旅のエピソード その36 「ドルの話 その一 1ドルが360円」

始めて沖縄に行ったのは本土復帰の2年前、1970年です。那覇市内で幼児教育の一環として幼稚園を開設する仕事を命じられました。まだパスポートと予防注射が必要なときでした。1ドルが360円のときです。

当時琉球政府のお役人とで、幼稚園作りのためになんども打ち合わせをやりました。幸い、幼児教育の必要性が高い沖縄でしたので、設置基準を満たさないことに目をつむってくれ、設置にこぎ着けることができました。1972年に本土復帰を果たし、1ドルが300円となりました。

園児を募集すると障害のある二人の幼児がやってきました。この幼児を担当するのが私の仕事ともなりました。みよう見真似で懸命に指導したのですが、やがてもっと障害児教育を学ぶ必要を感じてきました。ひよんなことで、ロータリーインターナショナル(Rotary International) という国際組織が、障害児教育の勉強で奨学金を出していることを知りました。ロータリーの会員はロータリアンと呼ばれます。ロータリアンは、それぞれの地域社会および世界社会において、人々の生活の向上を計るためにボランティアとして奉仕することを求められています。

沖縄には1966年に設立された那覇東ローターリークラブがありました。そこでの奨学金を担当している国吉昇氏と出会いました。この方は、沖縄戦のときまで沖縄地方気象台に勤務されていて、気象情報を軍に提供するという仕事をされていました。九死に一生を得たご体験の持ち主です。ロータリアンとして50年以上も毎週の例会に欠かさず出席する熱心な会員でした。今は、那覇市内の高齢者施設で暮らしています。2020年1月に国吉氏を訪ねることが出来ました。コロナ感染が広まる前でした。

旅のエピソード その35 「教育委員会の金曜日の午後」

旅には食べること、飲むことにまつわるエピソードが多いようです。旅先で1日中調査をしながら歩き回わるとおなかはペコペコになります。なにを食べようか、これがその日のご褒美です。特に夕食の楽しみは格別です。

同行した京都の校長先生とでシカゴ・オヘア空港側にある教育委員会で教育長にインタビュをしました。それが終わって地元の学校に案内されました。どの学校も自分たちのカリキュラムはいかに優れているかを自信たっぷりに語ります。自分たちはNO1だといってはばからないのがアメリカの校長です。その点、日本の校長は自分の学校が他の学校に比べて優れているなどと言わないのとは対照的です。

昼食時になり、教育長は近くのレストランに連れていってくれました。そこには、12名くらいの部下や管理職の教員が待っていました。ワインも飲んでいます。昼間からワインを飲むのは決して珍しいことではありません。午後の仕事に差し障りがあるのではと心配するのが日本人のサガのようなものです。

昼食が終わったのが午後2時過ぎ。その日は金曜日でした。気分はすでに週末の休暇が始まっています。”Thank God, it is Friday:TGIF”(神様、ようやく楽しみな金曜日がきました)という台詞があります。アメリカ人の間で金曜日に使われるフレーズです。それにしてもゆとりのある教育委員会の面々だな、と感心しました。管理職はいかに平日は懸命に働くかということを示すエピソードです。

旅のエピソード その34 「楓と中禅寺湖」

立春が過ぎたばかりなのに、楓の話をするのは少々気が引けます。紅葉はまだまだ先の話ですが、今回はこれを話題とします。ただぶらぶら歩いたり山歩きの好きなわたしには紅葉がたまりません。今まで訪れたことのある京都の東福寺、友人に案内してもらった滋賀県の永源寺、和歌山県の高野山、そして地元高尾山、、。国中が紅葉に包まれるのが日本です。

以前の職場にミネソタ大学(University of Minnesota-Twin Campus)から3名の教授を招いたときです。障害児教育のセミナーを開き、それが終わってから日光に案内しました。もちろん中禅寺湖にも足を伸ばしました。丁度紅葉が盛りなので、遊覧船で沖にでました。実に繊細な紅色が小さめの楓の葉に広がるのが日本の紅葉の特徴です。標高2,500m位の男体山を背景に湖面に映る真っ赤な楓に、さすがのミネソタの客人も感嘆していました。

ミネソタは中西部の北、カナダに面します。中西部の秋は短く冬の足音がかけっこのようにやってきます。ウイスコンシン、イリノイなどもそうです。中西部の紅葉は、日本のそれとは趣が異なります。大地一面が黄色がかった紅に染まるのです。その理由は、カナディアンメープル(Canadian maple)の葉は日本の楓と違い大きいのです。

冬を前に紅葉はあっという間にやってきます。紅葉がひときわ鮮明なのはカナディアンメープルです。カナダ国旗の中央に楓の葉があしらわれています。年に1度だけ、この自然からの贈り物を楽しまない手はありません。大自然に抱かれるような気持ちに浸りながら心ゆくまで歩く。こんな贅沢を楓は運んできてくれます。

カテゴリー:

旅のエピソード その33 「塾の加熱ぶり」

韓国の受験対策は、日本からすると尋常ではないほど過熱しているようにみえます。このブログで登場しているソウル在住のユ・キム夫妻の娘さん、名前はキリヨン(키리욘)の受験生活を紹介することにします。キリヨンはかつて兵庫教育大学附属小学校に一年間勉強したことがあります。キム氏が同大の客員研究員として滞在していたときです。彼女はそのため日本語が達者で、日本語検定試験の3級に合格しています。

彼女はソウル市内の公立の高校で学びました。普段は3時まで学校で授業を受けます。一度家に帰り、一時間くらいの午睡をとりそれからお手伝いさんの作る夕食を食べます。そして塾(アカデミー)に迎えのバスで通います。授業は10時まで続きます。平日はこのような日課なのですが、土曜日と日曜日は午前中、時に午後も塾に通います。夜10時頃になると、塾の前は沢山の送迎バスが並びます。

韓国はご存じ、日本以上に学歴社会の国です。中国の科挙の影響です。科挙は、中国の6世紀頃から始まった高級官僚の登用試験です。ヨーロッパでは、貴族の世襲が当たり前だったの対して、中国は優秀であれば官僚になれたのです。その点では誰もが官僚になれる優れた制度だったようです。韓国人から「どんな大学をでましたか?」と何度も聞かれたことがあります。どの大学を卒業したかによって、わたしの能力を確かめるのですね。

さて韓国の受験の仕組みですが、まずは大学修学能力試験(수능-スヌン)というセンター試験のようなものがあります。韓国ではどの大学に入れるかはスヌンの成績で決まります。内申書および2次試験と合わせて総合評価をしますが、大学修学能力試験が最大の比重を占めるのです。スヌンが終わると国公立、私立、一つずつ受けることがでます。スヌンは入学前年11月中の木曜日に設定されて1日で終わります。一時、慶応大学への留学も考えていたキム夫妻のキリヨンですが、結局韓国外国語大学校に入学し、日本語や英語に磨きをかけたようです。

旅のエピソード その32 「宮廷料理と失敗」

またまた、銀行の重役をしている柳(유-ユ)さんとの話題です。奥様は何度も紹介していますが、大邱教育大学校の英語学のキム・ヨンスク(김영숙) 教授です。

いつか宮廷料理を一度試食したいと思っておりました。「チャングムの誓い」(대장금)をずっと観ていた影響もあります。宮廷料理はこの韓国ドラマでしばしばてきました。水剌間(수라간-スラッカン)で女官のチャングムが卓越した料理の腕を振るうという話しです。水剌間とは厨房のことです。そして私がユさんに、主演女優のイ・ヨンエ(이영애-李英愛)氏に会いたいのでアポをとってもらえないだろうか、という難題を出しました。彼は苦笑いをしていました。

そんなこともあってかソウル滞在中、ユ・キム夫妻に宮廷料理に招待されました。ヨンスーサン(영스산) というレストランです。光化門駅から徒歩5分位のところにあります。チラシには、韓國の料理の古來の正味と伝統を受け継いでいるとあります。ユさんは一番高いコースの14品とデザートがついた定食を注文しました。 一人150,000ウォン、14,000円位だったはずです。

ご存じの通り、韓国料理では器を手に持って食しません。テーブルに並ぶ品を皆で手を伸ばしていただきます。はじめの内は違和感があるかもしれません。手で直接掴んだり、ペチャクチャと音を立てるのは不作法とされています。

後でわかったのですが、私はこの席で失敗をしてしまいました。食事のペースは、年配者に合わせることを知らなかったのです。ユさんが先に食事をし終わったのですが、私は食事を続けたのです。年配者が食事を終えたら、その時点で食事を終わるというのがマナーだというのです。私のほうが年配なのですが、ユさん私の「先輩」であり「ホスト」なので彼の動作に沿うべきでした。韓国では、ホストの所作を観察しながら食べるのが大事なようです。

旅のエピソード その30 「南山公園でのバトミントン」

大邱教育大学校のキム・ヨンスク教授のご主人柳(ユ)さんは銀行の重役をしています。重役室に招かれると客がいて、紹介されました。その方に私が「ユよさんは私の先輩です」といいますと、「先輩」という言葉は最近あまりきかなくなった」、というのです。私は親しみを込めて重役のユさんを先輩と呼びます。ハングルの発音も「ソンペ」(선배 )です。

