ヨーロッパの小国の旅 その二十三 ユーゴスラビアとチトー

私には、セルビアという国名よりも「ユーゴスラビア」のほうが親しみがあります。この理由はなんといっても強力な指導者であったチトー(Josip Broz Tito)という人の存在があります。丁度冷戦の時代、新聞やラジオで彼の名前はしばしば登場していました。そこにアジア、アフリカの第三世界と呼ばれた国々の指導者、たとえばエジプトのエジプトのナセル大統領(Gamal Abdel Nasser)、インドのネール首相(Jawaharlal Nehru)らが現れ、冷戦の緩和に役割を果たしていく頃です。

チトーが登場したのは、1941年から1945年にわたりナチスドイツなど枢軸国(Axis units)と戦った人民解放軍(パルチザン:Partizan)の総司令官を務めたときです。その間、民主的な臨時政府の設立を宣言するのです。ドイツの敗戦により、チトーはユーゴスラビア社会主義連邦共和国首相兼国防相に就任します。1946年1月、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められ、ユーゴスラビア連邦が誕生します。その初代首相に選ばれるのです。6つの構成国とは、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツゴビナ、クロアチア、スロバニア、そして北マケドニアです。

チトーは、ソ連からの自立を意図し距離を置いていきます。そのため、ソ連によるユーゴスラビアの衛星国化を目指していたスターリン(Joseph Stalin)はユーゴスラビア社会主義連邦共和国を「共産党・労働者党情報局」、別名コミンフォルム(Comin form)から除名します。その後、チトーはソ連型社会主義と対峙し続け、1948年にはスターリンと断絶し、独自の政治路線を敷いていきます。チトーは1953年から1980年まで大統領を務めます。その間、企業における労働者による自主管理によって資本は労働者所有となり、経営者は労働者が選ぶとか、各共和国に大幅な自治権を与えるといったユーゴ独自の自主管理社会主義を建設していきます。これがチトー主義(Titoism)と呼ばれる考えです。

チトーは国内では新聞などによる体制批判を認め、言論の自由をある程度認めるのです。国内のインフラ整備を推し進めて、年率6%の経済成長を達成していきます。医療費はすべて無料とし、識字率は91%まで向上させるのに貢献したといわれる指導者でした。「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」という多様性を内包する国を治めるのは容易なことではなかったと思われます。

チトーが大統領になっていた時には大きな民族問題が起こることはなく、1984年のサラエボ(Sarajevo)オリンピックが終わるまでは共和国体制を維持することができます。これもチトーのカリスマによって成り立っていたといわれます。1991年にユーゴスラビア紛争が勃発し血みどろの内戦に突入します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十二 セルビアとユーゴスラビア

バルカン半島の地図を見ますと、セルビア(Serbia)は8つの国に囲まれています。すなわち北はハンガリー(Hungary)、東はルーマニア、ブルガリア、南は北マケドニア(North Macedonia)、コソボ、西はモンテネグロ(Montenegro)、ボスニア・ヘルツゴヴィナ(Bosia & Herzegovina)、そしてクロアチア(Croaia)となっています。首都は国際都市といわれるベオグラード(Beograd)で、ドナウ川(Danube)とサバ川(Sava)の合流地点に位置します。

セルビアは1920年代の頃、ユーゴスラビア(Yugoslavia)の一部でありました。ユーゴスラビアは、「南スラブの地」(Land of the South Slavs)と呼ばれ、セルビア、スロベニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツゴヴィナ、クロアチア、北マケドニアを含む国でありました。長らくオスマン帝国やオーストリア-ハンガリー帝国の支配にありましたが、こうした国々は1918年に「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」(Kingdom of Serbs, Croats, and Slovenes)を結成し、南西スラヴ人の統一国家が誕生します。1929年にセルビア王のアレクサンダル1世(Alexander I)がクーデターを起こしユーゴスラビア王国として多民族国家が生まれます。

ユーゴスラビアといえば、長年大統領として政治的な手腕を発揮したチトー(Josip Broz Tito)を思い出します。今日も優れた政治家として知られています。第二次大戦後、チトーはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の大統領となります。ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者でもあり、憲法改正によって各共和国や自治州の自治権を拡大するなどして連邦にありながら、国の自治に腐心します。ソ連のスターリンとも距離を置く共和国でした。

アメリカやソ連ソ中立的なユーゴスラビアは「第三世界」(Third World)の国といわれたこともあります。中立的な立場から国際連合平和維持活動にも参加します。労働者自主管理とか市場社会主義、非同盟外交などの独自の社会主義思想によるチトーの政治姿勢は「チトー主義」(Titoism)と呼ばれました。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十一 コソボと紛争

コソボ(Kosovo)という国は、1990年代に新聞やテレビで内戦の悲惨な状況が報道された国です。「ヨーロッパの火薬庫」という代名詞のいわば中心ともいえる国です。人々の苦悩が詰まった国の一つといえるでしょう。小国が「ひしめく」バルカン(Balcan)半島の歴史は、島国にはない紛争と戦-いくさの歴史のような印象を受けます。

コソボは、バルカン半島にある小さな領土の国です。2008年に独立を宣言し、アメリカやヨーロッパ諸国はそれを認めるのですが、ロシアや中国、さらにEU諸国の一部、たとえばスペイン、セルビア(Serbia)、ギリシャやモンテネグロ(Montenegro)は独立を認めていません。2010年に国際司法裁判所(International Court of Justice)はコソボの主権を認める判決をだします。しかし、国際連合(UN)の安全保障理事会常任国であるロシアや中国の反対で国連への加盟は果たしていません。

コソボという呼び名は、セルビアで使われる「黒鳥の住む草原」(Field of Blackbirds)に由来します。中世期までセルビア帝国の支配にありましたが、コソボは15世紀中期から20世紀の初頭までオスマン帝国の支配下にありました。こうしてイスラム圏の拡大により、アルバニア人の人口が増えます。20世紀前半よりコソボはセルビアの一部となり、その後ユーゴスロバニア(Yugoslavia)に編入されます。イスラム教徒は東方正教会の人口を上回り、しばしば民族間の緊張が高まります。

コソボでは1991年、コソボ共和国としてユーゴスラビア連邦共和国からの独立を宣言します。ですが国際社会からはコソボは独立国と見なされず、ユーゴスラビア連邦の一自治州と見なされました。1998年にアルバニア人で結成された「コソボ解放軍」が反乱を起こし、コソボ紛争と呼ばれる内線に突入します。北大西洋条約機構(NATO)が介入しセルビア地区の空爆が実施され、セルビアによる統治はコソボから排除されていきます。

1999年のコソボ紛争後に採択された国連安全保障理事会決議にもとづきセルビア人部隊はコソボから撤退し、代わって国連コソボ暫定統治機構(UN Interim Administration Mission in Kosovo: UNMIK)の暫定統治下に入ります。2008年2月にコソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択し憲法を発布します。しかし、前述のようにロシアや中国が独立を認めず、バルカン半島における民族自決を掲げる少数民族国家、コソボのセルビアからの完全な分離独立は未だに不明な状況です。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十 ボヤナ教会のフレスコ画 

ヨーロッパの小国巡りをしています。ところが小国とはいえ、大国にない素晴らしい文化があることに驚きます。多様な民族、交易による人の交流、紛争、そして宗教心が民族の独自性を維持する力になったようでもあります。

ブルガリアの首都ソフィアから南西に8km。ヴィトシャ山(Vitosha)の麓に建つ小さな教会がボヤナ教会(Boyana Church)です。ブルガリア正教会(Bulgarian Othodox Church)の礼拝堂です。2階建ての教会は、10世紀後半に建てられ、その後13世紀と19世紀に増築されます。ブルガリア正教会は東方正教会(Eastern Orthodox Church)の一員です。

この教会が世界的に有名なのは、礼拝堂や拝廊の内部に描かれているフレスコ画です。現存するのは、古くから描かれていたフレスコ画の上に上書きされたもののようです。礼拝堂の壁画には、240人の人物像があり、89の聖書の箇所が展開されています。東ヨーロッパの中世美術の中でも、最も保存状態の良いものとされています。

礼拝堂へつながる廊下、拝廊にある18場面は聖ニコラオス(St. Nicholas)の生涯を描いています。「海での奇跡」という画面では、船と船乗りの帽子がイタリアのヴェネツィア(Venice)の船を思わせるといわれます。「アドリア海の女王」とか「水の都」と呼ばれたヴェネツィアからの影響だろうと察せられます。

教会の北壁には、教会を巨額の浄財によって支えた有力な信徒や貴族たちの肖像画群となっています、教会のフレスコ画の中でも最も印象的で迫真的な作品とされます。その肖像画には、貴族カロヤン(Sebastocrator Kaloyan)とその妻デシスラヴァ(Desislava)、あるいはブルガリア皇帝のコンスタンティン1世(Constantine I)や皇妃イリーナ(Queen Irina)などが描かれています。

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ヨーロッパの小国の旅 その十九 フレスコ画とリラ修道院

リラ修道院(Rila Monastery)はブルガリアに行くのでしたら是非訪れて欲しい場所です。この修道院はユネスコの世界遺産です。この修道院の見所といえば、聖母誕生教会(St. Mary Nativity Church)の壁や天井に極彩色で燦然と輝くフレスコ画(fresco)といえます。フレスコ(fresco)という言葉は、英語のfreshにあたるイタリア語です。文字通り「新鮮な」とか「爽やかな」という意味です。

