無駄から「無」を考える その1 人生は無駄の連続か

「人生を無駄に生きている」とか「生きることは無駄の連続だ」としばしば云われる。これも真実なのかもしれないと思うのである。誰もが、自分は有意義に生きているだろうか、なにかのために役立っているだろうかと振り返ることがある。

「無駄」を調べると「それをしただけのかいがないこと」という意味もある。だが、ここでの難問は「なにをしたのか」ということである。今回のISによる人質殺害事件では、K.G.記者の行為に「無謀」とか「無理」とか「蛮勇の行為」という意見もあれば、「無欲」とか「無償」、「無私」とかとらえる意見もある。K.G.氏は「無畏」という泰然として畏れのない境地を悟った人という見方もできる。

だが、あえて批判を甘受するならば「なにもしないことにも意味があるのではないか」とも考えられる。我々は得てして、行動とは目に見える業と考えがちである。しかし、人を思いやったり、祈ったり、瞑想したりすることも「なにもしないこと」のようであるが、実は意味あることだと思うのである。

「無駄」を「無」と「駄」に分解すると天と地ほどの違いがあることに気がつく。この気づきが今回のシリーズの主題である。「無」という漢字を広辞苑で調べると実に沢山の用語がある。どれも我々に生き方に関わることばかりである。「無」のことを探求するのは、泥沼の中に身をおくような気分になる。だがあえて暫くこの難題に挑戦することにする。

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平家物語

旅は道連れ世は情け その18 YESとNOの使い分け

「旅は道連れ世は情け」のシリーズは今回で最後とします。これまで大勢の優秀な院生と一緒に学んだり教えられたりしました。院生との思い出はいろいろありましたが、なんといっても毎年実施する海外研修旅行でした。海外での研修は半年前から先方と交渉を始めます。

研修では特に学校の訪問が主たる目的です。先方というのは、友人、知人、紹介された人です。このコネがないと訪問交渉はうまく進みません。こちらがなにを調べたいか、どんな人に会いたいか、どんな資料が欲しいか、などを先方に伝えることからスタートします。

通常、ゼミ生以外にも他の講座の院生に広く呼びかけて参加者を募ります。院生のほとんどは教師なので、研修費用には不自由はしません。しかも、大学院で研究する身分ですから時間はたっぷりあります。

研修旅行に際しては、私の役割は訪問日程を決めてから航空券やホテルを予約することです。院生のこまごました世話をあまりしません。ホテルのチェックインや相部屋の決め方、訪問先への道を尋ねることなどは院生にやってもらうことにしています。皆れっきとした大人。自分でやって貰いたいのです。英語というハードルはそこにはありますが、、、今回の話題は外国の空港での手荷物カウンターでのやりとりです。

手荷物を預けるとき、空港の検査官は、旅行者がなにか不審なものを持ち込まないかを調べるます。そこで簡単な質問をします。
検査官 「おかしなものを持っていないか?」
院生 「はい(Yes)」
検査官 「なにを持っているのか?」
院生 「いいえ(No)」
検査官 「??、、、、」

院生は、「はい、持っていません」と言ったのです。

検査官は、怪訝な顔をしてやおらスーツケースを調べ始めました。そしてビニール袋に入った白い粉のようなものをとり出しました。これで一大事です。Yesと言ってしまったからです。
検査官 「これはなにか?」
院生 「これはTop,,Top,,」

院生は粉石けんという単語を知らなかったのです。ソープではなく「ディタージェント(detergent)」という単語が正解です。Topとは洗濯石けんの名前です。院生は検査官と一緒に別室行きです。それを私たち一行はニヤニヤして見つめます。わたしもあえて院生に助け船を出すようなことはしません。

やがて院生が無事解放されてスーツケースと一緒に戻ってきました。しかし、再度の検査で別な検査官とまたYes, Noのやり取りをやってしまったのです。係官の表情がおかしかったです。「この人騒がせなジャップめ」とでも思ったのでしょう。

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旅は道連れ世は情け その17 「寿司には気をつけよ」

ミネソタ大学の人々にはお世話になったりお世話をしたりしました。思えば誠に幸いで有り難い経験です。前回、広島でのセミナー後の懇親会と費用のことを紹介しました。

ミネアポリス(Minneapolis)に行ったときです。広島へ一緒に行ったミネソタ大学のStan Deno教授が同僚を誘い市内の日本食レストランへ招待してくれました。彼は著名なLDの研究者です。

最初は前菜(appetizer)として大皿の寿司が2枚でてきました。相当な量でした。やがてメインはスキヤキとなりました。大いに飲んで話しが弾みました。Deno教授が勘定を払いに行きましたが、なかなか戻らないのです。振り返るとなにやら交渉している様子です。

