日本にやって来て活躍した外国人 その七 ヤン・ヨーステン

ヤン・ヨーステン(Jan Josten)はオランダの商船リーフデ号(De Liefde)に航海士として、航海長ウイリアム・アダムス(William Adams)らとともに実権を握っていた徳川家康にヨーロッパ事情を伝えた人物です。家康の命で大坂に召し出され、その知識により重用されることになります。

そして朱印状を与えられて活躍する貿易商でもあったようです。中部ベトナム、タイマライ半島、中部カンボジア、北ベトナムなど各地に手広く貿易を営んでいきます。1614年オランダ商館が平戸に開設されてから,幕府と商館の仲介役としても活躍します。砲術顧問として、土地や屋敷を与えられ、日本人女性とも結婚します。与えられた土地は、ヤン・ヨーステンの名前から八代州海岸と呼ばれ、現在の東京都中央区八重洲の名の由来となっています。

ポルトガル人との貿易が豊臣氏や西国大名に握られ、またイエズス会が深く介在していたため、彼ら以外との海外貿易の開始を求めて、オラン人のヤン・ヨーステンやイギリス人のウィリアム・アダムスらを召し抱えたようです。

日本にやって来て活躍した外国人 その五 シーボルト

シーボルト(Philipp Franz von Siebold)は名前から分かるようにドイツ人で、江戸末期に長崎出島のオランダ商館に医師として来日します。正確なドイツ語の発音は「ジーボルト」なのですが、一般にシーボルトと呼ばれています。シーボルトの日本における活動は特筆すべきことがたくさんあります。西洋人として初めて出島外に鳴滝塾という私塾を開校し、日本人に最新の医学を教えた貢献は、偉大なものがあります。

1823年3月にインドネシア(Indonesia)のバタヴィア(Batavia)近郊にあった砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任します。バタヴィアは、首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称です。1823年6月末にバタヴィアを出て8月に来日し、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となります。シーボルトの医師としての活躍は、南蛮医学とかオランダ医学として、多くの日本人が彼の下で学びます。彼やその弟子の手によって多くの命が救われていきます。彼は当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝え、国内の医学は飛躍的に発展します。

彼は医学のみならず、生物学、民俗学、地理学など多岐にわたる事物を日本で収集し、オランダへ発送します。幕府天文方高橋景保は、伊能忠敬が作製した日本および蝦夷の地図を写してシーボルトに贈ったりします。シーボルトは、国禁であったこうした品の国外持出しをはかりますが、それが発覚して多くの幕吏や鳴滝塾門下生が処罰されます。これが1828年に起こった洋学者弾圧のシーボルト事件です。シーボルトはこれによって国外に追放されますが、多くの標本などを持ち帰っていきます。この資料の一部は今もオランダのライデン(Leiden)、ドイツのミュンヘン(Munich)、オーストリアのウィーン(Wiena)に残されているといわれます。

シーボルトの薫陶により杉田玄白、前野良沢、中川順庵などの蘭方医が育ちます。彼らの業績に『解体新書』の翻訳がつとに知られています。ドイツ人医師クルムス(Johann Adam Kulmus)の解剖学書の(Anatomische Tabellen)のオランダ語訳書「ターヘル・アナトミア」(tafel anatomie)がそうです。

日本にやって来て活躍した外国人 その四 ルイス・フロイス

次は、ルイス・フロイス(Luis Frois)のことです。彼は1532年、ポルトガルの首都リスボン(Lisbon)で生まれです。16歳の若さでイエズス会に入り、その後インドのゴアに行きます。当時のゴアはイエズス会の伝道の拠点になっていた所です。ここでフロイスはザビエルに出会います。29歳のときに叙階されて司祭となります。彼の筆力と語学の才能は高く評価されて、本国と布教先との連絡役を任されます。そして31歳のとき、ついにフロイスは日本へ布教をしに行けることになります。

フロイスは1563年(永禄6年)に今の長崎長崎県の西海市付近に上陸します。フロイスは語学の才能を活かし布教のために日本語や日本の風習を学び始めます。「パン」や「カステラ」など日本語に浸透したポルトガル語があるように、当時フロイスも「日本語はポルトガル語に少し似ている」ことを学んだようです。1565年1月に京都に入り、他の宣教師や日本人の修道士とともに布教活動を始めます。

1569年、将軍の足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城で初めて対面します。既存の仏教界に不信感を抱いていたのが信長です。フロイスは信長の信任を獲得して畿内での布教を許可され、イタリア人宣教師のオルガンティノ(Organtino Gnecchi‐Soldo)などと共に伝道活動をし多くの信徒を得ていきます。オルガンティノは30年間を京都で過ごし信長や秀吉などの時の権力者とも知己となるという人物です。

フロイスは、その後は九州において活躍しますが、1580年の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)の来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁します。巡察師とは伝道管区における布教状態を調べ宣教師達に助言を与えるとともに、本部に報告する役割を持ちます。フロイスは日本におけるイエズス会の活動記録を残すことに専念するよう命じられます。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めていきます。この記録が後に「日本史(Historia de Iapam)」と呼ばれることになります。

当初、秀吉は信長の対イエズス会の布教政策を継承していましたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになります。そして、1587年7月には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去り大村領長崎に落ち着きます。

1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見します。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡りますが、1595年に長崎に戻ります。そして 1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月大村領長崎にあった聖職者育成の学校、コレジオ(collegio)にて没します。

日本にやって来て活躍した外国人 その三 ザビエルと琵琶法師ロレンソ

サビエルは山口の街角では毎日二回説教し、神の福音を説いていきます。集まった者から宗教以外の色々の質問にも答えたいわれます。サビエルは修道院でいろいろな学問を修めていたので、自然界のこと、例えば地球の形、太陽の動き、雷や稲妻、雪、雨等の天文や気象に関するもの、自然科学に関する問いに答えたようです。

布教を通して有力な信者を得ていきます。そのうちでも盲人の琵琶法師は最も知られています。山口の街角でザビエルに出会い、自身の疑問をぶつけザビエルの回答を聞く中で、キリスト教の教えを理解し、やがてロレンソ(Lorenzo)という洗礼名を受けます。ロレンソは後に京阪神方面で活動し、織田信長や豊臣秀吉にも福音を説き、やがて高山右近等の名高いキリシタン大名を得ていきます。サビエルの生涯で、ロレンソなどの弟子を育てた山口での伝道活動は最も充実していたようです。

山口ザビエル記念聖堂

1551年11月に鹿児島のベルナルド(Bernard)、マテオ(Matthew)、ジュアン(Juan)、アントニオ(Antonio)という洗礼を受けた日本人青年4人を同行させ、ザビエルはトーレス(Tores)神父とフェルナンデス(Fernandez)修道士らを残して日本を離れます。神父というのはトリック教会の司祭で、修道士とは清貧や貞潔、服従の誓いをたてた者です。

日本にやって来て活躍した外国人 その二 フランシスコ・ザビエル

「日本史において活躍した外国人?」といえばどうしてもフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)を第一番に挙げたくなります。天文18年といえば1549年ですが、我が国に最初にキリスト教を伝えたことで知られています。ザビエルはスペイン人宣教師です。私は津和野を訪ねてから山口市に立ち寄ったことがあります。ザビエルのことを少し学んでいたからです。山口サビエル記念聖堂を訪ね、そこで観光客を案内していたスペインからの神父さんと会話したのを思い出します。

Ignacio Lopez de Loyola

ポルトガル王ジョアン3世(Joao III)は、イグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio Lopez de Loyola)がイエズス会(Society of Jesus or Jesuit)という新修道会を創設したことを知り、ポルトガル植民地内の異教徒へキリスト教を布教する宣教師を派遣するようにロヨラに依頼します。ロヨラが推薦したのが、フランシスコ・ザビエルとシモン・ロドリゲス(Simon Rodríguez)です。こうしてザビエルは東方伝道の命を受けインドのゴア (Goa)に派遣されます。ザビエル最初に日本に上陸したのは鹿児島です。

Francisco de Xavier
大内義隆

ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え1551年4月下旬、周防に向かいます。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは一行を盛装させて、守護大名、大内義隆に謁見し珍しい文物を献上します。これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めます。

大内義隆は、廃寺となっていた山口の大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えます。これが日本最初の常設の教会堂となります。南蛮寺の第一号のようなものです。ザビエルはこの大道寺で説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったとあります。日本で初めてのクリスマス行事もここで行われたと記録にあります。現在の山口カトリック教会サビエル記念聖堂の落成献堂式は1952年1月、1991年9月に焼失しますが、1998年4月に再建されます。

日本にやって来て活躍した外国人 その一 西洋言語の到来

この稿からしばらく、日本で活躍した外国人の歴史を取り上げいきます。大勢の外国人が日本にやってきました。こうした人々は高い識見や知識、あるいは東洋に深い関心や興味を持って、何千マイルの彼方からやったきたのは間違いないことです。

