に残る名曲 その九十二 グノーとパレストリーナ

フランスの作曲家の続きです。今回はチャールス・グノー(Charles Gounod)です。1818年生まれ。1836年にパリ音楽院に入学し、対位法や作曲法を学びます。太陽王といわれたルイ14世(Louis XIV)が1663年に創設したローマ大賞(Prix de Rome)を受賞し、ローマに3年間留学します。ローマ大賞は、芸術に励むフランス人の若者に対してフランス政府が授与していた奨学金制度で、各部門若手芸術家の登竜門となっていました。

 グノーは、カトリックの宗教曲を多く残し「教会音楽の父」と呼ばれていたパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)に強く惹かれます。少なくとも100以上のミサ曲、250以上のモテットを初めとする数多くの教会音楽を作曲し、イタリア人音楽家として大きな名声を得たのがパレストリーナです。ローマ滞在中はサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)北隣に位置するシスティナ礼拝堂(Cappella Sistina)の礼拝にもにも参列したとあります。

ローマでの作品は宗教曲と歌曲です。合唱とオーケストラのミサ曲も作ります。グノーは聖職者をめざし神学校で聴講しています。その間宗教曲だけを作っていたという記録があります。ライプツイッヒ(Leipzig)の聖トマス教会(Thomaskirche)でメンデルスゾーン(Mendelssohn)のオルガン演奏を聴いたグノーは、深い印象を受けたといわれます。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その九十一 サンサーンス その1 オルガン奏者

フランスの作曲家、オルガン奏者、ピアノ奏者がサンサーンス(Charles Saint-Saens)です。生まれは1835年。2歳半のときからピアノ奏者だった大伯母からピアノの手解きをうけ、5歳のときには、ハイドンやモーツアルトのソナタを弾くまで成長したようです。

Charles Camille Saint-Saens, French composer and music critic, 1835-1921, Portrait (Photo by Popperfoto/Getty Images)

 サンサーンスは音楽と並んでラテン語を学び、ラテン文学の黄金期を築いたラテン語詩人の一人であるウェルギリウス(Publius Vergilius Maro)などの古典を親しんだといわれます。ウェルギリウスは紀元前70年の頃の人で、ローマで修辞学、弁論術、医学、天文学などの教育を受けたといわれます。サンサーンスはそうした影響を受けて、数学や天文学にも関心を持ちます。広範囲の勉学が広い視野と豊かな知識をもたらしたようです。

10歳のとき、公開演奏会を開き、モーツアルトやベートーヴェンのピアノ協奏曲を全曲暗譜で演奏し聴衆を驚かせたといわれます。そのころ同じくフランスの作曲家グノー(Charles Gounod)と知り合い、13歳でパリ音楽院に入学し、作曲活動に入ります。1857年に教会用大合唱作品「荘厳ミサ」を初演します。同年、パリのマドレータ教会(Madreta Church)のオルガニストに就任するのですが、この地位はオルガン奏者にとって羨望の的であったといわれます。「Madreta」とは聖母マリアのことです。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その九十 ドビュッシーと「月の光」

クロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy)は, 1862年生まれのフランスの作曲家です。早速ですが、ドビュッシーの音楽といえば、誰もが「月の光」(Clair de Lune)というピアノ独奏曲を想い浮かべるだろうと察します。

 ドビュッシーは、パリ郊外の農村で生まれます。家庭は代々農業や手工業に従事した庶民のこです。経済的にも情緒的にも貧しい少年時代をすごしたようです。パリに移ると家にあった旧いピアノの前で夢想に耽ったとか。

1872年にパリ音楽院に入学し10年余りをすごします。「牧神の午後への前奏曲」という10分ほどの管弦楽品を書きます。それが出世作となります。1884年にフランスの奨学金付留学制度「ローマ賞(Prix de Rome)」を受賞し、イタリアのローマへ1885年から2年間留学しています。「月の光」は「ベルガマスク組曲 」(Suite Bergamasque)の中の第3曲です。「Bergamasque」とはイタリア北部のベルガモ地方のことのようです。

