初めに言葉があった その29 「Caucus」

アイオワ州での党員集会(Caucus)が始まり、アメリカの大統領選挙が始まりました。党員集会は予備選挙とも呼ばれています。大統領候補を決める代議員を選ぶ集会のことです。大統領を選ぶ道のりは長く厳しいようです。候補者も家族も支持者も大変だろうと察します。まるで二年間のマラソンレースのようです。候補として名乗りをあげますが、途中でほとんどの候補が脱落していきます。

私の家族も大統領選挙運動に関わったことがあります。1988年の選挙では共和党のジョージ・ブッシュ(George H. Bush)と民主党のマイケル・デュカキス(Michael S. Dukakis)が党大会で指名され争いました。この選挙では次女がウィスコンシン大学在学中にデュカキス陣営の運動員として応援しました。今は、合衆国は高校生も選挙運動をやっています。

デュカキスが敗れたのには理由があります。ブッシュは第二次大戦中に海軍に入隊し、魚雷搭載の爆撃機の乗員として参加します。日本軍の対空砲火を浴びて撃墜されますが救助されます。他方、デュカキスは陸軍に入隊し韓国で2年間駐留した経験があります。一般のアメリカ人にとってはこの二人の軍歴を比べて投票したはずです。大統領になるためにはこうした過去の経歴も大事なのです。

現在、名乗りを上げているほとんどの候補者は上下両院の議員とか州知事です。弁護士資格の肩書きも優位になります。さらに出身民族や宗教なども候補者資格の要素となります。通常、アフリカ系とかアイリッシュ系、カトリックの人々はアメリカ社会ではマイノリティ(minority)です。オバマ大統領(Barack Obama)やケネディ大統領(John Kennedy)などはそうですが、当時はマイノリティのハンディを克服するほどのカリスマ的な資質とマイノリティに対する好意的な状況が、国中にあったものと考えられます。

アイオワの次の党員集会は2月9日、東部のニュー・ハンプシャー州(New Hampshire)で予定されています。
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初めに言葉があった その28 「お米の匂いがする、、」

本を読むとき、テレビを観るとき、周りの人と対話するとき、講演を聴くとき、あらゆる日常の営みでなにか心に響くメッセージを感じるときがあります。それを言葉で表してみると、実に尊い思い出となります。

一つの私的なエピソードを紹介します。長男がまだ4歳くらいのときです。当時私は札幌で両親と同居しておりました。あるとき、親戚の結婚式があり、両親は孫 (長男) を連れて静岡に出かけました。美保の松原で景色をみているとき、父親がどうしてクロマツだけが生えているのかとつぶやいたのだそうです。それを聞いていた孫が、「おじいちゃん、クロマツは海に、アカマツは山に生えるんだよ、」 といったのだそうです。

クロマツが耐潮性が強く海岸線付近に多く生育するのに対して、アカマツはどちらかといえば内陸に産します。アカマツ林は、マツタケを育てる林でもあります。アカマツとマツタケは相利共生の関係であり、マツタケが生えるような環境の方が生えない環境のものより寿命が長いともいわれています。そいういえば、八ヶ岳山麓にアカマツの大規模な群落が見られます。八ヶ岳登山の楽しみです。

「北海道にはアカマツしかないのにどうして、孫はクロマツのことを知っていたのかね、、、、」と首を捻っていました。両親はこの孫のエピソードをあちらこちらで吹聴していたきらいがあります。孫は本が大好きでした。片っ端から読み聞かせられたことを記憶していたようです。

「三つ子の魂、百まで」といいますが、父はこのクロマツにまつわる孫の言葉を96歳になるまで思い起こしていたのを覚えております。9年前に他界した父。孫は46歳の父親になって二人の息子を育てています。

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初めに言葉があった その27 「Good Samaritan doctrine」

三年前の暮れ近くに、弟が亡くなりました。訳あって一人暮らしを余儀なくされていて路上で発見され病院に担ぎ込まれました。内臓疾患がもとでそのまま逝ってしまいました。5年間で両親と兄弟の葬儀を執り行いました。なにか夢ではないかと狼狽える「hang-ups」を体験した時でした。

大勢の人々、特に高齢者の方々が一人暮らしをしています。私にも札幌で親戚の者がそうした生活をしています。時々電話で消息を確かめて激励しています。そして私か連れ合いにも確実に一人暮らしの現実がやってきます。

誰もが遅かれ早かれ成熟し、身体と精神の老化の時がやってきます。それに備えることが、「今ここで」生きることの意味といえます。時には二つのことがあるといわれます。それは、毎日の暦をめくるときに、「ああ、もう一年が経ったか」と感じる時間です。もう一つは、「今年は充実した」とか「いろいろな苦しいことが多かった」と感じる時です。「大切な時、決定的な瞬間」といったような質的な時、あるいは人生に奥行き感じさせる時です。

ある人がエルサレム (Jerusalem) からエリコ (Jerico) へ下って行く途中、強盗に襲われます。殴りつけられ倒れたところに金持ちや聖職者が通りますが、皆立ち去ります。そこに、異邦人として人々から避けられていたサマリア人 (Samaritan) がたまたま通り憐れに思い、自分のろばに乗せ宿屋に連れて行って介抱します。立ち去るときに宿屋の主人にお金を渡し介護を依頼します。