韓国語(-朝鮮語)には、固有語と漢字語があります。漢語(한자) の使用頻度はあまり高くなく、通常はハングル (한글) のみで表記され、今の韓国では漢字語のみに漢字が使われるようです。1970年から始まった漢字廃止政策の結果だといわれています。ちなみに、ハングルのハンは偉大な、クルは文字という意味です。我が国のひらがな、カタカナにあたります。

ユさんはスポーツが好きです。朝、ソウル市民の憩いの場、南山公園(ナムサンコンウォン–남산공원 )に案内してくれました。ソウルのランドマーク、ソウルタワーもここにあります。南山公園を楽しめるハイキングルートはいくつかあります。

そこをユさんと一緒に20分ほど走りましたが、大柄なユさんについて行くのは大変でした。公園の一角にバトミントンをするグループがいまして、ユさんがそこにも案内してくれました。一緒にやろうというのです。彼はこの同好会に入っていて、毎週仲間とやるのだそうです。会員は40代から50代の人です。

しばらくすると鍋が運ばれてきて、チゲ(찌개)が振る舞われます。当番になった仲間が作ってくるそうです。「たくさん食べてください」 と声をかけられて嬉しくなりました。汗をかいたあとのチゲは格別です。味がよいのです。スポーツは韓国でも中年以上の人々にも浸透していることを感じたものです。

旅のエピソード その29 「カメラの置き忘れ」

ソウル(서울)の北70キロくらいのところに1992年に開館した烏頭山(オドゥ山)統一展望台(오두산 통일전망대) があります。臨津江(イムジン川-이무진강 )を隔てて北朝鮮と向かい合っています。板門店-판문점 や非武装地帯 (DMZ) とは異なり、外国からの観光客も韓国人も自由に訪ねることができます。この展望台は、漢江(ハンガ-한강 )と臨津江が合流する地点にあり、北朝鮮の農村地帯を展望することができます。ここを2度訪ねたのですが、最初は客員研究員でお招きしたソウル教育大学校のチョウ先生、そして2度目は大邱教育大学校のキム先生がそれぞれ案内してくださいました。

統一展望台から見える北朝鮮の農村ですが、かなり立派なアパート群が建ち、公民館、小学校なども見えます。しかし、夜になると電気はつきません。韓国からの脱走者を受け入れる宣伝に造られているのだそうです。望遠鏡で眺めてみましたが、人一人見当たりません。

面白いことに、この展望台の売店では北朝鮮名産の高麗人参酒や北朝鮮の切手、工芸品などのお土産も買うことができます。わずかながら、南北間で貿易も行われていることがわかります。しかし、展望台への道の海側には鉄条網が延々と続き、厳重に警戒されています。そしてところどころに歩哨が立つ小屋があります。

展望台の売店で家内がカメラを手洗いに忘れました。気がついて戻りましたが見あたりません。すぐ数名の警備員に連絡して探してもらいました。先を歩いていたグループの人々を追いかけるのですが、すでにバスは出発したあととのことでした。カメラを紛失し大事な想い出をなくして残念でしたが、親身となってくれた韓国人警備員と触れた旅となりました。お土産を残したと思えばと家内を慰めましたが、、、

旅のエピソード その28 「万里の長城と検閲」

北京と上海にそれぞれ一度行きました。同窓生である留学生のSHさんを頼っての研修旅行です。こうしたコネクションによって、旅は円滑につつがなく進むものです。留学生は富山大学を卒業後、兵庫教育大学院を修了し、広島大学院博士課程を終えた異色の中国人です。今は成都市の大学で教えています。

SHさんですが留学中はあちこちで中国語を教え、生計を支えていました。ご家族とで兵庫県の加西市に住んでいました。中国人の奥様はアパレル関連の会社に入り、社長の秘書として頻繁に北京や上海を行き来していました。ご子息は加西市の小学校に入り、その優秀さは抜きんでていたようです。

北京にいきますとSHさんが空港に迎えにきてくれました。ミニバンをチャーターしてくれてホテルに向かいましたSHさんのお父さんは、かつては中国政府の経済担当の上級公務員であったようです。高度経済成長の最中、日本にたびたびやってきては日本の経済成長の姿を調べていたというのです。鉄鋼会社やその工場をまわり経営の実態をつぶさに視察したそうです。

SHさんのお父さんが我々一行を夕食会に招待してくださいました。紹興酒を何度も酌み交わしました。北京ダックも食卓に並びました。今は引退されて年金で悠々自適の生活を送っていると話されていました。日本での調査のことについてもエピソードを語ってくれました。

翌日、ミニバンに乗って万里の長城へ向かいました。到着すると警察が車を一台一台調べているのです。許可をもらって万里の長城に来たかを調べているのです。そこに日本人学生を乗せた別のミニバンが来ました。その運転手は許可をもらっていなかったようです。多額の罰金を科せられるそうです。SHさんは我々のためにきちんと許可をもらっていたので、なんのお咎めもありませんでした。中国の検閲体制を垣間見た旅でした。

周りに観光客がいないのを見計らい万里の長城の上を、100メートルほど走ってみました。長城のもう一つの思い出といえば素朴なトイレでした。同行していた家内ら女性は面食らったようです。

旅のエピソード その27 「ハワイの日系アメリカ人」

日系アメリカ人の活躍は前々回に少し述べました。ハワイに移民した最初の人々は一世(Issei) 、そして今や四世(Yonsei)から五世(Gosei)へと受け継がれます。ちなみに、こうした単語はすっかり英語として定着しています。

日系アメリカ人は、長い間偏見と差別に苦しみました。そのために生活も苦しかったようです。懸命に働き、教育を大事にし、善良なアメリカ市民になろうと努力しました。ハワイ大学より兵庫教育大学に客員研究として招いたカーティス・ホー(Dr.Curtis Ho)教授は、中国人と日本人との間に生まれた方です。小さな島で育ち、やがて奨学金をもらい本土の大学で学び、研究者となりました。父親は厳しい労働に従事し、稼いだお金を彼の教育のために注いだそうです。

日系人がアメリカ社会での地位を確立するには、「勤勉な働き者」「清潔好き」「礼儀正しい」「約束をきちんと守る」といった矜持の定着が必要でした。こうして日系人は確実に善良な市民としてのイメージをアメリカ社会に定着させていきます。

日系人の活躍です。1963年にダニエル・イノウエ氏(Daniel Inoue) が初の日系上院議員となります。ジョージ・アリヨシ氏(George Ariyoshi) が1974年に第3代ハワイ州知事に就任することで、日系人の地位や役割が不動のものとなります。1978年 エリソン・オニズカ氏(Elison Onizuka) が日系人として初の宇宙飛行士に選ばれます。ですが、乗り込んだチャレンジャー(Challenger) が爆発し亡くなります。1988年には、第40代のロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領が、大戦中に人種差別政策により日系人を強制収容所に連行した歴史に謝罪し、一人につき2万ドル(約200万円)を補償したのは目新しいことです。

旅のエピソード その26 「マウナ・ケア山とすばる」

ハワイ島は火山の島です。そこには広大な国立公園があり、沢山のハイキングコースがあります。その総延長は150マイルといわれています。230キロくらいでしょうか。今も火山が活発に活動しています。噴火の跡の溶岩(ラーバ)はまだ弾力があって、足の裏に伝わってきます。風で運ばれた種が育ち、あちこちに草木が地面を覆っています。ビジターセンタを訪れると、大噴火のすさまじさが映像と写真で紹介されています。最近の大噴火は1984年に起こりました。

ハイキングコースを歩きますと、噴煙や蒸気が沸き上がっています。歩く途中では、水平線から水平線にまたがる完全な半円形をした虹をみることができます。日本では見られない光景です。

島最大の街ヒロ(Hilo)から四輪駆動のワゴン車を借りて、島の最高峰マウナ・ケア山(Mauna Kea)4200メートルに向かいました。マウナ・ケアの山頂付近は天候が安定し、空気が澄んでいます。晴天日は年間300日にのぼるといわれます。世界11ヶ国の研究機関が合計13基の天文台を設置しています。日本の国立天文台が1999年に設置した光学赤外線望遠鏡の「すばる」もここにあります。天文台からのデータは、山裾にある研究施設に送られ分析されています。

事前に三鷹にある国立天文台から見学許可をもらい、兵庫教育大学の院生らとでこの国立天文台を見学する機会を得ました。中の施設に案内されたのですが、同行した院生には理科の教師がいて、天文台の偉容に圧倒されたようでした。

旅のエピソード その25 「日系アメリカ人の博物館」

1885年1月、最初の日本人移民944人が農業労働者としてハワイに到着します。その後沖縄も含めて各県から多くの日本人がハワイにやってきます。ハワイ島は別名Big Island。ホノルルから飛行機で1時間のところにあるハワイで最大の島です。この島で一番大きな街がヒロ(Hilo)です。ハワイ島もまた日系人が開拓したところといわれています。

ヒロの街の中に日系アメリカ人が建てた小さな日本人センター(Hawaii Japanese Center)があります。人々が持ち寄った貴重な品々、写真などが展示されていて、小さな歴史博物館ともなっています。山本五十六連合艦隊司令官が率いる艦船が寄港したときの写真、第二次世界大戦中、合衆国陸軍に志願し、ヨーロッパ戦線で勲功をあげた日系アメリカ人のみで編成された442連隊のメンバーの写真などが飾られています。