その他、代表作に交響詩の「海」という海の情景を表した標題音楽もあります。「夜想曲」(ノクターン)などにみられる長音階や短音階以外の旋法など、伝統になかった音を生みだそうとしています。「牧神の午後への前奏曲」ホ長調もそうです。その曲想は、印象主義音楽といわれ、自然を音で象徴しようとする音楽の絵画のような雰囲気をかもしています。「印象派」と呼ばれたドビュッシーは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響を与えた作曲家といわれてます。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その八十九 交響曲第8番ロ短調

シューベルトの交響曲第8番は、通常「未完成交響曲」(Unfinished Symphony)と呼ばれ、しばしば演奏されています。

 この交響曲は1822年に作曲されます。シューベルトが亡くなる6年前の作品です。交響曲というのは通常4楽章から成ります。シューベルトはグラーツ音楽協会(Graz Musical Society)のためにこの曲に着手し、第一、第二楽章の楽譜を自分が信頼していた友達のフーテンブレンナ(Anselm Huttenbrenner)に託します。どういうわけか、フーテンブレンナは音楽協会に渡さなかったのです。

シューベルトは1828年に亡くなります。それでもフーテンブレンナは楽譜の存在を明らかにしません。76歳になったフーテンブレンナは、1865年にその楽譜のことを指揮者であったヘルベック(Johann von Herbeck)に明かすのです。フーテンブレンナが亡くなる3年前です。ヘルベックは1865年12月に2つの楽章をウィーンで演奏します。

音楽史家は、この交響曲についてさまざまに調べ上げ、この二つの楽章で終曲しており、第三楽章や第四楽章は存在しないと結論づけます。19世紀のクラッシック音楽の傑作であり最も親しまれた作品であるともいわれます。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その八十八 歌曲にはドイツ語がぴったり

フランツ・シューベルト(Franz Schubert)は「歌曲の王」と呼ばれています。「水車小屋の娘」、「魔王」、「白鳥の歌」、「冬の旅」、「糸を紡ぐグレートヒェン」などがしばしば歌われます。「冬の旅」の第5曲目が「菩提樹」、「白鳥の歌」の最後の曲が「影法師」です。「野薔薇」もいい曲です。

 シューベルトの歌曲の特徴といえば、旋律の美しさや詩に含まれる言葉の抑揚やリズムが心地良く響くことです。それにはドイツ語に関連しています。ドイツ語には母音の数が少ない、綴り字と発音が割合に規則的に対応している、アクセントは原則として第1音節にあるなどの特徴があります。単語はおおよそローマ字通りに読むとよいのです。英語に比べると発音がずいぶん簡単なのです。アクセントによって勇ましい感じになるのもドイツ語です。

Sonne、sehen、 singenという単語の母音をみてみましょう。まず母音の前の 「s 」は「ザ、ジ、ズ、ゼ、ゾ」のように濁ります。次ぎに「 ch 」は a, o, u, au の後では、喉の奥をかすらせる音「ハ、ホ、フ」になります。Bach、doch、Buch は、バッハ、ドッホ、ブッフと発音します。

「ウムラウト」(Umlaute)もドイツ語の特徴です。ウムラウトとは変母音と呼ばれ、アクセントのある母音が、後続の i、e 等の前舌母音の発音に引きずられて e に近い発音になることです。例えば、Köln はドイツの都市名ですが、「コロン」に近い発音です。日本語風に「ケルン」と呼ぶのは間違いです。たいした間違いではないのですが、別の意味となります。

私が言いたいことは、歌曲にはドイツ語があっていることです。英語の歌詞で歌うとその違いがわかりますが、、、この辺りは文章で読者に説明するのが難しいです。お許しください。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

 

心に残る名曲 その八十七 「ロザムンデ間奏曲」第三番

「キプロスの女王ロザムンデ(Rosamunde, Queen of Cyprus)」は11曲からなる劇です。その中に「間奏曲第3番変ロ長調」があります。この間奏曲はたったの3分ほどの曲です。さらっとした曲なのですが、静かで癒されるような美しい小品です。アンダンティーノ(Andantino)というアンダンテ(Andante)よりもやや速めに奏でられる印象的なヴァイオリンの主旋律は親しまれています。