彼の同僚は皆ニヤニヤしながら見つめています。Deno教授が戻ると、「寿司の値段を聞かされなかった、あんなに高いものとは知らなかった」とびっくりした表情です。そこで大皿1枚をタダにしてもらったというのです。皆、「Your are a tough negotiator! 」 「凄い交渉人だ」といって持ち上げるのです。あとで、Deno教授は、「研究費での接待費は上限があるので、必死に交渉した」といっていました。

それからは寿司はしばらく笑いのネタとなりました。思い出すだけでもおかしみが沸いてきます。アメリカの和食レストランは一般に高いので注意することです。ミネソタ大学の先生方は日本食レストランに行っていないことがわかりました。田舎者なのでしょう。

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旅は道連れ世は情け その16 「わりかんはない」

ミネソタ大学の人々とはいろいろなエピソードが残っています。1986年頃のことです。私は横須賀にある国立特殊教育総合研究所、後の国立特別支援教育総合研究所で働いていました。研究所主催で「国際セミナー」が開かれました。誰を講師として招くかを協議したとき、ミネソタ大学心理教育学部の特別支援教育の先生方を招くことを提案しました。それが承認されて5人の教授を迎えることになりました。

ミネソタ大学心理教育学部が広島大学教育学部と研究の提携関係にありました。そこで、研究所でのセミナー後広島へ行きたいという先方の要望に応え、一行を連れて広島へ行きました。広島県立教育センターへに招かれて、4時間ほどの研究セミナーをしました。セミナーの開始前に参加していた研修のスタッフは「起立、礼、着席!」の声で始まり、終了後には感謝の意を込めてセンター歌を斉唱するのです。ミネソタの人たちは驚いていました。

その夜の懇親会です。誠に盛大な食事会でした。そろそろお開きと思っていると、先方の幹事が私のところにやってきて、「勘定は個人持ち」というのです。安月給の私です。一瞬クラッとしました。5人の教授から費用をもらうわけにはいかないのです。冷静さを装って6人分を幹事に渡しました。

この懇親会と立て替え費用のことは、長く彼らの間で話題となったと知らされました。その後、日光への観光では彼らは私の旅費や宿泊代をだしてくれました。広島の懇親会から、誰かが損して誰かが得したということではありません。まわりまわって皆が負担し合うというエピソードでありました。

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旅は道連れ世は情け その15 台北のホテルでの忘れ物

中華民国の首都はもちろん台北です。市内をあちこちを歩きながら、中国と台湾の独立のことを学びました。

国立國父紀念館の他に、国立中正紀念堂も立ち寄るべきところです。「中正」とは蒋介石の本名です。紀念堂には蒋介石元総統のブロンズ像が鎮座し、その後の壁には三民主義を引き継いだ「倫理」、「民主」、「科学」という蒋介石の基本政治理念が掲げられています。公園や道路名などからも、孫文と蒋介石はこの国では最も大事にされている人物であることがわかります。

国立故宮博物院のコレクションはいうまでもないでしょう。まさに「神品至宝」で詰まっています。もともと紫禁城宮殿で所蔵された重要な文物は、旧日本軍の進出や国共の内戦の激化によって、台湾に運ばれてきたとされます。その運搬経緯はまことに奇跡のような謎に満ちたところがあるようです。

ところがこの台北市内のホテルで忘れ物をしてしまいました。朝ビュッフェで食事をしてから手洗い行きました。いつも身につけているパウチをはずして用を足したのです。部屋に戻ったとき、パウチを忘れたのに気がつきました。慌てて戻ったのですがパウチはありません。食堂にはまだ大勢の団体客が食事中でした。

急ぎカウンターに忘れ物を告げると、すでにそこに保管されていました。中年のメイドさんが届けてくれたことを知りました。その方にお礼をいいながら、なにがしかのチップを差し出しました。ところが笑いながら受け取ってくれません。ホテルの研修が徹底しているせいでしょうか。台湾も日本の「おもてなし」の感化を受けているのでしょう。

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旅は道連れ世は情け その14 「バックパックを忘れた」

このブログ上で忘れ物にまつわるエピソードをいくつか紹介してきました。今回は自分が忘れ物で真っ青になったときと院生の「パスポート事件」の話題です。

大学の同僚とでヴァージニア州(Common Wealth of Virginia)にあるフェアファックス教育委員会(Fairfax County School)と学校を回り、ある調査を依頼したときです。調査のほうは幸い先方が極めて協力的で、質問紙を丹念に検討してくれて「これでいいだろう」ということになり調査に応じてくれることになりました。

