ヨーロッパの小国の旅 その六十 モルドバ 

この国もあまり聞き慣れない国です。一体どこにあるのかをすぐには答えられません。以下、Encyclopaedia Britannicaで調べたモルドバ(Republica Moldova)の紹介です。

東ヨーロッパに位置する共和制国家がモルドバです。内陸国であり、西にルーマニア(Romania)と、他の三方はウクライナ(Ukraine)と国境を接しています。モルドバは以前はベサラビア(Bessarabia)と呼ばれ1812年まではルーマニアの一部でした。その後オスマン・トルコ(Ottoman Empire)に編入され、第一次大戦まではロシア帝国(Russian Empire)の一部となります。やがてルーマニア帝国(Great Romania)に編入され、1940年から41年まではソ連の占領下となります。モルドバ人自治によるソビエト社会主義共和国となり1991年8月のソ連の崩壊により共和国の独立を宣言し、国名をモルドバとします。1992年に国連に加盟します。

1991年の独立以来、モルドバは4つの問題を抱えてきました。第一は地方自治の伝統がなかったために、地方政府が樹立出来ないことです。第二は地方自治の政治が無かったために、ソ連による高度の中央集権化で憲法を制定するのが難しいという問題です。第三は統制経済下にあったために自由経済の考え方が行き渡らないことです。農業も「集団農場」(Collective Farm)での共同経営(State Farm)が行われ、生産物は政府に売却したり組合組織による経営が行われていたからです。土地の個人所有や個人生産によって、生産性の低下や混乱が起こります。

第四は、モルドバの東部にありウクライナ国境に接するドニエストル(Transdniestria)が独立を叫び、1990年には独立戦争を始めます。1992年には停戦が成立し、ロシアの軍隊がドニエストルに治安維持のために駐留しています。ドニエストル地域は、モルドバの電力を供給していて、首都は何度も供給を閉ざされ、そのために国家の建設が滞ってきました。外国からの投資もなく、ヨーロッパで最も貧しい国といわれています。

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ヨーロッパの小国の旅 その五十九 スロバキアとロビン・フッド

スロバキア(Slovak Republic)は、前回のスロバニアと国名が似通っていますが、れっきとした別の独立国です。北にはポーランド(Poland)、東にはウクライナ(Ukraine)、南にはハンガリー(Hungary)とオーストリア(Austria)、西にはチェコ(Czech)が位置しています。

首都のブラチスラバ(Bratislava)は、西南国境を縁取るドナウ川(Danube River)の河畔に位置します。ドイツ南部から東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川です。ブラチスラバは中世の城塞などが保存される美しい古都といわれます。

中央ヨーロッパと呼ばれる地域にあるこの国は、さまざまな歴史があるようです。10世紀にスラヴ人(Slavic)の国家であった大モラビア国(Moravia)が滅亡した後は,1,000年近い間ハンガリーの統治下に置かれます。16世紀にオスマン・トルコ(Ottoman Empire)が欧州に進出してくるとブダペスト(Budapest)が陥落してハンガリーの大部分がオスマン帝国に占領されます。そのためハンガリー王国の首都がブラチスラバに移っていた時期もあったようです。

第一次世界大戦後の1918年10月にチェコスロバキア共和国(Republic of Czechoslovakia)として独立します。第二次世界大戦後の共産主義時代には重点的に工業化され,軍需産業や重工業が発展します。1989年11月のビロード革命(Velvet Revolution)後,1993年1月にチェコとの連邦を解消し,スロバキア共和国として独立します。チェコとスロバキアが平和裏に分かれたの形容して「ビロード離婚」(Velvet Divorce)とも呼ばれます。「欧州への回帰」を目標に2004年3月にNATO加盟し、同年5月にEU加盟を果たします。さらに2009年1月からユーロを導入します。

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ヨーロッパの小国の旅 その五十八 チェコと「プラハの春」

チェコ(Czech Republic)という国の紹介です。私の年代からすると、チェコというとプラハ(Prague)出身の女子体操選手のベラ・チャスラフスカ(Vera Caslavska)を思い出します。1964年の東京五輪の体操女子で3個、1968年のメキシコ五輪4個の金メダルを獲得するという名選手です。

チェコはもともともはチェコスロバキア(Czechslovakia)と呼ばれていました。長い間共産党政権が続き、ソ連の衛星国のような存在でした。やがてチェコスロバキア国内に共産党の権力独占を非難し,権力を乱用する者の退陣を要求する運動が起こります。1968年6月に改革運動の象徴的な文書といわれた「二千語宣言」が発表されます。

この宣言は、正式には『労働者,農民,科学者,芸術家,その他すべての人々の二千語宣言』と呼ばれました。70名の各界の有名,無名の知識人の署名を付し,チャスラフスカもこれに署名します。この改革運動は「プラハの春」(Prague Spring)と呼ばれます。このときの指導者は共産党第一書記で、民主化運動の象徴の一人となったアレキサンダー・ドゥプチェク(Alexander Dubcek)です。

その後、共産党は「正常化体制」といわれて政権を維持します。チャスラフスカは「二千語宣言」への署名撤回を要求されます。彼女はそれを拒否し続けたので、彼女は非常に困難な状況に置かれ続けます。1968年のメキシコ五輪のとき、出国ビザが政府からなかなかおりなかったというエピソードがあります。

1989年11月、ビロード革命(Velvet Revolution)という民主化革命によって共産党体制が崩壊すると、チャスラフスカはチェコ共和国の初代大統領となったヴァクラフ・ハベル(Vaclav Havel)のアドバイザー及びチェコ・日本協会の名誉総裁に就任します。その後はチェコオリンピック委員会の総裁も務めました。

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ヨーロッパの小国の旅 その五十七 スロバニア

外交面でも内政面でも日本では余り知られていない国がヨーロッパにあります。その一つがスロバニア(Republic of Slovenia)です。首都は人口29万人のリュブリャナ(Ljubljana)です。中央ヨーロッパの地図を見ますと、大国に挟まれ歴史的にさまざまな変遷を辿ってきたことが伺える国がスロバニアです。

スロバニアは、北はオーストリア(Austria)、東はハンガリー(Hungary)、南はクロアチア(Croatia)、そして西はイタリア(Italy)に隣接しています。かつては20世紀にいたるまでユーゴスラビア(Yugoslavia)の一部であった国です。中世以来、神聖ローマ帝国の皇帝位を保持してきたオーストリアのハプスブルグ(Habsburgs)によって統治されてきました。

1945年にスロバニアは、社会主義体制となったユーゴスラビアに復帰し、ユーゴスラビアの構成国であるスロベニア人民共和国となります。ユーゴスラビアでは戦後一貫して政治・経済の分権化が進められます。それを指導してきたのが、有名な指導者チトー(Josip Broz Tito)です。チトーは1945年 から1963年までユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首相となり、その間、スターリン(Joseph-Stalin)と断絶します。

1990年に旧ユーゴ内スロベニア共和国において初の複数政党制による選挙が実施されます。そして1991年6月独立を宣言し2004年にはEU及びNATOに加盟します。スロベニアには、多数を占める政党がなく、中道の右派や左派の諸政党が存在しています。長い間、連立政権が政権を担っているという珍しい国といえます。2004年にはNATO及びEUへ加盟し,2007年より通貨としてユーロを導入しています。

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ヨーロッパの小国の旅 その五十六 オーストリア共和国

オーストリア共和国(Federal Republic of Austria)は、中部ヨーロッパの内陸に位置し、南はドイツ(Germany)、イタリア(Italy)とスロベニア(Slovenia)、西はリヒテンシュタイン(Liechtenstein)とスイス(Switzerland)、北はドイツとチェコ(Czech)、東はハンガリー(Hungary)とスロバキア(Slovakia)とに隣接しています。

首都はウィーン(Vienna)。国土の70%がアルプス山脈を擁し、人口は870万人、公用語はドイツ語です。その他クロアチア語、ハンガリー語、スロベニア語も使われます。ヨーロッパで生活水準が非常に高い国といわれます。1995年にEUに加盟し通貨はユーロとなっています。

オーストリアの紀元はローマ帝国時代に遡ることができます。紀元前15世紀頃ケルト王国(Celtic Kingdom)がローマ帝国によって征服されます。ノリクム(Noricum)というローマの支配名が付けられます。これが現在のオーストリアとなった地域です。紀元後788年にはフランク王国(Frankish)のシャルメイン王(King Charlemagne)が. ノリクムを征服しキリスト教を認めます。ハプスブルグ王朝(Habsburg dynasty)の下で、オーストリアはヨーロッパにおける強大な国家となっていきます。1867年にはオーストリア・ハンガリー帝国(Austria-Hungary)という国の名称に替えます。

ですが、オーストリア・ハンガリー帝国は第一次大戦で敗れ滅びます。そしてオーストリア共和国となります。その後、第二次大戦の初期にナチスドイツ(Nazi Germany)に占領されますが1945年に連合国によって解放され、1955年に民主的な憲法を施行し、同年に永世中立を宣言します

EU加盟以降は、同言語・同民族の国家同士でありながら複雑な国際関係が続いてきたドイツとの距離が再び縮まりつつあります。国内でも右派政党の進出などドイツ民族主義の高まりが懸念されています。

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ヨーロッパの小国の旅 その五十五 スイス

スイス連邦(Swiss Confederation)の面積は、4.1万平方キロメートルといわれますから九州と同じくらいの広さです。首都はベルン(Bern)、人口は850万人位です。永世中立国(permanent neutrality)として知られるのがスイスです。1815年にオーストリア帝国の首都ウィーン(Vienna)において欧州の列強が参加してウィーン会議(Congress of Vienna)が開かれます。その席でスイスの永世中立が承認されます。

