ナンバープレートから見えるアメリカの州アラバマ州・The Heart of Dixie

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アラバマ州(Alabama) は「南部の中心」(The Heart of Dixie)と呼ばれています。ナンバープレートにもこのフレーズが記されています。「God Bless America」というのもあります。Dixieとは南部の意味です。地理的にアラバマ州はその中心ということであり、また誇るべき文化を有することを表すフレーズです。デキシーランド・ジャズ(Dixieland Jazz)もそうです。デキシーランドとはアメリカ南部の諸州を指します。

Map of Alabama

アラバマ州は合衆国の南部に位置する州です。西はミシシッピ州、北はテネシー州(Tennessee)、東はジョージア州(Georgia)と接し、南はフロリダ州と境をなしています。州都はモンゴメリー(Montgomery)。他にバーミングハム(Birmingham)や、宇宙ロケットセンターで知られるハンツビル(Huntsville)といった都市もあります。

God Bless America

アラバマ州の原住民にはチェロキー族(Cherokee)、チカソー族(Chickasaw)、チョクトー族(Choctaw)、クリーク族(Creek)が含まれています。エルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto)はこの地を旅し、フランス人は1702年にフォート・ルイ(Fort Louis)に入植地を築きます。1817年にアラバマ準州が誕生し、1819年に合衆国の州として承認されます。しかし、アラバマ州は1861年に連邦から離脱し南部連合(Confederacy)の一部となりますが、1868年に再統合されます。

州の東側はアパラチア高原(Appalachian Plateau)となっていて、鉱物資源が豊富です。ですが主要な産業は農業といえます。生産品は家禽及び卵、牛、植物苗床品目、落花生、綿、トウモロコシ及びモロコシ等の穀物、野菜、大豆、桃となっています。かつては 「綿花の州」(The Cotton State)とういニックネームがこの州についていたほどです。20世紀初頭まで綿花に依存していたアラバマ州は、その後農業生産を多様化します。

アラバマ州の歴史で忘れてはならないのが、公民権運動の展開です。黒人差別が厳しい州であったからです。アラバマ州は合衆国に再統合されても黒人を行政に参加させるための努力は失敗に終わり、1960年代まで隔離主義を貫きます。「ジム・クロウ法」(Jim Crow)という人種分離法がつくられていて、交通機関、駅、トイレ、映画館、学校や図書館などの公共機関、ホテル、レストラン、バーなどで白人と有色人種(the colored)を分離することが正当化されていました。

アラバマ物語

1955年州都モンゴメリーで起こったローザ・パークス(Rosa Parks)逮捕事件が公民権運動の口火を切ったとされます。彼女は当時、白人専用のバスに乗り込んで逮捕されます。これをきっかけに、キング牧師(Martin Luther King)らがモントゴメリー市民に対するバス・ボイコットの運動へ広がります。運動は全米に反響を及ぼし、1956年には合衆国最高裁判所が「バス車内における人種分離(白人専用及び優先座席)を違憲とする判決を出します。そしてようやく、1964年7月に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、長年続いてきた人種差別は法の上で終わりを告げます。

1962年にアラバマ州知事に就任したジョージ・ウォレス(George Wallace)のことです。このときウォレスが掲げたスローガンは「今ここで人種隔離を!明日も人種隔離を!永遠に人種隔離を!」(I say segregation now, segregation tomorrow, segregation forever)という人種差別主義的なものでした。1963年には2人の黒人学生のアラバマ大学(University of Alabama)への入学を阻止するために、自ら大学の門の前に立ちはだかります。これに対してジョン・F・ケネディ大統領(John F. Kennedy)は黒人学生を保護するために州兵を派遣する事態となります。