翌日は気分良く電車に乗って、ワシントンD.C.のモール(Mall)にあるスミソニアン(Smithonian)の博物館巡りにでかけました。スミソニアン協会は17の直営博物館や美術館を運営する世界一の学芸組織です。いくつかの博物館を回り終えて、お終いは国立アメリカ・インディアン博物館(American Indian Museum)へ入りました。そこの小さな講堂でビデオを観ての帰り、椅子にパスポートやカード、現金、カメラをいれたバックパックを置き忘れました。

忘れ物に気がついたのは博物館をでて30分くらいです。その瞬間目の前が真っ白、呆然となりました。米国では忘れ物は戻らないことが多いのです。急いで博物館に戻り係員に質すと預かっているというのです。持ち物は身から離してはならないという言葉をかみしめた時でした。

ニューメキシコの州都アルバカーキに院生らと視察旅行をしたときです。ネイティブ・アメリカンの博物館で、院生の一人がパストートがないといいだしました。皆で手分けをして探したのですが出てきません。ネイティブ・アメリカンの係員に遺失物として届けがないかをききましたが駄目です。係員は、「兄弟よ、この国に残っていいのだよ」と院生を元気づけようとしたのが忘れられません。

旅は道連れ世は情け その13 コロニアル・ウィリアムズバーグと夕立

米国の夏はキャンピングの季節です。通常、年が明けると早々にキャンプ地やコテージを予約することが多いです。キャンプ地で人気のあるのはなんといっても広大な州立公園です。非常に手入れが行き届き、清潔で安全、しかも安価なのです。

車一台分とテント張り、食事を作るスペースがあり、隣とは木々で隔てられているので気兼ねがいりません。共同トイレ、コインランドリー、シャワー室があり、薪の束も売っています。なにか野外のキャンピングというよりは、別荘にやってきたような雰囲気です。

ミシガン湖(Lake Michigan)の西岸を北上し、カナダに渡りモントリオール(Montreal)、そしてワシントンD.C.の郊外にあるヴァージニア(Virginia)の州立公園に着きました。もちろん予約済みです。テントを張り終えてから大西洋岸にあるコロニアル・ウィリアムズバーグ(Colonial Williamsburg)へ向かいました。

コロニアル・ウィリアムズバーグは、ヴァージニア州の独立市で、歴史的地区のことです。コロニアル・ウィリアムズバーグは1699年から1780年まで、ジェームズ・シティ郡(James City County)の植民の中心地となりました。ウィリアムズバーグはヴァージニア植民地時代の統治・教育・文化の中心であったとWikipediaにあります。今は多くの建物が復元されています。周囲にはウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William & Mary)が建っています。

ウィリアム・アンド・メアリー大学は1693年にイングランド王ウィリアム三世と女王メアリー二世によって認可され創設されました。ハーヴァード大学に次いで2番目に古い歴史を誇る大学となっています。ヴァージニア州の総合大学としてはヴァージニア大学に次ぐ第2位、全米の州立大学の中ではカリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、ヴァージニア大学、ミシガン大学、ノースカロライナ大学ーチャペルヒル校(University of North Carolina at Chapel Hill)に次ぐ第6位に格付けされています。「最も入学が難しい大学」(Most Selective)とされます。

夕方キャンプ場に戻ると夕立があったようで、テントの中は濡れ、寝袋や毛布が湿っていました。仕方なく近くの街のランドリーで乾かすことを余儀なくされました。夕立の備えをしていませんでした。

キャンプ生活をしていると子供たちはモーテルに泊まりたいといってきました。ボストンを通過したとき魚市場がありニシンを買いそれをモーテルの室内で焼いて食べました。匂いがきつかったので、あとからきた客に迷惑だったかもしれません。

旅は道連れ世は情け その12 ナパバレー

兵庫教育大学の院生とはあちこちの学校へ出掛けました。旅の主たる目的は視察ですが、別な楽しみは地元の有名なところを訪ねることです。カリフォルニア州の州都サクラメント(Sacramento)を目指しました。この学校区の職業教育を視察する旅です。

まずは東京からサンフランシスコ(San Francisco)へ行き、それからサクラメントへ行くのが通常の行程です。金門橋を渡りオークランド(Oakland)を経てサクラメントへ向かいます。途中、カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)があります。全米屈指の名門校です。

このあたりはSan Francisco Bay Areaと呼ばれています。飛行機もありますが、車で行くのが楽しいのです。ナパ郡(Napa County)を目指します。ナパ郡にはニューヨーク州とともにアメリカの一大ワインの産地、ナパバレー(Napa Valey)があります。全米でワインの90%がこのあたりで製造されています。ニューヨーク州ではたったの5%なのです。

