アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その3 『Last Frontier』とアラスカ州

1970年代まで、日本からヨーロッパやアメリカ本土に行くときの経由地はアラスカ(Alaska)のアンカレッジ(Anchorage)でした。給油するためです。私は一度、空港のターミナルの窓から外を眺めただけで本土を踏んだことがありません。アラスカのニックネームは「Last Frontier」(最後の開拓地)といわれます。

映画『アラスカ魂』をご存知でしょうか。この映画の原題は「North to Alaska」といいます。1900年のゴールドラッシュ(Goldrush)の舞台がアラスカです。金鉱権利争奪戦と三度に亘る猛烈な格闘や、三角関係恋の駆け引きが繰り広げられる娯楽映画です。主演はジョン・ウェイン(John Wayne)でした。

1867年にクリミア戦争(Crimean War)の中立国であったアメリカは、ロシア帝国から1平方kmあたり5ドルという価格でアラスカを購入します。この交渉をまとめたのは国務長官であったウィリアム・スワード(William Sward)です。この取引でスワードは当時のアメリカ国民から「スワードの愚行」「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されたとか。その後金や石油などの豊かな資源が発見され、さらに国防上重要な地帯となりアラスカの購入は高い評価を受けます。1959年、アメリカの49番目の州に昇格します。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その2 『Heart of Dixie』とアラバマ州

最初の州はアラバマ州(Alabama)です。州名は、チョクトー族 (Choctaw)の酋長タスカルーサ(Tascalusa)から由来し、「黒い戦士」という意味だそうです。愛称は、『南部の中心』(Heart of Dixie)です。Dixieとは南という意味です。Dixieland Jazzは文字通り南部生まれのジャズのことです。

アラバマ州はディープ・サウス(Deep South)と呼ばれる地帯にあります。合衆国の南部に位置しています。一度アメリカの貧しいといわれる所の州の小学校を訪ねようと考えていました。アラバマ大学の知人を知り合い、そこでタスカルーサ(Tuscaloosa)という街にある学校へ行きました。タスカルーサにはアラバマ大学が本部キャンパスを構えています。この大学のフットボールチームは全米でも一、二位を争う強豪です。人口の比率では白人と黒人が拮抗しています。

タスカルーサ市内の小学校を訪ねたときのエピソードです。身なりが貧しい子どもが目立ちました。補助教師が子どもの学習の手伝いをしています。この人は教師の免許状なして採用されたとのこと。個々の子どもの習熟度が違うので、個別の指導が欠かせません。補助教師がどうしても必要なのです。教室にはパソコンなども見当たりません。子どもは積極的に挙手して教師に質問はしません。そのせいで教室内は静かで活気が感じられません。

アラバマ州は人種差別の撤廃を求める公民権運動(Civil Right Movement)で知られたところです。セルマ(Selma)とモンゴメリー(Montgomery)は歴史上重要な街として、アメリカ最古かつ最大の都市の一つといわれます。1965 年、この公民権運動が進展する出来事となったデモ行進が、セルマからモンゴメリーまでの道のりで行われました。この道は、後にアメリカ公民権トレイル(Civil Rights Trail)と呼ばれるようになります。セルマは行進の出発地点です。そのきっかけをつくったのが、ローザ・パークス(Rosa Parks)という女性です。白人優先席のバスに坐り運転手から黒人席に移動するように言われますが、それを拒否したため逮捕されたことが公民権運動のデモ行進につながります。バスの乗車をボイコットして歩くという抗議運動です。

アラバマ物語

1962年に製作されたアメリカ映画『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird) があります。人種差別が根強く残る1930年代のアメリカ南部で、白人女性への性的暴行容疑で逮捕された黒人青年の事件を担当する弁護士アティカス・フィンチ(Atticus Finch)の物語です。弁護士役を演じたのが名優グレゴリー・ペック(Gregory Peck)でした。「Mockingbird」はマネシツグミと呼ばれ、口まねをする鳥として知られています。この映画を観ないとタイトルの意味がわかりません。

アメリカ合衆国を州の愛称から巡る その1 『人種のサラダボウル』とアメリカ

アメリカ合衆国の州を愛称を探して旅していきます。私が訪れた州にはいろいろな思い入れがあります。多くの州を旅して得たことたは科学研究費を使って、各州の学校の特徴とか課題を調べることができ、そのついでに歴史を学んだりしたことです。日本では特別支援教育の黎明期であった頃で、アメリカの多様な教育事情を知るのに絶好の機会でした。ついでに観光地を立ち寄ったこともあります。ですが、全ての州を訪問したわけではありません。小説や映画で知った州にも力を込めて書いていきます。家族はマサチューセッツ州とウィスコンシン州に住んでいます。私はウィスコンシン大学から学位を貰っているので特にこの二つの州には特に思い入れがありますので注目していきます。

旅の途中でいろいろなエピソードがありました。学会に出掛ける機内で発表原稿を必死に暗記しているとき、女性のアテンダントが「グッドラック」といって白いフキンに包んだワインをくれたことがあります。

真冬のワシントンDCから極寒のミネアポリス行きに乗ったときです。男性アテンダントが「当機はこれからハワイのホノルルへ向かいます」とアナウンスしました。乗客は拍手で大喜びです。するとアテンダントはすまして言います。「機長はミネアポリスに向かうのだそうです」。こうしたジョークはアメリカ人は大好きです。ひんしゅくをかうことはありません。

ところで、人種がそれぞれに共存し合って国を構成している状態を指す表現に「人種のサラダボウル」と「人種のるつぼ」という表現があります。前者は、それぞれが混ざり合わずに、独立した形で共存している状態。それぞれの文化を持ちながら各人種が同じ地域に住む姿です。後者はブラジルなど南米大陸の国などで見られるように、外からやって来た白人と先住民の混血が進んだ状態でこれを「人種のるつぼ」と呼ばれます。

「人種のサラダボウル」がどのようにして発展し、また問題を抱えているかを考えながらアルファベッド順に各州を巡り歩くことにします。

アメリカ合衆国建国の歴史 その153 アメリカの分断の背景

アメリカは、創設期の諸文化が大切に育まれてきた独自の原理をもっていましたが、しばしば互いに矛盾したものでありました。18世紀半ばまでに8つの個別のヨーロッパ系アメリカの文化が北アメリカ大陸の南部と東部の周辺で確立しました。何世代もの間、これらの異なる文化の発生地域は、お互いに驚くほど孤立して発達し、特徴的な価値感や慣行、方言、理想などを定着させました。個人主義を信奉する地域もあれば、ユートピア的な社会改革を熱心に支持する地域もありました。また神の意志によって自ら導かれていると信じる地域もあれば、良心と探求の自由を擁護する地域もありました。

ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxson Protestants: WASP)のアイデンティテイを抱く地域もあれば、民族、宗教的な多元主義を標榜する地域もありました。平等と民主的参加を尊重する地域もあれば、伝統的な帰属的な秩序への敬意を重視する地域もありました。これらのどこもが今日、創設当時の理想のいくつかを保持し続けています。

脱ワスプのTシャーツ

アメリカの最も基礎的で永続的な分裂は、共和党支持州と民主党支持州、保守とリベラル、労働者と資本家、黒人と白人、信仰心の厚い人々と世俗的な人々の間にあるのではありません。むしろアメリカの分裂は、合衆国が11の地域的なネーションの全体または一部で構成されている連邦であり、それらのいくつかは、お互いを理解していないという事実によるものです。これらのネーションは州境も国境もお構いなしなのです。カリフォルニア、テキサス、イリノイ、ペンシルヴェニア内をまたがっているかと思えば、合衆国のフロンティアを超えてカナダやメキシコへと広がっているのです。

6つのネーションが一緒になってイギリス支配から解放しました。ただ、同じ英語話者の競争相手によって4つのネーションには、南北戦争で敗北したものの、屈服したわけではありませんでした。19世紀の後半にはアメリカの辺境に住む人々が集まって2つのネーションが西部で建設されます。文化多元主義で定義されるものもあれば、フランス、スペイン、アングロサクソンの文化遺産によって特徴づけられるものもあります。

WASP Logo

ネーションが融合し、ある種の統一されたアメリカ文化を形成したという兆候を探すのは難しいといわれます。それどころか、1960年以来、これらネーションの裂け目は次第に広がり、結果的に文化的葛藤や憲法論争を激化させ、国家統合の警告する訴えがこれまでにないほど繰り返されているのが今日のアメリカの姿です。南北戦争、ベトナム戦争、公民権運動、ジェンダー論争などを見ればそれがわかります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その152 ミッドランドや大アパラチアやレフトコースト

現在の中西部にあたる「ミッドランド」(Midland)は、政府の規制に反対する傾向があります。この地域はイギリスのクエーカー教徒(Quaker)が入植したところで、「アメリカのハートランド」(America’s heartland)と呼ばれる文化を生んだ温かなミドルクラスの社会といわれます。政治的意見は穏健で、政府の規制には眉をひそめがちだといわれます。ミッドランドには、ニュージャージー、ペンシルベニア、オハイオ、インディアナ、イリノイ、ミズーリ、アイオワ、カンザス、ネブラスカ各州のそれぞれ一部が含まれます。人種的に多様なミッドランドを「アメリカの偉大なるスイング地域」(America’s Great Swing Region)と呼ばれています。

11 Nations

保守的な「大アパラチア」(Greater Appalachia)といわれる地域は、最も保守的なプロテスタント教会が多く、アパラチア地方に由来を持ちます。北アイルランド、イングランド北部、スコットランドのローランド地方(Roland)といった国境紛争で荒廃した地域から来た入植者たちが築いた所で、「レッドネック」と呼ばれる白人の肉体労働者たちが住む土地です。山の住民が移住して自分たちの宗教を持ち込んだ場所を起源とする教会もあります。政治的には、この地方選出の公職者のほとんどは決定的に保守的とされます。

Midland

リベラルなのが「レフトコースト」(Left Coast)と呼ばれる太平洋西岸の地域です。レフトコーストはカリフォルニア、ワシントン、オレゴンの各州です。ニューイングランド地方と中西部のアパラチア地方の出身者たちが入植したところがレフトコーストで、ヤンキーダムのユートピア志向的な気質と、大アパラチアの自己表現や探究心」のハイブリッドの所といわれています。このようにミッドランドや大アパラチアやレフトコーストといったネーションの文化をよくよく眺めると、アメリカの政治と文化の分断が、興味深い形で浮き彫りになってきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その151 ヤンキーダムやニュー・ネザーランド

アメリカが、地理ではなく政治的信条で分断されていることは、新型コロナウイルスのパンデミックへの対応でも見てとれます。すべての州に適用される連邦政府の対策がないので、各州知事が連携して危機に立ち向かうための計画を作っています。連邦政府は各州の自由と責任に委ねるという方針なのです。

Dutch Colonies


ニューヨーク市以北の北東部からミシガン、ウィスコンシン、ミネソタ各州まで広がる「ヤンキーダム」(Yankeedom)は、教育、知的な功績、地域社会のエンパワーメント、圧政を防ぐための市民の政治参加を重んじています。ヤンキーダムは教育を重視し、政府による規制に賛成する傾向があります。ヤンキーダムの人たちには「ユートピア志向的な傾向」があるともいわれます。このエリアは、急進的なプロテスタントであるカルバン派の信者が入植した地域です。

New Netherland


ニューヨーク市を含む「ニュー・ネザーランド」(New Netherland)には、「唯物主義」の文化があります。商業的な文化が色濃いニュー・ネザーランドは、唯物主義的な傾向があり、民族や宗教の多様性にきわめて寛容で、探究の自由と道義心を断固として守り抜くという精神があるともいわれます。本国オランダの基盤である「宗教的自制心の自由を保ち享受する」という信仰精神や多元的共存性の富の尊重、文化的および宗教的寛容さの影響であろうといわれます。オランダの影響は、ロードアイランドからデラウェアにかけての地域で、今日でもオランダ語の地名として残っていることからもうかがえます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その150 11種類のネーション(nation)で構成されるアメリカ

これまでアメリカ合衆国の歴史を調べてきました。これから数回にわたりアメリカ現代史で、特に政治にかかわる話題を取り上げることとします。著述家でジャーナリストのコリン・ウッダード(Colin Woodard)は、アメリカは歴史的・文化的な成り立ちが異なる11種類の「国」(ネーション: nation)で構成されていると主張しています。この論点は、「American Nations: A History of the Eleven Rival Regional Cultures in North America」という著作に表れています。

Colin Woodard


合衆国は、確かに50の州からなる国です。しかし、実は共通の文化、民族的起源、言語、歴史的経験を持つ「ネーション」で構成されているというのです。ネーションとは、共通の文化、民族的起源、言語、歴史的経験、工芸品、シンボルを共有しているか、あるいは共有すると信じている人々の集団のことです。決して一つのアメリカがあるのではなく、いくつかのアメリカがあり、そのそれぞれのネーションが何世紀も前から独自の価値感を持ってきたという分析です。