大統領命令を阻止するウォレス知事

人種的不公正という深刻な社会問題を扱った演劇作品、「アラバマ物語」(原題:To Kill a Mockingbird)がブロードウェイで大ヒットしました。人種差別が根強く残る1930年代のアラバマ州南部の町モンロービル(Monroeville)で、白人女性への性的暴行容疑で逮捕された黒人青年の事件を担当する弁護士アティカス・フィンチ(Atticus Finch)の物語です。女性作家ハーパー・リー(Harper Lee)による1960年出版の小説を原作とした作品です。1961年にはフィクション部門でピューリッツァー賞(Pulitzer Prize)を受賞します。
(投稿日時 2024年2月7日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州アラスカ州・The Last Frontier

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アメリカ本土やカナダから大勢の観光客が訪れるのがアラスカ州(Alaska)です。西南のアラスカへクルージングでやってくるのです。300万以上の湖が点在し、動物も植物も手つかずの大自然のままです。ナンバープレートには「The Last Frontier」(最後の秘境)とあります。「North to the Future」というフレーズのもあります。かつては「The Great Land」とも呼ばれたようです。灰色熊のグリズリー(grizzly bear)が描かれていて、私には喉から手が出そうな一枚です。まだ持っていないのです。

アラスカはシーフード(sea food)の宝庫といわれます。大陸の森林からの栄養分はアラスカ周辺の海を汚染のない豊かな漁場に育てました。大量に発生した植物性プランクトンとそれを食べる動物性プランクトンは、小さな魚と甲殻類の餌となります。さらにそれらが大きな魚や海洋哺乳類、海鳥の餌になるように、アラスカの海では豊かな生態系が長年にわたり培われてきました。2017年の統計によれば、アメリカ全土で水揚げされる水産物の65%をアラスカから、特にサーモンに至っては実に98%がアラスカから生産供給されています。日本が輸入しているシーフードのうち、65%はアラスカ産といわれます。アラスカは、SDGsが採択されるずっと前から、 目標14「海の豊かさを守ろう」を採択しています。アラスカはサステイナブル(sustainable)な漁業を行っているのです。

アラスカという名前は、ウナンガクス語(アリュート語)(Unangax -Aleut)の「alaxsxa」または「aalaxsxix」に由来するといわれます。アラスカは広大な面積を持ち、その物理的な特徴も実に多様といわれます。アンカレッジ(Anchorage)北部のアラスカ山脈には、北米大陸最高峰の標高6190メートルのデナリ山(マッキンリー山)(Denali) (Mount McKinley)がそびえています。州のほぼ3分の1が北極圏内にあり、アラスカの約5分の4は永久凍土で覆われています。樹木のない広大な北極圏の平原のツンドラ(Tundra)は州面積の約半分を占めます。しかも、グリーンランド(Greenland)と南極大陸を除けば世界最大の氷河が広がっています。

Map of Alaska

アラスカ州の南側は、地球上で最も活発な地震帯のひとつである環太平洋地震帯となっています。アラスカには130以上の活火山があり、そのほとんどはアリューシャン列島(Aleutian Islands)と隣接するアラスカ半島にあるといわれます。1964年3月27日にアラスカ中南部で発生したのがアラスカ地震(Alaska earthquake)で、その規模はマグニチュード9.2といわれます。1906年のサンフランシスコ地震の少なくとも2倍のエネルギーが放出されたと記録されています。人口が過疎のため犠牲者は131人といわれます。コディアック島(Kodiak Island)からプリンス・ウィリアム湾(Prince William Sound)にかけて、局地的に25メートルの高さまで地塊が突き上げられた大規模な地震だったといわれます。

アラスカは面積においてアメリカ最大の州です。それに引きかえ、最も人口過少の州です。州都はジュノー(Juneau)。1906年までは、シトカ(Sitka)が州都でした。 最大の都市はアンカレッジです。かつてアンカレッジは日本からヨーロッパやアメリカに飛ぶときは最短距離の航路にあたりました。航空機の性能で給油のために立ち寄った懐かしいところです。給油の間、ターミナルで待つのは過去の話となりました。最近では2008年の大統領選挙で共和党の副大統領候補に州知事だったMs Sara Palinが指名されました。

