留学を考える その28  ケンタッキー州—Bluegrass State

ケンタッキー州(Ketucky)といえば、(Stephen Foster)が作詞作曲した「ケンタッキーの我が家」(My Old Ketucky Home)を想い出します。70代以上の人なら誰もが聞き口ずさんだことのある哀愁味漂う曲です。フォスターは他にもスワニー河(Swanee River)、オールドブラックジョー(Old Black Joe)、夢見る人(Beautiful Dreamer)など150曲余りを作りました。彼は「アメリカの音楽の父」と呼ばれています。

私と家族はかってジョージアからウイスコンシンへ向かう途中、ケンタッキーをとおりました。「ケンタッキーの我が家」のメロディが浮かんだのはいうまでもありません。ですがMy Old Ketucky Homeが公式な州歌であることを知ったのは、ずっと後のことではあります。

ライセンスプレートには「Bluegrass State」とあります。草原を遠くから眺めると青紫色のつぼみが一面広がり、「青い草」に見えたので名付けられたとあります。ブルーグラス・ミュージック(Bluegrass Music)です。スコットランドやアイルランドの音楽を基にしています。アップテンポ(uptempo)の曲が時代と共に多くなり、速弾きなどのインプロヴァイズ(improvise)即興演奏もあります。お隣テネシー州(Tennessee)でもこの音楽は盛んです。

ケンタッキーはイリノイ、インディアナ、オハイオ、ミズリー州に囲まれ、オハイオ川とミシシッピー川で州境をなしています。東側にはアパラチア山脈(Appalachian Mountains)が聳えていて、豊かな自然に恵まれています。この州はなんといっても「ブルーグラスの州」と呼ばれ、肥沃な土壌からの多くの農産物がとれます。州都はフランクフォート(Frankfort)。最大の都市はルイビル(Louisville)となっています。

レキシントン(Lexington)大都市圏はケンタッキー州の文教地域でもあります。フランクフォートには、アフリカン・アメリカンのための高等教育機関として設置されたケンタッキー州立大学(Kentucky State University)がキャンパスを構えています。また、レキシントンにはケンタッキー大学(University of Kentucky)があります。

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留学を考える その27  カンザス州—Great Plains

カンザス州(Kansas)は地図を見ますと合衆国の「へそ」にあります。北側はネブラスカ州、東側はミズーリ州、南側はオクラホマ州、そして西側はコロラド州となっています。州都はトピカ市 (Topeka)、州最大の町はウィチタ市 (Wichita)です。カンザス・シティ (Kansas City)もミズリー川沿いにある活気のある町です。

州名、Kansasは、ネイティブアメリカンである「Kansa族」に由来します。 「Kansa」とは「風の民」、とか「南風の民」と呼ばれていたようです。かって、ネイティブアメリカンはカンザスでアメリカ・バイソン(bison)やバファローを捕獲して暮らしていたといわれています。部族のほとんどは、西部開拓の影響で西へ北へと追いやられた歴史があります。19世紀初頭に東部の森林地帯から強制移住させられされてカンザスに定住しました。居留地区があちこちにあります。

アメリカの「大平原」(Great Plains)というのは、この州がもっとも当てはまるのではないかと思えるくらいの景色が広がります。平原をさす単語に「prairies」というのもあります。大平原はまさに一大穀倉地帯です。平坦でときになだらかに起伏しているのですが、農業生産品は牛、豚や羊、小麦、トウモロコシ、ひまわり種、大豆、綿、及び塩となっています。ライセンスプレートのデザインはその州を表しますが、カンザス州のは小麦の穂が配置されています。

高等教育機関として、ローレンス市に拠を置くカンザス大学(University of Kansas)、カンザス州立大学(Kansas State University) 、ウィチタ州立大学(Wichita State University)、教員養成カレッジであるエンポリア州立大学(Emporia State University)も人気があります。

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留学を考える その26  アイオワ—America’s Heartland

アイオワ州(Iowa)のライセンスプレートには、穀物を保存するサイロや納屋が背景に印刷されています。トウモロコシと小麦の生産で有名なアイオワが今回の話題です。北はミネソタ州、東はウィスコンシン州及びイリノイ州、南はミズーリ州(Missouri)、そして西はネブラスカ州(Nebraska)及びサウスダコタ州(South Dakota)に囲まれています。州都で最大の都市はデモイン(Des Moines)です。

アイオワには、東がミシシッピー川(Mississippi)、そして西はミズリー川が流れています。豊かな農産物などがこの川を使って運ばれています。アイオワは結構なだらかな丘陵が折り重なって農作物の生産に適しています。

アメリカの中西部は「コーンベルト」と呼ばれトウモロコシの一大生産地です。アイオワはその中で生産量が全米でトップを誇ります。車でどこまで走っても穀倉地帯が広がります。豊饒の地といえましょう。大豆、豚の生産量も全米第一位となっています。従って、穀物市場の金融や流通、そしてバイオテクノロジー研究開発などでも盛んな州です。

アイオワのあたりは、「アメリカの中心」とか「アメリカの心臓部」(America’s Heartland)とも呼ばれて、恐らく世界一の農業地帯であります。アメリカは工業国ではありますが、なんといっても主役は農業なのです。トウモロコシと小麦の生産高からは、アメリカは農業国と呼ぶにふさわしいといえます。

アメリカの小学校では、アメリカの探検と開拓の歴史を学びます。そこに登場するのは、フランスからきたジャック・マークエット(Jacques Marquette)とルイス・ジョリエ(Louis Jolliet) という探検家です。この二人が中西部を探検したのは1670年代の頃です。マークエットはもともとフランスの宣教師でした。一方ジョリエはカナダ、ケベック生まれのフランス人でした。この二人の探検家は一緒に主にミシシッピー川(Mississippi)とその支流を使いアイオワ、ウィスコンシン、ミシガン、イリノイなどを調べメキシコ湾にも到達します。ジョリエの貢献は、彼の名前を付けた町が沢山あることに現れています。

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留学を考える その25 インディアナ—The Crossroads of America