11 nations

アメリカの歴史では、同じようなパタンでネーションが互いに反目し合っているのを確認できるといわれます。大統領選挙の際の政党や候補者の主張がそれに表れます。そこでは、アメリカ市民の政治的な選好は煎じ詰めれば、アメリカの市民生活の鍵概念である「自由」をいかに推進するかをめぐる二つの考えに必ず帰着してきたといわれます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その149 米比戦争と第二次世界大戦におけるアギナルドの役割

1899年2月4日夜、マニラを取り囲んでいたアメリカ軍とフィリピン軍との間で、避けられない衝突が始まります。2月5日の朝、勇敢に戦ってきたフィリピン人は、すべての地点で敗退してしまいます。戦闘が進行する中、アギナルドがアメリカに対して宣戦布告を行い、アメリカは直ちにフィリピンに援軍を送ります。フィリピン政府は北へ逃れていきます。1899年11月になるとフィリピン人たちはゲリラ戦に打って出るのです。

3年にわたる高い代償を払った戦闘の後、1901年3月23日、フレデリック・ファンストン将軍(Frederick Funston)の率いる大胆な作戦により、アギナルドがルソン島(Luzon)北部のパラナン(Palanan)の秘密司令部で捕えられ、反乱はついに終結します。アギナルドがアメリカへの忠誠を誓い、アメリカ政府から年金を支給され私生活へと引退します。

Elpidio Quirino

1935年、独立に向けてフィリピン連邦政府が設立された。アギナルドは大統領選に出馬しますが、決定的な敗北を喫します。1941年12月に日本軍がフィリピンに侵攻するまで、彼は私生活に戻ります。しかし、日本軍はアギナルドを反米の道具として利用しようとします。彼は演説をし、反米記事に署名します。1942年初めには、当時コレヒドール島(Corregidor Island)で日本軍に抵抗していた米軍守備隊のダグラス・マッカーサー元帥(Gen. Douglas MacArthur)に降伏するようラジオで呼びかけます。同軍は1942年5月に降伏しますが、マッカーサーはすでに退却したあとでした。

Douglasn Macarthur

1944年末にアメリカ軍がフィリピンに戻り、1945年にマニラを奪還した後、アギナルドは逮捕されます。日本軍との協力で告発された者たちは、大統領恩赦で釈放されるまで数カ月間投獄されます。1950年、エルピディオ・キリノ大統領(Elpidio Quirino)によってアギナルドは国家評議会のメンバーに任命されます。晩年は退役軍人問題、フィリピンのナショナリズムと民主主義の促進、フィリピンとアメリカの関係改善に力を注ぎます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その148 フィリピン独立のための闘い

アギナルド(Aguinaldo)は中国人とタガログ人(Tagalog)の両親から生まれます。マニラのサン・フアン・デ・レトラン・カレッジ(San Juan de Letran College)に通いますが、母親が経営する農場を手伝うために早々と退学します。1896年8月、彼はカビテ・ビエホ(Cavite Viejo)、現在のカウィット(Kawit)、カビテ市(Cavite cityKawit)に隣接の市長となり、スペインと激しく戦い成功した革命団体カティプナン(Katipunan)の地元リーダーとなります。1897年12月、彼はスペイン総督とビアク・ナ・バトー協定(Pact of Biac-na-Bato)と呼ばれる協定に調印します。アギナルドがフィリピンを離れ、永久に亡命する条件は、スペインから多額の金銭の報酬と自由な改革を約束することでありました。香港とシンガポールに滞在していた彼は、アメリカ領事とジョージ・デューイ提督(George Dewey)の代表者とともに、スペインとの戦争でアメリカを支援するためにフィリピンに戻る準備をします。

フィリピン革命軍

1898年5月19日、アギナルドがフィリピンに帰国し、スペインとの闘争の再開を宣言します。1898年6月12日にスペインからの独立を宣言したフィリピン人は、アギナルドを大統領とする暫定共和国を宣言し、9月には革命議会が開かれ、フィリピンの独立が批准されます。しかし、1898年12月10日に締結されたパリ条約により、フィリピンはプエルトリコ、グアムとともにスペインからアメリカに割譲されることになります。

Marcelo Hilario del Pilar

アメリカ合衆国建国の歴史 その147 フィリピン共和国のゲリラの活動

フィリピン政府は北へ向かって逃走していきます。1899年11月、フィリピン人はゲリラ戦に打って出ますが、その結果、壊滅的な打撃を受けることになりました。反乱の主要な作戦はルソン島で行われましたが、その際、アメリカ軍は先住民のマカベベ(Macabebe)偵察兵の多大な援助を受けます。彼らは、以前スペイン政権に仕えていましたが、その後アメリカに忠誠心を移します。組織的な反乱は、1901年3月23日、フレデリック・ファンストン(Frederick Funston)アメリカ軍大将によるアギナルド(Emilio Aguinaldo)の捕獲で事実上終結します。ファンストンは、捕虜となった使者からアギナルドの秘密司令部の場所を知ると、自らルソン島北部の山岳地帯に大胆な作戦を展開します。一握りの将校とともに捕虜のふりをし反乱軍に変装したマカベベ斥候の隊列の護衛のもとで行軍します。援軍を待っていたアギナルドが先頭部隊を迎えると、降伏を要求されて唖然とさせられるのです。ファンストン到着後、アギナルドが「これは冗談ではないのか」叫ぶのですが、マニラへ連行されていきます。

Mariano Ponce

アギナルドがアメリカに忠誠を誓い、敵対行為の終結を求めますが、ゲリラ活動は衰えることなく続けられます。アメリカ兵士への虐殺に怒ったジェイコブ・スミス(Jacob F. Smith)准将は、無差別の残虐行為で報復し、軍法会議にかけられ退役を余儀なくされます。1902年4月16日、フィリピンのミゲル・マルバール(Miguel Malvar)将軍がサマール(Samar)島で降伏した後、アメリカ市民政府は残ったゲリラを単なる盗賊とみなしますが、戦闘は継続されました。シメオン・オラ(Simeón Ola)率いる約千人のゲリラは1903年後半まで敗北せず、マニラ南方のバタンガス州(Batangas)ではマカリオ・サカイ (Macario Sakay)が指揮する部隊が1906年後半まで捕虜になるまで抵抗します。

