ウィスコンシンで会った人々 その72 夢噺

筆者も毎晩のように夢をみる。現実の体験のようなことが拡がる。観念や心像だが、後悔や願望も現れるようである。去る2015年7月17日に夢が元で話がこじれる笑いを取り上げた。名奉行?までもが夢の話を聞きたいというものである。▽ウィスコンシンで会った人々 その49 名奉行噺 http://naritas.jp/wp1/?p=1992

夢の分析は古代バビロニアにもあったというから驚きである。夢は何かを象徴しているとされる。その元は経験である。従って、夢を分析すれば神経症の治療にも役立つとしたのがユング(Carl Yung)である。

落語に戻る。落語に出てくる夢噺には、多くの場合現実に起こりにくい事象を夢の中で再現しようとする願望が現れている。それは、いつも尻に敷かれている旦那がなんとかして、女房を見返したいとか、酒癖が悪くそれがもとで身を持ち崩すが、たまたま品川の海辺で拾った金で酒宴を開き、目覚めたとき女房から「夢でもみたんじゃないか、、」といわれ、それから立ち直って懸命に働き始める。有名な「芝浜」の一節である。

眠りながら鼻水の提灯をつくっていて、女房に起こされ、「お前さん、いったいどんな夢を見ていたの?」と夢の話をせがまれる旦那。これが「天狗裁き」。夢の中でうなされていた盲目の旦那が「あああ、夢か。。。お竹、おらあもう信心はやめるぜ、、」「どうして?」「目が見えるって妙なものだ。寝ているうちだけ、よぉーく見える」という「景清」。

「欲深き人の心と降る雪は、積もるにつけて道を忘るる」という狂歌を枕にして始まるのが、「夢金」という演目である。船頭の熊蔵が駆け落ちをしようとした扇屋という商家の女を送り届けると、旦那が喜んで五十両の紙包み二つをお礼として差し出す。熊蔵は紙包みを両手で強く握りしめる。「ああ、痛え、、」すべては夢で、目が覚めた熊蔵は自分の大事なモノを強く握りしめていた。

4d648716-2-1 94dcf7da3a1bb401b781cf50aefed21ccarl_jung_22 Carl Gustav Yung

ウィスコンシンで会った人々 その71 道楽噺

伊勢屋の若旦那、吉原通いにはまっている。怖いのは親父。湯屋に出掛け帰り際にばったり出会ったのが、貸本屋の善公である。「善公、おまえ他人の声色が上手かったな、わたしの代わりをしておくれ」。若旦那は善公に代役を押し付けて吉原に出掛けようとする。

善公、駄賃として袴をくれるというので断りきれない。言われるままに若旦那の部屋に入り代役を引き受ける。一階に住む大旦那、「おい、倅、今朝がた干物をもらったはすだ。どこに置いたんだ?」善公としてもそんな細かい話は聞いていない。「干物箱でしょう。」「うちに干物箱なんてない。」そんなやりとりで何とか大旦那の追及をかわす。

ひと安心した善公は、若旦那が花魁から受取った手紙を見つける。それを元に若旦那から金をせびろうと考える。ところが手紙に書かれていたのは、善公への悪口雑言である。善公がふんどしを忘れ、その匂いが四方八方までひろがるというのだ。そこで役所がDDTを撒くというのを読んで、「ひでえな、馬鹿だ、カスだなんて。花魁、ひでえよ!!」、大声を張り上げるので、大旦那にすっかりバレてしまる。

そこへ戻ってきたのが若旦那。窓際で声を掛ける。
若旦那 「おい、善公、紙入れ(財布)、紙入れ、忘れちまった、投げてくんな!」
親父 「バカヤロー」
若旦那 「おっ、善公うめえもんだ。親父にそっくりだ」
「干物箱」という演目である。

「唐茄子屋政談」の主人公も道楽で身を持ち崩し苦労する。商家の若旦那、徳兵衛は、道楽が過ぎて勘当され、親戚を頼っても相手にされず、友人からも見放され、吾妻橋から身を投げようとする。そこへ若旦那の叔父が偶然通りかかり、若旦那を押しとどめる。叔父の家で食事をあてがわれた若旦那は、「心を入れ替え、何でも叔父さんの言うことを聞く」と約束する。

翌朝、若旦那は叔父に起こされ、「お前は今日から俺の商売を手伝え。天秤棒をかつぐのだ」と命じられる。叔父の職業は唐茄子、カボチャの行商人であった。若旦那はひとりで慣れない重い荷物をかついで歩くうち転び、カボチャをばらまいてしまい、思わず「人殺しィ!」と叫ぶ。若旦那の叫び声を聞きつけた人々が集まってくる。若旦那の身の上話を聞いた人々は同情し、カボチャを買う。カボチャは残り2個になる。

通りでは、ほかの行商人たちが売り声を張り上げている。若旦那も負けじと声を出そうとするが、勇気が出ない。人気のない田んぼ道で売り声の練習をしているうち、そこが花街の近所であることに気づき、遊女との甘い思い出に浸るうち、売り声が薄墨のようにか細くなるという噺である。

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ウィスコンシンで会った人々 その70 「舞台番」に「湯屋番」噺 

「舞台番」や「湯屋番」には、うつけ者、お目出度い者が登場するというのが一般である。決して根性が悪いのではないのだが、一本調子なのである。そこがまた可笑しい。今は、舞台小屋も銭湯も数少なくなったが、江戸の情緒はこうした場所に漂う。

「蛙茶番」という一席である。とある商店で、店内に舞台をしつらえ、店員や出入りの商人とで『天竺徳兵衛噺』を演じることになる。くじ引きで配役を決まる。当日になり、巨大なガマガエル役の伊勢屋の若旦那が、仮病を使って休んでしまった。そのため芝居の幕を上げることができず、舞台上で一切を取り仕切る役の頭取、番頭は困り果てる。番頭は丁稚の定吉を代役に仕立てることにする。定吉からは安くない駄賃と休暇を要求される。

番頭は、舞台袖で客の騒ぎをしずめる役の「舞台番」を担当するはずの建具屋の半公がいつまで待ってもやって来ないことに気づく。定吉が迎えに行くと、半公は怒っていて「いい役をやらせてもらえると思ったら、こんな裏方なんかやっちゃいれない」と定吉にこぼす。引き返してきた定吉の報告を聞いた番頭は、「半公が岡惚れしている小間物屋の娘、みい坊の名を使って半次を釣れ。『素人役者なんかより、半ちゃんの粋な舞台番を観たいわ』と言っていた、と半公に吹き込め」と半公のところに再度行かせる。それを聞いた半公はすっかりポーッとして舞台番で登場するが、とんでもないものを客に見せてしまう。