インディアナ(Indiana)の州都はインディアナポリス(Indianapolis)。ちょうど鉄道や沢山のインターステイツ(ハイウエイ)が交差するところにあります。また「ユニオン・ステーション」(Union Station)が最初に建てられたところとしても知られています。そのため、ナンバープレートには「The Crossroads of America」と印字されています。合衆国の大きな駅はユニオン・ステーションと命名されているのをご存じでしょうか。

北にミシガン州(Michigan)、東にオハイオ州(Ohio)、東にケンタッキー州(Kentucky)そして南と西にイリノイ州(Illinois)と接しています。北西部はシカゴ市の巨大な都市圏となっていて、産業が盛んです。その中心がゲーリー市(Gary)です。

インディアナはCorn Beltと呼ばれるウモロコシの農場が広がります。トウモロコシは養鶏や養豚の飼料となります。飼料は世界中に輸出されています。アメリカの穀物地帯でもあり、Grain Beltともいわれ、市場を押さえています。その中心がインディアナということです。大豆、鶏卵、メロン、トマト、ブドウ、タバコ、ハッカの生産も盛んです。

州北西部は合衆国内の最大なスチール生産地域となっており、製造業は自動車、電気設備、化学製品、ゴム、石油及び石炭製品、並びに産業機械となっています。研究開発の中心は、インディアナ大学(Indiana University), インディアナ州立大学(Indiana State University)、パディユ大学(Purdue University)、ボール州立大学(Ball State University)、ノートルダム大学(University of Notre Dame)などの大学です。インディアナ大学は1820年に設立された大学システムです。州内に8つのキャンパスを有します。その基幹キャンパスがBloomingtonにあります。
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留学を考える その24 イリノイ州—Land of Lincoln

シカゴ(Chicago)は誰でも聞いたことのある大都会。日本から直行便で12時間、オヘア国際空港(O’Hare International Airport)に着くとそこはシカゴ、イリノイ州(Illinois)です。

ここの州都はシカゴではなくスプリングフィールド(Springfield)です。エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)が弁護士や上院議員として活躍したことで知られています。アメリカは一番大きな街が州都になるとは限りません。例えばカリフォルニアは州都がサクラメント(Sacramento)です。サンフランシスコやロスアンジェルスは遥かに大きな都市ですが州都ではありません。

さて、リンカーンのことです。アメリカ第16代の大統領です。その功績は人種差別運動の先駆者ともいうべき人とされています。その運動の伏線には、ハリエット・ストウ(Harriet E. Stowe)という小説家が書いた「アンクル・トムの小屋」(Ancle Tom’s Cabin)があります。この作品で、当時の黒人の生活と差別の実態が全米の人々に知れ渡ることになります。差別への関心がやがて、アメリカを二分する南北戦争(Civil War)へと展開していきます。

アメリカ南部は綿花を栽培することが中心。畑には多くのが黒人労働者が使われていました。映画「風と友に去りぬ」(Gone with the Wind)は、南部が舞台でした。メイド役の黒人女性が、一人娘の死で打ちひしがれる農場主レッド・バトラー’Rhett Butler)を慰めるシーンがありました。帰還する兵士アシュレー(Ashley Wilkes)を見て、スカーレット・オハラ(Scarlett O’Hara)がかけ寄ろうとするのを押しとどめるのはこのメイドでした。

南北戦争の最中、共和党員であるリンカーンは二分しかかったアメリカを一つにしようと呼びかけた有名な演説をします。それが1862年9月22日の奴隷解放宣言(Emancipation Proclamation)と1863年11日9日のゲティスバーグ演説(Gettysburg Address)です。イリノイ州のナンバープレートには「Land of Lincoln」と記されています。

高等教育機関では、シカゴ大学(University of Chicago)、ノースウェスタン大学(Northwestern University)、イリノイ大学(University of Illinois, Urbana-Champaign)など名だたる大学があります。州内には公立私立併せて20以上の4年制大学があます。その他多くのリベラルアーツのカレッジや公立のコミュニティ・カレッジがあります。日本の留学生も多いところです。
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tomtud 5539835467_a7d3d8de23_b univ_illinois_urbana University of Illinois, Urbana-Champaign

 

 

留学を考える その23 アイダホ—Famous Potatoes

復帰前の1970年に沖縄に赴任したとき、那覇市内の公設市場で見たときのジャガイモ、馬鈴薯があまりに大きので驚いたものです。袋にアイダホ(Idaho)が印字されていたのを覚えています。本土復帰の前でしたので、たくさんの食料品がアメリカやヨーロッパから沖縄に入ってきていました。ランチョンミート(luncheon meat)もそうです。数年前に、スパムという商品名がついていると友人から教わりました。

北海道育ちの私はジャガイモをよく食べていましたが、Idahoのは格別大きかったです。アメリカ人は実にジャガイモとステーキの組み合わせが好きです。ジャガイモには肉汁がかけられます。

「Famous Potatoes」というニックネームがつくのがアイダホ州(Idaho)です。北はカナダのブリティッシュコロンビア州(British Columbia)に接し、西はワシントン州(Washington)とオレゴン州(Oregon)に、南はネバダ州(Nevada)とユタ州(Utah)、そして東はモンタナ州(Montana)とワイオミング州(Wyoming)に接しています。州都はボイヅイ(Boise)。大部分が山岳地帯となっていますが農業も盛んな州です。アイダホ州の別な愛称は「宝石の州」。

アメリカのライセンスプレートは、州や郡ごとに独自のデザインで発行されており、非常に色彩豊かです。そして特徴を表現するキャッチフレーズが印字されています。通常2年ごとにプレートのデザインは変わります。追加の手数料を支払えば自分のライセンスプレートを作ることもできます。それ故、一つの州には沢山のプレートがあり、蒐集家を喜ばせてくれます。合衆国の多様性を感じることの一つがライセンスプレート。

高等教育機関ですが、アイダホ大学(University of Idaho)、アイダホ州立大学(Idaho State University)、 ブリガム・ヤング大学アイダホ校(Brigham Young University, Idaho)、ボイヅイ州立大学(Boise State University)などがあります。アイダホ大学は世界で初めてラバのクローンを誕生させたことで知られています。なお、ブリガム・ヤング大学は末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)が運営しています。

