ヨーロッパの小国の旅 その十六 ブルガリアの首都ソフィア

ソフィア(Sofia)は、チェコ(Czech)のプラハ(Prague)、ポーランド(Poland)のワルシャワ(Warsaw)、ルーマニア(Romania)のブカレスト(Bucharest)、ハンガリー(Hungary)のブタペスト(Budapest)と並び、1944年に社会主義のブルガリア人民共和国の首都となります。

元共産党本部の建物

以下、Britannicaからの引用です。1443年以降、ソフィアはオスマン帝国のルメリア州(Rumeli)の州都となり、その後4世紀以上にわたってオスマン帝国の支配下におかれます。町にはトルコ人が住み16世紀にソフィアの都市設計と外観はオスマン様式となり、多くのイスラム教の礼拝所、モスク(Mosque)やハマーム(hammam)という伝統的な蒸し風呂の公衆浴場が設けられます。

St. Georgi Church

町はブルガリア人の反乱者 (haiduk) によって1599年に数週間にわたって包囲されます。1610年、カトリック教会はルメリアのカトリック教徒のためのソフィア管区を設置し、1715年にカトリック教徒の大半が流出するまで維持されます。16世紀には126世帯のユダヤ人の世帯があり、ユダヤ教の会堂シナゴーグ(synagogue)が建てられます。

St. Petka Underground Church

20世紀に飛びます。1989年に起こった一連の東欧革命の流れの中で共産党独裁が揺らぎ、ブルガリアでも民主化要求が高まります。東ヨーロッパ全体が共産党支配と抑圧からの解放の機運が高まるのです。1991年にはソ連が崩壊し、2001年にブルガリア共和国(Republic of Bulgaria)が誕生します。

ヨーロッパの小国の旅 その十五 ブルガリアの歴史

ブルガリア(Republic of Bulgaria)は、東ヨーロッパの共和制国家です。世界地図を眺めますと「ヨーロッパの火薬庫」といわれたバルカン半島(Balkans)の東に位置し、北にルーマニア(Rumania)、東は黒海(Black Sea)に面し、南にギリシャ(Greece)とトルコ(Turkey)、そして西にセルビア(Serbia)、マケドニア(Macedonia)に接しています。実に複雑な地政学的な位置にあり、その歴史も複雑です。

中世期までの歴史は省き、その後のブルガリアの歴史を辿ってみます。第一次ブルガリア帝国(First Bulgarian Empire)は11世紀に東ローマ帝国に滅ぼされ、再び東ローマ帝国領となります。12世紀末に再び独立します。しかし、第二次ブルガリア帝国(Second Bulgarian Empire)は1242年のモンゴル人の侵攻によって打撃を受けて衰退し、1393年にオスマン帝国(Ottoman Empire)に滅ぼされます。以降、485年もの間オスマン帝国の支配下に置かれます。

1877年にロシア帝国はブルガリア内の抵抗勢力と共にオスマン帝国に宣戦を布告します。1878年オスマン帝国は敗北しサン・ステファノ条約(Treaty of San Stefano)を受け入れて、ブルガリアは 1878年3月3日に自治公国(大ブルガリア公国)(Great Bulgaria Principality)として独立します。この日は現在でも自由解放記念日として国の祝日となっています。

しかしブルガリア公国は、事実上ロシアの保護国であり、その領土がエーゲ海(Aegean Sea)まで伸張しロシアの南下政策を容易にしていきます。そのことに対し、イギリスやオーストリア・ハンガリーの国々などが懸念を抱き、こうした大国はロシアとトルコ戦争の戦後処理に関する1878年のベルリン条約(Berlin Treaty)に介入し、ブルガリアの領土を縮小してロシアの南下政策を牽制します。

1908年、オスマン帝国で青年トルコ人革命が勃発したことに乗じて、ブルガリアは独立を宣言します。1909年に国際的に完全な独立を承認されブルガリア王国が成立します。