永世中立とは、国際法上ないし国際政治上の概念です。非同盟主義と同じような意味で、平素から戦争にかかわらないよう相対立するいずれの国にも偏しない立場をとることです。他国に対して武力を行使せず、また他国間の戦争にも参加せず、武力行使を義務とする同盟などは締結しないという立場です。他の国に軍事基地を提供することも、同盟条約や集団安全保障条約の当事国となることも許されません。

永世中立のスイスにおける国防の基本戦略は興味ある話題です。敵国に対して、「スイスを侵略することによって得られる利益はあまりありませんよ、もし侵略してもスイス軍の抵抗や国際社会からの非難や制裁による損失の方が大きくなりますよ」 と主張するのです。それによって国際紛争を未然に防ぐというのが戦略なのです。これは「拒否的抑止力」という考え方です。ナチスドイツがスイスを占領しなかったのは、占領しても得るものは少なく、国際社会から非難されることを恐れたのだろうと思われます。

永世中立国は、交戦国からの中立侵犯に対して防衛するために武力を行使することは妨げられません。そのためスイスは国軍として約4,000名の職業軍人と約21万名の予備役から構成されるスイス軍を有しています。隣国のオーストリア(Austria)も1955年に永世中立を宣言しています。

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ヨーロッパの小国の旅 その五十四 マルタ

マルタ共和国(Republic of Malta)は、イタリア(Italy)の南側でイタリアのシチリア島(Sicìlia)の少し南に位置しています。地中海の中央にある小さな島国です。日本ではあまり知られてはいませんが、キリスト教徒には忘れられない島です。

地図で分かるように、ヨーロッパとアフリカや中東を結ぶ拠点にマルタは位置しています。マルタは昔から戦略上重要な位置にあるということです。それが現れたのが第二次大戦です。マルタ島は連合国側の軍事拠点となっていました。ナチスドイツは、マルタ島に激しい空爆を行います。1942年にイギリスは、戦時下にあったマルタ島の人々に対して勇敢な行為を示したとしてジョージ・クロス(George Cross)を与えます。この勲章は、一般市民が受章できる最高位の章といわれます。

イギリスが宗主国として1800年から164年間にわたりマルタを統治してきました。戦後、マルタに独立の機運が高まり、1964年に自治を宣言しイギリス連邦(Common Wealth)の一部となり、1974年に完全に独立を果たします。そして2004年にはEUにも加盟します。公用語は英語、通貨はユーロ、首都はバレッタ(Valletta)です。

マルタの人々の特徴は、新約聖書の使徒行伝(Acts of the Apostles)28章で、使徒パウロ(St. Paul, the Apostle)が記述しています。彼は紀元2年に宣教の途中、マルタ島に漂着します。そこでマルタの人々から暖かいもてなしを受けるのです。その影響のせいでしょうか、マルタの人は旅人への暖かさ、親切さ、寛容さで知られているといわれます。

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ヨーロッパの小国の旅 その五十三 サンマリノ

サンマリノ共和国(Republic of San Marino)はバチカン市国と同様、イタリアの中に国土を構える国です。イタリア中北部アドリア(Adoriatic)海岸近くのエミリア・ロマーニャ州 (Emilia-Romagna)、マルケ州(Marche )のペーザロ・ウルビーノ県(Pesaro e Urbino)との間に位置しています。面積は約61平方km、これは東京の山手線の内側と同じくらいの広さといわれます。世界で5番目に小さい共和制国家です。

4世紀初め、石工マリヌス(Marino)というキリスト信徒らが、ローマ皇帝による迫害を逃れ、この地に潜伏してキリスト教徒の共同体を作ったという伝説にちなんで「San Marino」が国名となったといわれます。サンマリノは世界最古の独立国家といわれます。1631年にローマ教皇によって独立を承認されて以来、独自の歴史と文化を育んでいます。

サンマリノ共和国の魅力です。2008年に739mのティターノ山(Mount Titano)にある首都サンマリノの歴史地区を含む55ヘクタールの範囲が、ユネスコ世界文化遺産に登録されました。要塞の塔や城壁、城門、14〜16世紀の修道院など街のあちこちに歴史的に価値の高い史跡が残っているようです。

サンマリノは国民皆保険制度がゆき渡り、高度な医療施設があり傷害や疾病には無料で治療が受けられます。老人介護や生活保護も受けられる国です。

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ヨーロッパの小国の旅 その五十二 バチカンとファッシスト

バチカンは第二次世界大戦においてどのような政治的なスタンスを持っていたのがきになります。1922年に政権獲得のクーデターによりファシスト党(Fascist)のベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)がイタリア王国の指導者につきます。国王エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III)はムッソリーニを首相に指名します。ムッソリーニは権力の集中をはかり、ファシズムによる独裁体制を確立させていきます。

当時のイタリアでは、反ファシズム運動(anti-fascism)は弱体で、かつ分裂し、しかも公の運動はできず新聞やラジオでの報道も禁止されていました。共産主義者は反ファシズム運動に最も積極的で地下組織をつくり、ロシアの支援や金銭を受けていました。しかし、たった7,000人位の党員であり、イタリア全土に反ファシズム運動のプロパガンダを広めるには不十分でした。運動員の中にスパイもいて地下組織を密告する者もいました。新しい反ファシズム組織も時に結成されますが、ファッシスト政権下の秘密警察がそれを弾圧します。

共産主義者の他に、1929年に「正義と自由」(Justice and Freedom)という共和・民主社会主義者の秘密組織が結成されます。それを主導したのはロッセーリ(Carlo Rosselli)です。ロッセーリはやがて、人民共和党軍(People’s Republican Army)を結成します。そしてイタリア国内のみならずフランスやスイスからの支援を受けることになります。

主要な反ファシスト者は投獄されたり、自宅軟禁され、遠隔の島に追いやられ、外国に亡命してイタリアの運動者と接触ができませんでした。ムッソリーニはストライキを禁止し取締りを強化していきます。労働組合との闘争で勝利した企業家には多額の税が課せられます。その他、ファッシスト党の支配下で社会福祉的な企業は営利を認められていました。

ファシズムから中立の立場をとっていたのがローマカトリック教会(Roman Catholic Church)です。ムッソリーニが台頭してきた初期には、カトリック教会はムッソリーニ政権を暗に支持していました。1929年にカトリック教会は、ムッソリーニ政権との間でラテラン条約(Lateran Treaty)を結びます。それによってムッソリーニは「ローマ問題」(Roman Question)に終止符をうち、バチカン市国の独立を認めるのです。ムッソリーニはローマ教皇に、1870年以前から支配してきた島々への多額の補償を行い、イタリア国内での特権を与えていきます。教会での結婚の証明、市民権法、宗教教育と小中学校の設立、カトリック教会団体の自由な活動などです。

しかし、ムッソリーニは次第にカトリック教会の動きを反ファシズム的と警戒していきます。1931年には躍動していたカトリック教会の青少年組織を封鎖します。それまであったファッシスト政権主導の青少年組織と競合し始めたからです。1930年代に入ると反ファシズム運動は次第に弾圧されていきます。ムッソリーニは、イデオロギーとして協調していた盟邦であったスペインのフランコ政権(Francisco Franco)を応援します。フランコは1936年から1939年までのスペイン内戦(Spanish Civil War) を指揮していました。ムッソリーニはフランコに義勇兵、飛行機、艦艇を提供します。バチカンはファシスト党とは絶えず中立的な立場を維持していきます。

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ヨーロッパの小国の旅 その五十一 サン・ピエトロ大聖堂

バチカン宮殿は城壁で囲まれローマ教皇が住むところです。立派な独立国ですから、電信電話制度、郵便制、銀行、薬局などが揃い、宮殿を守る衛兵としてスイス人を雇っています。水道、ガス、電気、食糧などはローマから輸入しています。所得税はなく、輸出入への課税もありません。バチカンの収入は、全世界の10億人以上のカトリック教徒からの献金、投資信託、記念切手や硬貨の発売で賄われています。

ラテラン条約(Lateran Treaty)があります。これはLateran宮殿において、1929年にバチカン市が、ローマ教皇が治める国であり崇高で独立していると認めたイタリアと教皇庁とで結んだ条約です。バチカンは小さい国ながら、世界中の国々に大使館や領事館を置いています。バチカンの多くの住民は、カトリックの僧侶や尼僧、行政職の人や会社人で構成されています。

ルネッサンス期の頃からバチカンの勢いは衰退したといわれます。しかし、何百年間の努力により、バチカンは当時の勢いを甦らせます。その証がシスティーナ礼拝堂(Sistine Chapel)です。特にミケランジェロ(Michelangelo)の活きいきとしたフレスコ画の色の再現に示されます。それを祝ったのが2000年のミレニアム(Millennium)の祝いでした。

バチカン使徒図書館(Vatican Apostolic Library)には、150,000点の資料や160万冊の書籍が保管されています。それらは紀元前からキリスト教初期のものなど貴重な財産です。バチカンは「 L’Osservatore Romano」という日刊新聞も発行しています。教会グルジア語(Ecclesiastical Georgian)からインドのタミル語(Tamil)にいたる30か国語で印刷されたパンフレットを発行しています。テレビ番組も製作し、40か国語による海外ラジオ放送も続けています。1984年にユネスコの世界遺産に登録されます。

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ヨーロッパの小国の旅 その五十 バチカンとシスティーナ礼拝堂