太平洋戦争によって大多数の日系アメリカ人は、アリゾナ州(Arizona)やワシントン州の僻地に建てられた収容所に移されます。442連隊のメンバーもこうした収容所から志願してヨーロッパ戦線に向かいます。戦後、日系アメリカ人はアメリカ社会の中に日本に対する信頼を築く役割を果たします。日系アメリカ人の政治家、実業家などが輩出していきます。その一人が、ハワイ選出の上院議員、ダニエル・イノウエ(Daniel Inoue)です。戦場で負傷して片手を失う経験もします。こうした人々の働きが、高度経済成長期期における日本企業のアメリカ市場への進出に大きく貢献することになります。アメリカの国勢調査によると、日系人の特徴として「高所得」、「高学歴」、「低失業率」、「低貧困率」が挙げられています。このうち所得と学歴については、白人の平均や全米平均よりは明らかに高く、貧困率については全人種の中でも低いといわれています。

博物館の話題に戻ります。ここには歴史のある貴重な本や昔の新聞、写真などがたくさんあります。展示物の中に歴代天皇の写真があります。明治天皇や昭和天皇の写真に混じって、神武天皇の写真もあるのです。日系アメリカ人の日本に対する想いと天皇に対する深い畏敬の念をこの写真から感じたものです。

旅のエピソード その24 「マウントバーノン」

「マウントバーノン」。なんとものんびりする響きです。英語ではMount Vernonというスペルです。全米各地にマウントバーノンという街が沢山ありますが、その中でも最も知られているのが、ワシントンDCの南、車で1時間のバージニア州(Virginia)のアレクサンドリア(Alexandria)にあるマウントバーノンです。

マウントバーノンは、合衆国初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)の農場(Plantation) や邸宅があります。邸宅は、新古典主義ジョージア調建築様式と呼ばれる木造の建物です。ジョージア調建築とは、建物がシンメトリー(左右対称)を基本としていることです。その東側にはポトマック川 (Potomac River) が控え、周りは広い農場が広がります。いまは国が定めた歴史的建造物として保存され、全米からの観光客が訪れるところです。

マウントバーノンは年中無休。祝日やクリスマスでも開放されています。わたしたちはワシントン家の邸宅、納屋、物置、奴隷用宿舎、台所、厩、温室など見てあることができます。案内人がついています。この農場内の庭園や森の小道を散策することができます。当時は100人あまりの黒人奴隷が働いていて、この農場を開拓したことがわかります。

ここにワシントン夫妻の墓所があります。奴隷の記念碑や墓地もすぐそばにあります。2度目にこの墓所を訪ねたときです。なにか、得体の知れない匂いがこのあたりに漂っていました。もしかして、ワシントンのお墓から、、、などという不遜なことを考えました。実のところ、この匂いは農場に撒いている鶏糞かなにかの腐った匂いなのです。

旅のエピソード その23 「ミニットマンとチップ」

ボストン(Boston) の西20kmにレキシントンとコンコード(Lexington-Concord)という街があります。周りは静かな農村地帯です。この小さな街で1775年の4月に独立戦争(Independence War)における最初の大規模な戦いが植民地軍とイギリス軍とで繰り広げられます。植民地軍は正規の兵士と民兵によって組織されていました。民兵の多くは農民です。農作業や狩猟をしながら、召集されると数分(minute)で駆けつけるというので、ミニットマン(minute man)と呼ばれていました。民兵には狩猟をしていた者が多数いたので、狙撃手としても活躍したようです。

毎年7月4日の独立記念日や夏の週末になると、レキシントンとコンコードのあちこちで観光客を相手にしたツアーがあります。地元の高校生がミニットマンに扮して、観光客をガイドします。こうした高校生は、歴史を学びスピーチの仕方を覚え、やってくる人々をもてなす術を学び観光客に披露します。観光客をいかに話に乗せるか、これが勝負所です。まさにエンターテイナー(entertainer)です。その演技の出来ばえはすぐに表れます。

ミニットマンのスピーチや演技に皆引き込まれていきます。ツアーの最後には、「我々に自由と独立を、そして勝利を!」と皆で絶叫し、かぶっていた帽子をとって観光客の中に回すのです。人々は皆ニコニコして1ドルから10ドル札のチップ(tip)を入れて帰ります。チップを渋る観光客はいません。実に秀逸で飽きを感じさせない、なんとも気持ちの良いツアーです。

旅のエピソード その22 「ボストン・ティーパーティ」

ボストン(Boston) は味わい深い町です。アメリカの短い歴史にあって、歴史が始まった場所でもあります。ボストンには「Freedom Trail」という市内の歴史的な建造物や場所を訪ね歩くコースがあります。自分で地図を見ながら歩いて市街を巡るのです。

ダウンタウンのど真ん中には、グラナリー墓地(Granary Burying Ground)があります。政治家のサミュエル・アダムス(Samuel Adams)、コモンウェルスの初代知事となったジョン・ハンコック(John Hancock)らが眠っています。その隣にある公園がボストン・コモン(Boston Common)という広大な公園です。多くの人々が散歩しています。小高い丘、バンカーヒル(Banker Hill) は、1775年6月に起こった植民地軍とイギリス軍の戦跡です。植民地軍は激戦の末に敗れるのですが、そこでの頑強な抵抗精神はその後の戦いに受け継がれていきます。
ボストン・コモンから歩いて10分位のところにボストン・ティーパーティ(Boston Tea Party)が起こったという波止場にきます。1773年12月に、地元の人々がアメリカ・インディアンに扮装して、港に停泊中のイギリス船に侵入し、イギリス東インド会社の船荷であった紅茶箱をボストン湾に投棄した事件です。いわば独立戦争前のゲリラ戦で、アメリカ独立革命の象徴的な出来事とされています。

ティーパーティの場所には小さな船が係留されていて、そこで入場料を払って乗り込みます。案内の人は、観光客に対して当時の人々が紅茶を投げ捨てるという演技を求めます。「イギリスは出て行け!」、「われわれのお茶を盗むな!」、「われらに自由を!」こうしたスローガンを大声で叫びます。そしてお茶箱にみたてた袋を海に投げ捨てるのです。このように観光客に歴史の瞬間に引き戻そうとする趣向と仕掛けは、どの観光地でも見られることです。

旅のエピソード その21 「プリマスとメイフラワー号」

ボストン(Boston) の南東、車で1時間のところにプリマス(Plymouth)という街があります。港町です。ここには1620年にイギリスのブリンハム(Bringham)という港から大西洋を渡ってきたメイフラワーII(Mayflower)号のレプリカ(replica)が停泊しています。

メイフラワー号にある説明によると、清教徒(Puritan)らが長く苦しい航海を続けて、やってきたことがわかります。ヨーロッパでの宗教的な迫害を逃れて新大陸を目指した人々の心意気も伝わる船です。

このプリマスから5キロのところにプリマス・プランテーション(Plymouth Plantation)という開拓村が保存されています。1627年に人々が入植した場所です。インディアンの攻撃から護るために作られた木の柵で囲まれた広大な部落です。住居、ベーカリー、鍛冶屋、店、教会、学校、畑が点在しています。

ここで働く人々は開拓当時の服装といういでたちです。この開拓村はすべて1600年代という設定なのです。使っている道具、家財も当時を復元しています。ですから、観光客もその時代に遡って、そこで働く人々と会話することが期待されます。

「このお土産品は何ドルですか?」と観光客がたずねます。そうすると店員は「ドルって何ですか?」と逆にきくのです。さらに客が「私は日本からきた」とか「このプランテーションをインターネットで知ってやってきました。」というと店員は「日本ってどこにあるのですか?」「インターネットって何ですか?」と惚けるのです。そこで始めて観光客は、「ああそうか、、ここは1600年代なんだ、、」とわかるのです。珍妙な会話が楽しめるところでもあります。

旅のエピソード その20 「フットボールは情報合戦」

秋にアメリカへ行くときは是非カレッジ・フットボール(college football)を観戦していただきたいです。週末はかならずといってよいほど、どこかで試合をやっています。入場料は20ドルくらいです。

スタジアムへ行きますと、駐車場ではグリルでハンバーグやホットドックを焼いて景気をつける人々がいます。学生寮の側を通ると、ラジカセやCDプレーヤーのボリュームを一杯に上げて試合前の雰囲気をあおっています。学業からしばし解放された若い学部生がなにかを叫んでは気勢を上げています。いやがおうでも興奮が高まります。

フットボールは情報合戦のスポーツです。高いスタンドには偵察チームが陣取り、攻撃や守備のコーチに相手チームの弱点や強みを無線で教えるのです。戦争でいえば衛星を使って戦場を監視するようなものです。ラン(run)でいくかパス(pass)でいくか、キック(kick)で陣地を挽回するか、あるいはギャンブルするかなどの決定に必要な情報を与えるのです。

クォーターバック(QB)はチームの司令塔、いわば前線の指揮官です。それを動かすのが偵察チームからの情報であり、それに基づいてQBにプレイを指示するのが攻撃(offece)コーチや守備(defence)コーチです。一つひとつのプレイについて、コーチからの指令を受けたQBは円陣を組んで選手にそれを伝えます。この円陣のことをハドル(huddle)といいます。