Alaska bears

ロシアの軍艦、聖ピーター号(St. Peter)に乗ったビタス・ペーリング(Vitus Bering)が1741年7月15日、現在のシトカあたりの陸地を発見したといわれます。その後アメリカは1867年にロシアから720万ドルで購入した歴史があります。当時の国務長官スワード(William H. Seward)はロシアからの買い取りを提案したのです。当時は「巨大な冷蔵庫を買った」とか「スワードの愚行(Seward’s Folly)」と蔑称されるなどと非難されたとか。今で言えばアメリカはロシアから安い買いものをしたものです。領土は決して売ったりするものではないのです。地下資源、森林、漁業資源などが豊かなところです。それにもましてアメリカにとっては国防、軍事上の重要な位置にあるのがアラスカです。そのためか、大地の65%が連邦政府の管理にあります。ほとんどが不毛の地ですから、埋蔵量が豊富な原油の採掘地帯以外は誰も所有しないのです。1968年に油田が発見され、1977年トランス・アラスカ・パイプライン(Trans Alaska Pipeline)が完成すると原油生産による収入で人口が増加に転じ、インフラ整備が進みます。

人口比率として白人が70%。その大半はアイルランド(Ireland)、ノルウェー(Norway)からの移民とされています。以外と少ないのがネイティブ・アメリカンやアラスカ・ネイティブ(通称イヌイット-Inuit)で15.6%を占めています。原油の採掘については、今もアラスカ・ネイティブの間で開発容認派と反対派の賛否両論で部族村落が対立しているといわれています。
(投稿日時 2024年2月6日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州アーカンソー州・The Natural State

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アーカンソー州(Arkansas)のナンバープレートには「Natural State」「自然の州」とあります。州の公式のニックネームは1970年代に観光宣伝用に作られ、今日でも使われています。全米随一の温泉都市であるホットスプリングス(Hot Springs)が知られ、一帯はホットスプリングス国立公園(Hot Spring National Park)となっています。

アーカンソー州は南にルイジアナ州(Louisiana)やテキサス州(Texas)と接し、西はオクラホマ州(Oklahoma)、北はミズーリ州やテネシー州(Tennessee)と隣り合っています。州の地勢ですが、大きく二つに分けられて、山脈や渓谷地帯とミシシッピ川沿いの大平原から成ります。アーカンソー州の地形は多様性に富んでいます。北部と西部のオザーク(Ozark)山脈とワチタ(Ouachita)山脈は、東部の豊かで平坦な河川が流れる農地とは対照的です。州のほぼすべての川は北西から南東に流れ、アーカンソー川とレッド川(Red)を経て、東部の主要な境界を形成するミシシッピ川(Mississippi River)に注いでいます。

その結果、他州からの移民はほとんどなく、州の人口は基本的に均質でした。しかし、2種類の農業経済と関連して、2つの異なる地域文化が生まれたといわれます。物理的に孤立したオザークとワチタの山岳地帯の文化は、主に自給自足農業と小規模な木材製品産業に基づいていました。それとは対照的に、東部と南部の平坦なミシシッピ氾濫原の低地文化は、綿花プランテーションと大規模な小作農による典型的な南部農業システムの基盤となりました。

Map of Arkansas

アーカンソーという名前は、初期のフランス人探検家たちが、この地域の有力な先住民族であるクアポー族(Quapaw)と、彼らが定住した川沿いを指して使ったものといわれます。この呼称は、クアポー族に地元のもう1つの先住民コミュニティであるイリノイ族が当てた言葉であるアカンシー(akansea)が転訛したものと考えられています。州都リトルロック(Little Rock)は州の中央部に位置します。

私は高校一年のときに、リトルロックの高校でおきたアフリカ系アメリカ人生徒の排斥運動を知りました。合衆国最高裁が人種統合を行うよう命令を出したことで、ときの大統領アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)は州兵を派遣して、生徒を護衛し高校に入れるという出来事です。それに抗議して州知事とリトルロック市は、その学校年の残り期間、高校を閉鎖することを決めます。ですが1959年秋までにリトルロック市の高校は完全に人種差別を撤廃します。

The President, First Lady, and Chelsea on parade down on Pennsylvania Avenue.

