キリスト教音楽の旅 その4 自由教会と音楽

札幌独立基督教会と内村鑑三(二列目中央)

英国国教会とルター派教会以外のプロテスタント教会は、通常自由教会と呼ばれ、礼拝の形式化を嫌った発生的な理由により、教会暦や礼拝での式文の使用は緩やかです。特に、宗教改革後はカトリックの典礼主義への反発により、礼拝儀式や年間の宗教行事を自由化したり単純化していきます。礼拝で聖書のどの箇所を朗読するかは牧師に任され、それにそった説教や講解が重視されます。

音楽としては会衆による讃美歌歌唱が重視されます。しかし、歌唱は二義的であり礼拝の不可欠な要素ではありません。オルガンは会衆の歌唱を支援するものですが、オルガンを用いない教派もあります。自由教会の会堂に大規模なオルガンを設置されることは珍しいことです。会堂が比較的小さいこともあって、今は電子オルガンが広くゆき渡っています。従って聖歌隊も副次的な存在です。

自由教会の礼拝では信徒が証をすることも珍しくありません。信徒同士が質問をしたりコメントをすることもあります。牧師はそうした対話を奨励し補足したりします。牧師はファシリテータ(facilitator)といういわば対話の促進者となります。

現在の札幌独立基督教会

キリスト教音楽の旅 その3 プロテスタント教会

プロテスタント教会(protestant church)は、1400年代のルター(Martin Luther)やカルヴァン(Jean Calvin)以来の教会であり、さほど歴史は古くはありません。信徒数はカトリックの半分以下ですが、音楽としては多大な影響と比重を占めています。日本のプロテスタント教会の大勢はカルヴァンの改革派(Reformed church)で、ルター派の福音教会は割合としては少数です。

福音教会もカトリック教会と類似した典礼や礼拝様式を持っています。英国国教会はアングリカン・チャーチ(Anglican Church)とか聖公会といわれ、教義上はプロテスタント,儀礼や礼拝はカトリックという独自の立場をとっています。世界中に38の管区と約4,500万の信徒を有しています。日本聖公会が発足したのは1887年です。

カトリック教会は、聖書以外にも教会の伝統、教皇の権威を重視します。聖職者の祭司的特権も認めています。プロテスタントの各派はいずれも聖書を信仰の基礎に据え、教会の儀式によらず個人の信仰によって救われるという考え方に立ちます。聖職者と信徒との間に根本的な区別は認めません。その考え方を「万人祭司」(universal priesthood)といいます。

教会音楽の形態を分類するとき、典礼的教会と自由教会というように分類すると分かりやすくなります。典礼的教会とは礼拝に一定の式文を用い、その式文は教会歴によって一年間の式音楽が定められています。ローマカトリック、ギリシャ正教、英国国教会、ルター派の教会は、典礼的教会で各日曜主日の礼拝式や結婚式、葬儀に至るまで、その時朗読する聖書箇所、祈り、聖歌や讃美歌などは決められています。式文は簡素化されることもありますが、礼拝を盛大に行うときは式文に添い、音楽は礼拝そのものと不可分となっています。聖歌隊の発達はそうした伝統によっているのです。

キリスト教音楽の旅 その2 カトリックとプロテスタント

キリスト教音楽を別な角度から分類するとすれば、カトリック教会(Catholic)系、東方教会(Eastern Christianity)系の音楽とプロテスタント教会(Protestant)系音楽ということになります。東方教会の別の呼び名は正教会(Orthodox Church)、あるいはギリシャ正教会(Greek Orthodox Church)ともいわれます。

カトリック教会は、必ずしもその名称や理念が示すように普遍的とか全人類的というものではありません。例えば、1962年から1965年に開かれた第2バチカン公会議(Concilium Vaticanum Secundum))は、公会議史上初めて世界5大陸から参加者が集まり、ようやく普遍公会議というにふさわしいものになったといわれるくらいです。この公会議の大きなテーマは、カトリック教会の教義における現代化とか改革といわれます。

プロテスタント教会は宗教改革やルター派、英国国教会、カルヴァン主義諸派(長老派、改革派、会衆派)、メソジスト派、パブテスト派、自由教会各派(フレンド派、キリストの教会、ホーリネス派、救世軍、ピューリタン派)などがあります。モルモン教会は新興の教会です。以上の教会の英語名は次のようになります。少々退屈な説明となりますが、ご勘弁を。
 ルター派(Lutheran)
 英国国教会(Church of England)
 カルヴァン主義諸派(Calvinism)
 長老派(Presbyterian)
 改革派(Reformed)
 会衆派(Congregational)
 メソジスト派(Methodist)
 パブテスト派(Baptist)
 自由教会各派(Free Church)
 フレンド派(Friend)
 キリストの教会(Church of Christ)
 ホーリネス派(Holiness Church)
 救世軍(Salvation Army)
 ピューリタン派(Puritan)
 独立教会(Independent)
 モルモン教会(Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)

ともあれ、カトリック教会は、東方諸教会やプロテスタント教会との合同礼拝や一致(Ecumenism)といったことを促進しています。キリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動が「Ecumenism」ということです。カトリック教会は、世界的にみて教会音楽の世界でも中心的な役割を果たしているといえましょう。

キリスト教音楽の旅 その1 典礼音楽と大衆的宗教音楽

私はキリスト教と音楽について専門家ではありませんが、少しはかじっているので、個人的な経験や知識をもとに筆を進めることにします。できるだけ時代考証をしながら正確を期してまいります。

Musical logo, which symbolizes Evangelical music. For music studios that reach out to Christian music.

キリスト教音楽は大きく二つに分類することができそうです。一つは典礼とか礼拝のための音楽、もう一つは大衆的宗教音楽、たとえばラフダ(lauda)と呼ばれる神をたたえる歌やオラトリオ(oratorio)などの大規模な楽曲です。大衆的宗教音楽というのは、筆者の造語です。

典礼は礼拝とか祭礼とも呼ばれ、体系化されたものです。キリスト教会においては、教派や教団によって制定されています。典礼の形式はそれぞれに異なり、奏でられる音楽もさまざまです。こうした典礼音楽は公の礼拝や祈祷でのみ用いられる狭義の音楽です。他方、大衆的宗教音楽というのは、一般に演奏会向けのキリスト教音楽というか、芸術音楽のことです。大衆的宗教音楽の主題は、聖書の記述を拠りどころにしているのが普通です。クリスマス・オラトリオ(Chrismas Oratorio)とかレクイエム(Requiem)などが有名です。

心に残る名曲 その二百八 日本の名曲 多田武彦 「富士山」

日本の音楽界ではあまり知られてはいませんが、合唱界では多田武彦に「この曲あり」としてしばしば歌われる曲があります。それが「富士山」であり「柳河風俗詩」です。作曲家としては少々異色です。京都大学法学部を卒業し、京都大学男声合唱団の指揮者として活躍します。作曲家清水脩に作曲上の指導を受けます。

多田武彦

草野心平の詩による「富士山」は1956年の作、北原白秋の詩による「柳河風俗詩」は1954年の作で男声合唱の定番となっています。いずれも初演は京都大学男声合唱団によって紹介されます。多田は「詩に寄り添うように」を作曲のモットーにして、合唱曲を500曲あまりを作っています。その作風は抒情性が高く、決して派手ではありませんが、和声を駆使しての日本の近代詩に寄り添うような旋律がつきます。曲の大多数は草野心平や北原白秋の他に、三好達治、伊藤整、中原中也、堀口大學などの近代詩を取り上げています。

多田武彦は、「アンサンブル上達のための練習方法」という冊子を出しています。「アンサンブル」(ensemble)とは、フランス語です。「一緒に」とか「全体」などを意味する単語です。音楽の世界では合奏、重奏、合唱、重唱などを指します。多田は云います。「他のメンバーの良い響きに聴きながらパート練習をやっていくと、やがてパート内に豊かな響きが充満する」と。そのことによって他のパートとの整合性も高まってくるというのです。

