心に残る名曲 その九十九 ベートーヴェン その4 ソナタ形式を飛躍的に発展

ベートーヴェンはファイファー(Tobias F. Pheiffer)という宮廷オルガン奏者に師事します。彼の指導によってクラヴィアやオーボエの奏者としても長足の進歩を遂げたようです。宮廷での仕事の中でボンのオペラ劇場の通奏低音奏者となります。1787年にウィーンのボヘミヤ系貴族、ヴァルトシュタイン伯(Ferdinand von Waldstein)と出会います。彼はベートーヴェンの演奏を聴いて献身的なパトロンとなります。ヴァルトシュタインは、ベートーヴェンをモーツアルトの後継者という触れ込みで道をつけていきます。ベートーヴェンは、こうしてウィーンの貴族社会に受けいれられていきます。1790年にはハイドンがロンドンに向かう途中、ボンに立ち寄り、ベートーヴェンの楽譜を見せられ、それが印象に残ったといわれます。後にベートーヴェンはピアノソナタ第21番ハ長調をヴァルトシュタイン伯に献呈したほどです。この曲は「ヴァルトシュタイン」という通称でも知られています。

 聖ステファン大聖堂(St. Stephan Cathedral)のオルガン奏者、ヨハン・アルブレヒベルガー(Johan Albrechtberger)に師事します。アルブレヒベルガーは、古い流儀の対位法に造詣が深く、ベートーヴェンは求めていた幅広い技術を身につけていきます。1795年にウィーンでピアニストとしてデビューします。自作のピアノ協奏曲第二番とモーツアルトの曲を弾きます。1800年には大がかりな公開演奏会を開きます。ピアノ協奏曲第一番、七重奏曲、交響曲第四番などを演奏します。

ベートーヴェンの作品と業績についてです。それまで声楽より劣るとされていた器楽を高い水準に引き上げたのがベートーヴェンです。感情の激しさと曲の構造の精緻さが結合したといわれます。先達から引き継いだ対位法とかソナタ形式を飛躍的に発展させ、特に交響曲と弦楽四重奏曲にその楽曲が顕著に示されているといわれます。

 

心に残る名曲 その九十八 ベートーヴェン その3 「交響曲第三番変ホ長調 英雄」

ベートーヴェンの創作を三つの時期に分類したのがロシアのウィルヘルム・レンツ(Wilhelm von Lenz)という著作家です。ベートーヴェンの作曲活動を知るうえで非常に興味ある話題なので取り上げることにします。

 第一期は、1794年の3つの第一期はピアノトリオを(Piano trio)完成し、1800年の交響曲第一番と七重奏曲を作った時期です。この期の作品は、ベートーヴェンが得意とするピアノによる曲が目だつようです。そこには、2つの特徴である対照的なダイナミックさを個性的に使用することや、クレッシエンドから突然ピアニッシモになるといった工夫がみられることです。これは即興演奏からの技法が次第に入り込んでくるためといわれます。

 

 

 

 

 

 

 

第二期は1801年から1814年頃で、嬰ヘ短調ソナタ「月光」、ピアノ三重奏曲第7番(大公)、交響曲第三番「英雄」(Eroica)やピアノ協奏曲第四番、即興的素材の使用が目立つ時期といわれます。和声は基本的に単純で和声が基本的な拍数との関係で使われます。ストレスとアクセントを使います。その結果、ベートーヴェンの曲はあらゆる作曲家の中で、同じ旋律を繰り返すことが最も少ないといわれます。

第三期は1814年から没年の1827年の時期です。ベートーヴェンはヘンデルに傾倒し、より対位法を本格的に使用するようになります。「英雄」がそうです。第一楽章は複数の主題、緩徐章と呼ばれる第二楽章の展開部は比較的短く叙情的で、第三楽章はスケルツォ(scherzo)、メヌエット(minuet)など舞踏的な性質が特徴で、終楽章の第四楽章は以前よりずっと重要視され、特に主要楽章となり、活気のある優雅さが特徴といわれます。