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留学を考える その22 ハワイ州—Aloha State

旅行好きな人もそうでもない人も一度は立ち寄るところがハワイ(Hawaii)です。言葉が通じ、食べ物が豊富で美味しく、景色がエキゾチックで、気候が温暖なのですから人気が高いのもうなずけます。誠に手頃な観光地です。ですが文化や歴史の多様さもまたハワイの魅力です。

ハワイ固有の文化はポリネシア系(Polynesian)です。音楽、舞踊、服装、料理などがそうです。1778年にイギリスの探検家、ジェームス・クック(James Cook)によって世界に紹介されます。 州として合衆国に編入されたのは1959年。カメハメハ大王(King Kamehameha the Great)の統治が長く続きました。その間、日本から多くの人々が移民しました。主としてオアフ島(Oahu)やハワイ島(Big Island)でのサトウキビ、パイナップル、珈琲栽培のためです。琉球からの移民が目立ちました。今も琉球の名前を持つ人々が大勢住んでいます。

先住のハワイ人やポリネシア系が約10%なのに比べ、日系人は17%を占めます。政治、経済、社会における活躍は目覚ましいものがあります。日系人の活躍としては、戦時中の志願兵の活躍が特筆されます。ハワイで生まれの若い日系アメリカ人の多くは、祖国に対する忠誠心を示し陸軍の大隊に入ります。この部隊は日系人だけで組織されていたようです。やがてアメリカ本土の日系人部隊と合流し第442連隊戦闘団(he 442nd Regimental Combat Team)となりヨーロッパ戦線にて戦果を上げます。オアフ島の真珠湾に浮かぶ戦艦アリゾナ記念館(USS Arizona Memorial)や戦艦ミズリー号(USS Missouri)などを訪れると太平洋戦争の歴史が身近なものとなります。

ハワイ州は、大小100位の島々から成ります。これらは海底火山によってつくられました。州都ホノルル(Honolulu)のあるオアフ島は最も知られていますが、是非訪ねたいのはハワイ島やカウアイ島(Kauai)、モロカイ島Molokai)などです。ハワイ島には日系移民によって開発された一番大きな町、ヒロ(Hilo)があります。そこに日系移民博物館があります。驚くことに、館内の展示物には代々の天皇の「写真」が飾ってあります。日本に対する深い想いがこめられているのを感じます。近年マウイ島(Maui)が非常に人気あります。アメリカ本土の都市から沢山の直行便があるほどです。登山、ハイキング、水泳、自転車などでのツーリングが楽しめます。私事ながら、2010年の家族との再会はマウイ島でした。

ハワイ島のマウナケア山頂(Mauna Kea)付近は、国立天文台が設置したすばる望遠鏡があります。周りには世界各国の天文台も並んでいます。ここに兵教大の院生とで天文台内部を見学する許可を得て訪ねました。ついでに山頂へも登ったのですが、酸素が薄くて息が苦しかったのを覚えています。一行にいた理科の教師にはたまらない見学ツアーとなったようです。ハワイ島のキラウエア(Kilauea)火山からの熔岩流は今も蒸気を上げています。そして虹が地平線から地平線まで見事なアーチを描きます。

ハワイ大学(University of Hawaii)システムとして3つの四年制大学、7つの二年制短期大学(Community College)を擁しています。基幹大学はホノルルにあるハワイ大学マノア校です。附属研究機関としてハワイ島にあるマウナケア天文台があります。大小の島々からなるハワイでは、インターネットや衛星放送などによる教育が盛んに行われています。いわゆるeラーニング(e-learning)です。

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留学を考える その21 ジョージア州—Peach State

私がアメリカ留学のために国際ロータリー財団主催の英語研修で2か月過ごしたのがジョージア州(Georgia)のステイトボロ(Stateboro)という小さな町です。家族を引き連れての短い滞在でした。各国からの50名くらいの奨学生と一緒に、南部の人々の親切さ(Southern Hospitality)や暖かい気候を満喫しました。そのせいもあってか、私の英語には南部訛りがあるようです(^^)。

南部アトランタ(Atlanta)はジョージア州最大の都市であり州都です。コカコーラやCNN、保険会社アフラック(Aflac)の本社などがあることでも知られています。ここはまた映画の舞台でもあります。「風と共に去りぬ」を書いたマーガレット・ミッチェルの博物館(The Margaret Mitchell House)がダウンタウンにあります。マーチン・ルーサー・キング牧師が説教していたエベネゼル・バプティスト教会(Ebenezer Baptist Church)、そして氏の功績を称えるThe King Center博物館は必ず立ち寄るべきところです。政界ではジミー・カーター大統領(James A. Carter)がでたところです。

大西洋側にサバンナ(Savana)という港町もあります。植民地時代は、サバンナは綿花のヨーロッパへの輸出港でした。今も貯蔵倉庫が建ち並び、多くのレストランなどに改装されています。マスターズ・トーナメントのゴルフ大会が開かれるのがオーガスタ(Augusta)です。メンバーは世界中に約300名、会員になるためには数10年程待たなければならないそうです。

有名な人物を輩出した割には、ライセンスプレートは明るくのどかなものです。プレートには桃がデザインされています。ジョージア州はスイカ、メロンなどの果物が多いのです。特に桃は有名なので「Peach State」桃の州と呼ばれています。

大学ですが、1785年創立の高等教育機関であるジョージア大学(University of Georgia)、ジョージア州立大学(Georgia State University)が知られています。

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留学を考える その20 フロリダ州–Sunshine State

日本人にもフロリダ州(Florida)はよく知られています。子どもや親にとってはわくわくするところです。その第一は、オーランド(Orlando)にあるディズニー・ワールド(Disney World)です。世界一の娯楽施設です。その広さはJR山手線内の約1.5倍というのですから、まさに桁外れのものです。その敷地内には、4つのテーマパークを中心に、ウォーター・パーク、エンターテイメントエリア、マリーナ、ゴルフ場、牧場、キャンプ場などが配置されています。