サマリア人は、「ああ良いことをした、気持がいいな、」と誇ったでしょうか。「元気になってくれればいいな、、」と案じたでしょうか。どうも後者のような気がするのです。このエピソードは「ルカによる福音書10:29−37」に登場します。

窮地の人を救うために無償で善意の行いをしたならば、たとえ失敗しても結果の責任は問わないことを Good Samaritan doctrine とか Good Samaritan Law(善きサマリア人の原則)といいます。子供の折檻、学校でのいじめを見て見ぬふりをすること、医療において過誤責任を問うこと、業務過失死が問われかねないなど、この善きサマリア人の話しはもっと理解されて然るべきです。

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初めに言葉があった その26 「We all have our hang-ups!」

漫画「Peanuts」のもう一人というか、もう一匹の主人公はビーグル犬のSnoopyです。彼の名前は「snoop」(うろうろ探す)という単語に由来するようです。ですがなかなかどうして、擬人化され哲学者めいた名言を呟いています。Snoopyは人間の言葉を喋りませんが、作者のSchulzを介して自分の思いや感情を言わしめます。

Snoopyは忠実で純真であり、想像力に富む温厚な性格の犬です。時々、白昼夢でブツブツ言いながらまるで大学生になったり、第一次大戦中の英雄的なパイロットのようなペルソナに扮装します。飼い主チャーリー・ブラウンの名前は覚えることができず、「round-headed kid」(丸い頭の男の子)というように呼んでいます。それでも忠誠心と愛着が旺盛な犬として描かれています。

さて、「We all have our hang-ups!」というフレーズです。「hang-ups」がキーワードですが、この意味は、情動的な不安や葛藤のことです。負け試合を終えるとチームメイトがチャーリーの下手くそなプレイを詰るのです。帰り道にチャーリー・ブラウンと一緒に歩きながら彼を慰めます。いじめにはくじけないで戦うのだと。そして「We all have our hang-ups!」(誰にでも心に困ったことはあるもんだよ!)と呟くのです。

Snoopyはさらに言います。
「Are you saying you are down? You may need a sense of humor in your life.」
  気が滅入るだって?きみの生活にはユーモアがたりないのかも…

「Keep looking up.. That’s the secret of life..」
  上を見続けること、それが生きることのコツなんだ 

チャーリー・ブラウンは飼い主としてSnoopyを幸せにしようと懸命なのですが、それができないのがもどかしいのです。ですがSnoopyは言います。
「Don’t worry about it. I was already happy.」
「チャーリーと一緒にいることに勝る幸せなんかはない」。なんとも主人を信じきる思いやりの深い犬です。
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初めに言葉があった その25 「Good Grief,,,,,」

今回の言葉は、人の名前、それも漫画の主人公に発せられるフレーズです。私が英語に夢中になりかけたきっかけは、なんと漫画との出会いです。私を魅了した漫画に「ピーナッツ(Peanuts)」があります。チャーリー・ブラウン(Charlie Brown)が主人公です。1960年代に世界中を風靡するような人気を確立します。作者はチャールズ・シュルツ(Charles M. Schulz)です。2000年に亡くなりました。

この漫画の魅力、それは子ども同士の友情や悩み、動物への親近感、社会問題への子どもの純粋な皮肉や批判が大人も子どもにも共感されることです。漫画の台詞は中学の英語で十分理解できます。私が英語が好きになったのは「風」という詩とともに「ピーナッツ」のお陰だと自信をもっていえます。

漫画の題名です。Peanutsとは、俗には「つまらない者」という意味です。あえて漫画の題名にPeanutsを選んだのは、シュルツの深い意図があったものと思われます。「ピーナッツ」では、できのよい子供は登場しません。皆ダメで困っている、心の悩みを持つ子供たちです。葛藤をどうやって乗り越えるか考えています。「Good grief,,,,,」という台詞がしばしば見られます。「やれやれ、困ったもんだ、あきれるわ、、、」という意味です。にもかかわらず登場人物や犬、毛布との関わりを暖かい目で見つめる視点が一貫したテーマとなっています。

さて、主人公チャーリー・ブラウンです。彼はユニークな仲間で囲まれています。飼い犬の「スヌーピー(Snoopy)」は、周りの大人や子どもをときに冷ややかに観察し、しばしば自分の小屋の屋根でねそべっては思いをはせる哲学者のような存在です。趣味は変装。スヌーピーはチャーリーの無二の友人です。

女の子でお茶目なのがルーシー(Lucy)。チャーリーの尻をたたき、「もっと元気をだしなさい!」と叫んではチャーリーをおどおどさせます。ガミガミ屋だったり、意地悪のところもあるのです。根はいいのですが、、、いつも小さな「安心毛布(security blanket)」を持ち歩いているのがライナス(Linus)。毛布がないと落ち着きません。実は、犬のスヌーピーも安心毛布が好きで、ライナスはこれを奪われることもあって、どたばた劇を演じます。いつも持ち歩くことで、一緒にいる安心感を得ています。お母さんの代わりにいつも一緒にいる存在が毛布です。まるで人格があるかのようです。

次の仲間はシュレーダー(Schroeder)。彼はベートーヴェン(Beethoven)を愛する小さな音楽家です。チャーリーの野球チームではキャッチャーを務めます。ルーシーに好かれてるんですが、当の本人は迷惑気味です。

