キリスト教音楽の旅 その29 日本のキリスト教と音楽 ミズリー派ルーテル教会

ミズリー・シノッド・ルーテル教会(The Lutheran Church–Missouri Synod: LCMS)は, しばしばミズリー派ルーテル教会と呼ばれます。保守的で伝統的な教義と実践の一致を大事にする教会といわれます。シノッドとは「会議」という意味です。ドイツからの移民を吸収して1847年にシカゴで結成され、ドイツ福音ルーテル教会としてミズリー州、オハイオ州、ウィスコンシン州、ミネソタ州、イリノイ州などで急速に成長し地域教会を設立していきます。国内で200万人の信徒を擁しアメリカではアメリカ福音ルーテル教会(Evangelical Lutheran Church in America)に次ぐ規模といわれています。

St. Peter–Immanuel Lutheran Church and School, Indiana

ミズリー派教会の憲章によりますと、教会は宣教における調和を重んじ讃美歌や音楽、礼拝そして宣教を重視します。讃美歌は聖書や信仰告白に基づく歌詞として位置づけられます。礼拝は、式文や讃美歌を用い、奏楽にはオルガンやピアノを用います。賛美歌集は「Lutheran Hymnal 」、式文は「Lutheran Worship」と呼ばれ、伝統的な儀式を受け継いでいます。「Lutheran Confessions」という信仰告白書も用意されていて整然とした礼拝様式を守り続けています。聖書とルター派信仰告白を厳密に解釈するために、しばしば他のルター派諸教会とも衝突してきました。

しかし、20世紀にはいり、多くのミズリー派教会の地方教会は新しい礼拝形式を取り入れていきます。たとえば、青少年が好むより現代的なポップス的な曲とかギターやバンドを使い賛美するやり方です。伝統的な讃美歌はあまり歌わないようになります。危機感を抱いたミズリー派教会の本部は、声明をだし伝統的な音楽と現代的な音楽との共存を指摘しつつも、ルーテル教会は会衆による賛美と聖歌隊による歌を継承すると表明します。新しい教会の運動に対して、保守的な姿勢にしがみつくことが困難になってきたからです。多くのルーテル教会は毎月一度は、こうしたポップス的スタイルの礼拝を採用して若者や家族が一緒に礼拝に参加できるように配慮しています。

キリスト教音楽の旅 その28 日本のキリスト教と音楽 ノルウェー・ルーテル伝道会

日本におけるルーテル教会の宣教が始まったのは1949年です。ノルウェー・ルーテル伝道会(Norwegian Lutheran Mission-NLM)のルーテル教会は1891年に中国伝道会を設立し、同年8名の宣教師を中国に派遣したことから始まります。ノルウェーではルーテル教会は国教です。人口500万人余りの国がアジアに宣教師を送ることは、なんという心意気なのかと感じ入ります。

Hans Nielsen Hauge

第二次大戦を経て、中華人民共和国が成立するとNLMの宣教師は大陸からの退去を余儀なくされます。その後、アメリカを経て1949年6月に宣教師は日本に到着します。そのとき西明石に住んでいた賀川豊彦師の別荘で最初の伝道の働きを始めるのです。やがて神戸で聖書学院を創設するために2人の引退牧師ウィンテル師(Rev. Jens Mikael Winther)、スタイワルト師(Rev. A.J. Steiwalt)に指導を依頼するのです。そのときウィンテル師は75歳、スタイワルト師は70歳でありました。このお二人は聖書学院の働きで計りがたい貢献をされます。

ノルウェー・ルーテル伝道会(NLM)は、日本の農村での伝道を重視します。この理由は、NLMの創始者であったハンス・ハウゲ(Hans Nielsen Hauge)は農民の子であったことが影響しているといわれます。宣教師たちは1950年頃から松江で働きを始めます。岡山の蒜山高原などで酪農も奨励していきます。ルーテル伝道会は、信者の一人一人が積極的に教会に関与することを大事にし、素朴で熱心な敬虔主義 (Pietism)の流れを伝統としています。