こうした外国人は、主として交易や布教などを目的としてやってきたことが伺えます。後に食糧や水の供給、教育の普及を求めてきます。いわば探検家や開拓者のような人々です。

最初に日本にやってきた人々は、主にカトリックの聖職者でした。彼らは、神学校などにおいて哲学や自然科学、医学、工学などを学んでいましたから、当時の日本人、とりわけ大名や武士には、その知識は驚きをもって迎えられたに違いありません。

聖職者らは、数々の献上品を持参していました。その中には親書や聖書、世界地図、地球儀、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、その他小銃など日本には無かった品々が含まれていました。

そしてなによりもポルトガル語、スペイン語、オランダ語、英語などをもたらします。言語は知識を伝播する源となります。日本が文明開化していくのは西洋の言語を学び、さまざまな知識を吸収していく過程といえましょう。

アジアの小国の旅 その九十三 カンボジア

カンボジア(Kingdom of Cambodia)の話題です。南はタイランド湾(Thailand Bay)に面し、西はタイ、北はラオス(Laos)、東はベトナム(Vietnam)と国境を接します。国民の90%以上が、クメール語(カンボジア語)(Khmer)を話します。首都はプノンペン(Phnom Penh)となっています。

ベトナム戦争が北の勝利で終結することが間近となった1975年4月17日、カンボジアではクメール共和国が打倒され、民主カンプチアを樹立した政治勢力のクメール・ルージュ(Khmer Rouge)が政権につきます。その指導者はポル・ポト(Pol Pot)です。政権はシハヌーク(King Sihanouk)国家元首に推戴するも、実権はポル・ポトが掌握します。1979年までポル・ポト政権は原始共産制の実現を目指すクメール・ルージュの政策により飢餓、疫病、虐殺などで100万人から200万人以上とも言われる死者が出ます。教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、その他イデオロギー的に好ましくないとされる階層のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られます。

強制収容所の俗称は「Killing Fields」と呼ばれました。正確な犠牲者数は判明しておらず、現在でも国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘されるといわれています。トゥール・スレン(Tuol Sleng)という収容所が最も悲惨なところといわれ、今はトゥール・スレン虐殺犯罪博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)となっています。

トゥール・スレン収容所跡

1,000以上の寺院があるアンコールワット(Angkor Wat)は平和なたたずまいを見せています。ワットとは寺院にことです。仏教国のカンボジアでなぜ大量虐殺が行われたかは、大国の後ろ盾などがあったことも判明しています。

アジアの小国の旅 その九十二 ミャンマー

ビルマの竪琴

ミャンマー(Republic of the Union of Myanmar)とききますと、私の世代ではビルマ(Burma)がぴんときます。 1885年から続いたビルマという国名は1989年にミャンマーと改名します。首都名も1948年から1989年まではラングーン(Rangoon)でした。1989年にヤンゴン(Yangon)となり、現在の首都はネーピードー(Nay Pyi Taw)となっています。

諸部族割拠時代を経て11世紀半ば頃に最初のビルマ族による統一王朝のパガン王朝(Pagan Kingdom)が成立します。その後、モンゴルの侵入(Mongol invasions)があります。モンゴルが去るとタウングー王朝(Taungoo dynasty)、コンバウン王朝(Konbaung dynasty)が生まれ、1886年にイギリス領インドに編入されます。戦後の1948年1月に民主国家としてビルマが独立します。

1962年3月にネ・ウィン(Ne Win)将軍に率いられたクーデター(coup detat)が起こります。それ以来ミャンマーは軍部によって支配されていきます。ミャンマーは多くの部族を抱え、部族間の対立や内紛が続いています。2015年11月に行われた総選挙アウン・アウン・サン・スー・チー (Aung San Suu Ky)議長率いる National League for Democracy:NLDが大勝し、側近のティン・チョウ(Htin Kyaw)を大統領とする新政権が発足します。スー・チー氏は,国家最高顧問,外務大臣及び大統領府大臣に就任します。

竹山道雄

ミャンマーにおいて約半世紀ぶりに国民の大多数の支持を得て誕生した新政権は,民主化の定着,国民和解,経済発展のための諸施策を遂行します。しかし、依然として軍部の後ろ盾による政権が続きます。2018年8月,ラカイン州(Rakhine)北部における治安拠点への連続襲撃事件が発生します。その後の情勢不安定化により,70万人以上のロヒンギャ(Rohingya)部族の避難民がバングラデシュ(Republic of Bangladesh)に流出します。ミャンマーはロヒンギャ民族の市民権を認めていません。世界中から人権問題として非難されています。スー・チー氏のノーベル平和賞受賞についても疑問が高まっています。

アジアの小国の旅 その九十一 モルドバ

モルドバ(Republica Moldova)は東ヨーロッパに位置する共和制の国です。国土は九州よりやや小さい内陸国であり、西にルーマニア(Romania)と他の三方はウクライナ(Ukraine)と国境を接しています。旧ソビエト連邦を構成していた国家の一つとしてモルドバ-ソビエト社会主義共和国(Moldavian Soviet Socialist Republic)でしたが、1991年のソ連の崩壊によりドニエストル川(Dniester River)西岸地域を領有し独立します。首都はキシニョフ(Chisinau)となっています。

モルドバ人は言語的、文化的にルーマニア人との違いはほとんどなく、歴史的には中世のモルダビア公国以後、トルコとロシアならびソ連、ルーマニアの間で領土の占領・併合が繰り返された地域です。

ソ連が崩壊した際、「モルドバ共和国」として独立を宣言しますが、ニストリア川(Niestria River)沿岸であるウクライナ国境に住む約50万人のロシア系及びウクライナ系住民がこれに反発し、1992年には本格的なトランスニストリア紛争(Transnistria War)という武力紛争に発展します。現在は停戦状態にあります。2014年6月、モルドバとEUとの連合協定が締結され、全ての締約国による批准が完了します。

アジアの小国の旅 その九十 ウズベキスタン

ウズベキスタン(Republic of Uzbekistan)といえば、シルクロード(Silk Road)を思い浮かべます。人口は約220万人の首都のタシュケント(Toshkent)はシルダリヤ川(Syr Darya)の支流であるチルチク川(Chirciq River)の流域に位置する歴史的なオアシス都市といわれます。タシュケントは、ソ連邦の時代から中央アジアの中心都市として発展します。第二次世界大戦後、タシケントに連行された日本人捕虜によって建てられたナボイ劇場(Navoiy Theater)があります。

ウズベキスタンは、13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされます。やがて14世紀末に英雄ティムール(Temuriyla)が現れ、ティムール王朝の建国者となります。中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王国です。

ウズベキスタンといえば、シルクロード沿いの古都サマルカンド(Samarkand)です。中国と地中海地域を結んだ古代の交易路シルクロードに関連する史跡で知られています。「砂の場所」という意味のレギスタン広場(Registan)をはじめ、さまざまなイスラム建築の歴史的建造物が残っています。かつての首都サマルカンドは、いろいろな王族たちが住み、ティムール朝は元来が遊牧政権でありながら、盛んな通商活動に支えられて学問、芸術などが花開いたといわれます。サマルカンドの“サマル”とは「人々が出会うこと」、“カンド”は「町」を意味するとWikipediaにはあります。

サマルカンドブルー(Samarkand Blue)と呼ばれる青を基調としたイスラム建築が並ぶ「青の都」として一躍注目されています。市内の壮麗なモスクや建築群はこのティムール王朝以降のものであり、これらは「サマルカンド-文化交差路」として世界遺産にも登録されています。

アジアの小国の旅 その八十九 タジギスタン

タジキスタン(Republic of Tajikistan)は中央アジアに位置する共和制国家です。総面積の93%が高地です。「世界一の山岳国」とも言われます。その象徴が「世界の屋根」と呼ばれる平均標高5000mのパミール高原(Pamir Mountains)とワハーン回廊(Wakhan Valley)です。国の平均標高は3300mといわれます。南にアフガニスタン(Afganistan)、東に中華人民共和国、北にキルギス(Kyrgyz)、西にウズベキスタン(Uzbekistan)と国境を接しています。タジキスタンの人口は約900万人、首都はドウシャンベ(Dushanbe)となっています。

タジギスタンの国民の多くは、タジク人(Tojiki)やウズベク人(Uzbek)で、もともとはアーリア系(Aryan)スキタイ(Skythai)遊牧騎馬民族であったとあります。パミール高原を境とする中国、インド・アフガニスタン、イラン・中東の結節点としての文明の十字路たる地位を確立してきたとあります。

1929年、タジク国と呼ばれていたタジギスタンはウズベク・ソビエト社会主義共和国から分離し、ソビエト連邦構成国のひとつ、タジク・ソビエト社会主義共和国に昇格します。タジク国家は1990年に主権宣言を行い、1991年に国名をタジキスタン共和国に改めます。ソ連の解体にともなって独立を果たします。1992年、タジキスタン共産党系の政府とイスラム系野党反政府勢力との間でタジキスタン内戦が起こります。この内戦で5万人以上の死者を出したといわれます。その影響で国民の生活水準は低下、旧ソ連諸国の中で最貧国といわれます。