ヨーロッパの小国の旅 その十四 ブルガリアの旅

2016年6月に、私は家内とでトルコのイスタンブル(Istanbul)にある日本人学校で教師をしていた友人を訪ねました。地図を見ながら、イスタンブルだけを観光するのはもったいないと思いました。そこで選んだのが西隣にあるブルガリア(Republic of Bulgaria)です。イスタンブルからブルガリアの首都はソフィア(Sofia)まで飛行機で一時間の距離です。

ソフィア(Sofia)というなんとも芳しいような名前です。ソフィアはギリシア語で叡智とか知性という意味です。哲学は英語でPhilosophy, Philosophiaで、Philoとは愛という意味です。SophiaとかSophieなどとも使われる女性名詞です。私事ですが孫娘もSophia。この名詞は人名の他に都市や組織にも使われます。上智大学(Sophia University)とかアヤソフィア(Hagia Sophia)がそうです。アヤソフィアは別名Sancta Sophiaといい「聖なる叡智」という意味です。

ソフィアはヨーロッパ最古の都市の一つであり、この街はかつて東ヨーロッパ周辺に住んでいた民族トラキア人(Thracia)の集落、セルディカ(Serdica)と呼ばれていたとあります。有史以前のトラキア人集落跡が現在のソフィアの中心で見つかります。その歴史は7千年以上に及ぶとされます。紀元前29年にセルディカは古代ローマ(Ancient Rome)によって征服されます。古代ローマとは、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家といわれます。

セルディカは発展し、やぐら、防壁、公衆浴場、役所、一般の教会堂より上位にあるバシリカ(basilica)が造られます。特に。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(Justinian I)の時代には繁栄を謳歌したようです。この時のセルディカは巨大な城壁に囲まれており、その一部は遺跡としてソフィアのダウンタウンで見られます。そういえば、ダウンタウンの駅名もSerdicaで名残を留めています。セルディカの発掘と保存作業は続いていました。

Assassinat de l’archiduc heritier d’Autriche Francois-Ferdinand (Franz Ferdinand ou Francois Ferdinand) et de la duchesse sa femme à Sarajevo – in “la Domenica del Corriere” du 12/07/1914. Assassination of Franz Ferdinand, 1863-1914 Archduke of Austria, and his wife Sophie, in Sarajevo, Bosnia, 28 June 1914, ©Bianchetti/Leemage

イスタンブルに行く前に、バルカン半島の地図を見ながらブルガリアとかルーマニアをも訪ねてみたいという気持になりました。

ヨーロッパの小国の旅 その十三 ラトビアの歌と踊り

バルト海の真珠”と称されるのが首都リガ(Riga)の旧市街です。世界遺産にも登録されています。一度訪ねたいものです。リガには12世紀後半ごろからバルトドイツ商人(Baltic Germans)が移住し、1282年にはハンザ同盟に加盟して貿易拠点として急速に発展を遂げます。その影響を受けてでしょうか、写真で見ますと旧市街には北ドイツ風のゴシック様式(Gothic)やロマネスク様式(Romanesque)の優雅な街並みが広がっています。厚い壁と小さな窓、細い柱や尖頭と円形のアーチ、石造天井、壁の彫刻などがこうした様式の特徴です。

バルトドイツ商人の祖先はドイツではありませんでした。やがて定着していくにつれてドイツの文化を取り入れ、上流社会を形成していきます。そしてラトビアとドイツの文化が融合していきます。20世紀になるとドイツ、アメリカ、カナダなどへ移住していく者が増えます。

しかし、土着のラトビア人は融合ではなく農民独自の文化を維持しながらキリスト教の伝統に結びついていきます。その代表といえる行事は、「ヤニ」(Jani) と呼ばれる夏至の祝いです。この祭りは聖ヨハネ(St. John)の洗礼を祝うものでもあります。自然崇拝や多神教の信仰色もあります。

ラトビアの伝統的な歌や踊りは何百年も受け継がれてきました。百二十万以上の伝承物語があり、三万以上の民族音楽が残されています。ラトビアの歌と踊りの祭典(Latvian Song and Dance Festival)は、1873年以来続いています。5年毎に開かれ30,000以上の人が集うとされます。歌と踊りのレパートリーは古典的で簡素化された教会様式アカペラ(A cappella)から現代的なものに及んでいます。