最後にチャーリーです。彼は子ども達の野球チームでは選手兼監督を務めています。野球チームは負けてばかり。飛球をぽろりとやったり、トンネルをしては仲間を地団駄させます。そんなときだけは「間抜け!」「のろま!」などと野次られます。でも人望だけは凄いのです。面倒見がよく、お人好しなのです。アメリカでは憎めない人のことを「チャーリー・ブラウン」と呼ぶこともある位です。是非手にしていただきたい漫画です。英語も分かりやすく、味わいのある会話が登場します。
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1995 - Charlie Brown appears in a 'Peanuts' cartoon drawn by Charles Schulz in this handout provided Tuesday, Dec. 14, 1999. Schulz, 77, announced Tuesday that his last new daily strip will appear Jan. 3 and his last new Sunday strip will appear Feb. 13. Older strips will run for an indefinite period afterward. The cartoonist has colon cancer, and says he wants to focus on his health. Schulz draws and letters every panel himself. His contract prohibits anyone else from drawing the strip. (AP Photo/United Media)

1995 – Charlie Brown appears in a ‘Peanuts’ cartoon drawn by Charles Schulz in this handout provided Tuesday, Dec. 14, 1999. Schulz, 77, announced Tuesday that his last new daily strip will appear Jan. 3 and his last new Sunday strip will appear Feb. 13. Older strips will run for an indefinite period afterward. The cartoonist has colon cancer, and says he wants to focus on his health. Schulz draws and letters every panel himself. His contract prohibits anyone else from drawing the strip. (AP Photo/United Media)

初めに言葉があった その24 「民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」

今の日本の政治について、私たちは、「一体どうなっているのか、日本はどうなるのか」という問を投げかけています。このいい知れない政治の不安に怯えたり、呆れたり、諦めたくなるような気分にもなります。かつては積極的に政治に参加していて、挫折や幻滅を味わったことで投票から離脱する人も大勢います。

「民の心は鈍り」とは、政争に明け暮れる為政者のことであり、もうけ主義だけに走る企業家であり、回りの人々や話題に無関心になった大衆のことです。一体なんのために、どのように生きるかについて無頓着になった人々です。

「耳は遠くなり」とは、難聴のことではありません。聞く耳をもたないこと、大事なことを聞こうとしない態度です。なにが大事でなにがそうでないかを聞き分けることが難しくなることです。

「目は閉じてしまった」とは、ものごとを真正面から見ない態度です。大事なものを見分けられないことです。心眼という題の落語があります。目の不自由な男が、夢の中で目が見えることによって自分の妻の優しさを失いかける話です。そして、「やっぱり目は不自由なことのほうがええ、そのほうがよーく見える」と述懐するのです。

政権が変わっても、企業と政治家の癒着が続いています。大臣室での口利きや金銭のやりとりも行われています。いつの時代においても、古典的な賄賂と汚職が横行し、これなしでは商いはうまくいかないようです。「職務を辞するのは国会審議に悪影響を与えないため」というのは、自分の行為は悪くはなかったといったニュアンスが感じられます。虫唾が走る思いです。そういえば、藤沢周平や佐伯泰英の時代小説の主題は政治とカネを中心とした利権争いです。

厭世的な気分になりがちなのが今の政治の有りようかもしれません。それでも私たちは批判的な精神を失ってはなりません。

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初めに言葉があった  その23 「命の水」

50年前には水を店で買うことはありませんでした。その考え方がなかったのです。水はタダ、安全だと思っていました。確かに水道料は払っていました。蛇口から出る水はタダだったというのは実は間違いでした。

江戸時代、水屋という職業がありました。安い料金と重い水を運ぶので大変な商売だったようです。雨や風、雪、関係無しに1日も休む事ができません。大川といわれた隅田川の上流、神田上水と玉川上水からひっぱって桝という取水口で汲み上げた水を売り歩いていた人がたくさんいたようです。

落語の演目に「水屋の富」があります。千両富に当たった水屋が床下にぼろ手ぬぐいに包んでつっておいて水売りにでかけます。ですが泥棒から狙われるのではないかと、水を売っていても家に帰っても心配で寝られなくなります。案の定、富は盗まれてしまいます。「ああ,これで明日から寝られる」というサゲがきます。

水争いは長い歴史があります。江戸時代もそうです。大阪府域の村々の長きにわたる水争いの歴史もあります。山形の庄内平野は日本一の米。ここにも治水と利水を巡る争いや土地改良の歴史があります。「我田引水」は水争いの種となりました。歴史諫早湾の締め切り干拓を解除するかどうかが大きな問題となり、群馬県の吾妻川の八ッ場ダム建設問題があります。水争いが生まれる背景には、水資源の希少化があります。

地中海に流れ込む世界最長のナイル川も水配分の争いが続いています。スーダン、エチオピア、コンゴ、タンザニア、ケニアなどの流域国と最下流のエジプトとの水紛争です。上流の国は、水力発電、灌漑用水、生活用水など、自由な水利用を求めますが下流のエジプトが反対しているのです。