ナパバレーを通過したのは丁度日曜日でした。沢山のワイナリーがありますが、週末は所々閉店となっています。観光客のために、業者が協定して開店するところと閉店するところを決めています。院生とで開いているワイナリーに飛び込みました。立ち寄ったところはE. & J. Gallo Wineryでした。

Gallo Wineはアメリカでは広く飲まれているワインです。1933年の設立とあります。カリフォルニア産ワインで最大の出荷を誇り、家族経営のワイナリーとして全米で最も大きなシェアを持つといわれます。このとき誰が運転していたかですが、もちろん私ではありませんでした。運転事故を起こさないよう、人々は注意してワインやビールを飲みます。

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旅は道連れ世は情け その11 モスクワの空港でワイン没収

再びワインの話題です。イタリアへ始めて行ったときです。成田空港とローマの郊外にある国際空港、フィウミチーノ空港(Fiumicino)を往復しました。この空港は、イタリアのフラッグ・キャリアであるアリタリア航空(Alitalia)の本拠地です。しかし、私と家内は安い料金を選んだのでアエロフロート航空(Aeroflot)としました。成田からモスクワ(Moscow)のシェレメーチエヴォ国際空港(Sheremetyevo)、そしてローマのフィウミチーノ国際空港という航路です。この旅ではこの選択は間違ったことをあとで知ります。

まずは、アエロフロート航空の機内の飲み物と食事などです。ジュースは氷もなくぬるいのがきました。珈琲も熱くないのです。ビールは有料です。食事は可もなく不可もなくといったところです。フライトアテンダントはぶっきらぼう。

シェレメーチエヴォ空港では、ローマ行きへの乗り換えに2時間半ありました。珈琲を頼むと5ユーロ、600円取られました。詐欺にあった気分です。ローマのフィウミチーノ空港に着いたのは夜の9時頃です。そこには長男が迎えにきているはずです。しかし、持参した2つの大きな荷物が出て来ないのです。

1時間あまりターンテーブルのところで待ちました。待つのを諦めて係員に、翌朝に再度来るといって荷物を保管してもらうよう頼みました。その間90分くらいかかり、待ち合わせ場所にいくと長男はいません。タクシーで空港近くのホテルに行くと、長男夫婦が「待っても来ないので、明日来るのだろうと思った」というのです。

翌朝空港に行くと家内のスーツケースが届いていましたが、わたしのは行方不明です。調べてもらうとまだモスクワにあるというのです。長男夫婦と一緒に来ていた孫に、用意してきた土産が渡せません。荷物が届いたのは3日後のフィレンツェ(Firenze)のホテルでした。

思い出深い中部イタリア旅行を楽しんだのですが、帰りローマからの経由地モスクワのシェレメーチエヴォ空港でまた嫌な思いをしました。購入したトスカーナ・ワイン(Tuscany wine)の免税品証明書が袋から剥がれてないのです。税関の女性職員が、厳しい顔をして「ワインをゴミ箱に捨てなさい」と、頑として持ち出しを許しません。再三懇願しましたが、結局没収となりました。ワインは職員にプレゼントしたことになりました。ローマやフィレンツェに圧倒されたのですが、後味が悪い旅となりました。いいことばかりが旅ではありません。

旅は道連れ世は情け その10 ワインは2杯までOK

ニュージーランド(New Zealand)は北島と南島から成ります。年間の旅行者が240万人以上という観光立国でもあります。友人を訪ねて北島の南端近くにあるパーマストンノース(Palmerston North )という町へ行きました。まだ大地震の前でした。ここにはマッセイ大学(Massey University)があります。その友人はインド系の研究者で、兵庫教育大学の客員研究員としてお世話した方です。彼女はマッセイ大学で働き家を建てていました。

休日を利用して車で北島の最南端に位置する首都ウェリントン(Wellington)の観光に出かけました。落ち着いた港町です。観光後、クック海峡をカーフェリーで渡り、南島にあるクライストチャーチ(Christchurch)にあるカンタベリー大学(University of Canterbury)を訪れました。

大学でインタビューを受けてから、ホエールウオッチング(whale-watching)ができるという情報を得ました。鯨が出るという湾のある町に車をとばしました。船に乗ると数頭の鯨が湾を回遊していました。この湾の鯨は年中この湾に留まるので、地元の人は親しみをこめて鯨に名前までつけています。