ヨーロッパの小国の旅 その十二 第二次大戦とラトビア

1939年に第二次世界大戦が始まると、ドイツとソ連との不可侵条約によりラトビアをはじめとするバルト三国はソ連に併合され、共産党の厳しい統治下に入ります。ラトビアはソ連との間で相互援助協定を結び、ソ連軍の駐留を認め空軍と海軍基地を提供します。1940年6月にソ連はラトビアに侵攻し、ラトビアはソ連の衛星国となります。ラトビア人もバルト系ドイツ人も厳しい迫害を受けました。35,000人以上の知識人らは追放され、北方ロシアやシベリアの強制収容所に送られたと記されています。この時代は「恐怖の年代」(Year of Terror)と呼ばれます。ドイツは不可侵条約を破りソ連に宣戦します。ラトビア人にとっては、東進してきたナチス・ドイツは自らを解放する同盟者に映ったようです。

しかしながら、ナチス・ドイツに協力しソ連に対抗しようとしたラトビアでは、多くのユダヤ人がラトビア人の監視のもとで強制収容所に送られ虐殺されます。中世にポーランドを通してラトビアに移住してきた多くのユダヤ人達です。さらにラトビア在住のユダヤ系の人々のみならず、ドイツやドイツの占領地から大量のユダヤ人が移送されてきます。1941年から1944年までのナチスドイツの侵攻によって、ラトビア人男性は徴兵されドイツ軍に編入されます。同時に国内でナチスドイツ抵抗運動が起こりますが、75,000人にのぼるラトビア人やユダヤ人が殺害されます。1944年ソ連の侵攻で2/3のラトビアが占領されます。100,000人以上のラトビア人がドイツやスウェーデンに逃れます。

戦後、連合国の協定によってラトビアなどバルト三国はソ連に併合され、スターリンの圧政を受けるのです。バルト三国は1991年にソ連が崩壊するまでソ連の共和国となります。ソ連からラトビアに大量のロシア人が移住してきます。戦争を挟む40年間に人口の3/4を占めていたラトビア人は1/2まで減ることになります。当然、国民はロシア語を使うことになります。

1980年代になり、ソ連における政治体制のペレストロイカ(perestroika) とかグラスノスチ(glasnost)といったスローガンによる改革運動の進行や1991年の共産党保守派によるクーデター(Coup detat)の失敗により、その年の8月に議会が独立を宣言し、ソ連からの完全な独立を回復するのです。

戦後、リガの旧市街は昔の趣を再現し、中世の街並みの残る地域として世界遺産(World Heritage)となり、観光都市として繁栄しています。バルト三国の発展は、戦後70年以上を経過した西ヨーロッパの未来と深く関わっているのです。バルト三国は北大西洋条約機構 (NATO)、 欧州連合(EU)に加盟しロシアからの脅威に備えています。

ヨーロッパの小国の旅 その十一 ラトビアとは

ラトビア(Republic of Latvia)は私は訪問したことがありません。世界史が好きな私には、なぜかバルト三国は興味がひかれます。それは大国に翻弄された小国、とりわけ北東ヨーロッパの国々が大戦をくぐり抜けて独立を果たしたことへの畏敬のようなものを感じるからです。

バルト三国のラトビアについてです。首都はリガ(Riga)。リガは新市街と旧市街が歴史地区とされ、ユネスコ世界遺産に認定されています。石畳の道を踏み入れるとそこは中世の世界というわけです。ラトビアはエストニアとリトアニアの間にあり、これらの国と同じような独立、戦争、占領、独立という苦難の歴史があります。以下、Britannica百科事典にそってラトビアの歴史を翻訳してみます。

長年、ハンザ同盟(Hanseatic League)、ドイツ騎士団(Teutonic Order)、そしてラトビア内にあった自治を叫ぶ人々との争いが続きます。ドイツ騎士団はそれでもラトビア領土内の自由貿易を認めていました。ですがラトビアは以前としてドイツ人の支配にありました。

1500年代、ラトビアの地はスウェーデンやポーランドなどの支配で分割されます。 1710年にロシアのピヨートル皇帝一世(Peter Great)はバルト海に進出し、スウェーデンからやがてラトビアの首都となるリガを占領します。その後長くラトビアはロシアの支配下におかれます。

