ウィスコンシンで会った人々 その35 留萌線が廃止か 

1951年、小学校4年の時、美幌から名寄に引越した。父親の勤務が名寄駅になったためだ。名寄には、宗谷本線、名寄本線、深名線があり、当時としては交通の「要所」であった。名寄線は、名寄から遠軽や湧別を結ぶ138キロの路線であった。オホーツク海を眼前にしたのどかな鉄道であった。だが1989年5月に全線が廃止された。もう一つ、名寄と深川を結ぶのが深名線であった。こちらも122キロと結構長かった。途中人造湖の朱鞠内湖がある。山葡萄や蕗、わらびとりに出掛けた所である。父親は深川の駅長もしたことがある。路線は1995年に廃止された。

小学校6年のとき、名寄から稚内に引っ越した。当時走っていた天北線は音威子府駅で宗谷本線から分岐し南稚内駅へ至る149キロの路線である。途中、猿払原野など荒涼とした風景が展開する。そして1989年5月に廃線となった。残ったのは宗谷本線だけである。

ようやく留萌線の話題にたどり着いた。この線がまたまた廃止になるという。留萌線は深川と留萌、増毛を結ぶ67キロの路線である。留萌は日本海に面する漁業の町である。1950年代は鰊漁で非常に栄えた町である。留萌線はまだ残された赤字ローカル線の一つだ。

筆者が小さい頃生活していた美幌、名寄、稚内、深川だが、そこにあった路線がことごとく廃止されるという有様である。鉄道の廃止で街が廃するのは、廃止後の沿線の街の現在をみれば明らかだ。そして凋落という未来を物語る。街の凋落は商業活動が停止することである。モノとヒトとカネの流通がないところに繁栄はない。

40年間鉄道で働き、管理業務をこなし、組合とやりあい、貨車の手配をしで夜遅くまで忙しかった父がこの鉄道の「悲惨な」状況を目の当たりにしたら、なにを感じるだろうか。一方で新幹線の北海道上陸が近く、沿線の自治体は盛り上がる。他方、地元の人の足となっていたローカル線がまた姿を消そうとして、沿線の街が無くなろうとしている。

どうも気になる その12 フリーカメラマンと旅券

フリーカメラマンと自称する人が、外国人記者クラブでの記者会見をしたとか。席上、「旅券返納で仕事を失い、人生そのものが否定された」、「これがあしき前例になり、報道や取材の自由が奪われることを危惧している」と訴えたそうである。

報道陣は殺到していたのに日本のメディアでほとんど扱われなかった点が気になる。なんらかの報道規制などの圧力が官邸などから入ったいるのだろうか。圧力をもろともせず、自由に報道しているのは外国人記者クラブくらいなのかもしれない。

われわれ多くの者は政府から旅券を与えられていると思っている。だが外国人には、渡航や移動の自由や権利を保証するのが旅券だという考えがあるそうだ。その権利を国家が奪うなんてあり得ないと指摘している。英国の記者も政府に迷惑をかけてはいけないという日本人の自制心に首をかしげているようである。

どの戦場にも従軍記者というのが同行した。ベトナム戦争もそうだ。そしてロバート・キャパ(Robert Capa)や沢田教一が命を落とした。かれらは、危険を承知で取材にでかけたのである。外務省が、危険だから取材に入らないようにという勧告をしたとすれば、一体誰が報道するのかという疑問は残る。

今回のフリーカメラマンのシリア行きがどうしてわかったのか。旅券申請のとき、誰が「シリアへ行く」なんて書くだろうか。真面目にそう書いたのだとしたらずいぶんと間抜けな話である。本当にシリアへ行くつもりなら、渡航先を「フランス」とでも書いておけばいいことだ。報道の自由なんぞをわざわざ振り回す必要もない。どうもこのフリーカメラマンの出自が気になるのだが。

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日本人とユダヤ人  その33 終わりに

「Le Concert」という映画からこのシリーズを始めた。一見コメディ風だがロシアの政治体制や人種、マフィアなどへの風刺もきき、音楽の素晴らしさを交えながら、人種差別をはじめとする社会問題を掘り下げた味わい深い佳作である。特にユダヤ系ロシア人の気概が体制への批判やユーモアとともに描かれているのに新鮮さを覚えた。