心に残る名曲 その二百四五 日本の名曲 小山作之助 「夏は来ぬ」

1864年といいますと文久3年です。越後国頸城郡潟町村、現在の上越市大潟区潟町に小山作之助は生まれます。 16歳で小学校を卒業した後、夜は漢学塾に通い、1884年に文部省の音楽取調掛に入学します。音楽取調掛はのちに東京音楽学校に改組されます。小山は首席で卒業後、東京師範学校や東京盲唖学校の教師ととなります。

小山作之助

やがて1892年に東京音楽学校の助教授、1897年には教授となります。教え子にはのちに作曲家となる瀧廉太郎がいます。47歳の時には文部省唱歌の編纂委員として作曲活動に入ります。小山の作曲は唱歌、童謡、軍歌、校歌など非常に多岐に亘ります。「夏は来ぬ」は小山の最も知られる曲と言えるでしょう。2007年に日本の歌百選に選ばれます。作詞は歌人で国文学者の佐佐木信綱です。

 卯の花の 匂う垣根に
  時鳥 早も来鳴きて
   忍音 もらす 夏は来ぬ

心に残る名曲 その二百七 日本の名曲 中田喜直 「雪の降る街を」

現在の東京都渋谷区は、かつて東京府豊多摩郡と呼ばれていました。中田喜直はそこの出身です。父は「早春賦」で知られる作曲家の中田章。喜直は三男でした。やがて「ちいさい秋みつけた」や「めだかの学校」、「夏の思い出」などを作曲し、今日も小中学校の音楽の時間で歌い継がれています。数々の童謡、楽曲を作曲した日本における20世紀を代表する作曲家の一人といえましょう。

まず、「夏の思い出」のことです。作詞は江間章子で、彼女は幼少の頃、岩手山の近くの八幡平市に住んでいたようです。そこは水芭蕉の咲く地域でした。昭和19年頃、たまたま尾瀬を訪れて一面に咲き乱れる水芭蕉を見ます。昭和22年にNHKから依頼されとき、思い浮かんだのが尾瀬の情景で、その印象を綴ったのが「夏の思い出」といわれます。NHKのラジオ番組「ラジオ歌謡」で全国に行き渡り、おかげで尾瀬は有名になったというエピソードもあります。

次ぎに「雪の降る街を」のことです。1952年に発表され大ヒットします。この曲を作詞したのは後に劇作家として活躍する内村直也です。「雪の降る街を」はNHKの「みんなのうた」の1回目に登場し、歌は立川澄人が歌います。高英男の歌唱によりレコードも制作されるとさらに人気が高まります。高英男の甘く高雅な歌い方は聞く者をしびれさせていきます。後に中田は女声合唱、混声合唱に編曲していきます。

歌の出だしは、 「雪の降る街を想い出だけが通りすぎてゆく」、「雪の降る街を足音だけが追いかけてゆく」、「雪の降る街を息吹とともにこみあげてくる」
そして、「温かき幸せのほほえみ」、「緑なす春の日のそよ風」、「新しき光降る鐘の音」と締めくくるのです。雪の暖かさが伝わるような歌詞と旋律です。

心に残る名曲 その二百五 日本の名曲 大中 恩 「サッちゃん」

父親は『椰子の実』の作曲者である大中寅二です。父が教会のオルガニスト兼合唱指揮者であったことが、大中の音楽への関心を向けます。ただ、教会の聖歌隊にいた女性に憧れたというエピソードも残しています。1942年に東京音楽学校の作曲科入学します。しかし、1943年10月の学徒出陣で海軍に召集されますが、その直前に作った北原白秋作詞の混声合唱曲「わたりどり」は戦場に向かう備えで書いたといわれます。

復員後、1945年に音楽学校卒業し歌曲集、佐藤春夫作詞「五つの抒情歌」、「しぐれに寄する抒情」、三木露風作詞の「ふるみち」を作ります。その後は子どものための音楽作りをライフワークとします。時代を超えて歌い継がれている曲に佐藤義美作詞の「犬のおまわりさん」、阪田寛夫の作詞の「サッちゃん 」、「おなかのへるうた」があります。阪田と大中は従兄弟でした。大中の作風は、歌詩に基づく優しいメロディとリズム、美しい語感をたたえた和声が特徴といわれます。

わたりどり」 北原白秋 作詞
  あの影は渡り鳥、
   あの耀きは雪、
    遠ければ遠いほど空は青うて、
   高ければ高いほど脈立つ山よ、
    ああ、乗鞍嶽、
     あの影は渡り鳥。

うたのおばさん 松田トシ

心に残る名曲 その二百四 清水 脩 「月光とピエロ」

日本の合唱界に大きな足跡を残したのが清水脩です。1911年に大阪で生まれます。父親は四天王寺で雅楽楽人だったようです。中学の頃から簡単な合唱曲を書いていたという記録があります。

大阪外国語大学に入り、そこでグリークラブの指導者となります。フランス語に精通し、フランス音楽の研究、特にドビュシー(Claude Debussy) の文献を調べます。1937年に東京音楽学校に入学し橋本国彦らに作曲法を学びます。

1939年の第八回音楽コンクールで「花に寄せた舞踏組曲」が第一位となります。戦後は全日本合唱連盟で合唱の指導にあたります。1950年に「インド旋律による4楽章」が芸術賞となり、1954年の最初のオペラ「修善寺物語」が同じく芸術賞を受賞します。

合唱曲は男声合唱が多く堀口大学作詞の組曲「月光とピエロ」、「山に祈る」等があります。著作や訳書も多い作曲家です。

心に残る名曲 その二百三 日本の名曲 平井康三郎の「平城山」 

1910年高知県で生まれ、1936年に東京音楽学校研究家作曲部を修了します。作品は、器楽、声楽(洋楽・邦楽)と広範囲にわたっています。

東京音楽学校で教鞭をとりながら作曲活動を行い、「平城山」や「スキー」などを作曲します。その後は、文部省教科書編纂委員として音楽教科書編纂等に携わります。また、NHK専属作曲・指揮者、合唱連盟理事、日本音楽著作権協会理事、大阪音楽大学教授等として活躍します。

1965年には「詩と音楽の会」を結成し、日本の新しい歌曲、合唱曲集の創作活動を行っています。小学校や中学校の校歌も数多く手がけたことでも知られています。「さくらさくら」「ゆりかご」は彼の手によって作られます。そうした作曲活動の功績で紫綬褒章、勲四等旭日章、毎日出版文化賞等多数の栄誉を受けています。

心に残る名曲 その二百二 日本の名曲 宮城道雄 「春の海」

神戸で1894年に生まれた宮城道雄は、やがて邦楽に洋楽的要素をいれた新様式の作品を多数発表し、演奏家としても活躍し大正と昭和の邦楽界に革命的な業績を残した作曲家です。

1902年に失明しますが、生田流箏曲と野川流三弦を伝授されます。既習の曲の反復から脱し、自ら作曲を志していきます。そして処女作となる「水の変態」を発表します。1920年に本居長世とで「新日本音楽」と銘打って新作発表会を開きます。この頃、尺八の中尾都山とともに全国を巡演していきます。

草創期のレコードやラジオ放送にも積極的に参加し、作品と演奏を世に広めます。古典様式の新作曲にも力を入れるとともに、古典音楽の勢力からも高く評価されるようになります。そして1932年には、東京音楽学校の教授まで登りつめます。1933年にはフランスのヴァイオリン奏者シュメ(Renee Chemet)が宮城の箏とで「春の海」を合奏しレコード化していきます。