次に「湯屋番」である。吉原通いに夢中になって勘当され、出入りの大工、熊五郎宅の二階に居候中の若旦那。しかし、まったく働かずに遊んでばかりいるので、居候先の評判はすこぶる悪い。とうとうかみさんと口論になり、困った棟梁は若旦那にどこかへ奉公に行くように薦めた。
「奉公ですか? 良いですねぇ、ご飯がいっぱい食べられる」
『それでは、家で殆ど食べさせてないように聞こえるじゃないですか』と文句を言う熊五郎。
「もちろん頂いてますよ、『死なない呪い』程度にね」

何でも、熊五郎の外出中にご飯を食べようとすると、必ず御かみさんが傍に張り付き、給仕と称して嫌がらせをすると言うのだ。
「お櫃のふたを開けるとさ、おひつを濡れたしゃもじでピタピタと叩き、平たくなった上っ面をすっと削いで茶碗に乗せるんだよ。見かけは一杯だよ、だけど中身はガランドウだ、お茶をかけたらすぐ終わり!」

それじゃあ可愛そうだ。何とかすると言い、改めて奉公の話をすると「日本橋に奴湯っていう銭湯があるんだ。あそこで奉公人を募集してるって話だから、行ってみようと思うんだ」

銭湯といえば湯屋番。若旦那は喜び勇んででかけるのだが、そこでの仕事というのは町内での薪集め。火事場などから古材を買ってくるのである。江戸の華といえば火事と喧嘩。木造の長屋が多かった江戸では薪は不自由しなかったようだ。

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ウィスコンシンで会った人々 その69 「家見舞い」噺 

ある二人組男。この兄貴分が所帯をもち家を建てた。その引越祝いにと、二人の男は水瓶を贈ろうと考える。だが、銭を持たない二人。いろいろ考え、古道具屋なら安いものがあるのではと歩き回る。当然そんな水瓶があるわけがない。

困っていると、ある古道具屋の主人がこの瓶なら金はいらないという。二人は喜ぶが、なぜかその瓶には水がいっぱい張ってある。早速、差し担いで運ぼうとする。

道具屋 「あんた方、それを何に使いなさる?」
二人組男 「水瓶だよ」
道具屋 「そりゃいけねえ。見たらわかりそうなもんだ。おまえさん方、毎朝あれにまたがるだろう」
二人組男 「ん……? 毎朝またがる? 」

よくよく見ると、果たしてそれは紛れもなく、もとの肥瓶であった。しかし、タダという言葉には勝てず、二人はその瓶を引き取る。そんなわけで瓶を手に入れた二人、そのまま渡したらバレるであろうから、まず瓶に水を張り、湯屋に行ってさっぱりして兄イの新宅に瓶を持っていく。

何も知らず、もらった兄イは大喜びし、お礼にと酒を振る舞いご馳走をしてくれる。ご飯に焼き海苔、おしたし、香の物、湯豆腐。うめえ、うめえと食っているうちに、ふと気づいて二人、腰が抜けた。出される料理はどれもその瓶から汲んだ水であつらえられている。

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ウィスコンシンで会った人々 その68 講中噺 

リーダーを中心に今も昔も団体旅行は盛んである。古くは伊勢詣や熊野詣、金比羅詣りなど信心深い人々。先達というまとめ役を先頭にして何日もかけて無病息災を祈って出掛けた。

相模国、神奈川県の名山に大山がある。丹沢の山々とともに丹沢大山国定公園に属し、日本三百名山や関東百名山の一つで美しい姿をみせている。大山は江戸時代に山岳信仰で盛んになった大山詣りで知られている。江戸からは先達が中心となって講中という相互扶助組織の男達が団体で山に登った。

大山の山頂には大きな石を御神体として祀った阿夫利神社の上社があり、中腹に阿夫利神社下社、大山寺が建っている。大山は別名を「阿夫利山」、「雨降り山」ともいわれる。阿夫利神社には雨乞いの神を祀られている。大山はもともと女人禁制。大山詣りというのは表向きで、大山詣りの後には男たちの楽しみがあった。男だけの大山講になっていた。

講中噺の古典落語の代表が「大山詣り」。ホラ吹きの熊による講中の金沢八景沖における水難遭難報告から、女房連中が一斉に剃髪して尼になるという噺である。途中のエピソードは飛ばすが、主人公のホラ熊が大山詣りから長屋に一人で帰ってくる。そして残された女房達に男連中は全員溺れて死んだと報告する。そして自分は、僧侶になって菩提を弔うためといって坊主頭を見せる。それを見た女達は遭難を信じてしまう。ホラ熊に唆されて尼さんになろうとして剃髪する。

そうとは知らない講中の一行。帰ってみると、長屋中「忌中」の札が張ってある。そして百万遍が聞こえてくる。

ホラ熊 「さ〜ぁ、みなさん、死んで間もないから、亡者が入口あたりで騒いでいる、しっかりお念仏を唱えてくださいよ。」
女房達 「あら、いやだ。うちの旦那だわ。」
男達 「誰がこんな事を。熊の野郎か。お前は決め式で坊主になったのだろう。」
ホラ熊 「ワラジを履いている内は旅の最中だ。腹を立てたら二分ずつ出しな。」
男達 「う〜ぅ。先達さ〜ぁん、、、?」
先達 「これは目出度い事だ。」
男達 「あんたのかみさんも坊主なんだぞ?どこが目出度いんだ?」
先達 「お山は晴天、家へ帰ればみんなが坊主、お毛が(怪我)なくってお目出度い。」

A1903450-1_im  阿夫利神社118925619777716113779 相模の大山

ウィスコンシンで会った人々 その67 吝嗇噺

以前、「ドケチ噺」を取り上げた。ケチは吝嗇ともいう。広辞苑には「吝嗇」を過度にもの惜しみをすることとある。度を越した節約ぶり、ケチのことである。かつては、落語では「三ぼう」という言葉があった。どんな観客にも不快を催させない、といわれそれぞれの語尾からとられた。

まずは「泥棒」。落語の中ではどんなに悪く言っても、自ら名乗りでて怒鳴り込んでくる泥棒はいない。次に「けちん坊」。わざわざ金を出して噺を聴き笑いに来る客にケチな人はいない。最後は「つんぼう」。耳の聞こえない者は落語を聴きにこない。今では差別語とされるが、落語の噺なのでお許しをいただこう。

▽吝嗇にまつわる小咄がいろいろとある。ケチの人間を俗に「六日知らず」という。なぜなら一般に日付を勘定するときには、「1日、2日、、」と指を折っていくが、吝嗇家は6日目を勘定しようとすると、一度握った指を開くのが惜しくなってしまうそうだ。