心に残る名曲 その九十六 ベートーヴェン その1 「ドイツ3大B」

学校の音楽教室といえば、歴代の作曲家の肖像画がずらりと並んでいたものです。とりわけ、少々「怖い」顔でペンを持ち楽譜に向かうのがベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)でした。ドイツが生んだ三人の作曲家がバッハ(Johann Sebastian Bach)、ブラームス(Johannes Brahms)、そしてベートーヴェンです。「ドイツ3大B」と呼ばれる所以です。

 1770年生まれのベートーヴェンは、楽才では世界的にしられています。特に器楽形式である交響曲を高度に完成させ、作品はウィーン古典派の頂点を示すといわれます。

ベートーヴェンの家は、オランダ南西部からフランス北東部にまたがる地方であるフランドル (Flanders)の出で、祖父の代にボン(Bonn)に移住します。祖父はケルン選帝候(Kurfurst)の合唱団の歌手でやがて楽長の座につきます。息子のヨハンも同じ合唱団にいたようです。当時の音楽家と同じく、音楽を職業とする家で育ちます。6歳のときにクラヴィア協奏曲やトリオを演奏したようです。クラヴィア(Clavia)とは、鍵盤つきの弦楽器のことです。ピアノやハープシコード(harpsichord)を指します。

心に残る名曲 その九十五 ヴェーバー その3 「舞踏への勧誘」

ヴェーバーの三回目です。「魔弾の射主」は17世紀半ばのボヘミヤの山村地方が舞台です。題材は自然や民衆的な人間性を要素としています。ヴェーバーの音楽史上での意義は、主としてオペラの領域にあるといわれます。彼の特色が集大成となったのが代表作となったこの「魔弾の射主」といわれます。ドレスデン(Dresden)でもこの曲は大変な人気だったようです。25回に渡って演奏されたといわれます。

 1825年に歌劇オベロン(Oberon)を作曲します。オベロンとは西欧の妖精といわれます。この歌劇はロンドンのコベントリーガーデン(Coventory Garden)劇場の依頼で作られたものです。

ヴェーバーの才能は、オペラ以外にも各種多様な作品を生み出したことに示されます。彼自身がすぐれたピアニストであったため、ピアノ曲、ピアノ合奏曲に注目すべき作品があります。「舞踏への勧誘変ニ長調」(Invitation to Dance)もそれです。誰にも覚えやすい優しくも華麗な旋律です。ロンド形式(Rondo)といって、異なる旋律を挟みながら、同じ旋律であるロンド主題を何度も繰り返す楽曲で知られています。踊りは確かに同じような動作の繰り返しですから、ロンド形式の音楽が必要なのでしょう。

心に残る名曲 その九十四 ヴェーバー その2 魔弾の射手

ヴェーバーは11歳で初めてオペラを作曲したというのですから、その才能はうかがい知るべしです。1821年に初演された「魔弾の射手」は3幕のオペラです。ロマン派オペラの先駆的作品ともいわれ、その中でも「序曲」(Overture)、「狩人の合唱」(Chor der Jager)が特に有名です。

 「魔弾の射手」によってドイツ・ロマン派のオペラ様式を完成、そしてワーグナー(Richard Wagner)へと流れを導いた作曲家といわれています。「魔弾の射手」の大成功によって、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てます。この曲によってワーグナーやベルリオーズなど、後に大作曲家となる多くの人々が作曲家を志したともいわれています。

「魔弾の射手」や「オベロン」(Oberon)などのオペラのほか、「舞踏への勧誘」(Aufforderung zum Tanz)などの器楽曲も残しています。また、オーケストラの配置を現在に近い形に改め、指揮棒を初めて用いた人としても知られています。

序曲のことです。オペラ,オラトリオ,バレエ,組曲などの初めに導入として演奏される器楽曲で、19世紀にはしばしば独立した演奏会用序曲が作曲されます。メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」(Die Fingals-Hohle),ブラームスの「大学祝典序曲」(Akademische Fest-Ouverture)などの名曲が生れます。

