心に残る名曲 その百七十六 ディランの歌詞と翻訳の難しさ

英語を母国語としない私は、英文を翻訳するときも日本文を英文にするときも苦しみます。ディランの歌詞を把握するのにはもっと大きな壁があります。翻訳するときはいくら文章を直訳しても、歌詞の響きや連想される他の言葉や印象は伝わらないのです。歌詞には韻を踏むという修辞も翻訳を難しくします。さらに難しくするのはディランの歌詞には、英語としても「意味不明」なものがあることです。それは言葉の表面的な意味だけではなく、その言葉が思い起こさせるイメージや感情などが秘められているだろうからです。そこが解明できなく居心地が悪いのです。

Half wrecked prejudice leaped forth
Rip down all hate,” I screamed
Lies that life is black and white
Spoke from my skull I dreamed

このような意味不明さと預言のような歌詞を前にして、それを翻訳しようとするのは容易ではありません。訳したとしても自分は意味がつかめないのです。そのときは開き直るほかありません。「言葉によってディランを理解する必要はない」というようにです。わたしたちが葬儀でお経を聴くとき、その言葉や内容を理解できなくても、死者への弔いの言葉であることが分かるのと同じです。

Bob Dylan

幸いにして、「Blow in the Wind」の歌詞には戦争の空しさと同時に自由への憧れが伝わり、時空や文化を超えた普遍性や預言者のようなメッセージを感じます。「Forever Young」という歌詞には祈りが込められています。誰が歌っても不自然にきこえません。小さな子どもでも年寄りが歌ってもよいようです。「We Are the World」もそうです「正しく、勇気を抱いて強くいきることが若さだ」というのです。Blow in the windとForever young の歌詞です。

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
How many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes, ‘n’ how many times must the cannon balls fly
Before they’re forever banned?
The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind

 May you grow up to be righteous
  May you grow up to be true
  May you always know the truth
  And see the light surrounding you
 May you always be courageous
  Stand upright and be strong
  May you stay forever young
  Forever young, forever young
 May you stay forever young.

心に残る名曲 その百七十五  ボブ・ディランとウディ・ガスリー

ミネソタ州のダルース(Duluth)はカナダの国境近くにありスペリオル湖(Lake Superior)の側にある小さな町です。ディランは、この地で育ちフォークソングライターであったウディ・ガスリー(Woodrow Guthrie)の音楽の中に、一生でも歌い続けることができると感じるほどの大きな衝撃を受けます。

ディランは「曲作りを通して社会を変革しようと考えたことは一度もない」と云っています。彼の目的は、それまでのロックスターと違い、ヒットチャートで成功を収めることではありませんでした。「ぼくはひたむきに打ち込むアーティストを賞賛し、彼らから学ぶ」というのです。ウディ・ガスリーはアメリカの理想と現実の隔絶を自分が体験し、それを歌にして雄弁に語ります。ディランは続けます。「ガスリーの歌はいちどきにたくさんのことを語る。金持ちと貧乏人、黒人と白人、人生のよいときと悪いとき、学校で教えていることと実際におこっていることの違いについて歌う。ガスリーは歌の中ですべてを語り尽くしているとぼくは感じる。なぜそう感じるかはわからない。」

ディランの歌詞(lyrics)について、「なにを云いたいのかがわからない、独りよがりのただのことば遊びのようだ」と批判する者もいます。例えば、1960年代の半ばに作られた「Just like a woman」の歌詞の出だしは次のようです。

Nobody feels any pain
 Tonight as I stand inside the rain
  Ev’rybody knows
   That Baby’s got new clothes
  But lately I see her ribbons and her bows
   Have fallen from her curls

【直訳】
自分は今夜、雨の中に佇んでも誰も傷みを感じない
 誰もがその赤児が真新しい服を着ているのを知っている
  だがリボンと蝶々結びが髪の毛から落ちてくる

心に残る名曲 その百七十四 ウディ・ガスリー 「Dust Bowl Refugee」

ボブ・ディランに大きな影響を与えたフォーク歌手・作詞家・作曲家がウッドロウ・ガスリー(Woodrow “Woody” Guthrie)です。1912年オクラホマ(Oklahoma)州生まれ。14歳の時母親が死去し一家は離散し、17歳頃に彼はアメリカ中を一時雇いの労働者として放浪します。1930年代はアメリカは大恐慌(Great Depression)の時代です。その放浪のなかで、貧困や差別などに翻弄される労働者らの感情を歌にします。ボブ・ディランはウディ・ガスリーについて次のように云っています。
「ぼくにとってウディ・ガスリーは究極だ、」クラブハウスやコーヒーショップを回っていた頃、ディランは「ウディ・ガスリーのジュークボックス」とあだ名されるほどガスリーの作品を歌っていたといわれます。

Woody Guthrie

ガスリーは19歳のときにテキサスへも行きます。そしてダストボウル(Dust Bowl)が襲ってきます。ダストボウルとは、干ばつと原始的な耕作のために起こる大規模な砂塵嵐のことです。ダストボウルは広い耕地から土をさらい、近くの農場や牧場、遠く離れた州まで土地は砂塵となって舞い上がります。こうして凶作によって、多くの小さい農家が揃って州から逃れざるを得なくなります。砂塵嵐により、周期的な激しい干ばつが襲うのです。土地を追われた農民らは、カリフォルニアに移住するのです。こうしたオクラホマ州の人々はオーキーズ(Okies)と呼ばれ、放浪者(hobo)とか季節労働者となります。ガスリーも1937年にオーキーズの一人としてテキサスに彼の家族を残して、ヒッチハイクをしたり貨物列車に乗り、ロスアンジェルスへ旅立ちます。世界恐慌のいわば真っ直中の頃です。

Dust Bowl

ガスリーは、バーや労働者のストライキの時の組合の集会などにかかわって小銭を稼ぎます。若い時の旅で見た貧困は、のちのガスリーの作品に大いに影響を与ます。ガスリーは生涯、社会主義者かつ労働組合活動家であり、デイリー・ワーカー紙(Daily Worker)という小さな新聞で投稿したりします。1940年にガスリーは彼の最も有名な歌「我が祖国」(This land is your land)を書きます。この曲は彼の放浪中の経験にそっています。このメロディーは、1930年頃にカントリー / ブルーグラスのグループであるザ・カーター・ファミリー(The Carter Family)によって歌われ、最もよく知られたゴスペル「世界が燃える時」(When the World’s On Fire)に基づいています。「Oh, My Loving Brother」、「Hard Traveling」、「Dust Bowl Refugee」など彼の歌の多くが労働者階級が直面する姿を描き、やがて人々を惹き付けていきます。

心に残る名曲 その百七十三  ボブ・ディラン 「風に吹かれて」

2016年10月、「アメリカ音楽の伝統を継承しつつ、新たな詩的表現を生み出した功績」を評価され、歌手としては初めてノーベル文学賞したのがボブ・ディラン(Bob Dylan)です。1941年5月、ミネソタ州の北にあるダルース(Duluth) で生まれます。アシュケナージ系(Ashkenazim)で旧姓はロバート・ツィマーマン(Robert Allen Zimmerman)といいました。1959年9月、奨学金を得てミネソタ大学に入学するも半年後には授業に出席しなくなります。ミネアポリス(Minneapolis)でフォーク・シンガーとしての活動を始め、この時にボブ・ディラン(Bob Dylan)と名乗り始めます。

風に吹かれて」(Blowing in the wind)、「時代は変る」(The Times They Are a-Changin)、「ミスター・タンブリン・マン」(Mr. Tambourine Man)、「ライク・ア・ローリング・ストーン」(Like a Rolling Stones)、「見張塔からずっと」(All Along the Watchtower)「天国への扉」(Knockin’ on Heaven’s Door) 他多数の楽曲により、1962年のレコードデビュー以来半世紀以上にわたり多大な影響を人々に与えてきました。現在でも、「ネヴァー・エンディング・ツアー」(Never ending tour)と呼ばれる年間100公演ほどのライブ活動を中心にして活躍しています。グラミー賞やアカデミー賞をはじめ数々の賞を受賞し、ロックの殿堂入りも果たしています。また2008年にはピューリッツァー賞特別賞を受賞し、長年の活動により2012年に大統領自由勲章を受章します。そうした名声の陰でディランは云います。