▽ある男の向かい側の家が火事で丸焼けになった。それを知った男は、妻に焼け跡から種火を取って来させようとした。当然、相手は怒る。男はふてくされ、「今度こっちが火事になっても、火の粉もやらん」

▽ある大店の旦那。10人の使用人を雇っていたが、節約のために5人にする。それでも仕事に余裕があるので、その5人も解雇し、夫婦だけで経営を続ける。主人は自分ひとりでも仕事が間に合う、というので妻と離縁し、最後には自分自身もいらない、と自殺してしまう。

▽ケチの親子が散歩をしていると、父親が誤って川に落ちてしまう。泳げない息子は通行人に助けを求めるが、ケチの通行人は「助けはお代次第」という。値段交渉になり、2千円、3千円、4千円と値が釣り上がっていく。沈みかけている父親が叫んでいわく「もう出すな! それ以上出すなら、俺は潜る(または、「それ以上出すぐらいなら、もう死んでしまう」)」

▽店の内壁に釘を打つことになり、主人は丁稚に、隣家からカナヅチを借りてくるよう命じる。丁稚は手ぶらで帰ってきた。隣家の主に「打つのは竹の釘か、金釘か」と聞かれ、丁稚が金釘だ、と答えると、「金と金(金属同士)がぶつかるとカナヅチが擦り減る」と言って貸してくれなかったという。主人は隣人のケチぶりにあきれ果てて、「あんな奴からもう借りるな。うちのカナヅチを使え。」

▽男は「1本の扇子を10年もたせる方法」を考案した、と言い出す。半分だけ広げて5年あおぎ、次の5年でその半分をたたんで、残りの半分を広げて使う、というものだ。男は「始末はしてもケチはしてはいかん」と評し、「わしなら孫子の代まで伝えてみせる。扇子は動かさんと、顔の方を動かす」。

▽うなぎ屋の隣に住んでいる男。飯時になると、うなぎ屋から流れてくるかば焼きを焼く匂いをおかずにして飯を食べていた。それを知ったうなぎ屋が、月末に「匂いは客寄せに使こうてるさかい、代金を支払え」と言って家に乗り込んでくる。

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ウィスコンシンで会った人々 その66 死人噺

猛暑の時候。少しは涼しくなる話題といきたい。以前「片棒」という演目を紹介した。赤にし屋ケチ兵衛はある時三人の息子のうち一人に店の身代を譲ろうと考え、三人の金銭感覚を試すために自分が死んだらどんな葬式をだしてくれるかを話させる、という演目であった。自分が死んで入れられている棺桶の片棒を自分が担ごう、と申し出るケチの噺である。

長屋に住むのが卯之助。あだ名を「らくだ」という男。そのらくだの長屋に、ある日兄貴分の熊五郎がやってくる。返事がないので入ってみると、何とらくだが死んでいる。フグにあたったらしい。兄弟分の葬儀を出してやりたいが、熊五郎だが金がない。考え込んでいると、上手い具合に屑屋の久六がやってきた。早速、久六を呼んで室内の物を引き取ってもらおうとするが、それまで久六はらくだの家財道具はガラクタばかりを引き取らされたらしく断られる。ますます困る熊五郎。

「月番を呼んでこい」と久六を月番の所に行かせ、長屋から香典を集めてくるよう言いつけさせるの。久六は断るが、仕事道具を取られ、しぶしぶ月番の所へ。「らくだが死んだって? フグもうまくあてやがったか!」と喜ぶ月番。香典の申し出には「一度も祝儀を出してもらったことはない」と断るが、結局「赤飯を炊く代わりに香典を出すよう言って集めてくる」と了承した。

安心した久六だが、らくだ宅に戻ると今度は大家の所に通夜に出す酒と料理を届けさせるよう命令される。ところが、大家は有名なドケチ。そのことを話すと、熊五郎は「断ったらこう言えばいい」と秘策を授ける。死骸を文楽人形のように動かし、久六に歌わせて「かんかんのう」と踊らせる。本当にやると思っていなかった大家、縮み上がってしまい、酒と料理を出すと約束する。

可哀想に、またもや久六は八百屋の所へ「棺桶代わりに使うから、漬物樽を借りてこい」と言い渡される。しぶしぶ行くとやはり八百屋はらくだの死を喜び、申し入れは断わる。久六が「かんかんのう」の話をすると「やってみろ」と言われる。「つい今しがた大家の所で実演してきたばかりだ」と言うと「何個でもいいから持っていけー!」。

これで葬式の準備が整った。久六がらくだ宅に戻ると、大家の所から酒と料理が届いている。熊五郎に勧められ、しぶしぶ酒を飲んだ久六。ところが、久六という男、普段は大人しいが実はものすごい酒乱。呑んでいるうちに久六の性格が豹変する。もう仕事に行ったらと言う熊五郎に暴言を吐き始める。これで立場は逆転、酒が無くなったと半次が言うと、「酒屋へ行ってもらってこい! 断ったらかんかんのうを踊らせてやると言え!!」

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ウィスコンシンで会った人々 その65 親孝行噺

越後の小さな松山村に、18年間毎日両親の墓参りを欠かさないという百姓がいた。名前は正助。それがお上に聞こえ、褒美を貰うことになる。無欲な正助は、地頭が申し出る褒美に全く関心を示さない。「金を貰えばそれを使って働かなくなる」とか、「土地をもらっても小作人を雇わなければならない」、「新しい服をもらっても着る機会が無い」、、といって断る。地頭も正助の真面目さに少々困惑する。そして正助に云う。「それでは、お前が欲しいものを必ずかなえてやろう」

正助はそこで「18年前に死んだ父親に、夢でもいいからもう一度だけ会いたい」という。困った地頭、思案して「父親は何歳で無くなったのか」ときく。45歳であることがわかる。そして正助も45歳であった。二人は瓜二つの顔をしていたことを聞き出す。しめた、とばかり地頭は家来に鏡を持ってこさせる。松山村には鏡というものがなかった。

正助は鏡を見て「おとっつあん、、、」と感涙にむせぶ。まだ鏡というものを知らない。それを大事に持ち帰り、納屋の古葛籠中にしまっておく。それからは、毎日納屋に通い、とっつあんに会うのである。正助が蔵に出入りするのを不思議がった女房のお光が、正助のいない間、納屋に入って鏡を見つける。それを見て驚く。「何だぁ、この女は?」写った自分を夫の愛人と勘違いし、お光は嫉妬に狂って泣きだす。そして帰ってきた正助とつかみ合いの喧嘩となる。