 間奏曲の構成はきちんとしたロンド形式(ABACA)です。最初のAの部分は変ロ長調で始まります。シューベルトはこのメロディーがよほど好きだったらしく、最晩年のピアノ独奏曲『4つの即興曲』第3曲にも用いられているほどです。Aの部分は、四拍子で4小節づつ16小節で終わります。

次はト短調のBに移ります。少し変わった調子ですがこれもありでしょう。最後にニ短調に転調するところはより格調が高くなります。この部分は木管楽器の掛け合いが見事です。Bの後半でオーボエ(oboe)とクラリネット(clarinet)が互いに対話するように競演します。こうした演奏は云うことがないほど聞き惚れます。シューベルトの作品には、オーボエとクラリネットがしばしば登場するような気がします。そしてAの主旋律に戻って終曲となります。

 

 

 

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その八十六 「キプロスの女王ロザムンデ」序曲

フランツ・シューベルト(Franz Schubert)は、日本で最も根強い人気のある作曲家の一人といってよいでしょう。たった31歳の生涯で、歌曲、室内楽、交響曲、そして劇付随音楽といわれる作品を600曲以上作ります。その半数が歌曲だったと音楽事典にあります。

ベルリン出身の女流作家ウィルヘルミネ・フォン・シェジー(Wilhelmine von Chezy)の戯曲『キプロスの女王ロザムンデ(Rosamunde, Queen of Cyprus)のために作曲されたのがこの曲です。シューベルトは付随音楽として序曲の他にも劇に沿った音楽をいくつか作曲していたようです。ですがこの序曲のみが演奏されることが多いようです。

 「ロザムンデ」のあら筋です。貧しい田舎町で育った少女ロザムンデ(Rosamunde)でしたが、実は地中海の王国キプロスの王女だったことが分かります。王国に戻り王位を継承してロザムンデが女王に即位すると、王宮では王女の権力を狙って求婚する者が現れたりします。それを嫉んで毒殺を企てたりする者まで現れ、王女は命を狙われるようにもなります。そこへ、若き青年が現れ王女の危機を救い、二人はめでたく結ばれるというお話。

この序曲は、低音から迫るトランペットと弦楽器の演奏から始まります。フルートとオーボエが弦楽器の静かなメロディに合わせて静かに曲が続きます。そして、トランペットが数回響き、曲が静かになります。この序奏が終わると、弦楽器が明るく爽やかな調子に変わります。賑やかで明るいフレーズが軽快に聴こえてきます。軽快なリズムに乗ってティンパニが轟くと迫力も伝わってきます。途中ではオーボエやフルート等の管楽器がやわらかく聴かせる部分をなんどか繰り返し、トランペットやトロンボーンが高らかに響いて終曲となります。演奏時間は約9分位です。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その八十五 ジョン・フィリップ・スーザ その二 「雷神」

19世紀のマーチングバンド(Marching Band)の音楽に貢献したのがジョン・スーザです。父親はポルトガル系、母はドイツ系です。周りの音楽好きの人々に囲まれ、スーザは自然に音楽と親しむようになります。7歳のとき音楽の勉強を始め、父親の紹介で13歳のときに大統領直属のワシントン海兵隊楽団に入団します。そこでトロンボーン奏者となります。

United States Marine Band at Albany, New York, 1888. John Philip Sousa, Leader.

 海兵隊楽団に5年間在籍し、それを退団して各地のオーケストラやバンドを転々とします。1880年に古巣のワシントン海兵隊楽団から指揮者に指名され楽団に復帰します。「ワシントン・ポスト(Washington Post)」や「雷神(Thunderer) 」はこの時期の作品といわれます。

1892年、スーザが36歳のとき「スーザ吹奏楽団(Sousa’s Band)」を結成し、9月にニュージャージー州で第1回の公演を行います。その後全米各地への演奏旅行に出掛けます。ヨーロッパにも数度の演奏旅行に出掛けます。当時はラジオやテレビがないので、演奏会はどこも満員だったといわれます。

