不安、戦いの間の単調な時間、食糧難、訓練不足の兵士の消耗や生死が語られます。主人公はポール・ボイマー(Paul Baumer)というドイツ軍兵士です。学校の教師から従軍するようにかきたてられて入隊するのです。作者レマークも従軍し負傷して戦線を離脱してからこの小説を書いたといわれます。ポールとはレマークのことのようです。22か国語に翻訳され250万部も売れたといわれます。

西部戦線は、ドイツとフランスの国境沿いのことです。ルクセンブルグ(Luxembourg)、ベルギー(Belgium)をまたぐフランスの重要な防御線です。この西部戦線ではドイツとフランス軍が対峙し、一進一退の突撃や塹壕線が続きます。この膠着状態を打開するために始めて毒ガス、飛行機や戦車が投入されます。

ポールはある時、偵察を志願しそこでドイツ兵と白兵戦になり始めて相手を殺すのです。長く苦しむ兵士を目の当たりにして、彼のうえに悔いや良心の呵責、そして赦しの感情がこみ上げてくるです。

心に残る一冊 その49 「風土–人間学的考察」

私の小さな本棚に岩波書店からでた「風土–人間学的考察」があります。昭和45年の第37版というものです。いかに世間で読まれてきた本かがわかります。著者は和辻哲郎。題名が示すように、人を取り巻くさまざまな現象の中に自然科学の対象ではない「風土」という概念を持ち込んで、人を風土における「関係」という視点で考察するのがこの本の中心テーマのようです。一般に風土の現象といいますと、人は単に風土に規定されるのみでなく、人は風土に働きかけてそれを変化させると考えられています。

和辻は、風土に関連して子どもと保護者の関係をかなり難解に説いています。ここでは私なりに「人を子どもとし、保護者や家族を風土として置き換えて」考えることにします。子どもは保護者によって完全に規定される存在ではありません。子どもには天賦の才能が備わっています。モンテッソーリ(Maria Montessori)はそれを秩序感と言っています。子どもの才能については様々に言われるのですが、この才能は保護者という風土が育み伸ばすものと考えられます。

子どは保護者の庇護にあり、保護者を変えたりすることができません。ですが、本来の生きることへの志向性があります。それをどのようの伸ばすかは、保護者や家族という風土にあるのではないかと考えられます。ここでの風土とは、時間を経て形成された暗黙のうちに他の時代にも受け入れられる普遍的なものです。

和辻は子どもと保護者という関係から論を進めて、次のように人間、男と女の存在をとらえます。
「人間の第一の規定は個人にして社会であること、すなわち「間柄」における人である。人の「間」とは、アリストテレス(Aristoteles)も指摘したように、男と女との「間」である。男といい女という区別は、すでにこの「間」において把握せられている。すなわち「間」における一つの役目が男であり、他の役目が女である。この役目を持ち得ない「人」はいまだ男にも女にも成っていないのであり、男にも女にも成っていないものをいくら結合させてもそこに「男女の間」は成立しない。」

子どもを育てることは、男女のそれぞれに役目によってなされるのであり、そのことによって、子どももまた個人にして社会であるという「間柄」における存在として大人になるというのです。子どもをどのように育てるかは、もはや一家族のしつけや教育の方針に規定されるのではないというのが和辻の主張であります。

心に残る一冊 その48 「方法序説」 Discourse on the Method

フランスの思想家は日本人に知られ、思想界に広く影響を与えてきたように思えます。その代表といえばジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)、ヴォルテール(Voltaire)、シャルル・モンテスキュー(Charles Montesquieu)などの啓蒙主義を代表する人物です。さらにミッシェル・フーコ(Michel Foucault) 、オーギュスト・コント(Auguste Comte)など多彩な思想家を生んだのがフランスです。

どうしてこうした思想家が輩出したのでしょうか。それはフランスの教育制度にあるような気がします。フランスの学校は基礎知識を徹底的に教え込むのです。そして考える力や文章力をつけるということを指摘したのは「遙かなノートルダム」の作者森有正氏です。「方法序説」の原題はフランス語ですが、英語では「Discourse on the Method」とあります。「方法に関する講話」とでも訳しておきましょう。