帰りのドライブは快適でした。葡萄畑が道の両側に広がります。ワインを飲みたくなる光景です。休憩がてらワイナリーに立ち寄りますと、旅行者らしき一行がワインを楽しんでいます。店の人に聞くと看板を指しました。それには次のように書いてあります。「運転手はグラス2杯までは飲んでよい。」なんと粋なはからいなのだろうと感心しました。

真っ暗な帰りの途中、車を停めて満点の星空、南十字星(Southern Cross)とケンタウルス座(Centaurus)を眺めました。”もの凄い星座”でした。

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旅は道連れ世は情け その9 匂いのトラブルはややこしい

スカンクの他に、匂いにまつわるトラブルで忘れられないこともあります。

週末、院生は友達を招いて芝生でBBQをしたりパーティをします。日頃勉強で絞られているので、つかの間の時間をくつろぐのです。

これも管理事務所に勤めていたときです。電話がかかってきました。「隣の部屋から悪臭が流れてきて耐えられない、なんと止めさせてくれ」という内容です。出掛けると確かに強烈な魚油の匂いです。「くさや」やスルメとは違った「凄い」匂いです。中西部のアメリカ人は干物などを食べませんから、こうした魚の匂いには慣れていません。

高校時代稚内で暮らしたことのある私は、魚の匂いには慣れていました。しかし、この部屋からの匂いは格別なものでした。「隣近所から悪臭で苦情がきているので料理を控えて欲しい」と伝えるので精一杯でした。

臭いものといえば、韓国の「ホンオフェ」(홍어회)という「エイ」を醗酵させたもの、スエーデンの塩漬けされたニシンの缶詰「シュールストレミング(surestromming)」、そしてくさやです。「ホンオフェ」はアンモニアの匂いが強く涙がでるといいます。ハングルでホンオ(홍어)とはエイ、フェ(회)とは刺身のことです。Wikipediaによれば、ホンオフェは韓国では高級食品のひとつであり、冠婚葬祭に欠かせないご馳走だそうです。私は幸か不幸かまだ食したことはありません。

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旅は道連れ世は情け その8 スカンクは厄介者

スカンクは実に厄介ものです。人間関係をぶち壊すこともあります。

日本人と韓国人がウィスコンシン大学のイーグル・ハイツ(Eagle Heights)と呼ばれる院生の家族世帯宿舎の同じ棟に住んでいました。一棟には八世帯が住みます。私はこの両者ともよくつきあっていました。韓国人留学生とは管理事務所で一緒に働いていました。

ある時、この二人がスカンクをめぐって口論となったのです。私は仲介する立場におかれました。事情をきくと、日本人夫婦が近くに住んでいたスカンクを脅かし、強烈なスプレーを辺りにかけたのです。匂いは棟全体に広がりこの日本人に非難が起こったのです。私は仲介することに竦み、両者で決着させるのが一番だと考え手を引きました。しかし、一度喧嘩しては仲直りは無理でした。私はこの両者とも今は交流が途絶えてしまっています。

スカンクは脅かされない限り、分泌液を噴射しません。スカンクの匂いを知るアメリカ人は通常は近寄らないようにして共存しています。日本人留学生はそうした知識がなかったようです。

悪臭は風向きによっては1km近くまで届くそうです。一度衣服に付着した粘液はとれないので廃棄するのが普通です。スカンクの匂いは知っていますか?言葉で表現できませんが、鼻孔にその「香り」は今もあります。なんとも形容し難い匂いです。

aerial_Eagle_Heights05_8553 Eagle Heights


旅は道連れ世は情け その7 スカンクに注意

車には色々な思い出があります。日本ではあまり経験しないようなエピソードを紹介します。

野生の動物が多いのがアメリカ大陸です。自然保護、動物保護が厳しいところです。インターステイト(Interstate: IS)などの高速道路には「鹿注意」の標識があちこちに立っています。

長男からきいた話です。彼が運転し友達とミルウオーキーでのアイスホッケーの試合を観に行った帰り、IS90を運転中に鹿を轢いてしまいました。飛び出してきた鹿を避けきれなかったそうです。車の前部は大破。この場合、鹿を持ち帰ることはできますが、道路脇にひきづり、帰ってきたといっていました。

冬場、厳しい寒さを避けるためにあらいぐま(racoon)やスカンク(skunk)はいろいろなところを寝蔵にします。大学の職員宿舎の管理室で夜勤のアルバイトをしていたときです。学生は平日の夜と週末に雇われて応急措置に対応します。例えば、台所のシンクやトイレが詰まったとか、鍵を落として入れないので開けて欲しいといったことです。子育て中の院生が多いので、子供が玩具をトイレに流してつまらせるのです。