蒜山高原

キリスト教音楽の旅 その28 日本のキリスト教と音楽 長老派教会

長老派教会のことです。長老派はカトリック教会の教皇権や聖職制度を認めず、聖書を重視するという広い意味で、宗教改革にも貢献した清教徒(ピューリタン, Puritan)の一派とされます。イングランドのチャールズ1世(Charles I)の専制政治に反対したクロムウェル(Oliver Cromwell)らが、議会派を勝利に導く清教徒革命の担い手としても知られる人々です。

Oliver Cromwell

長老派教会(プレスビテリアン)では、一般信者で経験の深い指導者として宣教長老を選び、教会を運営すべきであるという長老主義を主張します。長老と代表信徒の合議で教会を運営するのです。これは長老制度と呼ばれます。プレスビテリアンは特にスコットランドのプロテスタントに多かったようです。その指導者はスコットランド人のノックス(John Knox)です。チューダー王朝(Tudor dynasty)でメアリー (Mary I of England)が王位に就くと、彼女はローマ・カトリックを再建します。そのためノックスは大陸に亡命を余儀なくされます。

John Knox

ノックスははジュネーヴ(Geneva)でカルヴァンに学び、改革派神学と長老制の体験と知識を得て、新しい礼拝式文も作成していきます。やがてその式文はスコットランド宗教改革の教会において採用されていきます。16世紀から17世紀にかけてピューリタン運動の主力となる神学を形成したのがノックスといわれます。清教徒は新大陸に渡り、その後アメリカ各地でキリスト教の布教に大きな役割を果たしていきます。

Sausalito Presbyterian Church, San Francisco

キリスト教音楽の旅 その27 日本のキリスト教と音楽 カルヴァン主義

カルヴァン(Jean Calvin)は宗教改革初期のフランスの神学者です。神の主権を強調する神学体系を提唱し、クリスチャン生活の実践を指し示す考えを提唱した指導者です。改革派神学(Presbyterian Theology)と呼ばれるカルヴァンの教えでは、礼拝を儀式とせず、聖書の解き明かしを中心とする簡素な様式に改め、またラテン語を使わず自国語を使うことです。伝統的な礼拝形式や教会暦をやめるのも特徴となっています。

ルター派のコラールのような会衆歌唱の重要性を認めますが、聖書尊重の立場から創作讃美の使用も避けるという徹底さです。礼拝ではフランス語韻文訳の詩編歌のみを使用することとし、1539年に最初の詩編歌集を出版するほどです。カルヴァンはルターに比べ、芸術とか文化に関心が低かったようで、音楽そのものも改革派の教会では広がらなかったといわれます。

カルヴァンの名声によって、改革派教会の教理はカルヴァン主義(Calvinism)と呼ばれるようになります。カルヴァン主義者はフランスではユグノー(Huguenot)、オランダではフーゼン(Fusen)、スコットランドでは長老派、プレスビテリアン(Presbyterian)と呼ばれ広くヨーロッパに浸透していきます。

キリスト教音楽の旅 その26 日本のキリスト教と音楽 聖公会

以前、ロシア正教会の歴史や音楽などに触れました。キリスト教音楽は教派の執り行う礼拝形式と深い繋がりがあることにも触れました。例えばルーテル教会の礼拝では個人の信仰を重視し、それに表現を与えることに熱心でした。それがコラールを生むことにつながりました。音楽を尊重したことから、16世紀から18世紀にかけてコラールの聖歌隊用の編曲が無数に作られました。後年のブクステフーデ(Dietrich Buxtehude)、パッヘルベル(Johann Pachelbel)、クーナウ(Johann Kuhnau)らの作曲家です。こうした音楽家の業績はバッハ(Johann S. Bach)によって集大成され、テレマン(Georg Telemann)によって近代的に味付けられたといわれます。