1992年の大統領選挙戦では、アーカンソー州出身のビル・クリントン(Bill Clinton)は民主党予備選挙に勝利し、前回の選挙に出馬したアル・ゴア(Albert Gore)を副大統領候補に選びます。そしてジョージブッシュ(George Bush)に勝利しこの州出身者として初めて民主党からの大統領に選出されます。

アーカンソーの渓谷

アメリカの南部に位置しているのですが、意外と白人人口が多いのが特徴です。たとえば1905から1912頃にはヨーロッパからの移民が多数やってきます。ドイツ人やスロバキア人(Slovak)は平原に, 、アイリッシュ(Irish)もコミュニティを形成していきます。ドイツからの移民の多くはルーテル教会の信徒といわれます。

ヒストリック・ワシントン州立公園(Historic Washington State Park)では、開拓者の暮らしを学べます。ミュージアム・オブ・ネイティブ・アメリカン・ヒストリー(Museum of Native American History)には、アーカンソー州の先住民が残した陶磁器や道具が展示され子ども達の社会見学と学習の場となっています。産業ですが、主要なものは農業、制材、皮革、観光が盛んです。特に米作は全米一の生産を誇ります。近年は自動車部品やアルミニウムの原料となるボーキサイト(bauxite)の産でも知られています。
(投稿日時 2024年2月5日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州アイオワ州・American Heartland

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アイオワ州(Iowa)のナンバープレートには、穀物を保存するサイロや納屋が背景に印刷されています。トウモロコシと小麦の生産で有名なアイオワが今回の話題です。北はミネソタ州(Minnesota)、東はウィスコンシン州(Wisconsin)及びイリノイ州(Illinois)、南はミズーリ州(Missouri)、そして西はネブラスカ州(Nebraska)及びサウスダコタ州(South Dakota)に囲まれています。州都で最大の都市はデモイン(Des Moines)です。

アイオワ州のナンバープレート

2024年の合衆国大統領選挙を控え、各地で党員集会(Caucus)が開かれます。アイオワ州は、共和党が党員集会を最初に開くことで注目される州でます。2024年1月15日に党員集会が開かれトランプが圧勝しています。この集会とは、政党の大統領候補を決定するための地区レベルによる党員の会議のことです。アイオワ州はなんとなく地味な印象を受けがちですが、政治的には伝統的に民主党と共和党が競うところです。

アイオワには、東がミシシッピ川(Mississippi River)、そして西はミズーリ川(Missouri River)が流れています。豊かな農産物などがこの川を使って運ばれています。アイオワは結構なだらかな丘陵が折り重なって農作物の生産に適しています。

Corn fields

アイオワはヨーロッパからの多くの民族を惹き付けたようです。1800年代にスウェーデン人、ノルウェー人、デンマーク人、オランダ人、およびブリテン諸島(Britain Islands) からの多くの移住者がやってきて農業に携わります。ドイツ人は最大の集団であり、あらゆる郡に入植していきます。特にミシシッピ川沿いが多く大多数は農夫になりましたが、また職人や商店主になった者も多かったようです。さらにある者は新聞を編集し、教師となり、銀行を経営したりして発展します。

アメリカの中西部(Midwest)は「コーンベルト」(Corn Belt)と呼ばれトウモロコシの一大生産地です。アイオワはその中で生産量が全米でトップを誇ります。車でどこまで走っても穀倉地帯が広がります。大豆、豚の生産量も全米第一位となっています。従って、穀物市場の金融や流通、そしてバイオテクノロジー研究開発などでも盛んな州です。

Map of Iowa

アイオワのあたりは、「アメリカの心臓部」(American Heartland)とも呼ばれて、恐らく世界一の穀倉地帯であります。アメリカは工業国ではありますが、なんといっても主役は農業です。トウモロコシと小麦の生産高からは、アメリカは農業国と呼ぶにふさわしいといえます。Heartlandとは「とても大切な地」という意味にもとれます。後に触れますが、カンザス州のプレートにも同じフレーズがあります。