水は万物の源。水によって全てのものが潤います。水を巡る争いは古より今に至るまで延々と続いています。水の枯渇は世界中で取り上げられている大きな問題です。日本ではダムの建設による下流での水不足も心配されています。兵庫県の平野部には沢山の灌漑用の池が点在しています。空から見るとそれを実感できます。田畑が整然と存在するのはこうした調整池のお陰です。先日の寒波の影響で福岡県では未だに断水が続いているところがあると報道されています。漏水による水瓶の枯渇が原因のようです。

水への考え方は、店で水を買うという行為によって大きく変わりました。もっと美味しい水を飲みたいという私たちの嗜好の変化へ移っていきました。お茶や珈琲をより美味しくいただきたいという欲求も高まりました。美味しさへの憧れは止めることができないようです。

「命の水」とは、です。その意味は渇くことのないものということでしょうか。水は一時の渇きを潤します。やがてまた飲まなければなりません。渇くことのないもの、それは知識であったり智恵であったり、なにか目に見えない大事なことのようです。地上のものは、いわばすべて虚ろな、滅びるものです。しかし、「命の水」は豊かに人の心を満たすものです。それを私たちは追い求めています。

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初めに言葉があった その22 「Who has seen the wind?」

中学時代に習った英語に、「Who Has Seen the Wind?」(風)という詩があります。中学2年の教科書の表紙の裏にありました。なぜかこの英文の詩がスラスラと暗記できたのを覚えています。まるで白紙に墨汁がたれるように、脳に染みこんでいきました。英語が好きになった一つのきっかけとなりました。今でもこの詩を諳んじることができます。

作詞者はクリスチナ・ロゼッティ(Christina Rossetti)。1872年頃の作といいますからビクトリア王朝(Victorian Era)時代です。産業革命による経済発展の絶頂期の頃です。なぜこのような時期に控えめな詩の表現を使ったかはわかりません。ただ英国国教会の熱心の信者であったこと、肺を患っていて病と闘っていたことにも創作の理由がありそうです。「Sing-Song: A Nursery Rhyme Book」という童謡も発行しています。

この優しい詩を口ずさむと、詩とはどんな形式で構成されるのかがわかります。修辞がちりばめられているのです。 まずは、冒頭で Who has seen the wind? が反復されます。繰り返すことによってテーマを強調するのです。さらに自然の現象を疑問形で書いて、強い反語的な主張をしています。

次に、「Neither I nor you,  Neith you nor I 」という具合に主語の順序を倒置させて主体を強調します。このフレーズでは語尾にあるはずの終止形の動詞句を省き、体言で止めで文体を強調させています。詩のお終いで使われる through と by です。passing through, passing by という現在形の動詞につながる接続詞の使い方は対句といえます。どちらも余韻を残す終わり方です。

Who has seen the wind?
 Neither I nor you:
  But when the leaves hang trembling,
   The wind is passing through.

Who has seen the wind?
 Neither you nor I:
  But when the trees bow down their heads,
   The wind is passing by.

一体誰が風を見たでしょうか
わたしもあなたも見たことはありません
木の葉が揺さぶられるとき
風は通りすぎていくではありませんか

目に見えない空気や風に季節や自然を感じることの素晴らしさを歌った詩です。風は息吹とか霊などを示唆し、見えざる手によって自然は造られ守られていることを示しています。
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初めに言葉があった その21 北原白秋と小椋佳 その3 エルヴィス・プレスリ

「シクラメンのかおり」は、小椋佳が第一勧業銀行赤坂支店に勤めていた頃の作で、1975年に発売されたとあります。その後浜松支店長となっています。銀行マンでありながら、作詞作曲でも類い希なる感性を発揮していきます。現在、日経の「私の履歴書」で30回にわたって自分の銀行生活や音楽活動を回想しています。

歌詞の冒頭にある「真綿色したシクラメンほど、清しいものはない」は英訳すれば、さしずめ「Nothing is as refreshing as cyclamen」となります。発音は「サイクラメン」です。「、、、ほど、、、なものはない」という表現は、修辞法でいえば反語であります。否定的な代名詞、Nothingが実は肯定的な表現の裏返しの用法で、強い断定を表しています。シクラメンほど清々しく、まぶしく、また寂しい花はない というのです。

話題はかわって、1967年にソングライターであったラシュコウ (Michael Rashkow) は「Mary in the Morning」という曲を作ります。Wikipediaによると、彼は音楽教育を受けた経歴がことがないといわれます。ですが、エルヴィス・プレスリ (Elvis Presley) がこの曲を歌うことによって、一千万枚のレコード発売という記録を生みます。

バラード風のこの「Mary in the Morning」にも「、、、ほど、、、なものはない」がでてきます。「Nothing’s quite as pretty as Mary」(メアリーほど可愛い娘はいない)です。小椋佳はこうした修辞をからプレスリーの曲から引用し、それに白秋の「からたちの花」使われる反復という修辞を下敷きにしたと考えて間違いありません。

「Mary in the Morning」の歌詞 (Lyrics)です。

Nothing’s quite as pretty as Mary in the morning
 When through a sleepy haze I see her lying there
  Soft as the rain that falls on summer flowers
   Warm as the sunlight shining on her golden hair

小椋佳はたくさんの曲を調べ、自分の作風を作り上げていったのです。そうでなければ、傑出した多くの曲を世に送り出すことができなかったはずです。現存する希有のシンガーソングライターといえましょう。
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初めに言葉があった その20 北原白秋と小椋佳 その2 「シクラメンのかおり」