スーザ吹奏楽団は金管や木管楽器、打楽器による大編成だったので、まるで「軍楽隊オーケストラ(military orchestra)」とも呼ばれました。多くの団員を擁していたので、野球チームを作ったようです。投手はもちろんスーザでありました。

「雷神」は華やかで軽やか、浮き浮きするようなメロディです。この作品は、スーザが最も早い時期に作曲しアメリカらしいサウンドの行進曲と呼ばれています。この行進曲は、スーザの他の曲と同様の標準的な形式(AABBCDCDC)をとっています。Bセクションの反復部では、対位法的旋律が導入されています。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その八十四 ジョン・フィリップ・スーザ その一スーザフォーン 

北海道の名寄南小学校で低学年を過ごしました。そのとき、学校に吹奏楽部がありました。そこで聴いたのが行進曲です。後でその曲がスーザ(John Philip Sousa)というアメリカの作曲家であることを知りました。道立旭川西高校でも吹奏楽部があり、街の祭りでは他の学校に交じって行進していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スーザは元アメリカ海兵隊(United States Marine Corps-USMC)の音楽隊隊長で「行進曲の王様(March King)」と呼ばれたようです。「ワシントン・ポスト(Washington Post)」など100曲を超えるマーチを作曲します。「常に忠誠を(Semper Fidelis)」という曲は、海兵隊の正式行進曲として知られています。1987年12月に合衆国の「国の公式行進曲」(National March)に制定されたのが、「星条旗よ永遠なれ(Stars and Stripes Forever)」です。

吹奏楽部というのは、別名マーチングバンドなどと云われます。そこで用いられるマーチング用チューバのスーザフォーン(sousaphone)です。この楽器はスーザの考案によって命名されます。マーチングバンドの後方から放たれる重低音は、行進曲に重厚感を与えます。その巨大な姿による圧倒的な存在感を観衆に示す楽器でもあります。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その八十三 メンデルスゾーン その3 ピアノ協奏曲第1番

メンデルスゾーンはバッハの音楽の復興、ライプツィヒ音楽院(Hochschule für Musik und Theater)の設立など、19世紀の音楽界に大きな影響を与え一人です。1901年に瀧廉太郎がこの音楽院に留学しています。「ヴァイオリン協奏曲」「無言歌集」など今日でも広く知られる数々の作品を生み出しています。

ベルリンにおいてバッハの「マタイ受難曲(Matthaw Passion)」を編曲し、自らの指揮によりこの曲の復活を果たします。1750年にバッハが没してから初となるこの演奏の成功は、ドイツ中、そしてついにはヨーロッパ中に広がるバッハ作品の復活につながる重要な出来事だったといわれます。この公演は、バッハのマタイ受難曲が難解であることに加えて、慈善公演として成功させます。当時「世界で最も偉大なキリスト教音楽をユダヤ人が復興させた」と評されたほどです。ルーテル派に改宗したメンデルスゾーンは、マタイ受難曲を「この世で最も偉大なキリスト教音楽」と考えていたといわれます。

1826年に作曲したシェイクスピアの劇作「真夏の夜の夢(A Midsummer Night’s Dream)」の序曲、「結婚行進曲(Wedding March)」なども知られています。ついでですが、祝婚曲といえばワーグナー(Richard Wagner)のオペラ「ローエングリン(Lohengrin)」の中の「婚礼の合唱」も有名です。

メンデルスゾーンはピアノ奏者でもあったので、曲には技巧を誇示するような華やかな雰囲気を感じさせてくれます。これは楽想は「カプリチオ的(Capriccio)」といわれ、形式にとらわれず生気のある楽曲です。ピアノ協奏曲第1番ト短調やヴァイオリン協奏曲ホ短調も管弦楽の序奏がなく、主題の展開で活き活きした着想と機知に富んだ点が目だちます。

メンデルスゾーンはまた多くの歌曲も作っています。ハイネ(Heinrich Heine)の「歌の本(Buch der Lieder)」の詩からとった「歌の翼に」や無言歌集第30番の「春の歌」も親しみのある旋律で有名です。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]