宮崎滔天

アメリカ軍に対する最後の組織的抵抗は、1904年から1906年にかけてサマール島で行われました。そこでは、平和になった村々を焼き払うという反乱軍の戦術が、彼ら自身の敗北につながりました。ミンダナオ島(Mindanao)のモロ族(Moro)の反乱は1913年まで散発的に続きますが、アメリカはフィリピンを明らかに支配し、1946年まで島々の領有を維持することになります。

アメリカとの戦争に突入したフィリピン共和国政府のアギナルドは、武器の支援を日本に期待します。1899年6月、革命派のマリアーノ・ポンセ(Mariano Ponce)らの代表団を日本に送り、日本政府から武器・弾薬の調達を受けるべく工作を行います。

アメリカ合衆国建国の歴史 その146 スペイン支配の終焉と第一次フィリピン共和国

300年以上にわたるスペインによる植民地支配の間、フィリピンでは準宗教的な反乱が頻発していましたが、19世紀末のホセ・リサール(José Rizal)らの著作によって、より広範なフィリピン独立運動が活性化していきます。スペインは植民地政府の改革に消極的で、1896年に武力反乱が起きます。1896年12月30日、革命ではなく改革を主張したリサールは扇動罪で銃殺されます。彼の殉教は、若き将軍エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)が率いる革命に拍車をかけることになります。

他方、キューバでもスペイン支配からの独立を目指す動きがありました。1898年3月、ハバナでUSSメインが破壊されたのを受けて、アメリカはスペインに最後通牒を送り、アメリカの仲裁を受け入れてキューバの支配を放棄するように要求します。スペインとの戦争の可能性に備えて、海軍次官のセオドア・ルーズベルトは香港のアメリカ・アジア戦線に警戒態勢を命じます。4月に宣戦布告されると、香港から出撃したジョージ・デューイ提督(Commodore George Dewey)は5月1日朝、マニラ湾でスペイン艦隊を撃破します。ですが3ヵ月後に地上軍が到着するまでマニラを占領することができませんでした。

他方、6月12日にフィリピン人は独立を宣言し、アギナルドを大統領とする臨時共和制を宣言します。このように太平洋のアメリカの反対側では、アメリカ反帝国主義者同盟が結成され始めます。この組織は、アメリカのフィリピンへの関与に反対し、あらゆる政治的分野から支持を集め、大衆運動へと発展していきます。そのメンバーには、社会改革者のジェーン・アダムス(Jane Addams)、実業家のアンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)、哲学者のウィリアム・ジェームズ(William James)、作家のマーク・トウェイン(Mark Twain)など、著名な人物が名を連ねていました。

Emilio Aguinaldo

8月13日、マニラは無血の「戦い」の末に陥落します。スペインのフェルミン・ハウデネス知事(Fermín Jaudenes)は、自分の名誉を守るために模擬的な抵抗の後、降伏するよう密かに準備していました。アメリカ軍はマニラを手に入れますが、フィリピンの反乱軍はマニラの残りの地域を支配していました。12月にスペインとアメリカの代表が署名したパリ条約(1898年)により、フィリピンの主権はスペインからアメリカに移ります。しかし、マニラを除く全島を実質的に支配していた新生フィリピン共和国の指導者たちは、アメリカの主権を認めませんでした。一方、アメリカはフィリピンの独立を否定し、紛争は避けられない見通しとなります。

1899年2月4日夜、マニラ近郊で銃声が響きます。朝になってみると、無謀ともいえる勇敢な戦いをしてきたフィリピン人が、ことごとく敗れていきました。戦闘が続く中、アギナルドが対米宣戦布告を行います。アメリカでは依然として反帝国主義的な感情が強かったのですが2月6日、アメリカ上院は米西戦争を終結させる条約を一票差で批准します。アメリカの援軍は直ちにフィリピンに送られます。フィリピン人の中で最も優秀な指揮官であったアントニオ・ルナ(Antonio Luna)は、その軍事作戦を任されますが、アギナルドの嫉妬と不信に大きく妨げられたようで,アメリカ占領を受け入れる「自治派」によってルナは殺害されます。3月31日に反乱軍の首都マロロス(Malolos)はアメリカ軍に占領されます。

ホセ・リサール像

1900年3月、アメリカ大統領ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)は、フィリピンに民政を樹立するため、第2回フィリピン委員会を招集します。このとき、アギナルドのフィリピン共和国の存在は都合よく無視します。4月7日、マッキンリーは委員会のウィリアム・タフト(William H. Taft)議長に、「彼らが設立しようとしている政府は、我々の満足や理論的見解の表明のためではなく、フィリピン諸島の人々の幸福、平和、繁栄のために作られていることを肝に銘じるように」と指示します。フィリピンの独立について明確な記述はありませんが、この指示は後にしばしば独立を支持するものとして引用されます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その145 米比戦争の開始と結果

米比戦争 (Philippine–American War) の開始2日前に、マニラ郊外でアメリカ軍とアギナルドの反乱軍との間で戦闘が始まります。ここに本格的な米比戦争が始まります。その後3年間、フィリピン人はアメリカの支配に対してゲリラ戦を展開します。戦闘が終わるまでに、約2万人のフィリピン軍と20万人の民間人が死亡します。アメリカ人の死者は4,300人と推定されていますが、その圧倒的多数は病気によるものといわれます。

米西戦争 (Apanish–American War) は短期間であり、資源と人命の両方において比較的安価であったといわれますが、両国の歴史における重要な転機となります。スペインにとって、この戦争は直ちに悲惨な結果をもたらしますが、その後、スペイン人の生活は、知的にも物質的にも目覚しい復興を遂げていきます。サルバドール・デ・マダリアガ(Salvador de Madariaga)がその代表作『スペイン:近代史』(Spain: Modern History)の中で次のように書いています。

「スペインはこれまでのような海外での冒険の時代は終わり、これからは自分の未来は自国にあると感じる。何世紀にもわたって世界の果てを彷徨ってきた彼女の目は、ついに自国の領土に向けられたのである。」

スペインはその後20年間、農業、鉱物資源の開発、工業、交通の分野で大きな進展を遂げます。また、「1898年世代」(Generation of 1898)と呼ばれる優秀な思想家や作家が誕生し、スペインはヨーロッパで何世紀にもわたって享受してこなかった知的、文学的地位を獲得することになるのです。