アメリカの小学校では、アメリカの探検と開拓の歴史を学びます。そこに登場するのは、フランスからきたジャック・マークエット(Jacques Marquette)とルイス・ジョリエ(Louis Jolliet) という探検家です。この二人が中西部を探検したのは1670年代の頃です。マークエットはもともとフランスの宣教師でした。一方、ジョリエはカナダ、ケベック生まれのフランス人でした。この二人の探検家は一緒に主にミシシッピ川とその支流を使いアイオワ、ウィスコンシン、ミシガン、イリノイなどを調べメキシコ湾にも到達します。ジョリエの貢献は、彼の名前を付けた町の存在に現れています。

ロバート・ウォラー(Robert Waller)の小説に登場する屋根付き橋のローズマン・ブリッジ(Roseman Bridge)は、アイオワ州のマディソン郡(Madison County)のウィンターセット(Winterset)にあります。また、1989 年に公開されたケヴィン・コスナー(Kevin Costner)主演の映画『フィールド・オブ・ドリームス』(Field of Dreams)で描かれた野球場も同様にアイオワが舞台でした。
(投稿日時 2024年2月3日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州はじめに

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大分前に、このブログでアメリカのナンバープレートのエピソードなどを紹介しました。今回は、それを改訂して州の新しい歴史や出来事を追加して掲載します。ナンバープレートの蒐集は私の趣味の一つです。我が家の小さな倉庫に80枚あまりが積んであります。すべて アメリカ留学中に集めたものです。ナンバープレートはライセンスプレート(License Plate)というのが正しい呼び方です。

各州のナンバープレート

ナンバープレートに興味をもったのはそのデザインにあります。州の形をしたもの、州の特産物や自然のイラストを入れたもの、州の歴史やスポーツ、イベントを思い起こさせるものなどがあります。州の名前は必ず入ります。デザインの中で私の最も好きなのが州のキャッチフレーズやモットーが付いているものです。それに引き替え、我が国のプレートは貧相で魅力がありません。もっと工夫して都道府県の特徴をデザインとして欲しいものです。

各州のナンバープレートにあるキャッチフレーズは、歴史、人、自然、特産物、観光などに分けることができます。例えば、マサチューセッツ州(Massachusetts)は「Spirit of America」というキャッチフレーズです。このフレーズは、この州の建国の歴史と独立の精神を意味しています。アラスカ州のは「The Last Frontier」と印字されています。

アメリカのナンバープレートは、州や郡ごとに独自のデザインを持っています。非常に色彩豊かなものから、地味なものまで様々です。追加の手数料を支払えば自分のナンバープレートを作ることもできます。「Kiss Me」などと書かれたのを見たことがあります。他にも「Prison Made」(刑務所で作られた)というフレーズのもあります。可笑味のあるものです。確かカリフォルニア州(California)のプレートでした。サンフランシスコ(San Francisco)の金門橋(Golden Gate Bridge)付近にあるアルカトラズ島 (Alcatraz Island)で作られたものかもしれません。アルカトラズ島は今や一大観光地となっています。

Alcatraz Island

通常2年ごとにナンバープレートのデザインは変わります。ですから一つの州には沢山のプレートがあり、蒐集家を喜ばせます。この国の多様性を感じる機会がここにもあります。

ナンバープレートの集め方はいろいろです。他の州をドライブしていて自動車の解体屋の前を通るとそこに自分の持っていないのを見かけます。すぐ停めて交渉し、自分でプレートを外したことが何度もあります。家族寮の掲示板に「ウィスコンシン州以外のプレートを望む」という紙を貼っておくと電話がきて自分で外しにいきます。「ついでに新しいのを付け替えて」と頼まれることもありました。これから五十音順にナンバープレートを通して見えるアメリカの各州の歴史や魅力を紹介しましょう。
(投稿 2024年2月1日)