心に残る名曲 その九十三 ヴェーバー その1 対位

カール・マリア・フォン・ヴェーバー(Carl Maria von Weber)は 1786年生まれで、ドイツのロマン派初期の作曲家、指揮者、ピアニストです。我が国でもたいそう知られた作曲家です。

 ヴェーバーの生い立ちからです。通常、貴族の姓の前につけられるのが「von」ですが、しかし、父祖は製粉業とか農業など地味な家柄だったようです。虚弱な体質で、幼少から座骨を患い、終生足が不自由でありました。父は音楽教育に熱心で、各地で有名な音楽家に息子を師事させていました。10歳にしてすでにハイドン(Franz Haydn)から対位法(counterpoint)を学んでいます。

対位法とは、主旋律に対して和音で伴奏をつけるのですが、伴奏部分も主旋律にすることです。心地良いハーモニーを追求していく中で生まれた理論ともいわれ、基本は3度と6度の和音を使います。旋律と旋律を重ねる方法でもあります。

ヴェーバー家はモーツアルト家と縁戚関係にあったことも幸いしています。17歳でブレスラウ(Breslau)の歌劇場で指揮者兼作曲家として赴任し、音楽家として独立します。1813年にはプラハ(Prague)市立劇場で指揮者となり、さらに1817年にドレスデン(Dresden)宮廷劇場の音楽監督となります。そして1821年にベルリンの王立劇場のこけら落しで、歌劇「魔弾の射手」(Der Freischutz)を自ら指揮をします。そして万雷の喝采を浴び、演奏は大成功だったと記録されています。

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心に残る名曲 その九十三 グノーと「アヴェ・マリア」

チャールス・グノー(Charles Gounod)の二回目です。ローマ留学を終えて、グノーはパリに戻ります。そして国外伝道会教会の合唱長・オルガン奏者に就任します。宗教音楽の敬虔さと抒情的な表現の調和を込めた沢山の宗教曲を作ります。宗教音楽とはカトリック教会の典礼音楽のことです。

グノーはオペラ「ファウスト」(Faust)も作曲します。この曲はやがてフランスオペラの代表といわれるほど名声を博します。しかし、ドイツではゲーテ(W. Goethe)の劇詩から離れているという理由で「マルガレーテ」(Margarethe)と呼ばれるようになります。

「ファウスト」は5幕からなり、老学者ファウストが自分の書斎で、人生をかけた自分の学問が無駄であったと嘆くのです。そこに悪魔メフィストフェレスが現れ、 ファウストの望みを聞くき、美しい娘マルガレーテの幻影を見せます。「金の子牛の歌」、「宝石の歌」が有名です。「兵士の合唱」は北大男声合唱団にいたとき私も歌ったことがあります。

結びに、グノーといえば「アヴェ・マリア」です。この曲は、バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻の前奏曲第一番ハ長調の伴奏を用いています。 その他、「ロミオとジュリエット」(Romio and Juliet)という作品もあります。音楽事典には「幻想交響曲のベルリオーズ(Hector Berlioz)によって敷かれた音楽復興の基礎を新たな軌道に載せたフランス楽派の祖」といわれます。

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に残る名曲 その九十二 グノーとパレストリーナ

フランスの作曲家の続きです。今回はチャールス・グノー(Charles Gounod)です。1818年生まれ。1836年にパリ音楽院に入学し、対位法や作曲法を学びます。太陽王といわれたルイ14世(Louis XIV)が1663年に創設したローマ大賞(Prix de Rome)を受賞し、ローマに3年間留学します。ローマ大賞は、芸術に励むフランス人の若者に対してフランス政府が授与していた奨学金制度で、各部門若手芸術家の登竜門となっていました。

 グノーは、カトリックの宗教曲を多く残し「教会音楽の父」と呼ばれていたパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)に強く惹かれます。少なくとも100以上のミサ曲、250以上のモテットを初めとする数多くの教会音楽を作曲し、イタリア人音楽家として大きな名声を得たのがパレストリーナです。ローマ滞在中はサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)北隣に位置するシスティナ礼拝堂(Cappella Sistina)の礼拝にもにも参列したとあります。