宮城道雄Renee Chemet

心に残る名曲 その二百一 日本の名曲 草川 信 「ゆりかごの唄」

草川 信は長野県埴科郡の出身です。長野師範学校附属小学校、現在の信州大学教育学部附属長野小学校で福井直秋に薫陶を受け、旧制長野中学を経て、東京音楽学校に進みます。そこでバイオリンを安藤幸に、ピアノを弘田龍太郎に師事します。

卒業後は渋谷区立小学校訓導や東京府立第三高等女学校教諭などを経験します。そのかたわら、演奏家として活動していきます。その後、雑誌『赤い鳥』に参加し童謡の作曲を手がけるのです。実兄、草川信雄も同校卒業生で今も飯田橋にある富士見町教会オルガニストでありました。富士見町教会といえば植村正久という有名な神学者が初代の主任牧師となった由緒ある教会です。

草川は童謡で広く知られ「ゆりかごの歌」「どこかで春が」「汽車ポッポ」「夕焼小焼」など多数の名曲を残しています。ヴァイオリニストだった影響でしょうか、流れるような旋律が特徴でどれもわらべうた的な雰囲気で抒情的です。

ついでですが、「夕焼け小焼け」の作詞家中村雨紅は八王子市の上恩方というところの出身です。

心に残る名曲 その二百 日本の名曲 近衛秀麿 「越天楽」

このシリーズも200回目となりました。近衛秀麿を取り上げます。学習院大学を卒業後、東京大学文学部に入る近衛は、日本の音楽史上忘れてはならない作曲家、指揮者でしょう。1898年生まれです。1915年から16年まで近衛は山田耕筰に作曲法を学びます。1923年にヨーロッパに留学し、パリではヴィンセント・ダンディ(Vincent d’Indy)という作曲家で指揮者に学びます。ベルリンではマックス・フォン・シリングス(Max von Schillings)に作曲法を、指揮法はエーリヒ・クライバー(Erich Kleiber)に学びます。

1925年に帰国後は、山田耕筰の日本交響楽協会の結成に加わり、その後新交響楽団を組織します。彼は欧米に12回にわたり出掛け、90あまりの交響楽団を指揮するという珍しい経歴があります。近衛秀麿は日本人として初めてベルリン・フィルを指揮した人でもあります。北原白秋の詩に作曲した「ちんちん千鳥」、雅楽の「越天楽」などが知られています。

日本を代表する指揮者であり、またナチス政権下のドイツ・欧州でユダヤ人演奏家の亡命をサポートしていたという事実が近年話題となっています。その人物が近衛秀麿だというのです。「玉木宏 音楽サスペンス紀行〜亡命オーケストラの謎〜」が放映され、近衛秀麿のヨーロッパにおける第二次大戦まえの行動が描かれています。

心に残る名曲 その百九十九 日本の名曲 大中寅二 「椰子の実」

大中寅二は1896年生まれの作曲家です。同志社大学経済学科を卒業し、やがて山田耕筰に学びます。1920年からは東京の霊南坂教会のオルガニストを務めます。1925年にドイツに留学し、そこでヴォルフ(Leopold Wolff)に師事して作曲法を習得します。

帰国後は東洋英和女学院短大などで教え、やがて有名となる歌曲「椰子の実」を差曲します。1932年の第一回音楽コンクールの作品部門で入賞します。宗教音楽の分野での作品が多く、「主よ憐れみ給え」、「ヨブ」、「四季の頌」など、20曲あまりのカンタータ(Cantata)を発表しています。カンタータを作曲するというのは、日本の音楽史上、初めてではなかったでしょうか。

大中寅二の息子が大中恩です。作曲家や指揮者として知られています。彼は信時潔に師事します。今も日本の合唱団のレパートリーで重要な位置を占める作曲家です。もっぱら子どもの歌と合唱作品を残します。阪田寛二とのコンビで「サッちゃん」などで知られています。

島崎藤村

椰子の実
 名も知らぬ 遠き島より
  流れ寄る 椰子の実一つ
   故郷の岸を 離れて
    汝はそも 波に幾月 (島崎藤村作)

心に残る名曲 その百九十八 日本の名曲 成田為三と 「歌を忘れたカナリヤ」

秋田県出身の作曲家成田為三です。生まれは1893年。1914年に東京音楽学校に入学し、山田耕筰に教えを受けます。現在の東京芸術大学です。在学中、ドイツから帰国したばかりの山田耕筰に教えを受けます。1916年にはすでに「浜辺の歌」を作曲するという才能を示します。この曲は、国民的作品として今でも広く歌い続けられています。

成田為三

1917年に同校卒業後、九州の佐賀師範学校教師となりますが、作曲活動を続けるために東京に戻ります。そして1922年にドイツに留学します。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言われるロベルト・カーン(Robert Kahn)に師事し、和声学、対位法、作曲法を学びます。1926年に帰国後、留学中に学んだ対位法の技術をもとにした「対位法初歩」、「和声学」、「楽式」、「楽器編成法」といった理論書を著すのです。為三は、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し輪唱曲集なども発行します。

歌を忘れたカナリヤ」が「赤い鳥」誌上で発表されます。「赤い鳥」は、1918年に詩人鈴木三重吉が創刊した童話と童謡の児童雑誌です。この雑誌に為三作曲の楽譜の付いた童謡がはじめて翌1919年の5月号に掲載されます。新鮮にして甘美なメロディーが日本中の子どもたちの心をつかんだといわれます。

当初、鈴木三重吉も童謡担当の北原白秋も、童謡に旋律を付けることは考えていなかったようです。ですが5月号の楽譜掲載は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相を見せるようになったといわれます。北原白秋の「からたちの花」が発表されたのも「赤い鳥」です。「赤い鳥」によって児童文学運動は一大潮流となるのです。日本の文学史上、先駆的な雑誌になったことがわかります。

心に残る名曲 その百九十七 日本の名曲 信時 潔 「海ゆかば」

歌も作詞家も作曲家も先の大戦に巻き込まれた歴史があります。誰が非難されるべきかではなく、どうしたらこのような悲劇的な歴史を繰り返さないようにすべきを考えたいものです。作曲家、信時潔の作品から特にそう感じます。彼は1887年、大阪生まれです。少年の頃から賛美歌に親しんだといわれます。東京音楽学校でチェロを学びながら対位法や和声楽を学びます。そして1920年にチェロと作曲研究のためにドイツに留学します。帰国後は、留学生が必ず保証されている同学校の教授となります。

信時 潔

1937年、大伴家持の歌詞「海ゆかば」を作曲します。大戦中、「海ゆかば」は国歌より多く歌われていたといわれます。そういえば国立競技場における学徒出陣の際も、最後に学生も観客もこの歌を歌っています。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
 山行かば 草生(くさむ)す屍
  大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
   かへり見はせじ

信時が得意の賛美歌でレクイエム調の荘厳な歌曲としたようです。太平洋戦争末期に大本営が玉砕を報じる時にそのテーマ曲に使われたといわれます。

心に残る名曲 その百九十六 日本の名曲 本居長世の「青い眼のお人形」

本居長世は1885年に東京に生まれます。1908年に東京音楽学校を卒業し作曲活動に始めます。「青い眼の人形」、「めえめえ小山羊」、「汽車ぽっぽ」、「七つの子」、「靴が鳴る」などのわらべ歌は今も愛唱されています。

近世の邦楽に多く用いられる半音を含む五音階である「都節音階」によって感傷的でなにか古いムードをたたえた作品が多いようです。「都節音階」とは、ミ、ファ、ラ、シ、ドを基調とし四拍子や八分の六拍子による曲調です。

その他にも「十五夜お月さん」、「通りゃんせ」、「お山の大将」、「赤い靴」などを作曲します。箏の宮城道雄らととともに新日本音楽運動を起こし、邦楽界に大きな刺激を与えた作曲家といわれています。