ヨーロッパにある小国の代表といえばバチカン市国(Vatican City)の右に出るものはないでしょう。バチカンはローマ市内の一部にあり、国土面積は世界最小です。東京ディズニーランドよりも小さな国です。しかも国の3分の1が庭園という美しい国です。「サン・ピエトロ大聖堂」(St. Peter’s Basilica)が、カトリック教会の総本山として君臨しています。

バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって、人の住む地域ではなかったと記されています。約3000年前には古代の死者の街である「ネクロポリス」(necropolis)、すなわち埋葬地として使用されていました。ローマ人の共同墓地だったようです。326年にコンスタンティヌス1世(Constantine I)によって、殉教した聖ペトロ(St. Peter)の墓所とされたといわれます。そして、この地に最初の教会堂が建てられたのがサン・ピエトロ大聖堂の前身となります。

ローマ教皇(Pope)はバチカン市国首長であり、その権威と威光は絶大なものです。教皇は80歳未満の枢機卿(Cardinals)たちの選挙で選ばれます。この選挙のことをコンクラーヴェ(Conclave)といいます。選挙の会場は、バチカン宮殿のミケランジェロ(Michelangelo)の「最後の審判」(Last Judgment)で有名なシスティーナ礼拝堂(Sistine Chapel)です。120名から成る枢機卿団 (College of Cardinals)によって行われます。コンクラーヴェでは、投票の結果が判明するたびにシスティーナ礼拝堂の煙突から煙が上がります。決まらなかった時には黒煙、決まったときには白い煙がでます。面白い儀式です。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十九 リヒテンシュタイン

現在世界で唯一、家名が国名になっているのがリヒテンシュタイン(Principality of Liechtenstein)です。建国は1719年ですから、創設301年を迎えるそうです。リヒテンシュタインは、中央ヨーロッパに位置する立派な立憲君主制国家です。面積は南北に25キロメートル、東西に6キロメートルで、香川県の小豆島とほぼ同じという広さです。周りはスイスとオーストリアに囲まれています。

かつて神聖ローマ皇帝に仕えたリヒテンシュタイン侯爵家が統治しています。昔から侯爵家は代々領地の経営に成功して富を蓄え、皇帝ナポレオンにも貸し付けを行うほどだったということです。フランスとオーストリアの間の度々の領土紛争に巻き込まれた歴史があります。

アルプス(The Alps)に抱かれたこの小さな国土にはライン川(Rhein)が流れています。この国は現在金融業などが盛んで、小さいながら世界屈指の豊かさを誇ります。第二次大戦により領地を失い財政難に陥ります。しかし、長く銀行業を経営してきたノウハウや税制上の優遇措置により、企業の誘致に成功します。今は非武装中立政策をとっています。ですがどのようにして独立を得たかはもっと調べる必要があります。

国土の2/3が山岳地帯でスキーリゾートでも知られています。オリンピックのアルペン種目で優勝者をだすほどです。ヨーロバの最高峰4,808mのモンブラン(Mont Blanc)を背にしています。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十八 モナコ公国

世界の小さな国について2回目は、イタリア国境に近くのフランス地中海沿岸地方、コートダジュール(cote d’azur)にある「モナコ公国」(Principality of Monaco)です。世界で2番目に小さな国です。面積は東京ディズニーリゾートと同じというのですから面白いです。

モナコ公国は南フランス、イタリアの国境にほど近い地中海に面した高級リゾート地です。首都のモナコ市がそのまま領土になっています。1952年に「真昼の決闘」(High Noon)、1956年の「上流社会」(High Society)で出演し、その美貌で世界中に知られた女優グレース・ケリー(Grace Kelly)が、モナコ大公レーニエ3世(Rainier III)に見初められます。その結婚は世界的なニュースとなりました。

モナコの住人は所得税などの税金がかかりません。そのため世界中から多くのセレブが高額な税金を回避するためにこの国に移住してくるのです。いわゆる「タックス・ヘイヴン(tax haven)」です。「タックス・ヘイヴン」とは、一定の課税が著しく軽減、ないしは完全に免除される国や地域のことで租税回避地とも呼ばれます。

概ねモナコ国籍者は人口の16%で、外国国籍者は、フランス国籍47%、イタリア国籍16%、その他21%となっています。モナコ大聖堂、大公宮殿の近衛兵交代式や、カジノ、歴史博物館なども観光の見所となっています。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十七 アンドラ公国

これから数回にわたり、ヨーロッパに位置するミニ国家を散策することにします。最初はアンドラ公国(Principality of Andorra)です。この国があまり知られていないのは当然のことです。スペインのカタルニア地方(Catalonia)とフランスに挟まれたピレネー山脈(Pyrenees)の山間に位置し、国土面積は金沢市程度しかない小さな国だからです。

国土が非常に狭く、全て山間部なため、人口はわずか8万人しかいませんが、その人口の3分の2は外国籍でその大半はスペイン人です。スペイン、フランスの国境という立地の結果として、長い間この二つの大国の間を揺れ動き、公国として成立した後も両国は領有権を争い、1993年になってようやく両国の承認も得て正式に国として承認され国連に加盟しました。

他方で外国人、特にヨーロッパ人からの人気は非常に高く、年間1,000万人もの外国人観光客がこの国を訪れます。そのため英語やフランス語も通じます。自然豊かなこの国には昔ながらの町並みを残した中世さながらの村も点在し、カタルーニャ地方の影響を色濃く受けています。かつては産業の中心は農業で成り立っていたこの国は、現在では観光収入が国の財源の大半を支えるようになっています。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十六 キプロス共和国

地図を見ると地中海の東端、トルコの南、シリアの西に浮かぶのがキプロス島です。世界遺産の遺跡が点在する長い歴史を持つリゾートの島にあるのが、キプロス共和国(Republic of Cyprus)です。首都ニコシア(Nicosia)は、オスマン(Ottoman)トルコからの侵略を防ぐ城壁が残る都市です。世界でただひとつの2つの国に統治される首都という珍しい街です。国連がコントロールする緩衝地帯「グリーンライン」(Green Line)と呼ばれる境界線が街のなかにあるとあります。

キプロスは、長い歴史の中でギリシャ系とトルコ系の住民が住むようになります。四国の半分ほどの小さなこの島が、2つに分断されるきっかけになったのが1970年代のキプロス紛争です。ギリシャ系住民の多い南部キプロスと、分離独立を求めるトルコ系住民との衝突を抑止するために1974年にグリーンラインが引かれ、島の南部はギリシャ系の「キプロス共和国」、北部はトルコ系住民が多く住む「北キプロス・トルコ共和国」に分かれました。

1974年に南北分断された後は、キプロス共和国は南部を占め、ギリシャ系住民のみの政府となっています。公用語はギリシア語およびトルコ語です。キプロスは地理的に、古くからヨーロッパと中東を結ぶ海上貿易の拠点として栄えます。紀元前1世紀~12世紀末までのローマ帝国による支配や、16世紀~19世紀にいたるオスマントルコ帝国による支配によって、異なる文化圏を持つ国々に統治されてきます。

キプロス島は長らくイギリスの植民地でありました。独立運動の指導者はマカリオス三世(Makarios III)というキプロス正教会の有名な聖職者です。マカリオス3世は、ギリシャへの統合から独立へと志向を変え、国際連合総会で独立を訴えます。そして1960年にキプロスは独立を果たしマカリオスは初代の大統領となります。マカリオス三世の名は、しばしば報道されたのを私も鮮明に記憶しています。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十五 大航海時代の幕開け

ポルトガルは、日本人にとってヨーロッパの歴史を学ぶ時には、身近に感じる国です。それは、種子島にポルトガル人によって鉄砲が伝来したこと、ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)という探検家がアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であることを学ぶからです。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれたというのですから、ガマの貢献は偉大というしかありません。

ユーラシア大陸最西端にポルトガルは位置します。大河、テージョ川(Tejo)が流れています。その河口に位置するのがポルトガルの首都リスボン(Lisboan)です。この街の歴史は紀元前1000年頃、フェニキア人(Phoenicia)の港が築かれた頃まで遡ります。フェニキア人とはギリシア人による呼称で、地中海方面からメソポタミア、アラビア半島に渡って、海上交易をしていた人々いわれます。ギリシア人は、こうした交易などを目的に東から来た人々をフェニキア人と呼んでいました。当時リスボンはアリス・ウーボ(Alice Ubo)「穏やかな港」と呼ばれていました。

その後のローマ時代、ムーア人(Moor)による支配の時代と、支配者が変わる度に街は名前を変えました。8世紀から400年以上にわたって続いたムーア人の支配から街を解放したのがアフォンソ・エンリケス(Afonso Henriques)です。この時、街の名前がリスボンと定められました。ムーア人といえばこのシリーズの第36回で取り上げた悲劇「Othello」に登場し、妻デズデモーナ(Desdemona)の貞操を疑うヴェニスの軍人を思い出します。

そして15世紀、アフォンソ1世(Afonso I)の頃行われた西アフリカ方面への遠征が大航海時代の始まりというわけです。ガマやフェルナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)、クリストファ・コロンブス(Christopher Columbus)など国籍は違いますが、多くの探検家がこのリスボンで学んだといわれます。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十四 ポルトガル

歴史的に日本との関係が深いポルトガル(Portugal)へ行ってみましょう。ポルトガルの正式な国名はポルトガル共和国(Portuguese Republic)。ヨーロッパ大陸の西側にあるイベリア半島(Iberian Peninsula)の南西にあり大西洋に面しています。東隣はスペイン(Spain)です。かつてポルトガルは地中海諸国と同盟を結び、ヨーロッパ大陸で地理的にも文化的にも海上帝国として最も栄えた国です。