ローマでの作品は宗教曲と歌曲です。合唱とオーケストラのミサ曲も作ります。グノーは聖職者をめざし神学校で聴講しています。その間宗教曲だけを作っていたという記録があります。ライプツイッヒ(Leipzig)の聖トマス教会(Thomaskirche)でメンデルスゾーン(Mendelssohn)のオルガン演奏を聴いたグノーは、深い印象を受けたといわれます。

心に残る名曲 その九十一 サンサーンス その1 オルガン奏者

フランスの作曲家、オルガン奏者、ピアノ奏者がサンサーンス(Charles Saint-Saens)です。生まれは1835年。2歳半のときからピアノ奏者だった大伯母からピアノの手解きをうけ、5歳のときには、ハイドンやモーツアルトのソナタを弾くまで成長したようです。

 サンサーンスは音楽と並んでラテン語を学び、ラテン文学の黄金期を築いたラテン語詩人の一人であるウェルギリウス(Publius Vergilius Maro)などの古典を親しんだといわれます。ウェルギリウスは紀元前70年の頃の人で、ローマで修辞学、弁論術、医学、天文学などの教育を受けたといわれます。サンサーンスはそうした影響を受けて、数学や天文学にも関心を持ちます。広範囲の勉学が広い視野と豊かな知識をもたらしたようです。

10歳のとき、公開演奏会を開き、モーツアルトやベートーヴェンのピアノ協奏曲を全曲暗譜で演奏し聴衆を驚かせたといわれます。そのころ同じくフランスの作曲家グノー(Charles Gounod)と知り合い、13歳でパリ音楽院に入学し、作曲活動に入ります。1857年に教会用大合唱作品「荘厳ミサ」を初演します。同年、パリのマドレータ教会(Madreta Church)のオルガニストに就任するのですが、この地位はオルガン奏者にとって羨望の的であったといわれます。「Madreta」とは聖母マリアのことです。

心に残る名曲 その九十 ドビュッシーと「月の光」

クロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy)は, 1862年生まれのフランスの作曲家です。早速ですが、ドビュッシーの音楽といえば、誰もが「月の光」(Clair de Lune)というピアノ独奏曲を想い浮かべるだろうと察します。

 ドビュッシーは、パリ郊外の農村で生まれます。家庭は代々農業や手工業に従事した庶民のこです。経済的にも情緒的にも貧しい少年時代をすごしたようです。パリに移ると家にあった旧いピアノの前で夢想に耽ったとか。

1872年にパリ音楽院に入学し10年余りをすごします。「牧神の午後への前奏曲」という10分ほどの管弦楽品を書きます。それが出世作となります。1884年にフランスの奨学金付留学制度「ローマ賞(Prix de Rome)」を受賞し、イタリアのローマへ1885年から2年間留学しています。「月の光」は「ベルガマスク組曲 」(Suite Bergamasque)の中の第3曲です。「Bergamasque」とはイタリア北部のベルガモ地方のことのようです。

その他、代表作に交響詩の「海」という海の情景を表した標題音楽もあります。「夜想曲」(ノクターン)などにみられる長音階や短音階以外の旋法など、伝統になかった音を生みだそうとしています。「牧神の午後への前奏曲」ホ長調もそうです。その曲想は、印象主義音楽といわれ、自然を音で象徴しようとする音楽の絵画のような雰囲気をかもしています。「印象派」と呼ばれたドビュッシーは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響を与えた作曲家といわれてます。

心に残る名曲 その八十九 交響曲第8番ロ短調

シューベルトの交響曲第8番は、通常「未完成交響曲」(Unfinished Symphony)と呼ばれ、しばしば演奏されています。

 この交響曲は1822年に作曲されます。シューベルトが亡くなる6年前の作品です。交響曲というのは通常4楽章から成ります。シューベルトはグラーツ音楽協会(Graz Musical Society)のためにこの曲に着手し、第一、第二楽章の楽譜を自分が信頼していた友達のフーテンブレンナ(Anselm Huttenbrenner)に託します。どういうわけか、フーテンブレンナは音楽協会に渡さなかったのです。