「大衆文化は多くの場合、短い時間ですたれる。葬り去られる。ぼくは、レンブラントの絵画と肩を並べるようなことをしたかった。だが、真似をするだけでは駄目だ。誰かの作品が好きならば、その人が接してきたあらゆるものに接することが大切だ。シンガーソングライターになりたい者はできるだけ、たくさんのフォークミュージックを聴いて100年前から続く音楽の形態や構造を学んだほうがいい。ぼくはスティーブン・フォスター(Steven Foster)までさかのぼる」

Joan Baez & Bob Dylan

心に残る名曲 その百七十二 エルマー・バーンスタインと「荒野の七人」

エルマー・バーンスタイン(Elmer Bernstein)は、1922年にニューヨークで生まれた作曲家です。東欧ユダヤ系移民出身で父親はウクライナ人、母親がハンガリー人です。子どもの頃からダンサーや子役として活躍していたようです。やがて音楽に傾倒するようになり、奨学金を得てピアノを学びます。最初はピアニストになるという希望を持つのですが、アメリカ陸軍に徴兵されそこのラジオ局で作曲を始めます。

退役後、1950年にニューヨークから映画産業の中心地ハリウッド(Hollywood)へ移り、映画音楽を手掛けるようになります。やがて200以上の映画音楽を作曲していきます。映画そのものより主題曲のほうが人気があったともいわれるほど親しまれる作品を残します。「十戒」(The Ten Commandments)、「黄金の腕」(The Golden Arm)、「荒野の七人」(The Magnificent Seven)、「大脱走」(The Great Escape)などを作っていきます。

1967年の「モダン・ミリー」(Thoroughly Modern Millie)ではアカデミー作曲賞を受賞します。「荒野の七人」に出演していたのは、Yul Brynner、Steve McQueen、Charles Bronson、Robert Vaughn、Horst Buchholz、James Coburnといったそうそうたる俳優でした。懐かしの男優です。黒澤明の「七人の侍」版というふれ込みでした。

大脱走とスティーブ・マックイーン

心に残る名曲 その百七十一 ジョン・ウィリアムズとE.T.

ジョン・ウィリアムズ(John Williams)はニューヨーク生まれ。E.T.やインディ・ジョーンズの映画音楽を作った作曲家です。ジャズ・ドラム奏者を父として生まれます。1948年に家族はロスアンジェルス(Los Angels)に移住します。そこでテデスコ(Mario Castelnuovo-Tedesco)という人から作曲法を学びます。カリフォルニア大学ロスアンジェルス校(UCLA)でも学び、その後アメリカ空軍に徴兵され、そこでバンドの編曲や指揮をします。

除隊するとニューヨークに戻り、ジュリアード音楽院(Juilliard School of Music)でピアノを学びジャズピアニストとしてナイトクラブで働いたりレコーディングをします。そのときの師匠はレビン(Madame Rosina Lhevinne)という女性です。さらにロスアンジェルスに向かい、ハリウッドのスタジオでピアニストとして働きます。

1970年になるとスピルバーグ(Steven Spielberg)監督映画の主題曲を作曲していきます。 1975年の「ジョーズ」(Jaws)、 1977年からの「スターウオーズ」(Star Wars)、1981年からの「インディ・ジョーンズ」(Indiana Jones)、1982年の「E.T.」(The Extra-Terrestrial)、1993年の「ジュラシックパーク」(Jurassic Park)、そして1998年に作られた戦争映画の「プライぺート・ライアン」(Saving Private Ryan)、2001年からの「ハリー・ポッター」(Harry Potter)などの主題曲です。

「スター・ウォーズ」や「インディ・ジョーンズ」 などでは華々しく、かつロマンティックで陽気なサウンドを生み出す「ジュラシック・パーク」、「シンドラーのリスト」(Schindler’s List)、「プライぺート・ライアン」では映画の内容に相応しい重厚な、といいいますか、冷静な旋律を作っています。

ウィリアムズは、1980年にボストン・ポップス・オーケストラ(Boston Pops Orchestra)の第19代の指揮者として迎えられます。前任者は絶大な人気を誇ったアーサー・フィドラー(Arthur Fiedler)でした。そのほか、クリーブランド・オーケストラ(Cleveland Orchestra)、シカゴ交響楽団(Chicago Symphony Orchestra)、ニューヨーク・フィルフィルハーモニー(New York Philharmonic)なども指揮しています。

心に残る名曲 その百七十  バーナード・ハーマンと「めまい」

懐かしい映画を振り返るようなブログになっています。その映画には忘れられないサウンドトラック音楽が脳裏にあります。映画と音楽は一体です。淋しいことには、最近は映画館にでかけないことです。どうしても観たいというのが探しきれていません。

バーナード・ハーマンの出生名マックス・ハーマン(Max Herman)。ニューヨークのブロンクス(Bronx)でロシア出身のユダヤ移民一世の家庭に生まれます。後に、ファーストネームをHermanと改め、姓をドイツ語読みに習いHerrmannと改めたといわれます。

Alfred Hitchcock

ニューヨーク大学(New York University)で作曲学や指揮法を学びます。ジュリアード音楽院を卒業後、1934年には当時アメリカ最大のラジオ曲CBSで編曲者として雇われ、CBS交響楽団の指揮者ともなります。その間、自作を含めて多くを制作し録音します。クラシック作品における自作もステレオで録音していきます。交響曲やクラリネット五重奏曲、オペラ「嵐が丘」、さらにはカンタータなどを残すという多彩な才能を発揮します。

1941年にはオーソン・ウエルズ(Orson Welles)作の「市民ケーン」(Citizen Kane)の音楽を担当します。さらにアルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)作の「サイコ」(Psycho) 、「北北西に進路をとれ」(North by Northwest)、「めまい」(Vertigo)などの映画音楽も作曲して有名になります。

ヒッチコックの映画でハーマンは電子音を使うという革新的な試みをします。テルミン(theremin)というロシアで作られた電磁波を使った電子楽器での音楽です。テルミンの醸し出す少々不気味なサウンドで映画史で最も効果的な演出をしたのがヒッチコックといわれます。

心に残る名曲 その百六十九  ジョン・バリーと007

ジョン・バリー(ohn Barry)はイングランドのヨーク市(York)で生まれた映画音楽の作曲家です。100本以上の映画やテレビ劇などの曲を作っています。

特にイアン・フレミング(Ian Fleming)のスパイ映画、ジェームス・ボンド(James Bond)作品と音楽は知られています。ボンドはイギリス秘密情報部(MI6) の工作員。超人的なスパイです。「ロシアから愛をこめて」(From Russia with Love)、「ドクター・ノオ」(Doctor No)、 「007ゴールドフィンガー」(Goldfinger)、「007サンダーボール作戦」(Thunderball)、「女王陛下の007」(On Her Majesty’s Secret Service)、「007は二度死ぬ」(You Only Live Twice)などの名作のサンドラトラックを作ります。

歴代のボンド

ジョン・バリーの作風を評して「神の手を持つ」などとも云われることがあります。豪華なオーケストレーションで知られ、旋律も親しみやすいのが特徴です。スクリーン上で興奮を高めるようなメロディで007を音で描いています。

心に残る名曲 その百六十八 ヘンリー・マンシーニ 「Exodus」

ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancini)のもともとの名は「Enrico Mancini」。名前のとおりイタリア系アメリカ人です。1924年にオハイオ州のクリーブランド(Cleveland)で生まれます。高校を卒業後、スウィング・ジャズの代名詞といわれたベニー・グッドマン(Benny Goodman)の勧めでニューヨークへ行き、ジュリアード音楽院(Juilliard School) に進学します。「ジュリアード」といえば全米屈指の音楽大学です。

「ひまわり」から

第二次世界大戦では空軍に所属し、マーチングバンドでも活躍します。グレン・ミラー(Glenn Miller)の誘いでミラーのバンドに入り、ピアニストと編曲者として活躍します。マンシーニの楽想のスタイルは、ジャズの要素を交えながらも、オーケストラによる抒情や哀愁に満ちたメロディで知られています。

「ロベレ将軍」から

1954年の映画「The Glenn Miller Story 」のテーマ曲から1961年の映画「 Breakfast at Tiffany’s 」の主題曲「Moon River」、1962年の「Days of Wine and Roses」、イスラエル建国の歴史映画「Exodus」、 1963年の「Charade」、20世紀後半を代表するコメディ映画の大ヒット「Pink Panther」、そして、少し毛色が変わりますが、サスペンス・テレビ映画「刑事コロンボ」(Columbo)のテーマ曲も作ります。

