ウィスコンシンで会った人々 その81 寿司屋噺

「転失気」の話題の後に食べ物の噺で、ちと憚るが読んでいただきたい。まあ、食事と「転失気」は因果関係があるのでどうしても落語の演題からはずせない。

古典落語にはいろいろな食べ物が登場する。寿司、鰻、秋刀魚、鯉の洗い、蕎麦、蒲鉾、うどん、雑炊、納豆、卵焼き、おから、おでん、湯豆腐、冷奴、煮付け、天ぷら、たくあん、さらに饅頭や羊かん、せんべいまで登場する。新作落語とか創作落語にもいろいろな食べ物がでてくる。だが「寿司」は「鰻」と並ぶダントツの人気といえよう。江戸といえば寿司。江戸の郷土料理といわれきた。

江戸っ子は刺身が好きであり屋台で売られていた。東京湾の魚介の豊富さが売り物であった。白魚もとれたという。アサリや海苔もとれた。遠浅の干潟を抱えた天然の漁場だったのが江戸前の海、東京湾である。加えて近隣の野田からは、生魚に合う濃口醤油が運ばれていた。

「寿司屋水滸伝」は握りずしを中心とした寿司屋での噺である。ある寿司屋で、唯一の寿司職人がやめると言い出す。亭主は洋食を修行したが、父の店を継ぐために帰ってきた男。粋な寿司商売にはあわない気質であった。再三の説得にもかかわらず、職人はやめてしまう。仕方なく、自分で寿司を握るが、包丁の使い方もままならない。客がそれをみて、「魚を切るなんて素人でも出来る」というと、別の客がその男をたしなめ、自分でトロを切ってみせる。素晴らしい腕前、「トロ切りの政」というプロだ。そしてこの店で働くことになる。

別の客からイカの刺身を注文されるが、政はトロしか切れないというので、客から文句が。そこへ出てきたのが「イカ切りの鉄」という男。この男も雇うことになる。このようにして、それぞれのプロを雇っているうちに厨房が狭くなってしまう。

しかし、長く続かず寿司屋は廃業。洋食屋をはじめる。ある日、カツカレーの注文。客から、「油がきれてなくて肉も固い」との文句。こんなカツカレーに金は払えないとも言い出す。聞けば客は「トンカツの秀」というプロ。逆に金を請求する始末。亭主は「そんな金まで請求した人ははじめだ。何でそんな。」「だから言ったろ、金よこせってんだよ」「トンカツの秀さん、、、そんな。ああ〜なるほど、カツアゲがうまいわけだ」

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ウィスコンシンで会った人々 その80 言葉遊び噺 「転失気」

言葉遊びというか下ネタ噺の演目である。医者が言う単語の意味がわからないのに、博学多識を自負する和尚を笑う演目である。小僧とのやりとりが絶妙だ。物事を婉曲に表現する粋な言葉を知らないで、赤恥をかくという内容だ。

体調のすぐれない寺の和尚が、往診に訪れた医師から「てんしき」があるかないかを尋ねられる。和尚は「てんしき」が何かわからず、「あったような、ないような、、」と答えてその場をとり繕う。そこに小僧の珍念を呼んで、それとなく尋ねることでなんとか「てんしき」について知ろうとする。

和尚 これ、珍念や、、、
珍念 へぇ、お呼びでございますか?
和尚 ん、今、先生がお見舞いをしてくださいましたな、
珍念 へぇ
和尚 あの折「テンシキはございますか?」と、お尋ねでしたな
珍念 へ、聞ぃておりました
和尚 で、珍念、テンシキを存知おるか?
珍念 知りません
和尚 知りません?確か、前に教えたはずじゃろ
珍念 忘れました、教えてください!

和尚は「ここで『てんしき』について教えてもよいが、それではお前のためにならない」とうそぶき、珍念を医師宅へ調合薬を取りに向かわせる。ついでに近所を回って「てんしきを借りてくる」ように命じる。

ところが聞く人がみな知ったかぶりをして雑貨屋は「珍念さん、棚の上から落ちて割れてしまった」、石屋は「鼠がでてきて壊したので味噌汁の実にして食べてしまった」など、ちんぷんかんぷんな説明をするため、「てんしき」が何であるのか珍念にはわからない。珍念が医者に聞くと、「放屁」「おなら」「屁」だという。それでもわからない珍念に医師は説明する。「てんしき」は「転失気」で、「気を転(まろ)め失う」と中国の医書に出てくるという。珍念納得し、和尚も雑貨屋も石屋も知らないくせに知ったかぶりをしていたことが分かる。