読後感】「ただ一撃」 藤沢周平

したたかに生きる庶民や、うだつの上がらない下級武士などを淡々と描いたのが作家藤沢周平です。その短編作品に「ただ一撃」があります。この小説のあらましです。仕官を望む一浪人の清家猪十郎は、自分を高く売るために履歴書である高名の覚を持参し、庄内藩内にやってきます。そして藩の優れた若侍と試合を所望します。タイ捨流という無双の刀遣いで、腕自慢の連中4名を撃ち込み、手傷を負わせるのです。

初代庄内藩主忠勝は、この野猿のような猪十郎をぶちのめせと家老に命じて不機嫌に去ります。家老たちは苦渋の相談の果てに、かつて兵法堪能だった刈谷範兵衛を5番手の相手に決めるのです。

範兵衛は60歳の隠居の身。毎日嫁の三緒に「お舅さま、洟、洟」と注意される体たらくです。範兵衛の息子,篤之介は三緒の夫ですが、父が兵法の達者であることを知らないので驚きます。

鶴ケ岡城下から半里ほどのところに、小真木野と呼ぶ広大な原野があります。高台のため未だに狐狸が出没するといわれています。範兵衛は対決に備えそこで修行に入ります。通りがかりの者から天狗を見たという噂が流れます。

やがて天狗に間違えられた範兵衛が修行を終えて帰宅し、ぐっすり昼寝をした後三緒と語ります。

 範兵衛 「妻の房枝が死んでから、女子の肌に触れたことがない」
 範兵衛 「男のものはもはや役に立たんようになったかも知れん」
三緒 「もうお年ですゆえ、ご無理でございましょう」

二人で短い会話をしながら範兵衛はいいます。
    範兵衛 「ところがさっき奇妙な夢をみてな」
    三緒  「夢、でございますか」
    範兵衛 「夢の中で、嫁女を犯した」
    範兵衛 「無理かどうか、試したい」
    三緒 「それがお役に立つなら、お試しなさいませ」

こうして範兵衛は嫁の三緒と合意の上で交わるのです。「儀式のようにして行われたそのことの最中に三緒の躰は不意に取り乱して歓びに奔った」のです。翌朝三緒は懐剣で喉を突いて自害します。驚愕した篤之介は飛び込んできて自害を知りますが、範兵衛は眉も動かしません。

試合で範兵衛は清家猪十郎を「ただ一撃」であっけなく勝ちます。それからは、ぼんやり庭や空を眺め、やがて雪が振ると部屋に閉じ籠って、行火を抱いてうつらうつらと眠る日課です。範兵衛は急速に老いていきます。「ただ一撃」とは嫁女三緒との交わりを暗示しているかのようです。

結末の文は憎たらしいほど見事です。江戸時代を舞台として老人の性というきわめて現代的課題に迫ります。現代小説では醜くなりがちな話を持ち前の筆力で、いざとなると大胆な女の可憐さを描くこの作品は秀逸といえましょう。

      (2023年11月5日 大和田囲碁同好会 成田 滋)

読書感】「暗殺の年輪」 藤沢周平

端正で凛とした文体で知られる作家藤沢周平の名作の一つといわれる武家ものの短編小説「暗殺の年輪」を紹介します。

海坂藩士・葛西馨之介が主人公です。成長するにつれ、周囲が向ける冷ややかな笑いの眼を感じるようになります。そして仲間から孤立していきます。剣友仲間に貝沼金吾がいます。あるとき金吾に誘われて貝沼家の奥屋敷へ行くと、3人の家老たちが待っています。一人の郡代が馨之介を見ていいます。
「これが、女の臀ひとつで命拾いをしたという倅か、よう育った。」この野卑で無思慮な一言が馨之介の胸を貫きます。

剣技を見込まれた馨之介は、藩執行部の反対派である家老の水野から、藩政の実権を握る重役の嶺岡兵庫の暗殺を引き受けろと言われます。20年もの昔、父の葛西源大夫は、藩内の派閥争いにからんで中老の嶺岡兵庫の暗殺にかかわり、失敗して横死します。その事件ののち、幼い馨之介の命と家名を救おうとして嶺岡に肌を許したと噂されたのが母の波留です。その秘密を知った馨之介は、母に問い詰めるのです。