戦勝国のアメリカにとって、その結果は全く異なるものでした。アメリカは、この戦争で世界の大国となります。アメリカは、カリブ海と太平洋にまたがる島国を領有し、戦争によって併合が早まったハワイもその一つでありました。経済的な動機は、戦争勃発にはほとんど関与しませんでしたが、平和の形成には明らかに貢献します。カリブ海、極東アジア、そしてその間の海域での足がかりの獲得は、海外市場へのアクセスを確保するための半世紀にわたる暫定的で断続的な探求のクライマックスとなります。

パナマ運河

米西戦争により、太平洋と大西洋はアメリカが建設した運河でパナマ地峡(Isthmus of Panama)を貫通します。この戦争は、アメリカ海軍への熱意を刺激し、アメリカ海軍は世界の戦艦の中で5、6番目から2番目へと成長します。戦争への備えが不十分で、敵の攻撃による犠牲者よりも、被爆や病気による犠牲者の方がはるかに多かったアメリカ陸軍の抜本的な改革を促したのです。また、アメリカ初の世界志向の大統領、セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の経歴も上がりました。戦争終結から数年のうちに、アメリカはカリブ海をアメリカの湖とし、オープンドア政策(Open Door policy)などの極東政治に主導的な役割を果たし、ヨーロッパ情勢に決定的な役割を果たす準備を推進していくのです。

Theodore Roosevelt

アメリカ合衆国建国の歴史 その144 和平交渉

戦争は事実上終わります。7月18日、スペイン政府はフランスに和平交渉を要請します。しかし、戦闘が終わる前に、ネルソン・マイルズ将軍(Gen. Nelson A. Miles)が指揮する別のアメリカ軍遠征軍がプエルトリコを占領します。ワシントンでの休戦交渉は、1898年8月12日の議定書調印をもって終了します。この協定は敵対行為を終了させるとともに、スペインがキューバに対するすべての権限を放棄し、プエルトリコとラドロン諸島の無名の島をアメリカに割譲することを約束するものでした。フィリピンでは、スペインは、島々の最終的な処分を決定する平和条約が締結されるまで、アメリカがマニラ市と港を占拠することに同意します。和平委員会は10月1日までにパリで会合することになっていました。

マッキンリー大統領とその助言者たちが直面していた大きな問題は、フィリピンにおいてスペインに何を要求するかでありました。マッキンリーがキューバへの介入を提案したとき、地球の裏側にあるフィリピンを手に入れることなど考えてもいなかったことは確かです。また、多くの議会議員や一般市民が、この戦争の結果をそのように考えていたという根拠もありません。しかし、デューイがマニラで劇的な勝利を収めたことで、潜在的な戦略的重要性がにわかに注目されるようになります。ルーズベルトと友人のヘンリー・ロッジ(Henry C. Lodge)上院議員は、アルフレッド・マハン大佐(Capt. Alfred T. Mahan)のシーパワー(海上権力)理論の信奉者で、マニラ湾に極東におけるアメリカの影響力を大きく高める前哨基地があると考えたのです。

Alfred T. Mahan

ヨーロッパ諸国の中国での侵略は、多くのビジネスマンにとってアメリカ市場を脅かすものと思われ、マニラは中国におけるアメリカの利益を守るための拠点として彼らにアピールしていたのです。プロテスタント教会の指導者たちは、マニラでの楽勝をフィリピンでの布教活動への神の召しととらえます。さらに、日英両政府は、アメリカがこの島を保持することを歓迎することを明らかにします。スペインの支配が回復すれば、キューバが救われたときと同じような混乱が起こるだけと考えられました。さらに、フィリピンの人々は自治を成功させるために必要な教育、訓練、経験を持っていないと信じられていました。この考えは、1898年6月にエミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)率いるグループがフィリピンを暫定共和国にすると宣言したにもかかわらず根強く、現地の現実を無視していました。アギナルド軍は、マニラ以外の群島をほぼ完全に支配していたのです。

Emilio Aguinaldo

様々な熟慮とアメリカの民衆感情の評価に揺さぶられ、マッキンリーは、アメリカがフィリピンのおよそ7,000の島々と700万人の住民を支配する必要があると決断します。この要求は、アメリカがフィリピンの公共建築と公共事業のために名目上2,000万ドルをスペインに支払うという条件で、しぶしぶスペインを同意させます。1898年12月10日に調印されたパリ条約は、この条件にそうものでした。スペインはキューバを放棄し、フィリピン、プエルトリコ、グアムをアメリカに割譲します。この条約はアメリカ上院で強く反対されますが、1899年2月6日、一票差で承認されるのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その143 スペイン艦隊の壊滅

1898年2月25日、ハバナ港でのUSSメイン号の破壊からわずか10日後、本格的な敵対行為の開始よりもずっと以前にジョージ・デューイ提督率いるアメリカ・アジア戦隊は警戒態勢に入り、香港に向かうよう命じられます。4月25日にアメリカが宣戦布告をすると、デューイはフィリピン海域にいたスペイン艦隊を捕獲または撃破するよう命じられます。アメリカ海軍は十分な訓練と供給を受けていましたが、これは主にデューイをアジア戦隊の司令官に抜擢した若い海軍次官補セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の精力的な努力によるものでした。デューイの艦隊は、4隻の防護巡洋艦(USSオリンピア(旗艦)、USSボストン、USSローリー、USSボルチモア)、砲艦USSコンコードとUSSペトル、武装収入カッターUSSヒューマッカロク、現地購入のイギリス補給船2隻から構成されていました。デューイは4月27日に香港の北東にあるミルズ湾( Mirs Bay)に軍を集結し、その3日後にフィリピンのルソン島沖に到着します。

Reina Christina号

スペイン海軍提督パトリシオ・モントホ(Patricio Montojo)は自分の艦隊をカビテ(Cavite)の東側に東西に並べて停泊させ、北側に向けて陣を張ります。彼の艦隊は彼の旗艦である巡洋艦レイナ・クリスティーナ(Reina Cristina)、曳航された古い木造蒸気船であるカスティージャ(Castilla)、保護巡洋艦イスラ・デ・クバ(Isla de Cuba)とイスラ・デ・ルソン(Isla de Luzon)、砲艦ドン・ファン・デ・オーストリア(Don Juan de Austria)、他数隻で構成されていました。また、モントホはカビテ付近で6門の砲を備えた陸上砲台を支援します。