詩の世界でも誠に素人ながら北原白秋と小椋佳の作詞には共通点があると考える一人です。作品を読み比べるとそれが分かってきます。「からたちの花」が発表されたのは1925年、そして「シクラメンのかおり」は1975年に発売され一躍日本中に広がります。二つの詩には50年の歳月のひらきがあります。しかし、驚くべきほどの共通点があるのです。

二つの詩を比べてみましょう。

からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ
 からたちのとげはいたいよ 靑い靑い針のとげだよ
  からたちも秋はみのるよ まろいまろい金のたまだよ

真綿色したシクラメンほど 清しいものはない、、、、
 薄紅色のシクラメンほど まぶしいものはない、、、、
   薄紫のシクラメンほど 寂しいものはない、、、、、

白秋は、からたちの花、とげ、そして実を描写します。小椋はシクラメンの色が感情に響くことをいいます。自然と人を一体化しようとする言葉です。二人の詩には、抒情的な雰囲気、清澄さ、溌剌さに溢れています。繰り返しの修辞が使われ、読者の心をくすぶってきます。小椋の作詞には白秋の影響が色濃くでていることがわかります。
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初めに言葉があった その19 北原白秋と小椋佳 その1 柳川

かつて働いていた通信制高校の本校が福岡の田川にありました。石炭産業で栄えた所です。卒業式の式辞は北原白秋の「からたちの花」をテーマに、白秋の人となりや詩への感性や作り方、そして人生の生き方について述べました。

式が終わり白秋の生家がある柳川市へ向かいました。柳川は長閑な掘割が縦横に流れることから水の都と呼ばれています。旧藩主立花氏の別邸「御花」、鰻料理などを堪能できる街です。北原家は江戸時代から栄えた商家。海産物の問屋をしていたようです。白秋の生家が今は記念館となっています。

ところで白秋記念館というのは神奈川県の三浦市と小田原市にもあります。三浦三崎には「城ヶ島の雨」の詩碑と白秋記念館があります。小田原時代の白秋は鈴木三重吉とともに児童雑誌「赤い鳥」を創刊します。「童謡」という新しいジャンルを開拓した功績を讃え、その創作活動を記念して造られたのが白秋童謡館です。

白秋といえば「待ちぼうけ」「ペチカ」「あめふり」「赤い鳥小鳥」「砂山」「鐘が鳴ります」「かえろかえろと」など多くの童謡の歌詞をつくりました。やがて与謝野鉄幹や晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知己を持ちます。雑誌「明星」や「文庫」で発表した詩は、上田敏などによって高く評価され、歌人としての地位を確立します。

「からたちの花」です。この詩に曲をつけたのが山田耕筰です。

からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。

からたちのとげはいたいよ。
靑い靑い針のとげだよ。

からたちは畑の垣根よ。
いつもいつもとほる道だよ。

からたちも秋はみのるよ。
まろいまろい金のたまだよ。

この曲はやがてシンガーソングライター(作詞作曲家)の小椋佳に多大な影響を与えていきます。
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旧藩主立花氏の別邸「御花」40001375_2 mihashirajinjya4 jeQDG4JLyIdlU-0

初めに言葉があった その18 「からし種一粒程でもあれば」

年末から年始にかけて頂戴した喪中の葉書やクリスマスカード、年賀状を見ながら住所を確認し、過ぎし年と2016年を考えています。振り返ると、私はあまり誇りにならないことをやってきたような反省があります。ちょとばかり他の人より学問をする時間が長かったとか、外国語が少しはできるとか、たいしたことのない論文を恥も外聞もなく書いてきたこと、、、。ある人が私に、「もっと優れた研究をするにはどうしたよいでしょうか、教えてください」と懇願してきたとしましょう。実に困ってしまう問いです。「からし種一粒の向上心があれば十分だ、」といってやりたい気持ちになります。

外国では、小さなものが成長して大きな成果を生むことの例として、「からし種」(mastard seed)がよく用いられます。日本の諺には「山椒は小粒でもピリリと辛い」という故事もあります。からし種は極めて小さいですが、味は明確で刺激は強烈です。いくら水を飲んでも口中が焼けるような熱さのときもあります。侮ってはならないのです。

誰しも才能や気質は潜在的に持っています。それをいかに開発していくか、そしてそれを発揮していくかです。「からし種」一粒程でもあれば、それで十分だということは、才能や気質は人に見せたり誇ったりすべきものではないということです。からし種をたくさん撒き散らすように、尊大な態度の人々が大勢います。周りがげんなりしていることに気がつかない人々です。

どんな小さい素質や可能性でも辛抱強く育て、途中で諦めなければ必ず実を結ぶと信じることが大切です。からし種一粒でいいのです。このからし種の喩えはマタイによる福音書17章20節にあります。

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初めに言葉があった その17 「新しい葡萄酒は新しい革袋に」

前回のブログの続きです。最も歴史の古い酒の一つが葡萄酒とかワインといわれています。メソポタミア (Mesopotamia) 地方で最初に造られたのが紀元前6000年頃といわれますから、その古さはとてつもないくらいです。今日、葡萄酒は世界中で造られ広く飲まれています。