ポルトガルといえば思い出すのは探検家であり航海者だったヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)です。記憶しやすい名前です。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した最初のヨーロッパ人と呼ばれています。インドに到達したのは1498年といわれます。さらに1500年には、インドを目指したペドロ・カブラル(Pedro Alvares Cabral)がブラジルを発見し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んでいきます。

1509年、インドのディーウ(Diu)の近くのアラビア海でオスマン帝国(Ottoman Empire)の海戦が起こり、ポルトガルは勝利してインド洋の制海権を確保します。そしてホルムズ(Holmes)やマラッカ(Melaka)とさらに東進したポルトガル人は、1541年から1543年にかけて日本へもやってきます。鉄砲の伝来です。

ポルトガル人の到来により、交易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えます。当時日本ではポルトガル人を南蛮人と呼んだそうです。1557年には明からマカオ(Macau)の居留権を得ます。マカオを拠点としたポルトガル商人は、中国から生糸などを積み込み、日本に運び、日本の銀と交換する貿易を始めていきます。この貿易は南蛮貿易と呼ばれるようになりました。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十三 ルクセンブルグの歴史

Encyclopaedia Britannicaを参照してこの稿をまとめています。ルクセンブルクの歴史は、963年にアルデンヌ家(The Ardennes)のジークフロイト伯爵(Siegfried)がこの地にルクセンブルク城を築いたことに始まります。中世には、ルクセンブルク市は「北のジブラルタル」(Gibraltar)と呼ばれ、難攻不落の要塞といわれました。ついでですが、ジブラルタルはイベリア半島(Iberian Peninsula)の突端にある街です。地中海の出入口を抑える戦略的要衝の地で、軍事や海上交通の上で重要視されています。現在はイギリスが領有しています。

1443年にルクセンブルクはフランスのブルゴーニュ公国(Bourgogne)の侵攻を受けて陥落します。そして、ブルゴーニュ領ネーデルラントの一部に組み込まれます。その後、スペイン領やオーストリア領の南ネーデルラントとしてハプスブルク家(Haus Habsburg)の統治下に入ります。この時期にルクセンブルク城は要塞として度々強化され、当時としてはヨーロッパで最も堅固なものとなります。

1867年に永世中立国となり、城砦のほとんどの部分が取り壊されました。第一次世界大戦が勃発すると、中立宣言にもかかわらず1914年ドイツ帝国に占領されます。1940年にナチス・ドイツが侵攻し1942年には第三帝国に完全に併合されますが、1944年に連合軍に解放されます。戦後はルクセンブルクは中立政策を廃止し北大西洋条約機構(NATO)の原加盟国となります。城砦だった城壁や要塞の一部は現在も残っており、旧市街と要塞群はユネスコ世界遺産に登録されています。

ルクセンブルクの人口わずか57万人、面積も神奈川県くらいのヨーロッパの小国です。ルクセンブルクと国境を接するベルギーやドイツ、フランスに比べると、日本ではあまり知られていません。ですがこの小国が、どうやって世界でもトップクラスの豊かな国となったのかです。その最大の要因は、ヨーロッパを代表する金融センターの座を勝ちとったことにあるといわれます。1960年代からルクセンブルクの経済を牽引していた鉄鋼業の不振を受け、ルクセンブルクは金融立国へと舵を切りました。その政策が功を奏し、いまやロンドンに次ぐユーロ市場、ヨーロッパを代表する国際的な金融センターを有するまでに発展したのです。

ルクセンブルクは20年以上連続で一人あたりGDP(国内総生産)が世界一です。つまり一人あたりが稼ぎ出す富は世界一という大国なのです。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十二 ルクセンブルグ

ベネルクス(Benelux)を構成するのが、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルク(Luxembourg)です。Beneluxとは、それぞれの国名の初めの文字、Be, Ne, Luxから成る頭文字が集合している名称です。3つの国に共通している特徴は、立憲君主制を採用していること、国土が狭いこと、人口密度は非常に高いこと、そして国民生活が豊かであることです。ルクセンブルクの国土は神奈川県くらいの広さ、人口は50万人ほどです。3か国すべてを合わせても面積は隣国ドイツの1/5です。ルクセンブルクは東はドイツ、南はフランス、西はベルギーに囲まれている世界でも最も小さい国です。首都はルクセンブルク(City of Luxembourg)です。

ルクセンブルクの公用語は”Luxembourgish”といわれ、ドイツ語とフランス語が公文書などでも併用されています。宗教はカトリックと少数のプロテスタントで構成されています。ユダヤ教徒やムスリムの人々からも成ります。人口構成ですが、ルクセンブルクの出産率が低いために、労働力となる人口は近隣国からの移民です。ドイツ、フランス、イタリア、ポルトガル人です。170カ国から国外出身者がいるといわれます。住民の46.7%がルクセンブルク国籍を持っていないのも不思議です。多くはルクセンブルクの経済の中心である鉄鋼業や金属工業に従事しています。国民1人当たりの実質国内総生産が世界一というのですから驚きです。労働人口の41%は高等教育を受けていて、2017年6月現在の失業率は6%で、95%の世帯がコンピュータを保有し、97%がインターネットに接続しているのも特記すべきことです。

3か国の緊密な関係についてです。1948年ベネルクス3国間で関税同盟として発足したのがベネルクス経済同盟です。3国間の関税を撤廃して経済的統一体の実現をめざしたものです。経済的統一が発展し資本や労働力の自由化を実現し、やがて1967年に成立する欧州共同体(European Communities: EC)の起源となり、1993年のヨーロッパ連合(European Union:EU)へと発展していきます。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十一 フランダースの犬

首都ブリュッセルから電車で約1時間でアントワープ(Antwerp) に着くそうです。アントワープは「フランダースの犬」(A Dog of Flanders)という小説やアニメで我が国でも知られています。この小説の作家はイギリス人のメアリー・ラメー(Marie Louise de la Ramée)という女性です。アントワープには聖母大聖堂(Cathedral of Our Lady)があります。そこに画家ルーベンス(Peter Paul Rubens)の祭壇画があります。ルーベンスもまたアントワープの出身です。この絵画が「フランダースの犬」物語の伏線にあります。

少年ネロ(Nello) は貧しい牛乳運搬業で生計を助け、いつか画家になることを夢見ています。牛乳の運搬を助けるのが愛犬ペトラッシュ(Patrasche)です。ネロはかねがねアントワープの聖母大聖堂の二つの祭壇画を観るのを熱望していました。それを観賞するには高い観覧料が必要だったので、貧しいネロには叶わぬものでした。二つの祭壇画とは、、「キリスト昇架」(The Elevation of the Cross)と「キリスト降架」(The Descent of the Cross)です。この二つの祭壇画は、アントワープはもとよりベルギーが世界に誇る17世紀の画家ルーベンスの筆によるものです。

ダイヤモンド研磨や加工の聖地といわれるのがアントワープです。北海からの交易船を受け入れる海の玄関口であり、大きな河川が流れヨーロッパの重要都市につながるという立地に恵まれています。ユダヤ人コミュニティがあったことも金融で有利になったともいわれます。

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ヨーロッパの小国の旅 その四十 小国で大国のベルギー

西ヨーロッパにあるベルギー(Belgium)を旅しましょう。北はオランダ、東はドイツ、南はルクセンブルグ(Luxembourg)、そして西はフランスです。国土としては最も小さい国の一つですが、人口密度は最も高い国です。独立したのは1830年。王室を擁する立憲君主共和国で首都はブリュッセル(Brussels)です。

文化的には多様な歴史を有し、ローマやゲルマン言語を母体としています。ベルギー人は3つの言語圏に分かれます。第一はオランダ語(flemish)を話す人々が1/2を占めています。「flemish」とはフラマン語とも呼ばれフランドル地方(Flanders region)の言葉といわれます。フランス北東部で話されている低地フランク語の系統の呼称ともいわれます。第二は、ワルーンズ(Walloons )と呼ばれるフランス語を話す人々が人口の1/3を占めます。第三はドイツ語を話す人々です。国民の多くは二つ以上の言語を使い分けることができるといわれます。

ベルギーは歴史と文化にあふれた国です。中世からの大学や街、交易、絵画や音楽が栄えた偉大なゴシックの伝統を擁しています。16世紀以来のルネッサンスを謳歌して発展した国です。他方、ベルギーは長い間ヨーロッパでの戦場の舞台となります。1815年のワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)が起こります。ナポレオン(Napoleon Bonaparte)が連合軍に敗れた戦です。そして20世紀の二つの世界大戦で国土が戦場となります。

今や、ベルギーは小さい国土ながら、ヨーロッパの政治や経済で大きな存在感を示しています。欧州連合(European Union: EU)や北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization: NATO)の本部がブラッセルに置かれているのもその証左です。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十九 オランダ東インド会社と日本

リーフデ号(De Liefde)は1600年4月、九州の豊後に来航します。といってもようやく辿り着いた航海だったようです。同船を含む5隻の船はマフ船団と呼ばれたようです。司令官はヤックス・マフ(Yax Muff)という人の名をとっていました。船団は1598年6月ロッテルダム(Rotterdam)を出航したのち、大西洋を南下し、南米最南端の難所マゼラン海峡をとおり太平洋へはいります。リーフデ号には後に江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステン(Jan Joosten)やウイリアム・アダムス(William Adams)乗り組んでいました。ヨーステンは「八重洲」という地名の語源となった人物で、アダムスは後に三浦按針と名乗ります。