タイフーン・ラグーン(Tyhoon Lagoon)、マジック・キングダム(Magic Kingdom)、、、どれをとっても娯楽の粋を集めてそのアイディアを競っています。レストランにはミッキーマウスや小熊のプーさんがテーブルを回って写真を一緒に撮ってくれます。子どもたちはもう大喜びです。夢を子ども達に与えるのがこうしたテーマパークの「テーマ」といえましょう。オーランドにはユニバーサルスタジオ(Universal Studio)もあります。ディズニー・ワールドとあわせて毎年6,000万以上の人々がオーランドを訪れるというのです。

その第二はアメリカ航空宇宙局 (National Aeronautics and Space Administration: NASA) のケネディ宇宙センター(ohn F. Kennedy Space Center)があります。数々のロケットやスペースシャトルが打ち上げられてきたところです。軍事用の偵察衛星や通信衛星、気象衛星、そして惑星探査機の打ち上げにセンターが使われています。

フロリダの州都はタラハシ(Tallahassee)。ライセンスプレートには「Sunshine State」とあります。文字通り太陽の降り注ぐ温暖な州です。特に冬は、各地から避寒客がやってきます。冬、極寒の中西部では、「フロリダに行ってくる」というフレーズは周りの人からは羨ましがられるのです。

フロリダはまた豊富な漁猟資源でも知られています。特産のエビや牡蠣(かき)でも有名です。映画「フォレストガンプ(Forrest Gump)」の終盤で、ベトナムの戦友と再会しエビ捕りにでかけるシーンがあります。柑橘類の果実及びジュース生産も盛んな州です。

フロリダ州の大学です。フロリダ州で最古、最大規模の大学がフロリダ大学(University of Florida)です。1853年に神学校として創立されという興味ある歴史を有しています。フロリダ州立大学(Florida State University)も知られています。
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留学を考える その19 デラウェア州—The First State

私の趣味の一つはアメリカの自動車のライセンスプレートを蒐集することです。プレートのデザインやモットーが好きなのです。ですがすべての州を回って探したわけではありません。合衆国の歴史について小学校の時から興味があった私にはどうしても取り上げたい州があります。それがデラウエア州(Delaware)です。

デラウェア州は合衆国の歴史では、13の植民地の中で最初に憲法を批准した州として知られています。それによって、ライセンスプレートには「The First State」と書かれています。独立戦争の頃、英国と戦ったのは13の植民地の人々です。独立戦争は合衆国の明暗を分けたドラマチックな戦いです。

デラウエア州は、ロードアイランド州(Rhode Island)に続き二番目に小さい面積の州です。北はペンシルバニア(Pensilvenia)、東はニュージャージー(New Jersey)、西はメリーランド(Maryland)に隣接しています。州都はドーバー(Dover)です。大西洋に面しているので、古くから移民が植民地として開拓してきたところです。

デラウェアに移住してきたのは、スウェーデン人といわれています。それは1638年頃で、デラウェア湾河口に初めての植民地を築きます。ヨーロッパ諸国とは違ってインディアンから土地を買い上げ、この入植地を「ニュー・スウェーデン(New Sweeden」と名付けて開拓地を広げていきます。やがて、オランダからの入植者とのいざこざがあり、スウェーデン人は数に勝るオランダ人から追い出されていきます。

人口の比率ですが、黒人、アイリッシュ、ドイツ、イングリッシュ、そしてイタリアンの順で占めています。意外と多いのはユダヤ系の人々です。沢山のシナゴーグ(Synagogue)が点在する州でもあります。合衆国におけるユダヤ人の活躍は政治、経済、科学、文化で目覚ましいものがあります。

デラウェア州のサイトを調べますと、主要な農業製品としては鶏卵、大豆、酪農製品、そしてコーンとなっています。小さい州ですが、工業では、化学製品、自動車、食品加工、製紙、ゴムやプラスチック製品などが知られています。一般に他の州よりも生産高の割合は高い水準にあります。

大学ですが、デラウェア大学(University of Delaware)の本校がNewarkにあります。デラウェア大学はDover校、Wilmington校,、Lewes校、Georgetown校からなります。創立は1743年に遡る伝統校です。 現在の上院議員で副大統領であるバイデン(Joe Biden)が学んだ大学です。

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留学を考える その18 コネチカット州—Constitution State

コネチカット(Connecticut)。実にいい響きです。ライセンスプレートには「Constitution State」とあります。最初の憲法の基となった州ということです。合衆国の北東部、北大西洋岸は、前にも紹介したように、ニュー・イングランド(New England)と呼ばれています。ここに小さな州がいくつかあります。その内の一つがコネチカット州です。首都はハートフォード(Hartford)となっています。東にはロードアイランド州(Rhode Island)、北にはマサチューセッツ州(Massachusetts)、西にはニューヨーク州(New York)と隣接しています。

コネチカットは英国の統治時代、13の植民地の一つでした。1639年に植民地としては最初の「基本法規」(Fundamental Orders)というのを制定します。これはやがてコネチカットで最初の憲法となります。この憲法は合衆国の初代憲法に大きな影響を与えます。コネチカットは英国から独立を宣言する最初の13州の一つとなります。

コネチカットへのヨーロッパからの植民はオランダから来たといわれます。ピューリタン(聖教徒)の人々です。やがてアイルランド、イングランド、フランス、ドイツ、ポーランド、イタリア、ポルトガルなどから移民が押し寄せます。その後プエルトリコ(Puerto Rico)などからも人々がやってきます。その中で、ポーランド系やアイリッシュ系の人々が多いのが特徴となっています。

産業ですが、農業はもとより酪農、製造業、漁業も盛んな州です。ロブスターや貝も知られています。ジェット機エンジン、ヘリコプターや航空機の部品、素材産業、原子力潜水艦の建造と関連の軍事産業、精密機械、化学薬品の製造が盛んです。企業ではスポーツ放送のESPN、ボーイングとエアバスのエンジンを開発するゼネラル・エレクトリック(GE)、シコルスキーヘリコプター(Sikorsky Aircraft)本社などがあります。