シューベルトは1828年に亡くなります。それでもフーテンブレンナは楽譜の存在を明らかにしません。76歳になったフーテンブレンナは、1865年にその楽譜のことを指揮者であったヘルベック(Johann von Herbeck)に明かすのです。フーテンブレンナが亡くなる3年前です。ヘルベックは1865年12月に2つの楽章をウィーンで演奏します。

音楽史家は、この交響曲についてさまざまに調べ上げ、この二つの楽章で終曲しており、第三楽章や第四楽章は存在しないと結論づけます。19世紀のクラッシック音楽の傑作であり最も親しまれた作品であるともいわれます。

心に残る名曲 その八十八 歌曲にはドイツ語がぴったり

フランツ・シューベルト(Franz Schubert)は「歌曲の王」と呼ばれています。「水車小屋の娘」、「魔王」、「白鳥の歌」、「冬の旅」、「糸を紡ぐグレートヒェン」などがしばしば歌われます。「冬の旅」の第5曲目が「菩提樹」、「白鳥の歌」の最後の曲が「影法師」です。「野薔薇」もいい曲です。

 シューベルトの歌曲の特徴といえば、旋律の美しさや詩に含まれる言葉の抑揚やリズムが心地良く響くことです。それにはドイツ語に関連しています。ドイツ語には母音の数が少ない、綴り字と発音が割合に規則的に対応している、アクセントは原則として第1音節にあるなどの特徴があります。単語はおおよそローマ字通りに読むとよいのです。英語に比べると発音がずいぶん簡単なのです。アクセントによって勇ましい感じになるのもドイツ語です。

Sonne、sehen、 singenという単語の母音をみてみましょう。まず母音の前の 「s 」は「ザ、ジ、ズ、ゼ、ゾ」のように濁ります。次ぎに「 ch 」は a, o, u, au の後では、喉の奥をかすらせる音「ハ、ホ、フ」になります。Bach、doch、Buch は、バッハ、ドッホ、ブッフと発音します。

「ウムラウト」(Umlaute)もドイツ語の特徴です。ウムラウトとは変母音と呼ばれ、アクセントのある母音が、後続の i、e 等の前舌母音の発音に引きずられて e に近い発音になることです。例えば、Köln はドイツの都市名ですが、「コロン」に近い発音です。日本語風に「ケルン」と呼ぶのは間違いです。たいした間違いではないのですが、別の意味となります。

私が言いたいことは、歌曲にはドイツ語があっていることです。英語の歌詞で歌うとその違いがわかりますが、、、この辺りは文章で読者に説明するのが難しいです。お許しください。

 

心に残る名曲 その八十七 「ロザムンデ間奏曲」第三番

「キプロスの女王ロザムンデ(Rosamunde, Queen of Cyprus)」は11曲からなる劇です。その中に「間奏曲第3番変ロ長調」があります。この間奏曲はたったの3分ほどの曲です。さらっとした曲なのですが、静かで癒されるような美しい小品です。アンダンティーノ(Andantino)というアンダンテ(Andante)よりもやや速めに奏でられる印象的なヴァイオリンの主旋律は親しまれています。

 間奏曲の構成はきちんとしたロンド形式(ABACA)です。最初のAの部分は変ロ長調で始まります。シューベルトはこのメロディーがよほど好きだったらしく、最晩年のピアノ独奏曲『4つの即興曲』第3曲にも用いられているほどです。Aの部分は、四拍子で4小節づつ16小節で終わります。

次はト短調のBに移ります。少し変わった調子ですがこれもありでしょう。最後にニ短調に転調するところはより格調が高くなります。この部分は木管楽器の掛け合いが見事です。Bの後半でオーボエ(oboe)とクラリネット(clarinet)が互いに対話するように競演します。こうした演奏は云うことがないほど聞き惚れます。シューベルトの作品には、オーボエとクラリネットがしばしば登場するような気がします。そしてAの主旋律に戻って終曲となります。

 

 

 