19世紀になるとラトビアの中に自治と独立の機運が起こります。それは 1905年の第一次ロシア革命と1907年の第二次革命です。独立運動は、ドイツやロシアから受けていた政治や経済の支配から脱却しようというものです。1907年にラトビア国民集会(Latvian National Political Conference of Riga)がリガで開かれるのです。しかし、ドイツがリガを占領し自治を禁止します。ドイツの占領下で1918年11月にラトビア内で農民、ブルジョア、社会主義者らが自由を宣言します。そこにイギリスがドイツを排除しようとして介入します。

1919年にドイツはラトビアとリトアニアから撤退しますが、ソビエト共産党による赤軍が後に控えたままです。1920年にソ連とラトビアは平和協定を締結し、ソ連はラトビアの権利を認め、1922年にラトビア憲法による大統領制と議会制が謳われます。そうした制度にも関わらず、民主的な国家運営はなされませんでした。ラトビアでは改革が遅れるとともに、大統領に強大な権限を与えて国家を運営しようとします。

ヨーロッパの小国の旅 その十 リトアニアと杉原千畝

杉原千畝氏は、早稲田大学時代から特に英語に堪能だったといわれます。外務省の官費留学生として1919年にハルピンの日本総領事館に赴任しロシア語を勉強し、1932年には満洲国外交部では書記官としてソ連との北満洲鉄道の譲渡交渉にあたったようです。

1939年に、杉原千畝氏はリトアニアのカウナス(Kaunas)に開設された日本領事館の職員として赴任します。この年にナチスドイツがポーランド西部に侵攻し第2次世界大戦が始まります。翌年には日独伊三国同盟が締結され、日本はドイツとの強固な同盟国となります。

“強固な同盟”を優先した日本政府はナチスのユダヤ人迫害をどう捉えていたかです。すでにナチス・ドイツのユダヤ政策によって、大量の避難民が発生していました。日本への入国・通過を求めてビザの発給を求めて多くのユダヤ人がカウナスの領事館へやってきます。その事態に対して日本の外務省は訓令を出しユダヤ人の日本の入国や通過を非とします。政府は、ナチス・ドイツの方針におもねていたからです。

ビザの発給を受けたユダヤ人との再会

ビザを求めるユダヤ人と外務省の訓令の間にはさまれた杉原氏は指示に背いてビザを発給したのです。その数は1,300通といわれます。一家族一枚でしたから、約6,000名以上のユダヤ人がリトアニアから脱出することができたと資料にあります。この時、杉原氏が発行したビザは、ユダヤ人から「命のビザ」と呼ばれるようになります。

ヨーロッパの小国の旅 その九 リトアニアと「シンドラーのリスト」

私はリトアニア(Lithuania)を訪ねたことはありません。リトアニアと日本との関係で忘れられないのは、後に「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官の杉原千畝氏です 。彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアの首都カウナス(Kaunas)で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、第三国への亡命を手助けしたことで知られています。そのことを証拠づけるさまざまな外交資料が残されています。

「シンドラーのリスト」(Schindler’s List)という映画をご覧になったでしょうか。スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督による1993年のアメリカ映画です。主人公オスカー・シンドラー(Oskar Schindler)というドイツ人実業家は第二次世界大戦中、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、戦争のために必要な物資を製造する軍需工場で働いていた1,200人を虐殺から救った人物です。その時、彼がユダヤ人労働者の雇用を申請するために作成したリストは「シンドラーのリスト」と呼ばれました。

Oskar Schindler

後に、日本経由でアメリカなどに渡ったユダヤ人やイスラエル政府は杉原千畝氏の功績や勇気を讃え、「諸国民の中の正義の人」と呼ぶようになります。誰が「東洋のシンドラー」と呼んだかは定かではありません。後に杉原氏は「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」と述懐したようです。

杉原氏のビザの発行や外務省による名誉回復に対する批判的な資料もあります。例えば「ロシア語に堪能だった杉原はソ連のスパイではなかったか」、「杉原のビザの給付は乱発ではなく外務省の許可を得ていた」といったことです。しかし、このような批判は杉原氏の名声を失墜させるどころか、彼の人道的な行為をさらに輝かせるものとなります。