大学は、1881年創立のコネチカット大学(University of Connecticut)。発足当時は農学の研究と人材養成が主でした。州内にはStamford校、Avery Point Waterbury 校、Torrington校といった分校もあります。

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留学を考える その17 コロラド州—Centennial State

コロラド(Colorado)は山岳地帯の州です。南北にロッキー山脈(Rocky Mountains)が貫き、州全体の平均標高が合衆国で一番高いところです。州の東側は大平原: グレートプレーンズ(Great Plains)が広がります。州都であり最大の都市はデンバー(Denver)です。

デンバーは標高が約1マイル(約1,600メートル)なので、マイル・ハイ・シティー(Mile High City)の愛称で呼ばれています。 デンバー市内には多くの日系人が住んでいます。その数、約1万4千人。 「ロッキー時報」という日本語の新聞が発行されているのもうなずけます。

コロラド州の商業や経済は多様です。金融センターであるデンバーを中心に、科学研究及びハイテク産業が集中しいます。他の産業は食品加工、輸送設備、機械、化学製品、稀少資源の開発そして観光業となっています。

州都デンバーから車で一時間ほど南に下ると、ロッキーでも一段と高く聳える「パイクスピーク(Pikes Peak)」がみえます。その山麓の台地には、アスペン(Aspen)などの綺麗な街並みが広がります。コロラド・スプリングス(Colorado Springs)も全米で知られる町です。ここは都市の規模に比べて物価が安く、アメリカでも最も住みやすい町の一つとなっています。

この住み心地の良さを支えるのは、巨大な国防総省の施設によってもたらされる経済効果です。空軍士官学校や共同防衛組織があります。ロッキーの山中には、北米航空宇宙防衛軍や軍事衛星による監視や弾道ミサイル防衛を担う戦略基地が掘られています。

私は小さいとき、進駐軍の放送から「コロラドの月(Moonlight on the Colorado)」というアメリカ歌曲をしばしば聞いたことがあります。ネット上で歌詞を調べると次のようにあります。今思えばませた曲を聴いていたものです。

「コロラドの月の夜に
想い出は いやます
恋の日の しのばれて
さびしさに 涙す
むすびし 恋も
あだに 君はいずこぞ
コロラドの 月の夜に
なれも 我をば待てる」

という恋歌です。当時はそんなことを知るべくもありませんでした。そして私がデンバーを訪ねたのは学会発表の1987年です。デンバー大学(University of Denver)の看護学科の准教授の案内で市内の学校を見学しました。この准教授を国立特殊教育総合研究所に案内したことがきっかけでした。最も規模の大きい大学はコロラド大学(University of Colorado-Boulder)です。留学生活をおくるには快適な土地といえます。

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留学を考える その16 カリフォルニア州—The Golden State

日本人に最も馴染みのある州の一つ、カリフォルニア州(California)は南北に長い形をしていて、北はオレゴン州(Oregon)に東はネバダ州(Nevada)、アリゾナ州(Arizona)に、最南端のサンディエゴ(San Diego)からはメキシコと国境を接しています。長い海岸線や高低差によって、海岸と内陸ではかなり気温や気候が異なります。この気候は地中海性気候といわれています。降雨量が少ないのと急激に人口が増えたために水資源の不足がしばしば取りあげられています。

州都はサクラメント(Sacramento)です。サンフランシスコ(San Fransisco)を北上しブドウ畑が広がるナパ・バレー(Napa Valley)から東へ向かうとサクラメントに着きます。西部開拓時代の街角のOld Townは保存されていて当時の開拓時代の気分を味わえます。

カリフォルニアといえばロサンゼルス(Los Angels)やサンフランシスコ、サンディエゴなどの大都市ですね。ロサンゼルスはハリウッド(Hollywood)を抱え娯楽産業の世界的中心となっています。サンフランシスコを中心とするベイエリア(Bay Area)は、シリコンバレー(Silicon Valley)をはじめ、全米で最も経済的に進んだところです。農業が盛んなのは中部です。サンディエゴは気候が温暖でアメリカで最も住みよい町といわれています。どこもメキシコの雰囲気が横溢しています。

この州はアメリカでも先進的な行政をするところで知られています。例えば、大気汚染などの問題でメーカー等の産業廃棄物処理・排水規制などの法律が制定されていた。また排気ガス規制など環境関連の規制が全米で最も厳しい州といわれています。ところが財政は厳しいのでアーノルド・シュワルツェネッガー(Arnold Schwarzenegger)前知事も頭を痛めました。彼は経済の低迷や私的な出来事で知事を辞任しました。

メキシコからの移民でヒスパニック系の人口は34%を占めています。ですからメキシコ料理はどこででも楽しめます。またイタリア料理、中華料理、ベトナム料理なども美味しいところです。サンフランシスコの中華街は世界一といえる賑やかさです。

カリフォルニアはハワイと並んで、多くの日本人が移住したところです。1920年代の移民を禁じる排日移民法が制定され、太平洋戦争によってさらに差別や隔離政策が進みます。日系人は土地や財産を没収さながらも子どもを教育し、現在の地位を獲得した苦労話が幾多きかれます。私の知人であるチャールズ・コバヤシ氏(Charles Kobayashi)もそうです。苦労して州判事まで上り詰め、今はサクラメントで成長したお子さんやお孫に囲まれて引退生活を楽しんでいます。

カリフォルニア州の大学機関ですが、スタンフォード大学(Stanford University)、カリフォルニア工科大学(California Institute of Technology: Caltech)は私立大学。カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (University of California, Los Angeles: UCLA )、カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)など世界のトップをいく研究で知られるところです。産業や経済、科学技術、、、、なんでも全米一、世界一を誇りたくなるような雰囲気がこの州にはあります。カリフォルニア工科大学のNASAの技術開発に携わるジェット推進研究所 (Jet Propulsion Laboratory: JPL) が知られています。

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留学を考える その15  アリゾナ—Grand Canyon State