波留の顔色はほとんど灰色で、眼のまわりはくすんでいます。まるで老婆のようです。
 母 「お前のためにやったことですよ。」
 馨之介「ずいぶんと愚かなことをなされた。」
 馨之介「そのために、私は20年来、人に蔑まれてきたようだ。」

夫の敵に身を任せ、じっと耐えてだれにも秘密を明かすことなく生きてきた波留は、悲哀を一杯に溜め込み家の守りをやり通すのです。男以上の豪毅さを感じさせてくれます。

浴びるほど酒を呑んだら苛立たしく募ってくる母への憎悪も幾分晴れそうだと、いきつけの飲み屋に行きます。したたかに呑んで家に戻ると血の匂いがします。奥の間の襖を開くと、むせるような血の香がそこに立ちこめています。掌に懐剣を持って自害した母の姿があります。穏やかな死相をしています。馨之介は立ち上がると嶺岡兵庫の刺殺を引き受ける覚悟を決めるのです。

馨之介は汚名を晴らすのですが、やがて父と同じ罠にかかったことを知るのです。それは、剣友仲間の貝沼が水野家老とともに、自らの手が動いた痕跡を消すために馨之介の口をふさごうとする策動です。口をふさげば、馨之介の死が父源大夫の横死に絡む私怨から嶺岡を刺殺したと雄弁に語ることになるのです。

家名を残すための、馨之介の母の哀しい行動が端正な文章で描写されています。軽侮され続ける馨之介が簡潔で無駄なく記述されています。そして汚名を晴らすはずが、策略に乗せられた馨之介の憤りが凛として描かれています。ほの暗く哀切を感じさせる一作です。

            (2023年11月4日  成田 滋)

【風物詩】積極的差別是正措置(Affirmative Action) その八 今後の大学の対応(最終回)

ハーヴァード大学は、現在の差別是正措置を擁護する方針といわれます。各学年の定員はわずか1,600人ですが、数字上は何千人もの同等の資格を持つ志願者がいると指摘します。例えば、2019年のクラスには35,000人の志願者がいましたが、そのうち数学のSATスコアが満点の者は3,700人、言語学のSATスコアが満点の者は2,700人、そして評定平均値が満点の者は8,000人以上でした。ハーヴァード大学の直近の新入生については同様の数字はありませんが、2023年の志願者数は過去4年間でほぼ倍増しています。

大学の入試担当者によれば、人種を考慮せずに黒人やラテン系の学生の数を増やそうとした学校は、他の基準、つまり階級や経済的地位、あるいは高校クラスの上位5%や10%の学生に対する入学保証のようなプログラムでは、これほどうまくいかないことがわかったといいます。「高等教育と公共政策を専門とするテキサス大学(University of Texas)のステラ・フローレス(Stella Florence)教授は、昨年秋にNPRのインタビューに答えています。「人種を一つの考慮要素として使う以外に、学生を人種的に多様化させる方法はない。」

RIce University

ハーヴァード大学のローレンス・バコウ(Lawrence Bacow)学長は声明の中で、「ハーヴァードは今後も、世界中のあらゆる階層の人々が集う活気あるコミュニティであり続けるだろう」と述べます。ヒューストン(Houston) にあるライス大学(Rice University) のレジナルド・デロッシュ学長(Reginald DesRoches) は、この判決に「非常に失望している」としながらも、多様性を追求することに「これまで以上の決意を固めている。法律は変わっても、ライスの多様性へのコミットメントは変わらない。」と彼はキャンパスメッセージで述べています。

College of Holy Cross

人種を考慮した入試を維持するよう裁判所に要請する大学は、イェール(Yale University)、プリンストン(Princeton University)、コロンビア(Columbia University)、ノートルダム(Notre Dame University)、ホーリークロス(College of Holy Cross)で、ハーヴァードとノースカロライナの入試計画を擁護する準備書面を提出しています。