選手は勝手な行動は許されません。一つ一つのプレイがこうした偵察チームからの情報によって決められます。戦争遂行の作戦と同じです。プレイのパタンはさまざま。それを組み合わせるのです。相手チームも同じように作戦を立てます。いかにして相手の裏をかくか、意外なプレイをするかをスタンドで予測するのがフットボールの醍醐味といえます。

旅のエピソード その19 「フットボールとビジネスモデル」

アラバマ州(Alabama)の小さな街タスカルーサ(Tuscaloosa)にアラバマ大学(University of Alabama)の本校があります。1831年に創立された州立の総合大学です。タスカルーサのあたりは、南部の南部、Deep Southと呼ばれます。街を歩くと白人はあまり見かけません。なんとなく寂しさが漂う街です。「南部に来た」という気分になります。

アラバマ大学はカレッジ・フットボールでは強豪として知られています。かつてポール・ブライアント(Paul Bryant)というヘッドコーチ(監督)の指揮により、計13度にわたり全米チャンピオンとなっています。このコーチのニックネームは「ポール・ベア(Paul Bear)」として親しまれました。トム・ハンクス(Tom Hanks)主演の映画「フォレスト・ガンプ(Forrest Gump)/一期一会」はアラバマ大学フットボール部がモデルとなっているほどです。

アメリカのカレッジ・スポーツでは、フットボールが稼ぐ収入と貢献度は突出しています。多くの大学では全スポーツからの収入の6割前後をフットボールで占めるくらいです。収入の多いスポーツとしてはバスケットボール、アイスホッケーなどが続きます。それだけにフットボールのヘッドコーチの年収も桁外れです。その額は大学の総長をはるかに凌ぎます。

フットボールチームのコーチで最も高い契約金をもらっているのが、アラバマ大学のニック・セイバン(Nick Saban)で約8億5000万円、第二位はミシガン大学のジム・ハーボー(Jim Harbaugh)で約8億4000万円をもらっています。大学で最もスポーツからの収入が多いのはテキサス大学で約98億円、第五位のウイスコンシン大学も約77億円の収入があります。これが収入のない他のスポーツ活動の運営を支えています。選手達の奨学金にも振り分けられています。

カレッジ・フットボールは全米に放映され、その広告料は膨大なものです。フットボールは大学のビジネスモデルの典型です。「”ポール・ベア”・ブライアント」はビジネスモデルを全米に知らしめた偉大なコーチとして今も語り草になっています。

旅のエピソード その17 「真っ青になった経験とスリ」

私も忘れ物で真っ青になったことが二度あります。大学の同僚とでバージニア州(Virginia) の学校や教育委員会を回り、ある調査を依頼したときです。調査のほうは幸い先方が極めて協力的で、質問紙を丹念に検討してくれて 「これでいいだろう」 ということになりました。

翌日は気分良く電車に乗って、ワシントンDCのモール(Mall)にあるスミソニアン(Smithonian)の博物館巡りにでかけました。スミソニアン協会は17の直営博物館や美術館を運営する世界一の組織です。いくつかを回り終えて、おしまいはアメリカ・インディアン博物館(American Indian Museum)へ入りました。そこの小さな講堂でビデオを観ての帰り、椅子にパスポートやカード、現金、カメラをいれたバックバックを置き忘れました。忘れ物に気がついたのは博物館をでて30分くらいです。その瞬間、目の前が真っ白になりました。急いて戻り、係員にきくと預かっているというのです。

二度目は台北に行ったときです。ホテルの食堂でビュフェスタイルの朝食をとり、手洗いにいきました。パウチをはずしてフックにかけ用をたしたのです。そして部屋に戻りましたが、キーがないのに気づきました。その間5分くらいでしたが、、急いで戻るとトイレにパウチがありません。受付にありました。掃除婦が届けてくれたというのです。その方にお礼を渡そうとしましたが、受け取りません。持ち物は、椅子に置いてはいけない、肌身外さず持て、という教訓でした。

持っていたパウチは、スペインのバルセロナの電車内でスリ(Pickpocket) に遭いそうになりました。腰の辺りで変な感覚がしたので、見ると隣の男の指がパウチのジッパーをはずそうとしていました。ズボンのジッパーでなくてよかったです^_^; 平和や安全ぼけは日本にいる間だけ通用するようです。

旅のエピソード その16 「州の鳥はモスキート」

旅のエピソードにはこのジョークやユーモアを何度も取り上げています。アメリカ人との会話では、ジョークが頻繁にでてきます。

ミネアポリス(Minneapolis) には頻繁に行きました。必ずなにか話題が生まれるところです。実は、私に洗礼を授けてくれたルーテル教会の牧師先生がミネアポリスの郊外に住んでいました。かつて札幌で長く働いていた方で日本語もたいそう流暢です。一度家族でこの方を訪ねました。1980年頃です。夕食でいただいたのは初めてのラザーニア(Lazanya)でした。

道で立ち話をしていると蚊にバンバンくわれるのです。実はミネソタ州には11,000以上の湖があるのです。氷河が残したのです。自動車のナンバープレートには”The Land of 10,000 Lakes”と印字されているくらいです。道路はそのため湖を巻くように走ります。迂回せざるをえないのです。この大小たくさんの湖が蚊を「育てている」のです。

始終手で蚊を追い払わなければなりません。ミネソタ州の鳥は「蚊:モスキート」であるというジョークを教えてもらいました。どこにでもいて、いつでもみられる最も厄介なものというのを皮肉っています。

旅のエピソード その15 「ルートビアと長男の誕生」

私が始めて海外に行ったのは1968年5月。マレーシア(Malaysia)のクアラルンプール(Kuala Lumpur)です。ここでキリスト教の学生会議がありまして、幸い派遣されて出かける機会を得ました。生まれてはじめてパスポートをとり、 東京のマレーシア大使館でビザをもらいました。

宿舎となったのは、クアラルンプール郊外のペタリンジャヤ(Petaling Jaya) という地区にあったセミナーハウスでした。宿舎の郊外にA&Wという、いわゆるファーストフードのレストランがありました。ここで始めてハンバーガーを知りました。飲み物ででたのは「ルートビア」(Root beer)です。これは、アルコールは含まれておらず、約14種類以上のハーブを原料としたドリンクです。正露丸に似たような実に不思議な飲み物だな、と思いました。今飲んでみますと、コーラとクリームソーダを足したような味がします。

3日間の会議は、今もってなにを討議したのかは覚えていません。会議の内容を理解するには英語力が低すぎました。討議に参加するどころではありませんでした。しかし、この会議を機に英語の理解力をつける必要があることを痛感して帰りました。これが唯一のお土産です。

マレーシアからの帰り際に、北海道で地震があったことを報道で知りました。家内が臨月だったのでどうなったかが心配でした。札幌に戻りますと長男が無事生まれていました。忘れられない海外初旅行です。

旅のエピソード その14 「簡易トイレ」

オランダ(The Netherland)はアムステルダム(Amsterdam)での話題です。中央駅を中心に市内に網の目状に運河が広がります。17世紀の豪商の邸宅などが運河に沿って並びます。アンネ・フランク(Anne Frank)の隠れ家が今は博物館となっています。中央駅から徒歩5分にある飾り窓(Red-light zoon)も運河に沿いにあります。

オランダは自転車の国です。アムステルダムの中央駅付近には巨大な駐輪場があります。車道と歩道の間に自転車専用路が設けられています。アムステルダムでは、約50%の市民が自転車で通勤通学するのだそうです。エコを最も先取りしている国の一つといえましょう。

オランダといえば東インド会社 (East India Company) が知られています。創立は1602年。世界初の株式会社といわれています。東インド会社の発展によってオランダ本国は17世紀に黄金時代を迎えます。日本でも長崎において交易を許されていたのはご存じの通りです。しかし、欧米の国々がアジアに次々と進出するにつれてオランダの影響は衰退していきます。17世紀には3回にわたるイギリスとの戦、フランスとの戦いで国力を消耗していきます。第二次大戦中、ジャワ諸島は日本に占領されオランダは撤退します。しかし、オランダは戦後は再びインドネシアに侵攻してインドネシア独立戦争を仕掛けますが、敗れてアジアから完全に手をひくという歴史をたどります。

前置きが大分長くなりました。「簡易トイレ」の話題です。アムステルダムのダウンタウンで夕食をして、広場をブラブラしていました。そこに警察らが簡易トイレを設置していくのです。男性用だけです。四角い形をしていて四人が小用を足すことができるものです。ところが扉はなく、周りから丸見えなのです。これも文化なのだなーと、同行者とで変に感心することしきりでした。

旅のエピソード その13 「自転車と雨」

かつて兵庫教育大学で外国人研究員としてお世話をしていた方の大学を訪ねて、オランダのトエンテ(Twente)という街へ行きました。このときも大学院生が加わっていました。トエンテは首都アムステルダム(Amsterdam)から電車で2時間、ドイツの国境近くにあります。

オランダはネーデルラント(Netherland)とも呼ばれます。「低地地方」という意味だそうです。俗にダッチ(Dutch)とかホランド(Holland)という呼び方もされます。13世紀頃から干拓が始まり、今や海面下にある面積は国土の1/4といわれます。オランダは早くから世界へ進出し、特にアジアとの関わりはジャワ島(Java Island)を中心とするオランダ領東インドネシアの支配や日本との交易などに伺われます。その中心は東インド会社(East India Company)です。江戸の鎖国下で唯一外交関係を結んでいた国です。オランダからもたらされた学問や技術は蘭学と呼ばれました。