なぜ、オランダの商船が日本を目指してきたかということです。16世紀後半、オランダはスペインと対立し、同国と八十年戦争を行っていて貿易制限、船舶拿捕などによって経済的に打撃を受けていたといわれます。当時、東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルは1580年にスペインに併合され、オランダはリスボンなどを通じた香辛料入手も困難になっていました。そのため、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペインに併合されていたポルトガルに対抗する必要がありました。こうして、大航海時代のヨーロッパ勢力が香辛料貿易の利益を求めて東南アジアにあらわれるようになります。

イギリスやポルトガルが、東南アジアとの取引を本格化させるとともに、香辛料購入価格が高騰していきます。商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落していきます。ホラント州(Holland)のオルデンバルネフェルト(Johan Oldenbarnevelt)というやがて共和国の宰相となる政治家が中小の貿易会社を統一しオランダ東インド会社(Holland East India Company)を発足させ、諸外国に対抗しようとします。これが1602年3月の東インド会社の設立です。通称VOC(Verenigde Oost-Indische Compagnie)といわれました。

東インド会社は、世界初の株式会社といわれます。本社はアムステルダム(Amsterdam)に設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、やがてジャワや平戸などに置かれます。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結、軍隊の交戦権、植民地経営権など諸種の特権を与えられた専売会社です。アジアでにおける帝国主義は植民地政策であり、その前身となる組織です。オランダは長くインドネシアを植民地とします。戦時中、日本がインドネシアを占領したことは、オランダからの独立を促す契機ともなったといわれます。インドネシア独立戦争は、1945年から1949年まで続きます。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十八 オランダ東インド会社

私がオランダへ行ったのは、兵庫教育大学に客員研究員として招いたオランダ人との付き合いからです。彼はオランダの東、ドイツ国境に近いい街、エンシェンデ(Enshande)にあるトゥウェンテ大学(Twente University)の教育工学専門の教授でした。首都アムステルダムに一緒に行った友人は兵庫教育大学の教授です。彼は、アムステルダム(Amsterdam)にはかつてのオランダ東インド会社の本社があったと言っていました。

世界初の株式会社といわれたオランダ東インド会社の設立の経緯です。1596年6月、インドネシアにやってきたのがオランダの探検家ハウトマン(Frederik de Houtman)が率いた艦隊です。この航海の成功に勢いづけられて、オランダでは対アジアの貿易会社が林立しました。1601年末までに15の船団からなる65隻の船が東洋に派遣され、香辛料を満載にして戻ってきたといわれます。

その結果、競争が激化。東アジアでの仕入価格は高騰し、逆にヨーロッパでの販売価格は下落しました。利益確保のため、オランダの連邦議会ではこれらの貿易会社を統合する必要性が論じられました。これに先立つ1600年、北海を隔てた隣国イギリスではエリザベス1世により勅許会社イギリス東インド会社が設立されていました。このこともオランダ人の危機感を煽りました。1602年3月、中小の貿易会社が統一され、「オランダ東インド会社(通称:VOC)」が設立されました。

オランダ、ヨーロッパ最古の大学にライデン大学(Leiden University)があります。日本との間にあらゆる分野の学生や研究者の交流を行っています。アインシュタイン(Albert Einstein)や国際法「自然法の父」グロチウス(Hugo Grotius)、現在の国王ウィレム・アレキサンダー(Willem Alexander)、10人のオランダ首相をはじめ数多くの指導者を輩出する大学です。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十七 「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」

オランダ(Holland)とネザーランド(Netherlands)という使い分けから始めます。公式にはネザーランド王国(Kingdom of the Netherlands)というのが正しい国名です。チューリップと水車の国とも呼ばれています。

オランダが国を樹立したのは、いろいろな地域や都市を併合して1579年にスペインからの独立を宣言したときです。 その一つがオランダ(Hollands)という地域でした。Hollandsの歴史は12世紀に遡ります。ローマ帝国の支配にあった頃です。今の首都アムステルダム(Amsterdam)やロッテルダム(Rotterdam)、ハーグ(Hague)といった都市はオランダ地域の中にあります。こうした地域は、政治や経済の中心となり、対外的にはオランダ(Hollands)と呼ばれるようになります。

ところでNetherlandsとは「低い土地」、Hollandとは「森林地帯」という意味です。中世以来の伝統を引き継ぎ、12の郡から構成されています。オランダの自治領としてカリブ海のオランダ領アンティル(Antilles)、サバ(Saba)、シント・マーテン(Sint Maarten)などがあります。

オランダは極めて平坦な国土で、湖、川、そして運河が広がります。6,500 平方キロが干拓によって造られてきました。水の管理の伝統は中世から始まり今に至っています。新しい土地はほとんどが干拓地で、今も排水が続いています。もともとは人力や馬によって排水作業がされていました。

「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」という諺があります。オランダは国土の大部分が低湿地帯です。干拓によって人の住める場所を広げてきました。さらに13世紀には風車を利用するようになり、風を動力として活用する技術を蓄積していました。電気モーターやディーゼルに代わったのは20世紀になってからです。キンデルダイク(Kinderdijk-Elshout)という水車小屋が並ぶ光景はユネスコの世界遺産として登録されています。

風車の発明や改良などにより、大航海に耐える帆船を作るのに充分な技術が生まれます。そして大西洋やインド洋へ乗り出すのです。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十六 オセロとシャイロック

デンマークから少し南下してイタリアのヴェニス(Venice)に行きましょう。といってもヴェニスの街ではありません。シェイクスピアが描く「オセロ(Othello)」、副題は「ヴェニスのムーア人」(The Moor of Venice)という悲劇です。今回はオセロと「ヴェニスの商人」(Merchant of Venice)に登場するシャイロック (Shylock) という劇の主人公を比較し、キリスト教社会と人種差別を話題にしてみようというのが本題です。

ベニス共和国(Republic of Venice)に仕えるムーア人(The Moor)でアフリカ系黒人の将軍オセロは、元老院議員の白人娘デスデモーナ(Desdemona)と深く愛するようになり,周りからの反対にあいながらも結ばれます。カトリック教会が定着するイタリアのヴェニスで、高官の娘を妻にしたオセロに対して、彼の部下が嫉妬を抱くという舞台設定です。

来襲するトルコ軍と戦うためにやってきたキプロス島(Cyprus)で,オセロはかねてより彼に恨みを持つ旗手イアーゴの奸計に乗せられます。奸計とは自分をさしおいて昇進した同輩でオセロの副官キャシオー(Cassio)がデズデモーナと密通しているとオセロに讒言するのです。イアーゴはオセロに言うのです。「お気をつけ下さい、将軍、嫉妬というやつに」

オセロは、デズデモーナとキャシオーへの疑念に取りつかれます。そうして二人の不義を密告した忠実で正直な旗手イアーゴを自分の副官に任命し、キャシオーも殺そうと決意するのです。イアーゴの悪巧みによってデズデモーナの不貞を確信したオセロは、彼女を絞殺するのです。しかし、その直後に妻デズデモーナの貞淑(honesty)や真実を知ってオセロは自害するのです。

「ヴェニスの商人」の主題の一つが人種差別です。ユダヤ教徒への偏見を描いた小説といわれます。貿易で栄えたヴェニスが舞台です。ユダヤ人で強欲な高利貸しシャイロックから貿易商人であるアントーニオ(Antonio)は友人のために金を借りるのです。そして指定された日までに金を返すことが出来なければ、自分の肉1ポンドを与えるという契約に合意します。

「オセロ」では、黒人を主人公として肌の色の違いによる人種差別が描かれています。「白」と「黒」という対照です。白は純粋とか純真、正直、正義、神聖といったイメージを持っています。他方、黒は権威、破壊、詐欺、闇といったイメージもあります。二つの単語は肯定的な面と否定的な意味を包含しています。シェイクスピアは、ステレオタイプ的なユダヤ人のシャイロックを虐げられた民族として描いているようです。

ヨーロッパの小国の旅 その三十五 ハムレットとデンマーク

デンマーク皇太子ハムレットの悲劇」(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark)は文字通りデンマークが生んだ伝説の人物を主人公にしています。1599年から1601年にかけて書かれたとあります。ハムレット(Hamlet)という名は、Wikipediaによりますと、中世デンマークの歴史家であったサクソ・グラマティクス(Saxo Grammaticus)によって書かれたデンマークの歴史書に残る伝説の英雄「アムレート」(Amleth)に由来するとあります。

シェイクスピア(William Shakespeare)の四大悲劇「ハムレット」、「マクベス」(Macbeth)、「オセロ」(Othello)、「リア王」(King Lear)の中で、最も長いのが「ハムレット」です。この物語はデンマーク皇太子ハムレットが、父(King Hamlet))を殺し母ガートルード(Gertrude)を奪い王位に就いた叔父クローディアス(Claudias)を討ち、復讐を果たす物語です。

劇の最初ではハムレットは、父ハムレット王の死、叔父の王位継承、さらに母の早すぎる再婚という堕落ぶりにひどく憂うつになってしまいます。ある夜、父の亡霊がハムレットの前に現れ、クローディアスが王位を強奪するためにハムレット王を殺したことを告げます。そしてハムレットに父の死の復讐をするように命令するのです。

ハムレットはクローディアスが有罪かどうかを確かめるために、宮廷劇を企画します。そのために役者の一団を雇います。王の殺人劇を見せてクローディアスの反応を試すのです。そして家来であり腹心の友であるホレイシオ(Horatio)にクローディアスの反応を探らせるのです。クローディアスは劇の途中で罪悪感に耐えられず、途中で劇を中断するように命令します。クローディアスが酷くとり乱し観衆の前から立ち去ると、ハムレットは亡霊が言っていたことは正しかったことを確信するのです。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十四 デンマークとアンデルセン童話