【風物詩】積極的差別是正措置(Affirmative Action) その七 社会的影響

アメリカではすでに9つの州では、公立大学の入試において人種を考慮することを禁止しています。カリフォルニア州、ミシガン州、ワシントン州などでは、高等教育における積極的差別是正措置が廃止されたため、これらの州の主要公立大学ではマイノリティの入学者が激減しました。他にも人種を考慮することを禁止する州はあります。 アリゾナ州、フロリダ州、ジョージア州、ネブラスカ州、ニューハンプシャー州、オクラホマ州です。2020年、カリフォルニア州の有権者は、積極的差別是正措置の復活を求める投票法案をあっさり否決しました。

今回の最高裁の決定は、高等教育だけでなく、全米最初で最古の公立学校であるマサチューセッツ州のボストン・ラテン高校(Boston Latin School)、ヴァジニア州のトーマス・ジェファーソン高校(Thomas Jefferson High School)、ニューヨーク州のブロンクス科学高校(Bronx High School of Science)などの初等・中等教育選抜校にも波紋を広げ、全米に波紋を広げることになりそうです。

Boston Latin School

最終的には、National Football League(NFL)のすべてのコーチ採用決定においてマイノリティ志願者を考慮することを義務づけるルーニー・ルール(Rooney Rule)から、雇用や昇進の決定、学校や職場におけるDEI(Diversity, Equity & Inclusion)プログラムなど、国の経済、教育、社会生活のあらゆる側面に影響が及ぶことが予想されます。ハーヴァード大学のランダル・ケネディ(Randal Kennedy)教授は、「私たちは今後30年間、この問題について戦い続けることになるだろう」と語ります。

Boston Latin School founded in 1635

カリフォルニア大学のカラベル氏は、すでに雇用に関する訴訟が係争中であり、「この判決の論理からすれば、裁判所が定義する人種差別は雇用においても禁止されることになると思います」と指摘しています。ハーヴァード大学の共同弁護人であるビル・リー(Bill Lee)は、昨年秋にニュース社NPRのインタビューで、「この判決は、国全体、教育機関、業界全体にパンドラの箱(Pandora’s box)を開けることになるでしょう」と語っています。

【風物詩】積極的差別是正措置(Affirmative Action) その六 大学の見解

ノースカロライナ大学は、1955年まで黒人の学部生を受け入れませんでしたが、連邦裁判所の命令によって変更します。これとは対照的に、ハーヴァード大学は1978年、最高裁が同校の人種への配慮を、多様な学生を確保するために同校が拠り所とする他の特徴に類似するものとして引用し、差別是正措置プログラムのモデルとなりました。つまり、地理的条件や農家育ちであること、科学からスポーツまであらゆる分野で特別な業績があること、いわゆるレガシー学生であること、ハーヴァード大学同窓生息子や娘であること、などを考慮するというものです。

実際、差別是正措置が廃止されたところでは、マイノリティ、特にアフリカ系アメリカ人の入学者が激減しているのが現実です。2016年と2017年にカリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)の学部長代理を務め、現在はニューヨーク大学(New York University)法学部のメリッサ・マーレイ(Melissa Murray)教授は次のようにコメントします。「アフリカ系アメリカ人の学生数がすぐに減少したのは、入試方針の変更と同時に、アフリカ系アメリカ人の学生がそのような状況下でバークレー校に行きたがらなかったことが重なったのだ」と彼女は言います。「人々はスポットライトを浴びたくないのです。数には一種の安心感があり、そのような状況下で学生を募集するのは、非常に困難でした。」

University of California, Berkeley

バークレー校のジェローム・カラベル(Jerome Karabel)教授は、「この問題は、国家の安全保障に関わる問題であるため、非常に微妙である」といいます。同様の論理が、マイノリティを採用しようとする警察にも適用される可能性があり、事実上白人だけの部隊が黒人の多い町を取り締まることにならないようにするためである、とカラベル教授は指摘します。しかし、全米の大学にとって、多様性はもはや人種を考慮する理由としては受け入れられないだろうという見方をします。