心に残る名曲 その百九十五 日本の名曲 弘田龍太郎と「浜千鳥」

弘田龍太郎は1892年に高知県安芸市に生まれます。1914年に東京音楽学校器学部ピアノ科を卒業します。そして1928年に文部省留学生としてベルリン大学で学び、作曲とピアノを研究します。帰国後は、東京音楽学校教授となります。その後は、母校を去って作曲活動に専念していきます。ラジオの子ども番組の指導や児童合唱団を指揮したりしていきます。

弘田龍太郎

晩年は幼児教育に携わり、歌曲と童謡を多く作曲します。リズム遊びの指導などもやります。作品にはヨナ抜き長音階の旋律が圧倒的に多いのが特徴です。ヨナ抜き長音階とは、日本固有の五音音階のことです。例えば、「ドレミソラ」のように「シ」の音がないという具合です。西洋音楽ではドで終止するという考え方がありますが、ヨナ抜きではラとかレで終わります。「君が代」もそうです。

浜千鳥」のような感傷的なものから「雀の学校」のように単純明快まであります。その他、「靴が鳴る」 「叱られて」 「雨が降ります」など短調の曲ですが、叙情溢れる作品です。北原白秋らとの共作も目だちます。

心に残る名曲 その百九十四 日本の名曲 中山晋平と 「証城寺の狸囃子」

長野で1887年に生まれます。中山晋平がその生涯で作曲した作品は、童謡、新民謡、流行歌、その他判明しているだけで1,800位の作品があるといわれます。ものすごい作曲活動です。ここでは、その数多くの作品の中から代表的なものをとりあげます。

中山は島村抱月の書生となります。島村は明治から大正に活躍した演出家、劇作家です。1912年に音楽学校を卒業し、抱月主宰の芸術座公演の劇中歌「カチューシャの唄」を作曲し、これがたいそうな評判を得ます。劇中で松井須磨子が歌ったのが有名です。その後『ゴンドラの唄』など多くの劇中歌を作曲,それらは洋楽スタイルによる最初の近代的な流行歌であったといわれます。

松井須磨子と島村抱月

野口雨情作詞の「波浮の港」、「出船の港」など民謡風で芸術的な作品のほか、新民謡では「須坂小唄」、童謡では「証城寺の狸囃」「あの町この町」など多数の傑作を生みます。千葉県木更津市の證誠寺にまつわる伝説からとったのが「証城寺の狸囃子」といわれます。

熱海の中山晋平記念館

以後,民謡の特徴を生かした童謡,歌謡曲などを作り、大衆音楽に貢献します。独特の明快な日本的、庶民的な歌のスタイルが伝わりま。今日の演歌にも通じます。今日の大衆歌曲の道を拓いたともいえそうです。

心に残る名曲 その百九十三 日本の名曲 中田 章 「早春賦」 

中田 章

中田章は1886年に東京生まれの作曲家でオルガニストです。1905年に東京音楽学校で学んだのち,やがてオルガンや音楽理論を教えました。
作曲家としては,春を待ちわびる思いを歌った唱歌「早春賦」によってたいへん有名になりました。この曲は,大正初期に,同じ東京音楽学校で国語を教えていた吉丸一昌が詩を書き,同僚だった中田章に作曲を依頼して生まれたものです。

吉丸一昌はドイツ歌曲『故郷を離るる歌 Der letzte Abend』の訳詩をしたことでも知られています。
  春は名のみの 風の寒さや
   谷のうぐいす 歌は思えど
    時にあらずと 声もたてず
     時にあらずと 声もたてず

「早春賦」はモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)作曲「春への憧れ(K596)」と非常に曲想が似通っているといわれます。両方を聞きくらべてみてはどうでしょうか。

心に残る名曲 その百九十二 日本の名曲 山田耕筰「からたちの花」

日本の西洋音楽の分野で初めて本格的な活動を行った作曲家で指揮者が山田耕筰です。大正から昭和の時代にかけ,日本における西洋音楽の基礎を作るうえで,創作と演奏の両面にわたって大きく貢献します。

山田耕筰

山田は1886年,東京に生まれます。少年時代に両親を亡なくしたため,イギリス人宣教師と結婚した姉夫婦のもとで育てられます。この義理の兄が東洋英和学校の教師として赴任していたジョージ・ガントレット(George E. Gauntlett)で、彼から音楽を教わるのです。東京音楽学校の声楽科を卒業後,実業家の岩崎小弥太の援助を受けて,24歳からドイツのベルリンの音楽院に留学し,伝統的なドイツ音楽の作曲を学びます。和声法、対位法、音楽形式、管弦楽法など、西洋古典音楽の正統的な作曲技法の修得です。東京音楽学校には作曲科すら開設されていなかった時期です。

1914年,28歳で帰国してからは日本初の管弦楽団を指揮したのをはじめ,大小さまざまな演奏会を開いて日本に西洋音楽を広めます。さらに,自らも多くの作曲を行い,国内だけでなく海外でも作品を発表しました。彼の作品の数はたいへん多く,オペラや管弦楽曲から映画音楽まで幅広いジャンルにわたっています。

管弦楽団の運営に失敗し、1926年に茅ケ崎に移住します。この地の穏やかな環境で創作意欲を取り戻し、歌曲や童謡の作曲にも取り組みます。三木露風の詩「赤とんぼ」や「この道」などの名曲が茅ヶ崎で生まれます。北原白秋の詩による「からたちの花」、「待ちぼうけ」、「砂山」など数多くの名曲を残し,その旋律は言葉のアクセントを生かし,日本語が自然に美しく歌われるように工夫されています。

三木露風

心に残る名曲 その百九十一 日本の名曲 滝廉太郎と「荒城の月」

西洋音楽黎明期の代表的な作曲家の一人が滝廉太郎であるとWikipediaにあります。1890年に15歳で東京音楽学校に入学し、本科をへて研究科へ進みます。そしてピアノ奏者となります。1900年に聖公会博愛教会にて洗礼を受けます。

1901年、文部省派遣留学生として、ドイツのライプツィヒ王立音楽院(Hochschule fur Musik und Theater Felix Mendelssohn Bartholdy Leipzig)に入学します。そこでピアノや対位法を学びます。音楽院に入った2か月後に肺結核により、1年後には帰国を余儀なくされます。そしてわずか23歳にて夭折します。文部省中学唱歌となる「荒城の月」、「箱根八里」は特に有名です。その他、「花」、「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」などがあります。

1900年に発表された「春のうららの隅田川」という曲は「四季」のうちの1曲です。素晴らしい伴奏が響きます。その楽譜の初頭で、滝は西洋音楽の模倣を脱し、日本人作曲家として「芸術歌曲」を創出してゆく自覚を喚起しているといわれます。ほとんどの作品が歌曲です。滝は、山田耕筰らとともに西洋音楽理論を用いて創作を試みた最初期の作曲家といわれます。

箱根旧街道

心に残る名曲 その百九十四 日本の名曲  岡野貞一と「ふるさと」

鳥取市の鳥取城跡にある久松公園入り口に作曲家、岡野貞一と「ふるさと」の歌碑が建っています。 鳥取城は、元鳥取藩主池田家の居城がですが、現在天守閣などの城はなく、石垣や壕が残っています。近くには洋風建築で国の重要文化財となっている仁風閣があります。

岡野貞一は1878年に鳥取で生まれます。1895年東京音楽学校に入学し、その後1918年より文部省の尋常小学校唱歌の作曲委員となります。1932年まで東京音楽学校で教鞭をとり、数々の曲を作っていきます。東京のメソジスト教派、本郷中央教会のオルガニストや聖歌隊の指揮者として実に実に43年間、礼拝奏楽を担当します。