そこに通りかかった隣村の尼。二人の話に割って入り、二人の言い分をきいてから、「その女に会ってみるべ、、」ということになる。鏡をみると二人にいう。「正さん、お光さん、喧嘩しちゃいかん、お前さんらが喧嘩するんで、この女きまりが悪いって尼さんになって詫びている、、、、」
この演目は「松山鏡」。文楽や志ん生名人の話芸は聞き応えがある。

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ウィスコンシンで会った人々 その64 地噺と「塩原多助一代記」

この落語シリーズの46で「鰍沢」という地噺を取り上げた。http://naritas.jp/wp1/?p=1969
地噺は笑いを誘うというよりは、語りで聞かせようという落語である。今回は、五代目名人古今亭志ん生が演じる「塩原多助一代記」である。演目のようにかなり長大なストーリーとなっている。落語でしばしば演じられるのは、「多助序」と「青との別れ」である。

塩原多助は実在の人物で、後に「塩原太助」となり江戸で冨をなした人といわれる。そのためか、歌舞伎や浪花節の演目としても脚色されたようである。以下、「多助序」と「青との別れ」である。
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裕福な塩原角右衛門が亡くなる。彼には後妻のお亀がいた。その腹違いの息子、多助が将来家を継ぐはずなのだがお亀には邪魔になり、色と欲に目がくらんで愛人、原丹治と一緒に多助を亡き者にしようと画策する。

ある夜、お亀は多助に隣の元村まで油を届けるように頼む。その途中で多助を殺す手はずをする。多助は愛馬、青を曳いて出掛ける。ところが隣村との境にくると青がどうしても先へと進もうとしない。なんとしても青は動かない。困っているとそこに朋輩の円治郎が通りかかる。事情をきいた円治郎が代わって青を曳いて隣村に向かう。そしての元村の庚申塚で円治郎は丹治にめった切りにされる。青は逃げ帰る。

多助が家に戻るとお亀は驚く。そして多助が円治郎を殺したに違いないとでっち上げる。馬の青が丹治を見ると激しくい鳴くのを多助は見て、丹治が円治郎を殺したことを確信する。多助はもはや塩原家に住まうことは困難だと判断し青と別れ江戸に向かう。

落語は笑うだけでない。会話や仕草といった通常の演出を避けるのが地噺。叙物語をしみじみ聴くことにも楽しみがあると思うのである。「多助序」と「青との別れ」はそれを感じさせてくれる。

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ウィスコンシンで会った人々 その63 富くじ噺

「富久」という演目は古き良き江戸の風物や庶民の姿を描いている。江戸の華といわれた火事と富くじが舞台である。富くじは、寺社にとっては大切な収入源。あちこちに広がって行ったため、江戸幕府は禁止令を出したほどだ。だが寺社普請のための富くじが再開される。幽霊話にも富くじや博打がでてくる。今も昔も宝くじは廃れることがない。

幇間の久蔵。人間は実直だが大酒のみが玉に瑕。酒の上での失敗で仕事にあぶれている。幇間とは男芸者。年の暮れ、久蔵は深川八幡の富札をなけなしの一分で買う。深川八幡は富岡八幡ともいわれる。札は「松の百十番」。一番富に当たれば千両、二番富でも五百両。ところでWikipediaによれば、一両は今の6〜10万円、一分は1〜4万円といわれる。

久蔵は長屋の大神宮の神棚に札をしまい、「二番富でも当たるように」と柏手をうつ。とある夜更けにまた半鐘の音。今度は久蔵の家がある浅草方向というのだ。久蔵急いで長屋に戻ると既に遅く、家は丸焼け。仕方なく出入り商人の居候になる。

数日後、深川八幡の境内を通ると、ちょうど富くじの抽選。「オレも一枚買ったっけ」と思い出したが、あの札も火事で焼けちまったと、諦め半分で人混みの興奮を見ている。
役人 「一番、松の百十番」
久蔵 「あ、当たったッ」

久蔵は卒倒した。今すぐ金をもらうと二割引かれるが、そんなことはどうでもいい。「冨札をお出し」と役人からせっつかれる。
久蔵  「札は………焼けちまってないッ」

「水屋の富」という演目も富くじが主役である。そして江戸時代に流行った「水屋」が主人公である。玉川上水とか神田上水がつくられたのは江戸時代。これによって水が曳かれた。それでも桶に水を入れて担いで売る「水屋」が多かったといわれる。坂の多いのが江戸の町。重くて安い料金だが、お得意さんが待っているから一日も休めない。

ある水屋が、大事な金をはたいて富くじを買う。それが、幸運にも千両が当たる。「水屋から足が洗える」と大喜びで、手数料の二割を引かれた八百両を持ち帰る。しかし、水屋はお得意さんが待っているので、代わりが見つかるまで辞めることができない。

お宝の八百両の隠し場所にも水屋は困る。持ち歩くわけにもいかず、悩んだ挙句、ボロ布でくるんで縁の下に隠す。やれ安心と商売に出てみるが、周りがすべて泥棒に見える。商売もそこそこに家に戻って、縁の下のお宝を確かめて安心して寝るのだが、今度は泥棒が夢に現れて殺される夢ばかり見る。毎日これの繰り返しで、水屋はもうフラフラ。

水屋が毎晩縁の下を確かめるのを見ていたのが隣の遊び人。何かあるなと縁の下を探して、お宝を見つけそっくり盗んでしまう。戻ってきた水屋、縁の下のお宝が無くなっている。そして一言、「これで苦労が無くなった」。

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ウィスコンシンで会った人々 その62 習い事噺

人は,余裕がでてくると何か習い事をしたくなる。筆者もそうである。そこで始めたのは囲碁である。結局はものにならないということが多い。どうも真剣味が足りないというところらしい。昇段の決勝戦で何度も敗れた。それ以来、昇段ということを気にしないで、無心に打つことを心掛けている。

習い事を始める男を可笑しく取り上げた演目が「あくび指南」であり「寝床」である。今でいうカルチャーセンターに通う者が主人公である。江戸時代、茶の湯、長唄、常磐津、新内などを習うことが粋とされたようである。「欠伸」の仕方も教えるという長閑な時代だったのだろう。

「あくび指南」だが、町内に変わった看板がかけられる。黒々と「あくび指南所」とある。妙齢の女性が掃き掃除をしている。この女が教えてくれるのだろうと、若い衆はすっかり舞い上がる。いろいろな稽古処があるのだが、あくびの指南は珍しい。金を払って習う指南所なので、なにか有るに違いないと、好奇心の旺盛な男が友達を誘ってでかける。