刑事コロンボ

心に残る名曲 その百六十七 モーリス・ジャール 「Lara’s Theme」

古今の映画には必ずテーマとなる音楽ーサウンドトラックがついています。それが映画の一つの楽しみとなります。モーリス・ジャール(Maurice Jarre)という作曲家もいろいろの作品を残しています。

1924年、フランスのリオン (Lyon)で生まれます。ジャールが注目されたのは、1962年のイギリスの歴史映画「アラビアのロレンス」(Lawrence of Arabia)の音楽を担当したときです。デヴィッド・リーン(David Lean)が監督をつとめました。初期のジャールの映画音楽は、映画作家であった同じくフランス人のジョルジュ・フランジュ(Georges Franju)とのコラボレーションとなったことで知られています。

その後、「史上最大の作戦」(The Longest Day)、 1965年の「ドクトル・ジバゴ」(Doctor Zhivago)の「ララのテーマ」(Lara’s Theme)、1984年の「インドへの道」(A Passage to India)をはじめ、150余りの映画音楽を作曲していきます。アカデミー賞作曲賞には9回ノミネートされ、3回受賞しています。2005年のヨーロッパ映画賞で、音楽家として初となる世界的貢献賞を授与される有名な作曲家です。

心に残る名曲 その百六十六  ディミトリー・ティオムキン 「High Noon」

作曲家、ディミトリー・ティオムキン(Dimitri Tiomkin)は、ハリウッド映画音楽に偉大な功績を残した人です。マックス・スタイナー(Max Steiner)、ミクロス・ロージャ(Miklos Rozsa)とならぶ作曲家でもあります。

ロシア帝国領ウクライナ(Ukraine)のクレメンチューク(Kremenchuk)で生まれ、サンクトペテルブルク音楽院(St. Petersburg Conservatory)で教育を受けます。音楽院では、ピアノをブルメンフェルド(Felix Blumenfeld)やヴェンゲロヴァ(Isabelle Vengerova) という教師から、作曲はグラズノフ(Alexander Glazunov)から学びます。やがてロシア革命によって音楽人生が脅かされると判断し、両親とともにドイツに移ります。1921年から1923年までベルリン(Berlin)に、そして1924年から1925年までパリ(Paris)に滞在します。1925年にアメリカに移住し1937年に市民権を取得します。

彼は育ちから東欧の音楽の影響を受けますが、フランク・キャプラ監督(Frank Capra)の「失はれた地平線」(Lost Horizon)(1937年)、「我が家の楽園」(You Can’t Take It with You)(1938年)、「スミス都へ行く」(Mr. Smith Goes to Washington)(1939年)、「素晴らしき哉、人生!」(t’s a Wonderful Life)(1946年)のような典型的なアメリカ映画の音楽を作曲していきます。キャプラ監督の作品は、風刺的な喜劇が多いのですが、それ以後はヒューマニズムに満ちた作風で一時代を画します。

代表作にアカデミー作曲賞・アカデミー歌曲賞を受賞したフレッド・ジンネマン監督(Fred Zinneman)の「真昼の決闘」(High Noon)(1952年)があります。ジョン・ウェイン主演の「紅の翼」(The High And The Mighty)(1954年)でも再びアカデミー作曲賞を受賞します。その後もクラシック音楽に基づいた映画音楽を作曲していきます。「ジャイアンツ」(Giant)(1956年)、「友情ある説得」(Friendly Persuasion)(1956年)、「OK牧場の決斗」(Gunfight at the OK Corral )(1957年)、「老人と海」(The Old Man and Sea)(1958年)、「リオ・ブラボー」(Rio Bravo)(1959年)、「アラモ」(The Alamo)(1960年)、「北京の55日」(55 Days at Peking)(1963年)、「ローマ帝国の滅亡」(The Fall of the Roman Empire)(1964年)などです。どれも懐かしい、もう一度観たいものばかりです。

心に残る名曲 その百六十五 リチャード・ロジャーズ 「The King and I」

映画音楽の世界で活躍した作曲家と歌の数々を紹介します。リチャード・ロジャーズ(Richard Rogers)はアメリカの映画音楽家です。ドイツ系のユダヤ人で、父親はニューヨークで内科の医師をしていたようです。元の姓はAbrahams。それをRogersと改姓します。同じユダヤ系であった脚本家で作詞家のオスカー・ハマーシュタイン(Oscar Hammerstein)とコンビで多くのミュージカル音楽を作曲していきます。

コロンビア大学(Columbia University)で学んでからジュリアード音楽院(Juilliard School)で作曲法などを学びます。1943年に最初のミュージカル、オクラホマ(Oklahoma!)を作曲します。この曲は南部の人種差別を取り上げた作品です。それからもハマーシュタインと一緒に数々の作品を作ります。

1945年のブロードウエイ・ミュージカルの回転木馬(carousel) 、1956年の王様と私(The King and I)、1958年の南太平洋(South Pacific)、そして1965年のサウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)などです。その音楽に対して、ピューリッツアー賞(Pulitzer Prize)、エミー賞(Emmy Awards)、グラミー賞(Grammy Awards)、アカデミー賞(Academy Awards)など50以上の賞を受けます。

心に残る名曲 その百六十四  バート・バカラック 「That’s What Friends Are For」

バート・バカラック(Burt Bacharach) は米国の音楽家、作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽プロデューサーです。1928年5月にミズーリ州(Missouri)カンザスシティ(Kansas City)に生まれ、ニューヨーク市クイーンズ区(Queens)で育ちます。ドイツ系ユダヤ人の血をひきます。モントリオール(Montreal)にあるマギル大学(McGill University)のシュリッヒ音楽学部(Shulich School of Music)、ニューヨークのマネス音楽院(Mannes School of Music)、サンタバーバラ(Santa Barbara)のMusic Academy of the Westで学びます。

1957年に作詞家のハル・デヴィッド(Hal David)という作詞家と出会い、由来二人のコンビで多くのヒット曲を発表していきます。 2006年の時点において、米国で70曲のトップ40、英国で52曲のトップ40という実績があります。バカラックのアカデミックな作曲技法は、ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud)、ヘンリー・カウエル(Henry Cowell)といったクラシック音楽の作曲家に師事したことにあるようです。

バカラックは稀代のメロディー・メーカーといわれます。映画音楽でも数々の楽曲を作っています。特にジョージ・ロイヒル (George Roy Hill) 監督の映画「明日に向って撃て」(Butch Cassidy and the Sundance Kid) の主題歌「雨にぬれても 」(Raindrops Keep fallin’ On My Head) はアカデミー主題歌賞を受賞しています。編曲においては、ジャズを出発点としてボサノヴァ(Bossa Nova)の影響が曲風に反映しているようです。「雨にぬれても 」を聴くとそう感じます。モダンな和声と複雑なリズムパターンはバカラックスタイルといわれます。親しみやすいメロディーが随所に感じられます。バカラックの音楽が大衆から人気を得ている由縁です。「That’s What Friends Are For」ではエルトン・ジョンやスティビー・ワンダー(Stevie Wonder)らも歌っています。

明日に向って撃て:ロバートレッドフォードと ポール・ニューマン

That’s What Friends Are For

Keep smiling, keep shining
Knowing you can always count on me, for sure
That’s what friends are for
For good times and bad times
I’ll be on your side forever more
That’s what friends are for

心に残る名曲 その百六十三  エルトン・ジョン 「Your Song」

出生名はレジナルド・ドワイト(Reginald Kenneth Dwight)。エルトン・ジョン(Elton John)は4歳の頃からピアノを弾き始めたようです。その頃から彼は聴いたどんなメロディーも演奏することができたといわれます。彼のピアノ教師によると聴いただけのヘンデルの楽曲を完璧に弾くことができたということです。彼が影響を受けた人物にバッハ(Johann S. Bach)やショパン(Frederic Chopin)がいます。ソングライターでギタリストであったジム・リーブス(Jim Reeves)などがいます。ゴスペル音楽からも影響を受けたといわれます。

ダイアナ妃とジョン・トラボルタ

エルトン・ジョンの1990年代は非常に苦難の時期だったようです、薬物とアルコール依存症、過食症の治療のため入院し矯正施設への入居を経て復帰します。1992年に発表されたアルバム「ザ・ワン」(The One)は、彼のドラッグや酒への依存を克服して復活を告げる作品といわれています。その間、1980年代から1990年代初めにかけて多くの友人や知人などをエイズで亡くします。1992年以降、シングルの収益で設立したエイズ患者救援者団体、「エルトン・ジョン・エイズ基金」(Elton John AIDS Foundation)に寄付していきます。この団体の本部はアトランタ市(Atlanta)にあります。