フレスコ画とはですが、壁面に砂と石灰を混ぜた「石灰モルタル」を塗り、そのうえに水で溶いた顔料で絵を描いていく技法です。色の元である顔料そのものと、石灰が硬化する力で色を定着させていくので接着剤は使いません。乾燥すると石灰に膜が張られ、自然の保護膜ができるため、非常に耐久性が高くなります。さらに、石灰は元の石灰岩へと戻っていくため彩色大理石のようになり、何百年何千年と色あせない絵画ができるとも言われます。

フレスコで想い出すのが、人類最古の絵画と言われるアルタミラの洞窟壁画(Cave of Altamira)です。我が国の高松塚古墳の壁画もフレスコ画といわれます。時代はくだり、ヴァチカン(Vatican)にあるシスティーナ(Sistine)礼拝堂にあるミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti )が描いた「天地創造」、「最後の審判」、ラファエロ(Raffaello Santi)による「アテナイの学堂」、これらもフレスコ画です。2人ともルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家です。

リラ修道院に戻ります。フレスコ画のモチーフはいうまでもなく聖書物語です。聖書の36場面が描かれています。礼拝堂内に入ると無数のイコン(icon)で飾られたイコノスタシス(iconostasis)という壁が目に飛び込んできます。金箔が施されています。この壁は「聖障」と訳されていて、正教会と東方諸教会の聖堂では、聖所と至聖所を区切るのです。礼拝堂の壁、柱、梁、天井を埋め尽くす極彩色のフレスコ画はブルガリア宗教画の至宝でしょう。

リラ修道院にある博物館も見逃せないところです。そこにある秘蔵品は「ラファイルの十字架(Rafail’s Cross)」という縦横81×43 cmの木造の十字架です。その上に104の聖書の箇所が彫られ、650体の人物が描かれています。完成したのは1802年で、ラファイルという僧侶が作ったとあります。

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ヨーロッパの小国の旅 その十八 リラ修道院

ブルガリアの首都ソフィアの南、110キロ余りのところにリラ修道院(Rila Monastery)があります。ソフィアを旅するときは、一日かけて訪ねる価値があります。バスに揺られ2時間余り。途中のリラ村からは緑の深いリルスカ峡谷(Rilska River)を走ると、そこに忽然として男子の修道院が現れます。UNESCOの世界遺産、リラ修道院です。修道院は海抜1,100mのところにあり周りの山はロドペ山脈(Rhodope Mountains)です。

創建は10世紀に遡ります。聖リラ(St. Ivan of Rila)という僧がこの深い谷間を隠遁の地として選び礼拝堂を建てます。当時は、岩壁の洞窟を使ったと記録されています。やがて各地からやって来た若い求道者が現在の位置に教会堂などを建て始めたようです。

リラ修道院は、長い間ブルガリア帝国の支配者から厚い庇護を受けて文化や霊的な教育の中心として発展します。それはオスマン帝国の支配が始まるまで続きます。14世紀には、修道院としての規模となり充実します。リラ修道院の現存する最も古い建物は、修道院正面の門と大司教の正座、そして石造りの礼拝堂と塔でです。フレリョ塔(Tower of Hrelja)と呼ばれます。

16世紀にはいると修道院は数々の攻撃や破壊を受けます。しかし、マラ・ブランコビッチ(Mara Brankovic)というセルビア王国(Serbia)の王妃やロシア正教会などの援助で元通りに再建されるのです。修道院の宿坊は1816年に造られます。1833年、大火のために修道院は焼失しますが、当時有名な建築家アレクシ・リェッツ(Alexi Rilets)の設計と裕福なブルガリア人などからの多額の浄財とによって1862年に再建されます。修道院内の複合建築物には、ブルガリアの言語や文化を代表する書物や遺品を所蔵し、収蔵所としての役割を果たしています。

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ヨーロッパの小国の旅 その十七 第一次世界大戦後のブルガリア

1912年から1918にかけて二つのバルカン戦争(Balcan Wars)と第一次世界大戦が起こります。ブルガリアは第一次世界大戦ではドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国、オスマン帝国といった中央同盟国側として参戦します。しかし、同盟国は敗れ87,500名の将兵が亡くなり、多額の賠償を要求されます。1912年から1929年にかけて争いの地域から25万人以上の避難民がブルガリアに流れ込みます。ブルガリアの賠償問題は政治と経済に大きな打撃を与えます。

政情の不安によってツア・ボリス三世(Tsar Boris)による王政による独裁体制が敷かれます。1941年、ボリスはナチス・ドイツと軍事同盟を締結します。次いでドイツはソビエトへ奇襲攻撃作戦を開始します。この作戦名はバルバロッサ(Operation Barbarossa)と呼ばれました。特筆すべき出来事として、ブルガリアはホロコスト(Holocaust)に抵抗して本国からの移送を阻止し、枢軸国(The Axis)勢力下では戦時中ニユダヤ人の人口を増加させた唯一の国となりました。1943年にボリス三世が突然死去するとブルガリア内では反ナチズムの運動が起こります。

1944年にはソ連の侵攻を受け、王政が廃止され共和制が成立し、ブルガリア人民共和国としてソ連の衛星国家となります。3,000以上の旧政権の指導者や戦争犯罪人が処刑されます。ソ連の計画経済が導入され、工業化も進み国民総生産(GDP)も上昇します。1989年に共産党政権が崩壊し、2001年にはブルガリアの最後の国王であったシメオン・サクスコブルクゴツキ(Simeon Sakskoburggotski)が首相に就任します。サクスコブルクゴツキはブルガリア人民共和国成立後、エジプト、スペイン、アメリカへと亡命して1996年に帰国します。彼の手腕によってブルガリアの経済改革は回復方向に転じます。そして2007年には欧州連合(EU)へ加盟します。

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ヨーロッパの小国の旅 その十六 ブルガリアの首都ソフィア

ソフィア(Sofia)は、チェコ(Czech)のプラハ(Prague)、ポーランド(Poland)のワルシャワ(Warsaw)、ルーマニア(Romania)のブカレスト(Bucharest)、ハンガリー(Hungary)のブタペスト(Budapest)と並び、1944年に社会主義のブルガリア人民共和国の首都となります。

以下、Britannicaからの引用です。1443年以降、ソフィアはオスマン帝国のルメリア州(Rumeli)の州都となり、その後4世紀以上にわたってオスマン帝国の支配下におかれます。町にはトルコ人が住み16世紀にソフィアの都市設計と外観はオスマン様式となり、多くのイスラム教の礼拝所、モスク(Mosque)やハマーム(hammam)という伝統的な蒸し風呂の公衆浴場が設けられます。

町はブルガリア人の反乱者 (haiduk) によって1599年に数週間にわたって包囲されます。1610年、カトリック教会はルメリアのカトリック教徒のためのソフィア管区を設置し、1715年にカトリック教徒の大半が流出するまで維持されます。16世紀には126世帯のユダヤ人の世帯があり、ユダヤ教の会堂シナゴーグ(synagogue)が建てられます。

20世紀に飛びます。1989年に起こった一連の東欧革命の流れの中で共産党独裁が揺らぎ、ブルガリアでも民主化要求が高まります。東ヨーロッパ全体が共産党支配と抑圧からの解放の機運が高まるのです。1991年にはソ連が崩壊し、2001年にブルガリア共和国(Republic of Bulgaria)が誕生します。

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ヨーロッパの小国の旅 その十五 ブルガリアの歴史

ブルガリア(Republic of Bulgaria)は、東ヨーロッパの共和制国家です。世界地図を眺めますと「ヨーロッパの火薬庫」といわれたバルカン半島(Balkans)の東に位置し、北にルーマニア(Rumania)、東は黒海(Black Sea)に面し、南にギリシャ(Greece)とトルコ(Turkey)、そして西にセルビア(Serbia)、マケドニア(Macedonia)に接しています。実に複雑な地政学的な位置にあり、その歴史も複雑です。

中世期までの歴史は省き、その後のブルガリアの歴史を辿ってみます。第一次ブルガリア帝国(First Bulgarian Empire)は11世紀に東ローマ帝国に滅ぼされ、再び東ローマ帝国領となります。12世紀末に再び独立します。しかし、第二次ブルガリア帝国(Second Bulgarian Empire)は1242年のモンゴル人の侵攻によって打撃を受けて衰退し、1393年にオスマン帝国(Ottoman Empire)に滅ぼされます。以降、485年もの間オスマン帝国の支配下に置かれます。

1877年にロシア帝国はブルガリア内の抵抗勢力と共にオスマン帝国に宣戦を布告します。1878年オスマン帝国は敗北しサン・ステファノ条約(Treaty of San Stefano)を受け入れて、ブルガリアは 1878年3月3日に自治公国(大ブルガリア公国)(Great Bulgaria Principality)として独立します。この日は現在でも自由解放記念日として国の祝日となっています。

しかしブルガリア公国は、事実上ロシアの保護国であり、その領土がエーゲ海(Aegean Sea)まで伸張しロシアの南下政策を容易にしていきます。そのことに対し、イギリスやオーストリア・ハンガリーの国々などが懸念を抱き、こうした大国はロシアとトルコ戦争の戦後処理に関する1878年のベルリン条約(Berlin Treaty)に介入し、ブルガリアの領土を縮小してロシアの南下政策を牽制します。