ルーテル教会と同様に、比較的ローマ・カトリック教会に近いといわれる聖公会の音楽はどうでしょうか。聖公会は英国国教会(The Church of EnglandとかAnglican Church)といわれます。アメリカでは監督派教会、The Protestant Episcopal Churchと称します。ただ、監督派は必ずしもこの教派だけの呼び名ではありません。The Church of Englandはイギリスにおける宗教改革に端を発して英国国教会となった経緯があります。ローマ教会に対する国民的な反感が起こります。ただ、教理上ではローマ教皇の権威を認めないことを除けば、カトリック教会の教理を継承しています。

聖公会は、ローマ教会、ルーテル教会、東方正教会と同様に成文祈祷や典礼書が備わっていて、教理、信仰、典礼、音楽に関してはローマ教会に近く、他の要素ではプロテスタント教会に近いのも聖公会の特徴といえます。例えば典礼では自国の言葉を使うのもそうです。ローマ教会はラテン語を使用します。

キリスト教音楽の旅 その25 日本のキリスト教と音楽 讃美歌

教会の会衆によって神への感謝や祈り、癒し、励ましなどの意味がこめられた歌の総称です。自分の信仰を告白し、民衆への証し的な性格が歌詞に埋め込まれています。特にプロテスタントを中心として、西ヨーロッパに広がり成長したキリスト教諸教派で用いられる宗教歌が讃美歌(hymn, anthem)です。

新約聖書のマタイによる福音書26章30節では、最後の晩餐の光景が記されています。晩餐の後「一同は賛美歌を歌うとそこを出て、オリーブ山に向かいました」とあります。この時の讃美歌は日々の糧への感謝です。使徒パウロは、新約聖書エペソ人への手紙5章15-21節で「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と説いています。ここでの「詩」とは詩篇(Psalm)、「賛美」は詩篇以外の旧約の歌、そして「霊の歌」は初代教会の信徒よって作られた讃美歌というように分類されるのが定説のようです。初代教会では、自分たちの信仰体験を表明するために讃美歌を創作していたといわれます。

讃美歌の分類には、霊歌とかスピリチュアル(spiritual)もあります。黒人奴隷の中に広がったキリスト教から、アフリカ独特の音楽的な感性が融合して生まれた歌、黒人霊歌を指すこともあります。教会讃美歌にくらべて、より生活に根ざした歌詞が歌われます。スピリチュアルに似たのが「ゴスペル」(Gospel)です。ゴスペルとは福音とか良き知らせという意味です。これも黒人教会文化が生んだ魂の歌ともいわれ、教会で会衆が総立ちになり、手を叩いたりステップを踏み体を揺らして歌うのです。

「ゴスペル」にはハーモニーやリズム、インプロといった特徴があります。もとの故郷アフリカの文化が色濃く反映されているようです。聖書の言葉に自分たちなりの意味を持たせて歌ったのでしょう。聖書には「自由」「解放」という言葉が多く出てきますが、これは彼らにとって「奴隷制からの解放」を意味し、自由をもとめて仲間と共に歌うことで悲惨な境遇を耐え忍んだのでしょうか。
“Let Us Break Bread Together”


キリスト教音楽の旅 その24 日本のキリスト教と音楽 ミッション・スクール

明治時代に再来したカトリック教会は、新しく布教を開始したプロテスタント教会に比べて聖歌集の数が少ないといわれます。それには理由があります。もともとカトリック教会では、ミサで聖歌を歌うのは司祭および聖歌隊など特定の人でありました。会衆は静かにそれを聴いていたのです。外国人宣教師の中に聖歌集の編纂に携わるに音楽家はいなかったことにも原因していたようです。

Nichole Barre

他方、プロテスタント教会ですが、16世紀の宗教改革運動は、ドイツ語聖書と信仰問答書と讃美歌によって進められたともいわれます。ルター(Martin Luther)から始まるコラール(Choral)という会衆賛美歌が礼拝で歌われるようになり、バッハ(Johann S. Bach)をはじめ有名な作曲家によって数々の宗教音楽が作られ今に至っています。そこから会衆が歌うという伝統がつくられたのです。会衆が歌うことによって多くの歌が生まれ、宗教的な民謡の普及も広まり、19世紀以降の讃美歌は、聖書的表現と伝統的な教理を結びつけることにより歌詞が福音的な内容になっていきます。