中世期頃からのデンマークの歴史です。11世紀初頭の30年間にはクヌート大王(Knut I the Great)が北海帝国(North Sea)として、デンマークとイングランドを統治します。1397年にデンマーク王母のマルグレーテ(Margrete I)によって、デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3ヶ国による、デンマークを盟主にしたカルマル同盟(Kalmaru Union)が結ばれます。

やがて海軍も強化し、宿敵であったハンザ同盟(Hanseatic League)を破って、バルト海の盟主にもなるのがデンマークです。ハンザ同盟とは、中世後期の北ドイツの都市による都市同盟で、バルト海沿岸地域の貿易を掌握し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配していました。こうして、デンマークは北海からバルト海をまたぐ超大国となります。

第一次世界大戦ではデンマークは中立を維持しますが、第二次世界大戦では1940年にナチス・ドイツによって宣戦されると、国王クリスチャン10世(Christian Carl Frederik)は即座に降伏を選び、デンマークはドイツの占領下に置かれることになります。初期はモデル被占領国と呼ばれますが、クリスチャン10世は反ナチ運動家を保護し、民族主義およびナチス支配へのレジスタンス運動を支援し、したたかな政治家であったと後に評価されています。

アンデルセン童話(fairy tales)でおなじみのアンデルセン(Hans Christian Andersen)の母国としてなじみがあります。「マッチ売りの少女」「みにくいアヒルの子」などの作家です。また、コペンハーゲンの有名な遊園地チボリ公園(Tivoli)は倉敷駅の北側に造られるほどです。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十三 デンマーク

デンマーク(Kingdom of Denmark)という国から何を思い浮かべるでしょうか。政治や経済に関心のある人にはノルディック・モデル(Nordic Model)の高福祉高負担国家を、文学の好きな人にはアンデルセン童話やハムレット(Hamlet)となるでしょうか。国土は、北海の400以上の島々を含むユトランド半島(Peninsula of Jutland)が3/4を占め、首都はコペンハーゲン(Copenhagen)です。

デンマークは、フェロー諸島(Faroe Islands)というスコットランドのシェトランド諸島(Shetland Islands)、およびノルウェー西海岸とアイスランドの間にある北大西洋の諸島、そしてグリーンランド(Greenland)を自治領としています。国土の大きさからすると大国ということでしょうか。

ノルディック・モデルから始めましょう。ノルディックとは「北欧」を指します。ノルディック諸国は、高い税金によって、公共サービス、多数の社会事業、そして比較的手厚い失業給付金制度を提供するというのが特徴です。充実した育児休暇制度が女性の高い就労率を支えていることもモデルの一つです。

デンマークでは女性の国会議員は現在67人で37.43%を占めます。女性が出産する場合、100%給与が保障される出産休暇を取得することができます。フィンランドの内閣は18人の閣僚のうち12人が女性であることも既に述べました。女性の社会参加は育児休暇制度が支えています。デンマーク市民の生活満足度は高く、2016年の国連世界幸福度報告(World Happiness Report)では第1位でした。日本は53位です。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十二 スウェーデンと人々の暮らし

北欧の国々は国土の面積や人口をみると大国とは言えないようですが、それでも超先進国と表現して間違いありません。スウェーデンの1人あたり国民総所得(GNI)は5万8,00ドルで、世界第7位の高所得国となっています。税金は所得の50%にもなっています。社会保障、健康保険、失業保険なども整備されているので、「高福祉高負担」の社会モデルが注目されてきました。近年その影には移民政策による歪みが拡大しているといわれます。

第二次大戦後、仕事を求めて多くの人々が南部の都市に移動します。そのため過疎化が発生し、海外からの移民を受け入れてきました。そのため、犯罪や事件がなどが発生します。2018年には過去5年間の強姦犯の58%が外国生まれの移民であり、その多くが非欧州からの移民だという統計が公表されています。寛容な移民受け入れ政策を続けるのがスウェーデンの大きな悩みのようです。

スウェーデンの産業は農業や林業、畜産業や漁業です。農業でいえば、年間日照時間は南部で240日、北部ではたったの120日となっています。小麦や大麦の栽培が中心です。国土の1/10が農耕に利用されています。国土の約3/4が森林地帯となっています。建材やパルプに用いられる常緑針葉樹(spruce)は約50年で伐採されて利用されます。漁業では鮭や海老の養殖が盛んに行われています。

福音ルーテル教会がスウェーデン国教会となっています。人口の6割がルーテル教会に所属しています。国教会とは国が主体となって運営を行っているキリスト教の教会のことです。国民からは教会税を徴収し、洗礼を住民登録に代え、教会での結婚式を正式な結婚の手続きとして扱ったりします。このような手続きは北欧諸国、イギリス、ドイツなどにも残っています。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十一 スウェーデン

スウェーデン(Kingdom of Sweden)へ移りましょう。スウェーデンはノルウェーと同じように北欧の小国とはいえないほど、先進的な国といわれます。国家元首である国王は国家の象徴であり、立憲君主制(constitutional monarchy)を敷く国です。 首都はストックホルム(Stockholm) です。私はこの国を旅したことがありません。

スウェーデンは昔から大国の侵略を経験してきました。そのために、国策として掲げるのは専守防衛とか中立政策です。軍事同盟でなく自国の軍事力のみで達成するために、陸海空軍を備え国防への注力は怠ってはいません。特に空軍の戦力は非常に高いといわれます。世界情勢については大国の中に入り、平和中立外交で役割を果たしてきたのがスウェーデンです。

中立政策ゆえに重化学工業や精密機械工業を担う大企業はスウェーデンの軍需産業ともなっています。例えば、航空機メーカーのサーブ(Saab)は優秀な戦闘機を製造しています。自動車メーカーのボルボ (Volvo) 、通信機器メーカーのエリクソン(Ericsson)、プロ用カメラ・レンズ製造のハッセルブラッド(Hasselblad)、世界最大の家具量販店のイケア(Ikea)など伝統的に製造業が盛んな国です。世界中からスウェーデンにやってくる人々の足はスカンジナビア航空(Scandinavian Airlines)でしょう。この会社は、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーで運航されています。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十 ノルウェーの地理やサーミ民族

ノルウェーの地図を見ますと、多くのフィヨルド(Fjord)を持った国であることがわかります。フィヨルドは、氷河による侵食作用によって形成されたU字形の複雑な入り江のことです。ノルウェーの西部・北部にあるトロンハイム(Trondheim)やガイランゲル(Geiranger)フィヨルドは特に美しい景観といわれます。いわゆるリアス式海岸です。この海岸線には5万以上の島々が点在しています。首都はオスロ(Oslo)です。

ノルウェーの大きな都市は海岸線に発達し、人口が集中しています。ベルゲン(Bergen)やトロンハイムです。昔からノルウェー漁業や林業、農業が盛んです。これはヴァイキング(Viking)の時代からです。ヴァイキングはイギリスはもちろんロシアの海岸線まで進出しました。そしてアイスランド(Iceland)やグリーンランド(Greenland)を植民地化します。北アメリカの海岸も探検したという記録があります。ヴァイキングの精神はナンセン(Fridtjof Nansen)、アムンゼン(Roald Amundsen)、そしてヘイエルダール(Thor Heyerdahl)といったノルウェーの探検家であり人類学者、生物学者などに引き継がれていきます。

ノルウェーは伝統的にデンマークやスウェーデンの植民地でありました。1905年にようやく独立を果たします。交易が盛んとなり造船業などでも繁栄していきます。1970年代になると原油や天然ガスの発掘が始まり主要な産業となります。1990年代では主要な原油の輸出国ともなります。ノルウェーは地政学的にヨーロッパ大陸の外側に位置しているので、固有の生き方や文化を保持してきました。20世紀後半には、南ヨーロッパや南アジアからの移民がオスロ周辺に定住しますが、大多数の国民はノルディック(Nordic)です。

ノルウェーの北部にはフィンマーク高原(Finnmark Plateau)が広がり、そこにはサーミ(Sami)とかラップ( Lapps)と呼ばれる先住民族が住んでいます。サーミ民族は、スウェーデンやフィンランド、ロシアのコラ半島(Kola Peninsula)にもまたがっています。 主として林業や漁業、皮革業などですが、カリブー(caribou)やトナカイ(reindeer)の遊牧業も盛んです。サーミ民族は、北ヨーロッパ系の特徴である金髪で碧眼のゲルマン系といわれます。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十九 ノルウェーとアムンゼン

スカンジナビア半島(Scandinavian peninsula)の西に位置するのがノルウェー(Norway)です。私にとってのノルウェーという国は、二つの思い出があります。第一は、中学生のときに、探検家アムンゼン(Roald Amundsen)の南極探検記を読んだことです。イギリス海軍のスコット(Robert Scott)と人類初の南極点到達を競います。

南極点一番乗りを目指す「世紀の大レース」は、1911年12月に犬ゾリを駆使したアムンゼン隊の勝利に終わります。スコット隊が極点に到着すると、そこにはノルウェーの国旗が立てられ、極点から3km程離れた場所にテントが設営され、食料や防寒具、そしてメモが置かれていたといわれます。

その帰途、スコット隊は全員が死亡します。南極点でアムンゼン隊が残したメモを所持していました。このメモは、アムンゼン隊が帰途に全員遭難死した場合に備え、到達証明書として持ち帰ることを依頼し書かれたものでした。スコット隊がメモを所持していたことにより、アムンゼンの南極点到達は証明されます。「自らの敗北証明を持ち帰ろうとした」としてスコット隊の名声は後に高まるのです。