時代が経って、中世のヨーロッパではカトリック教会 (Catholic church) の聖職者を養成する僧院や神学校が葡萄の栽培と葡萄酒の醸造を担います。これには理由がありまして、聖書のなかでキリストが葡萄酒を指して自分の血と称したことから、葡萄酒は礼拝の聖餐式において重要な役割を果たします。信者が司祭や牧師から葡萄酒をいただき飲むのです。このとき使うのは赤葡萄酒です。

葡萄の代表的な産地は中国、イタリア、フランス、アメリカ、ニュージーランド、スペイン、チリなどです。今や世界最大の葡萄の生産国は中国。日本でも山梨県が葡萄の産地ですが、世界的にみてその産出量は微々たるものです。旅行するとオリーブ畑と並んで葡萄畑が丘陵に広がります。名だたる高級なものから、市民が普段の食事中に飲むものまで多くの種類が生産されています。一度、イタリアやスペインに短く滞在したとき、なだらかな丘陵に広がる葡萄畑の眺望を楽しむことができました。もちろん葡萄酒をいただきながらです。

「新しい葡萄酒は新しい革袋に」です。「古い葡萄酒」のほうが高価で尊ばれるのではないかと反論されそうです。ですが、変化や改革ということが生き方において要求されるのが現代です。例の「Change」です。今までと同じような考え方や行動基準、生活習慣にしがみつく生き方をしていてよいのか?ということが問われています。新しい革袋とは、それを受けとめる世の中の新しい仕組みや、回りの人々の変化に対する適応性のことを示唆しています。

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初めに言葉があった その16 「わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である」

葡萄の発祥の地は、中近東やバルカン半島諸国 (Balkan)、ウクライナ (Ukraine)、グルジア (Georgia)などの東欧といわれます。紀元前3000年ごろには、原産地であるコーカサス地方 (Caucasus) やカスピ海 (Caspian Sea)沿岸で盛んに葡萄が栽培されていたようです。葡萄酒の醸造は早くに始まり、メソポタミア (Mesopotamia) や古代エジプトにおいても葡萄酒は珍重されていたと記録されています。旧約聖書の世界でも葡萄酒が登場します。そしてパンと葡萄酒は聖餐式の主役となります。

中国やヨーロッパ各地にも自生していたともいわれます。確かにイタリアやスペイン、オーストラリア、ニュージーランドなどにもぶどう畑が広がります。南米チリ(Chile)も葡萄の生産が盛んなようです。葡萄に共通していることは、日当たりが良く乾燥した気候とアルカリ性の土地によく育つことです。種類によってはそうでないものもあるようですが、、、、

葡萄は昔から生活に欠かせない果樹であることがわかります。乾燥させて保存食としたり、葡萄酒を造っていたことがその証です。葡萄はその形が人々に親しみやすさの印象を与えます。葡萄畑や園へ行くと姿形が沢山あることがわかります。強い葡萄を台木として接ぎ木をする方法が広がりました。それによって病害に耐えられる種類ができ、その数は100以上あるといわれます。日本の葡萄作りですが、棚式が主流で枝を張ります。ヨーロッパや北米では垣根作りで低い枝となっています。

葡萄がたわわになっている光景は、見るからに豊かさを感じさせてくれます。このように葡萄は、家族のつながりや人々の繁栄を象徴する木とされる所以です。木の幹が主人、そして枝はそれに活かされる家族や弟子のことを指します。幹に連なることによって豊かに実を結ぶようになるのが人生というわけです。

「わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネによる福音書15:5) “I am the vine; you are the branches. “

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初めに言葉があった その14 「それでも人生にイエスと言おう」

この言葉は、オーストリアの精神医であったヴィクトール・フランクル (Viktor Frankl) の著作からです。フランクルは第二次大戦中、ユダヤ人強制収容所を転々とし、生き残った一人です。我が国では、強制収容所での体験をもとに著した「夜と霧」’Nacht und Nebel) がよく知られています。世界中で翻訳された名作です。今回は、フランクルの「それでも人生にイエス (Ja) と言おう」(trotzdem Ja zum Leben Sagen) という言葉です。

ローマカトリック教会などのミサ(聖体主儀)やプロテスタント教会の聖餐式で唱えられる文句に「主よ憐れんでください」(Kyrie eleison) があります。英語では「Lord, have mercy」と唱えられます。フランクルの著作ではたびたび人生の意味や意義が強調されます。つらい状況に追い込まれ投げ入れられても逃げ出さず、私たちのために命を引き受けて生きることができるというのです。「主よ憐れんでください」と、人知では計り知れない恵みを乞うのです。これが信仰です。

第二次大戦中のユダヤ人収容所では、生きることより、死ぬ方がずっと楽であるといわれていました。でも収容所にいた人たちには自分たちで歌を作り、歌うものもいました。「それでも人生にイエスと言おう」という歌です。明日、何が起こるか分かりません。台風、地震、津波、放射能、病や老い。私達には、苦しみや悲しみが山ほどあります。それでも私達は与えられた人生に「イエス」と言います。与えられた人生を生きていきます。

フランクルが強制収容所にいたとき、連合軍や近くにやってきて、自分たちは解放されるという密かな噂が流れます。それを信じて一日一日生きていた収容者は、いつまでたっても解放されないことを知ると、やがて次々に死んでいったということです。