「Le Concert」には、共産主義体制が瓦解し、生きるため、金儲けのために時代をしたたかに生きて行こうとする人を敵味方にする人々の生き様がある。そうした世俗の葛藤の中で、演奏中止に追い込まれたユダヤ人演奏家の怨念と執念が「なりすまし楽団」の結成と公演に込められている。ユダヤ系ロシア人の知恵や生きる力がエスプリ(esprit)、フランス人監督の才気や精神、知性によって描かれるのが見所である。Espritは英語でspirit、ドイツ語でGeistと表記されるが、もとより出典は聖書であり、「霊」とか「魂」という意味に近いと考えられる。この世にあまねく行き渡る預言や崇高な知恵であり神聖な力、質、影響力のこととされる。

「Le Concert」を思い起こして再度考える。われわれは共産主義とか民主主義とかをフレーズで知っていても、その実体はなにかを把握することは容易ではない。定義はもちろんあるが、そこに内在するものは複雑なような気がする。具体的な事例を示されれば、「なんだ、こんなことか」と理解することができる。筆者は叔父のシベリアでの死亡の背景を知ることで全体主義国家のイデオロギーや論理を探し当てたような気がする。「八紘一宇」という言葉を取り上げるのは、物好きに過去を掘り起こす趣味ではない。そのとき生きていた人々の心的傾向や行動を一定の溝の中に引っ張り込む心的な強制力を考えるのである。

「Le Concert」は、言葉で表し得ないような現実の実相を描いていて体制とか権力の鈍しさと、生きることの「崇高な知恵や神聖な力」を伝えてくれた。

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ユダヤ人と日本人 その3 「Le Concert」から考える(3)

 

ソ連体制から”ユダヤ主義者は人民の敵”と称されたユダヤ系の演奏家の矜持を描いたフランス映画「Le Concert」の続きである。
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いよいよ、なりすましのボリショイ楽団はパリ公演にでかける。パスポートを業者に偽造させたり、楽器は借り物、演奏会用の洋服や靴をそろえるなどドタバタが続く。そしてパリにやってくる。だが団員は物見遊山ツアー気分で、パーティを楽しんだり、持参したキャビアを売ったり、タクシーの運転手などをして金儲けを始める。団員は集まらずリハーサルは流れてしまう。

このような団員のプロ意識の低さやアンドレの音楽界復帰のチャンスという意図に嫌気をさしたアンマリーは出演を断る。それをきいたチェロ奏者のアブラモビッチは、彼女に対してこの公演はアンマリーの過去や未だに会ったことのない両親を思い起こす機会となるとして出演を説得する。アンマリーは、幼い頃から両親は科学者で、アルプスで亡くなったきかされていた。

アンドレと妻のイリーナ(Irina)はユダヤ人音楽家であったリア、イヤーク・ストルム夫妻( Lea and Yitzhak Strum)の親友であった。リアはヴァイオリン奏者で、KGBによって演奏を停止させられた時のヴァイオリン奏者であり、指揮者はアンドレであった。

二人は自由ラジオヨーロッパ局やアメリカラジオ局を通じてブレジネフ政権やKGBの圧政と弾圧に公然と批判する。KGBが二人を連行しようとしたとき、二人はフランスからモスクワに公演にきていた楽団で演奏していたギレーネ(Guylene)に乳飲み子を託し、ギレーネはその赤子をチェロのケースに隠してパリに逃れるのである。その赤子こそがリアの娘アンマリーであった。
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友へ

今朝、かけがえのない友を亡くした。昭和20年8月6日、広島で被爆した親友であった。そのときは9歳。それから69年間後遺症と闘ってきた。重篤な脊椎前弯症のため、家でも外出のときも毎日酸素吸入器をつけていた。5年前に同じく被爆した御母上を天国に送った。

彼の自宅には毎月一度訪ねるのを楽しみにしてきた。いろいろと語り合ってきた。その都度、被爆の体験や「ノーモアヒバク運動」などを語ってくれた。沢山の写真も見せてくれた。その中に自宅が鮮明に写る原爆投下前と投下後の写真をひろげてくれた。広島平和記念資料館にあったものを特別に複写してもらったのだという。米軍は詳細な地理を把握し、効果的に爆撃するために都市の航空写真を撮っていたのだ。誠におぞましいことである。制空権を失った日本は蹂りんされた。