男達は妙齢の女性が応対してくれると出掛けると、そこに指南役の旦那が現れる。名前は「長息災欠伸」。男たちはガッカリする。指南役がいうには、普段やっているあくびは、「駄あくび」、一文の値打ちもないと云う。そして「あくびという人さまに、失礼なものを風流な芸事にするところに趣があるのだ」と講釈する。男どもには、なんだかわからない。そして夏のあくびの指南が始まる。それを眺めていた同輩が欠伸をし始める。

「寝床」は大店の旦那が主人公である。義太夫を始めた旦那、どうしても習い事の成果を披露したくて、人前で騙りたくなる。店の者達は、旦那のだみ声や唄いに辟易している。最初のお披露目は、お付き合いもあって、近所の長屋連中が仕方なしにやってくる。そしておべんちゃらを振っては、「良かった、良かった、またやってくれ、、」という。それに気をよくした旦那、二回目の講談会をやろうとする。

丁稚が旦那の指示で触れ回る。だが誰一人として参加したいという者はでてこない。「旦那の義太夫をきくと義太熱にやられる」、「酒を飲んで聞かないと、神経がやられる」なんていうのもでてくる。「風邪をひいた」、「成田山へお詣りの約束がある」、「かみさんが臨月だ」、「法事に出す生揚げやがんもどきをたくさん発注されて忙しい」といった口上を述べては断る。

そこで旦那、「今回は店の者に義太夫をきかせる」と宣言する。丁稚や小僧達はこれまた「飲み過ぎた」、「眼から涙が出てとまらない」といって全員仮病をつかってでようとしない。旦那は怒って店の者は全員クビだ、長屋の住人には「店立て」、強制退去という乱暴なことをいいだす。追い出されては大変とばかり、長屋の連中は義太夫を聞きにくることになる。旦那はそれが気にくわない。そして義太夫が開始する。だが、だが神経を麻痺させようとして酒を飲んできた長屋一同、途中から居眠りを始める。

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ウィスコンシンで会った人々  その61 人情噺と「妾馬」

お馴染み八五郎が登場する演目に「妾馬」がある。別題は「八五郎出世」。人情噺にいれてよい内容で、江戸時代の庶民と殿様の生活振りも伺い知れる佳作である。

道楽男の八五郎。妹に器量よしのお鶴がいる。このお鶴は、お殿様に見染められて奥に入る。やがて男の子を産み「お鶴の方」と呼ばれるようになる。八五郎は、殿様に招かれて出掛ける。そのとき、長屋の大家に「言葉の頭に『お』の字をつけ、語尾には『奉る』を付けろ」といわれる。お世取りの意味が解らず鳥の一種か何かだと思い込んでしまう。

殿様の前で、八五郎が自分の名前に『お』の字を付けたり、『奉る』を付けるので、殿様さっぱりわからない。そこで朋友の前で使う言葉づかいにするようにと云われる。「殿様、話がわかる、、」といって八五郎の無礼講が始まる。「八五郎、そちはササを食するか?」そして、酒肴がどっさり出てくる。すっかりいい気持ちになって、ふと見ると殿様の隣に妹のお鶴が着飾って座っている。

八五郎 「お鶴、綺麗だな、赤ん坊も可愛いな、お袋が喜んで言っていたぜ。初孫なのでおしめを洗ってやりたいが身分も違うのでそれもかなわないと」
八五郎 「早く赤ん坊を抱けるような時代がくればええな、、、とお袋がいっていたぜ、」
八五郎 「お鶴、、、子供ができたからと自惚れてはいけないぞ、」

この下りが「妾馬」の最高潮の場面である。八五郎は「話が湿っぽくなったな、、」といってざっかけない自分の話題にひき戻す。「古典落語は単に笑わすのじゃなくて泣かすことも大事なのだ。」と誰かが言っている。初孫を見たいお袋の姿を演者はしみじみと語る。まるで新しい芸の境地を切り開くような落語である。

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ウィスコンシンで会った人々 その60 ドケチ噺

ドケチとかしみったれ、というのは落語の定番の話題になる。ケチは「吝嗇」ともいう。

吝嗇を笑う「味噌蔵」を取り上げる。
独り身の味噌屋の主人ケチ兵衛。嫁をもらうと子供ができれて経費がかかってしかたがないといまだに独身。心配した親類一同が、どうしても嫁を持たないなら、今後一切付き合いを断る、と脅したので、泣く泣く嫁をもらう。

やがて嫁さんは妊娠。臨月が来たらかみさんを実家に押しつけてしまえばいい。そうすれば費用はみなあちら持ちだ。ケチ兵衛はやっと一安心する。無事男子を安産の知らせが届いたので、ケチ兵衛は小僧の定吉をお供に出かけることにする。旦那が出かけると、奉公人一同、このチャンスにと、のみ放題食い放題、日ごろのうっぷんを晴らそうと番頭に申し出る。

なにしろ、この家では、朝飯の味噌汁が薄くて実なし。番頭が、勘定は帳面をドガチャカごまかすことに決め、寿司に刺身、鯛の塩焼きに酢の物と、ごちそうをあつらえる。相撲甚句に磯節と、陽気などんちゃん騒ぎ。そこにケチ兵衛が帰ってくる。
「片棒」の吝嗇は馬鹿息子の間抜けさを引き合いにした笑いが中心である。赤にし屋の主人ケチ兵衛は、身代を築いたケチな旦那。三人息子の誰かに跡目を継がそうかと考える。そこで息子達の金銭感覚を試すために、「もし私が明日にでも死んだらどんな葬式にするか」と質問した。

長男の金蔵は、立派な葬式を出すべきだ、と言う。通夜は二晩行い、本葬は大寺院を借り、50人の僧侶に読経させ、会葬客の食事は折り詰めでなく豪華な重箱詰めにし、東西の酒を揃え、客の帰りには交通費や豪華な引き出物を渡すべきだと言う。ところがケチ兵衛はカンカン。「そんな葬式なら自分もでたい」と呆れさせる。

次男銀蔵は、葬式はイキに色っぽくやるべきだと主張する。町内中に紅白の幕を張り巡らせて、木遣唄や芸者衆の手古舞ではじめ、ソロバンを持ったケチ兵衛そっくりのからくり人形を載せた山車や主人の遺骨を積んだ神輿を神田囃子に合わせて練り歩かせるというのだ。最後に花火を打ち上げて落下傘をつけた位牌を飛ばすといった葬式。銀蔵は怒った父親に部屋から追い出される。