4月30日夜、デューイはマニラ湾に入る広い水路であるボカグランデ(Boca Grand)に入ったが、このあたりは、コレヒドール島(Corregidor Island)の北側にある主要海路であるボカチカ(Boca Chica)よりあまり使われていませんでした。これによって彼はボカチカを監視していたコレヒドール島のスペイン軍の砲台を避けることができます。デューイはUSSオリンピアで先導して水路の機雷に対する懸念に対処し、真夜中に小さな要塞島であるエル・フレイレ(El Fraile)を通過しますが、ここから2発の砲弾が発射されます。彼はまたカビテ(Cavite)の砲台から砲撃を受けます。

Don-Juan-de-Austria号

デューイは南側にスペイン艦隊を見ると、補給艦とUSSヒューマッカロクに湾に出るように命じ、USSオリンピア、USSボルチモア、USSローリー、USSペトル、USSコンコード、USSボストンと350メートル間隔で列をなして進軍します。午前5時40分頃、スペイン軍から約5,000メートル以内に入った時、デューイはUSSオリンピアのチャールズ・グリッドリー(Charles Gridley)少佐に”グリドレー、準備ができたら撃ってよし”という命令を下します。

アメリカ艦船はスペイン戦線に沿って東から西に繰り返し通過し、左舷砲台を降ろして徐々に距離を1,829メートルに縮めます。午前7時、スペインの旗艦が近距離で交戦しようとしますが、アメリカの砲撃で追い返されます。スペイン艦隊は非常に苦しい状態となりますが、その深刻さはアメリカ軍司令官には十分に伝わりませんでした。午前7時35分、デューイは撤退して部下たちに朝食を与え、指揮官たちの協議を行います。午前11時16分に戦闘が再開すると、スペイン艦隊のレイナ・クリスティーナとカスティーヤは炎上します。こうして残りの作戦はカビテの海岸砲台を沈黙せることでした。スペインの小型船を破壊して戦意を喪失させる任務はUSSペトロールにまかされます。デューイはカビテを占領しその守備隊を捕虜とし、マニラ(Manila)を占領するための陸軍の到着を待ちます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その142 スペイン領のフィリピンでの戦い

こうして始まったアメリカとスペインの戦争は、哀れなほど一方的なものでした。スペインは、前述のように、強大な国との戦争に備えることができていませんでした。アメリカ軍も同様に準備不足ではありましたが、戦争の帰趨は海軍力に大きく左右され、この点においてアメリカは完全に相手を圧倒していました。スペインは、アメリカの北大西洋戦隊を支える4隻の新戦艦であるインディアナ、アイオワ、マサチューセッツ、オレゴンに匹敵するものは何も持っていませんでした。フィリピンにおけるスペインの旧式な敵対勢力よりさらに優れていたのは、ジョージ・デューイ提督(George Dewey)のアジア戦隊の巡洋艦でした。海軍次官補セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の情熱や熱意により、アメリカ艦は戦闘演習と射撃訓練を行い、燃料と弾薬を十分に供給されていました。将校と兵士たちは勝利に自信に満ち、スペイン兵士は敗北する運命にあることを悟っていました。

Spanish War in Santiago

最初の一戦は、1898年5月1日、マニラ湾(Manila Bay)にて始まります。ルーズベルトが指揮官に選んだデューイは夜明け前に戦隊を率いて湾に入り、朝方の交戦で停泊していたスペイン船を艦砲射撃で破壊します。アメリカ人の死傷者はわずか7人の軽傷者でした。デューイは湾の支配を続けながら、マニラ市を占領するために軍隊を派遣します。7月末までにウェスリー・メリット(Maj. Wesley Merritt) が率いる約1万1千人のアメリカ軍がフィリピンに到着し、8月13日にマニラを占領します。

その一方で、キューバにも注目が集まります。宣戦布告と同時に、パスクアル・セルベラ・イ・トペテ提督(Pascual Cervera y Topete)が指揮する装甲巡洋艦4隻と駆逐艦3隻からなるスペイン艦隊は、カーボベルデ諸島(Cape Verde Islands)から西へ向かって航行していました。その所在は5月下旬にキューバ南岸のサンチャゴ港(Santiago’s harbour)に到着するまで不明でした。ウィリアム・サンプソン少将(William T. Sampson)率いる北大西洋戦隊とウィンフィールド・シュリー提督(Winfield S. Schley)が率いるいわゆる飛行戦隊は、サンチャゴ港の入り口を封鎖します。

Spanish War in Cuba

ルーズベルトの「ラフ・ライダーズ」連隊と第9・10騎兵隊のバッファロー兵を含む正規軍と志願兵がタンパ(Tampa)に上陸し、サンチャゴ(Santiago)の東のキューバ沿岸に上陸します。アメリカの目的は、セルベラ(Cervera)を陸軍と海軍の間に閉じ込め降伏させるか、出てきて戦わせることでした。7月1日、エル・カニー(El Caney)とサン・フアン・ヒル(San Juan Hill)の戦いではラフ・ライダーズが活躍し、ルーズベルトが戦争の英雄であるという大衆のイメージに貢献します。

アメリカ軍はサンティアゴの外郭防御を突破します。しかし、サンティアゴの守備は非常に不安定で、マラリアなどの病気も蔓延していたため、司令官ウィリアム・シャフター(William R. Shafter)は撤退して増援を待つことを検討します。7月3日、ハバナからの命令を受けたセルベラは、部隊を率いてサンチャゴ港を出港し、海岸沿いを西に脱出しようとしたため、撤退案は撤回されます。その後の戦闘で、アメリカ艦隊の激しい砲火を受け、セルベラの船はすべて焼失または沈没します。アメリカ側の損害は軽微で、2週間後サンチャゴ市はシャフターに降伏します。

アメリカ合衆国建国の歴史 その141 スペイン政府のジレンマ

スペイン政府は、残酷なジレンマに陥ります。スペイン政府は、アメリカとの戦争に備えて陸軍や海軍の準備をしておらず、スペイン国民にキューバを放棄する理由を伝えていませんでした。戦争とは確実に災いを意味します。キューバの降伏は、政府、あるいは王政の転覆を意味するかもしれませんでした。スペインは目の前の藁にすがるしかありませんでした。他方では、ヨーロッパの主要な政府からの支援を求めていました。イギリスを除けば、主要な政府はスペインに同情的でしたが、口先だけの支持しか与えようとはしませんでした。