寺に戻った珍念、和尚に仕返しをしようと、「てんしきとは盃のことでした」と話す。和尚も「その通りだ、盃のことだ!”呑酒器”と書くのだ、よく覚えておけ!」と相変わらず知ったかぶり。そして大団円が待っている。

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ウィスコンシンで会った人々 その79 童の知恵噺 「真田小僧」

以前、「佐々木政談」という演目を紹介した。お白洲遊びをしている子供達の頓智に感心した南町奉行佐々木信濃守と賢しいガキとのやりとである。このガキはやがて近習に取り立てたられるという目出度い噺であった。白洲とは江戸時代の法廷。下段に「砂利敷」が設けられ、原告や被告が座る。砂利が白かったかどうかは不明ではある。

今回紹介するのは「真田小僧」という演目である。こましゃくれた子供が父親から小遣いをせびるためにあの手この手のゴマすり、それでもダメだと分るとおっかさんが父親の留守に男を家に入れたと浮気を匂わせる。その男は白い服をきてサングラスを掛け白い杖をついているというのだ。父親はすっかり欺され、小遣いを渡す。それを受け取ると、「その人はただの按摩さんでした」と言って逃げ出す。

湯から戻ってきた女房に父親が息子に銭を巻き上げられた話をする。知恵のあるのは結構だが、どうせなら真田昌幸の息子、真田幸村のように知恵で父親の絶体絶命のピンチを救うような息子になって欲しい、といって真田六文銭の旗印の由来を語る。

最初の銭を使い果たして玄関に潜んでいた子供は父親の話を一度で覚えて披露する。六文銭とはどういうものか、と父親に尋ねる。父親は銭を6枚並べて説明し始めるが、息子はその銭をかっさらって家から飛び出す。その子に向かって父親が「何に使うのか?」と聞くと息子は「焼き芋を買うんだ」と答える。そこで父親は「あいつも薩摩に落ちた、」というサゲとなる。

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ウィスコンシンで会った人々 その78 童噺 「子別れ」

古典落語の大作に「子別れ」がある。酒呑み、女房、子供、大工、弔い、神田、長屋、浮気、吉原、女郎、鰻、元の鞘、鎹等々、落語の全ての舞台が揃っている。

神田大工町の長屋に熊五郎が女房、一人息子の亀と暮らしている。腕の良い大工職人なのだが、大酒呑みである。山谷でのある弔いの帰り、その足で精進落だと吉原で遊ぶ。そして数日後長屋に戻ってくる。おかみさんは黙々と手仕事をしている。決まりの悪い熊五郎、そっと入っていくのだが、黙っていたおかみさんが「どこでお浮かれになりましたか?」「お相方の顔も覚えていないですか?」などと嫌みを言う。熊五郎は女郎の惚気話をし始める。とうとう堪忍袋の緒が切れて、おかみさんは離縁状を渡して亀坊と家をでていく。

しばらく女郎と暮らすのだが、金の切れ目が縁の切れ目。さすがに情けなる。そして心機一転。それからは人が変わったように働き出す。別れた女房は近くの長屋で仕立物の内職をして暮らしている。それから三年。

熊五郎は旦那と歩いているとき、亀坊とばったり会う。そして勉強のたしにと五十銭を手渡す。母親にはこのことを云わないようにと念を押し、翌日鰻を一緒に食べる約束をする。母親がまだ一人でいることも知る。亀坊の額に傷があるのを見て、問いただすと母親に仕事をくれる旦那の息子が意地悪して叩いたのだという。熊五郎、抗議もできない自分が情けない。我慢をするように言って聞かせる。

長屋に戻った亀坊の手に五十銭があるのを母親が見つける。なにか悪い料簡でも起こしたのではないかと疑る。亀坊はしばらくがんばり通すのだが、遂に白状する。そして熊五郎がいい身なりをして大工として働いていることも喋る。ぐうたらだった亭主が再婚もせず真面目になったことを聞いた母親の内心は揺れる。

熊五郎と亀坊は一緒に鰻屋に入る。そこに気がきでない母親もやってくる。二人はしばし気まずい会話を交わすのだが、お互いまだ一人身であることを漏らす。

熊坊 「父ちゃん、長屋に戻ってくれよ、、」
熊五郎 「言いにくいのだが、、元の鞘に戻らないか、、」
女房 「異存なんかあるものですか、、この子のためにも」
女房 「、、昔から子は鎹といいますから」