アンゴラのルアンダにて

1994年には、作詞家、ティム・ライス(Time Rice)と共にディズニー映画「ライオン・キング」(Lion King)の音楽を担当します。このアニメ映画の中で、世界で最も売れたサウンドトラックとなっているのが「愛を感じて」(Can You Feel the Love Tonight)です。この曲はグラミー賞(Grammy Awards)最優秀ポップ男性ボーカル賞とアカデミー歌曲賞を受賞するなど高い評価を受けます。19 98年にはナイトの爵位を授与されます。2000年にはミュージカル「アイーダ」の作曲でトニー賞作曲賞も受けます。

数々の曲を作っては歌っています。「Your Song」、「Goodbye Yellow Brick Road Lyrics」、「Don’t Go Breaking My Heart 」などクラッシックのバラードをして稀代の歌手、作曲家としての評価を樹立していきます。とりわけ、1997年9月のダイアナ元妃 (Diana, Princess of Wales)の葬儀では追悼歌「Goodbye England’s rose」を歌い、そのCD「Candle in the Wind」は全米、全英で3,300万枚の史上最高の売り上げとなった曲です。

ダイアナ元妃 の葬儀で

心に残る名曲 その百六十二 ジェイムズ・ポール・マッカートニ 「Hey Jude」

ポール・マッカートニ(James Paul McCartney)は、いうまでもなくビートルズ(The Beatles)の一員。中心的な歌手であり作曲家です。沢山の曲を作ります。作品では、名義はジョン・レノンとポール・マッカートニとなっていますが、マッカートニがほぼ単独で作詞作曲し、レノンは作詞の一部を手伝ったといわれます。「Hey Jude」もそうです。リード・ボーカルおよびピアノ、後半のリフレイン部分のオーケストラの指揮もマッカートニが担当したようです。

ギネス世界記録(Guinness World Records)によれば、「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として掲載されています。ところでギネス世界記録と認証されるためには、六つの基準を満たす必要があります。その第一は「客観的に計測可能であること」とあります。はたして、マッカートニは「史上最も成功した作曲家」ということのために、どのようにして計測されたのでしょうか。多分、レコードやCDの売れ上げではないでしょうか。世界一の売り上げ、130億円を稼いだ最も富裕な作曲家ということでしょう。まあ、、そんなことは蛇足でありますが、、、他方で、マッカートニは国際的な慈善事業にも関わっています。動物愛護、アザラシ狩禁止、地雷除去、貧困絶滅、菜食主義(vegitarianism)運動などです。

1970年にビートルズは解散します。その後ソリストとして活動し何度も来日しては演奏会を開いています。彼の名前は、James Paul McCartneyですから、ジェイムズ・マッカートニと呼ぶべきなのでしょうが、なぜか洗礼名のポール(Paul)を使って呼ばれています。それから、作品である「Hey Jude」の”Jude”は男性名です。女性名のJudice の愛称ではないか、という人もいますが、歌詞を調べると男性のJudeに対して「Judeよ、彼女を受け入れてやれば良い関係ができるよ、」と諭す歌となっています。1965年の「Yesterday」、1970年リリースの「Let It Be」、「Blackbird/We Can Work It Out」、「Lady Madonna」、「Back in the USSR」、「Michelle」など懐かしい曲です。

心に残る名曲 その百六十一 ジョン・レノン 「Imagine」

現代のイギリスの作曲家や歌手のことです。ジョン・レノン(John Ono Lennon)は1940年、リバプール(Liverpool)生まれのイギリスの歌手、シンガーソングライターです。平和運動家でもありました。十代のときは、スキッフル(skiffle)というジャズやブルース、カントリーミュージックの影響を受けた歌を歌います。やがてビートルズ(The Beatles)を結成し、1960年代の世界的なバンドとして活躍したことは良く知られています。商業的にも史上最も成功したバンドでした。レノンはポール・マッカートニー(Paul McCartney) と一緒に作曲したことでも有名です。

ビートルズにはジョージ・ハリスン(George Harrison)、リンゴ−・スター(Ringo Starr)もいました。1970年に解散されるまで各地でその活動は絶大な人気を博しました。解散後、レノンはソリストとして独立し、ヨーコオノと共にPlastic Ono Bandを結成します。1980年12月のニューヨークはマンハッタン(Manhattan)のアパートで殺されます。

1960年代、ビートルズは音楽と若者文化の発展に大きく貢献したグループといえます。ポップ・カルチャーを広め、ロック・ミュージック、ロックを目指す人々を多大な影響をもたらします。独立した後、レノンの曲は、シンプルな和声の進行と個性的な歌詞に特徴づけられていきます。退廃的であり反戦的なところも歌詞からうかがえます。その他、「Give Peace a Chance」、「Working Class Hero」、「Stand By Me」、「Love」、「Watching The Wheels」など沢山の歌を作曲しています。以下は「Imagine」の歌詞です。

Imagine there’s no Heaven
 It’s easy if you try
  No Hell below us
   Above us only sky
  Imagine all the people
   Living for today…

心に残る名曲 その百六十 アンドルー・ウェバー 「Evita」

これまではクラッシック音楽を主としてとり上げて紹介してきました。趣向をかえて、現代の作曲家、シンガーソングライターなどを紹介していきます。「オペラ座の怪人」(The Phantom of the Opera)、「キャッツ」(Cats)、「エビータ」(Evita)、「Jesus Christ Superstar 」などのミュージカル作品で知られるイングランドの作曲家アンドルー・ウェバー(Andrew Lloyd Webber)のことです。

1948年にロンドンで生まれの作曲家で劇場演出家です。エレキギターを使ったロック調の音楽は、20世紀のイギリスとアメリカのミュージカルを再興させた音楽家といわれます。ウェバーはオックスフォードあるマグダレーンカレッジ(Magdalen College)で学びます。そこでライス(Tim Rice)という作詞家と出会い音楽を作っていきます。

1971年に有名なロックオペラである「Jesus Christ Superstar」を作ります。古典音楽とロック音楽と融合の作品ですが、大きな論争を巻き起こします。それだけ画期的な作品であったということです。次ぎに1978年に作った「Evita」のことです。アルゼンチン(Argentina)のエヴァ・ペロン(Eva Peron)は私生児として生まれながら女優となり、フアン・ ペロン(Juan Peron)大統領と結婚し、ファーストレディとなった後は政治にも介入するようになります。

「Evita」はロンドンにて最も選れた音楽賞としてオリバー賞(Olivier Award)やニューヨークにおいて七つの部門でトニー賞(Tony Awards)を受けます。“You Must Love Me”がアカデミー歌曲賞を受賞します。“Don’t Cry For Me Argentina“とともに マドンナ(Madonna Louise Ciccone)が歌っています。

心に残る名曲  その百五十九 ベンジャミン・ブリトゥン 「青少年のための管弦楽入門」

ブリトゥン、ベンジャミン(Edward Benjamin Britten)は1913年生まれのイギリスの作曲家・指揮者・ピアニストです。17世紀バロック期のヘンリー・パーセル(Henry Purcell)以来の傑出したオペラを作った作曲家といわれます。

12歳で作曲を始めた経歴があります。作品としてオペラ「ピーター・グライムズ」(Peter Grimes)や「シンプル・シンフォニー」(Simple Symphony)、代表作としては、死者のためのミサ曲「戦争レクイエム」(War Requiem)が有名です。パーセルの劇付随音楽『アブデラザール』(Abdelazar) からの主題を引用した「青少年のための管弦楽入門」(The Young Person’s Guide to the Orchestra)はよく知られています。

「青少年のための管弦楽入門」は「アブデラザール」のアンサンブルからなる主題提示部、変奏とフーガからなる展開部、再現部、結尾部の4つから構成されています。題名からわかるように、親しみやすいメロディを前面に出した平明な音楽となっているのが特徴です。