写真の他に、被災者証明書の原本も見せてくれた。発行は広島市で昭和20年8月10日と刻印されてある。後年、それを資料館に持ち込むとそのコピーを欲しいというので差し上げたそうだ。それが今も資料館に展示されているという。

友人は原爆の絵を描き続けた丸木俊氏とも交友を持ち続けていた。一緒に埼玉県東松山市にある丸木美術館に連れていってもらったことがある。「原爆の図」が収められている。その前に立つと生と死が圧倒的に迫り、くらくらしそうになった。

手元に「ヒロシマ・ノート」がある。岩波新書のなかでも傑作といえる一冊である。1965年に出版された。被爆者や被爆者の治療にあたった医療関係者を取材して刊行されたノンフィクションである。戦後の平和や民主主義とはなにかを問い直している。

だが筆者には、大江健三郎氏以上に畏敬の念を抱いてきた原爆を生きる証し人であった。今、永遠の安らぎがようやく彼に与えられたと納得している。

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北海道とスコットランド その20  宗教改革と免罪符

外国を知るには、伝統や文化を形成した宗教の影響を考えるのが大事だとかねがね考えている。スコットランドも長い宗教の歴史がある。特に宗教改革(Reformation)が及ぼした運動がその後の国作りに反映していることが分かる。

宗教改革といっても一口で語るのは難しい。Encyclopædia Britannicaによれば、ローマカトリック教会の様々な縛りや制度に対する抵抗としてとらえるのが一般的である。抵抗の槍玉になったのが「免罪符」(indulgence)である。免罪符は、16世紀、カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書のことである。免罪符は罪の赦しを与えるとか、責めや罪を免れるものや行為そのものを指すこともある。

元来、キリスト教では洗礼を受けた後に犯した罪は、告解によって赦されるとされていた。一般に、課せられる「罪の償い」は重いものであった。ところが、中世以降、カトリック教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという発想が生まれてくる。これが「贖罪」、いわば罪滅ぼしである。免罪符によって罪の償いが軽減されるというのは、「人間が善行や業によって義となる」という発想そのものであった。

前稿でも触れたことだが、教会の免罪符による赦免という世俗的な行為とその権威の失墜などに対して、改革の機運が生まれる。罪ある人間はいかに救われるのかという根源的な問いが広まる。それを世界に訴えたのが聖アウグスティン(St. Augustine)修道会の聖職者であり神学者であったマルチン・ルター(Martin Luther)である。

宗教改革という運動は、普遍的な教会とされたカトリック教会から訣別しプロテスタント教会(Protestant Church)という信徒の集まりをつくることになっていく。この改革運動から新しい教会が生まれただけでなく、既存のカトリック教会にも大きな影響を与え、その余波はヨーロッパ文化や思想にも及んでいく。

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北海道とスコットランド その5 スコットランド人と日本のかかわり その3

スコットランドは産業革命より前から世界の科学技術の中心地であり、それを支えた多くの科学者や技術者を輩出している。数学、物理学、化学、細菌学など基礎的科学にはじまり、電気通信、医学など技術・工学の分野、さらに文学、思想、哲学、経済学に至るまで、あらゆる分野で希有な能力をもつ人材を輩出してきた。これは世界に類例を見ないことといわれている。

多くのスコットランド人が北米大陸に渡って行くが、その他の大陸にも発見を求めて雄飛していく。そして日本に、北海道にもわざわざやってくるスコットランド人の心意気は一体はどこにあるのか、どうして生まれたのかを考えている。それがこのシリーズの原点である。

有名な歴史学者のアーノルド・トインビー(Arnold Toynbee)は、スコットランド人をして近代のディアスポラ(diapora–離散された者)と呼んだということである。こうしてスコットランド人の歴史を調べていくと、そこに探検家、宣教師、医師など、特別な技術や知識を有する者が日本にもはるばるやってきていることがわかる。なにか感慨深いものがある。

デヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)は、スコットランド人。ヨーロッパ人で初めて「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断する。ハワイ諸島、オーストラリア、ニュージーランドなどを発見したジェームス・クック(James Cook)の父親もスコットランド人である。