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ウィスコンシンで会った人々 その77 左甚五郎利勝噺 

落語に「竹の水仙」というのがある。「三井の大黒」、「ねずみ」とともに、伝説的な彫刻職人技を真剣に、また可笑しく取り上げている。天下の宮大工として名高い左甚五郎利勝。左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。もう一つの説は、彫り物を彫らせたら右に出るものがいないというので、それなら左にしようと名前を与えたという説である。日光東照宮の眠り猫を彫ったといわれる。宮大工の名声をほしいままにした人物である。

「竹の水仙」のあらすじである。京へ下る途中、左甚五郎は名前を隠して、三島宿の旅籠に寄る。旅籠の主は佐平。ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。たまりかねた佐平に追い立てを食うが、甚五郎、平然としたもので、ある日中庭から手頃な竹を一本切ってくると、それから自分の部屋に籠もってなにやら作り始める。

心配した佐平が様子を見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。たまげた佐平に、甚五郎、「この水仙は昼三度夜三度、水を替えると翌朝不思議があらわれる」「売るときは町人なら五十両、侍なら百両。びた一文負けてはならない」と託ける。

これはただ者ではないと、佐平が感嘆していると、なんとその翌朝、水仙の蕾が開き、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。そこに通った殿様の目にとまり、三太夫にこの水仙を買い求めるよう指示する。だが三太夫、「たかが水仙が百両とは無礼!たわけ!」といって佐平を面罵する。戻ってきた三太夫に殿は、「竹の水仙を買えないようなら切腹を申しつける!」と言い渡す。それからどたばた劇が始まる。

もう一席。「ねずみ」も彫り物師の噺である。奥州仙台の宿場町。左甚五郎が、宿引きの子供に誘われて「ねずみ屋」という鄙びた宿に泊まる。そこは腰の立たないような宇兵衛と十二歳の子供の二人だけでやっているという貧しい宿だった。

向かいには虎屋という旅籠がある。かつては宇兵衛のものだったが、追い出され今の物置小屋を宿としねずみ屋としている。物置に棲んでいたネズミにちなんだという。これを聞いた左甚五郎は、木片でねずみを彫り上げ、繁盛を願ってそれを店先に置いて帰っていった。するとなんとその木彫りネズミがまるで本物のネズミのように自分で動き回りはじめる。

この噂が広まるやいなや、ねずみ屋に泊まればご利益があるとして部屋に収まり切らないほどの客が入る。それを苦々しく眺めていた虎屋は別の職人に虎の木彫りを彫らせる。そしてねずみと虎の彫り物対決となる。

工匠の代名詞、左甚五郎の一席である。

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ウィスコンシンで会った人々 その76 匠噺 「三井の大黒」

江戸の古い地図を見ると「神田八丁堀」がある。町人によって鎌倉河岸東端から本町通りと神田の境に堀の長さが約八丁の堀が掘られ,浜町を経て江戸の湊と結んだ。約800m位である。神田と日本橋との境界となっていた堀である。現在は、中央区京橋付近となっている。東京駅八重洲口より東に歩き、宝町、八丁堀を過ぎると浜町堀となって隅田川に入る。この神田八丁堀によって江戸城や数々の大名屋敷をつないだ商行為が盛んになり、神田の職人町が隆盛した。今も鎌倉橋や竜閑橋や日本橋魚市場の跡がある。

「三井の大黒」という演目に匠が登場する。神田八丁堀で大工作業をしているところに半てんを着た男が現れる。そして江戸の大工仕事がやわい、下手だとけちをつける。男は怒った大工たちから寄ってたかって袋だたきにされる。棟梁の政五郎が仲裁して男にたずねると、西の国からきた番匠だ、という。番匠とは大工のこと。男は気に入られ、棟梁の居候となる。この男はぼうっとしたところがあって、箱根を越えるとき自分の名前を忘れたという。そこで若い大工たちに「ポン州」というあだ名を与えられた。「ポン州か。わしゃ、一度ポン州になりたかった。」

板を削る下働きを担当することになったポン州は、みっちりとカンナを砥いだ。ようやく削った2枚の板を重ねると、板はぴったりと重なり、若い大工が力を込めても一向にはがれない。大工達はおかしな仕事をするものだと呆れる。

上方に帰る前に、政五郎は歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないかと勧める。素直に応じたポン州は二階で食事も睡眠も取らず、一心不乱に何かを作る。数日後、ポン州は小僧に手紙を持たせてどこかに使いにやらせ、「湯に行ってくる」と出かける。そこに三井の使いという者が訪ねてきて、政五郎に「こちらに左甚五郎利勝様がおいでとか、、、」といって大黒様を頂戴にやってくる。政五郎はようやく得心する。