アジアの小国の旅 その八十八 トルクメニスタン

トルクメニスタン(Turkmenistan)は、中央アジア南西部に位置する共和制国家です。西側はカスピ海(Caspian Sea)に面し、東南がアフガニスタン(Afganistan)、西南にイラン(Iran)、北東をウズベキスタン(Uzbekistan)、北西はカザフスタン(Kazakhstan)と国境を接しています。首都はアシハバート(Ashgabat)です。

国土の9割がカラクム砂漠(Kara kum Desert)で国土面積の多くを占めていて、国民のほとんどは南部の山沿いの都市に住んでいます。おもな産業は、天然ガス、石油、綿花栽培、繊維工業です。特に天然ガスは狭い国土にもかかわらず世界第4位の埋蔵量を誇る資源国です。輸出額に占める天然ガスの割合は2017年時点で約83%というのですから、ほとんど石油に依存していることがわかります。

旧ソビエト連邦の構成国でしたが、ソ連の解体とともに1991年に独立し、永世中立国を宣言します。独立前の1990年10月から大統領職にあったニヤゾフ(Saparmyrat Nyyazow)大統領は,反対派勢力を排除して強力かつ個人崇拝的な独裁体制を確立し、しかも議会の全会一致で終身大統領となります。「中央アジアの北朝鮮」と呼ばれていたようです。他方,その非民主的体制や人権問題について国際社会からの批判を受けたといわれます。

アジアの小国の旅 その八十七 シンガポール–「最も住みやすい都市」

シンガポールの特徴といえば、多くの国際順位で格付けされている発展ぶりです。金融・人的資本・イノベーション(innovation)・ロジスティクス(logistics)・製造・技術・観光・貿易・輸送・教育・エンターテインメント・ヘルスケアの充実は目を見張るほどです。世界経済フォーラム(World Economic Forum: WEF)の2019年版の「世界競争力報告」よれば、シンガポールが1位となり、米国は2位、日本は6位となっています。「テクノロジー対応」でもトップを占め、世界で最もスマートな都市といわれます。

2013年以来、イギリスの週刊誌、Economistはシンガポールを「最も住みやすい都市」として格付けしています。世界銀行の『ビジネス環境の現状2020』(Doing Business 2020)」の報告書では、シンガポールは9年連続で世界で最もビジネス展開にふさわしい国として選定されています。

シンガポールの国際空港 (Changi Airport)には驚きました。ニュージーランドへの直行便は値段が高いのでチャンギで乗り継ぎました。とてつもなく大きく24時間営業する空港です。待ち時間の間、プールで泳ぎました。2013年から7年連続で「世界一位のエアポート」となったことも十分頷けます。

アジアの小国の旅 その八十六 シンガポール–イギリスからの独立

ラッフルズホテル

シンガポール(Republic of Singapore)は東京23区と同程度の国土です。領土は一貫して埋立てにより拡大してきました。面積はこのように小国なのですが、国力は堂々たる大国です。高い山がなく降雨の貯水や海水淡水化などでは給水量を賄えないので、隣国マレーシアから水を購入するという珍しい国です。人口580万の都市国家シンガポールには、100万人以上の外国人の出稼ぎ労働者がいます。

北はジョホール海峡 (Straits of Johor)により半島マレーシア(Malaysia)から離れていて、南はシンガポール海峡(Straits of Singapore)によりインドネシア(Indonasia)の諸島州から各々切り離されています。国語はマレー半島周辺地域で話されるマレー語(Malay)となっています。ラビア文字のようです。マレー語でのSingapuraとは、「ライオンの町」という意味だそうです。シンガポールが「Lion City」と呼ばれる所以です。

シンガポール島嶼には人々が定住したのは2世紀頃といわれます。それ以降はいろいろな王国などに属していきます。現代のシンガポールは、1819年にトーマス・ラッフルズ(Thomas Stamford Raffles)がジョホール王国(Johor Sultanate)からの許可を得て、イギリス東インド会社(East India Company)の交易所として設立したことから始まります。1824年、イギリス帝国は同島の主権を取得し、1826年にはシンガポールは英国の海峡植民地の1つになります。対戦中は日本により占領されますが、1963年にはイギリスからの独立を宣言します。

アジアの小国の旅 その八十五 キルギス

キルギス共和国(Kyrgyz Republic)と言われて「中央アジアの国」を想起する日本人はどのくらいるでしょうか。キルギスは地形の険しい中央アジアの国で、中国と地中海を結ぶ古代の貿易ルートとして知られるシルクロード沿いにあります。カスピ海(Caspian Sea)の東に位置する内陸国キルギスは、旧ソ連邦の1国でしたが、1991年に独立国となります。人口約600万人、国土面積は約20万平方キロメートルで、日本の半分ほどの広さです。

カスピ海

地図をみますと、中国の西に位置し、北のロシアと南のインドの中間あたりにあります。首都はビシュケク(Bishkek)で、かつては天山山脈を通るキャラバンの停泊地だったようです。イラン系の商人によって街がつくられたのが始まりとされています。キルギスという国の魅力は、その圧倒的な自然にあるといわれます。なるほど。ビシュケクの写真集をみますと、遠くに見える天山山脈の偉容は是非みたくなります。

1991年以前のソヴィエト連邦ならびにその構成共和国はNIS諸国(New Independent States: NIS)と呼ばれています。NISの12か国の一員がキルギスです。1人あたりGDPでいうと、下から2番目となっています。主な産業は鉱業と農業ですが、鉱物資源はほぼ金に偏っています。輸出額でも宝石や貴金属が4割を占めるといわれます。野菜製品が1割弱です。そのうちドライフルーツやスパイスが主要な輸出品となっています。

アジアの小国の旅 その八十五  東ティモール民主共和国

アジア太平洋の小国へ話題が移ります。今回取り上げる国は東ティモール民主共和国(Democratic Republic of Timor-Leste)です。なんとなく聞いたような国ですが、独立をめぐる内乱状態が続いたことで知られるようになりました。東ティモールは島国であり、小スンダ列島(Lesser Sunda Islands)にあるティモール島(Timor Island)の東半分とアタウロ島(Atauro Island)、ジャコ島(Jaco Island)、飛地アmベノ(Ambeno)で構成されています。南方には、ティモール海(Timor Sea)を挟んでオーストラリアがあります。

地図をみますと、ティモール島の東半分が共和国の領土となっているのは不思議な印象を受けます。
ティモール島は16世紀にポルトガルによって植民地化されます。その後オランダが進出し、1859年に西ティモールをオランダに割譲したことで、ティモール島は東西に分割されます。

ポルトガルが中立を守った第二次世界大戦時には、当初はオランダ軍とオーストラリア軍が保護占領し、ティモール島の戦いのあとオランダ領東インド地域と合わせて日本軍が占領します。日本の敗戦によりオーストラリア軍の進駐を経てポルトガル総督府の支配が復活するのです。

1999年5月、インドネシア、ポルトガルと国連、東ティモールの住民投票実施の枠組みに関する合意文書に調印します。長らくインドネシアの占領が続き、2002年5月に東ティモール民主共和国として独立します。不思議なことに、この独立は国際法上はポルトガルよりの独立となっています。しかし、独立後もインドネシアの介入が続き、内戦が起こります。2002年4月14日に行われた大統領選挙により,シャナナ・グスマン(Kay Rala Xanana Gusmao)が当選し初代大統領に就任します。

アジアの小国 その八十四 ブータンと国民総幸福量

ブータン王立研究所(Centre for Bhutan Studies)は、国民総幸福量(Gross National Happiness: GNH)という指標を用いて、ブータン国民の幸せの状況を測るGNH調査を継続的に実施しています。調査はブータン全土20県、約8,000世帯(人口の約1%)におよび、対象者1人に対して148の質問を2時間半ほどかけてゆっくり実施します。

国民総幸福量は、「精神的な幸せ」「24時間の使い方」「コミュニティーの活力」など9つの領域から成ります。ブータン南部の小さな村で行った調査の一エピソードです。「あなたが病気になった時にとても頼りにできる人は何人いますか?」という質問です。これは幸福量を図る領域の一つ「コミュニティーの活力」の調査項目です。この質問に対して、成人をむかえたばかりのブータン人男性は「50人ぐらいですね」と答えたそうです。この男性は、人と人とが助け合える家族のような関係を重視していることがわかります。