アムステルダムといえば、大戦中にフランク一家らがナチスから逃れて、隠れ家で潜行する姿を記録した「アンネの日記」を思い出します。ゴッホ(Van Gogh)やルーベンス(Rubens)などの画家を輩出し、その美術館も素晴らしいものです。

トエンテの街に着いて気がついたのが自転車が多いことです。子どもも結構なお年寄りも自転車に乗っているのです。そして自転車道がどこにもあるのです。かつての研究員とで夕食をすることになりました。レストランはダウンタウンにありました。その日は雨です。ややして、その方の家族がやってきました。二人の小学生の娘も一緒です。雨合羽を着ています。家から自転車でやってきたというのです。

オランダで自転車の人気が高い理由です。国土は平坦でそれほど体力を使わずにすみます。市街地は多くの場合、自転車の利用者と歩行者が自動車よりも優先されるようになっているのも興味あります。人口1人あたりの自転車台数は1台で、移動の際に用いられる交通手段としてのシェアは27%を占めるというのも、利用者への手厚い対策によるものでしょう。雨でも晴れでも安全に自転車に乗ることができる文化があるようです。

旅のエピソード その12 「グアムと食堂の青年」

私はどこへ行っても人に話しかける癖があります。道を聞くとき、安くて美味しい食堂を探すとき、他愛のない会話をしたいとき、英語を使いたくなるとき、なにかの評判が確かかを調べるとき、などです。

グアム(Guam)に始めて行ったとき、レンタカーで島をぐるりとまわりました。ダウンタウンから西へ走ると 太平洋戦争国立歴史公園 (War in the Pacific National Historical Park)という歴史記念公園があります。そこのビジターセンターに立ち寄りました。旧日本軍の潜水艦や魚雷が庭に展示されています。大戦開始前にはアメリカの統治下にあったのを日本軍は1941年から1944年までグアムを占領します。元日本兵横井庄一さんがグアムのジャングルで発見されたのが、氏が戦地グアムに送られてから約28年後の1972年でした。

ビジターセンターの受付で「このあたりで地元の美味しい料理を食べれるところはないか」と聞きました。「あそこの観光地はいい」とか「そこは行ってもつまらない」、といって親切に教えてくれるのです。ここのビジターセンターにはあまりに日本人観光客はやってこないのだそうです。

案内された食堂はど田舎にありました。素朴な格好をした一人のグアムの青年が調理しています。そこに友だちの若者がやってきて、屋外に並べられている食卓を一緒に囲みました。一人目は数ヶ月後にアリゾナで兵役につくこと、二人目はグアム大学(University of Guam) で農業を勉強し始めること、三人目はこの食堂を継ぐというのです。皆それぞれ自分の目標をもっていて好感がもてました。このような会話は田舎でしか出来ません。

旅のエピソード その11 「ボディは部厚く」

アメリカのジョージア州(Georgia) に2か月生活したことがあります。ローターリークラブ(Rotary International) からの奨学生としてそこで英語の研修を受けたときです。マスターズ・ゴルフコース(Masters Golf)のあるオーガスタ(Augusta)の東、車で1時間のところにある小さな街ステイトボロ(Stateboro)です。

1978年の7月と8月。家族との始めてのアメリカ生活です。この街にきて驚いたの、富める人と貧しい人が住み分けしていることでした。車で走ると街のたたずまいや雰囲気がはっきり違うのがわかります。富裕層と貧困層、白人と黒人の対照がはっきりしています。

日本車はほとんど目にしない時代でした。日本の製品は「安かろう、悪かろう」という言葉が流布する頃です。走っていた車のほとんどは大型のセダンです。かつて日本で働いていた宣教師から譲ってもらったGMの車はシボレーシェベル, マリブ(Chevrolet Chevelle Malibu) というのでした。ボディは部厚く、押してもボコボコしないのです。こうした車は当時「タンク」と呼ばれていました。燃費などは話題視されないほどガソリンが安い頃でした。ボンネットを開けると地面が見えるほどエンジン部分がすかすかしているのです。ですから、自分で部品交換などメインテナンスができるのです。「Do It Yourself -DIY」(自分のことは自分でやる)というフレーズを知ったのもこの頃です。

旅のエピソード その10 「座席のダブルブッキング」

たまにあることですが、空港のカウンターでチェックインをしようとするとき、ダブルブッキング(Double Booking)があります。最近このようなことを聞かないのは、予約システムの高性能化によるようです。こうしたトラブルがなくなると、少し淋しい気にもなります。

これまでダブルブッキングを3度経験しました。さもしい性格のせいか忘れられません。最初はバンクーバー(Vancouver)に行くとき、2度目はミネアポリス(Minneapolis)へ、3度目はバンコック(Bangkok)へ行くときです。バンクーバーへは、院生と一緒でした。満席なので、別の会社の4時間後の便に乗ってくれ、というのです。ファーストクラス(First Class)というので喜んで申し出を受けました。しかし、院生は先に行くことになりました。私がいないと困るという院生もいましたが、ホテルで会おうと言って別れました。

ファーストクラスに乗るのは始めてです。離陸前からワインやビールがテーブルに置かれます。実に快適な待遇に感心しました。フライトアテンダントは、長年勤めるベテランです。対応ものんびりして落ち着いた立ち居です。エコノミークラスのフライトアテンダントとは大違いです。「シニョリティ」(Seniority)という年功序列があって、長年勤めた者がファーストクラスを担当するのです。

2度目は、ミネアポリス行きのときです。このときはエギュゼキュティブ(Executive)の座席で、同行の教師と隣り合わせになりました。この教師は機内で美味いものを沢山食べたせいか、ホテルに入ると歯が痛い、歯が痛いというのです。ダブルブッキングではこういうエピソードも生まれるのですから面白いです。

3度目は香港からバンコックへ行くときです。チエックインをするとき、「あなたは2時間の王様です」といって、にっこりしてくれました。ジョークがうまいですね。王様です、という表現に気に入りました。ファーストクラスでは至れり尽くせりのもてなしを受けるという意味です。「旅はダブルブッキングに限る」です。

旅のエピソード その9 「ワインと運転」

北島と南島から成るのがニュージーランド(New Zealand) です。年間の旅行者が240万人以上という観光立国です。友人を訪ねて北島の南端近くにあるパーマストン(Palmerston) という町へ行きました。その友人はインド系の研究者で、兵庫教育大学で客員研究員としてお世話した方です。

休日を利用して車で北島の最南端に位置する首都ウェリントン(Wellington)の観光に出かけました。落ち着いた港町です。観光後、カーフェリーで南島にわたり、クライストチャーチ(Christchurch)にある約140年の歴史を誇るカンタベリー大学(University of Canterbury)を訪れました。2011年の大地震が起こる前です。23人の日本人も亡くなる出来事でした。

クライストチャーチでホエールウオッチング(whale watching) ができるという情報を得ました。1泊がてら鯨が出るという湾のある町に車をとばしました。観光船に乗ると数頭の鯨が湾を回遊しているのが見えます。説明では年中この湾に住み着いているそうで、地元の人は親しみをこめて鯨に名前までつけています。

帰りのドライブは快適でした。ブドウ畑が道の両側に広がります。ワインを飲みたくなる光景です。休憩がてらワイナリーに立ち寄りますと、旅行者らしき一行8名がワインを楽しんでいます。店の人に聞くと看板を指してくれました。それには次のように書いてあります。「運転手はグラス2杯までは飲んでよい」。なんと粋な計らいなのだろうと感心しました。帰り道に車から降りて、満天の星空に浮かぶ南十字星(Southern Cross) に家内とで見とれました。

旅のエピソード その8 「フライトアテンダントに声をかけては、」

どんな職業も楽なものはありません。職業を大まかに分けると主に体を動かすもの、頭を使うもの、その組み合わせのもの、というように分類されるかもしれません。国際線のフライトアテンダント(Flight Attendant)の仕事はどうでしょうか。毎回乗る人は異なりますが、仕事は主に食事の配布と片付けなどが中心です。満員のジャンボジェット内では、大変な重労働だと察します。あまり頭を使わなくてよい仕事かもしれませんが、疲れは相当でしょう。おまけに時差がつきまといます。体調の管理をどうしているのかが気になります。

アメリカでの学会発表に行くときです。機内で英語での発表資料を点検し、原稿を暗記しようとしていました。発表はできるだけ聴衆を見ながら、適度に身振り手振りで発表します。原稿の棒読みはいけません。発表の仕方は、「トーストマスター」(Toast Master)という大勢の人前で話すスキルを高めるクラブで学んだことがあります。何度も冷や汗をかきながら自分の発表の練習をしたものです。

座席で懸命に練習をしていると、女性のフライトアテンダントがやってきたので、「これから学会にいくのだ」と原稿を見せながら声をかけました。学会が開かれる町や学会の特色を説明し、たどたどしく学会発表の概要を話すと「頑張ってね」と声をかけてくれました。ややして彼女は白いフキンに包んだワインのボトルを持ってきて「グッドラック」と激励してくれ、そのワインをくれました。少々びっくりしましたが、なにか良い旅が待っているような心持ちになりました。