アリゾナ州(Arizona)はニューメキシコ州(New Mexico)、ユタ州(Utah)、ネバダ州(Nevada)、コロラド州(Colorado)、カリフォルニア州(California)と隣接しています。さらに、南はメキシコと長い国境を有しています。今もナバホ(Navaho)、アパッチ(Apache)、ホピ(Hopi)などの部族の居留地が点在しています。サボテンや椰子など砂漠の風景で有名です。州の北部と中央部は松など常緑樹で覆われた高地でもあり、大渓谷(Grand Canyon)の大自然が広がります。地球の裂け目といわれる標高差1.6キロの谷底は観光客を魅了します。

州都はフェニックス(Phoenix)。非常に暑い夏と温暖な冬として知られています。1990年6月に最高気温摂氏50度を記録したこともあるとか。フェニックスから車で北に走ること2時間。セドーナ(Sedona)に着きます。青空を背にそびえ立つ不思議な形の赤い岩山、その前を流れる渓流。数多くのハイキング・トレイル。赤い岩の山は鉄分を多く含んでいます。その独特の景観からセドーナ一帯は「レッド・ロック・カントリー(Red Rock Country」と呼ばれています。セドーナはフェニックスに来たら必ず寄る価値がある所です。

私は、かって兵庫教育大学の大学院生とフェニックスの学校を視察しました。ちょうど客員研究員として招いていたハワイ大学(University of Hawaii)の教授がアリゾナ州立大学(Arizona State University)で研究したことがあったので、セドーナを紹介してくれました。友人からの紹介は心強いものです。アリゾナ大学(University of Arizona)の本部はツーソン(Tucson)にあります。先端技術産業の集積地であるアリゾナバレー(Arizona Valley)において、中核的な役割を果たす機関であり、NASAとの共同研究が活発だといわれています。研究資金が相当あるものと予想されます。

ライセンスプレートには「Grand Canyon State」とあります。最近のものには、「環境を護ろう」(Protect our environment)というフレーズも入っています。

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留学を考える その14 アーカンソー州–Natural State

私はこの州を訪れたことがないので、この州を紹介しずらいことをお断りしておきます。アーカンソー州といえば、かつてのビル・クリントン(Bill Clinton)大統領の出身地です。合衆国の州に昇格したのは1836年。南北戦争(American Civil War)では南部連合(Confederate States of America)に味方する州となります。通常は南軍と呼ばれ、北軍(Union)と対峙した合衆国でした。

南部と北部における経済・社会・政治には大きな違いがあったといわれます。互いに対立するようになります。南部は農業中心の州で構成され、黒人奴隷労働に依存したプランテーションが盛んでした。とりわけ綿花の生産が盛んで、多くの黒人奴隷が働いていました。綿花はヨーロッパに輸出していました。特にイギリスを中心とした綿花の輸出は南部の利益だったのです。さらに自由貿易を唱え、北部とは大きな対立点でもありました。

他方、北部では急速な工業化が行われており、農業と違って黒人奴隷を労働力として必要としていませんでした。さらに近代化し都市化する北部が人口の面でも政治・経済・文化の面でも南部を圧倒し、やがてアメリカが北部中心の国となっていきます。それとともに奴隷制廃止などに対する南部の抵抗も広がります。そして1861年に南北戦争(American Civil War)が勃発します。戦争は4年間に及びます。

20世紀になると、黒人の人権問題が大きく燃焼し、首都であるリトルロック(Little Rock)などではしばしば白人と黒人の対立が先鋭化していきます。1954年のブラウン対教育委員会裁判(Brown v. Board of Education)によって、それまで行なわれていた公立学校における白人と黒人の分離教育が違憲となります。1957年にリトルロック・セントラル高校の分離教育化が決定すると、当時のアーカンソー州知事は州兵を学校に送って黒人学生の登校を阻止します。アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)大統領は遂に陸軍の空挺師団の部隊を派遣し黒人学生を登校させるという事態に発展していきます。

アーカンソー州は別な意味で日本と深いつながりがあります。フルブライト奨学金(Fulbright Fellowships)の創立者フルブライト(James William Fulbright)の出身地だからです。1939年には34歳の若さでアーカンソー大学(University of Arkansas)学長に任命されます。アメリカ合衆国内最年少の学長といわれています。1945年に世界大戦が終わると、上院議員となったフルブライトは、アメリカと世界各国との教育交流の計画を議会に提出します。そして国務省教育文化局(Bureau of Educational and Cultural Affairs)の出資により、フルブライト奨学金を設立します。現在もフルブライト・プログラムとして多くの優秀な若者に奨学金を提供し、日本やアメリカに留学生をおくっています。

アーカンソー大学(University of Arkansas)の旗艦校はフェイエットビル校(Fayetteville)です。フェイエットビル校を含め州内には五つのキャンパスがあります。車のライセンスプレートには「The Natual State」とあります。

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留学を考える その13 アラスカ—The Last Frontier

昔、羽田からアメリカやヨーロッパへ行く便は、アラスカ(Alaska)最大の都市アンカレッジ(Anchorage)で給油していたものです。アンカレッジはヨーロッパやアメリカに飛ぶときは最短距離の航路にあたりました。給油の間、ターミナルで待つのは過去の話となりました。

アラスカは面積においてアメリカ最大の州です。それに引きかえ、最も人口過少の州です。州都はジュノー(Juneau)。2008年の大統領選挙で共和党の副大統領候補に州知事だったMs. Sara Palinが指名さたのは驚きでした。

アラスカは1867年にロシアから720万ドルで購入した歴史があります。今で言えばアメリカは安い買いものをしました。ですが当時は「巨大な冷蔵庫を買った」などと非難されたとか。地下資源、森林、漁業資源などが豊かなところです。それにもましてアメリカにとっては国防、軍事上の重要な位置にあるのがアラスカです。そのためか、大地の65%が連邦政府の管理にあります。ほとんどが不毛の地ですから、埋蔵量が豊富な原油の採掘地帯以外は誰も所有しないのです。