1908年、オスマン帝国で青年トルコ人革命が勃発したことに乗じて、ブルガリアは独立を宣言します。1909年に国際的に完全な独立を承認されブルガリア王国が成立します。

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ヨーロッパの小国の旅 その十四 ブルガリアの旅

2016年6月に、私は家内とでトルコのイスタンブル(Istanbul)にある日本人学校で教師をしていた友人を訪ねました。地図を見ながら、イスタンブルだけを観光するのはもったいないと思いました。そこで選んだのが西隣にあるブルガリア(Republic of Bulgaria)です。イスタンブルからブルガリアの首都はソフィア(Sofia)まで飛行機で一時間の距離です。

ソフィア(Sofia)というなんとも芳しいような名前です。ソフィアはギリシア語で叡智とか知性という意味です。哲学は英語でPhilosophy, Philosophiaで、Philoとは愛という意味です。SophiaとかSophieなどとも使われる女性名詞です。私事ですが孫娘もSophia。この名詞は人名の他に都市や組織にも使われます。上智大学(Sophia University)とかアヤソフィア(Hagia Sophia)がそうです。アヤソフィアは別名Sancta Sophiaといい「聖なる叡智」という意味です。

ソフィアはヨーロッパ最古の都市の一つであり、この街はかつて東ヨーロッパ周辺に住んでいた民族トラキア人(Thracia)の集落、セルディカ(Serdica)と呼ばれていたとあります。有史以前のトラキア人集落跡が現在のソフィアの中心で見つかります。その歴史は7千年以上に及ぶとされます。紀元前29年にセルディカは古代ローマ(Ancient Rome)によって征服されます。古代ローマとは、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家といわれます。

セルディカは発展し、やぐら、防壁、公衆浴場、役所、一般の教会堂より上位にあるバシリカ(basilica)が造られます。特に。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(Justinian I)の時代には繁栄を謳歌したようです。この時のセルディカは巨大な城壁に囲まれており、その一部は遺跡としてソフィアのダウンタウンで見られます。そういえば、ダウンタウンの駅名もSerdicaで名残を留めています。セルディカの発掘と保存作業は続いていました。

イスタンブルに行く前に、バルカン半島の地図を見ながらブルガリアとかルーマニアをも訪ねてみたいという気持になりました。

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ヨーロッパの小国の旅 その十三 ラトビアの歌と踊り

バルト海の真珠”と称されるのが首都リガ(Riga)の旧市街です。世界遺産にも登録されています。一度訪ねたいものです。リガには12世紀後半ごろからバルトドイツ商人(Baltic Germans)が移住し、1282年にはハンザ同盟に加盟して貿易拠点として急速に発展を遂げます。その影響を受けてでしょうか、写真で見ますと旧市街には北ドイツ風のゴシック様式(Gothic)やロマネスク様式(Romanesque)の優雅な街並みが広がっています。厚い壁と小さな窓、細い柱や尖頭と円形のアーチ、石造天井、壁の彫刻などがこうした様式の特徴です。

バルトドイツ商人の祖先はドイツではありませんでした。やがて定着していくにつれてドイツの文化を取り入れ、上流社会を形成していきます。そしてラトビアとドイツの文化が融合していきます。20世紀になるとドイツ、アメリカ、カナダなどへ移住していく者が増えます。

しかし、土着のラトビア人は融合ではなく農民独自の文化を維持しながらキリスト教の伝統に結びついていきます。その代表といえる行事は、「ヤニ」(Jani) と呼ばれる夏至の祝いです。この祭りは聖ヨハネ(St. John)の洗礼を祝うものでもあります。自然崇拝や多神教の信仰色もあります。

ラトビアの伝統的な歌や踊りは何百年も受け継がれてきました。百二十万以上の伝承物語があり、三万以上の民族音楽が残されています。ラトビアの歌と踊りの祭典(Latvian Song and Dance Festival)は、1873年以来続いています。5年毎に開かれ30,000以上の人が集うとされます。歌と踊りのレパートリーは古典的で簡素化された教会様式アカペラ(A cappella)から現代的なものに及んでいます。

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ヨーロッパの小国の旅 その十二 第二次大戦とラトビア

1939年に第二次世界大戦が始まると、ドイツとソ連との不可侵条約によりラトビアをはじめとするバルト三国はソ連に併合され、共産党の厳しい統治下に入ります。ラトビアはソ連との間で相互援助協定を結び、ソ連軍の駐留を認め空軍と海軍基地を提供します。1940年6月にソ連はラトビアに侵攻し、ラトビアはソ連の衛星国となります。ラトビア人もバルト系ドイツ人も厳しい迫害を受けました。35,000人以上の知識人らは追放され、北方ロシアやシベリアの強制収容所に送られたと記されています。この時代は「恐怖の年代」(Year of Terror)と呼ばれます。ドイツは不可侵条約を破りソ連に宣戦します。ラトビア人にとっては、東進してきたナチス・ドイツは自らを解放する同盟者に映ったようです。

しかしながら、ナチス・ドイツに協力しソ連に対抗しようとしたラトビアでは、多くのユダヤ人がラトビア人の監視のもとで強制収容所に送られ虐殺されます。中世にポーランドを通してラトビアに移住してきた多くのユダヤ人達です。さらにラトビア在住のユダヤ系の人々のみならず、ドイツやドイツの占領地から大量のユダヤ人が移送されてきます。1941年から1944年までのナチスドイツの侵攻によって、ラトビア人男性は徴兵されドイツ軍に編入されます。同時に国内でナチスドイツ抵抗運動が起こりますが、75,000人にのぼるラトビア人やユダヤ人が殺害されます。1944年ソ連の侵攻で2/3のラトビアが占領されます。100,000人以上のラトビア人がドイツやスウェーデンに逃れます。

戦後、連合国の協定によってラトビアなどバルト三国はソ連に併合され、スターリンの圧政を受けるのです。バルト三国は1991年にソ連が崩壊するまでソ連の共和国となります。ソ連からラトビアに大量のロシア人が移住してきます。戦争を挟む40年間に人口の3/4を占めていたラトビア人は1/2まで減ることになります。当然、国民はロシア語を使うことになります。

1980年代になり、ソ連における政治体制のペレストロイカ(perestroika) とかグラスノスチ(glasnost)といったスローガンによる改革運動の進行や1991年の共産党保守派によるクーデター(Coup detat)の失敗により、その年の8月に議会が独立を宣言し、ソ連からの完全な独立を回復するのです。

戦後、リガの旧市街は昔の趣を再現し、中世の街並みの残る地域として世界遺産(World Heritage)となり、観光都市として繁栄しています。バルト三国の発展は、戦後70年以上を経過した西ヨーロッパの未来と深く関わっているのです。バルト三国は北大西洋条約機構 (NATO)、 欧州連合(EU)に加盟しロシアからの脅威に備えています。

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ヨーロッパの小国の旅 その十一 ラトビアとは

ラトビア(Republic of Latvia)は私は訪問したことがありません。世界史が好きな私には、なぜかバルト三国は興味がひかれます。それは大国に翻弄された小国、とりわけ北東ヨーロッパの国々が大戦をくぐり抜けて独立を果たしたことへの畏敬のようなものを感じるからです。

バルト三国のラトビアについてです。首都はリガ(Riga)。リガは新市街と旧市街が歴史地区とされ、ユネスコ世界遺産に認定されています。石畳の道を踏み入れるとそこは中世の世界というわけです。ラトビアはエストニアとリトアニアの間にあり、これらの国と同じような独立、戦争、占領、独立という苦難の歴史があります。以下、Britannica百科事典にそってラトビアの歴史を翻訳してみます。

長年、ハンザ同盟(Hanseatic League)、ドイツ騎士団(Teutonic Order)、そしてラトビア内にあった自治を叫ぶ人々との争いが続きます。ドイツ騎士団はそれでもラトビア領土内の自由貿易を認めていました。ですがラトビアは以前としてドイツ人の支配にありました。

1500年代、ラトビアの地はスウェーデンやポーランドなどの支配で分割されます。 1710年にロシアのピヨートル皇帝一世(Peter Great)はバルト海に進出し、スウェーデンからやがてラトビアの首都となるリガを占領します。その後長くラトビアはロシアの支配下におかれます。

19世紀になるとラトビアの中に自治と独立の機運が起こります。それは 1905年の第一次ロシア革命と1907年の第二次革命です。独立運動は、ドイツやロシアから受けていた政治や経済の支配から脱却しようというものです。1907年にラトビア国民集会(Latvian National Political Conference of Riga)がリガで開かれるのです。しかし、ドイツがリガを占領し自治を禁止します。ドイツの占領下で1918年11月にラトビア内で農民、ブルジョア、社会主義者らが自由を宣言します。そこにイギリスがドイツを排除しようとして介入します。

1919年にドイツはラトビアとリトアニアから撤退しますが、ソビエト共産党による赤軍が後に控えたままです。1920年にソ連とラトビアは平和協定を締結し、ソ連はラトビアの権利を認め、1922年にラトビア憲法による大統領制と議会制が謳われます。そうした制度にも関わらず、民主的な国家運営はなされませんでした。ラトビアでは改革が遅れるとともに、大統領に強大な権限を与えて国家を運営しようとします。

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ヨーロッパの小国の旅 その十 リトアニアと杉原千畝

杉原千畝氏は、早稲田大学時代から特に英語に堪能だったといわれます。外務省の官費留学生として1919年にハルピンの日本総領事館に赴任しロシア語を勉強し、1932年には満洲国外交部では書記官としてソ連との北満洲鉄道の譲渡交渉にあたったようです。