明治維新は、封建の世から目覚めたばかりであった。司馬遼太郎が「坂の上の雲」と呼んだ欧米の列強を目の当たりにして、明治政府は日本の近代化のために多くの技術者を招聘した。それに貢献したのがスコットランド人の技術者である。幕末から明治維新にかけ工部大学校(東京大学工学部の前身)の初代総長となったヘンリー・ダイヤー(Henry Dyer)がいる。彼はグラスゴー大学(University of Glasgow)を卒業後、東京で技術者の養成にあたる。

同じく東大医学部の前身東京医学校の初代校長ウィリアム・ウィリス(William Willis)がいる。彼はエディンバラ大学(University of Edinburgh)の出身である。鉄道技師にエドモンド・モレル(Edmund Morel)がいる。1876年に来日し、やがて新橋と桜木町を結ぶ鉄道を建設する。今も「鉄道発祥記念碑」が桜木町駅付近にある。

エディンバラ大学は1583年に設立された、英国で6番目に長い歴史を有する国立研究大学である。エディンバラ大学はこれまで11名のノーベル賞受賞者がいる。グラスゴー大学からも6名の受賞がいるともWikipediaに記されている。すごい業績である。

IMG_00022  ヘンリー・ダイヤーの記事330px-Cook-death クックとハワイ島上陸

北海道とスコットランド Intermission NO2

国籍の話題である。ニューヨーク・タイムズ(New York Times)を始めとするアメリカのメディアは、ノーベル物理学賞の受賞者となったカリフォルニア大学サンタバーバーラ(University of California, Santa Barbara)校の中村修二教授を「アメリカ人」と紹介しているという。この記事の見出しは「2人の日本人と1人のアメリカ人がノーベル物理学賞を分け合った」となっていた。AP NewsやThe Times-Tribuneも”Japanese-born American professor”と紹介している。筆者はこれでよいと考える立場だ。

合衆国では、自らの意志で米市民権を取得した場合は、帰化の時点で日本国籍を喪失するとなっている。中村教授は「米国の市民権」を取得しているのだからアメリカ人なのである。

国籍で気になることだが、アメリカ大使館が「米国籍取得で日本国籍を離脱」と主張しても、戸籍離脱届けをしないかぎり、国籍は残存している。我が国には国籍離脱届という制度がある。それを行使しないかぎり戸籍謄本に残こる。

そこでだが、中村教授は国籍離脱届けを提出していないだろうと察する。中村氏は外国籍取得と国籍離脱届提出の間の段階に留まっており、戸籍は残存している状態にある二重国籍なのだろうと考える。それ故、我が国のメディアが中村教授は日本人とするのも得心する。

何故こんなことを主張するかといえば、筆者の次女がそうなのだ。彼女は米国籍をもつ日本人である。だが筆者の戸籍に依然として記載されている。筆者は二重国籍が望ましいのかどうなのかを尋ねるために役所に相談にいった。まず戸籍から抹消するためには、市民権の証書、それも原本を役所に持参しなければならない。複写は受けつけないとのことである。だが吏員の対応には自信があるように感じなかった。

役所は曰く。戸籍法では、国籍離脱から3ヶ月以内に提出が義務付けられている。だが外国籍を取得したことは、日本政府は知りようがないのでなんの罰則規定もあてはまらないのだと。国籍法第13条に国籍離脱の届けの規定がある。それには届け書を作成して添付書類を添えて,法務局,地方法務局又は在外公館に届け出る、とある。

我が国は「国籍単一の原則」から二重国籍を原則的に認めていない。だが中村教授も筆者の娘のように、なんの手続きもしていない事例が多々あるはずだ。手続きがややこしいのと、二重国籍でも何の不自由もないからである。わざわざ旅費をかけて日本に戻り、国籍離脱手続きをするだろうか。しかも国籍法に二重国籍への罰則規定がないから、国籍剥奪の強制執行制度もない。日本政府が中村教授や娘らの現状をかえりみて、「国籍離脱届を出すように」と説得する可能性は1%位ある。

ノーベル賞の受賞者がアメリカ人か日本人かについては、中村教授にきくのがよい。だが氏の関心は国籍ではないことははっきりしている。

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