心に残る名曲  その百五十八 グスタフ・ホルスト 「惑星」

グスタフ・ホルスト(Gustav Holst)は1874年生まれのイギリスの作曲家です。スウェーデン・バルト系(Swedish-Baltic)移民の家系の出で、十代のころからすでに作曲を試みていたという記録があります。1893年、ロンドンの王立音楽院(Royal Academy of Music)に入学して正式にスタンフォード(Charles Stanford)に作曲法を学びます。王立音楽院ではトロンボーンも学び、卒業後はオーケストラ奏者として生計を立てていたようです。この学生時代にヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)と知り合います。

Composer Gustav Holst ROYALTY FREE PICTURE FROM CD ACQUIRED BY PICTURE LIBRARY

1905年にロンドンのセントポール女学院(St Paul’s School)の音楽科主任として生涯その職に留まります。若い頃からヒンズー(Hinduism)の文学や哲学に興味を抱き、やがて翻訳では満足できずにロンドン大学でサンスクリット語(Sanskrit)を学び、自ら解釈したといわれます。そのためか、彼の書く作品は東洋的な雰囲気やイングランド各地の民謡の色彩が濃いことが特徴とされます。

ホルストの最も知られた作品は、管弦楽のための組曲「惑星」(The Planets) 作品32です。それぞれにローマ神話に登場する神々にも相当する惑星の名が付けられています。総じて合唱のための曲を多く残しています。オペラや歌曲・ピアノ曲なども多数作っていますが、主に管弦楽曲や吹奏楽曲、弦楽合奏曲が広く知られています。また、吹奏楽曲などでも知られている作曲家です。イギリス人たちからは “パーセル(Henry Purcell)の再来” と評価された作曲家です。 

組曲「惑星」は 7楽章から成る大編成の管弦楽のために書かれた組曲です。最後の「海王星」では舞台裏に配置された女声合唱が使われます。“I Vow to Thee, My Country”もお楽しみください。

心に残る名曲 その百五十七 ジョン・フィールド 「ノクターン」

大英帝国の音楽家というと日本ではあまり馴染みがない、と勘違いをしておりました。調べてみると多士済々なのです。その一人、ジョン・フィールド(John Field)はアイルランド(Irland)の作曲家でピアニストです。生まれは1782年。音楽家の家に生まれ、初めは祖父に音楽を学びます。9歳でジョルダーニ(Tommaso Giordani)に師事します。1793年にロンドンに移り、クレメンティ(Muzio Clementi)に師事しウィーンを経てロシアへ赴きます。

1812年から1836年に書いた18曲の夜想曲といわれるノクターン(nocturne)は古典的な形式を離れ、流麗な旋律と自由な伴奏の考え方により、ノクターンというジャンルの先駆的な手法を示したといわれます。ほかに7つのピアノ協奏曲や幻想曲、ポロネーズがあります。

フィールドの活動は夜想曲の発展に貢献し、後のショパン(Frederic Chopin)に影響を与えたことです。ロシアでの演奏が好評で各地で演奏します。グリンカ(Mikhail Glinka)を指導するなどロシア音楽の発展に大きく寄与したともいわれます。

心に残る名曲  その百五十六 エドワード・エルガー 「Lux Christi」

並み居る英国の作曲家の中でエドワード・エルガー(Edward Elgar)が最もポピュラーではないでしょうか。なんといっても「Pomp & Circumstance Marchi in D Major」は誰もが一度や二度は聴いたことがある曲です。父はオルガン奏者で楽譜の販売業者であったといわれます。エルガーは15歳のとき学校をやめて法律事務所で働きます。しかし、バスーン(bassoon)をやヴァイオリンを弾くという才能の持ち主でした。正式な音楽教育を受けたことがないのも珍しい経歴です。

カトリック信者であったエルガーはやがて教会のオルガン奏者となったり軍楽隊長となります。その頃から作曲活動をはじめ、オラトリオ(oratorio)のなかの合唱曲「Lux Christi」、「Dream of Gerontinus」とか「Enigma Variations」という管弦楽曲を作曲します。さらに宗教オラトリオの「The Kingdom」、「The Apostles」などによって作曲家としの地位を確立していきます。バーミンガム大学(University of Birmingham)の初代音楽教授となり、その間チェロ協奏曲(Cello Concerto E minor)、ヴァイオリン協奏曲(Violin Concerto)などを作曲し1924年には王立音楽長となり男爵(Sir)の称号を受けます。

ところでプロムス(The Proms)はBBCが主催する「史上最大のクラシック音楽演奏会」と云われます。誰もが安い料金で音楽を楽しむ機会として、毎年夏に8週間にわたり開催されます。会場は、ロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)やそれに隣接する公園です。入場料は700円から14,000円くらいです。Promsとは「聴衆がブラブラ歩くこと(promenading)」とか「そぞろ歩き」(promenade)という単語に由来します。プロムナードという単語も生まれています。

Edward Elgarの生家

心に残る名曲  その百五十五 ヴォーン・ウィリアムズ 「海の歌」

英国音楽のルネッサンスを築き上げたといわれる音楽家です。ヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)は1872年生まれ。1890年に王立音楽大学(Royal College of Music)に入り、1899年までそこで学びます。その後ケンブリッジ大学(University of Cambridge)でも音楽を研究します。修業期間中はフランスのラヴェル(Maurice Ravel)にも師事しています。修業年限が長かった理由はわかりません。オルガン奏者やトロンボーン奏者としても活躍します。

やがてイギリス讃美歌集(The English Hymnals)を編集したりしながら、30歳の頃から歌曲の作曲活動を始めます。さらにアメリカの詩人、ホイットマン(Walter Whitman)のテキストから交響曲第一番「海の交響曲」や第二番「ロンドン交響曲」を作ります。「海の歌」、トマスタリス(Thomas Tallis)による「ファンタジア」とか「ヒバリの飛翔」(The Lark Ascending)なども世に送り出します。シェイクスピア(William Shakespeare)に基づく「恋するジョン卿」(Sir John in Love)も知られています。オペラはどれも注目されなかったのですが「仮面舞踏」(Job, A Masque for Dancing)はしばしば演奏されたといわれます。

第一次大戦後は、彼は王立音楽大学の初代の音楽教師として任命されます。1934年には論文、国民的音楽(National Music and Other Essays)のなかで ”芸術は慈悲と同じく家庭から出発すべき” といった論調を展開します。音楽の形式は多様で、交響曲、歌曲、オペラ、合唱曲などに及びます。

レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ

心に残る名曲  その百五十四 ヒューバート・パリー 「Jerusalem」

ヒューバート・パリー(Charles Hubert Parry)の作曲活動は1880年代に始まります。合唱曲をはじめ5つの交響曲,交響組曲などで知られたイギリスの作曲家です。リヒヤルト・ワーグナー(Richalt Wagner)と個人的に親しく、ロンドンにおけるワーグナーの再来とも云われていたようです。しかし作曲家としては、バッハ(Johann Bach)やブラームス(Johannes Brahms)に傾倒していた作風がでているようです。それはブラームスの明快な和声、構成を基にしつつも、力強く全音階を満ちているからです。

その旋律様式は、エルガー(Edward Elgar)やヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)に大きな影響を及ぼしたようです。オックスフォード大学(University of Oxford)の音楽学部の教授として1900年から1908年まで務めます。 教師や学校管理者としてあまりの激務のために、その間の作曲活動は妨げられようです。

1916年3月にパリーは「Jerusalem」という合唱曲を作ります。この曲は、詩人で画家であったブレーク(William Blake)の歌詞に付けたものです。事実上のイングランドの国歌として現在のイギリスでは非常によく知られています。その才能、エネルギーとカリスマ性によって、イギリスの文化的生活の中心に音楽を据えることに大きな貢献をなしたといわれます。
「Jerusalem」は次のような歌詞で始まります。
「And did those feet in ancient time, walk upon Englands mountains green, and was the holy Lamb of God n Englands pleasant pastures seen!」

心に残る名曲  その百五十三 スタンフォード 「イーブニング・サーヴィス 」

チャールズ・スタンフォード(Charles Stanford)は、1852年生まれのアイルランドの作曲家です。幼いときから作曲し、その才能はすでに開花していたといわれます。

ケンブリッジ(Cambridge)のトリニティ・カレッジ(Trinity College)で学びます。1873から92年まで同カレッジのオルガン奏者や大学音楽協会の指揮者となります。1882年、29歳で王立音楽大学創設メンバーの一員として教授に就任します。その後生涯にわたって同大学の作曲科で教鞭をとります。1887年からはケンブリッジ大学(University of Cambridge)の音楽科教授も兼任します。