心に残る名曲 その八十六 「キプロスの女王ロザムンデ」序曲

フランツ・シューベルト(Franz Schubert)は、日本で最も根強い人気のある作曲家の一人といってよいでしょう。たった31歳の生涯で、歌曲、室内楽、交響曲、そして劇付随音楽といわれる作品を600曲以上作ります。その半数が歌曲だったと音楽事典にあります。

ベルリン出身の女流作家ウィルヘルミネ・フォン・シェジー(Wilhelmine von Chezy)の戯曲『キプロスの女王ロザムンデ(Rosamunde, Queen of Cyprus)のために作曲されたのがこの曲です。シューベルトは付随音楽として序曲の他にも劇に沿った音楽をいくつか作曲していたようです。ですがこの序曲のみが演奏されることが多いようです。

 「ロザムンデ」のあら筋です。貧しい田舎町で育った少女ロザムンデ(Rosamunde)でしたが、実は地中海の王国キプロスの王女だったことが分かります。王国に戻り王位を継承してロザムンデが女王に即位すると、王宮では王女の権力を狙って求婚する者が現れたりします。それを嫉んで毒殺を企てたりする者まで現れ、王女は命を狙われるようにもなります。そこへ、若き青年が現れ王女の危機を救い、二人はめでたく結ばれるというお話。

この序曲は、低音から迫るトランペットと弦楽器の演奏から始まります。フルートとオーボエが弦楽器の静かなメロディに合わせて静かに曲が続きます。そして、トランペットが数回響き、曲が静かになります。この序奏が終わると、弦楽器が明るく爽やかな調子に変わります。賑やかで明るいフレーズが軽快に聴こえてきます。軽快なリズムに乗ってティンパニが轟くと迫力も伝わってきます。途中ではオーボエやフルート等の管楽器がやわらかく聴かせる部分をなんどか繰り返し、トランペットやトロンボーンが高らかに響いて終曲となります。演奏時間は約9分位です。

心に残る名曲 その八十五 ジョン・フィリップ・スーザ その二 「雷神」

19世紀のマーチングバンド(Marching Band)の音楽に貢献したのがジョン・スーザです。父親はポルトガル系、母はドイツ系です。周りの音楽好きの人々に囲まれ、スーザは自然に音楽と親しむようになります。7歳のとき音楽の勉強を始め、父親の紹介で13歳のときに大統領直属のワシントン海兵隊楽団に入団します。そこでトロンボーン奏者となります。

 海兵隊楽団に5年間在籍し、それを退団して各地のオーケストラやバンドを転々とします。1880年に古巣のワシントン海兵隊楽団から指揮者に指名され楽団に復帰します。「ワシントン・ポスト(Washington Post)」や「雷神(Thunderer) 」はこの時期の作品といわれます。

1892年、スーザが36歳のとき「スーザ吹奏楽団(Sousa’s Band)」を結成し、9月にニュージャージー州で第1回の公演を行います。その後全米各地への演奏旅行に出掛けます。ヨーロッパにも数度の演奏旅行に出掛けます。当時はラジオやテレビがないので、演奏会はどこも満員だったといわれます。

スーザ吹奏楽団は金管や木管楽器、打楽器による大編成だったので、まるで「軍楽隊オーケストラ(military orchestra)」とも呼ばれました。多くの団員を擁していたので、野球チームを作ったようです。投手はもちろんスーザでありました。

「雷神」は華やかで軽やか、浮き浮きするようなメロディです。この作品は、スーザが最も早い時期に作曲しアメリカらしいサウンドの行進曲と呼ばれています。この行進曲は、スーザの他の曲と同様の標準的な形式(AABBCDCDC)をとっています。Bセクションの反復部では、対位法的旋律が導入されています。

心に残る名曲 その八十四 ジョン・フィリップ・スーザ その一スーザフォーン 

北海道の名寄南小学校で低学年を過ごしました。そのとき、学校に吹奏楽部がありました。そこで聴いたのが行進曲です。後でその曲がスーザ(John Philip Sousa)というアメリカの作曲家であることを知りました。道立旭川西高校でも吹奏楽部があり、街の祭りでは他の学校に交じって行進していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スーザは元アメリカ海兵隊(United States Marine Corps-USMC)の音楽隊隊長で「行進曲の王様(March King)」と呼ばれたようです。「ワシントン・ポスト(Washington Post)」など100曲を超えるマーチを作曲します。「常に忠誠を(Semper Fidelis)」という曲は、海兵隊の正式行進曲として知られています。1987年12月に合衆国の「国の公式行進曲」(National March)に制定されたのが、「星条旗よ永遠なれ(Stars and Stripes Forever)」です。