もう一つ、フランクルが収容所から解放されたあと、勤めていた病院での話です。末期ガンの患者を回診したとき、医師が看護師にモルヒネを注射するようにと指示します。そのとき、患者はフランクルに「宿直の医師や看護師を夜中に起こさないですむので、注射を依頼した」といいます。死の間際でも他人を気遣うさりげない行為にフランクルは感じ入るのです。また、過酷な収容所に入れられた人々の中にも、自分の一かけらのパンを仲間に与えたり、自ら他人の身代わりとなった神父もいたことも記すのです。
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初めに言葉があった その13 我が国の「下流老人」

「初めに言葉があった その8 「未富先老」http://naritas.jp/wp1/?p=2896 」の拙稿で、中国で使われている熟語の意味について触れました。ところがこの熟語をより詳しく調べてみると、中国の高齢化問題は、程度の差はあれ我が国とも共通した課題であることに気がつきました。

拙稿では次のように書きました。

「(我が国は)終の棲家を得てささやかながらの年金暮らしや介護医療保険制度などによって、「未富先老」という実態はあまり顕在化しなかったようです。」 この説明には事実の誤認がありました。申し訳ありません。

2015年の新語や流行語に「下流老人」があります。「生活保護基準で生活する、あるいはその恐れがある高齢者」をこのように呼ぶのだそうです。その人口は600万から700万人といわれています。これは65歳以上の人々の20%にあたるというのです。低年金の高齢者は1,250万人います。私もその一人ではあります。国民年金の月平均は5万円、厚生年金の月平均は約14万円といわれます。高齢者の20%が預貯金がゼロというのです。

加えて、年金以外でのセイフティネットが弱まっています。息子や孫に頼れない、息子の世代も自分の生活で手一杯である、などが理由です。2015年の総務省統計局の発表では、非正規労働者は19万人増加し1,971万人だそうです。これでは安心して結婚も子供もできません。とてもとても高齢の身内の面倒をみることは困難です。これはもう中国で使われる「失独失能」状態と同じです。

1950年代から1970年代は、急激な経済成長によって皆が豊かになっていけそうになった時代といわれました。1956年の経済白書では「もはや戦後ではない」という言葉が使われるほどでした。確かにマイホームを持ち、子供も二人以上いました。人口の増加や教育の普及は質の高い労働力を供給してきました。しかしながら、こうした高度の経済成長は一回限りのものでした。「富める者が富めば、貧しい者にも自然と富が浸透する」などというのは神話であることもわかってきました。皆が富めるような事態は起きませんでした。今、こうした状況は中国や韓国が経験しているといわれます。

今参議院で、生活保護基準を下回るお年寄りへの三万円臨時給付金のことが論議されています。一回限りの支給です。これと「一億総活躍社会」とはどんな関係なのでしょうか。どうも近づく選挙目当てだ、という指摘が正鵠を射ているようです。「ばらまき」はどの政権でも選挙前になるとやってきました。所得倍増も経済成長も、三本の矢も「一回限り」。それでお終いというわけです。

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初めに言葉があった Intermission 

今日はアメリカ合衆国では「マーティン・ルーサー・キング、ジュニア・デー」(C, Jr. Day)として連邦の祝祭日となっています。1月の第3月曜日です。キング牧師の栄誉を称え、1986年に祝日として制定されました。

バプテスト教会の牧師であり、公民権運動や平和運動の指導者でした。1968年4月4日、当時39歳という若さで暗殺されました。アメリカではキング牧師の功績を称え、ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)政権下の1986年よりキング牧師の誕生日(1月15日)に近い1月第3月曜日と定めました。

しかし、この日が連邦の祝祭日になるまでは、紆余曲折がありました。最初に議員提案された法案は、下院での承認に5票足りなかったとされます。その理由は、個人の功績をたたえる祝日は私人には与えられないという長い伝統がありました。 生前の業績から祝日に制定された故人は二人います。一人は、ジョージ・ワシントン (George Washington) とクリストファー・コロンブス (Christopher Columbus) です。ワシントンの誕生を記念する祝日は、2月第3月曜日のプレジデント・デイ (President Day) 、10月第2月曜日がクリストファー・コロンブス・デイ (Christopher Columbus Day)となっています。コロンブスは明らかに私人だったと思うのですが、、、少々可笑味があります。

紆余曲折にはまだあります。二人の上院議員が、キング牧師はヴェトナム戦争に反対したこと、さらに共産主義者でないか、といった疑念を喧伝したのです。さすがに共産主義者というレッテルは通じませんでした。歌手のスティービ・ワンダー (Stevie Wonder) が1981年に “Happy Birthday” という曲をリリースします。それをきっかけに600万人の署名が集まり、レーガン大統領が署名して祝祭日となりました。

合衆国には10の連邦祝祭日があります。少ない印象がありますが、その他に州ごとに祝日があります。2月12日はリンカーンの誕生日、イースター (復活祭:Easter) などです。イースターは年ごとに違う春のある日曜日となっています。今年は3月27日です。

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Rev. Martin Luther King Jr.