人口比率として白人が70%。その大半はアイルランド、ノルウエーからの移民とされています。以外と少ないのがネイティブ・アメリカンやアラスカ・ネイティブ、通称イヌイット(Inuit)で15.6%を占めています。原油の採掘については、アラスカ・ネイティブの間で開発容認派と反対派の賛否両論で部族村落が対立していることが多いとされています。

アラスカ大学フェアバンクス校(University of Alaska, Fairbanks)は、アラスカ大学の基幹大学です。豊かな海洋など自然科学を中心に様々な研究が続けられ、スーパーコンピュータ、北極圏の生物,地球や天体物理,先住民の研究は世界的に評価されています。アラスカ大学はアンカレッジ校のほかサウスイースト(Southeast)校で構成されています。

UAA_-_Providence_Dr_Entry_Sign_003  アラスカ大学アンカレッジ校CAM-10-2867-27c アラスカ大学フェアバンクス校

留学を考える その12 アラバマ– The Heart of Dixie

しばらく、アメリカの各州を紹介しながら、大学の特徴を記していくことにします。アルファベット順に州を訪ね歩きます。

最初はアラバマ州(Alabama)です。アラバマ州は合衆国の南部に位置します。西はミシシッピ州(Mississippi) 、北はテネシー州(Tennessee)、東はジョージア州(Georgia)と接し、南はフロリダ州(Florida)と境をなしています。州都はモンゴメリー(Montgomery)。他にバーミングハム(Birmingham)や、宇宙ロケットセンターで知られるハンツビル(Huntsville)といった都市もあります。筆者は1994年に調査でタスカルーサ(Tuscaloosa)にあるアラバマ大学(University of Alabama)を訪ねたことがあります。

州の東側はアパラチア高原(Appalachian Plateau)となっていて、鉱物資源が豊富です。ですが主要な産業は農業といえます。生産品は家禽及び卵、牛、植物苗床品目、落花生、綿、トウモロコシ及びモロコシ等の穀物、野菜、大豆、桃となっています。かっては 「綿花の州」(The Cotton State)とういニックネームがこの州についていたほどです。

アラバマ州の歴史で忘れてはならないのが、公民権運動の展開です。黒人差別が厳しい州であったからです。「ジム・クロウ法」(Jim Crow)という人種分離法がつくれていて、交通機関、駅、トイレ、映画館、学校や図書館などの公共機関、ホテル、レストラン、バーなどで白人と有色人種(the colored)を分離することが正当化されていました。

1955年州都モンゴメリーで起こったローザ・パークス(Rosa Parks)逮捕事件が公民権運動の口火を切ったとされます。彼女は当時、白人専用のバスに乗り込んで逮捕されます。これをきっかけに、キング牧師らがモントゴメリー市民に対するバス・ボイコットの運動へ広がります。運動は全米に反響を及ぼし、1956年には合衆国最高裁判所が「バス車内における人種分離(白人専用及び優先座席)を違憲とする判決を出します。そしてようやく、1964年7月に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、長年続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げます。

アラバマ州の大学ですが、アラバマ大学の本部がタスカルーサにあります。アラバマ大学バーミングハム校、アラバマ大学ハンツビル校があります州立大学は、州内に分校があってリベラルアーツ教育を広く展開し、基幹大学が大学院での研究を担っています。アラバマ大学のフットボールは強豪として知られています。ポール・ベア・ブライアント(Paul “Bear” Bryant)というヘッドコーチのもとで、史上最多の計15回にわたり全米チャンピオンとなっています。1994年に制作された映画、「フォレスト・ガンプ/一期一会」(Forrest Gump)はアラバマ大学フットボール部がモデルとなっています。トム・ハンクス(Tom Hanks)が主演していました。

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留学を考える その11  アーミッシュ その2 メノナイト

アメリカは多民族の社会である。留学先の大学には、恐らく20か国以上の国からの留学生がいるに違いない。アメリカ人といってもロシア系(Russian)、ドイツ系(German)、スカンジナビア系(Scandinavian)、アフリカ系(African)、中東系(Middle-East)などまるで「人種のるつぼ」(melting pot)である。こうした人々との出会いも留学の貴重な賜物である。

ウイスコンシンにもアーミッシュ(Amish)と呼ばれる主としてドイツ周辺から移民してきたキリスト教徒が住んでいる。ウイスコンシンは、オハイオ(Ohio)、ペンシルベニア(Pennsylvania)、インディアナ州(Indiana)についで、アーミッシュが四番目に多い州である。

前回少し触れたが、アーミッシュとはメノナイト(Mennonite)と呼ばれるキリスト教集団から分かれたグループのことである。メノナイトの一人、ヤコブ・アマン(Jacob Amman)はキリストの教えの純粋さを保つために、メノナイトのグループから離れて一派をつくる。アマンの名前からこの派の人たちのことは、通常アーミッシュと呼ばれる。メノナイトもアーミッシュも基本的信条は同じで、一括りにしてアーミッシュと呼ぶ人もいる。

アメリカに最初に入植してきたのが、オランダにいたメノナイトの一部の人々、清教徒といわれる。1680年代といいるから、メイフラワー号(Mayflower)でやってきたピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)から60年後くらいである。さらに、スイスやドイツのメノナイト、その後、ロシア革命前後の迫害(Pogrom)を受けたロシアからのメノナイトがアメリカ大陸にやってくる。なお、メノナイトに似た教義や信条を大事にする宗教集団にクエーカー(Quakers)がいる。平和、男女や民族の平等、質素な生活などを強調する福音主義を信奉している。ブリザレン(Brethren)という一派もある。兄弟団教会(Brethren in Christ)と呼ばれていて、田舎での伝道、厳格な聖書の実践、信仰共同体の形成ということに特徴がある。

キリスト教の宗派の多くは神学、信条、聖書解釈、教会の規律、政治や社会への関わり等についての意見の相違によって作られている。メノナイトの信条は聖書の教えに厳格に従うこと、暴力や戦争を禁じ平和を大切にする非暴力主義を信奉することが特徴である。やがて、トルストイ(Leo Tolstoy)、ガンジー(Mohandas Gandhi) ルーサーキング(Martin Luther King Jr.)らの思想と行動に大きな影響を与える。