ある時、車のエンジン部分に潜んでいたスカンクがファンに巻き込まれ車が動かないという電話が事務室にきました。出掛けてみるとスカンクの残骸とともに、もの凄い匂いが駐車場に漂っています。手の出しようがありません。こうなったらいくら洗車してもなんの効果もありません。後日、持ち主は廃車にしたことをききました。業者も大変だったろうと察します。

走っているとときどき轢かれたスカンクを見かけます。窓をすぐ閉めなければいけません。あの匂いは近寄りがたいほど強烈なのです。

旅は道連れ世は情け その6 北投温泉と美空ひばり

台北市内からMETROで50分ほどのところに北投温泉があります。この温泉は、台湾有数の湯治場です。明治38年に地質学者岡本要八郎が微量のラジウムを含む「北投石」という鉱石を発見します。瀧乃湯で入浴した帰りに付近の川で見つけたとあります。今は天然記念物で採掘が禁止されているそうです。

北投温泉は、天然のラジウム泉として知られています。また硫黄の成分も多く、町には硫黄の臭気が漂っています。北海道登別温泉のような雰囲気です。この温泉に浸かりたいとかねがね考えていました。

途中METRO内で、家内と下車する駅のことを思案していると、前に座っているお年寄りが日本語で「北投温泉はあと三つ目です、瀧乃湯がいいですよ」と教えてくれました。小学生のとき、世田谷区から派遣されていた日本人の女性教師に教えを受けたとか。毎年、この恩師を招いて同窓会を開いているということに感じ入りました。親切で礼儀正しい方でした。

瀧乃湯は銭湯の気分です。台湾に現存する浴場の中では最古の一つだそうで、脱衣場は浴槽の隅にあり扉の仕切りはありません。また洗い場には水道水が出るシャワーがありますが温水は出ません。本当に素朴な湯治場の気分です。

帰りにブラブラ散歩していると、歌謡曲が流れてきました。聞き耳をたてると美空ひばりの歌です。数人の老人がラジカセを中心に歌っているのです。そして持っているひばりのカセットテープ集を見せてくれました。美空ひばりが湯治場の北投温泉でも人気があるのは、首肯できました。

旅は道連れ世は情け その5 孫文と国立國父紀念館

台湾は私の好きな国の一つです。温暖な気候のせいか、人々の表情が柔和なような気がします。他のアジアの国々と比べ、街全体に清潔感があります。「中華民国」が台湾の国名です。

孫文という偉大な思想家、政治家は今も台湾でも尊敬の的になっています。国立國父紀念館に行くとそれが現れています。孫文は一般的に「孫中山」と呼ばれています。1時間毎に行われる紀念館での衛兵の交代はみものです。衛兵交代は蒋介石の顕彰施設である中正紀念堂や忠烈祠でも行われます。國父紀念館を囲むのが静かな中山公園です。

孫文が1905年に発表した中国革命の基本理念には「三民主義」と「五族共和」があります。「三民主義」とは、民族主義、民権主義、民生主義のことです。現在の台湾政府の基本理念となっています。五族共和は、漢の周辺の五族との宥和を意味します。中国革命の父、近代革命の先達ともよばれる所以です。海峡をはさんで本土と台湾の両国で尊敬されているのが孫文です。

孫文は偉大な革命家ともいわれます。国共合作やソ連との提携も実現します。モスクワ中山大学の設立も成果の一環です。この大学は日本や海外列強の植民地支配に対する独立運動と人材育成のためです。後に蒋介石は毛沢東とも手を組みます。

革命と独立に至る運動で、孫文の行動は日和見的であるという見方も一部にあったようです。原理原則の欠如といった理由で批判されるのです。ですがこうした批判は、複雑な国内事情や権力争いのゆえにやむを得なかったとする見解が一般的です。孫文の業績が偉大であったことは誰もが認めるところ、中国本土や台湾で尊敬を一心に集めるのはそのためです。

日本と孫文の関係ですが、1913年から数年間日本に亡命もします。そして欧米列強の帝国主義に対して東洋の王道とか平和の思想を説き、日中の友好を訴えたことでも知られています。

旅は道連れ世は情け その4 大学生活の開始

U-Haulを引っ張ってジョージアからようやくウィスコンシンに着きました。ウィスコンシン大学の構内に入ると、落ち着いた煉瓦色の建物、古城のような体育館、博物館や図書館、大学カフェテリアなどがありました。そのとき、「果たしてついていけるのだろうか、、」という不安に襲われました。大学の雰囲気があまりにピリピリし、威圧感があったからです。ですが物思いに耽る場合ではありませんでした。