岡野貞一

この教会にカナダ製の最初のパイプオルガンが設置されたのが1890年。英国ウェールズから東洋英和学校の教師として赴任していたジョージ・ガントレット(George E. Gauntlett)が初代の聖歌隊長、オルガニストとなります。彼はオルガン技師でもありました。妻は山田耕筰の姉の山田恒子でした。その後、岡野貞一を本郷教会のオルガニストとして指名するのです。

岡野の作品も最も知られているのが「ふるさと」です。1914年に尋常小学唱歌の第六学年用として採用されます。作詞は高野辰之で、その後も高野と一緒に作ったのが「おぼろ月夜」、「春の小川」、「春が来た」、「紅葉」などです。「ふるさとを思い起こす歌」の人気投票では、岡野の「ふるさと」が常に第一位の地位を保っています。

 こころざしをはたして いつの日にか帰らん
  山はあおき故郷 水は清き故郷

心に残る名曲  その百九十三 ヨハネス・オケゲム Qu’es mi vida, preguntais

中世ルネッサンス音楽に戻り、しばらく西洋の音楽家から離れることにします。ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem)は、中世ルネッサンス音楽を席巻したといわれるフランドル楽派(Franco-Flemish school)の作曲家です。すでにこのブログで取り上げてきたデュファイ(Guillaume du Fay)やジョスカン・デ・プレ(Josquin des Pres)と同じく15世紀の半ばに活躍した作曲家といわれます。

現存する作品はごくわずかで、14のミサ曲、レクィエム、9つのモテット、バンショワ追悼のシャンソン・モテット、21のシャンソンだけです。オケゲムのミサ曲のうち13曲は、15世紀後期の筆写譜集「キージ写本」(Chigi codex)によって伝承されています。「キージ写本」とはフランドル(Flemish)地方の音楽原譜集のことです。

オケゲムの曲です。「死者のためのミサ曲」(Missa pro Defunctis)は、現存する最古のポリフォニックなレクィエムといわれています。多声部の響きが敬虔さ伝えています。ごくわずかの現存する作品の中で技巧を凝らした36声部のための「主に感謝せよ」 (Deo gratias)、「私の愛する人」(Ma maitresse)は、オケゲムの表情豊かな音楽と作曲技法を伝えてくれています。

Johannes Ockeghem

デ・プレに強い影響を与えたように、カノン(canon)という複数の声部が同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する様式用いた「キリエ」(Missa Prolationum-Kyrie)は美しい音を響かせています。オケゲム自身が著名なバス歌手で聖歌隊指揮者でもあったことから、オケゲムの多声部におけるバスの旋律はかなり込み入っており、複雑な響きを与えています。

心に残る名曲  その百九十二 レハール 「金と銀」

ワルツ「金と銀」(Gold and Silber)やオペレッタ「メリー・ウィドウ」(Merry Widow)などで知られるハンガリーの作曲家がフランツ・レハール(Franz Lehar)です。オペレッタについては、どこかで喜劇とか小喜劇と呼ばれ、ハッピーエンドで終わる歌劇のようなものであることを述べました。レハールの父親は軍楽隊長で、12歳のときプラハ音楽院(Prague Conservatory)に入学し,ヴァイオリンを学びます。ドヴォルザーク(Antonin Dvorak)らに作曲技法を学び、軍楽隊長を経てウィーンでオペレッタ作曲家としてデビューします。1902年からウィーンの劇場で指揮者として活動を始めます。

1905年に「メリー・ウィドウ」を発表するとウィーンを熱狂させたといわれます。この作品は,以後ドイツ各地,ペテルブルグ(St. Petersburg),ミラノ(Milan),ロンドン(London),ニューヨーク(New York)などで相次いで上演されます。「金と銀」ですが、ワルツのリズムに乗った流麗な旋律がオペレッタの特徴です。当時流行していたダンスのリズムや民族的な素材を取り入れ、和声的、対位法の技巧を駆使し旋律をいっそう豊かにしています。

FRANZ LEHAR Franz Lehar 30 April 1870 ? 24 October 1948 known in Hungarian as Lehar Ferenc Austrian composer of Hungarian descent, mainly for his operettas Credit: Peter Joslin / ArenaPAL

心に残る名曲 その百九十一 バルトークと「Divertimento」

バルトーク(Bartok Bela)はルーマニアで生まれハンガリーの作曲家です。ハンガリーのブダペスト王立音楽アカデミーに学びます。ブラームスの影響を受けた作曲活動にも取り組んでいたバルトークは、1898年にはウィーン音楽院に入学を許可されます。

Bartok Bela

しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだという、同じハンガリーの作曲家ドホナーニ(Ernst von Dohnanyi)の助言に従い、翌年ブダペスト王立音楽院(Royal Academy of Music,)、後のリスト音楽院に入学します。1903年にシュトラウス(Richard Strauss)から強い影響を受けて、1848年に起こったハンガリー独立戦争を題材にした交響詩「コッシュート」を作曲します。ハンガリー独立運動の英雄コシュート(Kossuth Lajos)への賛歌であったため世論を騒がせたといわれます。

Koday Zoltan

1905年からはコダーイ・ゾルタン(Koday Zoltan)とともにマジャール民謡,近隣諸民族の民謡の採譜と研究を開始します。その調査はやがてトルコや北アフリカにも及んだといわれます。これらの民謡の徹底した分析を通じての多くの民族音楽の特性を発見しますが、保守的なハンガリー音楽界にあってコダイとともに苦闘したようですが、研究成果はその後の創作上の源泉となっていきます。1907年、26歳でブダペシュト音楽院ピアノ科教授となります。

Ernst von Dohnanyi

1920年代後半から1930年代にかけて創作力は絶頂期を迎え,「弦楽四重奏曲第3番」、「同第6番」、「Divertimento」などを作曲していきます。第二次世界大戦が勃発し、ハンガリーももはや民俗音楽を研究できる環境ではなくなります。ナチスの文化政策などを嫌い、バルトークは1940年にファシズムの脅威が迫る祖国をあとに米国に亡命します。

心に残る名曲 その百九十 エネスク 「Oedipe」

ルーマニア(Romaniaの作曲家にジョージ・エネスク(George Enescu)がいます。ルーマニアといえば、1989年12月にニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceausescu)の独裁政権が市民革命によって打倒され、民主化へ踏み出した記憶に新しいことです。ですがその後の民主化の道のりは今なお険しいようです。

エネスクは7歳のときにウィーン音楽院(Vienna Conservatoryに入りヴァイオリンを学び始めます。1894年にはブラームス(Johannes Brahms)と親交を結び、本格的な古典音楽のスタイルを学びます。1895年にパリへ聴き、パリ音楽院では和声、対位法、古楽など作曲に関して幅広く学びます。1899年にパリ音楽院(Paris Conservatory)のコンクールでヴァイオリン部門において最高賞を受賞します。

演奏家として幅広いレパートリーを持ち、ほぼ全ての作品を暗譜で演奏、指揮することができるほど、音楽史上の音楽家の作品を研究していたといわれます。バッハ(J. Bach)やワーグナー(R. Wagner)への傾倒するような作品や、新古典主義の風潮、半音階による複雑な旋律などの作風を表していきます。

エネスクの器楽曲では技巧に彩られた多彩な旋律が伸びやかに演奏されます。ルバート(rubato)というテンポにとらわれず、自由に感情表現を行う演奏の仕方を駆使して作曲します。祖国ルーマニアの音楽を題材にした作品も多く創作しています。「パルランド・ルパード」(Parlando rubato)というルーマニアの民族的哀歌の旋律は全作品を通じて現れ、その装飾的な音の動きはエネスクの特徴の一つといわれます。「Balada pentru vioara」、「Rumanian Rhapsody」、「Legende」、「Oedipe」などの作品にそれが伺えます。