グスタフ・ホルスト(Gustav Holst)やリーフ・ヴォーンウイリアムズ(Ralph Vaughan Williams)らのすぐれた弟子を育てます。イギリス音楽の再興を果たし、ナイトの称号を与えられます。「イーブニング・サーヴィス」「闇を照らせ」「今こそ主よ、僕を去らせたまわん」という曲をお楽しみください。

作品はドイツロマン派の様式を備えています。職人的ともいえる作曲技法で、アイルランドやイングランドの民族的な色彩を反映する曲を作ります。作品は交響曲、協奏曲、宗教曲、歌曲などにまたがります。

心に残る名曲  その百五十二  ヘンリー・パーセル 「Fairest Isle」

近世から現代にいたる英国の作曲家の音楽をしばらく取り上げることにします。最初はヘンリー・パーセル(Henry Purcell)です。生まれたのは1659年ですから、ピューリタン革命(Puritan Revolution)に引き続く王政復古の時代にあたります。チューダー王朝(Tudor dynasty)といわれる時代です。フランスの絶対王政、ドイツは30年戦争の直後の疲弊のまっただ中という状況にあって、イギリスは大陸の疲弊をよそに近代化へと発展していく時期です。

パーセルはイタリアやフランス音楽の影響を受けつつ、バロック時代における独自の音楽を生み出した最も優秀なイギリス人の作曲家の1人として評価されています。若くして才能をあらわし、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)のオルガン奏者、王室礼拝堂のオルガン奏者などを歴任していきます。パーセルは、作曲家としての初期には宗教音楽家として数多くの宗教的声楽曲を作曲していきます。特にイギリス国教会の聖歌であるアンセム(Anthem)とよばれる形式で多くの独唱曲や合唱曲を作曲します。こうして宗教的声楽曲というジャンルにまで高めていきます。「Come, Ye Sons of Art (Ode for Queen Mary)」とか「Fairest Isle」という器楽と声楽の演奏はそうです。

パーセルの音楽に影響を与えた背景には、文豪シェークスピア(William Shakespeare)、哲学者ベーコン(Francis Bacon)などの活躍により、イギリスの人文科学が一つの頂点を迎えたことがあるといわれます。演劇という表現形式が開花した時代で、音楽が劇と融合していきます。劇音楽、とくにオペラの分野との競演が進みます。こうした演劇の上演は、イギリスにおいては「劇伴」としての器楽曲の隆盛につながっていきます。リュート(Lute)、ヴィオラ・ダ・ガンバ(viol)、リコーダー(recorder)といった楽器の合奏による室内楽や舞曲が広く演奏されるようになります。「組曲2番プレリュード」はその一つです。

パーセルは持ち味である繊細な和音づけをたくみに利用して、力強さ、華やかさといった表現に加えて不安や悲しみといった複雑な感情までも音楽で細部に描き出していきます。

心に残る名曲 その百五十一  ヘンデル オラトリオ(Oratorio)

英国国教会(Churchi of England)のための教会音楽は、私的な礼拝のためだけでなく、イギリスの国家的行事のための式典用のがあります。こうした音楽はウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)やセントポール大聖堂(St Paul’s Cathedral)で演奏される教会音楽であると同時に、公的な音楽としての性格を強く持つということです。

もともとヘンデルはルーテル教会の信徒でした。ヘンデルの教会音楽は、ローマカトリック教会、ルーテル教会、英国国教会に共通しています。その特徴は、総じて壮大、華麗、重厚さをあわせ持ち、情緒に偏ることのない普遍的なエートスを反映するものとして位置づけられます。これがオペラや受難曲(passion)といった教会音楽とは異なる点です。

ウエストミンスター寺院

バッハやモーツアルトの受難曲はドイツの敬虔主義による情動的なイメージが強いといわれます。詩の語りに重点をおいた叙唱、レチタティーボ(recitativo)を用いたり,抒情的表現の独唱、アリア(aria)、さらにドイツ語の歌詞と単純な旋律の宗教歌、コラール(choral)が使われます。

セントポール大聖堂

心に残る名曲 その百五十 ヘンデル メサイア (Messiah HWV 56)

メサイア(Messiah)は1741 年にヘンデル(George Frideric Handel)によって作られた英語によるオラトリオ(Oratorio)です。通常「Messiah (HWV 56)」と呼ばれています。「Messiah」とは救世主という意味です。この曲の基となったのは、英国国教会(Church of England)およびピューリタン(Puritan)の両者で翻訳されたキングジェームズ版聖書(King James Version)と旧訳聖書の詩篇を基にした合同祈祷書(Book of Common Prayers)からチャールズ・ジェネンズ(Charles Jennens)という作詞家が要約したテキストです。

1712年以来ロンドンで生活したヘンデルは、イタリア歌劇小作品によって作曲家としての名声を得ていきます。1730年代になり、時代の変化とともにイギリス・オラトリオの作品を作っていきます。メサイアは1742年にダブリン(Dublin)で初演されます。翌年、ロンドンでも演奏されます。評価は高くはなかったのですが徐々に認められて、やがて世界的に知られるようになり、最も著名な曲としての地位を得ることになります。

オラトリオは歌劇とは似てはいますが、劇的な筋書きとか登場人物の独唱やせりふはありません。ジェネンズは、メサイアの構成を福音書から引用します。第一部は預言者イザヤ(Isaiah)や羊飼いの告知などからなります。第二部はキリスト(Christ)の受難を語り、はりつけ、そして「神をほめたたえよ」というハレルヤ・コーラス(Hallelujah Chorus)に続きます。そして第三部は死からの蘇りと救世主のもたらした救いと永遠の命を讃える歌詞となっています。

心に残る名曲  その百四十九 アルカデルト 「 Ave Maria」

ジャック・アルカデルト(Jacques Arcadelt)という作曲家と作品の紹介です。生まれは今のベルギーといわれますが、生地や経歴が不明なことが多い作曲家です。アルカデルトは若くしてイタリアに赴き、フィレンツェ(Florence)やローマ(Rome)で活動します。フィレンツェではメディチ家(Medici)と親交をもったようです。1531年に最初の曲であるモテット(motet)やマドリガル(madorigal)をドイツにて出版します。1540年にパウロ三世(Paul III)の治世下、ローマのシスティナ礼拝堂(Cappella Sistina)聖歌隊の隊員となり,同地でミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)と親交を結びます。その後フランスに移り,フランス国王の宮廷礼拝堂などで活躍します。

アルカデルトの本領は世俗歌曲–マドリガルやシャンソンにあります。同時代のフランドル楽派(Flemish school)の作曲家たちと同じく,作品は活動地イタリアの地域性を反映させるものとなります。宗教作品も多いのですが,世俗的な声楽作品を得意とし,充実した和声感に満たされた模倣書法を示す200曲のマドリガルやその様式に類似した120曲のシャンソンを作っています。

同時代のイタリア人作曲であるフェスタ(Costanzo Festa)やヴェルデロット(Philippe Verdelot)とともにイタリアの世俗音楽の発展に寄与します。その影響を受けたひとりがパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)といわれます。 有名な「アヴェ・マリア」(Ave Maria)をお聴きください。

心に残る名曲  その百四十八 モンテヴェルディ 「聖母マリアの夕べの祈り」

中世期、北イタリアのクレモナ(Cremona)に生まれたクラウディオ・モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi)の作品について触れます。幼少期はクレモナ大聖堂(Cremona Cathedral)の楽長であったマルカントニオ・インジェネリ(Marcantonio Ingegneri)の元で学びます。

インジェネリという音楽家は、世俗的な精神を込めた教会音楽を作るとともにマドリガル(madrigals)作品で知られています。モンテヴェルディはその薫陶を受け、1582年と1583年に最初の出版譜としてモテット(Motet)と宗教マドリガルを何曲か出しています。1587年には世俗マドリガルの最初の曲集を出版します。

1590年に、マントヴァ(Mantua)のヴィンチェンツォ1世 (Vincenzo I )のゴンザーガ宮廷(Gonzaga Court)にて歌手およびヴィオラ・ダ・ガンバ奏者(Viola da gamba)として仕えはじめ、1602年には宮廷楽長となります。その後40歳まで主にマドリガルの作曲に従事し9巻の曲集を出版します。