機内では、フライトアテンダントも乗客も退屈なので、なにかしら会話をしたいと思っています。機内でもちょっとしたことで、必ず一つや二つの楽しい思い出ができます。会話で避けたいことは、何度も「ビールを持ってきて欲しい」とか「コーヒーをお願いします」と頼まないことです。アテンダントに嫌がれます。なにか欲しい時は、自分でキャビンに行って頼むのです。

旅のエピソード その7 「パスポートは腹まきに」

旅をしていて最も困るのは、物を忘れたり紛失することです。特にパスポート(旅券)やクレジットカードの紛失は深刻です。かつて院生がサンフランシスコ(San Francisco)のホテルのロビーにバックパックを置いたまま手洗いに行き、無くなっていたことがあります。幸い、領事館に駆け込んでパスポートを再発行してもらい帰国できたました。

ニューメキシコ州(New Mexico)のアルバカーキー(Albuquerque) でもパスポート「事件」がありました。アルバカーキー一帯にはプエブロ(Puebro)・インディアンの人々がたくさんいます。その歴史を伝える博物館(Indian Pueblo Cultural Center)に行ったときのことです。博物館を見学をして帰りの車中で、一人の院生が「パスポートがない」というのです。

仕方なく博物館に戻って探すことにしました。受付にいたプエブロ・インディアンの男性に事情を話しましたが、案の定遺失物として届けられていません。パスポートがないと出国も帰国もできないという事情を話ますと、男性が爽やかな笑いを浮かべて 「兄弟よ、心配することはない、ここに永住すればいいんだよ」というのです。これは慰めというか、一種のジョークです。

仕方なく連絡先を告げて別の場所を探すことにしました。結局パスポートは出てきません。ホテルに戻ると院生から 「スーツケースにあった」という報告です。院生はさすがにバツが悪かったのか、「お詫びのしるしに今夜の夕食は皆さんにおごります」と宣言しました。皆、歓声を上げて「また頼むよ、、」と冷やかします。

旅のエピソード その6 「フライトアテンダントのジョーク」

フライトアテンダント(Flight Attendant) には、「スチュワード」(Steward)と「スチュワーデス」(Stewardes)がいます。男性と女性とで使い分ける単語です。今ではこの言葉は航空会社では使わなくなりました。スチュワードというのは、もともとは「仕える人」という意味です。仕える人になるための心掛けや礼儀作法のことをスチュワードシップ(Stewardship)といいます。

ある冬の真っ最中、ワシントンDC(Washington DC)からミネソタ州ミネアポリス(Minneapolis)の便に乗りました。座席で離陸を待っていると、スチュワードが出発の案内を始めます。窓からは地上の係員が翼に不凍液を噴射しているのが見えます。

ミネアポリスはカナダに近く、DCよりももっと寒い町です。「ただいまから当機はハワイのホノルルに向かいます。」乗客は一瞬キョトンとして、一斉に「やった、やった、、」と大騒ぎです。なにせ皆寒いミネアポリスに向かう人ばかりですから、常夏のハワイへは夢のような旅です。

彼はすまし顔で、「残念ながら、機長の判断でミネアポリスに行くことにします。」こんなユーモアは日本ではひんしゅくものでしょうが、アメリカではとても受けるのです。罰せられるどころか、「実に面白いユーモアだ」とニュースになる位です。

こんなこともありました。離陸の際にフライトアテンダントが「ただ今からこの飛行機は、、、、、本便は、、、、、、」行き先を言わないのです。「失礼しました。行き先を忘れました、、、ああ、、当機はボストンへ向かいます。」こんなすべった調子でも誰も非難しません。ユーモアですむのです。

旅のエピソード その5 「Yes, Noとトップ!」

院生との研修視察旅行では半年前から、先方と交渉を始めます。特に学校の訪問が主なので、こちらがなにを調べたいか、どんな人に会いたいか、どんな資料が欲しいか、などを相手に伝えることからスタートします。視察旅行では、ゼミ生以外にも講座の院生に広く呼びかけて参加を募ります。院生のほとんどは教師なので、研修資金にはあまり不自由はしません。しかも、大学院で研究する身分ですから時間はたっぷりあります。

研修旅行に際しては、こうした院生の世話を私は余りしません。ホテルのチェックインや相部屋の決め方、訪問先への道を尋ねることなどは院生にやってもらうことにしています。皆れっきとした大人なのですから、自分でやって貰うのです。英語というハードルはそこにはありますが、、、今回の話題は外国の空港での手荷物カウンターでのやりとりです。

手荷物を預けるとき、空港の係員は、旅行者がなにか不審なものを持ち込まないかを調べます。そこで簡単な質問をします。
 係官 「おかしなものを持っていないか?」
 院生 「はい(Yes)」
 係官 「なにを持っているのか?」
 院生 「いいえ(No)」
 係官 「、、、、、、、」

係官は、怪訝な顔をしてやおらスーツケースを調べ始めました。そしてビニールに入った白い粉のようなものをとり出しました。これは一大事です。Yesと言ってしまったからです。
 係官 「これはなにか?」
 院生 「これはTop,,Top,,」

院生は粉石けんという単語を知らなかったのです。石けんのソープ(soap)ではなく「ディタージェント(detergent)」という単語が正解です。Topとは洗濯石けんの名前です。院生は係官と一緒に別室行きです。それを私たち一行はニヤニヤして見つめます。私もあえて院生に助け船を出すようなことはしません。

やがて院生がスーツケースと一緒に戻ってきました。無事解放されたようでした。しかし、再度の検査で別な係官とまたYes, Noのやり取りをやってしまったのです。係官同士であきれていましたね。「この人騒がせなジャップめ」とでも言いたかったでしょう。あとで、一行は「トップはアカン!」、「トップは持つな!」といって院生らと腹を抱えて笑いました。外国へは粉石けんは必要ありません。ドラッグと間違われます。浴室にある石けんで洗濯すべきでしょう。

旅のエピソード その4 「スピード違反で捕まる」

院生との研修旅行には必ずレンタカーを使います。主たる目的は学校訪問ですが、それが終わると観光、レストランでの夕食などの楽しみが待っています。そして面白いエピソードです。

ニューメキシコ(New Mexico)のアルバカーキー(Albuquerque)へ行ったときです。ここは砂漠のど真ん中にあるような街です。ビルに上がると360度の地平線が見えます。メキシコの香りが建物、土産品、食べ物などに感じられます。郊外にはロッキー山脈(Rocky Mountains)の南端が見え、そこは指折りのスキー場となっています。アルバカーキーの北には、州都のサンタフェ(Santa Fe)、原爆を製造したロスアラモス(Los Alamos)の街があります。河川、渓谷、山岳などの地形は大陸生成の歴史を見るようです。

さて、アルバカーキー市内を日本製のレンタカーで走っていますと、オートバイに乗った警官に呼び止められました。運転していたのは大阪からきた院生です。警官は制限速度を15マイルもオーバーしているとか言うのです。そこは25マイルが制限速度でした。院生は実にたどたどしい英語で応対し始めました。乗っている者は皆、始めてアメリカに来たような気分でしたから、警官とのやり取りに興味津々です。

院生は国際免許を見せながら、「アイアムソーリー、アイアムソーリー、」です。「アメリカで始めて運転した、、、」などなどたどたどしく説明します。そして、「25マイルだから40キロくらいだ、この車は、日本製だからメーターはキロメーターだろうと思った」と説明するのです。警官は、半分あきれたような顔で「この国はマイルだ。気をつけていきなさい」といって無事解放してくれました。観光客にとっては粋な計らいです。

あとで院生に聞くと「警官とのやりとりは演技でなく、真剣にやったんだ」そうです。皆、迫真の演技に感心することしきりでした。

旅のエピソード その3 「入国審査官との会話」

最近の成田国際空港の出入国審査官は、すこしゆとりや笑顔を見せるようになってきたように感じます。始めてやってくる外国人にとって入国審査官とのやり取りによってその国の印象が決まるといっても過言ではありません。入国審査を受ける番になると「ようやくこの国に来たな、、」と、気持ちが高揚します。

毎日何百人もの入国者を相手にする入国審査官は、入国者との生真面目で紋切り型の会話には飽き飽きしているかもしれません。審査官も実は会話をしたいと思っているはずです。私はアメリカへ行くときは、マイレージ(Mileage)を貯めるためにNW航空を使います。今はD航空に吸収されました。このハブ(hub)はミシガン州(Michigan)のデトロイト(Detroit)国際空港です。ここではいろいろな審査官に会いましたが、二つの思い出となるやりとりを紹介します。

私「こんにちは。」
 審査官 「入国の目的は?」
私 「ビジネスです。」
 審査官 「どんなビジネスか?」
私 「学会発表です。」
 審査官 「何の学会か?」
私 「障害児教育です。ハンディキャップです。」
 審査官 「それは大事な勉強だ。」
私 「そのとおりです。その学会でこれからミネアポリスへ行きます。」
 審査官 「ミネアポリスは初めてか。」
私 「ええ、初めてです。ですがミネソタツインズという強いプロ野球チームがあるのを知っています。」
 審査官「野球好きなのか?」
私 「大好きです。ヤンキースも好きです。イチローはシアトルで活躍しています。」
私 「デトロイトに野球チームはありますか?」
 審査官 「タイガースというのがあるよ。まあ、弱いけど。」
私 「それじゃイチローやマツイを引き抜いてはどうでしょうか。」
 審査官 「それはいい考えだ。(ここでニヤリとする)」
 審査官 「ではいい旅を。」
私 「ありがとう。」