1939年に、杉原千畝氏はリトアニアのカウナス(Kaunas)に開設された日本領事館の職員として赴任します。この年にナチスドイツがポーランド西部に侵攻し第2次世界大戦が始まります。翌年には日独伊三国同盟が締結され、日本はドイツとの強固な同盟国となります。

“強固な同盟”を優先した日本政府はナチスのユダヤ人迫害をどう捉えていたかです。すでにナチス・ドイツのユダヤ政策によって、大量の避難民が発生していました。日本への入国・通過を求めてビザの発給を求めて多くのユダヤ人がカウナスの領事館へやってきます。その事態に対して日本の外務省は訓令を出しユダヤ人の日本の入国や通過を非とします。政府は、ナチス・ドイツの方針におもねていたからです。

ビザを求めるユダヤ人と外務省の訓令の間にはさまれた杉原氏は指示に背いてビザを発給したのです。その数は1,300通といわれます。一家族一枚でしたから、約6,000名以上のユダヤ人がリトアニアから脱出することができたと資料にあります。この時、杉原氏が発行したビザは、ユダヤ人から「命のビザ」と呼ばれるようになります。

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ヨーロッパの小国の旅 その九 リトアニアと「シンドラーのリスト」

私はリトアニア(Lithuania)を訪ねたことはありません。リトアニアと日本との関係で忘れられないのは、後に「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官の杉原千畝氏です 。彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアの首都カウナス(Kaunas)で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、第三国への亡命を手助けしたことで知られています。そのことを証拠づけるさまざまな外交資料が残されています。

「シンドラーのリスト」(Schindler’s List)という映画をご覧になったでしょうか。スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督による1993年のアメリカ映画です。主人公オスカー・シンドラー(Oskar Schindler)というドイツ人実業家は第二次世界大戦中、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、戦争のために必要な物資を製造する軍需工場で働いていた1,200人を虐殺から救った人物です。その時、彼がユダヤ人労働者の雇用を申請するために作成したリストは「シンドラーのリスト」と呼ばれました。

後に、日本経由でアメリカなどに渡ったユダヤ人やイスラエル政府は杉原千畝氏の功績や勇気を讃え、「諸国民の中の正義の人」と呼ぶようになります。誰が「東洋のシンドラー」と呼んだかは定かではありません。後に杉原氏は「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」と述懐したようです。

杉原氏のビザの発行や外務省による名誉回復に対する批判的な資料もあります。例えば「ロシア語に堪能だった杉原はソ連のスパイではなかったか」、「杉原のビザの給付は乱発ではなく外務省の許可を得ていた」といったことです。しかし、このような批判は杉原氏の名声を失墜させるどころか、彼の人道的な行為をさらに輝かせるものとなります。

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ヨーロッパの小国の旅 その八 エストニアの隣国リトアニア

バルト三国の二番目の国はリトアニア(Lithuania)です。後に紹介するラトビア(Latvia)、ポーランド(Poland)、ベラルーシ(Belarus)と隣あわせです。人口は約280万人で、エストニアと同様に強国の争いに翻弄された苦難の歴史があります。

近代のリトアニアの歴史です。1917年にロシア帝国で起きた2度のロシア革命(Russian Revolution)後、1918年から1920年にかけてリトアニア国内では自由と独立を求める運動が起こります。1920年には、国籍や宗教の違いを超えた最初の総選挙が行われます。1922年には最初の憲法が採択され、大規模な農地改革や教育改革が行われます。1923年にはそれまで占領されていた港湾都市のクラペダ(Klaipeda) を取り戻し、海上交通が容易になります。1920年代から1940年にかけて近代的な制度が敷かれ、カナウス(Kaunas)が首都となります。

1944年から1953年にかけては、ソビエト連邦の支配下におかれ、その間粘り強い抵抗運動が侵略者に対して続けられます。一時ナチスドイツの占領下に置かれた時期もあります。こうした苦難に直面しながらも民主的な国家樹立の精神を保持し続けます。

1988年にはサユディス(Sąjudis) と呼ばれる大集会が開かれソ連からの独立を叫びます。そしてようやく1991年の1月、独立回復宣言を発布します。最初に独立を承認したのはアイスランドでその後続々と各国が承認します。1993年にはソビエト軍を引き継いだロシア軍が撤退し、2004年3月に北大西洋条約機構(NATO)に加盟します。さらに欧州連合(EU)への加盟を果たします。

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ヨーロッパの小国の旅 その七 エストニアと電子立国

サイバー先進国として、エストニアはもはやヨーロッパの「小さな国」ではないことを説明してみます。エストニアが電子政府を構成している要素の一つに、2002年から始まった国民に対して「eIDカード」を発行する国民ID制度というのがあります。制度が開始して以来、エストニア人の98%がこのeIDカードを所有しているといわれます。

eIDカードの活用例としては、EU内の行き来のときのパスポートとなります。次ぎに国民健康保険証としても使えます。医療記録を確認したり、税務の申告で使えます。もちろん投票のときも使います。銀行口座にログインする際の身分証明書ともなるのですから、銀行毎のカードは不用となります。オンライン上で行政手続ができるメリットといえば、役所で並ぶ時間や待ち時間がなく誰にも大きな時間短縮が図られています。役所は人手を別のサービスに振り向けることができます。

エストニアは他国からの侵略と混乱の歴史から、たとえ領土を失ってもデータさえあれば国は早期に復興できるという備えの考えがあります。それを実現しているのが「データ大使館」と呼ばれるものです。エストニアは2007年4月に基幹となるサーバーが攻撃され、混乱したことがあります。有力な説ではロシアが仕掛けたサイバー攻撃といわれます。そこでエストニア国民の個人情報や政府の機密情報等のデータを、信頼できる同盟国のサーバへ分散して保存しておくことにしたのです。データ大使館を置いた国は、同じくヨーロッパの小国ルクセンブルク(Luxemburg)です。

この二つの国に共通するのはIT活用に積極的であることです。ルクセンブルクはスタートアップするIT企業を多く抱え、外国企業の受け入れにも積極的です。政府機関や国民のあらゆる情報を保存するサーバーはサイバー攻撃の対象となります。そうした苦い経験により、情報の分散化をはり、それをITの先進国であるルクセンブルクに求めたとされます。データ大使館には国を継続するために必要なデータを保管するという小さな国の大きな戦略が込められています。

ところで我が国の「マイナンバーカード」はなんの役に立っていますか。個人番号を証明する書類や本人確認の際の公的な身分証明書だけです。普及率はたったの14%。あってもなくても不自由しないので普及しないのです。典型的な行き当たりばったりの施策です。

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ヨーロッパの小国の旅 その六 エストニアの魅力

バルト三国のうちの一つエストニア。首都タリンは、中世の面影を現在まで残すヨーロッパ内でも珍しい街です。領土は九州位の大きさでありながら、意外な特徴があることを紹介しましょう。

まずはオンラインサービスが行き届いたサイバー先進国であることです。Skypeの発祥地であるエストニアはITの利用が極めて盛んです。電子政府先進国といわれ、行政サービスの99%をオンラインで手続きでき、国民がネットで納税しています。多くの人々がオンラインで投票するのです。サイバー先進国の話題は次回で紹介します。

次ぎに、エストニア人の多くが英語を話すことです。母国語を英語としない国のランキングでなんと第4位です。第1位はスェーデン、次ぎにノールウェイ、オランダと続きます。国民の英語のレベルが高いのはこの国の強みの一つといえます。このようには人々は当たり前の様にバイリンガルです。3ヵ国語も4ヵ国語も喋れる人が珍しくありません。スェーデン語、ロシア語を操るのです。

さらにEUの中では物価が安いといわれます。それは人件費が安いことも関連しています。治安が良く、行政や警察とか軍隊に多額の予算をかけていないこともあります。オンラインサービスのお陰で人手が少なくて済むのです。街並みが綺麗で治安が良いのですから観光客も多くなります。国民の物静かな人柄や親しみやすい性格も特徴といわれます。EU加盟国なので通貨はユーロです。他のEU加盟国との行き来が自由です。日本国内のように容易に隣国まで行けるので行動範囲が広がります。観光客からエストニアが人気がある理由です。

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ヨーロッパの小国の旅 その五 タリンの街ーヴィル門

エストニアの首都タリンの旧市街への入り口となっているのがヴィル門(Viru Gate)です。2つの石の塔からなるヴィル門は14世紀に建てられたとあります。昔タリンを外部からの攻撃に備えて建てられたものです。門を入ると石畳が敷かれた中世の街並みとなり、今は民芸店やレストランが立ち並びます。

さらにタリンの街を歩くと赤いとんがり帽子のような塔が見えてきます。中世はこんな時代なのかという感覚に襲われるくらいです。旧市街は13世紀後半から城壁が作られ、現在でもそれに囲まれています。幾たびの戦禍を免れてきたのはこの城壁のおかげといわれます。その城壁には20ほどの見張りとなった塔が建っていますが、特に旧市街西側は保存状態が良いので「塔の広場」と呼ばれています。

「ラエコヤ広場」(Raekoja Plats)は、旧市庁舎の前の広場で、旧市街の中心スポットとなっています。今は、周りにレストランやカフェが立ち並び、市民の憩いの場となっています。フェスティバルやクリスマス時にはマーケットが開かれます。中世当時、広場は祝いの場だけではなく、市民集会が開かれ、裁判も行われ処刑の場となり、贖罪の礼拝が執り行われた歴史があります。聖と俗が一体となった空間が広場というわけです。