三男銅蔵は質素で倹約家。「死骸はどこかの高い丘に置いて鳥葬にしよう」と言う。さすがに主人が嫌がると、しぶしぶ通夜を出す案を話す。「出棺は11時と知らせておいて、本当は8時ごろに出してしまえば、客への茶菓子や食事はいらないし、持ってきた香典だけこっちのものにすることができる。早桶は物置にある菜漬けの樽を使う。そうして臭い物には塩をまいて蓋をする。樽には荒縄を掛けて天秤棒で前後ふたりで担げるよう運ぶようにする。人手を雇うとお金がかかるから、片棒は自分が担ぐ。でも、一人では担げないからもう片棒は人を雇る。」ここでケチ兵衛が銅蔵を制し、「心配するな。片棒は俺が担いでやる」

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ウィスコンシンで会った人々 その59 藪医者噺

落語にでてくる医者はどれも頼りない。江戸時代には今のような免許制度なく、医術の心得がなかろう医者になろうと思えば誰でもなれた。藪医者とは「藪のように見通しがきかない」という説がある。「藪にも至らない」という意味を込めて「筍医者」というのも落語での枕にでてくる。ヘボ医者ということのようだ。

それでも真面目に医術を習得しようとする者は、医者に弟子入りする。そして師匠に腕を認められ、代診の期間を経て独立を許され開業する。治療だが、主として薬草を煎じ薬、貼り薬や塗り薬を処方したようである。そして小石川養生所ができたのが1722年。困窮者救済が主たる役目だった。山本周五郎の「赤ひげ診療譚」は、長崎で修行した医師保本登と赤ひげ、そして不幸な人々の救済物語である。

医者に関する二つの演目を紹介する。まずは「夏の医者」。夏の暑い盛りの昼間、ある村の農夫が仕事中に倒れる。村には医者がおらず、叔父に相談すると「山向こうの隣村にお医者の先生がいる」という。息子は山すそを回って長い道のりを行き、往診を頼みに向かう。

さて、息子と医者は山道を向かうが、歩き疲れて山頂で少し休憩をとろうと横になる。すると急にあたりが真っ暗になる。医者は「この山には、昔から住むウワバミがいる、これはおそらく腹の中に飲まれてしまったな。このままでは、足の先からじわじわ溶けていく」脇差を忘れてしまったので、大蛇の腹を裂いて出ることもできない。思案した医者は薬箱から大黄の粉末を取り出し、周囲にたっぷりと振りまく。胃袋に下剤を浴びせられた大蛇は苦しんで大暴れする。「薬が効いてきたな。向こうに灯が見える。あれが尻の穴だ」ふたりは、外に放り出される。ところがウワバミの中に肝心の薬箱を忘れてしまう。そして取り返そうとしてウワバミにもう一度飲み込んでくれと頼む。ウワバミは首を振って、
「夏のイシャは腹に障る。」

「代脈」であるが、尾台良玄という名医に銀南という弟子がいた。ごひいきの商家に綺麗な娘がいて療養していた。良玄はこの銀南を初めての代脈に行かせることにした。少々与太郎気味の銀南であったので、詳しく挨拶の仕方、お菓子の食べ方、お茶の飲み方から脈の取り方など、娘の対応の仕方を指南する。特に診察の仕方をこと細かに説明する。特に娘の左の腹にあるシコリには絶対触ってはならないと言い聞かせる。シコリは放屁だというのだ。

銀南は、丁寧に挨拶してひざをついて娘に近づき挨拶をする。脈を診て、舌を診て、胸から小腹を診る。銀南は、綺麗な娘がオナラをするはずがないと思い込んでいる。これが大きな間違い。止せばいいのにシコリの部分をグッと押す。たちまちものすごい音が響き渡った。銀南は、「最近のぼせの加減で耳が遠くなっているのでなにも聞こえなかった」と白をきる。娘の母親が、「大先生もそのようなことを仰ってましたが、若先生ものぼせでございますか?」
「ええ。ですからさっきのオナラも聞こえませんでした!」

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ウィスコンシンで会った人々 その58 夫婦噺

お馴染み八五郎が、町内のご隠居のところにやってきて、質屋の婿養子が死んだと伝える。気の毒なことに、これで婿養子が亡くなったのは三度目。

隠居は「婿養子が短命なのは、妻が美人なのが元だ」と言う。「タンメイ?」「早死にすることを短命という」「じゃあ逆に、長生きのことは何と?」「長命だ。」夫が短命なのは妻が美人だから、という隠居の講釈を理解できない八五郎に、隠居は次のような話をした。

「食事時だ。お膳をはさんで差し向かい。おかみさんが、ご飯茶碗を旦那に渡そうとして、手と手が触れる。おかみさんの手は白魚を5本並べたように透き通るようだ。そっと前を見る。……身震いするような、いい女だ。……短命だよ。」
八五郎は何のことだかわからない。

「そのうち冬が来るだろう。二人でこたつに入る、何かの拍子で手が触れる。白魚を5本並べたような、透き通るようなおかみさんの手だ。そっと前を見る。、、、ふるいつきたくなるような、いい女だ。、、、短命だよ。」
八五郎はこれでも何だかわからない。

ご隠居は次に、以下のような川柳で説明しようとする。
”何よりも傍が毒だと医者が言い”

ようやく八五郎は、隠居の意趣が分かる。隠居は婿養子たちは房事過多で死んだのだと言いたかったのだろうと。隠居宅から自宅に戻った八五郎は、戻るなり妻に怒鳴られる。「なぜ短命な婿養子たちと、俺はこうも違うのだろう」と幻滅する。八五郎は昼飯を食べる際、ふと思いついて妻に話しかけた。

「給仕をしろ。茶碗をそこに放り出さず、ちゃんと俺に手渡すんだ」
妻は茶碗を邪険に差し出す。夫婦の指と指が触れ、「そっと前を見る。……」妻の姿を見つめた八五郎は深くため息して、「ああ、俺は長命だ。」

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ウィスコンシンで会った人々 その57 半可通噺

笑いの中では、知ったかぶりをする者が出てきて、それをおちょくる者が出てくる。当人は、笑われていることに気がつかないところに可笑し味がある。その代表が「酢豆腐」という演目である。数年前に朝ドラで落語ブームに火をつけたのが上方落語の「ちりとてちん」である。江戸落語では「酢豆腐」となっている。