国内総生産(Gross Domestic Product: GDP)では人々の幸せということは反映されません。しかし、GNHは人々の幸せにとって大事な社会関係とか人間関係という資本も計ってくれるのです。対人関係という目に見えないものを可視化することで人間の有り様、人間の生き方、健康のカルテを示すのがGNHです。世界銀行の調査では、ブータンのGDPに基づいた経済成長率は近年4〜8%といわれます。しかし「精神的な幸せ」と「コミュニティーの活力」は下降傾向にあることがGNH調査により明らかになっているようです。

アジアの小国の旅 その八十三 ブータン

ブータン王国(Kingdom of Bhutan)は、王国の名のように我が国には親しみがある国です。北は中国、東西南はインドと国境を接します民族はチベット系が8割、ネパール系が2割となっています。国教はもちろん仏教です。首都はティンプー(Thimphu)です。

公用語のゾンカ語(Dzongkha)ですが、Wikipediaによりますと、チベット・ヒマラヤ語群に属する言語です。この言語の歴史は12世紀に遡り、宮廷、軍幹部、高学歴エリート層、政府、行政機関の言語として発達してきたとあります「ゾンカ」のゾン(Dzon)とは「僧院・行政・軍事の機能を併せ持つ城砦」という意味だそうです。

17世紀,この地域に移住したチベットの高僧ガワン・ナムゲル(Ngawang Namgyal)が,各地に割拠する群雄を征服し,ほぼ現在の国土に相当する地域で聖俗界の実権を掌握します。ナムゲルは1594年から1651年まで僧侶として、また君主として治めます。その後はイギリスの影響が及んで、1864年にブータン戦争(Bhutan War)が起こり、イギリスは、ブータンにチベット周辺の交易路を確保します。1910年にはプナカ条約(Punakah)締結され1949年までイギリスの保護下に入ります。

従来ブータンの政治形態は、僧侶の代表者であるダルマ・ラージャ(Dharma Raja)と、俗人の代表者であるデパ・ラージャDepa Rajaによる二頭体制でありました。しかし1885年に内乱が勃発して以来国内が安定しなかったことから、1907年ダルマ・ラージャを兼ねていたデパ・ラージャが退き、代わって東部トンサ郡の領主ウゲン・ワンチュク(Ugen Wangchuc)が世襲の王位に選ばれ、初代ブータン国王となります。次いで1926年にその子息ジグミ・ワンチュク(Jigmi Wangchuc)が第2代国王となり、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクが1972年に急死すると、僅か16歳で即位したジグミ・シンゲ・ワンチュクが永らく第4代国王の座に即きます。その後ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク(Jigme Khesar Namgyel Wangchuc)が第5代国王に即位し今日に至っています。

アジアの小国の旅 その八十二 ネパール

ネパール連邦民主共和国(Republic of Nepal)に移ります。東、西、南の三方をインドに、北方を中華人民共和国チベット自治区(Tibet Autonomous Region)に接する西北から東南方向に細長い内陸国です。国土は世界最高地点エベレスト(Mount Everest)を含むヒマラヤ山脈(Himalayan Mountains)および中央部丘陵地帯と、ガンゲティック平原(Gangetic Plain)yや南部のタライ平原(Tarai Plain)から成ります。この平原はネパールの穀物地帯です。

コサイ川(Kosi)、ガンダック川(Gandak)、カマリ川(Karnali)は急峻な谷を流れ、潅漑や水力発電の源となっています。1982年から世界銀行(World Bank)、クエート(Kuwait)、日本などからの資金によるダムの建設などで水害も抑制されているといわれます。

2006年のロクタントラ・アンドラン(Loctantra Andran)という民主化運動の結果、事実上の絶対君主制から象徴君主制へ移行します。ネパール語でロクタントラは「民主主義」、アンドランは「運動」を意味し、すなわちギャネンドラ国王(King Gyanendra)独裁に反対する運動でした。国王は国家元首としての地位を失い、首相がその職務を代行します。国号は「ネパール王国」から「ネパール国」に変更されます。

海抜1,324mにあるのが首都のカトマンズ(Kathmandu)です。政治や経済の中心です。2015年4月にネパール中部を襲ったマグニチュード7.8の大地震によって約9,000名の死者と多数の怪我人がでました。カトマンズ市内の歴史的な建造物も破壊されます。カトマンズは今もヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしています。https://www.youtube.com/watch?v=nMoYUkWYfIs

アジアの小国の旅 その八十一 バーレーン

バーレーンは(Kingdom of Bahrain)は、ペルシャ湾(Persian Gulf)に浮かぶ 30 以上の島からなる国です。「Bahrain」とは、周りの二つの海(two seas)という意味だそうです。

バーレーンは古くから主要な貿易ルートの中心地として栄えます。古代バビロニア(Babylonia),アッシリア(Assyria)時代にはディルムン(Dilmun)という名の有力な貿易中継地であり,紀元前3世紀から15世紀にかけては真珠の産地として栄えたところです。18世紀後半にアラビア半島から移住したハリーファ家(Khalifah)がバーレーンの基礎を作ります。

1932年にはアラビア諸国では最初に石油の生産を開始し、その後近代化を進め1971年8月英国から独立します。ペルシャ湾岸国では原油(crude oil)や天然ガスの産出、石油精製、アルミ精錬などを始めとした工業化の推進による産業の多角化をすすめるとともに、近年は観光にも力を入れています。
バーレーンは港を外国に提供していきます。湾岸戦争を機にイギリスやアメリカの海軍基地ができます。中東の金融センターとしての地位の維持に努めています。

アジアの小国の旅 その八十  アラブ首長国連邦

中東という地名を聞くと、なんとなく政情が不安定な国々というイメージが浮かびます。確かにその通りなのですが、例外があります。それはアラブ首長国連邦(United Arab Emirates: UAE)です。特に首都のアブダビ (Abu Dhabi)やドバイ(Dubai)は群を抜いて治安がよいことで知られています。「Emirates」とは「首長権限」という意味です。

この国の建国までの短い歴史です。紀元前3000年頃にさかのぼる居住跡が発見されています。7世紀イスラム帝国(Islamic Empire),次いでオスマン・トルコ(Ottoman Empire),ポルトガル (Portugal),オランダ(Netherlands)の支配を受けます。17世紀以降になると英国のインド支配との関係で,この地域の戦略的重要性が認識されていきます。18世紀にアラビア半島(Arabian Peninsula)南部から移住した部族が現在のUAEの基礎を作ります。1853年には、英国は現在の北部首長国周辺の「海賊勢力」と恒久休戦協定を結びます。

UAEは紅海に面し、北にはやがて造られるスエズ運河を控えています。1968年英国がスエズ運河以東撤退を宣言したため,独立達成の努力を続け,1892年には英国の保護領となります。1971年12月,アブダビ及びドバイを中心とする6首長国が統合してアラブ首長国連邦を結成します。爾来UAEはアラブ・イスラム諸国及び西側諸国等と協調的な外交を展開していきます。

An Artificial Jumeirah Palm Island On Sea, Dubai, United Arab Emirates

UAEの主たる資源は原油や天然ガスで、原油製品や金加工製品を輸出しています。世界銀行の資料によりますと、国民一人当たりのGDP はなんと43,004ドル(450万円)に及んでいます。今や、UAEは石油への依存から世界の金融市場へと向かっています。2013年には世界最大の太陽光発電プラントを完成させ、2万世帯への電力供給を行っています。

建国以来、数十年で急発展しているUAEの発展は都市のドバイに現れています。ドバイは数多くの世界一があります。写真をみますと、例えばバージュ・カリファ(The Burj Khalifa) は、828mの世界一高いビルです。世界の最先端の技術や諸文化が集まるドバイ国際博覧会が2021年10月に予定されています。

アジアの小国の旅 その七十九 ジブチ

中東に派遣されている自衛隊の機体と要員の交代が行われるのがジブチ(Republic of Djibouti)です。3か月毎に交代するのです。紅海(Red Sea)のインド洋への出口にあたる地政学上非常に重要な場所、いわゆる「アフリカの角」(Horn of Africa)地域にあるのがジブチです。アフリカ大陸にある国としては3番目に小さい国です。面積は四国の約1.3倍といわれます。歴史上、イタリア、イギリス、エチオピア帝国の力関係の緩衝地帯のような役割を果たしてきた旧フランス領です。

スエズ運河の建設が始まった1859年にフランスは地元のダナキル族(Danakil)からタジューラ湾(Gulf of Tadjoura)のオボック港(Obock)を租借します。エチオピア帝国がハラール(Harar)までの鉄道敷設権をフランス企業に与えたのをきっかけに、その周辺地域を含めてフランス領ソマリ (Somaliland)として植民地化されます。ジブチがフランスから独立したのは1977年です。

国を構成する民族は、主にソマリ系のイッサ人(Issa)とエチオピア系のアファール人(Afar)の2大集団です。この部族間の対立もあって、アフリカ諸国の中では比較的遅くに独立を達成したという経緯があります。独立後もこの民族間の対立は尾を引き、1990年から2001年まで内戦が続きました。