デカルト(Rene Descartes)は少しでも疑わしいものは一応真理でないとして退け、まったく白紙から始めようと提案します。これは私にとって非常に興味をかきたてられる言葉です。彼はさらに言います。「違う文化を見るべし」とか「常識を無条件に受け入れるな」と。ところが、どうしても疑えない真理として彼に残ったのは、自分が疑っているという事実であり、疑うところの「わたし」の存在でありました。こうしてデカルトは「わたしは考える。だからわたしは存在する」ということを哲学の第一原理として宣言します。ここにデカルトの偉大な貢献があります。

「方法序説」は、デカルトの哲学を概略的に理解できる格好の書物です。彼の思想的な発展のあとをたどることができ、その考え方は現在にもに通じ応用することができるという意味で、この本の価値は大といえます。そのことを少しだけ解説してみましょう。

デカルトは自分自身の論理は、次の4つに集約されると主張します。
1) 真実だと明白に認識しない限り、真実とは受け取らない。
2) 問題は常に小部分に分解して解決する。
3) 単純なものから、複雑なものに順を追って解決する。
4) 思考に落ち度がないかどうか、確証を得る。

「われわれは嬰児として理性をよく使えないうちから、感覚するものについて真偽さまざまに判断をくだしているし、そうして出来てしまった多くの考えが、いま真理を知るさまたげとなっている。そういう考えからまぬがれるためには、いつか一度、少しでもたしかでないと思われるものは、みんな疑ってみるよりほかに仕方がないように思われる。」

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心に残る一冊 その47  「Transcendentalism」とエマソン

前回、ヘンリー・ソーロ(Henry D. Thoreau)の自然の中での簡素な生活の可能性を描いたことを綴りました。私の関心は、なぜ「自然からの崇高な啓示」を受けたのかであります。ソーロは奴隷制に反対し、「支配しない政府が最上の政府である」といった市民としての主権を主張もします。こうした思想の背景には、ハーヴァード大学で学んだこと、学校の教師についた経験があることなどが考えられます。ハーヴァード大学(Harvard University) はもともとは聖職者や指導者を養成する機関でありました。マサチューセッツ州の学校では体罰も容認されていました。こうした教育界の伝統にソーロは疑問を持ちます。

当時、マサチューセッツで文筆をふるっていたのがエマソン(Ralph Emerson) です。ハーヴァード大学の神学部を卒業し、やがてボストンにあったユニテリアン教会(Unitarian church)の副牧師となります。同時に州議会で儀式を執り行うチャプレン(chaplain)ともなります。エマソン父親もユニテリアン派の教職者でした。しかし、エマソンは次第に教会の組織や伝統、しきたりに懐疑的となり、もっと自由な立場で考え行動しようとして聖職を辞任するのです。ユニテリアンの信条は、「個人の思想信仰は権威への服従からではなく追求の結果から生じる」という宗教と哲学の折衷でまとまっています。

エマソンは同士とともに、1836年9月に「超越主義」を標榜する”Transcendental Club”という同好会を結成します。超越主義とは「先験主義」ともいわれ、人々を駆り立てるものは「思慮深い静寂」といった超越の体験(transcendentalism)であるという、ある種神秘的な考え方です。

私たちは、生命を受け継ぎながら、部分や単位に分断された状態で生きている。その一方で、人間の内には、全体としての魂、普遍の美が存在し、どの部分どの単位も一様にそこに繋がって、永遠なる一つを成している。

こうしたニューイングランドを中心に起った理想主義運動は、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する理神論,信仰による義認や予定説であるカルビニズム(Calvinism)などに反対します。カルビニズムはフランスの神学者であったJean Calvinの信仰思想のことです。そして認識や知識、真理の性質とかその起源、さらには人が理解できる限界などについて考察する認識論においては直観を重んじます。倫理的には人道主義や個人主義の立場に立ち,宗教的にはユニテリアン派に属する考え方といわれます。どこか汎神論的傾向が感じられます。