近所の男が、旦那の誕生日だというので訪ねてくる。旦那は白菊、鯛の刺身、茶碗蒸し、白飯でもてなす。出された食事に嬉しがり、「初めて食べる」、「初物を食べると寿命が75日延びる」とべんちゃらを言い、旦那を喜ばせる。そのうち、裏に住む竹という男の話になる。この竹、何でも知ったかぶりをするため、誕生日の趣向として、旦那達は竹に一泡吹かせる相談を始める。水屋で腐った豆腐が見つかり、これを元祖 長崎名産「ちりとてちん」として竹に食わせるという相談がまとまる。そうとは知らずに訪れた竹が、案の定「ちりとてちん」をよく知っていると言う。台湾旅行のときは毎日食べた大好物だというのである。そこで「ちりとてちん」食わせると、一口で悶え苦しむ。旦那が「どんな味や?」と聞くと、竹曰く「ちょうど豆腐の腐ったような味や・・・」。半可通のことを「酢豆腐」と呼ぶようになったのは、この噺からだといわれる。

既述した演目であるが「千早振る」に出てくる「先生」の異名を持つ隠居も知ったかぶりの代表だろう。百人一首の一句「ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」の意味を知りたいといってきたのが八五郎。隠居は戸惑うのだが、頓智を働かせて八五郎に説明する。隠居は「ちはやぶる」が枕詞であることを知らない御仁なのである。それを、「千早」という女性が無男の竜田川という相撲取りを袖にする、というようにでっち上げる。それを真に受ける八五郎の反応になんともいえない滑稽さがある。

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ウィスコンシンで会った人々 その56 祭噺

現在の聖路加国際病院近くにある隅田川の対岸は、高層マンションで囲まれている。この一角に佃住吉神社がある。江戸時代には、汐入や千住の渡しとともに隅田川最後の渡し舟があったところといわれる。江戸に摂津国から移住した漁師たちが、石川島近くの砂州に築島して定住することとなり、この島を故郷である佃村にちなんで「佃島」と命名したとある。住吉神社の夏の祭礼で賑わうのが「佃祭」であった。その祭礼では雑魚を煮詰めたものを供えていた。これが佃煮である。保存性のよさと値段の安さから江戸庶民に普及した。

江戸時代から伝わる年中行事の祭や花火は今が最盛期。江戸の祭りといえば、神田明神で行われる神田祭、官幣大社の日枝神社で行われる山王祭、そして富岡八幡宮で行われる深川祭である。落語には祭りをめぐる笑い噺が結構ある。今回は東の「佃祭」と西の「祇園会 」を取り上げる。

昔、神田は岩本町に於玉ヶ池というのがあって、北辰一刀流の道場「玄武館」があったらしい。このあたりで小間物問屋を営んでいたのが次郎兵衛。佃祭に出掛け、最後の渡し舟で帰ろうとする。満員の舟に乗ろうとしたとき、一人の女に引き留められ渡しに乗りそびれる。女は詫びながら実は三年前、奉公先の金を紛失してしまい、本所一ツ目の橋から身を投げるところを次郎兵衛に助けらたと告白する。次郎兵衛は女のことを思い出し、仕方なく船頭の辰五郎と所帯をもつこの女のところに行くことになる。

辰五郎が帰ってくると、外が騒がしい。渡し舟が重みで沈没したという。一人も助かったものがなく、川岸は死体の山だという。沈んだ渡し舟に次郎兵衛が乗っていたらしいというので、次郎兵衛の住む長屋は大騒ぎ。忌中という札をだし、棺桶を用意したり、弔問客に対応したりでてんやわんや。やがて夜明けに辰五郎に送られた次郎兵衛が、そんな騒ぎとも知らずに長屋に帰ってくる。読経の声がきこえる。はておかしいと家をのぞくと、驚いたのは長屋の面々。次郎兵衛を幽霊だと勘違いして大騒ぎ。これを聞いた長屋の月番の一人与太郎、自分も誰かを助けようと身投げを探して永代橋へでかける。

東山区八坂神社の祭礼で知られるのが祇園祭である。祇園祭は数々の祭りでも豪華絢爛さで知られる京都の三大祭のひとつ。その他上賀茂神社と下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭がある。「祇園会 」は江戸からの一見さんと京男との奇妙な会話がお国自慢に発展し、はては大喧嘩になるという噺である。

江戸っ子の八五郎、祇園祭の時期に京にやってくる。話の種にと叔父の案内で祇園の揚屋の二階を借り、酒を飲みながら祭見物をすることになる。ところが、当日になって叔父が急に来れなくなり、代わりに叔父の友達だという源兵衛がやって来る。これがそもそもの間違いとなる。

京者の源兵衛はやたらとお国自慢をする男で、何かにつけて「京は王城の地」とうるさいのなんの。「酒は伏見、人は京。なんて言うたかて京は『王城の地』どすからな。江戸とは違いますわ。」ちょっとカチンときたものの、八五郎ここで怒っては江戸っ子の評判を下げるので我慢する。

それに気をよくしたのか、源兵衛とうとう禁句を口にしてしまう。
「江戸ッ子なんか、所詮は東夷の田舎者、武蔵野の国の「むさい者」どすな。」

ここで遂に八五郎の堪忍袋の緒が切れる。
「いくら古いか知らないが、こんな抹香臭い所はもうたくさんだ!!」

そこからは土地柄から食べ物、果ては祭囃子まで飛び出す壮絶なお国自慢が始まる。
「御所の紫宸殿の砂利を掴んでみなはれ、”おこり”が落ちるちぃまんにゃ。」( おこりとは悪性の流行病)
「それがどうした!? こっちだって江戸城の砂利を掴んでみろい、、、」
「どうなります?」
「首が落ちらぁ!」

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ウィスコンシンで会った人々 その55 間男噺

「間男」とは広辞苑によれば「有夫の女が他の男と密通する」とある。この間男を話題とする落語も結構ある。古今東西、不倫は人間の興味の尽きない話題である。古典落語では、間男は陰険な男女関係を描くよりも、女性のたくましさとか男性のか弱さによって健康な笑いを醸し出すようなところが多い。男性中心社会へのささやかな抵抗といった文化も感じられる。ジェンダー研究の下地になるようだ。

間男を扱う演目に「紙入れ」がある。新吉という貸本屋の丁稚がいる。この本屋に出入りするおかみさんに誘惑される。そして旦那の留守中に迫られる。だが旦那が予定を変更してご帰宅。慌てた新吉はおかみさんの計らいで辛うじて脱出する。ところが、旦那からもらった紙入れを忘れる。紙入れにはおかみさんからの誘いの書き付けが入っている。

焦った新吉は逃亡を決意するが、ともかく様子を探ろうと、翌朝再び旦那のところを訪れる。出てきた旦那は落ち着き払っている。変に思った新吉は、昨夜の出来事を語ってみるが、旦那はまるで無反応。ますます混乱した新吉が考え込んでいると、そこへ浮気相手のおかみさんが通りかかる。旦那が新吉の失敗を話すと、おかみさんは「浮気するような抜け目のない女だよ、そんな紙入れが落ちていれば、旦那が気づく前にしまっちゃうよ」と新吉を安堵させる。サゲだが、旦那が笑いながら続けて「まあ、たとえ紙入れに気づいたって、女房を取られるような馬鹿だ。そこまでは気が付くまいて。」