過酷な気候のため農作物が育たず、国土も小さいため鉱物資源も少ない国です。かろうじて塩の生産が輸出品となっています。エリトリア独立によって港を失い内陸国となったエチオピア相手した海上貿易の利益、ジブチとエチオピアを結ぶ鉄道の収益、フランス軍を初めとする海賊に対応する各国軍の駐留による利益で経済が成り立っているのがジブチです。中国もジブチに基地をつくり、中東への影響を高めようとしています。ジブチは典型的な中継貿易国家といえそうです。

アジアの小国の旅 その七十八  エリトリア

エリトリア(State of Eritrea)という国名を聞いたことがありますか?エトルリア(Etruria)はイタリア半島中部にあった古代都市、アナトリア(Anatolia)は、トルコのアジア部分の地域です。名称が似ていますが、全く違った地名です。エリトリアはアフリカの角と呼ばれるアフリカ大陸北東部にあり、西にスーダン(Sudan)、南にエチオピア(Ethiopia)、南東部にジブチ(Djibouti)と国境を接し、東は紅海(Red Sea)に面する国です。地図を見ますと、エリトリアは紅海に沿って約1350km続く海岸線を持ちます。領海域にはおよそ350の島々があります。

1869年にエジプトでヨーロッパとオリエントを結ぶスエズ運河(Suez Canal)が開通すると、イタリアがエチオピアに介入し始め、1882年に植民地宣言をします。エチオピアはエリトリア地域をイタリアの支配に委ねます。エリトリアは30年もの長きにわたる対エチオピア独立闘争の末に1993年に独立します。アフリカで2番目に新しい国といわれます。

国全体は熱帯乾燥気候に属します。小国にも関わらず多様性に富む地形により様々な気候が混在し、沿岸部の砂漠地帯には、年平均気温が30℃を超える世界一酷暑の地といわるダナキル(Danakil )低地があります。アフリカ大地溝帯にあるために、マグマが吹きだす活火山でも知られています。首都のアスマラ(Asmara)はイタリアの占領時代に発展した街で、近代建築(Art Déco)のならぶ街並みが2017年に世界遺産と認められます。Art Décoとは一つの装飾様式で線や記号、幾何学的な模様やパターンで構成されたデザインが特徴といわれます。

アジアの小国の旅 その七十七 スーダン

世界中に、食糧が不足して子どもに食べさせることができない国があります。スーダン(Republic of the Sudan)もその一つといえそうです。今年はバッタの巨大発生で畑を食い散らしていることが報道されています。スーダンは、北東アフリカに位置し、アフリカ大陸で3位の面積を有しています。エジプト(Egypt)、リビア(Lybia)、チャド(Chad)、中央アフリカ、南スーダン、エチオピア(Ethiopia)、エリトリア(Eritrea)と国境を接し、東は紅海(Red Sea)に面しています。対岸にはサウジアラビア(Saudi Arabia)があります。紅海の先にはスエズ運河(Suez Canal)があります。

エジプト南部アスワン(Aswan)あたりからスーダンにかけてのナイル川(the Nile)流域北部はヌビア(Nubia)と呼ばれ、北に栄えた古代エジプトの影響を強く受けたところです。古代エジプトの諸王朝は、勢力が強まるとナイル川沿いに南下して金や象牙の交易拠点を作り支配領域を広げ、国力が衰退すると撤退することを繰り返したといわれます。

スーダンは1899年から再びエジプトとイギリスの両国による共同統治下に置かれます。1956 年にイギリス・エジプトから独立する際、北部と分離独立を求める南部の間で内戦が勃発し、2011年7月に、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立します。約半世紀にわたる長い紛争が続きました。このため、南スーダンでは子どもだけでなく大人も、平和な状態をほとんど知らないといわれます。

2018年9月にムウタズ・ムーサ(Motazz Moussa)首相となりますが、2019年4月に軍部によりクーデターが起こり、憲法を停止し暫定軍事政権が実権を握ります。同年8月よりアブダッラー・ハムドゥーク(Abdalla Hamdok)が首相となり組閣をし、軍と民主化勢力による3年の暫定共同統治を行っており、2022年の選挙実施を目指しています。

アジアの小国の旅 その七十六  ソマリア

ソマリア(Republic of Somalia)は、東アフリカのアフリカの角(African Horn)と呼ばれる地域を占める国です。飢餓に苦しむ貧しい国というイメージが浮かびます。エチオピア(Ethiopia)、ケニア(Kenya)およびジブチ(Djibouti)と国境を接し、インド洋とアデン湾(Gulf of Aden)に面しています。

19世紀まではイギリスとイタリアの保護領として、北部はイギリス領、南部はイタリア領に分割統治されていました。1960年に南北が独立と同時に合併して「ソマリア共和国」を形成します。1991年に内戦が起こって以来、無政府状態が続いていましたが、2012年11月に「ソマリア連邦共和国」として、21年ぶりに統一政府が樹立されます。

1969年のクーデターによりバレ政権(Barre regime)が誕生します。1991年、バレ政権が崩壊して内戦状態になり、同年5月には北部で「ソマリランド共和国」(Republic of Somaliland)が分離独立を宣言します。また1998年7月には北東部で「プントランド」(Puntlaand)も自治政府の樹立を宣言します。 特に、旧イギリス領にあたるソマリランド共和国は、国際社会では「国家」として承認されていない「未承認国家」ですが、ソマリアの中で最も治安がよく、安定した政治体制が築かれていて、独立国家としての機能を有しているといわれます。

1991年に崩壊して以来,ソマリアは,全土を実効的に支配する政府が存在しない状態に陥ります。劣悪な治安状況の下,大量の難民及び国内避難民が発生します。干ばつが加わり,食糧不足が悪化し重大な人道危機が生じます。世界中でこの危機が報道されたのは真新しことです。1992年以降,停戦監視及び被災民援助活動の支援のために国連ソマリア活動(UNOSOM: United Nations Operation in Somalia)が設立され,アメリカを中心とする統一タスクフォース(UNITAF: Unified Task Force)の活動が開始されます。しかし武装勢力の激しい抵抗を受けて、1995年3月には完全撤退を余儀なくされます。2018年1月現在,緊急人道支援を必要とする人口は390万人に及ぶといわれます。

アジアの小国の旅 その七十五  イエメン

イエメン(Republic of Yemen)は中東のアラビア半島南端部に位置する共和制国家です。紀元前10世紀頃は、古代のイエメンの王国はインドと地中海及び東アフリカの貿易の中継地として繁栄したようです。そのため古代ギリシャ人やローマ人から「アラビアン・フェリックス」(Arabian Felix)と呼ばれます。ラテン語で「幸福なアラビア」という意味だそうです。ヘレニズム(Hellenism)やローマ時代の地理学者が,現在のアラビア半島南半部を呼んだ名称です。オマーンと同様に香料の産地で豊かな王国と考えられていたようです。

 イエメンの現代史です。1839年に英国がアデン(Aden)を占領し、以降南イエメン地域を保護領とします。その後イエメン・アラブ共和国が成立します。1962年に南アラビア連邦が発足しますが,反英運動が激化し,1967年英国から南イエメン人民共和国として独立します。1969年には社会主義政権が誕生し,1970年にイエメン民主人民共和国と国名を改めます

 東西冷戦構造の中で、1970年代,1980年代には南北イエメン間でたびたび武力衝突がおこりますが、南北で分裂していたイエメンは1990年に「イエメン共和国」に統一されます。しかし、イエメン国内での度重なる戦乱や弱体な中央政府、覚醒作用をもたらすカート(Khat)の栽培と使用の広がり、Wikipediaによると、イエメンにおける全雇用の15%がカート関連産業であるといわれます。さらにイスラーム過激派の跳梁といった問題を抱えています。世界の最貧国の一つとして知られています。

アジアの小国の旅 その七十四  オマーン

欧米列強の進出に悩まされ、保護や植民地支配からの独立した国々は、今も内戦などで苦しんでいます。オマーンもまた、かつてポルトガル、イギリス、フランスの保護国となった歴史があります。

オマーン国(Sultanate of Oman)は、アラビア半島の東端にあり、アラビア海(Arabian Sea)とオマーン湾(Gulf of Oman)に面する絶対君主制国家です。北西にアラブ首長国連邦(United Arab Emirates: UAE)、西にサウジアラビア(Kingdom of Saudi Arabia)、南西にイエメン(Republic of Yemen)と隣接しています。石油輸出ルートとして著名なホルムズ海峡(Strait of Hormuz)の航路もオマーン飛地の領海内にあります。 首都マスカット(Muscat) はオマーン湾にのぞむオマーン最大の港湾都市で、政治や経済、文化、教育の中心です。全土が砂漠気候に属し、大きな河が存在しない珍しい国といわれています。