大学院の授業といっても詰め込みです。授業にでても半分くらいしか理解できません。思い切って留学生の相談室に行きました。そこで「授業中のノートテーキングでは単語を書き並べ、授業後にすぐ文章化するように」というアドバイスでした。記憶が鮮明なうちに筆記する方法です。

授業では、休む院生はほとんどいません。授業前に教官は教室にいて学生を待っています。休講もありません。ただ一度だけ、ある冬の夜間授業のとき、教官が教室にやってきて「今夜は調子がわるいので休ませて欲しい」というのがあっただけです。これが最初で最後の休講です。

最初の中間試験があり、結果は教官室のドアに学生番号が掲示されました。自分の点数をみてガツンと頭をなぐられたような気分になりました。試験なんてたいしたことがないだろうとたかをくったのが間違いでした。完全な落第点でした。試験問題は、マルバツ、多肢選択、単語の記入、エッセイから構成されていました。このような問題形式に全く慣れていませんでした。授業中に教官が講義した内容が問題としてでることを知りました。それからは試験前にはノートを何度も読み直し暗記に務めました。

半年くらい経ってからようやく自信のようなものが生まれてきました。とにかく時間をかけて読み、書くことに心掛けました。小論文の作成を支援する大学のサービスも頻繁に利用しては英文を添削してもらいました。一対一で添削してくれるのは英文科の院生です。論文書きのコツをここで学んだのは後々に役に立ちました。学生の支援が手厚いことに感じ入りました。このような論文書きの支援は、学んだ北海道大学でも立教大学でも、兵庫教育大学でもありませんでした。

旅は道連れ世は情け その3 車がスピンしたとき

1979年のウィスコンシンの真冬、零下20度の日が何日もありました。マリブを運転していたときです。路面が凍結している時間帯でした。アメリカの高速道路は、大きく分ければインターステイト(Interstate: IS)とUSハイウエイ(US Highway)の二種類があります。両方とも日本の高速道路にあたります。高速料金はありません。両方ともは四車線で雑草と芝の広い中央分離帯があります。

当時、ISの制限速度は65マイル、USのほうは55マイル位です。USを走っていたとき、突然車がスピンしてブレーキが効かなくなりました。強く踏みすぎたためです。そのときスピンした方向とは逆にハンドルを回した記憶があります。路上で一回転してようやく停まりました。幸い前後に車はありません。心臓が止まるほどの経験です。気持ちを切り替えてゆっくりと車を回転してその場を離れることができました。後続車がいたら大変なことでした。

こうした冬の運転の反省ですが、第一は冬の路上は凍結していることを忘れないことです。交通局のようなところは、夜中に砂と塩化カルシウムの混じった融雪剤を散布します。それでも体感温度が下がって路上が凍結するのです。昼間気温が上がり、夜は零下に下がるので溶けた雪は凍るのです。

第二は制限速度より20%下げて運転することです。スピードの出し過ぎほど怖いものはありません。スノータイヤでも凍結している路上ではどうにもならないのです。

第三は昼間でもライトをつけて走ることです。バッテリーは走行中に充電されるので、節約する必要は全くありません。夜、交差点でライトを消す習慣はアメリにはありません。

第四はブレーキをこまめに踏むことです。これによって滑りを防ぐとともに、ブレーキランプで後方車に自分の位置や車間距離を知らせるのです。

厳冬の時、野外に長く駐車しておくとバッテリーの能力が極端に低下します。”Battery is dead.”と呼ぶ状態です。ですからバッテリー・チャージャー・ケーブルを持参しておくことも大事です。零下が続くときは、夜は車からバッテリー外して翌朝に戻して運転することもありました。

旅は道連れ世は情け その2 「U-Haul」と野宿

1978年8月に語学研修で過ごしたジョージア州(Georgia)からウィスコンシン(Wisconsin)のマディソン(Madison)まで、僅かの家財をU-Haulに積んで家族と移動しました。車はジョージアにいたとき、ルーテル教会の牧師から譲り受けたシボレーはマリブ(Chevrolet Malibu)という連結器のついた六気筒のセダンでした。車体の屋根は押してもびくともしません。「タンク」という愛称で呼ばれていました。この牧師はかつて宣教師として足立区での勤労青少年の伝道にあたっておられました。梅島、西新井、竹の塚、草加あたりが伝道の中心でした。

マディソンへの途中、テネシー州南東部にあるチャタヌガ(Chattanooga)という街を通りました。なぜか「チャタヌガ・チュー・チュー」(Chattanooga Choo Choo)というグレン・ミラー(Glenn Miller)の楽曲を思い出しました。”Choo Choo Train”とは、「汽車ぽっぽ」という意味です。その後ニール・セダカ(Neil Sedaka)も「恋の片道切符」(One Way Ticket)という曲で”Choo Choo Train”を歌っていました。この曲も流行りました。