実に他愛のない会話です。同じくデトロイト国際空港で、別な機会に家内と審査官とで交わした会話を隣で聞いていたときです。
入国審査官 「アメリカになんで来たのか?」
家内 「観光です。」
 審査官 「ニューヨークへ行くのか?」
家内 「いいえ違います。」
 審査官「フロリダのディズニーワールドか?」
家内 「いいえ、そこにも行きません。」
 審査官 「では一体どこへ?」
家内 「リンカーンです。」
(審査官は怪訝な表情)
 審査官 「リンカーンはどこにあるのか?」
家内 「ネブラスカです。」
 審査官 「ネブラスカでなにを観光するのか?」
家内 「とうもろこし畑です。」
 審査官 「あんたのような日本人は初めてだ。」
家内 「ネブラスカへ行ったことがありますか?」
 審査官 「あそこはアメリカではない。」
妻「、、、、」

こんなジョークをいう入国審査官もいるという実際の小話でした。

旅のエピソード その2 「コンバーチブルに乗るときは雨傘を」

旅は人びととの出会いです。景色はどうだった、食べ物はどうだったというのはあまり大事ではありません。人との出会いは一期一会なのです。二度と会えないこと、経験できないことがあるのです。まさに「旅は道連れ、世は情け」です。このシリーズでは旅にまつわる失敗事、笑い事、珍事などを紹介してまいります。

旅の思い出は、やはりその国、その場所でないと起こりませんね。例えば「温泉地でカラオケをやっている人びと」というのであれば、台湾の北投(べいとう)温泉となります。アメリカでは公園でのカラオケはありえません。

私は毎年必ず研修と称してアメリカやカナダの学校へ視察に行きました。いつも院生を連れていきます。院生の大半は、教育委員会から派遣されてくる教師です。2年間大学で研究してまた元の学校に戻るのです。中には夫婦でやってくる者がいれば、家族を残して単身でやってくる者もいます。

ハワイに大学院生と一緒にいったときです。一行は8名。私の仕事は、現地の教育委員会や学校と交渉して訪問を段取りすることです。院生は航空券の手配、ホテルやレンタカーの予約、夕食の場所探しなどを担当します。8名で出かけるにはどうしてもレンタカーは2台必要です。院生は2台の車を予約したのですが、なぜか1台はコンバーチブル(convertible)となりました。たたみ込みのルーフ付き乗用車です。

学校を周りホテルに帰る途中、夕立が降り始めました。わたしは通常のセダンを運転しながら、ミラーでコンバーチブルがついてくるのを確認していました。コンバーチブルの中では、院生が屋根を広げようとあたふたしています。車を借りるとき、屋根の広げ方を確認しなかったようです。びしょびしょになりながら、ようやく屋根を広げることができましたが、雨足は弱くなっていました。

The beautiful coastline of Honolulu Hawaii shot from an altitude of about 1000 feet during a helicopter photo flight over the Pacific Ocean with Diamond Head in the foreground.

旅のエピソード その1 「小さな首都タリン」

私もこれまでいろいろな旅をしてきました。人生は旅ともいわれます。そこでのエピソードを紹介することにします。最初は、エストニア(Republic of Estonia)の首都タリン(Tallinn)です。元大関力士、把瑠都の出身地です。

フィンランド(Finland)の首都ヘルシンキ(Helsinki)からフェリーに乗ってバルト海(Baltic Sea)を3時間で、バルト三国(Baltic States)の一つエストニアの首都タリンに着きます。エストニアは1940年ソ連に占領され、1941年から1944年まではナチス・ドイツに占領されます。第二次大戦中、そして戦後はソ連により支配されます。ようやく1991年に独立回復をかちとり、2004年に欧州連合(EU)に加盟します。大国に翻弄された歴史を有します。他にバルト三国のラトビア(Latvia)、リトアニア(Lithuania)も同じ運命にあってきました。

タリンの旧市街は城壁で囲まれています。世界文化遺産に指定されたタリン歴史地区です。その中に広場があります。古い教会が建ち並び、タウンホール(Townhall)といういわば役場が広場の一角にあります。タウンホールでは、かって集会が開かれていたという説明書きがあります。街中には、商工組合の原点とされるギルトのあった建物があり、政治とは切り離された独自の商行為をしていたことがうかがわれます。その建物は今は歴史博物館となっています。

広場の朝は市場で賑わいます。物と物、人と人が出会います。昔はここで市民集会が開かれ、裁判が行われ、処刑も行われ、そして死者を弔う礼拝も行われました。いわば俗なるものと聖なるものが交わるところでありました。タリンのあちこちに銃弾の跡が残る建物があります。教会の尖塔がそびえ、街はすっかり復興し広場は活気に溢れています。

ガイドに案内されてこうした説明をきいていると、中世に勃興した自治都市というものが、広場を起点として発展したことがわかります。広場の果たした役割とその重要性がすり減った古い石畳に刻まれているようです。小さな国を歩くのも旅の楽しみです。

クリスマス・アドベント その19 “Miserere”

旧約聖書も詩篇(Psalm)第51篇をもとに作曲された合唱曲 “我を憐れみたまえ”(Miserere)を紹介します。作曲したのは、イタリアの聖職者で作曲家のグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)です。アレグリは、誓願を立ててアドリア海(Adriatic Sea)に面するマルケ州(Marche)のフェルモ(Fermo)大聖堂より聖職禄に加わります。この地で数多くのモテット(Motets)やその他の宗教曲を作曲して、ローマ教皇ウルバヌス8世(Urban VIII)の注目を得るようになります。

やがてローマのヴァチカン宮殿(Palace of the Vatican) にあるシスティナ礼拝堂 (Cappella Sistina)聖歌隊にてコントラルト(contralto)歌手の地位を得ます。コントラルトとは、ソプラノの下でテノールの上の音域を歌える男性歌手のことです。似たような歌手にカウンターテナー(countertenor) がいます。これは女声に相当する高音域を歌う男性歌手のことです。
“Miserere”を紹介します。合唱の構成としては、一方は4声部、他方は5声部からなる二重合唱曲となっています。礼拝堂において、合唱団の片方が主旋律である〈ミゼレーレ〉の原曲を歌うと、少し離れて位置するもう一方の団員が、それに合わせて装飾音型で聖句の「解釈」部分を歌います。ルネサンス音楽の特徴である複数の独立した声部(パート)からなる音楽のポリフォニー様式 (polyphony) の典型的な作品です。ポリフォニー様式ではありますが、全声部が模倣を行う通模倣様式ではなく、和声的様式(ファミリアーレ様式)をとっています。このあたりの説明は難しいので、曲をお聴きになると理解できます。

“Miserere”はシスティナ礼拝堂にて、復活節の水曜日から金曜日にかけて行われる早朝礼拝(matin)の中の特別な礼拝「暗闇の朝課」に際して用いられたといわれます。「暗闇の朝課」の儀式は通常午前3時ころから始まり、ロウソクの灯りを1本ずつ消してゆき、最後の1本が消されるまで続きます。この曲は、霊的な特性を維持するという目的でシスティナ礼拝堂聖歌隊の他に楽譜を伝えることが禁じられます。前述の特別な礼拝でのみ演奏されることを許され、いわば門外不出の秘曲となります。

このように“Miserere”は、イースター(Easter)前の金曜日にシスティナ礼拝堂での典礼に参加して、そこでしか聴くことができない音楽となっていました。もっとも有名なエピソードは、1770年に父親に連れられた14歳のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)がローマを訪れたとき、この曲を2度聴き、そのときの記憶を基に忠実に楽譜化したことです。その楽譜を当時の教皇に献呈した、ということが言い伝えられています。

クリスマス・アドベント その18 The Twelve Days of Christmas

この曲のタイトルにある12日間とは、クリスマスの12月25日から1月6日までの降誕節のことです。1月6日は顕現祭(Epiphany)と呼ばれ、イエス・キリストが神性を人々の前で表したことを記念するキリスト教の祭日を指します。ルーテル教会でも、伝統的にこの日が祝われています。バッハ(Johann Sebastian Bach)のクリスマス・オラトリオ(Christmas Oratorio)の第6部が、この日の讃美の音楽となっています。ところでオラトリオとは、独唱・合唱・管弦楽から構成される大規模な楽曲を指します。オペラとは異なり、歌手が舞台で演技をすることはありません。

“The Twelve Days of Christmas” は、ヨーロッパに16世紀頃から伝わるクリスマス・キャロルの一つです。1780年にイングランドで作られた詩が基となり、やがて1909年に民謡であった旋律にイギリスの作曲家フレデリック・オースチン(Frederic Austin) が編曲します。曲の特徴としては、12番までの歌詞のついた一種の童謡歌であることです。一定の旋律をもった2行以上からなる詩の単位(stanza)が歌い上げられ、それと共に1番ごとに積み上げられる歌詞(cumulative song)となって曲が長くなります。

Cumulative songsはグループで歌うときが多いようです。韻律によってStanzaは決まっており、歌詞も覚えやすいので子どもたちが好んで歌うことができます。 英語の歌詞は韻を踏んでいることが分かります。鳥の名前がでてくるのは、愛と平和を象徴するキジバトに示されています。キジバトのつがいは仲がよいので夫婦の愛の模範とされています。

12番のうちの1番、2番、3番だけの歌詞 (Lyrics) を紹介しておきます。歌詞の最後の部分は、贈り物として捧げる品が増えていくことがわかります。歌詞でいう12日の最初の日は12月25日です。そして1月5日の夜をもって待降節–アドベント・クリスマスは終わりとなります。

 On the first day of Christmas, my true love sent to me
 A partridge in a pear tree.
   On the second day of Christmas, my true love sent to me
  Two turtle doves and a partridge in a pear tree.
    On the third day of Christmas, my true love sent to me
   Three french hens, two turtle doves and a partridge in a pear tree.