オマーンは東アフリカ、中東、ペルシア湾岸、インドを結ぶ航路を控え、戦略的に重要な位置にあります。ホルムズ海峡はエネルギー供給の大動脈と呼ばれ、S字型に曲がった航路を何度も舵を切りながら進みます。一日平均14隻のタンカーが航行しているといわれます。日本政府は、オマーン湾やホルムズ海峡へ海上自衛隊の護衛艦1隻と哨戒機2機を派遣しています。オマーンは産油による高い国内総生産も相まって政治の安定に寄与しています。

オマーンの農産物はナツメヤシ サヤインゲン、果物の他、カラン科の樹木から分泌される樹脂、乳香(frankincense)があります。乳香は数千年にわたり宗教的行事にお香などで利用されてきた歴史があります。芳香成分には、リラクセーションや瞑想に効果的であると考えられています。ベツレヘム(Bethlehem)でイエス・キリスト(Jesus Christ)が生まれた時、東方からやってきた3賢人がイエスに捧げた贈り物が乳香、没薬、黄金であったという記述がマタイによる福音書(Gospel According to Matthew)2章11節にあります。

アジアの小国の旅 その七十三 ヨルダンとペトラ遺跡

ヨルダン川 (Jordan River)は、洗礼者ヨハネ(John the Baptist)がイエス・キリストに洗礼を授けた所とマルコによる福音書(Gospel According to Mark)1章9ー11節にあります。ヨルダンはこのヨルダン川中東にある人口約760万人ほどの国で、死海(Dead Sea)を挟んでイスラエルと接しています。人口の半数近くがパレスチナ難民とその子孫と言われています。また、最近では63万人のシリア難民が押し寄せているそうです。首都アンマン(Amman)は紀元前13世紀頃に首都として定められたヨルダン渓谷の街といわれます。

ヨルダンは古代オリエントの中で比較的新しい国です。ヨルダン川(Jordan River)を境に古代のパレスティナから分離しています。古代の歴史にあって文明の発祥の地として大きな役割をはたしてきた地域です。旧約聖書、創世記(Genesis)第36章以降に記述されるモアブ(Moab)、ギリード(Gilead)、エドム( Edom)といった王国はヨルダン渓谷(Jordan Valley)に存在し、そこに古代ナバテア人(Nabatean)の有力都市であったペトラ(Petra)があります。紀元前1200年頃から、エドム人(Edom)がペトラ付近に居住していたと考えられています。紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったアラブの遊牧民族ナバテア人(Nabatean)が居住し始めます。そしてナバテア王国(Nabatean kingdom)が誕生します。ナバテア人はアラビア付近の貿易を独占し、それに伴いペトラも栄えたといわれます。

ペトラですが、シルクロード(Silk Road)と西のローマを結び、香料、絹、香辛料など収益率の高い商品を扱い、キャラバン隊の中継基地そして通商上の要所です。隊商都市として繁栄を極めたといわれます。優れた灌漑や貯水対策を講じ、砂漠の都市でありながら水に不自由することは無かったといわれます。交易により巨万の富を築いたナバテア王国は貨幣の鋳造も行っていたことも記録されています。ナバテア王国はペトラからエドム人を排除して領域の支配を固め、他方で超大国であったローマ帝国とは対立を避けることで国を安定させます。

世界遺産「古代都市ペトラ」は、映画「インディアナ・ジョーンズ 」(Indiana Jones)の舞台ともなっています。架空の考古学者インディの冒険活劇映画です。ペトラ遺跡は、1812年8月スイスの東洋学者ヨハン・ブルクハルト(Johann Burckhardt)によって発見されます。

アジアの小国の旅 その七十二 「牛乳屋テヴィエ」とユダヤ文学

後述しますがイディシュ文学(Yiddish)はアシュケナージと呼ばれるユダヤ人の文学です。今回は「牛乳屋テヴィエ」(Tevye the Dairyman)とユダヤ文学の話題です。世界に散ったユダヤ人「ディアスポラ」(Diaspora)は建国の精神を抱いてイスラエルの地に戻ってきます。Diasporaとはギリシア語で「散らされている者」という意味です。そこから英語の「disperse」(散らす)という単語が派生します。

Sholem Aleichem

イスラエルの地に国を造ろうとした運動は、シオニズム(Zionism)と呼ばれます。宗教的、文化的復興を目指す近代化運動のことです。民族主義の昂揚とか祖国回復の運動ともいわれます。復習ですが、世界中から二種類のユダヤ人がイスラエルの地に戻ってきたといわれます。第一のグループはアシュケナージ(Ashkenazi)と呼ばれ主に東ヨーロッパなどに定住した人々やその子孫のユダヤ人です。第二のグループはセファルディ(Sephardi)と呼ばれ、主としてスペインやポルトガルまたはイタリアなどの南欧諸国やトルコ、北アフリカに住んでいたユダヤ人です。

「屋根の上のバイオリン弾き」

さて「牛乳屋テヴィエ」は「屋根の上のバイオリン弾き」(Fiddler on the Roof)というミュージカルでも知られています。主人公はテヴィエ(Tevye)とその家族です。舞台はウクライナ(Ukraine)のユダヤ人が住む村です。この作品を書いた劇作家、ショーレム・アレイヘム(Sholem Aleichem)はウクライナ出身のユダヤ系アメリカ人です。アレイヘムの小説は、民衆の啓蒙を主題とし、離散したユダヤ人社会で生れたイディシュ文学の代表といわれます。「牛乳屋テヴィエ」に登場するユダヤ人はアシュケナージの人々です。

アジアの小国の旅 その七十一 ユダヤ教徒とは

この記事は「シオンとの架け橋」(A Bridge between Zion and Japan)というサイトとBritannicaからの情報を基にしています。外部の人間がユダヤ教について、とやかくいっても理解することは難しいことです。民族や個人の社会的な背景や信仰によるところが大であるからです。教典や教義の解釈もまた違います。ユダヤ人は情報を大切にする民族といわれます。それゆえに何でも質問するので、いろいろな異なる答えが生まれる、という諺もあるほどです。それを示すのが、「3人のユダヤ人が議論すると4つの意見が対立する」という諺です。

全人口の4分の3を占めるユダヤ人は全員がユダヤ教徒で 、残りのアラブ人などはイスラム教(Islami)、ドルーズ教(Druze)、キリスト教徒などに分かれます。まず、ユダヤ教徒は4つの宗派に分かれています。 超正統派は男性なら黒い帽子、黒い上着と全身黒づくめで、女性は髪の毛を隠し、ロングスカートをはく人々です。次ぎに正統派は普通の服装ですが律法を守りユダヤ教を信じる人々です。さらに改革派は民族の伝統や人間の内面を重視し、食事の規定などを放棄する人々です。そして世俗派は宗教にも律法にも関心のない人々です。

映画「十戒」より

ここで「律法」というのは、「ハラハー」(Halakhah)と呼ばれる宗教律法です。ハラハーは、古代から受け入れられてきた慣習,ラビと呼ばれる法学者・賢者の口伝律法といわれます。ユダヤ人の行為規範を指していることです。豚肉を食べないなど、割礼を施すこと、ユダヤ教の食事規定を守り、安息日の土曜日には仕事も料理も洗濯、裁縫もしない、電化製品を使わない、車に乗らない等の事柄です。 超正統派の人々の流儀です。

ある調査によりますと神を信じる人はユダヤ人の71%とあります。 イスラエルの人々が世俗的な人でも神の存在を意識していることです。逆にいいますと、ユダヤ教という宗教を信じない人々が多いのです。そこで「ユダヤ人とは一体誰か」という問いが生まれます。1950年制定の帰還法 (Law of Return)では、ユダヤ人とは「ユダヤ人を母とする者またはユダヤ教徒」と定義しています。すべてのユダヤ人にイスラエル移住の権利を与え、国外のユダヤ教徒がイスラエルに移民することを認める法律です。

シナゴーグ

注目したいことは、「ユダヤ人は全員がユダヤ教徒」という表記です。 ユダヤ教を信じない世俗的な人々も、「ユダヤ教徒」に分類されているのです。このことは、「日本は仏教徒の国である」「日本人は仏教徒である」という表現と似通っています。ほとんどの日本人は特定の宗教を信仰していないといわれます。しかし日本人の習慣や行事に古来の宗教が深く根ざしていることも事実です。

アジアの小国の旅 その七十 パレスティナ自治政府

パレスティナ解放機構(Palestine Liberation Organization: PLO)とは、ヨルダン川西岸地区(West Bank)およびガザ地区(Gaza)を管理するパレスティナ人による自治機関です。パレスティナの独立宣言に基づいてパレスティナを国家として承認している国は137か国あります。日本はPLOを国家承認していないため,パレスティナ自治政府,またはパレスティナ自治区と呼んでいます。ただPLOとは友好関係を維持しています。