心に残る一冊 その46 「ワルデンー森の生活」

ボストン(Boston)から車で北西20キロのところ。独立戦争の口火を切った古戦場の一つ、レキシントン・コンコード(Lexington-Concord)があります。舞台は1775年頃です。このあたりは広大な森が広がり、そのあちこちに湿地や池などが点在します。ニューイングランド(New England)と呼ばれます。1845年、ヘンリー・ソーロ(Henry D. Thoreau)は、教育手段として使われていた笞打ちに反対し教師を辞任し、ここにあるワルデン池 (Walden Pond)のそばに簡素な家を建て、森の中でひとり2年余りの自給自足の生活を始めます。ソーロはアメリカの随筆家です。

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Henry D. Thoreau

1854年に出版されたソーロの「ワルデンー森の生活 (Walden, Life in the Woods)」は、ニューイングランドでの生活の記録です。自然のなかにその身を置いて、自然とともに生きることの意味を語っています。大事だと思われることは、ソーロにとって自然とはワルデン池と周りに広がる森という自然だけではないことです。自分自身が文明化され機械化されつつあるアメリカにあって、より自然体でいきることの意義を探すのです。自然体とは、生活に必要な最低限のものを自力で手に入れて生きることを意味します。ソーロは人間はそれができるのだと訴えます。

「素晴らしい絵を描き、彫像を刻むこと、こうした創造の能力は良いものです。けれど、人が生きて、描き、練り、暮らしを良くする芸術ほど、輝かしい芸術はないでしょう。日々の暮らしの質を高めることこそ最高の芸術ではありませんか。」

文明化した人の人生の目的が、未開の人のそれと比べ、格段の価値があるとはいえないとソーロはいいます。暮らしに必要な物と心地よさを追い求めることで十分だ、というのです。適量の豊かさで良いのではないか、、、このような暮らしをしていて、なぜ人頭税などを払う必要があるのか、とも訴え逮捕されたりします。

ソーロと同じ時期に執筆活動で活躍したアメリカを代表するといわれる文筆家で思想家が、エマソン(Ralph W. Emerson)です。彼もソーロと同じくハーヴァードを卒業し、一時牧師となります。教職を辞してからはコンコードに住むのです。「地としての世界の中に自分の理性に見えるとおりの意味を正直に読み取ろうという自己信頼の思想」を強調します。

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心に残る一冊 その45 「エミール」

架空の「エミール(Emile)」という金持ちの孤児で健康な少年を著者のルソー(Jean-Jacques Rousseau)が育てていくという設定で書かれています。誕生から年令にそって、子どもに何をどう教えるべきか、そして一人前の人間としてどのように育てるかという教育論が語られます。

ルソーはエミールをして、人間は生まれつき善良であることを知り、そのことによって自分自身によって隣人を判断できるのが大事だと説きます。社会がどのように人間を堕落させていくのか、人々の偏見のうちに社会のあらゆる不徳の源がなんであるか、個人の一人ひとりが尊敬を払うことの大切さも説きます。当時の教会を中心とする価値観や伝統などの慣習から解放され、個人の自由を理想とするとことを訴えます。

「神は、人間が自分で選択して、悪いことではなくよいことをするように、人間を自由な者にしたのだ。神は人間にいろいろな能力をあたえ、それを正しくもちいることによってその選択ができるような状態に人間をおいている。」

「学問の研究にふさわしい時期があるのと同様に、世間のしきたりを十分によく理解するのに適当な時期がある。あまりに若い時にそういうしきたりを学ぶ者は、一生のあいだそれに従っていても、選択することもなく、反省することもなく、自信はもっていても、自分がしていることを十分に知ることもない。しかし、それを学び、さらにその理由を知る者は、もっと豊かな見識をもって、それゆえにまた、もっと適切で優美なやり方でそれに従うことになる。」

伝統やしきたりで縛られる不幸な社会に生まれる子どもを、いかに「自然人」として育てあげるか。ルソーは「人間はもともと自由なものとして生まれた」というテーゼから論じています。

ルソーは、「自然による教育、人間による教育、事物による教育」という三つの柱を示しています。自然による教育とは、これは子どもの成長のことです。人間による教育は教師や大人による教育です。事物による教育は外界に関する経験から学ぶということだと主張します。