Wikipediaによれば、18世紀、ドイツからペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)と呼ばれるが人々がペンシルベニア州に移民してくる。この中で約2,500名はメノナイト、500名はアーミッシュだったといわれる。アーミッシュはより安い土地である同州のランカスター地方(Lancaster)を選ぶ。そのため、ランカスターは合衆国でアーミッシュが最も集中する郡といわれている。

アーミッシュの信仰のあり方である。彼らは集落に専用の教会堂を持たない。集まりは各家が持ち回りで行い、そこで聖書を読み神に祈る。これは純粋な宗教儀式のみを大事にする習慣によるといわれる。子供の教育だが、地元の公立の学校へ子供を行かせない。すべて村落内で教育する。教師は村落に住む未婚の女性がなり、教育内容はペンシルベニアドイツ語と英語、聖書と算数が教えられる。村落での教育は8年間で、聖書の教えや信仰、神への感謝がしっかりと教えられるようである。

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留学を考える その10 アーミッシュ その1 プレーン・ピープル

留学というのは、専攻分野だけを学ぶのではない。他文化とか多文化に親しむ絶好の機会でもある。人々と直に対話したり生活様式に触れるには、中小都市のリベラルアーツの大学で学ぶことを勧める。

2014年の夏、久しぶりでウィスコンシンの田舎をドライブした。マディソンから北へ100マイル、160キロにあるスティーブンスポイント(Steavens Point)という町に行くときであった。途中は見渡すばかりのトウモロコシと馬草畑。雨が少なく穀物の価格が高騰していた。巨大な散水機がトウモロコシ畑に水を撒いている。ウィスコンシン川(Wisconsin River)は満々と水が流れていり。だが、それを汲み上げて畑に散布するには足りなく、農家は地下水を汲み上げている。都市部でも地下水に頼っている。そのため地盤の沈下が懸念されているとか。

北上するにつれて、ネイティブアメリカンの地名が標識に現れてくる。彼らの多くは、特別な居留地に住んでいる。民族は棲み分けるのが常。例えば、ノルウエイ系(Norway)、ユダヤ系(Jewish)、アーミッシュ系()、ベトナム系、中国系という具合である。もちろん大多数は混ざり合って住んではいる。大きな街では、少数民族、特にアジア系の人々が棲み分けるのが普通である。司馬遼太郎は、「街道をゆく」というエッセイで、この状態をモザイク状と呼んでいる。民族の融合には何百年という時間がかかるようである。

棲み分けの特徴は、少数民族の文化が継承されることである。言語、習慣、宗教、生活様式がそこに残ることである。マディソンの動物園で孫達と遊んでいるとき、アーミッシュかメノナイト派(Mennonite)と思われる家族の一行に出会った。家族全員が麦わら帽子をかぶり、黒と白の質素な服装をしている。父親は髭をはやし、母親は白いキャップをかぶっている。子どもは5〜6名という構成。キリスト教と共同体に忠実な信条に生きる人々とされ、清貧な生活を旨とするのでプレーン・ピープル(plain people)とも呼ばれている。

夏の週末、野菜の露天マーケットへ行くと、バギー(buggy)と呼ばれる馬車をひいたアーミッシュが野菜やパンを売りに来る。車を使わない習慣を今も続けている。畑仕事は馬が中心である。子どもたちも農作業を手伝う。そういえば動物園で会った家族も全員日焼けしていた。

棲み分けで気になること。それは孤立とか目に見えない偏見を生むのではないかということである。しかし、アーミッシュらしき一行を見ながら家族の強い絆のようなものが伝わってくる。決して孤立しているのではないのだろうと思われる。彼らは孤立を苦とせず、むしろそれを大切にしているようである。なにか、孤高の生活を誇りにしているようにも見受けられる。

アーミッシュは幾分保守的な服装を続け、テレビやラジオを遠ざけ、他の技術は慎重に受け入れるメノナイトと考えられている。アーミッシュは単一の集団ではない。「質素」な生活様式には、伝統的な信仰と習慣に対する批判が起こるにつれて時代遅れだ、といわれることもある。しかし、奴隷制度に対する反対、公的教育に対する抵抗、国家と宗教の分離、良心的兵役拒否など毅然とした信条は実に革新的な姿勢だと思うのである。

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留学を考える その9 感謝祭(Thanksgiving)の由来

苦しい留学生活にもつかの間の寛げる時がくる。9月に始まった学期に一息つける時である。勉強に相当疲れた頃にやってくるのがThanksgiving(感謝祭)の休暇である。11月の最終木曜日。今年は11月27日である。翌日はBlack Friday。大抵の州ではこの週末は4連休となる。

1598年に今のテキサス州(Texas) のエルパソ(El Paso)でThanksgivingが祝われたといわれる。1619年には、ヴァージニア植民地(Virginia Colony)でThanksgivingが執り行われたという記録がある。1621年には前回少し触れたが、マサチューセッツ(Masachusettes)のプリマス(Plymouth)という港町で収穫に感謝する祝いが開かれた。これが現在のThanksgivingの原型だといわれる。

しかし歴史家には別の主張をする者もいる。1623年の植民地に干ばつが長く続いた。その後に雨が降り、幸い作物を収穫できたことを人々は感謝したという。そして祝いの宴(feast)ではなく感謝の礼拝(worship service)が行われたのが原型だというのである。これもなるほどと頷ける。

11月最終木曜日が国民の祝日となったのは1789年である。そのときの大統領は初代のジョージ・ワシントン(George Washington)。すべての州がThanksgivingを祝日としたのは1863年である。

しかし、国民誰もがThanksgivingを祝うわけではない。1970年以降、一部の先住民族であるネイティブアメリカン(Native American)とその支援者は、この日を「全米哀悼の日」(National Day of Mouring)として抗議の日としている。プリマスにあるプリマスロック(Plymouth Rock)の前で記念式典を開いている。また、この日は「アメリカインディアン遺産記念日(American Indian Heritage Day)」ともされている。伝統文化や言語の遺産を再認識する日としている。Thanksgivingはアメリカにおける人種差別の歴史を振り返る時でもある。

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