ガザ地区

1988年5月にPLOとイスラエルの間で相互に承認しあったことは既に述べました。この歴史的な合意の立役者はPLO議長のアラファト(Ycasir Arafat)です。パレスティナ民族評議会でパレスティナの独立宣言を読み上げ,彼にはパレスティナ〈大統領〉の呼称が与えられました。アメリカが主導する中東和平プロセスのもとで,1993年オスロ合意に基づいて、PLOとイスラエルはパレスティナ暫定自治宣言に調印し、ガザとジェリコ(Jericho)の両地区にパレスティナ暫定自治政府(Palestinian Authority)が樹立されます。

しかし,イスラエルで2001年リクード党のシャロン(Ariel Sharon)政権が登場して以後,オスロ合意による和平交渉は行き詰まります。米国における9.11事件以後イスラエルは一層強硬策に転じ,2002年にはパレスティナに軍事侵攻し、対抗措置としてPLOの過激派による自爆テロも続発します。ブッシュ(George Bush)政権は2003年のイラク戦争後,パレスティナ国家の独立とイスラエルとの共存をめざす工程表を提示しますが、争いの連鎖が再燃し,情勢はむしろ悪化します。

Leader of Palestine Liberation Organization (PLO) Yasser Arafat gestures as he speaks before the United Nations General Assembly on November 13, 1974 in New York. (Photo by AFP)

2004年のアラファト議長の死後,穏健派のアッバス(Mahmoud Abbas)が後任となり,和平交渉の気運が高まります。2005年8月,ガザ地区と西岸地区北部の一部からのイスラエル人入植者の退去が完了します。しかし2006年イスラム原理主義のハマス(Hamas), が総選挙で勝利し,2007年にハマスと穏健派のファタハ(Fatah)の連立政権がいったん成立しますが,内部抗争が続き,連立政権は崩壊します。イスラエルとアメリカはハマスを相手にせず、穏健派のファタハを交渉相手にすると宣言し、軍事面を含む援助を行うという複雑な構図です。

アッバス議長

アジアの小国の旅 その六十九 イスラエルの経済発展

1948年以降、西ヨーロッパや北アメリカから高等教育を受けたり高度な技能を持った大量のユダヤ人がイスラエルに戻ります。こうした人々は移民後、様々な職業に就きますが、高い技能を有する人材バンクの中核として、大学や研究機関、ハイテク企業の設立に携わり、国の経済拡大に尽力し、やがてイスラエルの国内総生産を押し上げていきます。

イスラエルは世界中のユダヤ人からの寄附、西ドイツからのナチスの犯罪に対する補償、アメリカ政府からの多額の援助などによる資産を得ます。こうした資産をもとに、イスラエルはは貸し付けや国内投資、外国投資などに向けるのです。イスラエル政府の経済政策は、国内需要の増大と発展を海外の市場に向けることです。同時にイスラエルにはこうした方針を阻む国内問題があります。それは急激な人口の増加、隣国アラブ諸国からの交易上のボイコット、膨大な軍事費、天然資源の不足、高いインフレ、大量生産を阻む国内の小さな市場などです。

こうした困難にも関わらず、イスラエルは国民の高い生活レベルを維持していきます。工業品の輸出、観光業、世界的な高度な科学技術による製品の輸出がこうした高い国民生活を支えていきます。
しかし、高い国民生活水準はアラブ系の住民には行き渡っていません。未だに貧しい生活をしています。ユダヤ人の二つの派であるアシュケナージとセファーディムの間にも所得の格差があります。

イスラエルは、高度な技術力を背景としたハイテク・情報通信分野及びダイヤモンド産業を中心に経済成長を続けており,基本的には輸出を志向する産業構造となっています。近年,ネゲブ(Negev)付近の排他的経済水域内において,大規模な天然ガス田の開発が進められ,2013年からは一部で生産が開始されています。

アジアの小国の旅 その六十八 イスラエルの政治情勢

イスラエルの3/4はユダヤ人で、残りはイスラム教徒であるアラブのパレスチナ人で構成されています。イスラエルにおける宗教の影響は政治にもかかわっています。ユダヤ人にはアシュケナージ(Ashkenazi)とセファルディ(Sephardi)という二つの民族がいることは既述しました。両者は長い伝統と文化を継承し、そこから政治、経済、社会についての異なる主義や思想を持っています。

一般に、イスラエルではアシュケナージが富裕層であり既存体制の支持者層であるのに対し、セファルディは世俗的で社会の改革を支持する層であり低所得者層を占めているといわれます。この二つの支持層では当然対立が起こり、現在のイスラエルの政界でも起こっています。宗教的に原理主義の立場をとる派と世俗的な考えを政治や日常生活に反映しようとする派との対立です。イスラエルにおける内政上の対立は、この「世俗と宗教の相克」ということにあります。宗教的な価値に基づいた政治体制を要求する勢力が挑戦し、その影響力を拡大しているという現在の政治勢力の姿は、イスラエルとパレスチナ双方に共通して見ることができます。

イスラエル政治の最大の特徴は、単独与党が存在した経験がなく、建国以来常に連立政権であるということです。イスラエルの現政権の基盤はリクード(Likud)という政党です。党首はネタニヤフ(Benjamin Netanyahu)で、労働党と並ぶ二大政党として2005年から政権を担当しています。この政党は領土拡張を強硬的に主張する保守派です。ガザ地区でのイスラムの原理主義で過激派ハマス(Hamas)の台頭に対して敵愾心を強めています。

Benjamin Netanyahu

リクードはイギリスがパレスチナの範囲をヨルダン川西岸に限定したことに反発し、「大イスラエル」を実現させること主張しています。パレスチナ被占領地–ヨルダン川西岸における入植地拡大、対イラン制裁などを党の方針としています。

アジアの小国の旅 その六十七 イスラエルとシオニズム

イスラエル(State of Israel)を小国と呼ぶには大いにためらうのですが、国土の面積が日本の四国程度の大きさなのです。そのようなわけで小国と呼んでおきます。人口は890万人くらいです。この国ほど建国にいたる歴史において劇的な経過を辿った国は他にないだろうと思われます。このようなイスラエルの歴史を数回にわたり取り上げます。

地中海沿岸の東に位置するイスラエルは、北東にシリア(Syria)、南東にヨルダン(Jordan)、南西にエジプト(Egypt)と面しています。首都はエルサレム(Jerusalem)であるとイスラエルは主張していますが、各国からは広い支持を得てはいません。

イスラエルは、ユダヤ人(Jewish)によって作られた歴史的には若い国です。しかし、その建国に至る歴史は旧約聖書時代に遡るほど古いものです。イスラエルの国土は、もとはローマ帝国(Roman Empire)の一部であり、その後はビザンチン帝国(Byzantine Empire)の領土となります。7世紀にはイスラム帝国 (Islamic Caliphate)によって征服されます。 十字軍(Crusades)が派遣されてくる頃、この地域はパレスチナ(Palestine)と呼ばれるようになります。そしてオスマン帝国(Ottoman Empire)の支配が第一次大戦まで続きます。大戦後は世界連盟(League of Nations)の決議でイギリスの占領統治下に入ります。イギリスはユダヤ人の民族郷土建設の考え方を支持していきます。

その施策を進めたのが初代高等弁務官(High Commissioner)でユダヤ系イギリス人のハーバート・サミュエル(Herbert Samuel)です。ユダヤ人はパレスチナへの移民を進め、ユダヤ機関を設置したり自警組織を結成し、ヘブライ大学(Hebrew University of Jerusalem)の開校などを進めるのです。これはユダヤ人の国家建設に向けての運動でありました。

アジアの小国の旅 その六十六 レバノン

地中海(Mediterranean Sea)の東岸に位置する現在のレバノン(Lebanese Republic)は、古代はフェニキア人(Phoenician)の定住地でありました。フェニキア人とは、東地中海岸で紀元前13世紀ごろから海上貿易に活躍したセム語族(Semites)の人々です。セム語族の起源は、旧約聖書創世記(Genesis)5章の大洪水と箱舟(Noah’s Ark)に登場するノア(Noah)の3人の息子の1人であるシェム(Shem)から由来するといわれます。

レバノンの歴史ですが、古代はフェニキア人が住んでいたティロ(Tyre)、シドン(Sidon)、バイブロス(Byblos)という港街が紀元前3世紀頃に栄え文化や貿易の中心となっていました。フェニキア人は、レバノンから地中海を渡り、現チュニジア(Tunisia)のカルタゴ(Carthage)、バルセロナ(Barcelona)、リスボン(Lisbon)、マルセイユ(Marseille)など各地に植民地を形成した民族です。

1920年代になるとフランスが進出しキリスト教を持ち込み、その後押しでレバノン王国をつくります。1926年にレバノン共和国として成立し、1943年に独立を遂げます。レバノンは宗教や民族の多様性で隆盛していくのですが、内政や外交、経済では大きな問題を抱えていきます。特にイスラエル(Israel)やアラブ(Arab)諸国との関係、そして国内に住む多数のパレスチナ(Palestinian)難民です。