心に残る名曲 その百八十九  ロッシーニ 「ウィリアム・テル」序曲

ジョアキノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini)はイタリアの作曲家。多数の歌劇(オペラ)を作曲しています。父はトランペット奏者、母は舞台での袖役の歌手でした。そのようなわけで、劇場で少年時代を過ごしたようなものです。同時に怠け癖の多い少年だったといわれます。14歳のときにボローニアの音楽学校(Bologna’s Philharmonic School)に入学します。ヴァイオリン、ホルン、ハープシコード(harpsichord)を習います。やがて指揮者の見習いとなり、ハイドンやモーツアルトに感化されていきます。それから20年の間、40余りの歌劇を作曲するのです。

多くの歌劇のなかで「セビリアの理髪師」(The Barber of Seville)、「セミラーミデ」(Semiramide)、「アルジェの女」(The Italian Woman in Algiers)、「シンデレラ」(Cinderella)、「泥棒かささぎ」(La gazza ladra) などが有名です。なかでも「ウイリアム・テル」(William Tell)は劇的な歌劇として、序曲が広く演奏されています。

Statue of Swiss medieval folk hero William Tell / Wilhelm Tell with son and crossbow in the city Altdorf, Uri, Switzerland

「ウイリアム・テル」はロッシーニの最後の歌劇となります。この歌劇は、スイス人の民族主義と自由、そして独立ということをテーマにしています。弓矢の名手、ウィリアム・テルはハプスブルク家の支配に立ち向かい、やがて彼は英雄として迎えられます。これをきっかけに反乱の口火を切り、スイスの独立に結びつくという伝承を元にしています。

しかし、歌劇「ウイリアム・テル」は、権力に抵抗する革命的な人物を賞賛しているという理由でイタリア人検閲官と摩擦を起こし、イタリアでの上演が制限されたといわれます。それだけ「ウイリアム・テル」という人物もこの曲もイタリアの庶民の間で好感を呼んでいたということでしょう。

心に残る名曲 その百八十八 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第五番「皇帝」

Krystian Zimermanのピアノ、ウィーンフィル(Wiener Philharmoniker)の演奏、Leonard Bernsteinの指揮によるピアノ協奏曲第五番「皇帝」(The Emperor Concerto) は、聴いていて誠にしびれを感じるようです。この演奏を生で聴いた人は幸いなるか、といいたいほどです。

この曲名「皇帝」とは、もちろんナポレオン(Napoleon Bonaparte)を指すと思われます。しかし、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)はドイツ人ですから、どのような心境でこの曲を作ったのかは興味あることです。Emperorという響きからベートーヴェンは、彼なりに英雄としてのナポレオンに敬意を表していたのではないかと想像できます。

Krystian Zimerman

第1楽章はアレグロ(Allegr)変ホ長調で、独奏協奏曲式ソナタ形式です。驚くことに、いきなりピアノの独奏で始まります。このような出だしは他に知りません。展開部は木管が第1主題を奏して始まり、豪快に協奏しながら第1主題を中心に展開してゆきます。

第2楽章はアダージョポオモッソ(Adagio un poco mosso)と付けられ、穏やかな旋律が響きます。全体は3部からなっており、第3部は第1部の変奏となっています。章の最後で次の楽章の主題を変ホ長調で予告するかのようで、そのまま続けて3楽章に流れていきます。

Leonard Bernstein

最終楽章はロンドアレグロ(Rondo Allegro)といわれ、ソナタ形式で快活なリズムで始まります。ホルンの通奏低音が入り、終わり近くでティンパニが同音で伴奏する中で、ピアノが静まっていきます。

心に残る名曲  その百八十七 オッフェンバック 「天国と地獄」序曲

ジャック・オッフェンバック(Jacques Offenbach)は1819年、プロイセン王国(Kingdom of Prussia)のラインラント州(Rhineland)ケルン(Cologn)に生まれます。父親はユダヤ教シナゴーグの聖職者でした。一家はユダヤ人に対して寛容であったフランスに移住し、1833年には、オッフェンバックはパリ音楽院(Paris Conservatoire)のチェロ専攻の学生となります。1844年にはカトリック教徒に改宗します。そしてフランス劇場(Theatre Francais)の指揮者となり本格的な作曲活動に入ります。

Jacques Offenbach

オッフェンバックは、歌詞と踊りのあるオーケストラ付きの音楽「オペレッタ」(Operetta)の原型を作り、音楽と喜劇との融合を果たした作曲家といわれます。オペレッタは、基本的には喜劇であって軽妙な筋と歌をもつ娯楽的な作品が多く、終りはハッピーエンドとなるようです。オペレッタ「地獄のオルフェ」(Overture From Orpheus in the Underworld)の別題が「天国と地獄」です。通常は序曲の第3部を指すことが多いといわれます。 ホフマン物語からのホフマンの舟唄( The Tales of Hoffmann)は実に優雅なワルツです。

絶世の美女スパルタ王妃ヘレネの話をパロディー化した「美しきエレーヌ」 (La Belle Helene)は見ていて楽しい喜劇です。プロイセン帝政下で問題となっていた社会的地位のある人々の不倫などを風刺しているようです。「 La Périchole」という喜劇は二人の貧しい女性歌手を愛人にしよとする好色な総督の物語です。

The Tales of Hoffmann

心に残る名曲 その百八十六  ムソルグスキー 「展覧会の絵」

ロシアの作曲家ムソルグスキー(Modest Musorgskii)はロシア国民楽派五人組の一人ロシアといわれます。地主の子として生まれ,軍人を志して陸軍士官候補生となりますが、1858年に退役します。そしてバラキレフ(Mily Balakirev)に師事して作曲法を学びます。

Modest Musorgskii

この頃のロシアですが、1861年の農奴解放令により身分的規制は解消されたにみえますが、土地取得は有償のままでした。そのため農民の大半は債務を負って地主に対する隷属が強められ,また離村して都市労働者となるものも多かったといわれます。農村や農民は疲弊します。帝政末期が近づき革命が迫る頃です。

農奴解放による経済的打撃で、ムソルグスキーは1863年より官吏となりますが、飲酒癖から健康を害しながらも作曲を続け,ピアノ曲,交響曲,オペラ,歌曲などを作曲します。ロシア固有の旋法や大胆な和声,変則的なリズムを豊富に使った独自なスタイルは,印象派のドビュッシー(Claude Debussy)をはじめ,近代音楽の作風に大きな影響を与えたといわれます。主な作品はオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」(Boris Godunov),交響組曲「展覧会の絵」(Pictures at an Exhibition)、その他交響詩「はげ山の一夜」(Night on Bald Mountain) ,歌曲集「子供部屋」(The Nursery, The Cycle of Songs)などで知られています。

心に残る名曲  その百八十五 シューマン 交響曲第1番 変ロ長調 「春」

再び古典派の音楽に戻ります。文学に造詣が深い作曲家の一人に、ロベルト・シューマン(Robert Schumann)がいます。文学から得た詩的な幻想を創作に活かすのです。作品に様々な題名を付けたのがシューマンです。ピアニストのクララ(Clara Wieck-Schumann)との恋愛と結婚は、シューマンの創作活動に多大な影響を及ぼしたといわれます。

ピアノソナタ第3番「子供の情景」(Kinderszenen)のように、大人が見た子どもの日常の様子を精密に綴ったもの、ピアノソナタの「フモレスケ」(Humoreske)変ロ長調は詩として劇として展開されている曲です。交響曲第1番 変ロ長調 「」は、春というイメージを言葉ではなく、音によって詩にしたようです。壮大で壮麗な第一楽章は長い冬が明けた喜びや草花の息吹を感じさせてくれます。