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ヨーロッパの小国の旅 その四 タリンの街ーアレクサンドル・ネフスキー大聖堂

私が娘と首都タリン(Tallinn)を訪ねたのは1997年です。ヘルシンキからフェリーでタリンに着きました。旧市街は中世期のたたずまいです。塀や建物の壁には銃弾の跡が残っています。これは第二次大戦の銃撃戦の跡です。独立して6年後のことですから、街全体は復興中でした。看板には盛んに外国からの投資に期待するスローガンが見られました。

タリンで見だつものをいくつか紹介しましょう。小高い丘の上に建つドームの建物は、東方正教会「アレクサンドル・ネフスキー大聖堂」(Alexander Nevsky Cathedral)です。アレクサンドル・ネフスキー(Alexander Nevsky)は中世ロシアの英雄として讃えられている人で正教会で列聖され、正教会の聖人となっています。ビザンティン建築様式(Byzantine Architecture)のこの大聖堂は、タリンにある教会の中でも最も大きいものです。

Wikipediaによりますと、19世紀末に建築されたこの教会は、ロシアによる支配の象徴でしたが、独立を果たした後は取り壊しも一時検討されたようです。今では、当時の歴史を学ぶことができる建造物としても貴重なものとして保存され、多くの観光客を惹き付ける場所となっています。後に触れるブルガリア(Bulgaria)の首都ソフィア(Sofia)にもブルガリア正教会の壮麗なアレクサンドル・ネフスキー大聖堂があります。

ビザンティン建築のことです。紀元後330年頃、ローマ帝国のコンスタンティヌス大王(Constantine the Great)は、ボスポラス海峡要衝にある都市ビュザンティウム(Byzantium)に自らの名前をつけます。それがコンスタンチノープル(Constantinople)です。その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となります。今のイスタンブール(Istanbul)です。ローマ帝国は1453年にオットマン帝国によって滅ぼされます。

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ヨーロッパの小国の旅 その三 エストニアの独立に至る歴史

Britannica百科事典を調べながら、エストニア(Estonia)の大国に挟まれた誠に複雑な歴史を辿ります。日本のように国内の大名らの争いではなく、国外からの侵略という脅威です。エストニアは長らくドイツ騎士団(Teutonic Order)に支配され、13世紀にはデンマークが領有します。16世紀になるとリヴォニア戦争(Livonian Warというエストニアの支配を巡る争いが起こります。これによりスウェーデンが支配し、エストニア公国となります。

18世紀になると大北方戦争(Great Northern War)の結果、ロシア帝国の支配となります。この戦争はスウェーデンと反スウェーデン同盟間の戦争です。ピュートル皇帝一世(Peter the Great)はスウェーデンを駆逐し、ロシアはバルト海の覇権を握り、獲得した地にサンクトペテルブルク(St. Pertersburg)を建設します。

1917年のロシア革命により、エストニアには自治がもたらされます。20世紀になり、第一次大戦の結果1918年にドイツが降伏し、エストニアは一時独立を果たします。1939年にはソビエト赤軍がエストニアに進軍すると傀儡政権が作られます。それ以来、長くソビエトの支配が続きます。1980年代までエストニアの政治経済、社会はソビエト連邦と軍隊を後ろ盾とする共産党に支配されます。

この共産党の支配時代には、独立運動をしていた人々、自由を求めて文化活動をしていた人々は弾圧され逮捕されて拷問などを受けています。元共産党本部であった建物は歴史博物館となり、そこを訪ねますと牢獄などが保存されています。1991年のソビエト連邦における共産党保守派のクーデター失敗によりエストニアはようやく独立を宣言し、ソビエト連邦もこれを承認します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二 バルト海の歴史とハンザ同盟

北の地中海と呼ばれたバルト海(Baltic Sea)は、古代バルト文明、中世のヴァイキングの東征、ハンザ同盟(Hanseatic League)の通商の舞台となったところといわれます。地図を見ますと、スカンジナビア諸国(Scandinavia)、デンマーク、ドイツ、ポーランド、バルト三国、そしてロシアがこの周りに位置していることがわかります。古くから海上交通に利用され、沿岸には有力な海港都市が存在しています。

バルト海貿易を最初に開拓したのは、スカンジナビアに住む北ゲルマン人(ヴァイキング)です。やがてゲルマン人の東方進出に伴い、12世紀以降はヴァイキングに代わりドイツ人が貿易の担い手となります。そしてロシアとの交易を発展させていきます。ドイツ商人はロシアから毛皮、穀物、木材、海産物、コハク(Amber)を求め、ロシアには毛織物、食糧、ワイン、生活必需品などを輸出します。

王侯貴族を顧客にしていた地中海貿易とは対照的に、バルト海貿易は投機性に乏しかったといわれます。しかも冬のバルト海の航海は厳しく、航海が絶たれます。近世に入ると大西洋や太平洋航路が国際貿易の重要な舞台となるにつれて、バルト海貿易はやがて衰退していきます。

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ヨーロッパの小国の旅 その一 エストニア

しばらくヨーロッパの旅をしてみます。地図を見てわかるようにヨーロッパ大陸には沢山の国々が存在しています。陸続きなので過去も今も人々の行き来が盛んです。交易も盛んである反面、民族のいさかいも長く続いているところこです。その中の国で、ドイツとロシアの間にあるバルト三国(Baltic States)の一つエストニア(Republic of Estonia)に行ってみましょう。

エストニアの人口はたったの160万人。首都はタリン(Tallinn)です。「北の地中海」と呼ばれるバルト海(Baltic Sea)に面しています。バルト海という名を聞くと帝政ロシアの「バルチック艦隊」が思い出されます。バルト三国とはエストニアの他に、リトアニア(Lithuania)、ラトビア(Latvia)を指します。三国は欧州連合(European Union:EU)や北大西洋条約機構(NATO)、そして経済協力開発機構(OECDに属しています。

エストニアは地政学的の条件から、大国に翻弄され、独立運動が起こっては鎮圧された長い歴史があります。ようやくソビエト連邦から独立したのが1991年です。1885年にゴルバチョフ(Mikhail S. Gorbachev)が大統領に就任し、立て直し(ペレストロイカ)、情報公開(グラスノチス)による政策を進めます。それに対して起こった共産党保守派のクーデターが失敗し、エストには独立を宣言し、ソビエトもこれを承認するのです。

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ハングルと私 その25 韓国についての誤解にどう向きあうか

この稿で「ハングルと私」は終わりとします。
世の中には、いろいろな誤った見方や考え方があります。日本人の韓国や韓国人に対する誤解もそうです。例えば韓国の人は「アグレッシブで喧嘩早い」とか「反日感情を過剰に持っている」などという風評です。そういう人もいるのは確かですが、こうした人々は5%以下でしょう。5%というのはどの国にも当てはまる数字です。大多数の韓国人は個人として付き合えば実に友好的で儒教の仁や仏教、キリスト教の教えを実践している印象を受けます。韓国はこの3つの宗教が共存している国です。人との付き合いを深めていけば、感情の機微や暖かみを体験できるのです。個人と個人、家族と家族との出会いは偏見や誤解を溶かしてくれます。

世の評論家は得てして、「日本と韓国の関係は、かくかくしかじか」とのたもうのが好きですが、そのようなご宣託はあまり役に立たないのです。どうしたら仲良くできるかです。それには、その国の言葉を学び文化を知り、できればその国を訪ねて対話し、自分の目で確かめることです。そして親しき友をつくる努力をするのです。

友だちをつくるというのは、互いに異なる考えを持ちながらも、それを柔軟に修正できる感性を育てることです。「自分の見方はもしやして偏っていないか、」と自分に問える姿勢です。未知なことを学び、考える態度を持つことです。どのような方法にせよ、何からか誰かから教えを受けるということです。文化という定義はそれを使う人の数だけあるといわれます。なにが正しいとか間違っているというのではありません。町や村の違い,国と国との違いは人々の考え方に反映します。この考え方は文化の相対性ということです。このことを理解したいものです。

ハングルと私 その24 韓流と韓国映画

2003年頃から韓国大衆文化の流行が始まり、韓流(ハルリュ)(한류)ブームが巻き起こりました。今やブームはすっかり去ったようですが、韓国についてのいろいろな影響は広まり一種の社会現象となりました。もともと韓流とは中国での韓国の流行を指した言葉といわれます。日本における韓流は、2003年4月からNHKの海外ドラマで「冬のソナタ」(겨울연가)が放送されたことが発端とされてます。ハルリュによって韓国が近い国に感じられるようになったことは良かったです。

今回は映画に限定してハルリュについて触れてみます。わたしも「冬のソナタ」は時々見ました。個人的には、なにか同じ内容のような気がして途中でやめました。その一方、宮廷女官チャングムの誓い「大長今:テチャングム」(대장금)は全部観ました。李氏朝鮮王朝の歴史や文化が描かれていて、厳しい身分制度、王朝内の権力争い、宮廷の料理、庶民の生活も随所に描かれていました。そのストーリーの展開をドキドキしながら観たものです。

ハンリュウの背景はなんでしょうか。それはなんといっても韓国は映画でもドラマでも音楽でも先進国になったということです。映画作りの技術が高くなったことです。それには国が文化活動に大いにテコ入れして、発展を支えたことが指摘されています。