インディアナ州(Indiana)の小さな街で車の調子が悪くなりました。トレーラーを引っ張るとエンジンに無理がかかります。とくにトランスミッションはそうです。修理屋にきくと部品は明日にしか来ないというのです。仕方なく修理屋に許可を得て工場の隣で野宿することにしました。

修理屋はガソリンスタンドを経営しています。幸い水をもらったり手洗いを使うことができました。夏の盛りでしたので、クーラーボックスからハムと野菜やチーズでサンドイッチを作って一夜を過ごしました。夜パトカーがやってきました。事情を話しましたが不安な一夜を過ごしました。2泊3日の初めての大陸横断のような旅でした。

旅は道連れ世は情け その1 「U-Haul」と「You haul」

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人生は旅に喩えられます。目的があるようでないような、行き先が定かで定かでないようなのが人生です。生きることとは、その目的や行き先を探す旅ということです。これから私の可笑しくも苦しかった旅の話を披露します。暫く旅にお付き合いのほどを。

U-Haul。ユーホールと発音するこの単語は、登録商標でもあります。移動が好きなアメリカ人にはU-Haulは馴染みのものです。引越の際は、貸しトラックか自家用車につける荷物運搬車(トレーラー)に家財道具を積んで目的地に向かいます。このトレーラーの代名詞がU-Haulです。Haulとは「引っ張る」という意味です。ですから、”You haul”をひっかけた造語であります。

U-Haulの大きさは様々です。今もU-Haulをとりつける連結器がついた中型のセダンを見かけます。田舎を走るピックアップトラックには必ずといってよいほどついています。U-Haulの事務所は小さな街にも必ずあります。このトレーラーを借りて自分で引っ越しするのです。そういえば専門の引越業者のようなものはアメリカには珍しいのです。

大型のU-Haulは自分で運転して家財を運びます。運転手が一人ですむという案配です。U-Haulをつけてバックするときは少し経験が必要です。駐車するとき、ハンドルを右に切るとU-Haullは左側に回ります。ハンドルとは逆にU-Haulは回るのです。慣れると面白いように操作できます。引越の途中はもちろんモーテルを利用します。移動や引越にU-Haulは切っても切り離せません。「お前が引っ張っていく」という考えがU-Haulの発展にみられます。これが俗語にある、”Do It Yourself Fan.”(自分でやれることは自分でする)にあたります。

「幸せとは」 その12 マルセリーノと汚れなき悪戯

「汚れなき悪戯」(Miracle of Marcelino)という映画は1955年にスペインで製作された作品である。スペイン語の題名は、「Marcelino Pan y Vino」で「マルセリーノのパンとワイン」となる。

この物語である。フランシスコ会修道院の門前に赤子が捨てられていた。修道士たちは里親を捜すのだが、結局見つからず自分たちで育てることになる。そして赤子をマルセリーノ(Marcelino)と名付ける。

マルセリーノは修道院でいろいろなことを学ぶ。修道院での学校生活である。保育係となったフランシスコ修道士(Father Francisco)は、マルセリーノに屋根裏部屋には決して入らないように言いつける。

好奇心の旺盛なマルセリーノは屋根裏部屋にこっそり忍び込のである。そこで大きな十字架のキリスト像と出会う。そしてキリストにパンを与える毎日が始まる。これが「汚れなき悪戯」として描かれる。やがて、みなしごマルセリーノはキリスト像に「天国の母に会いたい」と嘆願する。

像はマルセリーノが大きな肘掛け椅子をすすめると降りてきて座って少年と話し、また飲み食いするようになる。像は特にパンと葡萄酒を喜んだので、マルセリーノは毎日それらを盗む。それに気づいた修道士らは訝りながらも気付かぬふりをして彼を見張ることにした。

いつものようにパンと葡萄酒を持っていったマルセリーノに対し、像は「良い子だから願いをかなえよう」と申し出る。迷わずマルセリーノは「母に会いたい、そしてそのあとあなたの母にも会いたい」と言うのである。「今すぐにか」という問には「今すぐ」と答える。ドアの割れ目から覗くフランシスコ修道士の前で像は少年を膝に抱き眠らせた。

駆けつけた修道士たちは空の十字架を見、やがて像が十字架に戻るのを見て扉を開いた。マルセリーノは椅子の上で微笑みを浮かべて永遠の眠りに就いていた。
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