国内では、多数の政党間の微妙なバランスは、パレスチナ問題や宗教的な対立で次第に崩れていきます。それが顕在化したのが1975年に起こった内戦です。政治組織は分解していきます。1990年に内戦が終結すると、レバノンは社会的、経済的にも安定していきます。にもかかわらず他国による干渉や介入、政党間の抗争が今も続いています。

アジアの小国の旅 その六十五 中東ー三大陸の接点

中東(Middle East)とか近東(Near East)という用語の使い方は第二次大戦で始まったといわれます。イギリス軍がエジプトの統治の際に使った用語が中東です。

20世紀の中頃までは、中東とはトルコ(Turkey), キプロス(Cyprus), シリア(Syria),レバノン (Lebanon),イラク (Iraq),イラン (Iran),イスラエル (Israel), ヨルダン川西岸(West Bank), ガザ地区(Gaza Strip),パレスチナ(Palestine), ヨルダン (Jordan), エジプト(Egypt),スーダン (Sudan),リビア (Libya)を指していました。

さらに国名が続きます。サウジアラビア(Saudi Arabia)、クウェート(Kuwait)、イェーメン(Yemen)、オマーン(Oman)、バーレン(Bahrain)、カタール(Qatar)、今のアラブ首長国連邦(United Arab Emirates)等も含むような使い方をします。こうした曖昧な概念の定義によって、中東は北アフリカの国々を含むようにもなります。すなわちチュニジア(Tunisia)、アルジェリア(Algeria)、リビア(Lybia)、モロッコ(Morocco)の国々です。

中東は、地理的にはヨーロッパ、アフリカ、アジアの三大陸の接点にあたります。東西文明が行き交い、交易や人々の交流の役割を果たしてきました。また近代から現代にかけて、特に1938年頃から本格的にサウジアラビアやクウェートで石油が産出されます。湾岸各国は油を採掘する技術は持っていなかったので、メジャーと呼ばれる国際石油資本によって油田は採掘されます。メジャーは石油の採掘から販売まで一貫して操業する大手の石油会社です。この石油の産出により、中東は第二次大戦により軍事的にも経済的にも重要な一帯となるのです。

アジアの小国の旅 その六十四 中東とか中近東の歴史

今回から「アジアの小国の旅」というテーマで稿を進めてまいります。中東(Middle East)から始めていきます。中東という言葉と接するとなんとなく「イスラム教の国々」という印象を受けます。確かにその通りなのですが、中東とは、地中海沿岸国(Mediterranean Sea)やモロッコ(Morocco)やアラビア半島(Arabian Peninsula) 、イラン(Iran)などの国々を指すようになっています。

中東とは西アジアとアフリカ北東部の総称です。こうした中東の中心のあたりの地域をヨーロッパの地理学者や歴史学者が近東(Near East)と呼ぶようになりました。こうした学者によれば、東方諸国(オリエント:Orient)とは、三つにまたがる地域であると主張します。第一は地中海からペルシャ湾(Persian Gulf)に至る地域、第二はペルシャ湾から東南アジアに至る地域、そして日本を含む太平洋に面した地域というのです。

Jordan, Wadi Rum, camel caravan in the Unesco World heritage site in Middle East

オリエントというと、第一にエジプト(Egypt)、メソポタミア(Mesopotamia)を中心とする小アジア・西南アジア・北アフリカの地域です。通常、世界最古の文明発生地一帯をオリエントと呼ばれます。第二はアジアの総称で特に東アジアを指すことです。どちらもラテン語の「Oriens」という日の出を意味する単語、すなわち東方に由来するといわれます。

バグダッドを臨む

中東は、19世紀以降にイギリスなどがインド以西の地域を植民地化するために使われた概念といわれます。もともとは、イランやアフガニスタン(Afghanistan)およびその周辺を指しました。中東に含まれる地中海沿岸地域は近東と呼ばれました。しかし、中東と近東の概念を混同した中近東という概念も使われるようになります。ただし、中東、近東、中近東の違いは明確ではありません。このような地域の区分は第二次世界大戦中にイギリス軍が始めて使ったといわれます。

ヨーロッパの小国の旅 その六十三 アルメニア

アララト山と葡萄畑

「ヨーロッパの小国の旅」の最後の稿です。アルメニア(Republic of Armenia)は、南コーカサス(Transcaucasia)に位置する共和制国家です。東ヨーロッパに含められることもあります。首都はエレバン(Yerevan)で、黒海(Black Sea)とカスピ海 (Caspian Sea)の間にある内陸国です。西にトルコ(Turkey)、北にジョージア(Georgia)、東にアゼルバイジャン(Azerbaijan)、南にイラン(Iran)とアゼルバイジャンの飛び地(Exclave)、ナヒチェヴァン(Naxçıvan)自治共和国と接します。

タテフ修道院

アルメニアもまた近隣の国々と同時に長い歴史を有しています。この稿では現代史に限定することにします。1918年にロシア帝国(Russian Empire)から独立します。1920年にはトルコとロシアによって侵略されます。その年の9月にソビエト–アルメニア共和国が樹立されます。1922年になるとコーカサス-ソビエト社会主義共和国となります。1936年にはアルメニアはソビエト連邦に併合され、長い間ソ連の統治化に置かれます。

ノラヴァンク修道院教会

1991年にソ連保守派のクーデターが失敗したため、同年9月にアルメニア社会主義ソビエト共和国は「アルメニア共和国」として独立します。同年12月25日付でソ連邦は解体・消滅し、アルメニアは晴れて独立国家となります。

アルメニアは内陸に位置し山岳地帯に囲まれています。国の平均海抜は1800mです。火山地帯にあり、これまで大地震に襲われてきました。1988年12月に起きた地震では約25,000人が犠牲となるほどの規模でした。

ヨーロッパの小国の旅 その六十二 アゼルバイジャン

アゼルバイジャン(Republic of Azerbaijan )は、カスピ海(Caspian Sea)と南コーカサス(Transcaucasia)に位置する共和制国家です。南はイラン(Iran)とアルメニア(Armenia)、北西はジョージア(Georgia)とロシアに隣接しています。首都は、古代都市でも有名なカスピ海に面する港湾都市のバク(Baku)です。

アゼルバイジャンは1918年から1920年まで独立した国家でした。しかし、ソビエト連邦に併合され1936年にはソ連の連邦国(constituent republic)となります。ソ連邦の解体により1989年9月に共和国を宣言し1991年8月に完全に独立します。

アゼルバイジャンは、工業と農業が盛んな国です。特に石油と天然ガスが豊富な国です。石油製品,鉄鉱も生産しています。バクー油田が有名で、ソ連崩壊やアルメニアとの紛争で落ち込んだ経済を支えています。天然資源を巡る問題は、第二次世界大戦やチェチェン紛争とアゼルバイジャンの関係とも大きくかかわってきました。軽工業、食品工業なども盛んです。チェチェン(Chechen)紛争とは1999年に勃発したロシア連邦からの独立派勢力とロシア連邦への残留を希望するチェチェン人勢力との間で発生した紛争です。

アゼルバイジャンは、1997年に脱ロシア志向のウクライナ、ジョージア(グルジア)、モルドバとの4カ国(GUAM)による民主主義と経済発展を目指す国際機関を結成しています。

ヨーロッパの小国の旅 その六十一  ジョージアとバラ革命

ジョージア(Republic of Georgia)は東ヨーロッパ、もしくは西アジアに区分されています。首都はトビリシ(Tbilisi)。2015年4月まで日本政府はグルジア(Gruziya)を国名として使用していました。

コーカサス山脈(Caucasus Mountains)の南麓、黒海(Black Sea)の東岸にあたります。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア(Armenian)、アゼルバイジャン(Azerbaijani)と隣接しています。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝でありました。そのため幾度も他民族の侵略に晒されてきました。今日もロシア正教(Russian Orthodox Church)の信仰などの伝統文化を守っています。温暖な気候を利用したワイン醸造の国としても知られています。

私がこの国を知ったのは2009年頃です。イリノイ大学(University of Illinois)の友人がこの国の大学に客員教授として招かれました。彼から電話で「今ジョージアにいる」というのです。私はてっきりアメリ南部のジョージア州からの電話だと思いました。彼からの電話は、かつてグルジア(Gruziya)と呼ばれていた国、ジョージアからでした。

ジョージアをより身近に感じたのは2018年初場所で優勝した栃ノ心です。彼がジョージア出身の力士であることを知ったことでした。その他、旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)の出身地がジョージアです。彼は、1922年から1953年まで共産党第一書記、1941年から1953年まで首相として、絶大な権力を有した独裁政治家です。

ジョージアは、ソビエト連邦の構成国でしたが、ソ連の崩壊とともに1991年に独立します。ロシア連邦など一部の国から国家承認を受けています。ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたために、独立後はロシアとの対立路線をとることが多いといわれます。