4月6日、ドイツ、オーストリア、フランス、イギリス、イタリア、ロシアの代表がマッキンリーを訪れ、人道の名のもとにキューバへの武力介入を控えるよう懇願してきます。マッキンリーは、もし介入が行われるなら、それは人類の利益のためであると断言します。ローマ教皇レオ13世(Pope Leo XIII)による仲介の努力も同様に無駄でした。一方、スペインは3月27日のマッキンリーの条件を受け入れる方向で進んでいました。ウッドフォード公使(Minister Woodford)がマッキンリーに、時間と忍耐があれば、スペインはアメリカとキューバの反乱軍の双方に受け入れられる解決策を講じることができると進言するほどでした。

スペインはキューバでの再集権化政策を廃止しようと考えます。アメリカの調停を受け入れる代わりに、自治プログラムの下で選出されるキューバ人民委員会を通じて島の平和を求めるというものです。スペインは当初、武装勢力からの申請があった場合のみ休戦を認めるとしていましたが、4月9日に自らの判断で休戦を宣言します。しかしスペインは、マッキンリーがキューバの平和と秩序を回復するために不可欠と考えた独立を依然として認めようとしません。

スペイン無敵艦隊

マッキンリー大統領は、議会内の戦争派とこれまで一貫して取ってきた立場、すなわちキューバで受け入れ可能な解決策が見つからない場合、アメリカの介入につながるという主張を譲り、スペインの新しい譲歩を報告し4月11日の特別メッセージで議会に「キューバの戦争は止めなければならない」と勧告を出します。大統領は議会に対し、「スペイン政府とキューバ国民の間の敵対行為の完全かつ最終的な終結を確保するために」アメリカの軍隊を使用する権限を求めます。これに対して議会は、4月20日に「キューバ国民は自由であり独立した存在であり、当然そうあるべきである」と力強く宣言します。議会は、スペインがキューバに対する権限を放棄し、軍隊をキューバから撤退させることを要求し、大統領がその要求を実行するためにアメリカの陸軍と海軍を派遣することを承認します。

エリザベス一世

コロラド州の上院議員ヘンリー・テラー (Henry M. Teller)が提案した第4の決議は、アメリカがキューバを領有することを放棄するものでした。大統領は、現存するが実体のない反乱政府を承認することを盛り込もうとする上院の試みを退けるのです。反乱政府を承認することは、戦争遂行と戦後の平和維持の両方において、アメリカの妨げになると考えたからであり、平和維持はアメリカの責任であると予見していました。決議案署名の知らせを受けたスペイン政府は、直ちに国交を断絶し、4月24日にアメリカに宣戦布告します。合衆国議会も4月25日に宣戦布告を行い、その効力は4月21日に遡及するというものでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その140 アメリカの介入

1897年の秋、スペインの新政府は反乱軍に譲歩を申し出ます。それは、ウェイラー将軍(General Weyler)を呼び戻し、再集中政策を放棄し、キューバに選挙で選ばれたコルテス(Cortes: 議会)を認め、限られた自治権を与えるというものでした。しかし、この譲歩は遅すぎました。反乱軍の指導者たちは、もはや完全な独立以外に道はないと叫びます。キューバでは戦争が続き、アメリカは介入寸前まで追い込まれる事件が相次ぎます。12月にはハバナ(Havana)でも暴動が起こり、アメリカ国民と財産の安全を守るために戦艦メイン(Maine)がハバナの港に派遣されることになります。

USS Maine

1898年2月9日、ニューヨーク・ジャーナル紙は、ワシントンのスペイン公使エンリケ・ローム(Enrique Dupuy de Lôme)からの私信を掲載し、マッキンリーを「弱腰で人気取り」と評し、スペインの改革計画に対する誠意に反するものと非難します。ロームは直ちに解任され、スペイン政府は謝罪します。この事件は、6日後に大きな反響を呼びます。2月15日の夜、ハバナに停泊していたメイン号(USS Maine)が大爆発を起こして沈没し、乗組員260人以上が犠牲になるのです。しかし、この事故の原因は究明されませんでした。アメリカ海軍の調査委員会は、最初の爆発は船体の外側、おそらく機雷か魚雷によるもので、戦艦の前部弾倉に着火したことを示す有力な証拠を発見します。スペイン政府はその責任を仲裁に委ねることを申し出たが、ニューヨーク・ジャーナル紙をはじめとする低俗で扇情的な誇張表現を用いたイエロー・ジャーナリズム の扇動に乗せられ、アメリカ国民はスペインの責任を疑うことなく認めるのです。「メイン号を忘れるな、スペイン地獄へ」(Remember the Maine, to hell with Spain!)というのが、アメリカ国民の叫びでした。

US-Spain War

介入を求める声は、議会では共和党、民主党の双方からでます。ただし共和党のマーク・ハンナ(Mark Hanna)上院議員やトーマス・リード(Thomas B. Reed)下院議長らは反対します。介入は国内でも根強くなっていきました。アメリカの経済界は、全般的に介入と戦争に反対していました。しかし、3月17日、キューバ視察から帰国したばかりのバーモント州選出のレッドフィールド・プロクター(Redfield Proctor)上院議員が上院で行った演説をきっかけに、こうした反対運動は沈静化します。プロクター上院議員は、戦争で荒廃したキューバを視察し、和解地での苦しみと死、その他の地域の荒廃、スペインが反乱を鎮圧できないでいることなど、淡々とした言葉で説明しました。3月19日付の『ウォールストリート・ジャーナル』紙は、この演説を「ウォール街の多くの人々を改心させた」と評価するほどでした。宗教指導者たちは、介入を宗教的、人道的な義務であるとして介入を求める声に賛同します。

スペインが勝利でも譲歩でも戦争を終わらせることができないことが明らかになると、介入を求める民衆の圧力は強まります。マッキンリー の対応は、3月27日にスペインに最後通牒を送ることでした。マッキンリーは、スペインに実質的に和解を放棄し、休戦を宣言して反乱軍との和平交渉においてアメリカの仲介を受け入れるように伝えます。しかし、彼は別の書簡の中で、キューバの独立以外は認めないことを明言します。

アメリカ合衆国建国の歴史 その139 米西戦争の背景

アメリカの外交政策についてです。1898年に起きたアメリカとスペインの間の紛争である米西戦争(Spanish–American War)により、アメリカ大陸におけるスペインの植民地支配から、アメリカは西太平洋とラテンアメリカの領土獲得を目指します。この戦争は、1895年2月に始まったスペインからの独立を目指すキューバ紛争に端を発しています。キューバ紛争は、アメリカのキューバへの推定5000万ドルの投資に損害を与え、通常年間1億ドルとされるアメリカのキューバ港との貿易をほぼ停止させます。キューバの反乱軍側では、戦争は主に財産に対して行われ、サトウキビと製糖工場の破壊につながります。アメリカの金銭的利益よりも重要なのは、アメリカの人道的感情に訴えかけることにありました。