ノルウェーについての第二の思い出は、1965年に神戸にある西日本福音ルーテル教会にて3ヶ月聖書を勉強したときです。その時、この教会はノルウェー・ルーテル伝道会(Norwegian Lutheran Mission)によって設立されたことを知りました。伝道会は1949年に日本での宣教を始めるのです。ノルウェーからの宣教師は、戦前は中国大陸で宣教活動をしていましたが、国共内戦により引き揚げを余儀なくされ、日本にやってくるのです。その宣教の拠点は西日本の岡山、鳥取、島根、兵庫といった地域です。

ノルウェー・ルーテル伝道会とは、18世紀にノルウェーの農民の子で商人であったハウゲ(Hans Nielsen Hauge)という人によって設立されます。当時、ハウゲは最大の福音伝道者であったといわれます。その教えの中心は霊的覚醒運動(Spiritual arousal)とか信仰復興(Norway Revival)ということです。後にオーレ・ハレスビー(Ole Hallesby)とかカール・ヴィスロフ(Carl Wisloff)といったルター派の神学者を生みます。二人ともナチス・ドイツに抵抗して職を追われたり投獄されたりします。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十八 スナフキン

ムーミンの本は、日本では始めて1964年に講談社から出版されます。1969年に日本でアニメ『ムーミン』が放映されます。さらに1990年にアニメシリーズ「楽しいムーミン一家」として、暖かく親しみのある主題曲とともにテレビ放送が開始されます。

ムーミン谷に住むスナフキン(Snufkin)についてです。彼がムーミンと家族に出会うのは、1946年に出版された第2作となる「ムーミン谷の彗星」(Comet in Moominland)です。スナフキンは主人公ムーミントロールの親友であり、芸術家であり哲学者のような孤高の存在で描かれることが多いようです。嫌いなものは「~禁止」の看板です。スナフキンは、暖かい季節には川辺にテントを張って暮らし、秋が来るとムーミン谷の住人たちが冬眠に入る11月頃に南へと旅立ちます。春が来ると皆が冬眠から目覚めるのです。そしてスナフキンはムーミン谷へ戻ってきます。

いつも灰色でつばの長い帽子を被り、古びたコートをまとっています。月の明るい夜に1人で徘徊する時が好きです。思索を好む放浪者です。人との交わりは避けることはないのですが、1人で考え旅することをこよなく愛します。作者のヤンソン(Tove Jansson)も自由と孤独に向き合い続けた芸術家だったといわれます。1914年、彼女は彫刻家の父と挿絵画家の母のもとに生まれます。幼少期は第1次世界大戦の渦中で、弱冠14歳で雑誌のイラスト掲載でデビューします。そして、1945年にムーミンシリーズの最初の物語「小さなトロールと大洪水」(The Moomins and the Great Flood)を発表します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十七 ムーミン・トロール

「ねえ ムーミンこっちむいて はずかしがらないで モジモジしないで、、」 この歌をご存知の方は童心に溢れる方です。フィンランドで忘れられないものに「ムーミン」(Moomin)という童話といいますか、児童小説があります。主人公は「ムーミン・トロール」(Moomintroll )。トロールは北欧の民間伝承に登場する妖精の一種です。一見するとカバ(hippopotamus)に似ています。

ムーミンの物語に登場するトロールは、作者トーベ・ヤンソン(Tove Jansson)が独自に創造した架空の生き物で、男の子という設定です。人形の登場人物も人間ではなく、架空の小人の一種のようです。『ムーミンパパの思い出』に登場するミムラねえさん(Mymble)やミイ(Little Me)らが住む丸い丘の国のに済みます。そして自由に旅することをこよなく愛し、物を所有することや何かを禁止されたり、命令されたりするのを嫌うスナフキン(Snufkin)は人間の格好をしています。

ムーミン達が住むところはムーミン谷(Moomin valley)と呼ばれます。谷の東には「おさびし山」(Lonely Mountains)がそびえ、その麓から川が流れています。川にはムーミンパパ(Moominpappa)の作った橋がかかっていて、その橋の先に「ムーミン屋敷」があります。ムーミンパパが設計図を書いて建てた理想の家です。ムーミン屋敷の北側にはライラックが咲いています。西は海に面しています。

ムーミンパパとムーミンママ(Moominmamm)は、作者ヤンソンの両親を投影しているといわれます。とりわけムーミンママの言葉と行いはヤンソンの母親の生き写しだったといわれます。1945年の第一作である「大きな洪水と小さなトロール」(the Great Flood)では、トロールたちは人間と同じ世界で共存しますが人間には感知されない存在として描写されています。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十六 フィンランド その2 歴史

フィンランド共和国の歴史です。首都ヘルシンキ(Helsinki)は1894年1月に締結された露仏同盟以来、ロシアの主要都市であるサンクトペテルブルク(St. Petersburg)方面へ西側諸国が投資や往来をするための前線基地となってきました。同じく近くに位置するヴィボルグ(Vyborg)はフィンランド湾に面していて、ロシアと欧州諸国の間にある地政学的な重要性から、たびたび勢力争いの舞台や戦場になりました。ヴィボルグは今はロシア連邦の一部です。

人口や経済規模は大きいとはいえないのですが、一人当たり国内総生産-GDP(Gross Domestic Product)では豊かな国となっています。2014年の経済協力開発機構(OECD)の報告書では「世界でもっとも競争的であり、市民が生活に満足している国の一つである」と報じられたほどです。フィンランドは雇用や所得、住宅環境、保健衛生、社会保障、育児や教育、地方分権、生活の質(QOL)、個人の安全、主観的幸福の各評価において、すべての点でOECD加盟国平均を上回っているのです。2019年の幸福度調査(Happiness Survey)で156カ国・地域のうち世界第1位、日本の順位は58位とあります。

第二次大戦後、フィンランドの親ソ路線は外交政策の基本となります。それは、中立外交という政策です。大国ロシアと約1,300キロにわたり直接国境を接しているため、国家の安全を確保するための中立外交を貫いてきたのです。これが同国の「軍事的非同盟政策」といわれるものです。この外交政策は、フィンランドが今も北大西洋条約機構(NATO)に加盟しないことにも現れており、伝統的中立政策を維持していることを示します。大国に翻弄されてきた歴史の知恵ともいえましょう。しかし、ソ連の崩壊を機にフィンランド外交は西ヨーロッパと連動しています。EUには加盟していますが、NATOには当面加盟しないとの方針を堅持しています。

フィンランドは原子力の分野で先進的と言われています。国内には原子力発電所があり、高レベル放射性廃棄物を半永久的に地中に埋める最終処分場の建設がオルキルオト(Olkiluoto)という人口が極めて過疎の地域にある島で造られています。ただ最終処分場の建設反対運動も続いているようです。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十五 フィンランド その1 スオミ

一挙にバルカン半島を離れ、バルチック海を渡りましょう。私にとってのフィンランド(Finland)とは、1952年のヘルシンキオリンピック(Helsinki Olympic)の想い出です。戦後日本が最初に参加した夏季オリンピックです。この大会で石井庄八がレスリングフリースタイルで優勝したことが報じられます。新聞やラジオで大きく報じられ、敗戦に打ちひしがれた国民に希望を与えるような快挙でした。さらにチェコスロヴァキア(Czechoslovakia)のエミール・ザトペック(Emil Zatopek)が、長距離種目の5,000メートル、10,000メートル、マラソンで金メダルを獲得する大会です。

フィンランドに関する2つ目の思い出です。1977年に国際ロータリー財団から奨学金を頂き、アメリカ南部ジョージア州(Georgia)の小さな大学に海外からの奨学生50名ほどが集まったときです。フィンランドからきた金髪の女性がいました。親睦パーティのとき彼女に「シベリウス(Jean Sibelius)のフィンランディア(Finlandia)が大好きだ」というと涙をながさんばかり喜んでいました。思いがけない会話だったからでしょう。この曲は交響詩と呼ばれ、交響組曲レンミンカイネン組曲(Renmin Kainen Suite)などとともにシベリウスの代表作といわれます。

フィンランドに関する3つ目の思い出です。1985年7月に国際精神遅滞学会(International Association on Mental Retardation)がヘルシンキでありました。そのとき論文を投稿し発表する機会に恵まれました。幸い二番目の娘もヘルシンキにやってきました。このときついでにフェリーでエストニア(Estonia)のタリン(Tallinn)へ渡りました。

フィンランドは、「フィン人の国」という意味で、フィンランドの人々は自分たちをスオミ(Suomi)と呼んでいます。国土の約70%が森林、約10%が湖沼や河川に覆われているので「森と湖の国」が代名詞となっています。北極圏内にある国土の4分の1はラップランド(Lappland)と呼ばれ、約6,000人の先住民族のサーメ(Sami)がトナカイの放牧などで暮らしています。神話や伝説が沢山あるところといわれます。神秘的なオーロラを見ようと観光客で賑わうそうです。

ヨーロッパの地図をみると、フィンランドはスカンジナビア(Scandinavia)半島の北東部に位置し、通常は北欧と呼ばれています。北側はノルウェー、西側はスウェーデンと国境を接しています。西はボスニア湾(Gulf of Bosnia)、南西はバルト海(Baltic Sea)、南はフィンランド湾(Gulf of Finland)に面しています。スカンジナビアは別名ノルディック(Nordic)とも呼ばれます。スカンジナビア諸国というときはデンマーク(Denmark)も含まれます。