モンテヴェルディの作品はルネサンス音楽からバロック音楽への過渡期にあると位置づけられています。その作品はルネサンスとバロックのいずれかあるいは両方に分類されるくらいです。後世からは音楽の様式に変革をもたらした改革者とみなされています。オペラの最初期の作品の一つ「オルフェオ」(The Fable of Orpheus Mantuaz)は、20・21世紀にも頻繁に演奏される最初期のオペラ作品となります。

「オルフェオ」の画期的な点は、その劇的な力と管弦楽器を用いて演奏されたことです。当時ルネサンス音楽の対位法の伝統的なポリフォニーを使った優れた作曲家として出発しますが、やがてモノディ(monody)という新しい弾き語りのスタイルを音楽を取り入れていきます。モノディとは、16世紀終わりにフィレンツェやローマを中心に生まれた音楽様式です。

1632年、モンテヴェルディはカトリック教会の司祭に任命されます。詩篇121の「聖母マリアの夕べの祈り」(Vespro della Beata Vergine)は素晴らしい響きの曲です。

心に残る名曲  その百四十七 ルカ・マレンツィオと宗教マドリガル

イタリア後期ルネサンス音楽の作曲家、ルカ・マレンツィオ(Luca Marenzio)を取り上げます。マドリガルの後期の発展段階において、後日紹介するクラウディオ・モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi)による初期バロック音楽への過渡期に先駆けて、おそらく最もすぐれた実践例を残したといわれる作曲家です。甘美な抒情性を漂わせた作風から、アルカデルト(Jacques Arcadelt)のモテット、マドリガル(madrigal)、シャンソン(chanson)になぞらえて、「崇高で優美な白鳥」と評されるほどです。

マレンツィオの経歴に触れることにします。マレンツィオは生まれ故郷のブレシア(Brescia)で聖歌隊員として訓練を受けます。やがてローマにて、ルイギエステ枢機卿(Cardinal Luigi d’Este)に仕えます。1588年にフィレンツェ(Florence)に行き、そこでジョバンニ・バーディ(Giovanni de’ Bardi)という作曲家、作家と一緒に音楽家や詩人の集まりに参加します。

ところでマドリガルは、イタリア発祥の歌唱形式の名称です。マドリガルには、時代も形式も異なった 中世マドリガルとルネサンス・マドリガルがあります。私たちが通常呼んでいるのはルネサンス・マドリガルを指します。マレンツィオは、多くのマドリガルを作曲します。マレンツィオ16世紀を代表する最も著名なイタリアのマドリガル作曲家の一人です。ついでですが、シャンソンは中世からルネサンスにかけて作られたフランス語の歌曲のことです。宗教マドリガルの「Solo e pensoso」「Concerto Vocale」をお聴きください

心に残る名曲  その百四十六  バンショワ 「Cantigas de Santa Maria」

ネーデルラント(Netherland)の作曲家でブルゴーニュ楽派(Burgundian school)初期の一人であったジル・バンショワ(Gilles de Binchois)のことです。前回取り上げたギヨーム・デュファイ(Guillaume du Fay)と同年代の作曲家で、15世紀初頭で最も有名な音楽家の一人といわれます。

バンショワは、15世紀の最も優れた旋律家と評価されてきたのは、作り出された旋律線が歌いやすくて、すこぶる覚えやすいという特徴があるからです。彼の編み出した旋律は、その後も模倣され続け、しミサ曲において素材として後代の作曲家に流用されていきます。バンショワ作品のほとんどは、輪郭が単純明快でしかも福音的なメッセージを伝えるものです。「 日は昇る」(A solis ortus cardine)という中世ルネッサンス アカペラ混声や「聖母マリア頌歌集」(Cantigas de Santa Maria)にもそれが表れています。

中世ルネッサンス アカペラ混声
あなたの非常に柔らかい表情
「悲しい喜びと痛い喜び」 (Triste plaisir et douloureuse joye)

心に残る名曲  その百四十五 ギヨーム・デュファイ 「ミサ ロムアルム」

デュファイ(Guillaume du Fay)はベルギー(Belgium)の首都ブラッセル(Breersels )生まれ。15世紀、ルネサンス期(Renaissance)に活躍したブルゴーニュ楽派 (Burgundian School )の作曲家、音楽家です。音楽の形式および楽想の点で、中世西洋音楽からルネサンス音楽への転換を行なった音楽史上の巨匠といわれます。

デュファイの音楽的な才能は、地元の教会から注目されていたようです。聖歌隊員となり教会は彼の才能を育てていきます。16歳のときカンブレー(Cambrai)近郊のサンジェリー教会(St.Géry Cathedral)で副助祭(benefice)として働き始めます。1426年にイタリアのボローニア(Bologna)に戻り、ローマ教皇特使であるアルマン枢機卿(Cardinal Louis Aleman)の元で仕えます。やがて執事となり1428年に司祭として叙任されます。

聖職者でありましたが、デュファイは旺盛な作曲活動をします。楽風は中世的要素を備え、やがてルネサンス音楽へと成熟しブルゴーニュ楽派の中心的人物となります。ブルゴーニュ楽派とは、ブルゴーニュ公国で活躍した作曲家達のことで、その精華は世俗歌曲にあり、通例3声のポリフォニーが声と楽器で優美に演奏されます。その後期の作品には、ルネサンス音楽の次の時代となるヨーロッパ普遍の音楽様式を確立するフランドル楽派(Flemish school)に通じる要素も見られます。各声部に均衡のとれた 4声ポリフォニー手法を特色とします。「ミサ ロムアルム」(Missa Lohomme)が知られています。後に「ルネサンス音楽におけるバッハ」というように15世紀最大の巨匠とも評価されるほどです。

心に残る名曲  その百四十四 ソルティとシカゴ交響楽団

ギオルグ・ソルティ(Georg Solti)のことです。1912年ハンガリー生まれのイギリス人指揮者でピアニストでもあります。20世紀を代表する指揮者の一人と称されてSirの爵位を有しています。

Georg Solti

音楽歴ですが、ブタペスト(Budapest)のリスト音楽院(Liszt Academy of Music)に入学します。もちろん同じ、ハンガリー生まれのフランツ・リスト(Franz Liszt)にちなんだ音楽学校です。

第二次大戦が勃発すると迫害を避けてスイスのツーリッヒ(Zürich)に逃れます。彼自身はユダヤ人だったからです。人種差別から指揮者としての仕事を見つけるのが難しかったようです。それでも1942年にはジュネーブ(Geneva)での国際ピアノコンクールで優勝します。戦後は、ミュンヘン(Munich)にあったババリア州歌劇(Bavarian State Opera)、フランクフルト歌劇場(Frankfurt Opera)、イギリスのコベントガーデンの王立歌劇場(Royal Opera)の指揮者となります。

華々しい活躍の最たることとして、ソルティの業績はシカゴ交響楽団を世界的なオーケストラに育てたことがあります。1969年から22年間にわたり指揮をするのです。1972年にイギリスに帰化しSirの爵位を授けられます。その他、1972年からはパリ管弦楽団(Orchestra of Paris)、パリ歌劇場(Paris Opéra)、ロンドン・フィルハーモニー(London Philharmonic Orchestra)の音楽総監督などを歴任します。

心に残る名曲  その百四十二 フランシスコ・タレガ 「アルハンブラの思い出」

アルハンブラの思い出で知られるスペインの作曲家・ギター奏者がフランシスコ・タレガ(Francisco Tarrega)です。ギターの達人「ヴィルトゥオーソ」(virtuoso)として名を馳せます。ヴィルトゥオーソとはイタリア語の博識とか達人を意味する言葉です。「ギターのサラサーテ(Pablo Sarasate)」との異名も付けられています。二人ともスペイン人であるからです。

Francisco Tarrega

「アルハンブラの思い出」(Memories of Alhambra)は、高度なテクニックで演奏されます。この技法は「トレモロ奏法」(tremolo)と呼ばれ、右手の薬指、中指、人差し指で一つの弦を繰り返しすばやく弾くことによりメロディを奏します。親指はバス声部と伴奏の分散和音を弾くのです。単一の高さの音を連続して小刻みに演奏する技法が「トレモロ奏法」です。この奏法によって噴水の流れなどが表現されています。

1874年にマドリッド音楽院(Madrid Conservatory)に進学。豪商の援助のもとに、作曲をエミリオ・アリエータ(Emilio Arrieta)に師事し1870年代末までにギター教師となります。