既にこの欄で取り上げた演目「締め込み」も間男を疑う旦那と女房と盗人との可笑し味ある対話である。ある盗人が家に入り、箪笥をあけて衣類を風呂敷で包み、さあ逃げようとするとき旦那が帰ってくる。盗人はあわてて台所の床下にもぐりこむ。風呂敷包みを開けると、そこに女房の衣類が入っている。さあ、これは女房が間男して駆け落ちしようとしているに違いないと、旦那は動転する。そこに女房が帰ってきて大騒ぎとなる。

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ウィスコンシンで会った人々 その54 盲人噺

盲人が主人公の落語も結構ある。「心眼」という演目はほろりとして、また酒と夢、女が絡む可笑し味もある古典落語である。そのあらすじだが、目が不自由な按摩の梅喜、女房のお竹に慰められ、目があくようにと薬師如来に三七、二十一日の日参をする。それが叶って眼がみえるようになる。

得意先の上総屋の旦那から、女房のお竹は醜女だが、気だてのよい貞女であることを聞かされる。梅喜はわが女房ながらそんなにひどいご面相かとがっかり。そこで昔の馴染みの芸者、小春と一緒になろうと待合で酒を酌み交わす。

二人が富士横町の待合に入ったという上総屋の知らせで、お竹が血相を変えて飛び込んでくる。梅喜の胸ぐらをつかんで、
「こんちくしょう、この薄情野郎っ」
「しまった、勘弁してくれっ、おい、お竹、苦しいっ、、」

途端に梅喜は、はっと目が覚める。
「うなされてたけど、悪い夢でも見たのかい」という優しいお竹の言葉に、梅喜我に返って、
「あああ、夢か。。。お竹、おらあもう信心はやめるぜ」
「どうして?」
「目が見えるって妙なものだ。寝ているうちだけ、よぉく見える……」

「景清」は眼を治そうと一心に清水寺に日参し南無妙法蓮華経と唱える定次郎の話である。満願の100日目になった。奇しくも観音講にあたる18日で賑わう中、いつもにも増して熱心に願を掛ける定次郎。しかしいくらお願いしても、彼の眼はいっこうに明かない。とうとう怒り出した定次郎。心配して様子を見に来ていた甚兵衛にたしなめられるが、定次郎は涙ながらに答える。「母親が満願の今日に合わせて着物をこしらえてくれた。家で赤飯と酒の用意をして待ってくれている。」にわかに、空がかき曇り雨が降ってきた。稲妻が閃き、雷鳴が轟く。そして、取り残された定次郎に雷が落ち、定次郎は失神する。その衝撃で目が開くというお目出度い噺である。

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ウィスコンシンで会った人々 その53 言葉噺

百人一首からの演目もいくつかある。その一つが「千早振る」という作品である。崇徳院が作ったという「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の、、、」というのも落語の演目となっている。今回は在原業平の「千早ふる神代も聞かずたつた川、からくれないに 水くぐるとは」がテーマである。

八五郎の娘連中は百人一首のカルタ取りをしている。取るだけでは面白くないから歌の内容を調べてみようということになった。そこで八五郎をとおして隠居のところにその歌のわけをききにくる。隠居は2〜3回読み直しているとアイディアがひらめいてきた。「竜田川、、、八五郎、この竜田川は何だと思う」、「川が付くから何処かの川だと思うかい。違うんだな、竜田川ってのはおまえ、相撲取りの名だ」。人気大関の「竜田川」が吉原へ遊びに行った際、「千早」という花魁に一目ぼれするが、肘鉄をくらう。こうなると隠居の一人舞台になって前代未聞の歌の読み解きが始まる。

「たらちね」だが、ある長屋に住む独り者の八五郎が主人公。大家に呼ばれ、「店賃の催促かい?」と勘ぐりながら伺ってみれば、何と縁談話。相手の娘だが、年は二十、それに器量良し、おまけに夏冬のものをいっさい持参という触れ込みの娘である。独り者には願ってもない縁談、しかし話がうますぎる。不審に思った八五郎、大家に問いただしてみると、やはりこの娘には「瑕」があった。厳格な漢学者の父親に育てられたせいで、言葉が改まりすぎて馬鹿丁寧なのだという。八五郎は結局その娘を嫁にもらうのだが、嫁の語り口が何が何だかさっぱりわからなくなる。なお、「たらちね」の漢字表記は「垂乳女」となっている。

「平林」もおかしみがある。丁稚の定吉は、医師の「平林」邸に手紙を届け、その返事をもらって来るよう店主から頼まれる。定吉は、行き先を忘れないように口の中で「ヒラバヤシ、ヒラバヤシ」と繰り返しながら歩くが、結局忘れてしまう。定吉は思い出すため、手紙に書かれた宛先の「平林」という名前を読もうとするが、そもそも字を読むことができなかったことに気づく。

そこで、通りがかった人に、「平林」の読み方をたずねることにする。最初にたずねられた人は「それはタイラバヤシだ」と答える。安心した定吉は、別の人に「タイラバヤシさんのお宅は知りませんか?」と聞くが、要領を得ないので手紙を見せると、その人は「「平」の字はヒラと読み、「林」の字はリンと読む。これはヒラリンだろう」と定吉に教える。また別の人に「ヒラリンさんのお宅は知りませんか?」と聞き、手紙を見せると、「平林」の書き順どおりに「イチハチジュウノモクモク(一八十の木木)と読むのだ」と定吉に教える。さらに別の人が同じように定吉に問われると、「ヒトツトヤッツデトッキッキ(一つと八つで十っ木っ木)だ」。

困った定吉は、教えられた読み方を全部つなげて大声で叫び、周囲の反応をひこうとする。叫びはやがてリズミカルになり、歌のようになっていく。「タイラバヤシかヒラリンか、イチハチジュウノモークモク、ヒトツトヤッツデトッキッキ」

やがて定吉の周りに人だかりができる。そこを通りがかった、定吉と顔見知りの職人の男が駆け寄ると、定吉は泣きながら「お使いの行き先がわからなくなった」と職人に訴える。職人が「その手紙はどこに届けるのだ?」と定吉に聞くと、
「はい、ヒラバヤシさんのところです」

「たらちね」は、和歌に見られる修辞である母を指す枕詞である。独特の情緒を添える言葉となっている。「青丹によし」は奈良を指す、というのは受験勉強でもでてきた。

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