個人的に好きな映画のジャンルは、朝鮮戦争や分断を題材としたものです。「ブラザーフッド(兄弟愛)」(태극기 휘날리며)という映画を紹介しましょう。戦争でソウルに戦火が迫る中、ジンテとジンソクという兄弟は、家族を救出するためにソウルに戻ります。兄ジンテの婚約者は反共自警により射殺されます。ジンソクも牢獄とらわれます。婚約者とともにジンソクが処刑されたと誤解したジンテは、上官を殺害して姿を消します。奇跡的に牢獄を脱出したジンソクは野戦病院でジンテが北朝鮮人民軍の旗部隊の隊長として活躍している事実を知るのです。結末は悲劇となります。兄弟がそろって、なぜ最後まで戦争を続けなければならなかったのかを問うています。

もう一つは「シュリ」( 쉬리)という作品です。韓国に潜入した北朝鮮工作員と韓国諜報部員との悲恋を描いています。工作員と諜報部員とのアクションも見応えがありました。分断された国と人々の緊張が伝わってきました。戦争の悲劇と人の生き様が描かれています。韓国の人にしか作ることができない作品です。是非観ていただきたい映画です。最近の話題作「パラサイト 半地下の家族」も是非観たいですね。

ハングルと私 その23 両班社会の崩壊と天主教の流布

国王が特定の人物を深く信任し、その者に王権の実質的な建言を委任することを朝鮮の歴史では、「勢道政治」と呼ばれます。国王の信任を受ける者は有力な両班であると同時に、国王または王室と血縁関係にある王室の外戚でありました。こうした政治では、政権の基盤は一つの血縁集団となり、政治の綱紀は紊乱し、儒教的な清廉潔白を重んじる政治は有名無実化します。

中央の綱紀紊乱は地方における行政や財政に乱脈をもたらし、賄賂を使い、私財を蓄えるなどの不正行為が行われます。両班社会はこうして崩壊し始め儒教は思想的な影響を喪失し、民衆の中で新しい宗教がもてはやされます。こうした宗教の力は既成の体制への挑戦となります。

天主教(천주교)と呼ばれるキリスト教のことです。16世紀の初頭、清に渡った使臣によって天主教は朝鮮に入ってきます。この新しい宗教に関心を持ったのは実学者で、他の西洋の学術を含め、広く「西学」と呼ばれ、思想的に関心が高まります。西学は、現実から乖離し党争にあけくれる当時の政治を反省し、制度改革や産業の発達を目指す思想です。18世紀末には、研究が重ねられついに布教運動まで発展します。やがて使臣らは西洋の神父より洗礼を受けて帰国すると、布教活動はますます活発化していきます。

不遇の両班だけでなく、常人、婦女子へと天主教の平等主義が受け入れられていきます。当時の身分階級は、両班、中人、常民、賎人の4つに大別されていました。常人の大部分は農民でした。1785年にはソウル市内には教会堂(교회당)が建てられます。特に現世に対して希望を持てなかった人々に天国の福音は新しい喜びを与えるのに十分だったといわれます。やがて天主教はソウル一帯から広がり、1794年には4,000名の信者に達したという記録があります。

ハングルと私 その22 日本との抗争の歴史

朝鮮の歴史では、1300年代からおよそ200年は平穏な時代だったといわれます。ところが朝鮮は1592年に秀吉の命を受けた日本軍の侵略を受けます。壬辰倭乱(임진왜란)とか文禄の役と呼ばれました。当時の朝鮮は徹底して文官中心の国であり、両班(양반)の官僚が分裂し、朱子学の研究が頂点に達し、軍事的にはほとんど無防備状態にあったといわれます。復習ですが、両班とは高麗,李朝時代にに生まれた最上級身分の支配階級の人々のことです。

文禄の役では15万の兵が釜山(부산)に上陸し、20日後にはソウル(서울)を占領、その後平壌(서울)も墜とします。日本軍の進撃は、やがて李舜臣(이순신)らが指揮する水軍により阻まれます。李舜臣は日本の水軍を撃破して制海権を掌握し補給路を断ちます。陸地では義兵と呼ばれる民兵によるゲリラ戦を展開していきます。義兵の多くは儒学生と呼ばれ、忠君愛国の思想の持ち主だったといわれます。

やがて明からの援兵が加わり、朝鮮は平壌を奪還します。日本軍はソウルに退却します。第二次の14万人の出兵は慶長の役と呼ばれます。その後は、長期戦となり明との間で何度も講話の話し合いが持たれます。秀吉の死後、五大老の命令により日本軍は撤退を開始します。そして7年間にわたる戦争が終結します。

日本軍は撤退と同時に多数の朝鮮人陶工を徴用し、その後の我が国の陶磁器製作に大きな影響をもたらします。さらに多数の書籍も押収し、朱子学をはじめ日本の学問の発展に寄与することになります。その間、朝鮮は全土が戦場となり、膨大な被害を被ります。農村が疲弊し、土地台帳や戸籍が焼失して租税や役を賦課するのが困難になったといわれます。

ハングルと私  その21  学歴社会の韓国

韓国は今も学歴社会です。日本の昭和30年〜40年代の現象のような印象を受けます。私も友人から何度も「どこの大学を卒業しましたか?」と尋ねられたことがあります。学歴社会の歴史は、中国にあった科挙という試験制度が下敷きになっています。科挙という語は「(試験)科目による選挙」を意味しています。上級国家公務員になるための登用試験です。李氏朝鮮王朝時代は、科挙の合格者や学者が政治を司る高級官僚となり、立身出世ができました。その風習が今日にまで続いているといわれます。出身大学によって就職や出世が保障される時代では、受験の結果が一生を決めるといっても過言ではありません。かつての日本のようです。

受験生は小さいときから放課後はもちろん、週末も遅くまで営業する予備校(アカデミー)に通います。深夜、予備校のそばを通りますと、勉強を終えた生徒を家まで送るバスがずらりと並んでいます。そのため受験生のストレスを解消したり保護者の負担を軽減することが課題となっています。一例を挙げますと、予備校に通ったり家庭教師による補習が可能な都市部の学生がより修学能力試験(修能試験)に有利になります。修能試験はセンター試験のようなものです。そうした格差を解消するために教育放送局が専門チャンネルで修能試験に関する講座を放送しています。予備校へ払う教育費も保護者の大きな負担です。調査によればOECD加盟国の中で韓国人は最も多くの予備校への教育費をかけているといわれています。

2004年には、修能試験における大規模な携帯電話を使ったカンニングが発覚しました。修能試験の歪んだ弊害が指摘されたのは真新しいところです。1回の試験によって人生が左右されるような構造にメスがあてられるには、まだまだ時間がかかるといわれています。

ハングルと私 その20 朱子学と諸科学の発展

朝鮮における朱子学の話題です。13世紀、高麗末に中国より伝来した朱子学は、儒教の新しい学問とされ、科挙制度の励行や四書・五経など経書を研究する学問である経学の復興とともに広く普及します。儒教的な両班社会における正統的な学風となります。経学とは異なり、実際的な法典や礼式といった典礼と詩歌とか意味や解説などの文章である詞章が重んじられます。科挙の試験でも詞章が中心でありました。

朱子学は儒教国家の政治や社会で秩序の維持で有用な編纂事業を促進させます。歴史は政治の鏡であるという観念から、史書の編纂も盛んになります。高麗の国教であった仏教は排され、朱子学は唯一の学問として国家教学となります。我が国でも江戸時代に武士が学ぶべき学問と位置づけられ、江戸幕府をささえる学問となります。信仰や武力ではなく、道徳や礼儀によって社会秩序を守ろうとするする考え方です。

李氏朝鮮王朝に戻り、歴史とともに政治や軍事に必要な地理の知識も重視されます。国家の規範としての典礼とともに諸宝典が作られ、それによって印刷技術も発展します。例えば金属活字や植字術などの出現です。1443年の「訓民正音」と呼ばれるハングルの創設がその発展の頂点に立ちます。医薬学では薬材と処方の研究が進み、科学技術では農業と深い関係がある天文学、軍事では各種火砲、火薬、兵学、さらに兵書が著されます。

近世儒学の祖といわれ、朱子学を提唱したのが江戸時代の儒教家、藤原惺窩です。惺窩の弟子が林羅山らです。

ハングルと私 その19 仏教と儒教と科挙

朝鮮への仏教伝来は四世紀後半から五世紀中葉とされています。三国に仏教は伝播し、900年代の統一新羅時代に隆盛したといわれます。仏教隆盛を代表するものは建造物や美術でしょうが、なかでも仏国寺や石窟庵は有名です。

 儒教です。仏教より先に伝来したのですが、仏教に比べて普及が遅く、盛んになったのは七世紀末です。やがて儒教の教育機関である国学が設立されます。そこでは論語や孔子の言動を記した孝経をはじめ、易経、書経、詩経、礼経、春秋経という五経が教えられます。儒教は仏教を排撃することなく「治国平天下」の手段として重視するとともに、「安心立命」の教えとして仏教を受容します。

 新羅時代になると、読書三品科を設置して、官吏登用試験である科挙が盛んとなります。呉善花著の「韓国併合への道」という文庫本によれば、科挙では受験資格には厳しい身分的な制約があり、徹底した成績主義がとられます。官吏には文官(文班)と武官(武班)があり、合わせて両班(ヤンバン)と呼ばれました。特に文科は両班階級の者しか受験できないようになっていました。