初めに言葉があった  その12 「Government of the people, by the people, for the people」

先日、一読者から有り難い指摘を受けました。私の記事に誤解があるという内容でした。それは合衆国大統領のリンカーン (Abraham Lincoln) のゲテイスバーグ演説 (Gettysburg Address) と奴隷解放(Emancipation Proclamation) 宣言は別であるという指摘でした。

早速Wikipediaで調べますと、奴隷解放宣言は二部にわかれていることがわかりました。第一部の奴隷解放宣言は1862年9月22日にリンカーン大統領は、奴隷解放 (Emancipation Proclamation) を宣言し、南北戦争中である連邦軍の戦っていた南部連合が支配する地域の奴隷たちの解放を命じたことです。

第二部の奴隷解放宣言は、南北戦争の2年目である1863年1月1日の奴隷解放宣言の発布です (presidential proclamation and executive order) 。リンカーン大統領はこの宣言で、連邦軍から脱退した州の中で、1863年1月時点で連邦側に回帰していない全ての州の奴隷が解放されることを宣言しました。そして1863年11日19日のゲテイスバーグ演説です。

ゲティスバーグ演説は、272語1449字という約2分間のスピーチでになっています。リンカーンの演説の中では最も有名な箇所が演説の最後で締めくくられます。

 ,,,,and that government of the people, by the people, for the
 people, shall not perish from the earth

南北戦争と奴隷解放宣言に関して、年度別に整理すると次のようになります。
・奴隷解放宣言 1862年9月22日
・奴隷解放宣言の発布 1863年1月1日
・ゲテイスバーグ演説 1863年11日19日
・南北戦争の事実上の終結 1865年4月9日

私は、リンカーンがゲテイスバーグ演説の中で奴隷解放を謳っていたと勘違いしました。ご指摘に沿って、「留学を考える その24」の拙稿を修正させていただきました。http://naritas.jp/wp1/?cat=363

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Gettysburg

初めに言葉があった その11 「見ないで信じる者は幸いである」

長男には二人の息子がいます。私の第一と第二の孫です。中学三年と中学一年になりました。マサチューセッツ州 (Commonwealth of Massachusetts) のプリンストン (Princeton) という静かな田舎町に住んでいます。

2007年から2008年にかけて半年間、大阪の豊中市にやってきました。長男が職務を離れた長期休暇であるサバティカルを利用して阪大に研究でやってきたからです。二人は地元の小学校と幼稚園にはいりました。上の孫は会話ができず、一斉授業にもついていけず、毎朝登校を嫌がっていました。日本語を学ぶクラスもありませんでした。下の孫は、幼稚園で意地悪をされたようで、相手を叩いて叱られて帰ってくることもありました。

週末になると、大好きな新幹線や飛行機を見に、新大阪や伊丹へモノレールで出かけていました。とにかく二人とも乗り物には夢中でした。特に新幹線については、データベースができるほど細部にわたって特徴や性能を吸収していきました。

友人家族が兵庫県の赤穂市での潮干狩りに誘ってくれました。「こだま」に乗って相生駅にやってきました。そこは、のぞみやひかりが通過する駅です。プラットフォームで、上りと下りの新幹線がすれ違う光景に目を白黒させていました。轟音に耳をふさぐ姿は滑稽な位でした。

楽しい半年の思い出のつまった豊中を発つ朝でした。玄関前で「プリンストンに帰ったら友達に新幹線の話をしてやるとみんな喜ぶよ、、」といってやりました。「新幹線を説明するときは、ビデオや写真を見せるといいよ、、そのほうがわかりやすいから、Seeing is believingっていうだろう、」

すると孫が、「おじいちゃん、世の中には見ることで信じることにはならないものもあるんだよ、、」というのです。一瞬、ガツンと叩かれたようでクラクラしました。孫は信仰とか信じるということの智識を既に身につけつつあったのです。「見えないものを信じる」姿勢を孫から思い起こされる別れの時でした。「見ずに信じる者は幸いなり」ということばが浮かびました。

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初めに言葉があった その10 「新たに生まれる」

世の中には、原理原則を後生大事にする人々がいます。例外を認めない、自由な解釈は認めない、忠実に決められたことにそって対応するという考えの人です。「法務大臣というのは二つのことを覚えておけばいい」と放言して辞めさせられた独善的な大臣もいました。誠にお粗末な話題でした。この人も原理主義者なのかもしれません。

ヨハネによる福音書3章1〜15節(Gospel according to St. John)の中にニコデモ(Nicodemus)という人物が登場します。ニコデモは、当時のユダヤ教社会のサンヘドリン(Sanhedrin)という七十人議会の一人でありました。サンヘドリンは、ユダヤ人の最高院で民事、刑事、宗教の裁判を司っていました。このようにニコデモは社会的地位のある人物で、宗教上の形式にこだわる人とされるパリサイ人(Pharisee)でもありました。地位も名誉もあるニコデモが夜、人目を忍んでキリストに会いに来ます。そして小さな論争を挑むのです。

ニコデモ 「年老いてしまって、一体誰が生まれ変われるというのですか?」
キリスト 「その通り、母の胎内に二度と戻ることは出来ません。」
キリスト 「霊的に生まれねばなりません(Born again)」

キリストはニコデモと自由で闊達な議論へと導きます。当然、保守的なニコデモとは対立します。ニコデモは古い自分を捨てて、新しい自分として生きることができない人物でした。

キリストはさらにのニコデモに云います。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」と語り新しい息吹や精神の意義を説きます。風は目に見えなくとも、音によって風の存在を知るのだと。被造者としての命の息を吹き込まれる必要があるとニコデモに説いていくのです。

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