スペイン人指揮官バレリアーノ・ニコラウ(Valeriano Nicolau)は「虐殺者」の異名を持ち、キューバ人を大都市周辺のいわゆる「再集中地域」に集め、逃亡した者は敵として扱いました。スペイン当局は、和解者のための住居、食料、衛生、医療を十分に用意せず、何千人もの人々がほったらかされ、飢え、病気で亡くなります。このような状況は、ジョセフ・ピューリッツァー(Joseph Pulitzer)の「ニューヨーク・ワールド」(New York World)や、ウィリアム・ハースト(William R. Hearst) が当時創刊した「ニューヨーク・ジャーナル」 (New York Journal) などの新聞でセンセーショナルに報じられ、アメリカ国民に向けて生々しく紹介されます。

Yellow Journalism

独立を目指す植民地の人々に対するアメリカの伝統的な同情心に、苦しむキューバ人に対する人道的配慮が加わっていきます。他方、アメリカは、反乱軍への砲撃を防ぐための近海パトロールや、アメリカ国籍を取得した後、反乱に参加してスペイン当局に逮捕されたキューバ人からの援助の要請に直面することになります。

Uncle Sam

戦争を止め、キューバの独立を保証するための介入を求める民衆の声は、アメリカ議会でも支持されるようになります。1896年の春、上院と下院は同時決議で、キューバの反乱軍に交戦権を与えるべきであると宣言します。この議会意見の表明を無視したのがグローバー・クリーブランド大統領(Grover Cleveland)でです。彼は戦争が長引けば介入が必要になるかもしれないと議会への最終メッセージを送り介入に反対します。次ぎに大統領となったマッキンリーはスペインとの宥和政策を支持します。しかし、マッキンリーは新任の駐スペイン公使スチュワート・ウッドフォード(Stewart L. Woodford)への指示や議会への最初のメッセージで、アメリカは血生臭い闘争をいつまでも傍観することはできないと明言するのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その138 経済の回復

1897 年 3 月 4 日の就任直後、マッキンリー大統領(McKinley)は再び関税を改定すべ多くの品目が自由リストから除外し、輸入関税は全般的にそれまでの最高水準に引き上げられました。さらに金本位制(Gold Standard Act) の維持は1896年の共和党の最大のアピールポイントでしたが、1900年3月になってようやく議会は金本位制法を制定し、財務省には最低1億5000万ドルの金準備を維持することを義務づけ、その最低額を守るために必要であれば債券の発行を許可することになります。

1900年当時、金の十分な供給は現実的な問題ではなくなり、このような措置はほとんど期待はずれのものとなります。1893年以降、アメリカでの金の生産量は着実に増加し、1899年までにアメリカの供給量に加えられた金の年間価値は、1881年から1892年までのどの年よりも2倍になりました。この新しい金の供給源の中心は、カナダ・ユーコン準州クロンダイク地方(Klondike)で、1896年の夏にここで重要な金鉱床が発見されます。

Dawson City

1898年には不況は一段落し、農産物価格と農産物輸出量は再び安定的に上昇し、西部の農民は当面の苦労を忘れ、経済の見通しに自信を取り戻したように見えました。産業界では、反トラスト法にもかかわらず、企業結合の動きが再開され、ニューヨークのJ.P.モルガン(J.P. Morgan) をはじめとする大手銀行が必要な資本を提供し、その見返りとして、大資本が設立した企業の経営に大きな影響力を持つことになっていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その137 中間選挙とウィリアム・ブライアン

クリーブランドが党内を掌握できていないことは、議会が銀から関税に目を向けたときに明らかになりました。下院では、大統領の意向に沿って関税率を下方修正する法案が可決されました。しかし、上院では、法案は元の法案とは似ても似つかないほど変更され、いくつかの項目については、マッキンリー関税法よりも高い関税が課されることになりました。1894年8月にようやく関税率の引き下げが可決されましたが、クリーブランドは非常に不満で署名を拒否し、彼の署名なしに法律となった。この法律には所得税の規定がありましたが、1895年に最高裁判所(Supreme Court)によって違憲とされました。

1894年の中間選挙では、共和党が議会の両院を制覇します。このことは、不況が続くことによる不満の表れでした。また、民主党の大統領と共和党の議会では、1896年の選挙を前にして、国内法の制定が滞ることが確実となりました。

William Bryan

セントルイスで開催された共和党大会で、共和党はオハイオ州知事のウィリアム・マッキンリー(William McKinley) を大統領候補に選出します。彼は南北戦争で連邦軍に従軍した経験があり、オハイオ州知事としての実績は、1890年の不人気な関税との関連性を相殺することになります。しかし、マッキンリーの最も親しい友人であり、クリーブランドの裕福な実業家であるマーク・ハンナ(Mark Hanna)が、候補者指名を勝ち取るために最も効果的な支援を表明します。

シカゴで開かれた民主党大会は、異様な盛り上がりを見せました。クリーブランドの金融政策に敵対するグループが大会を支配し、自党の大統領の政権を賞賛する決議を拒否するという前代未聞の行動に出たのです。党綱領の討論会では、ウィリアム・ブライアン(William J. Bryan) が銀と農民の利益を雄弁に擁護し、長い喝采を浴びただけでなく、党の大統領候補に指名されたのです。ブライアンは、ネブラスカ州選出の元下院議員で、36歳という史上最年少で主要政党の大統領候補となります。

Bryan House in Lincoln

ブライアンは精力的に選挙戦を展開します。大統領候補が初めて全国津々浦々の民衆に訴え、一時は勝利するかと思われました。保守派は、ブライアンは危険なデマゴーグであり、選挙戦を繁栄をもたらす健全な経済システムの擁護者と国家の財政的安定を損なう無謀な改革を支持する不誠実な急進派との対立者であると応戦します。このような主張によって、共和党は自分たちの利益が脅かされることを恐れる実業家たちから多額の選挙資金を調達することに成功します。こうした選挙資金をもとに、共和党は流れを変え、決定的な勝利を収めることになります。南部以外では、ブライアンは西部のシルバー・ステートとカンザス、ネブラスカを制しただけでした。