Isaac Ferris

カトリック教会では日本語聖歌がミサの中心となることはありませんでした。ただ歌によるミサが行われたのは都市部の限られた教会で、ミサ以外では集会や日曜学校で歌われたようです。通常、朗誦ミサがほとんどを占めていたのが日本とカトリック教会です。西洋の音楽を日本人が習得するまでに、またカトリックの作曲家を生むまでにかなりの時間を要したようです。日本人によるカトリック聖歌が現れたのは、昭和初期時代になってからといわれます。時代を経て1970年代に入って新しい聖歌集「典礼聖歌」を作ます。そしてプロテスタント教会の賛美歌のように会衆も歌うようになります。

キリスト教音楽の旅 その23 日本のキリスト教と音楽 「Jesus loves me」

キリシタン禁制の高札が撤去される前年の1872年に聖書翻訳委員会を設置しようとして、第一回プロテスタント宣教師会議が横浜の居留地にあるジェームス・ヘボン(James Curtis Hepburn)宅で開かれます。当時来日していた宣教師たちが日本伝道の方策を練り、教派間の友好協力を深めるための集いです。ヘボンはアメリカの長老派教会の医療伝道宣教師で、後に明治学院大学を創立した人です。ラテン文字を使って日本語を書き表す方法のヘボン式の提唱者としても知られています。

会議には長老派、改革派、会衆派、バプテスト派、聖公会、ユニオン・チャーチ、日本基督公会からの宣教師が参加します。この会議では、各教派の違いを乗り越えてプロテスタント教会の設立を提唱した宣教師もいました。しかし、各教派宣教師の主張が激しく対立したといわれます。

明治学院大学ヘボン館

この会議で、改革派教会のバラ(James H. Ballagh)という宣教師により日本語に翻訳された讃美歌が披露されます。これが英語による讃美歌の初めての日本語訳といわれます。その一つは“Jesus loves me, this I know”です。当時アメリカの日曜学校で歌われていた讃美歌です。日本基督公会の信徒によって訳されたもので「主われを愛す」という題名で、その後最も愛唱された賛美歌です。こうした翻訳を契機に英語の讃美歌の日本語翻訳や編集、出版が始まったといわれます。

Jesus loves me! This I know,
 For the Bible tells me so;
   Little ones to Him belong,
   They are weak but He is strong

キリスト教音楽の旅 その22 日本のキリスト教と音楽 キリスト教信仰の回復

日本におけるキリスト教信仰の自由が回復すると、カトリック教会と正教会、そしてプロテスタントの諸教会の多くの宣教師たちが続々と来日します。改革派、会衆派、長老派、バプテスト、聖公会、ユニオン派、フレンド派などです。宣教師はまずは学校作りなどの教育活動を始めて、人々の信頼を得ていきます。西洋文明を日本に伝え、だんだんと聖書と聖歌および讃美歌を日本人に伝えていこうとしました。

パリ外国宣教会は慈善事業や社会福祉事業に力を注ぎ、貧しい人々への宣教活動をしたことで知られています。御殿場に療養所を設立し、ハンセン氏病患者を収容します。熊本にも同じような療養所をつくります。1880年に孤児院を開設したのもパリ外国宣教会です。長崎の西出津町に女子救助院というのを設立して授産活動を始めます。そこに修道女となった者は、フランスからのもたらされた技術によって織布、編物、そーめん、マカロニ、パン、醤油の製造などを行い自給自足をしていきます。こうした働きの中心に立ったのは、マルク・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)という宣教師です。

Marc Marie de Rotz

1888年には築地教会の近くに後の雙葉学園の前身となる高等仏和女学校が開かれます。プティジャン司教は、フランスの女子修道会からも修道女の派遣を依頼し、来日した修道女らは1877年には、神戸で後の大阪信愛女学院となる孤児院と学校を創設します。