杉原千畝氏と発給したビザ

ヨーロッパの小国の旅 その八 エストニアの隣国リトアニア

バルト三国の二番目の国はリトアニア(Lithuania)です。後に紹介するラトビア(Latvia)、ポーランド(Poland)、ベラルーシ(Belarus)と隣あわせです。人口は約280万人で、エストニアと同様に強国の争いに翻弄された苦難の歴史があります。

近代のリトアニアの歴史です。1917年にロシア帝国で起きた2度のロシア革命(Russian Revolution)後、1918年から1920年にかけてリトアニア国内では自由と独立を求める運動が起こります。1920年には、国籍や宗教の違いを超えた最初の総選挙が行われます。1922年には最初の憲法が採択され、大規模な農地改革や教育改革が行われます。1923年にはそれまで占領されていた港湾都市のクラペダ(Klaipeda) を取り戻し、海上交通が容易になります。1920年代から1940年にかけて近代的な制度が敷かれ、カナウス(Kaunas)が首都となります。

十字架の丘

1944年から1953年にかけては、ソビエト連邦の支配下におかれ、その間粘り強い抵抗運動が侵略者に対して続けられます。一時ナチスドイツの占領下に置かれた時期もあります。こうした苦難に直面しながらも民主的な国家樹立の精神を保持し続けます。

1988年にはサユディス(Sąjudis) と呼ばれる大集会が開かれソ連からの独立を叫びます。そしてようやく1991年の1月、独立回復宣言を発布します。最初に独立を承認したのはアイスランドでその後続々と各国が承認します。1993年にはソビエト軍を引き継いだロシア軍が撤退し、2004年3月に北大西洋条約機構(NATO)に加盟します。さらに欧州連合(EU)への加盟を果たします。

ヨーロッパの小国の旅 その七 エストニアと電子立国

サイバー先進国として、エストニアはもはやヨーロッパの「小さな国」ではないことを説明してみます。エストニアが電子政府を構成している要素の一つに、2002年から始まった国民に対して「eIDカード」を発行する国民ID制度というのがあります。制度が開始して以来、エストニア人の98%がこのeIDカードを所有しているといわれます。

eIDカードの活用例としては、EU内の行き来のときのパスポートとなります。次ぎに国民健康保険証としても使えます。医療記録を確認したり、税務の申告で使えます。もちろん投票のときも使います。銀行口座にログインする際の身分証明書ともなるのですから、銀行毎のカードは不用となります。オンライン上で行政手続ができるメリットといえば、役所で並ぶ時間や待ち時間がなく誰にも大きな時間短縮が図られています。役所は人手を別のサービスに振り向けることができます。

エストニアは他国からの侵略と混乱の歴史から、たとえ領土を失ってもデータさえあれば国は早期に復興できるという備えの考えがあります。それを実現しているのが「データ大使館」と呼ばれるものです。エストニアは2007年4月に基幹となるサーバーが攻撃され、混乱したことがあります。有力な説ではロシアが仕掛けたサイバー攻撃といわれます。そこでエストニア国民の個人情報や政府の機密情報等のデータを、信頼できる同盟国のサーバへ分散して保存しておくことにしたのです。データ大使館を置いた国は、同じくヨーロッパの小国ルクセンブルク(Luxemburg)です。

この二つの国に共通するのはIT活用に積極的であることです。ルクセンブルクはスタートアップするIT企業を多く抱え、外国企業の受け入れにも積極的です。政府機関や国民のあらゆる情報を保存するサーバーはサイバー攻撃の対象となります。そうした苦い経験により、情報の分散化をはり、それをITの先進国であるルクセンブルクに求めたとされます。データ大使館には国を継続するために必要なデータを保管するという小さな国の大きな戦略が込められています。

ところで我が国の「マイナンバーカード」はなんの役に立っていますか。個人番号を証明する書類や本人確認の際の公的な身分証明書だけです。普及率はたったの14%。あってもなくても不自由しないので普及しないのです。典型的な行き当たりばったりの施策です。