 李朝国家では軍事を司る要職のほとんどが文官によって占められており、武官は劣位な状態におかれ、武官には事実上要人への道が閉ざされていたといわれます。これは、儒教的な文治主義といわれます。文治主義というのは、官吏とか官僚独裁による統治体制です。武官の登用による国の防衛という意識が弱かったのです。

科挙

 文治主義によって、官吏の世襲による権威や権力、身分の固定化が進むのです。門閥を重視する風潮がこうして生まれていきます。たとえ官職を得られなくても両班身分は世襲されるため、金で両班の地位を買ったり、ニセの資格証を売ったりということが何代にもわたって続きます。そのため、両班の人口は1690年には総人口の7.4パーセントですが、1858年には、なんと48.6パーセントにまで増加していたという記録もあります。

 外国との間に生じる諸問題の解決は、文治主義の立場から可能な限り政治的な外交によって処理することが方針とされました。外敵からの防衛は宗主国である中国に依存するという傾向を強めたのです。同じ現象は琉球王朝でもみられました。

科挙の様子

ハングルと私 その18 家具と李氏朝鮮王朝時代

大邱教育大学校のベエ先生が住まわれる高層マンションの話題の続きです。先生のお宅入るとその広い居間に驚きます。20畳はゆうにあります。わたしのコンドミニアムとは比較になりません。壁には家族全員が写る大きな写真が飾られています。家族の絆を感じます。そして立派な茶タンスにあたる調度品が埋め込まれています。もちろん全室オンドルです。

家具の華やかなデザインに驚きます。実に豪華なのです。家具の表面のデザインは、木目を強調したもの、あるいは貝殻などを埋め込んだものなど、職人の業で相当の時間をかけて造られたことが伺える作品です。こうした家具の伝統は1392年から500年以上に渡って栄えた李氏朝鮮(이씨조선)王朝時代に由来します。王朝という華やかな時代の文化・芸術から生まれたのが「李朝家具」といわれています。李朝家具の多くは、当時ヤンバン(양반)と呼ばれていた支配・知識階級たちの書斎道具としても用いられました。

その中でも収納ダンスは、ヤンバンだけでなく庶民にも広く行きわたった品です。このタンスはパンダジと呼ばれ、半分が前開きの扉となっています。中は空洞でかさばるものを収納するのに便利なものとなっています。この家具には金運を招くという言い伝えがあります。落ち着いた造り、その重厚な存在感は李氏朝鮮王朝時代の伝統といえるでしょう。李朝家具は、木目の風合いと真鍮金具の美しさが融合した造形美を伝えています。

ハングルと私 その17 DMZツアーと臨津閣

現在アメリカと北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)とは政治的に微妙な関係にあります。トランプ大統領と金正恩主席との関係です。韓国(大韓民国)の立場も不明な状態です。なにか政はだだっ子遊びのようなところもあります。

韓国と北朝鮮の軍事境界線上にある村が板門店(판문점ーパンムンジョム)です。現在も北朝鮮と国連軍との間に「停戦」状態が続いています。板門店長く冷戦の象徴で、今も数少ない「冷戦の最前線」といわれています。軍事境界線とは非武装地帯のことでDemilitarized Zone:DMZといます。朝鮮半島の38度線をまたぐ幅2キロの軍事境界線のことです。

ソウルから車で1時間くらいのところにあるのが臨津閣( 임진각ーイムジンガク)です。軍事境界線付近を見渡すことのできる場所です。ここは板門店と異なり、一般市民が北朝鮮に最も近づける地です。韓国の人は離散家族が北朝鮮にいる家族を思って訪れる場所ともされています。案内と説明はソウル教育大学校教授の趙先生でした。ここを見学するには、パスポートなどを所持してツーリストの車でしか行かれません。

臨津閣は、南北統一の重要さを知るために建てられたと書かれています。一帯は広大な観光地となっており、平和の鐘閣、自由の橋、望拜壇とそれにまつわる展示などを見て回ることができます。臨津江(임진강 )が眼下に見えます。統一への願いが展示物に現れています。臨津閣には、1978年に発見された「南侵第3トンネル」があります。北朝鮮軍が韓国への侵入用に掘った本物のトンネルです。見学ができるのは、深さ73m、長さ245mの部分です。全長は1,635mあるといわれています。観光化のために整備されてはいますが、このトンネルを頭をかがめて通ると韓国が未だに戦時下にあるということが実感できます。

トンネルをでると、韓国軍の兵士数名が休んでいました。声をかけるとソウル出身で脱走とか不測の事故が起きないように、厳重な審査で選ばれてここに派遣されているとのこと。大学生のとき徴兵され、いわば軍人のエリートとして駐留しています。兵役が終わると然るべき職業や地位が保障されていると兵士が語ってくれました。そういえば大邱教育大学校のキム夫妻のご長男もここの米軍本部付きで駐屯していたそうです。

ハングルと私 その16 大邱教育大学校とキム先生

慶州(경주 キョンジュ)を最初に訪れたとき、大邱教育大学校(대구교육대학교)のキム・ヨンスク(김연숙)教授が案内してくれました。かってキム教授を兵庫教育大学の客員研究員に招聘したことがあります。それから長いつきあいが家族ぐるみで続いているのは有り難いことです。彼女の旦那はソウルの国民銀行の役員である柳氏です。彼のプロフィールはこのブログの第8話で取りあげています。

大邱教育大学校

キム先生の専攻は英語教育です。韓国は、小学校から英語教育に力を入れています。英語を小学校から指導すべきか、などという議論は30年以上前の話です。キム先生は韓国の英語教育のリーダーのお一人です。ミッション系である梨花女子大学校(이화여자대학)の卒業です。学生数20,000人で女子大学としては世界最大規模とされています。ソウル大学と並んで韓国を代表する大学だけに「修能(수능)スヌン」では高得点を取らなければこの大学に入ることはできません。キム先生はこの大学の英語教育学科を最優秀で卒業した才媛です。やがて英国のヨーク大学(University of York)で博士号を取得し、現在は大邱教育大学校で教鞭をとっておられます。

梨花女子大学校

大邱教育大学校は小学校の教師を養成する大学で、そこでは小学校で英語を指導する教師の養成もしています。メディアを使った英語教育は知られています。カリキュラムでは、教師はコンピュータやインターネットを使った指導力をつけることが強調されています。兵庫教育大学とも姉妹提携し、教授や学生の交流、共同研究をしています。

ハングルと私 その15 ベエ先生のお宅

ベエ(배한극)先生ご夫妻は、大邱市の高層マンションにお住まいです。韓国の中都市以上には、どこも高層マンション群が立ち並びます。土地が少ないので住宅は高層化しています。

オンドル

こうしたマンションの特徴は、まず間取りがゆったりしていて4DK, 5DKはざらにあることです。部屋の大きさ、特に居間の広さは驚きます。次に、すべてが集中冷暖房であることです。お湯はいつでもでます。温水床暖房であるオンドル(온돌)がすべての家に普及しています。

朝鮮の家屋は、かつては薪やわらなどの煙で床を温めていました。1960年代から80年代にかけ練炭を燃料としたオンドルが主流となったのですが、床にできたひび割れから一酸化炭素が室内に漏れて、就寝中の家族が中毒死する事故が頻発しました。それ以来、温水床暖房に代わります。煙で2階建ての家を温めることが困難なために、韓国では平屋の建物が主流となりました。日本の民家は蒸し暑い夏に備えて、造りが開放的なのが特徴とされますが、他方朝鮮半島の民家は寒い冬に備えて、オンドルを用いて出入口や窓をできるだけ小さくする造りになっています。

ベエ先生のお宅は全室オンドル。全員寒い冬でも半袖姿ですごしています。オンドルのお陰で蒲団や座布団は薄くなっています。それに引き替え、我が国のアパートやマンションは、各戸で暖房や冷房を備えるという不便なありさまです。日本は住環境では後進国といえます。

ハングルと私 その14 ベエ先生とハーヴァード大学

兵庫教育大学の姉妹提携校である大邱教育大学校からベエ・ハンキョク(배한극)という教授も客員研究者として兵庫にお招きしました。既に紹介したキム先生と同様に一年間、学校教育研究センターで公私ともにご一緒しました。

この先生の専攻はアメリカ史です。いつも英語の論文をお読みの学者です。院生を連れてアメリカの学校を視察したとき、ベエ先生をお誘いしましたら同行されました。未だにアメリに行ったことがないというのです。少々驚きました。長男が研究者として働くハーヴァード大学(Harvard University)を訪ねました。ハーヴァード大学は、1636年に設置されたアメリカ最古の大学で、ボストンの隣にあるケンブリッジ(Cambridge)という街にあります。その隣はマサチューセッツ工科大(MIT)というこれまた世界トップの大学のキャンパスがあります。そばをチャールズ川(Charles River)が静かに流れています。

長男の案内で院生とベエ先生らとハーヴァードのキャンパスを散策しました。ベエ先生はさすがにアメリカの研究者で、ハーヴァードには13の博物館や美術館があること、ワイドナー記念図書館(Widener Memorial Library)には、グーテンベルク(Johann Gutenberg)の印刷機で最初に印刷された聖書の一つが保存されていることなどをこと細かく説明してくれました。