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8月19日から考える 元満蒙開拓団員と三里塚闘争

亡くなった叔父らのことに戻る。彼は樺太の大泊町で駅の助役をしていたときにソ連の捕虜となった。昭和25年頃、厚生省からの連絡によれば、死亡したところはクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)である。

クラスノヤルスクはロシア連邦シベリア中部の大都市である。戦後、クラスノヤルスクの北方80キロのエニセイ川(Yenisei)河畔に原爆製造センターが建設される。ロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedev)著「知られざるスターリン」(現代思潮新社)によると、クラスノヤルスクへの鉄道を建設するために囚人収容所が建てられる。囚人の中には懲役25年以上の政治犯、犯罪人、民族闘争を扇動したとして逮捕された民間人も多数いたという。スターリンの思想や行動、原爆製造センター建設の歴史は、メドヴェージェフの本に詳しく書かれている。

叔父は鉄道建設か原爆製造センターの建設に駆り出され、その間に死亡したのかも知れないというのが漠とした思いだが妥当な推理だ。原爆製造センターの所在は最高の軍事機密であったはずである。それゆえ、よしんば叔父が生きていたとしても日本に帰還できたかは疑問である。生前父は、「弟は現地で結婚し、まだ生きているかもしれない」と云っていた。

戦後の引揚者のことである。引揚者とは非戦闘員の呼び名である。全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた移住用集落がつくられた。割り当てられた所は痩せた土地が多かった。千葉県成田市の三里塚にも引揚げ者村がつくられた。元満蒙開拓団員も三里塚にやってきた。

1966年、佐藤栄作内閣は閣議で成田空港の建設地として三里塚、芝山地区を決定する。それから国の土地強制収容に反対する半世紀及ぶ三里塚闘争が始まる。国策で欺され翻弄された元満蒙開拓団員は粛然として「怨念」のプラッカードを掲げた。土地収用と土地所有権者への補償問題が今も続く。

開拓地には、茨城県つくば市の作谷地区もある。戦後すぐに「西筑波開拓団」を組織し、払い下げられた軍用地や山林などを開拓し始めた。開拓者の多くは、引揚者や復員軍人であった。痩せた土地で栽培できる芝の生産に携わっていく。

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8月18日を考える 見捨てられた人々ー棄民

長野県と岐阜県境にある恵那山。その東側に阿智村がある。人口6,500人。中央自動車道のそばにある谷間の村である。今は昼神温泉で知られているが、戦前は農村の人口過剰によって、満蒙開拓移民を国内で最も多く送り出した地域といわれる。この村に満州移民史を語る日本で唯一の民間施設「満蒙開拓平和記念館」がある。

「満蒙開拓平和記念館」に残る開拓民募集のポスターから、「楽園幻想」を宣伝文句にしていることが伺われる。ポスターには「北満の沃野へ」という標語がある。国策に誰も抗うことが難しい時代。海外移住というと響きはよいが、阿智村をはじめ全国から北満に移住した人々は戦後、外地に取り残された。移住者を集めるために番付表まで作ったというのだから恐れ入る。

もともと開拓団は関東軍の保護の元に開拓に従事するはずであった。しかし、ソ連の参戦によって兵隊や関係者はいち早く満鉄を利用し、ハルビンや長春、大連などへ撤退し始めた。置き去りにされた開拓団は自力で逃避行をせざるを得なくなった。開拓団の逃避行の有様は、いろいろな記録に残されている。山崎豊子の小説「大地の子」にもある。「棄民」と呼ばれた人々である。満蒙開拓は、八紘一宇、大東亜共栄圏の旗印で生まれた「棄民政策」である。

棄民は満蒙開拓団だけでない。戦前、ブラジル、メキシコ、ドミニカなどの中南米諸国へ移民した人々もそうだ。移民の募集要項を信じて、こうした国々に移住していった。ところが入植地としてあてがわれのは未耕地。開墾作業から始めたという。多くの者は開拓を断念し帰国したが、もはや安住の場所は少なかった。筆者の両親や親戚が昭和の初め、親戚の反対をよそに青森は弘前から移住したのが樺太であった。だが昭和20年、すべての財産を失い「引揚げ者」、あるいは「引揚げ民」として北海道の稚内に上陸した。

女性も国策によって看護婦として満州に送られ、中にはシベリア抑留を強いられた者もいる。ソ連兵に連れ去られ暴行された者もいた。そのドキュメンタリーが放映された。やがて故郷への「ダモイー帰還」がやってくる。だが抑留という過去の経験を親戚や知人が嫌がるのではないかと思い巡らし、帰国は辛いものとなったようだ。「誰も尋ねない、誰にも語れない深い傷を背負った帰還」となった。