ピアノ曲「謝肉祭」や「交響的練習曲」、「詩人の恋」など、詩は主題や対象を説明するのではなく、暗示的に表現するものとなっています。す。「謝肉祭」では、小品の集まりが一つの曲として構成されていて、文学的で幻想的な構成となっています。音楽は描写するのではなく、主題を暗示するものだと考えていたようです。

作曲家の中には、自然や生活の細部を描写する表題的な音楽としたり、技巧を追求する構成とする音楽を作る人もいます。シューマンは少し違うようです。詩は着想を得る契機とするのであり、詩を音楽で表現するのではないと主張しているようです。このあたりの解釈は私にはわかりかねます。

心に残る名曲 その百八十四 ジェームズ・ホーナー「2001年宇宙の旅 」

あまり聞き慣れない作曲家ですが、「2001年宇宙の旅」(2001: A Space Odyssey)の映画音楽作者といえば思い出されるかもしれません。ジェームズ・ホーナー(James Horner)はカリフォルニア州・ロサンゼルス出身。英国王立音楽アカデミー(Royal Academy of Music University of London)‎においてユダヤ系ハンガリーの作曲家ジェルジ・リゲティ(Ligeti Gyorgy)の元で作曲を学びます。

その後南カリフォルニア大学にて学士号を習得し、UCLAの大学院に進み修士号を取得した後、同大学で教鞭をとっていたロジャー・コーマン(Roger Corman)という映画監督に見出され「ジュラシック・ジョーズ」(Up from the Depths)といったスリラー映画の曲を作ります。「宇宙の7人」(Battle Beyond the Stars)というSF映画で作曲も手がけます。「エイリアン2」(Aliens)、「タイタニック」(Titanic)、「アバター」(avatar)などの映画でも作品を作ります。、1968年作のスタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)監督の名画「2001年宇宙の旅」のサウンドトラックが有名です。

UCLAで音楽理論を教えていた強みからか、シンフォニックなものから「コクーン」(Cocoon)や「ニューヨーク東8番街の奇跡」(Batteries not Included)のジャズ風のものまで幅広い作風を駆使します。その意味で現代音楽の作曲家ともいわれ、クラシック音楽で実験的な作品を多く残します。民謡研究の延長線上で作曲した初期の管弦楽曲「ルーマニア協奏曲」(1951年)などがそうです。1961年の管弦楽曲「アトモスフェール」(Atmospheres)、1965年のソプラノとメゾソプラノの独唱、合唱、管弦楽のための「レクイエム」(Requiem)などの代表作を残します。

心に残る名曲 その百八十三  ビー・ジーズ 「Massachusetts」

1970年代後半に活躍したビー・ジーズ(The Bee Gees)は、イギリスとオーストラリア出身のポップーロックバンドです。当時最高の売り上げを誇り、その音楽スタイルを変化させながら、高いハーモニー、精錬された旋律、そして華麗な伴奏を従えて音楽界に多くのヒット曲を送りだします。

両親はオーストラリアに移住するのですが、子ども三人、バリ・ーギブ(Barry Gibb)、ロビン・ギブ(Robin Gibb)、そしてモーリス・ギブ(Maurice Gibb)はイングランドに戻ってビー・ジーズを結成します。別名、「Brothers Gibb」と呼ばれました。彼らの歌い方ですが、三声部の微妙なハーモニー、ロビン・ギブのビブラートをきかせたリードボーカル、そしてバリー・ギブのリズム/ブルース調の裏声(falsetto)が特徴です。1967年に大ヒットした「Massachusetts」という曲にそれがよくでています。

ビー・ジーズは映画音楽も作ります。1971年制作の「小さな恋のメロディ」(Melody)というワリス・フセイン(Waris Hussein)監督の映画では「Melogy Fair」というテーマ曲が流れます。11歳のダニエル(Daniel)、同じ学校に通うメロディという少女との恋を瑞々しく描いた作品でした。

ロビン・ギブは2012年5月に亡くなります。その時の葬儀の様子がYoutubeにあります。彼がいかにイギリスの人々から親しまれていたかが描かれています。2012年に「タイタニック・レクイエム」を製作します。生涯、菜食主義(vegan)を通したのですが、、、

心に残る名曲 その百八十二 エンニオ・モリコーネ 「夕陽のガンマン」

エンニオ・モリコーネ(Ennio Morricone)は 928年ローマ生まれの作曲家です。ローマのサンタ・チェチーリア音楽院(Conservatorio Santa Cecilia)で現代音楽の作曲家ゴッフレド・ペトラッシ(Goffredo Petrassi)に作曲技法を学んだ後、作曲家としてテレビ・ラジオ等の音楽を担当します。

Clint Eastwood

1950年代末から映画音楽の作曲、編曲、楽曲指揮活動に入ります。1961年のルチアーノ・サルチェ(Luciano Salce)監督の「ファシスト」(Il Federale)が処女作となった映画音楽となります。1960年代はセルジオ・レオーネ(Sergio Leone)監督とのコンビで、いわゆる「マカロニ・ウェスタン」作品で存在感を増していきます。1965年には「荒野の用心棒」の「さすらいの口笛」を、「夕陽のガンマン」、1966年の「続・夕陽のガンマン」(The Good, the Bad, and the Ugly) は迫力あるサウンド・トラックとして知られます。

Lee van Cleef

「マカロニ・ウェスタン」には善玉、悪玉、卑劣漢が必ず登場します。さしずめクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)、ジュリアーノ・ジェンマ(Giuliano Gemmma)、フランコ・ネロ(Franco Nero)などが善玉とすれば、リー・ヴァン・クリフ(Lee van Cleef)は悪玉でした。リー・ヴァン・クリフのような悪役がいてこそ盛り上がる映画です。彼の演技はしばしば語られるところです。

レオーネとのコンビはレオーネの遺作となった1984年の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(Once Upon a Time in America)まで続きます。1986年のイギリス映画「ミッション」(The Mission)で新境地を開拓、それ以後はイタリア国外でも評価が高まり、1987年には「アンタッチャブル」(Untouchables)でグラミー賞を受賞します。映画そのものよりも、サウンドトラック音楽で映画の人気を高めたものがモリコーネです。「マカロニ・ウエスタン」は、もともとは「Spaghetti Western」からの造語です。

心に残る名曲 その百八十一  ニーノ・ロータ 「ゴッドファーザー」

毎週楽しんだ「日曜洋画劇場」。その解説者だった淀川長治は「それではまた次回をお楽しみに、さよなら、さよなら、さよなら」と締め括っていました。「水曜ロードショー」の水野晴郎、「いやぁ、映画って本当にいいもんですね~」も忘れられない台詞です。今回は、作曲家のニーノ・ロータと映画「ゴッドファーザー」をとりあげます。

北イタリアのミラノ(Milan)出身の作曲家にニーノ・ロータ(Nino Rota)がいます。11歳でオラトリオ、13歳でオペラを作曲し、ミラノ音楽院(Conservatorio di Milano)で学びます。この学校は別名ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院(Giuseppe Verdi di Milano)とも呼ばれます。ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Maria Puccini)、ピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni)などの作曲家、そして指揮者のクラウディオ・アバド(Claudio Abbado)を生んだ学校です。後にサンタ・チェチーリア音楽院(Conservatorio Santa Cecilia)で学びます。

その後米国に渡り、カーティス音楽学校カーティス音楽学校(Curtis Institute of Music)でも修行します。イタリアに帰国後ミラノ大学(University of Milan)に入学し、文学と哲学を並行して専攻するという努力家です。大学卒業後は音楽教師となり、1942年以降、映画音楽の作曲も始めます。1951年、当時新進映画監督として注目を集めたフェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)と出会い、彼のほとんどの映画音楽を手懸けます。1950年から1978年にかけて、リセ音楽院(Liceo Musicale)の教師ともなります。