吹奏楽部というのは、別名マーチングバンドなどと云われます。そこで用いられるマーチング用チューバのスーザフォーン(sousaphone)です。この楽器はスーザの考案によって命名されます。マーチングバンドの後方から放たれる重低音は、行進曲に重厚感を与えます。その巨大な姿による圧倒的な存在感を観衆に示す楽器でもあります。

心に残る名曲 その八十三 メンデルスゾーン その3 ピアノ協奏曲第1番

メンデルスゾーンはバッハの音楽の復興、ライプツィヒ音楽院(Hochschule für Musik und Theater)の設立など、19世紀の音楽界に大きな影響を与え一人です。1901年に瀧廉太郎がこの音楽院に留学しています。「ヴァイオリン協奏曲」「無言歌集」など今日でも広く知られる数々の作品を生み出しています。

ベルリンにおいてバッハの「マタイ受難曲(Matthaw Passion)」を編曲し、自らの指揮によりこの曲の復活を果たします。1750年にバッハが没してから初となるこの演奏の成功は、ドイツ中、そしてついにはヨーロッパ中に広がるバッハ作品の復活につながる重要な出来事だったといわれます。この公演は、バッハのマタイ受難曲が難解であることに加えて、慈善公演として成功させます。当時「世界で最も偉大なキリスト教音楽をユダヤ人が復興させた」と評されたほどです。ルーテル派に改宗したメンデルスゾーンは、マタイ受難曲を「この世で最も偉大なキリスト教音楽」と考えていたといわれます。

1826年に作曲したシェイクスピアの劇作「真夏の夜の夢(A Midsummer Night’s Dream)」の序曲、「結婚行進曲(Wedding March)」なども知られています。ついでですが、祝婚曲といえばワーグナー(Richard Wagner)のオペラ「ローエングリン(Lohengrin)」の中の「婚礼の合唱」も有名です。

メンデルスゾーンはピアノ奏者でもあったので、曲には技巧を誇示するような華やかな雰囲気を感じさせてくれます。これは楽想は「カプリチオ的(Capriccio)」といわれ、形式にとらわれず生気のある楽曲です。ピアノ協奏曲第1番ト短調やヴァイオリン協奏曲ホ短調も管弦楽の序奏がなく、主題の展開で活き活きした着想と機知に富んだ点が目だちます。

メンデルスゾーンはまた多くの歌曲も作っています。ハイネ(Heinrich Heine)の「歌の本(Buch der Lieder)」の詩からとった「歌の翼に」や無言歌集第30番の「春の歌」も親しみのある旋律で有名です。

 

心に残る名曲 その八十二 メンデルスゾーン その2 交響曲第2番「賛歌」 

メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn) は、ドイツ・ロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニストです。1809年生まれです。父Abraham Mendelssohnは銀行家、有名な哲学者Moses Mendelssohnの次男です。母Leaはプロイセン(Prussia)宮廷の宝石細工の娘でした。3歳のときベルリンに移住し、両親の慎重な教育計画にそって育てられます。9歳のときにすでにピアノ奏者として公衆の前で演奏し、神童の一人とも云われていたようです。

 メンデルスゾーンの家には、詩人、音楽家、哲学者、科学者が集まり、私的な音楽会を開いたり、芸術論をたたかわせるサロンのような状況であったようです。こうした環境でメンデルスゾーンは音楽や文芸的な素養が育まれたと考えられます。1816年に家族全員が改宗しルーテル教会信徒となります。ユダヤ系ドイツ人としての葛藤があったようです。1819年に1821年にはワイマール(Weimar)でゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)にも会います。1829年にイギリスを訪問し、イギリスの聴衆がメンデルスゾーンの音楽に対して共感を示します。旅先で「フィンガルの洞窟」を作曲します。