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ウィスコンシンで会った人々 その75 匠噺 「浜野矩随」

江戸時代、名工とか名匠と云われる人々があちこちに大勢いたといわれる。経師職人、大工、絵師,木彫り師などである。経師屋だが、城や大名の屋敷が書画の幅や屏風 、ふすまなどを表装する職人である。表具師ともいわれた。今も東京表具経師内装文化協会というのもある。文字通り表具・経師・内装インテリアという3つの大きな業種部門における人材の育成を大きな目的としている。江戸時代の「匠」の技能を今に伝え普及しようとしている。

古典落語に「浜野矩随」(はまののりゆき)という演目がある。江戸は寛政年間、浜野矩康という腰元彫りの名人がいた。その作を求めて浜野家の前に道具屋が列をなして買い競った。その名人が亡くなって女房と一人息子の矩随が残された。しかし、息子の代になって列がぱたり途絶えた。それは矩随の作が誠に未熟であったからだ。それでも商人の若狭屋は先代のよしみで、どんなものでも1分で買い上げた。

今朝も矩随が若駒を彫って持ち込んできた。眠気のために足1本を彫り落としてしまったという。若狭屋は呆れて言う。「小僧達はこれを見て笑っている。下手な作品を作るくらいなら死んだ方がイイ。これからは縁を切るから5両の金を渡す。今後はここの敷居を二度とまたぐではない。死ぬなら吾妻橋から身を投げよ。」

矩随は家に帰り伊勢詣りに行くからと嘘をついたが、母はお見通しで、若狭屋の一件を聞き出した。母親は「死にたければ死んでも良いが、最期に私に形見を彫って欲しい」と観音様を所望した。矩随は井戸の水を浴び、仕事場に入った。隣では母親が神頼みの念仏を唱えていた。4日目の朝、出来た観音を母親に渡した。感心して見とれ「もう一度若狭屋さんに行って30両びた一文まからないからと見せておいで。それでも、まけろと言ったら好きな所に行っても良いよ。」と息子に言い聞かせた。「その前に、お水を一杯ちょうだい。後の半分をお前もお飲み。ではお行き。」矩随が若狭屋から30両を持って帰ると母は自害している。

浜野矩随はその後、父親に優るとも劣らぬ名彫師になったという噺である。

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8月16日を考える

今年の戦後70年談話(Statement)の内容と表現のことが話題となっている。アメリカの家族にもこの談話を読むように伝えた。筆者もわが国の戦前の帝国主義と植民地支配が近隣諸国に与えた影響を総理大臣がいかに総括するかに関心を持っていた。日本語と英語の文章を何度も読み返してみた。文章としては官僚らが良く練って作成されたことが伺われる。長い談話であるだけに、冗長さによって内容が損なわれているのが気になる。「誰が、いつ、どこで,なにを、なんのために」日本を戦争へ導いたのかが不明なのである。

かつての大東亜共栄圏、つまり帝国主義や植民地主義の発想に対する痛烈な反省と悔悟は、時代が変遷しても続けることが大事だと思うのである。「歴史は繰り返す」とは幾たび云われてきたことである。「未来志向の戦略的互恵関係とは、既存の現実の自体が如何なるものか顧みることから始まる」のではないかと思うのである。われわれも近隣の国々の人々も今回の70年談話に反省と悔い改めを期待したはずである。

大戦では310万の日本人が亡くなったと報道されている。各地に忠霊碑も建てられた。その数12,000箇所といわれる。だが、半数は廃墟になっているという。そうした中で、一人で忠霊碑を守る人が紹介されていた。「馬鹿でなければこんなことはできない」と、この墓守は述懐する。黙々と芝を刈り庭を手入れする後ろ姿に犠牲者への思いが伝わってくる。

今年は一国会議員が質問中に「八紘一宇」の標語を引用して注目された。広辞苑には「太平洋戦争期におけるわが国の海外進出を正当化するために用いた標語」とある。「八紘」とは世界、「一宇」とは一つの家の屋根という意味であるとWikipediaにある。しばし考えてみると、「安全保障」や「集団的自衛権」の考え方の遠因には、東亜の共同防衛や共存共栄があるように思える。

「八紘一宇」の呪縛から、われわれはもはや解放されていると考えるべきではない。「八紘一宇」をデマゴーグときめてかかるのではなく、その底に潜む論理はなになのかを反芻することが大事だと思うのである。そのことこそが、「謝罪を続ける宿命を背負っている」ということである。

131106962024913412628_DSC_0215  稚内市 氷雪の門IMG_0201 糸満市 平和記念公園