フェリーニ監督以外の映画音楽も多数手がけます。1956年作の「戦争と平和」(War and Peace)、1960年の「太陽がいっぱい」の音楽を作曲します。この映画は巨匠といわれたルネ・クレマン(Rene Clement)が監督を努めました。1972年に作られたフランシス・コッポラ(Francis Ford Coppola)監督の「ゴッドファーザー」(God Father)の音楽は、ロータの代表作となります。「愛のテーマ」は多くの人々に親しまれました。

心に残る名曲 その百八十 マックス・スタイナーと「タラのテーマ 」

マックス・スタイナー(Max Steiner)はオーストリア系のユダヤ系アメリカ人です。ウイーン(Vienna)で生まれます。14歳でオペレッタを作曲したといわれています。やがてウィーン国立音楽大学(Universität für Musik und darstellende Kunst Wien)で作曲法を本格的にまなびます。そのとき、グスタフマーラー(Gustav Mahler)の師事を得ます。スタイナーは持ち前の才能で4年の課程を1年で終えたと記録にあります。

Max Steiner

1914年にアメリカに移民し、ニューヨークの劇場指揮者となります。その後ハリウッドに移り本格的な映画音楽の作曲活動を始めるのです。それ以来、スタイナーは映画音楽作曲家の草分けといわれます。作品といえば、「キングコング」(King Kong) (1933)、Jezebel(1938)、「風と共に去りぬ」(Gone With The Wind)(1939)、「カサブランカ」(Casablanca) (1942)、Now Voyager (1942)、The Fountainhead (1949)など多数あります。

中でも「風と共に去りぬ」映画黄金期を代表する音楽です。南北戦争の前後の南部を舞台とし、 アイルランド系移民で一代で成功した農園主の娘スカーレット・オハラ(Scarlett O’Hara)という美貌と商才でたくましく生きる姿を描きます。この映画のメイン・テーマは壮大で抒情詩的スケールで悲壮感も漂います。「タラのテーマ 」が情感たっぷりに奏でられていました。

心に残る名曲 その百七十九  ヴァンゲリス 「炎のランナー」

ギリシャ人作曲家ヴァンゲリス (Vangelis)については、詳しいことがわかりません。小さい時からピアノを弾き、作曲もしたようです。高校時代からジャズバンドでピアノを弾き、音楽学校ではなく美術学校で映画と美術を学んだようです。

Vangelis

1981年に作られた映画「炎のランナー」(Chariots of Fire)の音楽を担当したヴァンゲリスは、1982年にアカデミー賞作曲賞を受賞します。ヴァンゲリスの音楽の特徴としては、旋律はシンプルで美しいことです。それだけに強く印象に残るものとなっています。この楽風は、ギリシャや地中海東部地域に古くから伝わる五音階旋法に基づいているようです。五音階旋法とは「ド」から「ソ」への飛躍とその逆です。この手法を好んで使うことが多いのは「炎のランナー」の序奏部分にそれがよく表れています。ヴァンゲリスはシンセサイザーを使うのも得意としていたようです。

「炎のランナー」は1924年のパリオリンピックを目指すイギリス青年の生き方を描きます。二人の陸上選手がオリンピックに出場します。その古い時代のエピソードを素材とした映画なのですが、現代的な楽譜にそってテーマ曲が流れます。

心に残る名曲 その百七十八 ポール・サイモンと「Bridge over Troubled Water」

ポール・サイモン(Paul Simon)といえば「Bridge over Troubled Water」でしょうか。1953年にサイモンとアート・ガーファンクル(Art Garfunkel)はニューヨークのブロンクス区(Bronx)の小学校で出会い、やがて親友同士となり 「Tom & Jerry」という名でデュエットを組みます。二人の最初にヒットした曲が「Hey Schoolgirl」です。1965年にサイモンは「The Sound of Silence」を作曲します。この曲は、電子ギターとドラムで弾かれていたのですが、やがてラジオやビルボード誌で爆発的な人気を得ます。特に思春期の初々しい心情を込めた調べで、学生や若者の心をとらえます。

1970年、ゴスペル調で讃美歌のような曲「Bridge over Troubled Water」を発表し、これも大ヒットします。ガーファンクルのテノール歌手のような歌い振りが特に受けたようです。「スカボロ・フェア」(Scarborough Fair)や「ボクサー」(The Boxer)のようなシンプルでフォーク調の曲は、ボブ・ディランの影響を受けたようなところもあります。サイモンは1970年にガーファンクルと別れ、シンガーソングライターとしてアフリカや南米などの伝統音楽をモチーフとした曲を作っていきます。

ガーファンクルと親交のあったマイク・ニコルズ(Mike Nichols)という監督が「卒業」(The Graduate)で「The Sound of Silence」を主題歌として採用します。この映画でこの曲はさらに広まりました。「卒業」は、ダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman)主演で共演はキャサリン・ロス(Katharine Ross)の青春映画でした。ホフマン演じる大学生ベンジャミン・ブラドックが故郷へ帰ってくる空港のシーンで流れてくるのが「The Sound of Silence」です。映画の最後には、結婚式の礼拝堂から恋人だった花嫁と一緒に逃げる場面がありました。

「The Graduate」から Mrs Robinson

心に残る名曲 その百七十七 ディランとエスニシティ

ボブ・ディランの生き方の下敷きとなっている宗教とかエスニシティ(ethnicity)を振り返り、このシリーズを終わりとします。エスニシティとは、「民族性」とかある民族に固有の性質や特徴のことです。ただ、この話題は少々微妙なところがあります。ディランの個人的な信仰や民族的な背景は複雑です。もしかしたら、彼の歌詞の語り手の原点にかかわることかもしれません。

ディランの祖父母はウクライナ(Ukraina)のオデッサ(Odessa)の出身で、その家族はアルメニア(Armenia)やコンスタンチノープル (Constantinople)に住んでいたユダヤ人です。19世紀後半からロシアで起こったポグロム(pogrom)というユダヤ系の人々に対する計画的な集団虐殺から逃れてアメリカに移住し、ミネソタ州ダルース近くのヒギンス(Higgins)という町に定住します。ミネソタに定住してからディランの父母は親族を呼び寄せたといわれます。ヒギンスにも反ユダヤ主義は強かったようです。ですがディランは当然ながら、ユダヤ法を守る宗教的・ 社会的な責任を持った成人男性となる儀式、バーミツワ(Bar Mitzvah)を受けます。

アメリカに移住した人々は、しばしば主流社会の人々から偏見を持たれてきました。こうしたエスニックなルーツを持つことにディランはどのような態度で音楽活動に臨み、そのエスニシティが音楽に顕れたが気になります。ディランの元の姓は「Zimmerman」でしたが、これを意図的に改姓するのです。自己否定とはいわないまでも、彼の屈折した態度が改姓に顕れているような気がします。アメリカの主流社会に同化しようとしたのかもしれません。

ディランの歌詞を読んでみると、アメリカ主流の福音的な人々などの聴き手が容易に共感できるような語り口でないようなところも感じます。「意味不明」という世評です。ですがディランは、特定の宗教やエスニシティに即した感情や思想を持とうと持つまいと、あまり憶することなく歌うという姿勢が感じられます。たとえ仏教徒でもカトリック教徒でもイスラム教徒でも、黄色人種でも黒人でも受け入れられているような気がします。

通常、歌詞の語り手は、エスニシティを特定できるように自己を提示することはしません。多くのアメリカ人が共鳴できる、特定不能な超越的な自己による語り手を目指すものです。ディランの歌には、反体制的な志向とか若者文化へ寄り添うような歌詞はそう多くはないといわれます。社会の規範や道徳に対して、あからさまに挑戦するような歌い手でもないようです。放浪者のイメージや抑圧や拘束を嫌う自由人のイメージはありますが、アメリカ主流社会の感性をなで切りにするものでもありません。それが世界中から彼の歌が受け入れられている理由のようです。