クリスマス・アドベント その19 ”Ave Verum Corpus”

”Ave Verum Corpus”は、アヴェ・ベルム・コルプスという題名がつきます。この曲はカトリック教会で用いられる聖体賛美歌といわれます。Ave Verum Corpusはラテン語ですが、”Ave”はおめでとう、 ”Verum”とは誠の、”Corpus”は御身 といういう意味です。

この曲は、モーツアルト(Wolfgangus Amadeus Mozart)から オーストリアの都市バーデン(Baden)教区教会のオルガニストで聖歌隊指揮者であったマートン・シュトル(Marton Schutol)への贈り物といわれます。シュトルはモーツアルトの崇拝者で、彼の曲を聖歌隊ではしばしば歌っていたといわれます。

”Ave Verum Corpus”はモテット(Mottets)といわれる楽曲で、中世からルネッサンス(Renaissance)にかけて成立したミサ曲以外の世俗的なポリフォニー(polyphony)といわれる多声部の宗教曲です。モテットとカンタータ(Cantata)の違いですが、モテットは短い曲で器楽が独奏する部分がなく、絶えず伴奏として演奏されます。他方カンタータは主題にそって長い演奏が続き、独立した器楽の声部が合唱や朗唱に混じって随所に登場します。

”Ave Verum Corpus”ですが、最初は短い前奏で始まり、合唱はニ長調で、途中でへ長調、そしてニ短調へと変わり、最後はニ長調へと転調されます。たった四行のラテン語の歌詞、しかも46小節という短い曲ではありますが、柔らかい旋律と絶妙な転調によって、信仰が純化されるような味わいの響きを持ちます。モーツァルト晩年の傑作の一つといわれます。

めでたし、乙女マリアより生まれ給いしまことのお体よ。
 人々のため犠牲となりて十字架上でまことの苦しみを受け、
  貫かれたその脇腹から血と水を流し給いし方よ。
   我らの臨終の試練をあらかじめ知らせ給え。
    優しきイエスよ。
     慈悲深きイエスよ。
       アーメン

クリスマス・アドベント その16 グレゴリオ聖歌

グレゴリオ聖歌(Gregorian Chants)は、主に9世紀から10世紀にかけて、西ヨーロッパから東ヨーロッパで発展し、受け継がれてきた宗教音楽です。ローマ教皇グレゴリウス1世(Gregorius I)が509年から604年の教皇時代に編さんしたことからグレゴリオ聖歌といわれています。もともと西方教会(Western Orthodox Church)における単旋律聖歌(plain chants)を軸とする無伴奏の宗教音楽です。聖歌は伝統的には男声に限られ、元来はミサや聖書日課の祈りにおいては、僧侶など聖職者によって歌われていました。

歴史的には修道会では修道僧や修道女によってグレゴリオ聖歌は唱えられてきました。ローマカトリック教会(Roman Catholic Church)の公式な聖歌として、典礼(litergy)に基づくミサや会堂(カテドラル)の中で録画されたグレゴリオ聖歌がよく知られています。グレゴリオ聖歌は斉唱(Unison)で歌われましたが、やがてそれに歌詞や音を追加したり即興的にオクターブである8度音程、5度、4度、3度の和声を重ねる技法が使われるようになりました。メロディの中心は朗誦音(リサイティング・トーン: Reciting tone)と呼ばれます。

グレゴリオ聖歌の音階は、「ラシドレミファソラ」、「レミファソラシドレ」とか「ミファソラシドレミ」という具合になっています。レを主音(終止音)、ラを属音、ドを導音として旋律が作られ、とても不思議な感じのメロディーとなります。これらがグレゴリオ聖歌の音階となります。こうしてできた7つの音階はそれぞれ少しずつ雰囲気が違って聞こえるはずです。グレゴリオ聖歌はユニゾンで歌われ、リズムがなく、終止感があまりないといった特徴もあります。それは、いたずらに歌が甘美になることが許されなかったからだといわれます。

通常、ミサでは次の6つの聖歌が歌われます。キリエ(Kyrie)、グロリア(Gloria)、クレド(Credo)、サンクトゥス(Sanctus)、ベネディクトゥス(Benedictus)、およびアニュス・デイ(Agnus Dei)で、どのミサでも同じ歌詞が使用されます。

キリエ(憐れみの賛歌)は「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)の三唱、「クリステ・エレイソン」(キリストよ、憐れみたまえ)の三唱、再度「キリエ・エレイソン」の三唱からなります。グロリア(栄光の賛歌)は大栄頌を唱えます。クレド(信条告白)はニケア信条(Nicene Creed)を唱えます。これらの典礼文は長いので、聖歌では歌詞の切れ目に対応した構造となっています。サンクトゥス(聖なるかな)とアニュス・デイ(神の子羊)は、キリエと同様、典礼文に繰り返しが多く、音楽的にも繰り返し構造をとるものとなっています。

クリスマス・アドベント その15 ”O come, O come, Emmanuel”

紀元前586年頃、古代イスラエル(Israel)の民にバビロン捕囚(Babylonian Captivity)がやってきます。首都エルサレム(Jerusalem)が、新バビロニア(Babylonian)の王となったネブカドネザル(Nebuchadnezzar)によって占領されたためです。バビロンはメソポタミア(Mesopotamia)地方の古代都市でありました。やがて故国に帰れるというユダヤ人の希望はそれゆえに幻となり、50年に渡ってバビロニアに居住する苦しみを強いられます。そうして「救い主(メサイア)Messiah」待望の信仰が生まれます。

旧約聖書のイザヤ書第7章14節には次のような預言があります。
 ”見よ、おとめがみごもって男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ。”
Behold, the virgin shall conceive and bear a son, and shall call his name Immanuel.「 Immanuel」とは「主がともにいる」という意味です。”bear a son” は”give birth to a son”と同じく生まれるという意味です。

この讃美歌は、「久しく待ちにし、主よとく来たりて」として訳されています。元々8世紀のラテン語グレゴリオ聖歌(Gregorian chant)です。曲は7つの詩から成っています。夕礼拝や祈り会のときに交互に歌うしきたりだったようです。その後13世紀になると5つの詩が加えられます。1851年に讃美歌の作詞者であるジョン・ニール(John M. Neale)がラテン語歌詞を英訳、それが日本に入ってきます。

この曲は捕囚の中に光を求める讃美歌であり、救い主を待ち望む歌でもあります。このように原曲が中世のグレゴリオ聖歌であるためか、旋律も和声も静かで厳かな雰囲気を醸し出しています。単旋律でも、編曲されて合唱としても歌われています。

O come, O come, Emmanuel
And ransom captive Israel
That mourns in lonely exile here
Until the Son of God appear
Rejoice! Rejoice! Emmanuel
Shall come to thee, O Israel.

アドベント・クリスマス その14 ”Lo, How a Rose E’er Blooming”

日本語題名は「エッサイの根より」と付けられている賛美歌です。古くからカトリック教会で歌われてきました。詩も曲も15世紀頃からドイツのライン(Rhine)地方に伝わるキャロル(Carol)がもとになっています。もともとは、23節から成るマリアの賛歌で、降臨節の期間に歌われます。

古代イスラエル王国第2代王ダビデ(David)の父がエッサイ(Jesse)といわれます。その出典箇所は旧約聖書(Old Testament)の中の有名な預言書イザヤ書です。その11章1節には、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」とあります。ユダ族のダビデの子孫からキリストが生まれることを示唆しているのです。そのことはマタイによる福音書(Gospel of Matthew)の冒頭に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と記述されています。キリストの系図がダビデを通じエッサイに由来することを語るのです。

時代は下り19世紀以降、この曲はプロテスタントの讃美歌に収録されるようになります。2番目の歌詞ではマリヤから幼児イエスが生まれることに置き換えられています。こうしてドイツから英米にも伝わり世界的なアドベントの歌になります。

歌詞の冒頭にある”Lo”は古英語で 「見よ」 といった驚きを表す単語である。”Behold”という単語にあたります。歌詞を翻訳すると「ご覧ください、薔薇はいつも咲いていますよ」となります。
———————————————-
 エッサイの根より 生いいでたる、
  預言によりて 伝えられし
   薔薇は咲きぬ。
  静かに寒き 冬の夜に。

Lo, how a Rose e’er blooming from tender stem hath sprung!
 Of Jesse’s lineage coming, as men of old have sung.
  It came, a floweret bright, amid the cold of winter,
 When half spent was the night.

Isaiah ‘twas foretold it, the Rose I have in mind;
 Mary we behold it, the Virgin Mother kind.
  To show God’s love aright, she bore to us a Savior,
 When half spent was the night.