心に残る名曲  その百四十一 ハチャトリアン 「仮面舞踏会」

アラム・ハチャトゥリアン(Aram Il’ich Khachaturyan)は1903年にロシア帝国支配下にあったグルジア、現在のジョージア(Georgia)生まれの作曲家です。故郷の民族音楽を素材としたリズム感のある作品で有名です。アゼルバイジャン(Azerbaijan)やジョージアなどコーカサス(Caucasus)地方の民族音楽の影響がうかがわれます。代表的な作品に「仮面舞踏会」(Masquerade)やバレエ音楽「ガイーヌ」(Gayne)などがあります。

モスクワで音楽を学び、やがてレーニン賞など多数の賞を受け、自作の指揮者としても活躍します。映画音楽も手がけ、チェコスロバキア国際映画祭個人賞も受賞したこともあるようです。作品の中でも「ガイーヌ」から抜粋した演奏会用組曲がとりわけ演奏機会が多く、中でも「剣の舞」(Sarbere Dance)が、アンコールピースとしてしばしば演奏されます。民族的な伝統を大切にし、独自の価値観とエネルギーに満ちた楽風で、作品が異色の光彩を放っています。

「仮面舞踏会」は後に、ハチャトゥリアン自身の手によって、ワルツ、夜想曲(nocturne)、マズルカ(mazurka)、ロマンス(romance)、ギャロップ(gallop)の5曲を選んでオーケストラ向けの組曲となりました。中でも情熱的でダイナミックスな「ワルツ」は単独でも演奏されることも多い作品です。

アラム・ハチャトリアン

心に残る名曲  その百四十 シベリウス 「トゥオネラの白鳥」

Suomiを代表する作曲家といえばシベリウス(Jean Sibelius)でしょう。Suomiとはフィンランド別名です。民族叙事詩「カレワラ」(Kalevala)に基づいた交響詩集「レンミンカイネン組曲」(4つの伝説曲)は有名です。 

この組曲は、「レンミンカイネンとサーリの娘たち」、「トゥオネラの白鳥」、「トゥオネラのレンミンカイネン」、「レンミンカイネンの帰郷」の4曲から構成されています。組曲といっても便宜上のもので、各曲は別個に出版されました。中でも「トゥオネラの白鳥」(The Swan of Tuonela)は独立して演奏される機会が多いようです。物語の筋を追うのではなく、もっぱら黄泉の国のトゥオネラ川を泳ぐ白鳥のイメージを描いています。

シベリウス記念公園とモニュメント

私はフィンランド語(Finnish)は学んでおりませんが、「レンミンカイネン組曲」は以下のように表記するようです。
「レンミンカイネンと島の娘たち」(Lemminkäinen ja Saaren neidot)
「トゥオネラの白鳥」(Tuonelan joutsen)
「トゥオネラのレンミンカイネン」(Lemminkäinen Tuonelassa)
「レンミンカイネンの帰郷」(Lemminkäinen palaa kotienoille)

心に残る名曲  その百三十九 コダイ その2 「ハーリ・ヤーノシュ」

コダイが作曲した管弦楽組曲に「ハーリ・ヤーノシュ」(Hary Janos)があります。同じハンガリー人のガライ・ヤーノシュ(Garay Janos)によって書かれた物語詩「老兵」の主人公の名となっています。

コダイの代表曲といわれる「ハーリ・ヤーノシュ」のことです。ヤーノシュは実在した陶工ですが、オーストリア帝国の支配下にあったハンガリーで、農民兵の一典型として、伝説的人物として描かれています。老いた退役兵ハーリ・ヤーノシュは、故郷の居酒屋で若者たちを相手に兵役時代の話をほらを交えて語るのです。ナポレオンと戦って勝って捕虜にしたとか、オーストリア帝国の皇帝フランツの妃にひと目ぼれされ求婚されたたという話、七つ頭の竜を組み伏せた話などハーリ・ヤーノシュのほら話を楽劇として作曲したといわれます。

「ハーリ・ヤーノシュ」の初演は1926年で後に、ハンガリーのドン・キホーテ(Don Quixote)物語ともいわれます。

心に残る名曲  その百三十八 コダイ その1 民族音楽の重要さ

ゾルタン・コダイ(Kodaly Zoltan)は1882年生まれのハンガリーの作曲家です。民俗音楽学者、教育家、言語学者、哲学者でもあります。両親は熱心なアマチュア音楽家で、父はヴァイオリンを、母はピアノを弾いていたそうです。コダイは子どもの頃からヴァイオリンの学習を始め、聖歌隊で歌いますが、系統的な音楽教育を受けることはありませんでした。
 1900年、コダイは現代語を学ぶためにブダペスト大学(Budapest University) に入学し、同時にブダペストのフランツ・リスト音楽院(Franz Liszt Akademie)で音楽を学び始めます。そこでドイツ人でブラームスの音楽を信奉する保守的な作曲家といわれたハンス・ケスラー(Hans Koessler)に作曲について師事します。
 1905年からコダイは、ハンガリーの北西部の辺境で民謡の収集を始めます。その結果をハンガリー民族学会で発表します。民謡について真摯に取り組んだ初期の研究者として、ハンガリーにおける民俗音楽学の分野における重要人物と称されるようになります。さらに1907年にはフランツ・リスト音楽院の教授に就任します。

コダイ記念館
コダイ記念切手
ゾルタン・コダイ

心に残る名曲  その百三十七 アルビノーニ 「弦楽とオルガンのためのアダージョ」ニ短調

アルビノーニ(Tomaso Albinoni) ヴェネツィア (Venezia)生まれのバロック音楽の作曲家です。生前はオペラ作曲家として著名だったといわれますが、今日はもっぱら器楽曲の作曲家として記憶されています。音楽事典によりますと、アルビノーニの作曲家としての生前の地位のほかには、裕福なヴェネツィア貴族の家系に生まれたということ以外、ほとんど分かっていないようです。

 アルビノーニの系統立った作品目録を作成したのが、イタリアの音楽学者ジャゾット(Remo Giazotto)です。ジャゾットは、ザクセン国立図書館(Sachsische Landesbibliothek)から受け取ったアルビノーニの自筆譜の断片を編曲し、「ト短調のアダージョ」を出版します。これが「アルビノーニのアダージョ」として親しまれるようになり、ジャゾットの名もアダージョの編曲者としてとりわけ有名になります。

 アルビノーニは50曲ほどのオペラを作曲し、そのうち20曲が1723年から1740年にかけて上演されたが、こんにちでは器楽曲、とりわけオーボエ協奏曲が最も知られているようです。

心に残る名曲  その百三十六 スメタナ 「わが祖国」

スメタナ(Bedrich Smetana)のことについては、「心に残る名曲 その二十四」で少し触れました。彼はチェコ(Czecho)のボヘミア(Bohemia)地方で生まれます。チェコは長らくオーストリア帝国(Austrian Empire)の支配下に置かれていました。スメタナは、チェコの民族主義と独立への願望をかき立て国民楽派という音楽運動を発展させた先駆者です。それ故にチェコ音楽の祖とみなされています。

BEDRICH SMETANA Bedrich Smetana 2 March 1824 – 12 May 1884 Czech composer Credit: Peter Joslin / ArenaPAL

スメタナは1856年から1861年まで、ボヘミアを離れてスウェーデン(Sweeden)のヨーテボリ(Gothenburg)でピアニストおよび指揮者として活動します。やがて代表作となる「わが祖国」(My Country)を1874年から1879年にかけて作曲します。この曲は6つの交響詩です。第1曲「ヴィシェフラド」(Vysehrad)、そして第2曲「モルダウ」(The Moldau)が特に著名です。ヴィシェフラドは、プラハ(Prague)にある丘の城跡のことです。モルダウ川は源流からプラハ市内へと続く重要な川です。上流から下流への情景やプラハの風景が鮮明に描写されています。

モルダウ川とカレル橋

  「モルダウ」の印象です。山奥深い水源から雪が溶けて水が集まっていき、森を抜け、そして角笛が響き渡り、村の結婚式の傍を行き過ぎていきます。徐々に水量が増えていき、プラハ市内を悠然と流れ、カレル橋(Karel)のたもとにきます。勇壮な古城を讃えるように華やかな演奏が続きます。親しみやすい旋律が12分間も続きます。チェコの指揮者、ラファエル・クーベリク(Rafael Kubelík)のチェコ・フィルによる演奏は聞き応えがあります。スメタナはオペラ「売られた花嫁」、「弦楽四重奏曲第1番 」などでも知られています。