1830年からヨーロッパ中を駆け巡る旅が始まります。ミュンヘン、ウィーン、ナポリ、ローマ、パリ、ロンドンなどの都市で演奏します。その頃、ベルリオーズ(Louis Berlioz)やリスト、ショパンなどと知遇をえます。交響曲「スコットランド」、「イタリア」などの着想を得たといわれます。後に「宗教改革(Reformation)」と呼ばれる交響曲第5番を作曲します。数多い詩篇やカンタータではバッハの手法を学んでいます。オラトリオ「聖パウロ(St. Paul)」、「エリア(Elijah)」ではヘンデルから影響を受けたようです。聖歌のモチーフを使用し、宗教への関心の深さを示しています。交響曲第2番「賛歌」の終楽章では声楽を用い、ベートーヴェンの合唱付きの影響を受けたことがわかります。

 

心に残る名曲 その八十一 メンデルスゾーン その1 Symphony No. 4 in A Major

「 交響曲イタリア」と呼ばれるこの曲は、明るく伸びやかな音色、親しみのある旋律で知られています。A Majorとはイ長調ということです。長調は長音階に基づく調べの意味で、音楽の世界では、ドイツ語でのA Durと呼ぶのが一般的のようです。

「交響曲イタリア」は、 1833年3月にロンドンで初演されたとあります。作曲したのはドイツの作曲家、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)です。16の交響曲や交響詩を書いています。彼の交響曲では最も知られた曲といわれます。イタリアの風景や調べに満ちていることからこのニックネームが付けられたようです。

メンデルスゾーンは、初期ロマン派の音楽家で作曲、指揮、教師として活躍します。ロマン派音楽とは、バロック音楽や古典派音楽から受け継がれた和声語法を言い表します。和声の流麗さ、長く力強い旋律、表現の基礎としての詩情とか文学との融合など、音楽の「調性」という概念が確立したものがロマン派音楽と呼ばれています。

ロマン派音楽は「ロマンティックな音楽」といった雰囲気を連想させますが、むしろオーケストラの規模を拡大し、ソナタ形式の伝統に基づく音楽です。ソナタ形式の音楽は、 序奏部、 展開部、再現部、結尾部といった楽曲から成ります。「交響曲イタリア」を聴くとロマン派音楽をほうふつとさせます。

心に残る名曲 その八十 ショスタコーヴィチ その3 「交響曲第5番」

本日、ミルウォーキの近く住む、かつての国際ロータリークラブのスポンサーから手紙がきました。ユダヤ暦の新年の挨拶、ロシュ・ハシャナ(Rosh Hashanah)と住所変更の知らせでした。ショスタコーヴィチがユダヤ音楽に造詣が深いことを考えていたので、少々驚きでした。

 ショスタコーヴィチがユダヤ音楽の主題を使った歌曲集「ユダヤの民俗詩から」を作曲したのが1948年です。ブリタニカによると、ピアノ三重奏曲第2番の最終楽章のユダヤ旋律が明瞭に引用されているというのでYouTubeで聴いてみました。預言の音楽,祈りの歌,労働歌,典礼の音楽,哀歌といったものが複雑に混ざった印象を受けます。

ショスタコーヴィチの経歴や作曲歴を音楽事典から引用してみます。
1906年 9月25日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで誕生
1915年夏、母親から初めてのピアノのレッスンを受ける
1916年 グリャッセール音楽学校に入学
1919年 ペテルブルク音楽院に入学
1929年 交響曲第3番
1937年 交響曲第5番
1941年 交響曲第7番
1944年 ピアノ三重奏曲第2番
1945年 交響曲第9番
1948年 アンドレイ・ジダーノフ(Andrey Zhdanov)がショスタコーヴィッチはじめ著名な文化人や知識人に対する抑圧政策を主導
1948年 ヴァイオリン協奏曲第1番
1949年 弦楽四重奏曲第4番
1951年 24の前奏曲とフーガ
1962年 交響曲第13番
1971年 交響曲第15番