Widener Memorial Library

ハーヴァードヤード(Harvard Yard)とよばれる学生街に大学生協があります。ベエ先生は、一行と別れて生協の本屋に行きました。宿に戻るとスーツケースに一杯の本が入っています。「どうしても沢山の本が買いたかったのでスーツケースごと購入した」とのこと。このハーヴァード大学の旅にはたいそうご満悦で喜ばれたものです。ご夫婦とも敬虔な長老派(Presbyterian)という教会の信徒です。私淑し尊敬するお一人です。

ハングルと私 その13 大邱と慶州

韓国の大都会といえば、ソウル(서울)と釜山(부산)ですが、大邱(대구)も覚えていただきたい都市です。韓国第三の都会です。ソウルから新幹線のKTX (Korea Train eXpress) に乗って南に下り2時間。これまでの高速鉄道であるセマウル号(새마을호)も走っています。韓国の鉄道運賃は日本に比べて安く便利です。鉄道だけでなく高速バスも安いです。

KTXは東大邱駅で停まります。大邱の人口は250万人、大阪と同じくらいでしょうか。山に囲まれた盆地にあるのが大邱です。その周りにあるパルゴンサン(팔공산)という山からの景色はお奨めです。ケーブルカーで行きます。パルゴンサンは山脈の総称で最高峰は海抜1,192メートル。昔から霊山として千年以上の歴史を持つ把渓寺、桐華寺などのある仏教の山です。なんとなく雰囲気が京都の比叡山に似ています。

신라

かつての新羅(신라)の首都であった慶州(경주)は、大邱の東へ50kmのところにあります。ここはどうしても訪ねたい場所です。新羅、高句麗(고구려)、百済(백제)という朝鮮の三つの国があったのを私たちは歴史で学びました。慶州は新羅のかっての首都です。街並みが当時のまま残っているので、観光地にきたという印象はありません。仏国寺ープルグクサ(불국사)と石窟庵ーソックラム(석굴암)が1995年に世界遺産登録されていて、どうしても訪れる価値があります。仏国寺は石垣で固めた盛土の上に伽藍が配置され、伽藍は大きく3つの区域に分かれて回廊で区切られています。石窟庵は、東向きに作られており、日の出、月の出の名所とされています。Wikipediaによりますと、プルグクサとソックラムは、新羅美術の最高峰という呼び声があるそうです。私は幸い3度訪ねていますが、奈良に来たような落ち着きを感じます。

석굴암

ハングルと私 その12 スポーツと大学修学能力試験

韓国の最近のスポーツはとても賑やかです。それはなんといっても野球、サッカー、柔道、フィギアースケート、ゴルフなど、韓国選手の国際的な活躍が光ります。

수능

いつだったか山手線の電車で韓国人のグループと同乗しました。ハングルの練習と思い、話しかけました。「韓国はどこから来ましたか?」「韓日サッカーの試合を観ましたか?」サッカーという英語が通じなかったので「チュック」というと、笑っていました。韓国選手も欧州で活躍しています。たとえば、イングランド・プレミアリーグの名門マンチェスター・ユナイテッド(Manchester United)nにいたパク・チソン-朴智星(박지성)というフォワードは素晴らしい選手です。ピッチの中盤を超えてあらゆるところでプレーするユーティリティープレーヤーと(utility player)しても知られました。多くのスポーツ選手と同様に、今も慈善活動にも積極的に参加しています。

韓国の子ども海外で勉強するものが多くなっています。ある程度経済的に恵まれた家族のようですが、母親が同行して海外の英語を使う学校へ入り、父親は一人韓国に残って仕送りをするのです。こうした父親はキロギアッパ(기러기아빠)と呼ばれています。기러기(雁)と아빠(お父さん、パパ)の造語です。小さいときからの英才教育のようなものです。そして、大学に入るための「大学修学能力試験」が待っています。日本の大学入試センター試験に例えられるのですが、その激しさや熱気はけた外れです。

기러기아빠

大学修学能力試験は略して「修能(スヌン)(수능)」。受験生にとっては本試験以上に重要な試験で、「修能」の結果次第で希望の大学に行けるかどうかが決まります。一流大学へ入ると就職も保障されたようなものですから、スヌンは将来を約束されるかの最初で最後の登竜門です。かっての日本のように帝国大学に入る受験のようなものです。科挙もそうした試験でした。後輩や同郷の者、家族親戚が受験生を歌をうたったり、「頑張れ!」のプラカードを作ったりして応援します。チャンゴ(장고)という伝統的な打楽器を叩きながら激励する姿はまさにお祭りのようです。修能は1日で全ての試験を行い、今年は11月14日に行われました。

장고

ハングルと私 その11 韓国と儒教

韓国の宗教は、儒教が中心だと思われがちですが、町の中に教会が多いので、キリスト教が盛んであることがわかります。Wikipediaによりますと、韓国の宗教人口は総人口の53.1%を占め、非宗教人口は46.9%となっています。このうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18.3%、カトリックが10.9%、儒教0.2%とあります。プロテスタントとカトリックを加えたキリスト教全体では29.2%となっています。ソウル市内にも巨大な教会堂があります。例えばヨイド(여의도)にある汝矣島純福音教会もそうです。この礼拝堂はキリスト教の新教に属するペンテコステ(Pentecost)という福音教会で、通常メガチャーチ(mega church)と呼ばれています。建物が壮麗の壮大さとともに信徒数の大きさを示しています。

汝矣島純福音教会

かつて、儒教は両班階級や軍人の間で信念の基本的支柱とされました。李氏朝鮮の時代、儒教は「宋明理学」と呼ばれていました。趙光祖 (조광조)という学者は、宋明理学を確立したといわれます。韓国では「私は儒教の信者です」と答える人はいませんが、その影響は人々の生活に深く根付いています。その儒教の教えとはなんといっても「長幼の序」でしょう。年齢、地位、先後輩などによる序列がとても厳しこと、組織の上司だけでなく身内の両親や兄、姉に対しても同様に敬語をつけることは、すでに述べました。儒教は教育を大事にします。韓国の進学率は日本以上で、その他先生を敬う態度も我が国ではみられない所作です。大学の教授の待遇は破格だといわれます。羨ましいことです。

趙光祖

ハングルと私 その10 キム医師

「金」という苗字は韓国ではダントツに多いですね。キム(김)と発音します。続いて李(イ) (이)、そして朴(パク)(박)という名前が御三家のようです。同姓不婚のしきたりが韓国にあります。それでもこのような苗字が多いのは不思議な感じがします。いとこや親戚はもちろん、全く知らない人でも事情によっては結婚できない場合があります。そのせいかも知れませんが、夫婦は別姓となっています。

旧京城帝国大学医学部

金先生のことです。先生は旧京城帝国大学医学部を卒業し小児科の医師として活躍されます。京城帝国大学は、朝鮮総督府の管理下で1924年に6番目の帝国大学として、現在のソウル(서울)市につくられます。朝鮮総督府は、武断政治という武力を中心として朝鮮を治めていましたが、それがうまくいかなくなり、やがて文化政治への政策へと転換します。この文化政治は「内地延長主義」と呼ばれます。それによって「内鮮共学」となり朝鮮の人々も大学に入れるようになります。金先生はたいそう優秀だったそうです。医学部に朝鮮人として入学するために大変な努力をされたはずです。

朝鮮総督府

実は、私は金先生の息子さんとアメリカで知り合います。そのきっかけはある教育とテクノロジーの活用に関する学会で彼と会ったことです。学会会場で名刺を交換しながらわかったことは、ソウルからやってきてノックスビル(Knoxville)にあるテネシー大学(University of Tennessee) の博士課程にいるということでした。彼の専門と私の専門が近かったので、アメリカの著名な研究者のことをお互いに知っていて、話しがはずんだものです。その後、何度か別な学会で会いました。彼はやがて、ソウルに戻り研究者として活躍します。彼が東京にきたとき、私のアパートに泊まったりしました。そのとき金先生からの土産も頂戴したりしました。

ハングルと私 その9 柳さん

柳さんという方の話題です。ハングルでは柳を「ユー」と発音します。この方は、ソウル市内にある国民銀行(クンミン バンク)の取締役をしています。彼の奥さんは、大邱教育大学校教授のキム・ヨンスク氏です。ユーさんは韓国ナンバーワンのソウル大学の卒業で、専攻は経済学だったようです。

ユーさんからは取締役という印象を感じません。顔は色黒で労働者のように愛嬌があります。まず、スポーツが大好きでそれもジョギングとバトミントンが得意です。市内の南山公園で友人等と毎週楽しんでいます。一度一緒に走ったのですが、身長が180センチ、体重が85キロがあろうという体躯ですが結構な走りでした。英語はたどたどしく、それでも愉快な会話をわたしとやります。

私が毎回ソウルへ行くと空港には会社の車が迎えにきてくださり、必ず彼の重役室に連れて行かれます。女性の秘書がいて、結構「ぞんざい」に指示を出しています。週末は、大邱市より奥様のキム教授がソウル市内の高層マンションへ帰ってきます。ご夫婦のやりとりをみていると、ユーさんはなんとなしに態度が高圧的で、他方キム教授はユーさんのいうことに従順なような印象を受けます。ハングルの響きもあるからだろうと察します。料理でもキム教授が一人で作り、ユーさんは手伝うことはありません。でも二人の子どもを育てる仲の良い夫婦です。

韓国では年齢・地位・先輩後輩などによる序列が厳しいものがあります。会社の社長を「社長様」と呼びます。身内の両親や兄・姉に対しても敬語をつけるのです。