フィンランドはもはやヨーロッパの小国ではありません。1980年代以降、農林水産業の経済から、携帯電話の生産量が世界1位になるなどハイテク産業を基幹とする工業先進国へと大きな変化を遂げたのがフィンランドです。その代表といえば、ノキア(NOKIA)やOSのリナックス(Linux)でしょうか。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十四 ルーマニアとチャウセスク

バルカン半島の中央部に位置するルーマニア(Romania)に移ります。 首都はブカレスト(Bucharest) で国の人口は1,930万人とあります。北はウクライナ(Ukraine)、東は黒海(Black Sea)とモルドヴァ(Moldova)、南はブルガリア(Bulgaria)、西はセルビア(Serbia)、ハンガリー(Hungary)に囲まれています。

ルーマニアの地理をおさらいします。国土の1/3は山、1/3は森林地帯で残りが丘陵や平野となっています。平野が広く農業や酪農が盛んで。天然資源に恵まれ、原油、金銀などの採掘が行われています。多くの川では水力発電が盛んで、黒海沿岸は貿易やリゾートとしても賑わいます。

ルーマニア人の祖先はローマ時代に遡るとされます。9世紀から10世紀に侵入したマジャル人(Hungarians)、そのほかにトルコ人、ゲルマン人などの混血や同化によって、重層的に形成されたとされる説もあるようです。ルーマニア人を「Romani」、ロムニとも呼ばれ、ルーマニア人の9割を占めるといわまれます。

現代史を要約してみます。1939年8月に独ソ不可侵条約(German-Soviet Nonaggression Pact )により、ルーマニアはイギリスやフランスとの集団的安全保障(collective security)を求めます。1940年第二次世界大戦が始まると、ソ連はルーマニアの一部を占領します。列強の領土割譲要求にたいして、ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦します。ドイツの敗退により再度ソ連に侵攻され連合国側につき、国内のドイツ軍を壊滅させたあとにチェコスロバキアまで侵攻し対ドイツ戦を続けます。ルーマニアは1944年にソ連軍に占領され、1948年にはソ連の衛星国(Satellite of the Union of USSR)となります。

1948年からルーマニア社会主義共和国の指導者となったチャウセスク(Nicolae Ceausescu )は、書記長として長年にわたり独裁政権を維持します。他の東側諸国とは一線を画して、「一国共産主義」を唱え西側との結びつきも強めたのが特徴といわれます。独裁政権の最大の罪は「知識層を庶民の敵とみなして排除したこと」といわれます。1989年12月のルーマニア革命(Revolution of Romania)によりチャウセスクは逮捕後処刑されます。そして1990年に自由選挙が行われます。2004年には北大西洋条約機構(NATO)に、2007年に欧州連合(EU)に加盟します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十三 ユーゴスラビアとチトー

私には、セルビアという国名よりも「ユーゴスラビア」のほうが親しみがあります。この理由はなんといっても強力な指導者であったチトー(Josip Broz Tito)という人の存在があります。丁度冷戦の時代、新聞やラジオで彼の名前はしばしば登場していました。そこにアジア、アフリカの第三世界と呼ばれた国々の指導者、たとえばエジプトのエジプトのナセル大統領(Gamal Abdel Nasser)、インドのネール首相(Jawaharlal Nehru)らが現れ、冷戦の緩和に役割を果たしていく頃です。

チトーが登場したのは、1941年から1945年にわたりナチスドイツなど枢軸国(Axis units)と戦った人民解放軍(パルチザン:Partizan)の総司令官を務めたときです。その間、民主的な臨時政府の設立を宣言するのです。ドイツの敗戦により、チトーはユーゴスラビア社会主義連邦共和国首相兼国防相に就任します。1946年1月、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められ、ユーゴスラビア連邦が誕生します。その初代首相に選ばれるのです。6つの構成国とは、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツゴビナ、クロアチア、スロバニア、そして北マケドニアです。

チトーは、ソ連からの自立を意図し距離を置いていきます。そのため、ソ連によるユーゴスラビアの衛星国化を目指していたスターリン(Joseph Stalin)はユーゴスラビア社会主義連邦共和国を「共産党・労働者党情報局」、別名コミンフォルム(Comin form)から除名します。その後、チトーはソ連型社会主義と対峙し続け、1948年にはスターリンと断絶し、独自の政治路線を敷いていきます。チトーは1953年から1980年まで大統領を務めます。その間、企業における労働者による自主管理によって資本は労働者所有となり、経営者は労働者が選ぶとか、各共和国に大幅な自治権を与えるといったユーゴ独自の自主管理社会主義を建設していきます。これがチトー主義(Titoism)と呼ばれる考えです。

チトーは国内では新聞などによる体制批判を認め、言論の自由をある程度認めるのです。国内のインフラ整備を推し進めて、年率6%の経済成長を達成していきます。医療費はすべて無料とし、識字率は91%まで向上させるのに貢献したといわれる指導者でした。「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」という多様性を内包する国を治めるのは容易なことではなかったと思われます。

チトーが大統領になっていた時には大きな民族問題が起こることはなく、1984年のサラエボ(Sarajevo)オリンピックが終わるまでは共和国体制を維持することができます。これもチトーのカリスマによって成り立っていたといわれます。1991年にユーゴスラビア紛争が勃発し血みどろの内戦に突入します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十二 セルビアとユーゴスラビア

バルカン半島の地図を見ますと、セルビア(Serbia)は8つの国に囲まれています。すなわち北はハンガリー(Hungary)、東はルーマニア、ブルガリア、南は北マケドニア(North Macedonia)、コソボ、西はモンテネグロ(Montenegro)、ボスニア・ヘルツゴヴィナ(Bosia & Herzegovina)、そしてクロアチア(Croaia)となっています。首都は国際都市といわれるベオグラード(Beograd)で、ドナウ川(Danube)とサバ川(Sava)の合流地点に位置します。

セルビアは1920年代の頃、ユーゴスラビア(Yugoslavia)の一部でありました。ユーゴスラビアは、「南スラブの地」(Land of the South Slavs)と呼ばれ、セルビア、スロベニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツゴヴィナ、クロアチア、北マケドニアを含む国でありました。長らくオスマン帝国やオーストリア-ハンガリー帝国の支配にありましたが、こうした国々は1918年に「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」(Kingdom of Serbs, Croats, and Slovenes)を結成し、南西スラヴ人の統一国家が誕生します。1929年にセルビア王のアレクサンダル1世(Alexander I)がクーデターを起こしユーゴスラビア王国として多民族国家が生まれます。

ユーゴスラビアといえば、長年大統領として政治的な手腕を発揮したチトー(Josip Broz Tito)を思い出します。今日も優れた政治家として知られています。第二次大戦後、チトーはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の大統領となります。ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者でもあり、憲法改正によって各共和国や自治州の自治権を拡大するなどして連邦にありながら、国の自治に腐心します。ソ連のスターリンとも距離を置く共和国でした。

アメリカやソ連ソ中立的なユーゴスラビアは「第三世界」(Third World)の国といわれたこともあります。中立的な立場から国際連合平和維持活動にも参加します。労働者自主管理とか市場社会主義、非同盟外交などの独自の社会主義思想によるチトーの政治姿勢は「チトー主義」(Titoism)と呼ばれました。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十一 コソボと紛争

コソボ(Kosovo)という国は、1990年代に新聞やテレビで内戦の悲惨な状況が報道された国です。「ヨーロッパの火薬庫」という代名詞のいわば中心ともいえる国です。人々の苦悩が詰まった国の一つといえるでしょう。小国が「ひしめく」バルカン(Balcan)半島の歴史は、島国にはない紛争と戦-いくさの歴史のような印象を受けます。

コソボは、バルカン半島にある小さな領土の国です。2008年に独立を宣言し、アメリカやヨーロッパ諸国はそれを認めるのですが、ロシアや中国、さらにEU諸国の一部、たとえばスペイン、セルビア(Serbia)、ギリシャやモンテネグロ(Montenegro)は独立を認めていません。2010年に国際司法裁判所(International Court of Justice)はコソボの主権を認める判決をだします。しかし、国際連合(UN)の安全保障理事会常任国であるロシアや中国の反対で国連への加盟は果たしていません。

コソボという呼び名は、セルビアで使われる「黒鳥の住む草原」(Field of Blackbirds)に由来します。中世期までセルビア帝国の支配にありましたが、コソボは15世紀中期から20世紀の初頭までオスマン帝国の支配下にありました。こうしてイスラム圏の拡大により、アルバニア人の人口が増えます。20世紀前半よりコソボはセルビアの一部となり、その後ユーゴスロバニア(Yugoslavia)に編入されます。イスラム教徒は東方正教会の人口を上回り、しばしば民族間の緊張が高まります。

コソボでは1991年、コソボ共和国としてユーゴスラビア連邦共和国からの独立を宣言します。ですが国際社会からはコソボは独立国と見なされず、ユーゴスラビア連邦の一自治州と見なされました。1998年にアルバニア人で結成された「コソボ解放軍」が反乱を起こし、コソボ紛争と呼ばれる内線に突入します。北大西洋条約機構(NATO)が介入しセルビア地区の空爆が実施され、セルビアによる統治はコソボから排除されていきます。

1999年のコソボ紛争後に採択された国連安全保障理事会決議にもとづきセルビア人部隊はコソボから撤退し、代わって国連コソボ暫定統治機構(UN Interim Administration Mission in Kosovo: UNMIK)の暫定統治下に入ります。2008年2月にコソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択し憲法を発布します。しかし、前述のようにロシアや中国が独立を認めず、バルカン半島における民族自決を掲げる少数民族国家、コソボのセルビアからの完全な分離独立は未だに不明な状況です。

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